2010 年 6 月 27 日

特別伝道礼拝「私たちをひとつに結ぶキリスト賛歌」ピリピ人への手紙 2章1-11節

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加藤 常昭

キリスト者になるということは讃美歌を覚えるということです。「歌う存在」という言葉があります。存在そのものが歌を歌い始めるのです。生きていることは、歌うことだと言うことすらできるようになる。

私の信仰は多くの方たちの感化によって養われてまいりましたけれども、何といっても最初に私に信仰の感化を与えたのは母です。母は徳川御三家のひとつに仕えておりました。奥女中の女中頭というのです。しばらく前にNHKの大河ドラマに「篤姫」というのが登場いたしまして、そこに徳川家の昔、といってもそんなに遠くはない、明治維新のころの姿が描き出されました。やたら重たそうな着物を着た女中たちが登場しました。その時代からそんなに時も立っていない徳川家に仕えた母も、あんな恰好をしていたのかしら、とちょっと心配になったぐらいですが、まあもちろんそんなことはなかったと思いますけれども、徳川家の御三家のひとつに仕えていたのです。女中頭というのですから、ただの女中ではなくて「頭」だというので、少しは偉いのかと思っていたら、「なに、女中頭なんてたくさんいたから」と言って笑っておりました。けれども、主人の家の家族に近いところで働いていたようです。

母はそのおかげで信仰に導かれたのです。東京飯田橋駅の近くに富士見町教会というのがありますが、この富士見町教会を建設いたしましたのは旧日本基督教会の植村正久という牧師でした。この人は旗本の息子なのです。そのせいだっただろうと言われておりますけれども、徳川家に特別な関心を持っておりました。ただ徳川家だけではなかったようですけれども、貴族伝道、あるいは華族伝道と言って、そういう家に伝道師を派遣して一生懸命一種の家庭集会をやったのです。徳川御三家の殿様が洗礼を受ける、ということまではいかなかったようですけれども、かなりの感化を与えたようでして、私の子どものころには、その徳川家で、クリスマスの大きなツリーを囲んだ家族の写真を見たこともあります。

殿様は洗礼を受けなくても、仕えている人たちに感化が及びまして、随分多くの人たちがキリスト者になって、母もその一人でありました。とにかく讃美歌が好きでした。台所でも歌を歌っている。特に私ども子どもの心に残っておりますのは、子どもをお風呂に入れまして、一緒に入ってくれることもありますけれど、多くの場合は子どもたちだけをお風呂に入れておいて、母は焚口に座りまして、昔の風呂ですから薪をくべるのです。薪を入れて湯の加減を聞きながら讃美歌を歌っているのです。私はお風呂の湯の中につかりながら、母が細い声で讃美歌を歌っていたのをよく思い出します。母は昔の女性のことですから、習ったことといえば「謡」だとか「清本」だとか「長唄」だとか、そんな、こっちから言うと、「そんな」と言いたくなるようなものばかりを習っているものですから、讃美歌に妙なこぶしがつくのです。ちょっと真似が出来ないようなこぶしをつけて歌うのです。けれども、今から考えるとやはり母の歌う歌というのが、子どもたちの心に沁み入ったと思います。

今はどうなのでしょうか。ここにおられる教会生活をしておられる方たち、ご自分の家で讃美歌を口ずさむということをしておられるのだろうか。うっかり讃美歌を歌うと「うるせぇ」なんて言われることがあるかもしれませんけれども、私は母というのは、いろいろな苦労をした人ですけれども、歌わずにはおれなかったんだなと思います。こういう歌は、ただ歌が好きだというようなことではなくて、ひとつの力を持っておりました。母だけではなくて、日本にプロテスタント教会が入ってまいりましたとき、いや、もしかするとキリシタン伝道の時からであろうとも思いますが、日本の人たちの心を捉えるときに讃美歌がひとつの力を持ちました。

この岐阜県までまいりますと、この岐阜からもっと北に上がっていくと高山、もっと先に行くと白川郷があり、やがて北陸に達するわけです。私は一九五六年に東京神学大学を終えまして、最初に行ったのは石川県の金沢でありました。そこでまだ伝道して一〇年という、小さな教会の最初の専任牧師として働き始めたのです。石川県の金沢という所は随分古い、百年以上前から伝道がなされていたところですけれども、仏教の非常に盛んなところでして、伝道は易しくない。ある町では実際殉教者が出たくらいでありまして、伝道している最中に人に襲われて、結局その怪我がもとで亡くなった方が出ているようなところです。

昔の金沢の伝道ってどうだったのだろうか。金沢は空襲に遭っておりませんし、大きな火災にも遭っておりませんので、教会の古い記録が残っているのです。それからまた古い時代に洗礼をお受けになったお年寄りの方たちもいて、私は当時の若い人たちと一緒に、金沢のキリスト教会の伝道の歴史を少し勉強したことがあります。

あるおばあさんを尋ねましたら、そのおばあさんはこんな話をしました。讃美歌の話じゃないんです。昔、キリスト教会を揶揄する歌があったそうです。どんな節で歌われたか忘れたのですけれども、歌詞だけはよく覚えています。

