2023 年 5 月 28 日

・説教 ルカの福音書6章39-49節「主イエスを土台として」

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ペンテコステ
2023.5.28

鴨下直樹

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 私が子どもの頃、教会の日曜学校で一枚の暗唱聖句のカードをもらいました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」というマタイの福音書7章の13節と14節の御言葉が書かれていたカードです。その肝心の聖句よりも、そこに描かれていた絵が衝撃的で今でもよく覚えています。その絵にはにぎやかな大通りが描かれていて、人々が楽しそうにその大通りを進んでいくのですが、その先には地獄の炎が描かれていました。また、その大通りの脇には誰にも気づかれないような小さな門があって、その先にも道があり、その先は天国につながっているのです。子どもながら、恐ろしいと思いました。それと同時に、自分はこの小さな門の入り口を絶対見逃さないようにしようと心に刻んだのです。

 今日の聖書箇所は、主イエスのなさったたとえ話が記されているところです。この39節で一つのたとえ話をなさいました。「盲人が盲人を案内できるでしょうか。二人とも穴に落ち込まないでしょうか」とあります。

 もちろん、これはたとえ話ですから、実際に目の見えない人のことではないことは明らかです。大勢の人々が進んでいる大通り、誰もがみんなが進んでいるから大丈夫だと思い込んでいるけれども、その先頭を進んでいるのは誰なのかということをあまり気に留めません。

 「止まれ!」と叫ぶ者がいないのです。このまま人類は今突き進んでいる道を進み続けていいのかと、問う者がいないのです。

 主イエスは、ここで師と弟子の話を続けてしています。先頭を進んでいるはずの人物が師であれば、その師のようになるという目標があります。けれども、その師よりも先に進むということはないのです。

 先日の祈祷会で、こんな質問がありました。「師を超えて行く弟子というのはたくさんいるのではないですか?」という質問です。この世の中にはいろんな先生がいますから、そういうこともあるいはあるかもしれません。先生がたいしたことなければ、弟子はすぐに師を超えて行くでしょう。けれども、ここに書かれている師とは、主イエスのことです。主イエスのようになれる、もしくは主イエスを追い越していける人などいないのは明らかです。けれども、ここでは驚くことが言われています。40節です。

「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。」

 主イエスはここで、弟子たちに自分のようになれると話しておられます。つまり、主イエスは、絶対に不可能な愛の人として歩んでおられるのはないのです。だれでも十分に訓練をうければ、主のようになることができるのです。

 主イエスはここで、弟子たちに、主に付き従って来る者たちにこの話をしています。主イエスは、ご自分の弟子たちに、自分のようになって欲しいと願っておられるのです。そして、主のようになれるのだとさえ、ここで明言してくださっているのです。

 そのことをここで明らかにしておいて、さらに議論を進めます。それが、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の梁には気づかないというたとえ話です。

 この話はそれほど難しい話ではありません。誰もが思い当たるところがあるからです。人のことは、重箱の隅をつつくようにいろいろと問題点は見えるのです。けれども、肝心の自分のことは見えていないことが起こるのです。

 ここで、主イエスは「偽善者よ」と言いました。この「偽善者」とは誰のことを指しているのでしょうか? すぐに出てくるのは「パリサイ人や、律法学者」というエルサレムにいる宗教指導者たちのことです。けれども、ここで主イエスは弟子たちに話をしているわけですから、この偽善者というのは、主イエスのことを師と仰いでいる者たち、つまり私たちのことと読まなければなりません。

 だとすると、私たちの目の中にある梁とはなんでしょうか? 主イエスはその問いを残したままで、次の話をなさいます。それが、43節から45節のたとえ話です。

良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともありません。木はそれぞれ、その実によって分かります。・・・」と続きます。

 主イエスはここで何をおっしゃりたいのでしょうか? 小難しい話はやめて、結論だけお話ししますと、「その人の本質は何か?」ということを言われています。その人の本質が、行動となって、結果となって表れるのです。とすれば、41節で主イエスが言われた私たちの目の梁とは、私たちの本質を見失わせているものということになるのです。

 いちじくの木は、いちじくの実を実らせます。ぶどうの木はぶどうの実を実らせます。良い人は、良いことを考えますし、行います。悪い人は、悪い考えを持ち、悪いことを行うのです。つまり、神と共に歩む者は、神の喜ばれる実を実らせるのです。そして、神の喜ばれることというのは、隣人のことを事細かく裁くことではないということです。すでに語られているように、主は隣人を、たとえ敵さえも愛することを望んでおられるのです。

