2010 年 3 月 14 日

・説教 「悲しむ者の幸い」 マタイの福音書5章4節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:50

鴨下直樹

 主イエスは「心の貧しい者は幸いです」という言葉に引き続いて「悲しむ者は幸いです」と語られました。「悲しい者は幸せである」などということはありそうもないことです。幸せなら悲しまないからです。幸せでいたいと思いながらも、幸せでいることができないために人は悲しむのです。どうして、「悲しむ者が幸い」などということが起こり得るのでしょうか。多くの人々が、主イエスがここで語っておられる「悲しみ」とはどのような悲しみだろうかと論議してきました。よく語られるのは、ここで語られている悲しみというのは、キリスト者特有の悲しみなのではないかと考えられます。つまり、主イエスが言われている悲しみというのは、日常の生活においてさまざまな場面で出てくる悲しみがあるけれども、ここで語られている悲しみは、そのような日常の生活とは異なる次元の悲しみなのではないかと。そこで言われるのは、キリスト者であることを前提として「罪に対して悲しんでいる人」という意味ではないかと考えられることがあるのです。

 けれども、この山上の説教は主イエスにつき従った弟子たちだけではなく、病を抱えながら、悩みを抱えながらついて来た人々にも語られているのですから、意味を何かに限定してしまうことはできないのではないかと私は思います。むしろ、ここで主イエスが語っておられる悲しみというのは、あらゆる生活の中で起こる悲しみのことを意味するのではないかと思うのです。そもそも悲しみには、キリスト者の悲しみと、そうでないものの悲しみというような違いがあるとは思えません。高尚な悲しみと、低俗な悲しみというように分けることはできないと思うのです。悲しみは誰にとっても悲しみでしかありません。

 

 今私は、悲しみは誰にとっても悲しみでしかない。高尚な悲しみと低俗な悲しみとに分けることはできないと言いました。本質的に悲しみを分けることはできません。けれども、そうすると同時に考えなければならないことがあります。それは、ここで主イエスが語っておられる「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」と言う言葉が、間違って受け止められる危険もあると思うのです。

 

 今年の特別伝道礼拝で、私の説教の先生でもある加藤常昭先生をお迎えしようと思っております。そのために、伝道部で何か加藤先生の書物を紹介して頂きたいと言われました。私は迷わず「黙想と祈りの手引き」という本を紹介致しました。すでに大勢の方が注文しておられますし、教会の貸出し図書としてすでに何人かの方々が読まれたと思います。この本は、高校生に向けて祈ることを教えるためになされた講演が元になったものです。その内容も大変素晴らしいのですが、最後にこの高校生たちとの質疑応答が載っております。まだ読んでおられないで、楽しみにしている方には申し訳ないのですけれども、そこにある一つの質問を、少し長いのですがここで紹介したいと思います。

 

 その質問はこういうものです。「わたしは心の病を持っているのですが、信仰を持っているのでいざという時には祈る。治らない病気ではないのですが、お祈りをしながら自分の祈りが間違っているのではないか、信仰が浅いのかと悩んでしまうことがあります。先生もそのような悩みを持っておられる方に会うことがおありだと思うのですが、そういう方にどういうアドバイスをなさるのですか」という質問です。

 それに対して、加藤先生はこう答えておられます。

「私も、病気を抱えています。いつも首にコルセットをしているけれども、頚椎の難しい病気がある。痛みがひどくて、今週の日曜日には礼拝にも行かれなかった。そういう病を抱えています。またうつ病になったこともあるし、色々な病気を経験してきました。だから、そういう病のために祈ることがあります。生まれて間もなく、医者が見放すような病気になったことがあるけれども、そのときは母の祈りによって救われています。私はそのことを確信していますけれども、他方、癒されない病もたくさんあると思います。この頚椎の痛みはいくら祈っても消えません。言われたように、いくら祈っても聞いていただけない失望感も知っています。これも祈りのうちです。失望を味わわない祈りというのは、かえっておかしいと私は思います。生きた神さまを相手にして、一所懸命に祈って、祈りに応えられない。失望する。絶望する。いくらでもあるじゃないですか。それでも失望するたびにこうやって祈りを聞いていただけないのは、自分の祈りが間違っているのではないかと自分を責めていたらとんでもない間違いです。ただ、自分が自分と神さまとの付き合いを病気のために利用しているだけです。祈りは全部聴かれてスムーズに行く。その時だけ神さまを信じます、というのは相当わがままな話です。主イエス御自身だって聴かれない祈りを体験なさっているのですから。わたしはそういうことにはこだわらないし、こだわらない祈りをしてほしいと願っています」。 