「耶蘇教徒の弱虫は 磔拝んで涙をながす」。

なんかこのあと「ホイ、ホイ」と言いたくなるような調子のいい言葉ですけど、私はそれを聞いていて、「ああ、よくできていますね」とうっかり褒めて、叱られました。「冗談じゃありません」と。

私たちが子どものころに教会堂へ行こうとすると、「耶蘇教徒の弱虫は 磔拝んで涙を流す」とからかわれる。その頃は耶蘇教会の前は目をつむって鼻をつまんで通れ、特に子どもは絶対にそうしなきゃいけない。なぜかと言いますと、特に教会堂の扉が開いていると、そこからいつも毒気が流れていて、それに当たると子どもはうっかりすると命にかかわるというのです。本当にそう言われたのだそうです。だから他の子どもたちは目つむって、鼻をつまんで駆け抜けるのに、そのおばあさんは女の子なのに、のこのこ教会へ入っていったもんですから、よっぽど不思議な人種だと思われたらしいのです。そのころ、そのおばあさんはなぜ教会堂に行ったかというと、讃美歌が楽しかったからだというのです。

昔の教会の長老会の記録を見ましたら、また面白い記録がありました。「洗礼を受けたい」という人が、長老会で「なぜ洗礼を受けたいのですか」と聞かれて、自分の信仰を言い表すのです。歳ははっきり書いていないのですけれども、昔の女学校、今の中学から高校くらいの女の子でしょう。なぜ洗礼を受けたいかと聞かれて、「讃美歌が好きです」と答えて落第しているのです。讃美歌が好きだなんていうだけで洗礼が授けられるか、ということで断られているのです。私はちょっと心配になりまして、その後の記録を見ましたら、ちゃんと一年後には無事に信仰を言い表して洗礼を受けておりまして、ほっとしましたけれども、おもしろいと思いました。

そこには色んな問題があります。一方で讃美歌というのはそれだけ魅力があったのです。非常に信仰を持つことが難しかった時に、まだ幼いと言っていいくらいの女学生がどうしても洗礼を受けたい、それは讃美歌が素晴らしいからだった。

この讃美歌の力というのは、明らかに日本の教会の伝道において大きな意味を持っておりました。ですから例えば浄土真宗などは、キリスト教会の讃美歌の力に負けていると思ったものですから、仏賛歌というのを作りました。仏の賛美の歌です。そして東京の築地本願寺などでは、教会の聖歌隊に負けまいと思って、ちゃんと合唱団を作っているのです。そういう信仰の歌の力、それに対して「讃美歌か好きだからといって洗礼を授けられるか」、といった教会の態度にも見られるように、日本の教会の中には「讃美歌」に対する批判がありました。讃美歌を歌ってただ気持ちがいいからとか、きれいなメロディだからとか、歌なんかで、信仰が分かってたまるか、というような批判があったのです。

私が東京神学大学で勉強していたころには、東京神学大学というのは少し固い、ちょっと固すぎる所がありましたが、神学大学で学んでいる学生の中で聖歌隊に参加している者は体を小さくしていました。神学生ともあろう者が、聖歌隊なんかを喜んでやっている、などと言われたことがあるのです。「歌なんか」と、これには長い説明をしなくても分かってもらえるところがあります。それにも意味があるかも知れません。しかし私は、そのような「歌なんか」と、言われそうな中で、キリスト教会が讃美歌に生きて来たことを忘れてはならないと思います。

戦争中、今朝の礼拝で少し話をしたことですが、私は洗礼を受けて中学生会というのに参加していました。中学生会で回し読みした書物の一つは「殉教者」に関する書物でした。それは、教会の礼拝に、いつも警察官が来ていましたし、我々の動静までちゃんと警察官が観察していることを知っていました。いつ教会の牧師が捉えられるか分からないという不安を教会は持っていましたから、牧師が捕まったらこっちも捕まるかも知れないということを、まさかと思いながら考えていたのです。中学生が集まって何を話すかっていえば、「きみ、今、牢屋の中に入れられたら、幾つ讃美歌、そらで歌える?」と、そういうことを実際に聞いたものです。

そういう我々が殉教者の物語を読んだ時、フランスの「ユグノー」と言いまして、彼らは残念ながらフランスでプロテスタントがカトリックの人たちに弾圧され捕えられて、次々に焼き殺されたのです。そのときユグノーの人たちが火あぶりにされるなかで讃美歌を歌って、そのユグノーの人たちの歌う讃美歌を聞いて、次々にプロテスタントに転向する者が出た。カトリック教会の人たちは困り果てて、ユグノーの人たちを焼き殺す前に唇を切ったそうです。歌を歌えなくしたのです。その切られた唇がなお動いて讃美を歌った。声は出せますから。そういう記事を読んで、我々は胸を叩くような思いで、なぜこんな悲劇が起ったのかと思いながら、しかし歌の強さというものに心を打たれたのです。

