2023 年 4 月 30 日

・説教 ルカの福音書6章1-11節「愛する心を」

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復活節第四主日
2023.4.30

鴨下直樹

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 聖書にはレビ記という神の様々な戒めである律法の規定を記している書物があります。私は、このレビ記をとても興味深い書物だと思っています。多くの人が、聖書を読み始めようと思って聖書を読み進めると、最初の関門がレビ記だと言われます。細かな神様への捧げ物などをする祭儀の規定などが記されていて難しく感じるからです。律法というのは神の法律です。そこでは、神からの命令が記されているのですが、命令というのは、「何々してはならない」という記述の仕方が沢山あります。そういう戒め、規則の文章というのは読んでいてあまり楽しいものではないのかもしれません。ただ、そういう戒めの文章を読むときに、その言葉を文字通りに捉えるのか、それとも、その背後にある意図を知ろうとするのとでは、かなり捉え方は変わってきます。

 私が子どもの頃、小学生の頃のことです。両親が家を出る前にこう言い残しました。「戸棚にあるケーキは食べちゃダメだからね」と言って出かけたのです。我が家は5人きょうだいです。家族の中で当時、もっともよく使われていた言葉は「食い物の恨みは恐ろしい」という言葉でした。5人もきょうだいがいますから、目の前に食べ物があるときに口に入れなければ、「今度」はやってきません。鴨下家のその次によく使われていた言葉は「今度と化け物出たことない」という言葉です。なぜ、ことわざになっていないのかと不思議に思うほどです。「今度買ってきてあげるから」と言っても、出てきたためしがないのです。我が家はそんな具合ですから、戸棚に隠されたケーキの存在はまだ私しか知らない秘密ですから、その時点では私に主導権があると考えました。美味しいものを他のきょうだいに食べられるくらいなら、後でたとえ怒られようと食べておけというのが、私の当時の人生哲学でした。ですから何ら迷うことなく、親がいなくなったと同時に、戸棚のケーキは私のお腹の中に消えていったのです。

 するとどうでしょう。10分もしないうちに両親がお客さんを連れて帰ってきたのです。その時点で私は全てを理解しました。親が二人で出かけたのはお客さんを駅まで迎えに行ったからで、戸棚に隠されていたケーキはそのお客さんに出すためのものだったのです。

 親は、そのお客さんにケーキを出そうとして凍り付きました。4つあったはずのケーキの一つがないのです。当然、そのお客さんが帰った後で私は母から烈火のごとく叱られました。

 「戸棚のケーキを食べてはいけないよ」という戒めには、「それはお客さんに出すためのものだからね」という言葉が隠れていたわけです。けれども幼い子どもの頃の私にはそんな考えが背後にあるとは分かりませんでした。

 戒めの言葉というのは全てがこれと同じで、その戒めの背後には必ず異なる考えが隠されているのです。そして、神からの厳しい戒めも、その背後には、神からの私たちへの愛が隠されているのです。

 今日の安息日の戒めは、先ほど十戒を皆さんで読みましたが、新改訳ではこのように記されています。出エジプト記の20章8節から10節の途中までをお読みします。

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。

 十戒の第四の戒めです。ここには「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」と戒められています。そして、この時代のパリサイ派の人々や律法学者の人々はこの戒めを忠実に守ることに、かなり力を注いできました。

 ここの「いかなる仕事もしてはならない」と書かれていますから、この「いかなる」は何をさすかを考えたわけです。そこで労働してはならないと考えました。じゃあ何が労働にあたるのかと続いて考えるようになりました。この安息日には何歩以上歩くと労働になるというような考え方まで登場してきたのです。そんな具合ですから、主イエスの弟子たちが、安息日に麦畑を通る途中で「穂を摘んで、手でもみながら食べていた」というのは、パリサイ人たちにしてみれば、禁則を犯したと思ったのは彼らからすれば当然のことだったのです。麦を収穫して、脱穀するというのは労働と考えられたからです。

 すると、主イエスは先ほどお読みしました第一サムエル記の21章に記されていた出来事をたとえにして話されました。ダビデがサウル王から逃れるためにノブにいた祭司アヒメレクのところを訪れた時、ダビデは嘘をついて祭司たちしか食べてはいけないはずのパンをいただいたのです。というのは、ちょうど訪ねたのが安息日であったために、パンを新しい備えのパンと交換する日だったのです。それをもらってダビデは飢えをしのいだのです。

 ダビデにはそれがゆるされたことを読んだことがないのかと、ここで主イエスは語りました。

 これを少し読んだだけでは、主イエスがなぜダビデの話をしているのかが良くわかりません。しかし、私たちもこの箇所を読むと少し不思議に思うのです。どうしてダビデは祭司たちしか食べることがゆるされていなかった食べ物を食べることがゆるされたのでしょうか。ダビデは嘘までついて、祭司たちのパンを貰っているのです。この話を主イエスが取り上げたこと自体少し不思議に思うのです。少なくとも、主イエスはこの時のダビデのしたことを、神様は受け入れられたということを伝えています。そして、ユダヤ人たちもそのように理解してきたのです。

 ダビデはイスラエルの王となった人物です。この出来事があったときはまだ王様ではありませんでしたが、すでに王として主から油注ぎを受けていました。それで、ダビデはこの時すでに神から王として油注ぎを受けていたのでゆるされたのではないかという理解があるようです。「主に選ばれた王は、律法をも凌駕する自由が与えられている」という理解です。そうだとすると、主イエスはここでダビデにゆるされたとすれば、私は「人の子は安息日の主です」なのだから「わたしはダビデ以上の存在である」という理解ができるわけです。だから、わたしは安息日の戒めに縛られてはいないのだと主イエスはここでダビデの話を例に出して言われたのです。