 このように答えておられます。そういってさらに一つのことを語ります。

 「特に気をつけて欲しいのは、病気の人は病気のことしか考えなくなることです。私も夜も寝ることのできないほどの痛みに悩んだことがあります。横になると痛みはひどくなる。壁に寄り掛かって薬が聴いている間、三時間だけ眠ったことがあります。それ以外の時間はいつも痛みが気になる。自分の痛みにこだわり続けています。そこでもまた罪を犯しているのではないでしょうか。自分の願いを神が取り計らってくださることだけにこだわった祈りになりかねない」と言うのです。

 

 加藤先生は、色々な場所でこのことを語ります。自分が可哀相なのだと思い込むことによって、人間はわがままになる。自分の気に入る慰めを求めるようになる。そうして人は罪を犯すということをはっきりと語ります。これは、私たちがいつも心に覚えていなければならないことです。「悲劇のヒロイン」と言う言葉がありますけれども、自らの悲しみに浸る。自分が悲劇の中の主人公だなどと思い込むことによって、そこですでに慰められてしまうことが起こるのです。それは自己満足です。自分がこんなに悲しんでいるのだと知らせることによって、周りの人が慰めてくれることを求める。同情を買うことを求める。

主イエスが私たちを慰めようとしておられるのは、そのようなその人の気に入るような慰めを与えることでは断じてありません。そんなものは慰めでもなんでもない。そこで、慰められたと感じるのだとすれば、それは錯覚でしかないのです。悲しみは悲しみでしかありません。そこで、私たちは自分の望む慰めを求めるならば、それは罪だとはっきりと語るのです。まして、神にそれを求めるなどあってはならないのです。

 これは大変厳しい言葉です。けれども、私たちはこのことを本当に正しく理解する必要があると思います。自分の願う慰めを求める、解決を求める、そういう事とは異なる慰めを主イエスはここで与えようとしておられることを私たちは知らなければならないと思います。

 

 この加藤先生は、ここで、主イエスが語られた言葉が人間の手によって、このような言葉が残されたのは奇跡だとさえ言います。「悲しむ者は幸いである」などということは、人間には決して言えない言葉だからです。理解できない言葉だからです。悲しんでいる人がいる。思い重荷に苦しんでいる人がいる。その人に向かって、そうですか、あなたはそんなに悲しんでいて幸せですねという言葉をかけることなどできません。そんな言葉をかけたら非常識だと思われます。そこで何を言おうとしているか誰も理解することができません。けれども、ただ主イエスおひとりだけが、この言葉を語り得たのです。この言葉は、主イエス以外に、誰も語り得ない、奇跡の言葉なのです。

 

 

 しかし、そうであるとすればなおのこと、ここで主イエスが語られた「悲しむ者は幸いである」という言葉の意味をよく考えてみる必要があると思います。そこで、宗教改革者ルターがこの悲しみをどのように理解したかを見てみますと、ルターが聖書を翻訳した時、この言葉を「そのところで苦しみを担っている者は」と訳しました。このルターが訳した「苦しみ」と言う言葉は「悲しみ」としてもそれほど意味は変わりないと思うのですが、ルターはそれを「担っている」と訳しました。これは「持ち運ぶ」と言う意味の言葉です。いつもその苦しみ、悲しみを持ち運んでいる、いつも悲しみがあり続けるという事です。ギリシャ語でも「悲しみ続けている者は」と訳すことも可能な言葉ですから、その味わいをよく表わした翻訳だと言えます。悲しみ、苦しみを抱えている、抱え続けている、その荷をいつまでも下ろすことができないと言うのは本当にどうしようもないような苦しみです。決して幸いであるなどと言えるものではありません。そしてルターは「そのところで」と訳することによって、あなたの生活の場でそのような悲しみを抱えているでしょう、苦しみをいつも持ち運びながら生きているでしょう、けれども、そのあなたが慰めを受けるのですよ、と訳したのです。