あの戦争中、讃美歌を大きな声で歌うということはとても厳しいことでした。こんなこともあった。朝鮮の友人が何人かいました。一九四五年一月、寒い時、その中学生の仲間たちが次々と朝鮮に帰り始めた。一月ですからまだ学業半ばです。よく覚えていますけれども、日本名で金本君という金(キム)くんが、我々中学生会の会長でしたけれども、会長自ら朝鮮に帰った。はっきりこう言いました。「今年中に日本の国は負ける。日本が負けたら我々朝鮮人はいよいよ独立する。その独立に備えるために僕は帰る」と。送別会をいたしました。一月の寒い日、暖房もない。だんだん日が暮れていく中で、金くんが讃美歌を歌いました。

主にのみ十字架を 負わせまつり
われ知らずがおに あるべきかは  (讃美歌331番)

私がその讃美歌の伴奏をしました。静かな夕暮れに、日本の国が負けるという予告をした友人が、これから何が起こるか分からない、けれども僕は主イエスのために闘うという思いを歌に託して国に帰って行きました。 そこでも私は讃美歌というものの持っている力を覚えたものです。

讃美歌というのはいつから始まったか。明らかにキリスト教会が生まれたときに、すでに教会は賛美を歌い続けていました。一方では自分たちの母体であります旧約聖書の民は、詩篇をのこしておりますように、賛美を沢山のこしております。

コロサイ人への手紙というのが、このピリピ人への手紙に続いてあります。このコロサイ人への手紙でも、あるいは、ピリピ人への手紙の前にあるエペソ人への手紙にも、やはり讃美を歌うというを大切にしていたことが分かります。例えばエペソ人への手紙の第五章の一九節にこういう言葉があります。

「詩と賛美と霊の歌をもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」

この「詩」というのは詩篇と考えられています。「賛美」というのは当時の教会ですでに生まれておりまして、いろいろな教会で集会のたびごとに歌われていた、今日でいう讃美歌に等しいものであったのではないかと言われます。三番目の「霊の歌」というのは、これは自由に、その場で即興で歌ったもののようです。

この教会の礼拝に今朝出席して、大変面白いというか、興味を持ったのは、礼拝の中に「自由祈祷」というのがあることです。自由にその場で祈りたい人が祈るのです。内心思ったのは、「自由に祈ってください」と言って、誰も祈る人がなかったら、司式をする方も、牧師も、はらはらするんだろうなと。特に説教した人間は「私の説教聞いて、誰も祈る気にならないのか」ということになったかもしれません。自由に祈りたい人が祈る。昔の教会、生まれたばかりの教会には、そういうところがありまして、集会の中で自由に歌ったようなのです。特別、我々のように週報があったり、順序が決まっていたりするわけでもなかたのでしょう。こういう集会をしていると突然、誰かが歌い出すってことがあった。そのために教会の集会の中で、混乱が起きたのではないかと予想されるくらいです。そのようにいろんな歌い方があるわけですが、ここで特にエペソ人への手紙が面白いのは、

「霊の歌とをもって、互いに語り」

というのです。お解りになりますか。歌を歌ってそれから語るっていうのではないのです。歌をもって語り合うというのです。語り合うということと、歌うということが一つになっているのです。

ここを読むと、よく私は思い起こすのですが、かつて東ドイツという国がありました。四十年間存続した。私はよくこの東ドイツを訪ねました。東ドイツの教会の方たちと、神さまの導きで大変親しくなりまして、何度も行きました。私の行くところ、国家の保安警察、いわゆるスパイがついて回りまして、私が何をするかということを監視しておりました。それが或る時からはっきりするようになりました。それでも訪ねました。マイセンという街があります。焼き物で有名な街です。そのマイセンの教会で、日本でいうと中学生から高校生くらいの十代の少年少女の集まりがありました。私と一緒に話し合いたいと、六時半に集まって十一時過ぎまで話し合いました。当時東ドイツ国家は、九歳から軍事教育を義務教育、私立学校はないのでみんな義務教育でするようになりました。それに対して九歳で抵抗する子どもたちが出てきました。教会へ行っている子どもたちはその教育をさぼったり、授業に出なかったり、あるいは「銃を持て」と言われたとき命令を拒否したり、大きな問題を起こしておりました。親は次々と警察に呼び出されているというような、そういう状況の中で、私は行ったのです。

その渦中にある子どもたちが、非常に厳しい自分たちの状況を報告し、これからどうしたらいいかというのです。ドイツ語で「重い」、「ヘヴィ」を表す「シュヴェアー」という言葉があります。この「シュヴェアー」という言葉を何度聞かされたか分かりません。みんないきいきと闘えるわけではないのです。全部国家の統制のもとに置かれていますから、そうやって国家に抵抗し、学校の先生の言いつけに背いて抵抗する。当時教会に行っている青年男女は大学に入る資格を奪われるということが、ほとんど公のことになっていました。そういう信仰の闘いが強いられているところで、時に、言葉が出てこなくなるようなところで、リーダー格の少年が、傍らにギターを置いていて、言葉に詰まると、「歌おう!」と言ってギターを手にして歌い始める。みんなよく讃美歌を知っているのです。楽譜なんかないのです。次々と新しい歌を歌って、そして歌を歌い終わると、「続き!」と言って、また話し始めるのです。まさに歌と語るということが一つになっているのです。おそらくエペソ人への手紙が書かれた時の教会も、東ドイツの、いやそれ以上の困難な信仰の闘いを強いられているところで、歌うことと語ることとがひとつになっていた、ということはよく分かります。

