2010 年 4 月 4 日

・説教 「義に飢え渇く者の幸い」 マタイの福音書5章6節

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  —イースター礼拝説教—

 

鴨下直樹

 イースターおめでとうございます。今日、主イエスがよみがえられた日を祝うこの日に、先ほど洗礼を受けられたNさんと、子どもたちも共にイースターを祝うことができることを本当に嬉しく思います。

 

 今、私はイースターを「祝う」と言いました。礼拝はそもそもこのイースターだけでなく、いつも日曜ごとにお祝いをするために礼拝するのです。この四月から私たちの教会にマレーネ・シュトラスブルガー先生が加わってくださいました。マネーネ先生の国、ドイツでは、礼拝を「祝う」「ファイアーン」という言葉を一般的に使います。私たちは礼拝を「する」とか丁寧な場合は「ささげる」などという言い方をしますけれども、ドイツ語の方が礼拝の性質をよく表わしていると言うことができるかもしれません。なぜ日曜にお祝いするかと言いますと、この日に主イエスがよみがえってくださったからです。死を打ち破られたからです。人間の絶望の源である死を打ち砕かれた。復活なされたことによって、死は終わりではないことを示してくださったのです。

 

 今日私たちに与えられている御言葉は「義に飢え渇いている者は幸いです」という御言葉です。「義」というのは、「正しさ」と言い換えることができるかもしれません。パウロは、コリント人への手紙 第一 15章32節で「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。』ということになるのです。」と語っています。正しい生活というのは、キリストの復活が無ければ、なりたたないのだ語っているのです。もし、キリストのよみがえりが無いなら、人間は死んで終わりになるのだから、それまで好きなことをして生きればいいということになる。けれどもキリストの復活は、人間は死で終わりではないことを示されました。とすると、誰もが正しく生きざるを得なくなるのです。

 

 では正しく生きるというのはどういうことなのでしょうか。私たちは「正しく生きる」という言葉を考える時に、まず「公平に生きる」ということを考えます。ドイツにいたとき、私は毎週行われる子どもの集会に参加していました。その子ども集会では毎週必ず色々なゲームをします。何組かのチームに分かれて競い合うのですが、子どもの口からいつも必ずでてくる言葉があります。「アンフェアー」という言葉です。「フェアーでない」ということです。ゲームをしながら自分たちが負けそうになると、「アンフェアー」と言って文句をつける。日本なら「ひきょうだ」と言う言葉になるか「ずるい」と言う言葉です。このあたりの言葉で言えば「ひっきょうやげー」「ずりーがー」と言う言葉になるかもしれません。

 子どもは、誰でも不公平な事は嫌いです。大人よりも誠実に生きていると言えるかもしれません。そこでは、大人の小狡さは通用しない。大人が何か誤魔化そうとすると、すぐにこの言葉が口から出てきます。では、「正しく生きる」ということは、そのような「公平に生きる」ということになるのでしょうか。もちろん、公平に生きるということは大切なことです。ずるいことをして、それで開き直るということは間違っていることでしょう。しかし、主イエスはここでそのような義、正しさのことだけを指して言っているのではないのです。

 

 先週、「柔和な者は幸いです」という御言葉を聴いた時に、それは、「自分の持てるすべての力を捨てること」と私は語りました。それは「義憤すらも捨てることだ」と。だとすると、ここで、一度捨て去ったはずのそのような自分の正しさを、もう一度拾い上げて生きようということになるのでしょうか。いえ、むしろその反対です。「柔和であること」をさらに進んで、ここでは「義に飢え渇く」ということを主イエスは語っておられるのです。

 「義に飢え渇く」というのは、自分の正義を貫き通すということではなくて、その全く反対で、自分に正しさがある、自分の言い分が正義だ、などと言うことではなくて、自分に欠けているところがあることを知るということです。ここで語られているのは、私たちの持つ正義ではありません。神の義です。神の正しさです。私たちにはこの神の義は全くないのです。であれば、私たちには良いところはないのであって、神の正しさを、神の義を求めることによってしか、私たちは生きて行くことができないのです。ですから、この御言葉は「ああ、私は何と言う貧しい人間なのでしょう」という嘆きから、生きている者は幸せだと言うことになるのです。それは人を裁くことから始まるのではなく、悲しみの中でうずくまりながら、その中から、神様あなたの義を、正しさをお与えくださいという叫ぶ祈りの中から生まれてくるものなのです。