 悲しみにじっと耐えていればいいというのではありません。自己卑下するのでもありません、そこでわがままになる必要もないのです。泣きたければそのところで泣けばよい、悲しければそのところで悲しみにくれる、そういう私たちの悲しみや苦しみの場所に神の祝福があるのだから、と主イエスはここで語っておられるのです。「幸い」というのは、何度も話しているように祝福です。そこに神の祝福があるというのです。そして、その祝福の言葉がここでは「慰め」として語られているのです。

 

 今、そのところで受けている悲しみを、苦しみを抱えている。そこにいる私たちは一人でいるのではありません。私たちはそのところで慰めを受けるのです。慰めは何処かから突然やってくるというのではありません。慰める方がいるのです。では誰が慰めるのか。この「慰める」と言う言葉はギリシャ語で「パラクレオー」と言う言葉です。四世紀の教会教父アウグスティヌスは(この教父というのは教えの父と書きますが)、すばらしい山上の説教の解説書を記しています。その中でこう言っています。「彼らは、聖霊に慰められるであろう。この霊がパラクレトゥス、すなわち慰め主と呼ばれているのは、特にこのためである」と言います。慰めをあたえるのは、聖霊なる神の御業と語るのです。そして続けて「彼らは一時的な幸福を失って、永遠の喜びを受けるために慰められるのである」とも語っています。これは、大変すぐれた言葉だと思います。悲しみは幸福を一時的に奪ってしまう。しかし、聖霊によって永遠の喜びを受けるのだと言うのです。アウグスティヌスは、主イエスがここで語っておられる慰めは、一時的なものではなく、永遠のものであると言います。つまり、神からの救いを受け、聖霊が与えられるならばその喜びは永遠のものとなるというのです。主イエスが語る慰めは、この救いなしに説明のしようがありません。主イエスは世界中のすべての悲しみの中にいる方を招いておられます。あなたも慰められる、あなたの苦しみも慰めを受けるだろう。けれども、それは、神からの救いを受けることによってであって、それ以外のところに真の慰めはないし、永遠の慰めはこの主イエスが与える救い以外にないということを、何よりも明確にしておかなければなりません。

 

 しかし同時に、信仰に生きる、救いを受けて聖霊が与えられたとしても悲しみがなくなることはないではないか、という問いが私たちの中には続いてあると思います。先ほどの、加藤先生に質問をした高校生もそこで悩んでいるのです。信仰があるから神に祈るけれども、この問題が解決しないかぎり悲しみは無くならないのかと思うのです。

 

 そこで、先週もご紹介しましたけれども、もう一度、あのハイデルベルク信仰問答の問いの一つを紹介したいと思います。そこにはこのように書かれています。

 

問一  生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか

 

答え  わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払ってくださり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守ってくださいますので、天にいますわたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実にすべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の生命を保証し、わたしが、心から喜んで、その後は、主のために生きることができるようにして下さるのであります。

 

 ここで問われていることは、ただ一つの慰めです。どこに慰めがあるのかと問うて、答えは、キリストのものであるから、わたしは喜んで主のために生きることができるようになると答えています。私は主のものだから、主のために生きる。これがわたしの喜びだというのです。慰めだというのです。であるとすると、こういうことです。私は病気である。けれども、私は主のものだから、その病の中にあっても喜んで生きることができる。今、大きな悩みを抱えているけれども、私はもう自分のために生きているのではなくて主のものとされているので、平安をもってその悩みの中に立ち続けることができるということです。そこに慰めがあり、喜びがあるのだとハイデルベルク信仰問答は教えているのです。

 まさにルターが訳したように、今、そこで、悲しみや苦しみをあなたが抱え続けていても、あなたは主のものとされているから、そこであなたは生きることができるし、喜びをも見出すことができる。そこに、主が与えようとしておられる慰めがあるのです、とこの主の言葉は私たちに語りかけているのです。