当時の教会はどのような讃美歌を歌っていたのでしょうか。例えば、このエペソ人への手紙の中にいくつかの引用があるのですけれども、その引用の中の、今のページのところの、第五章の十四節、かぎかっこの中に記されている言葉にこういう言葉があります。

「眠っている人よ。目を覚ませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、 キリストが、あなたを照らされる。」

実際、ここに書かれているギリシャ語は、リズムがある歌の言葉でして、これは明らかに、当時の讃美歌だと言われております。それから、当時歌われていた讃美歌を知りたいと思うと、新約聖書の一番最後の「黙示録」を開いてごらんになると、歌がたくさん出てきます。

我々は例えば、「ハレルヤのコーラス」などというのも、ヘンデルの「メサイヤ」などに出て来るのでよく知っていますけれども、この「ハレルヤ」という言葉は、どこに出てくるかというと、黙示録に出てまいります。この黙示録を読んでいきますと、ヨハネと呼ばれる伝道者が孤島に追放されておりまして、一人ではなかったのでしょう、仲間がいたと思われますが、小さな礼拝をしている。この小さな礼拝をしているときに、神さまの霊の導きで幻を見るのです。この黙示録は、時々絵に描かれますけれども、天上の教会の礼拝の姿が描かれていて、絵の隅っこに穴が空いておりまして、その穴からヨハネがぐいっと身を乗り出して、じっと天の礼拝で歌われている歌に耳を傾けている絵があります。迫害され、自分の命も危ない処に追われて、小さな群れで礼拝しているヨハネが、幻の中で天まで導かれて、天にあふれる合唱を聞くのです。そこで聞いた合唱の言葉が、黙示録の中にいくつも紹介されています。壮大な合唱です。これが今日の我々の教会音楽のひとつの宝庫となった、と言うことができます。

その中でも、もしかすると最も大切にされている讃美歌のひとつが、先ほど読みましたピリピ人への手紙の第二章六節以下のものであります。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名を お与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が ほめたたえられるためです。」。

この十一節までの言葉は「キリスト賛歌」と呼ばれています。古い言葉で、「カルメン・クリスティ」とも呼ばれています。「カルメン・クリスティ」という本を書いた人もいます。「カルメン」というと、我々はオペラの「カルメン」を考えますけれども、もともと「歌」という意味を持っています。「キリストの歌」です。

この六節から十一節までは明らかにパウロの言葉ではないのです。このピリピ人への手紙を書いたのは伝道者パウロ、初代の教会で非常に大切な働きをした人ですけれども、そのパウロが書いた手紙であることは明らかなのですが、この節に限り、パウロが書いたとは考えられていないのです。パウロが使ったことのないギリシャ語がいくつか出てきますし、パウロがいつも語っているような福音の論理とは違う筋道の言葉が語られております。ここに記されているギリシャ語は、とても美しい、リズムのある「詩」のギリシャ語です。そういうことから、ここに当時の讃美歌のひとつが書きとめられている、ということを、疑う学者はいません。はっきり言うことができます。歌の成り立ちなどについては、神学者によって、この歌は大切なものですから、とっても綿密な研究がなされております。いろいろな学説がありますけれども、当時は讃美歌だったこと、パウロが書いたものではないこと、それははっきりしたことと言われております。

ひとつ興味がありますのは、なぜここに、この讃美歌を書いたんだろうか、ということです。実際的な理由があるのです。それで今日は、第二章の一節から読んでいただいたのですけれども、一節以下のところで、ここに記されていることは、いろいろの説明が必要かもしれませんけれども、書かれていることはとても簡単なこと、読めばすぐ分かることであって、例えば二節に、

「あなた方は一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」

と、こう書かれているということは、ピリピの教会に一致がなかったということを、すぐに想像することができます。

いろいろな教会が新約聖書の中に登場します。エペソ、ピリピ、コロサイ、というのは、みんなそれぞれの土地の名前で、そこに教会があったのです。教会があったということは、教会堂が建っていたということを意味しません。教会堂が建つようになったのは、教会の歴史が始まって、何百年も経ってからです。ローマ帝国にしょっちゅう迫害されているときに、「ここに私たち、集まっています」と公言するような、立派な教会堂を建てることなどできなかったでしょう。

もうひとつ大事なことは、建物のいらない信仰に生きていたのです。これはとっても大事なことです。建物がなければ成り立たない信仰があります。建物がないと神を祀ることができない、仏を祀ることができない、などと考える人は、そういう神や仏を祀る建物を建てなければならない。御宮を建てなければならないと考えます。しかし、キリスト教会はその必要を感じなかったのです。立派な教会堂を建てるようになったのは、本当に何百年も経ってからです。