 

 先ほど洗礼式に先立って、Nさんが証しをしてくださいました。私たちはそこで少し珍しい経験をしました。私たちは手話でこの方の証しを聴いたのです。Nさんは御存知の通り、聴くことに障害があります。そのために、これまでの歩みの中に様々な困難があったこと、生きていることの辛さを話してくださいました。けれども、子どもの頃から教会に行って聴いた聖書の御言葉を、高校生の時に、ミッションスクールに行くようになってもう一度耳にするようになりました。そこで、御言葉によって生かされるという経験を味わうようになったのです。神の言葉を聴きながら生きて行くことが自分に必要だと感じるようになったのです。そして、御言葉に生きる決断をしたのです。神の義に生きるようになりたいと思うようになったのです。そして、この朝、洗礼を受けて新しい命に生きるものとされたのです。それは、まさに、この朝私たちに与えられている御言葉である「義に飢え渇いている者は幸いです。」という言葉の持つ力です。悲しみの中で、主の言葉が、神の義が慰めとなったのです。そして、そのような義に、神の義さに生きるとき、私たちは本当に幸いな経験をするのです。

 

 この幸いは、キリストが死からよみがえられたところから生まれる幸いです。死を打ち破り、神と共に生きる、神の義に生きる幸いを、十字架と復活を通して私たちに示して下さいました。このことが、このイースターに明らかになったのです。だから、私たちはこの日を心から喜ぶことができるのです。

 

 この御言葉は、「その人は満ち足りるからです」という約束の言葉が続きます。それは、自分は正しい、自分の怒りは正義などというところから生まれる満足感のようなものではありません。ドイツ語のルター訳は「満腹する」と言う言葉を使いました。食事を食べてもうお腹いっぱいになったときに、「satt」といいます。そう言う言葉を使います。口語訳聖書では「飽き足りるようになる」と訳しました。この言葉は、満足する以上のことをいいます、満腹になること以上です。十分与えられてなお余りがある。ただ満足するだけではなくて、それが限りない喜びになるというのです。神の義を十二分に得ることができるというのです。それは、味わいつくすことのできないほどの豊かな幸いだというのです。

 

 パウロはローマ人への手紙3章23、24節でこう語ります。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉をうけることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。

 

 私たちは、自分の力で正しく生きることができません。義に生きることはできません。いつも、アンフェアーな生き方をしながら、それで仕方がないのだと嘘ぶきながら生きることしかできませんでした。しかし、イエス・キリストは神の義をもたらす為に来て下さり、私たちにその義を、正しさを示して下さいました。そのことが明らかとなったのが、イースターです。主の復活の出来事です。もし私たちが、自分は正しく生きることができないことを嘆いているなら、この主イエスを見上げたらよいのです。そして、この方が示して下さった義を、義さを求めるなら、この義が与えられるのです。

 

 主イエスが示して下さった義とは何ですか? それは、ただ神のみが真実であるということです。神のみが正しいことをなさるということです。自分の中に、私たちの中には、何もないのです。けれどももし、私たちが、このイエス・キリストが、私たちのためにこの義をもたらして下さると信じてこの方と共に生きるなら、私たちはこの主イエス・キリストの義を、神の義を頂くことができるのです。それは、ただ神からの恵みです。ただ、神がそうして下さるとしか言えないほど、それは考えられない大きな恵みなのです。まさに、味わいつくせないほどの恵みなのです。

 私たちはこの神の義を頂くなら、それは、飽き足りるほどの、満ち足りる喜びとなるのです。だから、この日を私たちは心から祝うことができるのです。 共にこの日を喜び、主がどれほど豊かな恵みを下さったかを共に味わい、祝い合おうではありませんか。

 

 お祈りをいたします。

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