 

 様々な悲しみがあります。私たちの弱さからくる悲しみがあります。人間の不完全さから、罪から生まれてくる悲しみがあります。悲しみがあるのは、それを生む罪があるからだとある人が言いました。悲しみの中には不信仰が根ざしていると言うことができます。けれども、私たちは主のものである。主によって支えられている。このことを覚えるならば、悲しみの中にあっても、そこに立ち続けることができるのです。

 本当の不幸とは何か。それは、神のものでないということに気づいていないことです。そして、その不幸から目を逸らしてしまっていることです。そこでは、主は慰めることができません。慰めが備えられていても、自ら拒んでしまうなら慰めが届かないのです。悲しみは悲しみのまま、苦しみは苦しみのまま、重荷は重荷のままなのです。

 

 今、私たちは受難節を過ごしています。主イエスは、この世界のあらゆる悲しみ、苦しみを担うために、十字架に向かって行かれ、苦しみを担ってくださいました。今、私たちはこの主の受難を覚える季節を過ごしております。私たちの苦しみは主に担われているのです。まずそのことに目を留めることです。そのことに気が付くことです。私たちは生きている時も、死ぬ時も主のものであることを私たちは知ることができるのです。そこで私たちは、自分自身の悲しみから解き放たれるのです。自由になることができるのです。主の慰めは、確かに私は主のものであるということを覚えることができるその時、私たちは悲しみから自由になることができるのです。

 

 そして、悲しみから自由にされた私たちは、新しい世界を目に留めることができるようになるのです。加賀乙彦というカトリックの文学者がおります。この人は本来は精神科医をしていました。この方が「生きるための幸福論」という小さな本を記しました。二百ページほどの小さな本の中に、精神科医として人々と関わりながら幸福とは何かと考えてきた言葉が連ねられています。その最後の結びとして一つの出来事が記されています。それはある脳性小児麻痺の女性のことでした。子どもの頃から全身の筋肉が麻痺して動かない。そのために子どもの頃から寝たきりで、口も聴くことができなかった。ところが、病室で母親の話す言葉を聞きながら言葉を覚えるようになり、字も少しづつ書けるようになった。読書を覚え、苦労しながら話すことも何とか出来るようになってきた。それだけではなく、車椅子に乗って自分で椅子を動かせるようにもなった。そうしてだんだんと大人になった時に、この女性は主治医の整形外科医に恋をした。けれども、叶わぬ恋と知った彼女は生きることが辛くなり、何度も自殺を試みるのです。この苦しみが何年も続いたそうです。ところが、何年かして元気になった。それは、インド旅行に行ったことがきっかけだったそうです。そこで、彼女は自分にもできることがあると気付いた。自分よりも不幸な人がいる。自分はその人のために何かすることができると知った。それが、彼女の生きる喜びになったと結ばれているのです。ここで加賀乙彦は、本当の幸福というのは他者のために、他の人のために生きることではないかと語ろうとしているのです。もっと言うと、他の人を愛するためと言い換えてもいいかもしれません。

 

 わたしたちが悲しみの中にある時、自分がいま抱えている苦しみは、悲しみは、自分一人のものではないことを知ってください。自分だけで苦しんでいるのではないのです。主によって支えられていること、そのほかの多くの人に支えられていることを知っていただきたいのです。そして、今度は私たちがこの主のように、私たちの周りに生きている方々の悲しみを、苦しみがあることに目を向けて頂きたいのです。慰めを拒んで、一人悲しみの中で自己満足な悲しみの癒しを求めて生きている人々に、主がその悲しみを支えておられることを知らせていくことが、私たちにはできるのです。

 主は悲しむ者を慰めたいと思っていてくださるお方です。あなたも、あなたの周りに生きている人をもです。そのところで、主が支えていてくださる。悲しみを、苦しみを支えていてくださるのです。そこで私たちは常に主イエスを見つめつつ、このお方と共に生きる幸いが与えられているのです。

 

 お祈りをいたします。

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