私は時々考えるのです。立派な教会堂を建てたおかげで、キリスト者は時々考え違いをするようになったのではないかと。だから日本でもそういう教会の間違いに気づいている人たちは、無教会などと言いまして、その群れは教会堂を建てない。集まるところ、集会所はつくりますけれども、教会とは言わない。「教会」と聖書で訳されている言葉は、建物のことではありません。ドイツで生活をすると、ドイツでは建物のことと、建物の中に集まるみなさんのこととを区別しています。本当の教会、聖書の中で「エクレシア」とギリシャ語で訳されているのは、「集会」という意味、「集まっている者」という意味です。ですから「教会」というのは本当は建物のことではないのです。建物は、集まりをするのに建物がないと困るから造っただけのことで、建物がなくても、芥見キリスト教会は生き続けることができるのです。

「教会」はないと困るのです。そしてみんなが集まって作っている「集会」、「共同体」と言い換えてもいいと思いますけれども、それを早くから「キリストの体」と言うようになりました。キリストご自身は見えない。キリストはかしら、体の中で頭。頭であるキリストは見えない存在ですけれども、そのキリストは体を持っておられる。その体は見える体。その体を造っているのは、バプテスマを受けた方たちです。だからパウロは、コリントの人たちに書いた第一の手紙によりますと、こんなことを書いています。コリント教会はいろんな問題を起こした。ピリピの教会よりもっと困った問題が多かった、と言っていいと思いますが、教会員の中に売春婦のもとに通う人たちがいたのです。びっくりするようなことです。けれども筋は通っていた。ギリシャの人たちというのは、肉体と魂、精神はちゃんと分けました。我々にもそういうところがあります。信仰というのは心の問題、精神の問題で、肉体の問題じゃないとして分けたのです。心は神様のほうに向かって、心と関係のない肉体が女性の体を欲しがっているんだから、売春婦のところへ行ってもいい。売春婦のところへ行っているのは私の体であって、私の心ではない。そんな理屈が成り立つのかと思いますけれども、考えてみれば成り立つのですよ。案外、我々の中にも、そう思って考えている人があるかもしれません。物を食べたい、食べたいと思っているのは体のことで、これは信仰に関係ない。酒を飲みたいと思っている、食いたいだけ食いたいと思っている。

私は牧師であったときに、「絶対見ちゃいかん。テレビで絶対見ちゃいかん」と、はっきり言ったプログラムは「大食らい競争」です。「大食らい」を楽しむプログラムを見て、にこにこ笑っているような教会であっては困ります、と言った。体を損ねてはいけないのです。

パウロは何と言ったかといいますと、あなたがたの体、肉体に神がお住みになる。あなたがたの体が、神の宮、聖霊の宮、と言いました。教会を造っているのはみなさんの肉体でもあるのです。だからこの教会に体を運んでくるのです。体は自宅にいても、心だけはみんなでつながっている、などというものではないのです。体を持って運んで来て、ここでキリストの体をひとつになって造るのです。

ところがピリピの教会というのは、コリントの教会よりましだったかもしれない、どこの教会よりましだったかもしれない、などと言われても、どうも一致がなかったらしいのです。志が一つでないのです。これはみなさんにとっても、無縁ではないでしょう。教会が五年、十年生きている間に、初め伝道して志がひとつになっていたかもしれないけれども、何かでつまずくと、あっち向く人、こっち向く人。せっかく教会堂が建ってもそこに集まってくる人があっち向いてる、こっち向いてる。もうここに来なくなるほどに、心が一つでなくなる人も出てくるのです。パウロはそれと向かい合ってるのです。諦めていないのです。今日でも、もしかしたら、牧師であっても、教会に一致がないと、人間というのは、こんなもんだと諦めている牧師がいるかもしれません。長老役員でも諦めている人がいるかもしれません。どうせ人間が十人集まればこうなるだろうなどと。しかし、パウロは諦めていないのです。思いを一つにし、五節にこう言いました。

「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。」

この「心構え」と訳されているギリシャ語は、もう少し別の説明をしますと、心の向きが一つになるということです。みんなこの同じことに、心が向くように。一つのことが、教会の大切なことが、その大切なこととして、みんなが心を向けて、心には向きがある。その心の向きが、みんな一つのほうに向いているようにしようと。

五節の後半には、

「それはキリストの内にも見られるものです。」

とあります。これは新改訳のひとつの翻訳ですし、どちらかというと、昔からの人たちの翻訳です。私が子どものころ覚えた文語訳ですと、「キリスト・イエスのこころを心とせよ」と言いました。キリスト・イエスが抱いておられる心を、あなたがたの心としなさい、つまり、キリスト・イエスの心を手本にしなさいという意味です。新共同訳も似たような、この新改訳とほとんど同じ翻訳をいたします。但し、この翻訳については、本当を申しますと、今非常に厳しい批判があります。これは二十世紀に入ってからと言っていいかもしれません。仲が悪い、心がバラバラになっている人たちに、心を一つにしなさい、主イエス・キリストも、私どもと心を一つにする生き方を教えていってくださっただろう、というのです。例えば、そのすぐ前の三節に、