 あるいは、もっと単純に主イエスは安息日の戒めの主そのものであられるお方だからということも考えられると思います。

 ルカはこの安息日の出来事の後でもう一つの安息日のことを6節以下で記しています。これは、安息日に主イエスが会堂で教えておられた時のことです。ここに、右の手の萎えた人がいました。

 ここでもパリサイ人たちは主イエスが何かするのではないかと、主イエスの行動を監視しています。すると、ここでは主イエスの方から、この右手の萎えた人に声をかけられ、真ん中に出てくるように言われて、癒しをなさったのです。

 ここではこの病の人から主イエスに癒してほしいと頼んできたわけではありません。主イエスの方から声をかけておられます。これは、まさにパリサイ人たちに対してわざとやっておられるわけです。何故か?それは安息日とは何にための日であるかということを考えてほしいからです。

 ここで主イエスは言われました。9節です。

「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」

 主イエスがここで問いかけておられるのは、安息日の戒めの神の心です。この戒めには確かに、「いかなる仕事もしてはならない」と命じられています。けれども、この命令の神の心は何かということをここで明らかにしておられるのです。

 癒しをするという治療行為であっても、本来は安息日の労働にあたりますから禁じられていました。

 けれども、主イエスはこの安息日の会堂で右手の萎えた人がいることに心をとめられます。右手というのは一般的には仕事をする手です。その手が萎えているということは、普段から仕事をするうえでとても困っているだろうということに心を留められたのです。そして、まさに安息日に会堂に来ているこの病める人に心を動かされて、主イエスは癒やしをなされたのです。

 ここで示されたのはまさに、主の人を愛する心です。

安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。

 ここで主イエスは「行うこと」を語られました。「何もしないことですか?」とは言われなかったのです。それまで人々は、安息日は何もしない日だと認識していたのです。けれども、主イエスはここで、安息日は愛の心を行うこと、これが神の心にかなうことなのだと言われているのです。それは、人を滅ぼすことではなく生かすこと、それが人を救うことになると言われたのです。

 それで、主イエスはパリサイ人たちにあえて、このように目につくことをなさりながら戒めの中に込められた神の愛の心を明らかにしようとなさいました。
 
 ところが、パリサイ人たちはそのようには受け止めることができません。11節にこのように記されています。

彼らは怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始めた。

 ここに書かれている「怒りに満ち」という言葉の原文のニュアンスは「激怒して」とか「逆上して」という意味のとても強い言葉です。

 パリサイ派の人々や律法学者たちはルカの福音書の5章17節から登場してきます。ここから5つの出来事が書かれていました。まず中風の患者のいやしです。続いて取税人レビの召命と罪人を召される主イエス。その次に、断食の論争とたとえ話があって、今日の安息日の二つの出来事です。それぞれにパリサイ派の人々の反応が記されていました。このパリサイ派の人々や律法学者たちというのはユダヤの宗教指導者たちです。彼らは、主イエスに興味を持って調べていたのですが、ここに来て一つの結論に達するわけです。それが、激怒してこれからイエスをどうするかという話し合いを始めたという結論になっているのです。つまり、パリサイ人たちは、この5つの出来事を見てきた結果、明確に主イエスは敵であると認識したのです。主イエスの人に対して示された愛の心に、このユダヤの宗教指導者たちは気がつくことができなかったのです。むしろ、主イエスは自分たちを挑発し、先祖たちが大事にしてきた神の教えを軽んじている不謹慎な男に映ったのです。

 主イエスは、彼らがそのように思う可能性があることも分かったと思いますが、このユダヤ教の宗教指導者たちの顔色を見るようなことはなさいませんでした。

 私たちはここで主イエスの愛の心を知ることができます。けれども、その優しい主イエスのお姿は、パリサイ人たちには認識できませんでした。むしろ、自分たちに敵対してくる人と映ったのです。

 愛とは何でしょうか?いつも人に優しくすることなのでしょうか。主イエスを見ていると、私たちが錯覚してしまいがちな愛の心は、親切にする、優しくする、相手を思いやるというような絵に書いたような姿を思い描くのですが、主の愛には厳しさがあることにも気付かされます。

 愛の心というのは、いつも赦してばかりではないのです。時として、神の心を明らかにするために主イエスがここでなさっているように、毅然とした姿で語るということもあるのです。戦うこともあるのです。しかし、この時主イエスはパリサイ人たちを憎んではいません。むしろ、愛の心をもっているがゆえに、厳しくなられているのです。

 神の戒めを考えてみてもそうです。十戒に記されているのは禁止事項ばかりです。けれども、その背後には愛の心が見えてきます。

 燃え盛るストーブの前にいる幼子に、「ストーブに手をだしてはいけません」と言うのは愛しているからです。大切に思う気持ちは、相手を守るために厳しい言葉となることがあるのです。もし、ストーブの前に赤ちゃんがいても無関心だとすれば、それは愛がないからです。まだ幼いときは、厳しく言われないとわからないからです。けれども、大人になれば厳しく叱る必要はありません。もう自分で判断できるようになるからです。その人の成長過程に相応しく、聖書は語り方を変えていくのです。

 この主イエスの愛の心が見えないとき、人はパリサイ人たちのような反応をしてしまうのです。けれども、ここから聖書を続けて読んでいくと見えてくるのですが、主イエスはパリサイ人たちと関わり続けることをやめないのです。無視したりはしないのです。なぜなら、主イエスは、自分を敵対視してくるパリサイ人たちのことも愛しているからです。

 主の愛の心に目を止めることができるなら、私たちはそこから変わっていくことができるのです。

 主の語られる厳しい言葉や戒めの言葉に耳を傾けるとき、主の愛の姿に目を向けることができるようになります。そして、そこから神の愛の心を知ることができるのです。

 お祈りをいたしましょう。

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