 そこまで言って、主イエスはさらに弟子たちに言われます。46節です。

「なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。」

 主イエスは、ご自分の弟子として従ってきている者たちに問いかけておられます。あなたは誰の弟子なのか?あなたの本質はどこにあるのか?「主よ、主よ」と主に呼びかけるのであれば、それが本当なら主の弟子です。主の弟子であれば、この平地の説教で主が語られているように、悲しむ者の幸いを見出すはずです。敵をも愛する者となるはずです。そうでないとすれば、わたしのところに来ているあなた方は、何を求めてきているのか? と、主イエスに付き従う者たちが、何に根ざして生きているのかと問いかけておられるのです。

 今日はペンテコステです。主の弟子たちに神の霊が与えられたことを祝う日です。主イエスを主と信じて主に従う者に、神は神からの愛の贈り物として聖霊を与えてくださいました。この聖霊が与えられていることこそが、私たちが何に根ざしているのか、私たちは何者なのかを示す、私たちのアイデンティティです。聖霊は、私たちが主のものとされていることを、証ししてくれるのです。

 主は、私たちが神のものであることのしるしとして聖霊を与えてくださいました。この聖霊は、私たちが主イエスを信じた時に与えられています。聖霊が与えられているから、主イエスを信じることができるということです。聖霊を与えられている私たちは、主のものですから、御霊の実を実らせる者となるのです。

 主イエスはこの平地の説教の結びとして、48節と49節でひとつのたとえ話をなさいました。それが、岩の上に土台を据えて家を建てた人のたとえ話です。このたとえ話で、主イエスはその人の本質は、その人に洪水が押し寄せてきた時に明らかになると言っています。

 岩の上に家を建てた人は、「洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。」けれども土台なしで地面に家を建てた人は、「川の水が押し寄せると、家はすぐに倒れてしまい、その壊れ方はひどいものでした。」とあります。

 私たちの人生には時折、さまざまな洪水が押し寄せてきます。ある時は家族を失い、ある時は病に倒れ、ある時は経済的に困窮し、ある時は人間不信に陥ります。そのような時に、私たちが何に根ざしているのか、私たちの土台はどこにあるのかが問われるのです。

 私たちは、自分の人生に、洪水が押し寄せてくる時、それに対処することができるでしょうか? 自分はダメかもしれないと不安になるかもしれません。

 先週の水曜日にYさんの葬儀が行われました。先週の礼拝の時、娘さんのEさんからメールで知らせを受けていました。いつ召されるか分からない状態だったのです。礼拝の間はなんとか守られて、礼拝が終わってすぐに病室に駆けつけました。水曜と木曜に訪ねた時は、まだ反応があったのですが、日曜に訪れた時には、もう返事がありませんでした。本当に、日に日に体調が変わって行く姿を見るのは家族にとってなんと辛いことだろうかと思いました。ですが、Yさんは信仰をもっていましたので、家族のみなさんもどこか落ち着いておられました。何があっても、大丈夫という主にある確信があるからです。

 Yさんは月曜の早朝に天に召されました。郡上のご親族は、キリスト教式で葬儀をしたことがないということでしたので不安にしておられるのではないかと心配していましたが、娘さんがご親族にすでに話をしておられたためか、月曜日に葬儀場をたずねてお祈りをした時も、火曜日の前夜の祈りの時も、葬儀の時も、ご家族も親族の方々もとても安心された顔でおられたのが印象的でした。

 Yさんが体調を崩されてから召されるまで、二週間ほどだったでしょうか。家族にとっては、まさに洪水が押し寄せて来たかのような思いであったのではないかと思うのです。これまで遠かったということもあって、なかなか礼拝に集うことは難しかったのですが、主にある信仰に支えられていることがよく分かりました。そして、葬儀の時も本当に平安に満たされた葬儀であったと思います。

 私たちの人生の土台はどこにあるのでしょうか。主イエスが私たちの人生の土台となっているなら、私たちはしっかりと建てられて、びくともしません。それが、主イエスがここで弟子たちに語られている説教です。その心の中にあるものが、その時に表に現れるのです。私たちの心の中を支配してくださるのは、主イエスの与えてくださる聖霊です。今日は、ペンテコステです。聖霊が私たちに与えられていることを共に覚えて、主の御名をあがめる時です。

 この聖霊を与え、私たちに確かな人生の土台となってくださる主を、この日私たちは共に喜び、主をあがめたいのです。

 お祈りをいたします。

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