「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」

とあります。主イエスも、そうなさったよ、というのです。主イエスも、そう考えていてくださったのだから、あなたがたもキリストがなさるように、自分のことじゃなくて、隣人のことを考えるようにしなさいというのです。

但し今は、ギリシャ語のテキストは、そういう意味なんだろうかと、疑問を提する人たちがたくさん出てきました。なぜかというと、ここの五節と、ギリシャ語の原文は、ちょっと不親切なところがありまして、「キリスト・イエスの内に」というところで切れてしまうのです。「キリスト・イエスの内にも」と言えるかもしれないけど、「キリストの内では」、「キリストの内においてこそ」とか、日本語でいろんな訳ができるのです。しかし、キリストの中においてどうだったのか、ということは書かれていないのです。そこでひとつの想像は、イエス・キリストがそうなさったように、と言うけれど、どうなさったのか、ということをあなたはどこで知っているのかというと、キリスト・イエスの中で、自分たちのためにキリストがしてくださったことを体験しているはずだというのです。キリスト・イエスの中で体験していることを思い出しなさいというのです。何を体験したのかというと、そこで讃美歌の引用があるのです。

この讃美歌の引用の言葉は、本当はとても丁寧な説明が必要です。こういうところを注解書といわれるもので調べてごらんになると、とてもたくさんのことが書かれていることに気づかれると思います。なぜかと言いますと、ここをもう一度言うと、この言葉はパウロの言葉ではないのです。では誰の言葉かというと、どうもこれはユダ人たちを主としたパレスチナにあったキリスト教会の人たちが使っていた言葉のようだという人たちもあります。しかし、他の学者などは、いや、そんなことはないパレスチナに関係ないという人もあります。ローマ帝国を広く考えて「ヘレニズム」と言われますけれども、このもっとギリシャ的な影響の強いところの教会で歌われていた讃美歌であったのではないかと考える人もあります。あるいはそのどれでもなく旧約聖書の信仰の伝道を重んじている、特別な伝統のグループがあってその人たちの影響を受けているという人もあります。今ここでそういうことについて我々は議論する必要はないのです。そのような知識はなくても、この歌の心はわかります。

例えば六節に

「キリストは神の御姿である方なのに」

とここで「姿」という言葉がこの七節にも出て来て

「仕える者の姿をとり、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして」

とあります。自分をむなしくして、人間と同じようになってくださったのです。人間と同じようになるために、仕える者の姿をとってくださったのです。この「仕える者」というのは、別の翻訳をすると「奴隷」という意味です。キリストは神と同じであった。神と同じお姿をしておられた。ところがその神のお姿をかなぐり捨てて、自分を全くむなしくして、低く低く下りて来てくださった。へりくだって人間と同じ者になって、人間と同じ者でも、仕える者と仕えられる者とがいるけれども、その中で仕える者となってくださったのです。

昨日この教会堂に入ってまいりまして、いろんな感想を持ったんですが、ここに聖餐のテーブルがありますが、この上に小さな十字架があります。確かこの教会のどなたかがお作りになった。この十字架の形はとっても面白い。一本ではないのです。珍しいんです。日本では三本の十字架というのは、私はあまり見たことがありません。ヨーロッパによくあるのです。例えばドイツのある教会に行くと、教会堂の玄関を入ったところに、ドイツの教会はよく外に彫刻があったりするのですが、ある教会ではこの三本の十字架が大きく石に刻まれて、玄関を入って行くときに、大きく仰ぎ見ることができるのです。一本でない、三本の十字架です。

あるドイツの神学者は、十字架はいつも三本のほうがいいと言います。なぜかというと、これは教会の姿だというのです。一本は明らかに主イエス・キリストの十字架です。あとの二本は福音書に書いてあるように、主イエスは一人でなくて、二人の犯罪者とともに十字架につけられたのです。その二人の犯罪者の十字架ではないのです。この二本の十字架には、私たちも釘づけされている。私たちが十字架に付けられるべき罪人であった。その中にキリストが入ってくださっている。人としての性質を持って現れた、というのは、そういうことだと言って、八節で

「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」

と言っています。

学者たちの学説によると、ここはまた、興味のあるところですけれども、全部パウロの言葉ではないと言いましたけれども、この、「実に十字架の死にまで従われました。」という言葉については、これはパウロが、昔からどこの教会でもみんなで歌われていた讃美歌に、パウロが書き加えたたのだと言われています。みんなが歌う讃美歌の中に、「死にまで従い」とあるとき、パウロはわざわざ、「その死というのは、十字架の死なんだ」ということを書き加えた、と言うのです。このことについて疑う学者は、今ほとんどいません。パウロは書き込みたくなったのです。

キリストは神であられたのに、へりくだって人となってくださった。それどころか僕として死んでくださった。その僕としての死は十字架の死であった。十字架の死というのは、罪人として死ぬということで、呪われて死ぬということです。

さっき、午前の集会が終わって、「先生、日本間で休まれますか」と言われました。今、集会の前に横になったら、立ち上がれないからやめておくと言いました。そこで、散歩に行く、と言ったら、鴨下先生がついて来てくださった。出て行くときにある方が、「この教会は表から見るだけでなく裏に回るといいから」と言うのです。なるほどと思いました。鴨下先生と坂道を上りながら、教会堂の姿がどんどん変わっていく。裏から見て、ちょっと古代の日本風の家屋を思い出させるようなたたずまいをしているのがいいですね。その日本風の木組みの一番上のところに十字架が立っている。

なぜ教会は十字架を立てるのか。これは呪われた印ですよ。呪われて死んだ者の印ですよ。だから、さっきの明治のお年寄りが、「磔拝んで涙を流す」と言ってからかわれたのを、私が、「いい歌だ」と言ったのは、教会の急所を突いているからです。なんで磔に遭った、死刑に遭った人間のことを思い出して、しかも有り難がって涙さえ流すのか。おかしい、滑稽だ。何だ、その信仰は。弱虫の信仰だというのです。その通りです。十字架はその意味では、世間の評判からいって、素晴らしい手柄を立てた人の勲章を掲げているようなものではないのです。

私はこの三本の十字架を、ドイツで見ていると思うんですが、真ん中の十字架は大きいんです。ひと際高いのです。けど、本当を言うと、主イエスは気に入らないんじゃないかと思うのです。三本の真ん中の十字架を、もっと低い、一番低い、他の罪人よりもっと低い、全ての罪人に仕えてくださるんですから、最も低い、もっと太くてもいいかもしれません、もっとがっしりしていいかもしれません。主イエスは、本当に深いところで死んでくださったのです。

パウロは言うのです。なぜ教会の中で争いがあるのかねと。自分を主張するからじゃないか。自分を殺すことが出来ないからじゃないか。それでもキリストの体かと言うのです。キリストの体というのは、あなた方の中にキリストがおられるということです。キリストがおられるのはどこか。高いところなのでしょうか。上から見下ろしながら、まだ喧嘩しているのか、と語っているのです。

東京神学大学という学校があります。その学生の修養会に、私は招かれたことがあります。与えられた主題は、「神学生の教会生活」でした。この講演の時私はこう言いました。

「神学生の時に教会生活を大事にしてもらいたい。その教会生活の急所は何か、といえば、『教会の底辺に立つ』ということを徹底的に覚えてもらいたい。教会の一番低いところに立つということだ。」と。質問がありました。「教会の底辺ってどこですか」と言うのです。 その後でグループに分かれて協議がありました。戻って来たときに、またいくつかのグループから質問がありました。「先生、教会の底辺ってどこですか」。と。

そのときの学長は、「あの時、明らかに、先生、怒ったでしょう」と言いました。確かに、私は顔に出るほうですから、怒ったというよりも、がっくりきたのかもしれません。失望を表したのかもしれません。どうして神学生が教会の底辺が見つからないんだろうか。ある哀しみだったと言ってもいいかもしれません。私はこう言いました。「教会の底辺っていうのは、主イエスがおられるところだよ。我々がキリストと一緒に生きている時、キリストはどこにおられるのか。キリストは一番低いところにおられる。一番低い、一番困った人間の傍らに主イエスはおられる」と。我々はしばしば、教会の争いや、困ったことがあったりすると、自分たちはその争いから自由であったり、その争いに自分たちは関わっていないために、自分たちは間違っていないということで、「教会って困ったもんだよね」、「世間とおんなじだよね」などと言ったりします。しかし、主イエスはそんなことはおっしゃいません。ご自分の名による洗礼を受けた者たちが、なお争うことに、一番痛みを覚えておられるのは、主イエスです。「なぜおまえたちのためにわたしが死んだのか、ということを、まだなお、身にしみて知ろうとしないのか。」と。しかし、だからといって、教会を見離さないのです。その一番困った人間の傍らに立って、主イエスは依然として神に祈られるのです。「父よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか。わたしはこの者と一緒にいる時、見捨てられなければならないのですか。わたしを見捨てないでください。この人を見捨てないでください。この人を赦してください」と。主イエスが底辺に立つ、ということはそういうことでしょう。

私は神学生たちに言いました。「主イエスと一緒に生きるということを知っていたら、教会の底辺は見つかるはずだ。そこはもしかしたら誰にも見えない、誰からも認められないところで、ひとり苦しむということになるかもしれないけれど、しかし、君は一人じゃない、主イエスはそこにおられる」と。

そこで私どもが悩み苦しむことなしに、教会が分裂したとき、乗り越えられる道はないのです。上に立って、困ったもんだ、困ったもんだと、牧師をはじめ、うそぶいていたら、絶対に教会の分裂は治らないのです。キリストはそこで裁いておられる。もちろん、深いさばきをキリストこそなさるのです。しかしその裁きの中でつきぬけていく道を、主イエス・キリストご自身が十字架において示してくださるのです。

この讃美歌はそういう意味で、十字架賛歌です。ある人は面白いことを言いました。この讃美歌の中に、讃美歌を歌っている人は入っていない、と。なぜその人はそんなことを言ったかというと、先ほど申し上げたように、日本の教会の中で、讃美歌を信者が歌わない人たちがいるのです。なぜかというと、讃美歌を歌っているうちにいい気持になったりすると、讃美歌を歌う自分の気持ちに酔っている、センチメンタルになるのです。一般的に西洋の詩は叙事詩だけれども、日本の詩は抒情詩だと言います。日本の詩人は、自分の心、自分の環境、自分の喜びや悲しみばかりを歌っているけれども、ヨーロッパの詩人は、ギリシャの長い詩から始まって、ある意味では自分と関係なしに、自分の外で起こっている神々の出来事を、人間の運命の姿をしっかり見据えながら、それを詩として語っています。キリストの教会もそのことを知っているのです。その意味では自分の感情の外、自分の思いの外で、イエス・キリストが自分のために何をしてくださったか、真の神であられるのに、もっとも己を低くして、むなしくして、そしてそこで、十字架の死を死んでくださったところで、神は一気にそのイエスを引き上げて、それこそ、あなたがたの主だ、とお示しになった。そこで全ての人はかがんで、「あなたこそ、主だ!」と、キリストを褒めたたえたのです。先ほど申しました学者は、そういう出来事を、この詩を作った人はあっけにとられるように眺めて、自分はその中に入ることができないと言うのです。いや入らなくていい、入らないところで、そのキリストの主としての出来事が起こっていることを、心から賛美する。賛美しながらそこで知ればいいと言うのです。キリストの恵みを、キリスト者がお互いに一緒に生きているところで生かす。それを生きていくのです。

今日、讃美歌を二つ、ご一緒に、私の講演の前と後に歌うことにしました。先ほど歌いました「主イエスこそ わが望み」という歌は、アイルランドの讃美歌、しかも八世紀、随分古い時代に作られたもので、それを英語の歌詞で書いているのは「Be Thou my vision」あなたが私のビジョン。幻になってくださるようにというものです。「ビジョン」というのは、目の前に見えているひとつのイメージ、姿ですね。そのビジョンにまっすぐ心を向けて歌う、讃美歌ですね。それを古いアイルランドの民謡の歌詞で歌っているのです。素敵な讃美歌です。

ジョン・ノックスという、スコットランド教会を建設した改革者がいます。この人は牧師だった。セットザイルスという教会が今でもあります。エディンバラに行って、そのセントザイルスの教会の礼拝に出ました。そこでこの讃美歌が歌われました。私は本当に心の底から感動しました。とても素晴らしい歌声で圧倒されました。そこの礼拝が終わると、横に沢山の出口があります。そこに長老たちがフロックコートを着て、立って、出ていく人たちに挨拶をします。私は一つの出口に出て行きながら、そこにいた長老に、「ここの讃美歌は素晴らしかった。いつもお歌いになっているのですね。」と言いますと、「ジョン・ノックス以来だ」と言いました。本当かどうかはわかりません。愛唱歌だということなのでしょう。

これは明らかに、主イエスの姿を描きながら、「主こそわが望み、主こそわが歌、主こそすべてのものに勝つ力」と、そのように歌います。

このあとで歌います讃美歌は、「主よ、わが身をとらえたまえ」というもので、作った人は英国の牧師でありまして、ジョージ・マッセソンといいます。この方の歌は他にも日本で歌われておりますけれども、十九世紀の牧師です。この人は盲人の牧師でした。実にすばらしい讃美歌をいくつも作りました。

主よ わが身を とらえたまえ
さらばわがこころ 解き放たれん
わが剣を 砕きたまえ
さらばわが仇に 打ち勝つを得ん

私のために、神であったのに、十字架の死にいたるまで、仕え抜いてくださった主イエス・キリストよ。私の心を解き放ってください。自由にしてください。私の喜びになってください。主イエスにおいて起こった出来事はそれで十分、私どもの救いを全うする全てのことをしてくださった。

それは先ほど言ったように私どもの外で起こったことだったことなのです。どうぞそれが私の心を捉えて、私の心の中にある卑しいこころを砕いてください。人を裁く心を砕いてください。自分をむなしくすることができない、自分の、この恐るべき罪人である自分を打ち砕いてください。十字架がここに立つように。この小さな十字架がみなさんの心の中に立つように。そして、この十字架を歌い続ける歌が、みなさんの心に、この教会に生き続ける限り、ここから消えない限り、この歌をいつも口ずさんでいる限り、私どもには救いがあるのです。私どもの教会の一致が必ず回復される道が開かれるのです。そこに、いのちに勝つ、望みの道が開かれるのです。

お祈りをいたします。

主の日の午後、疲れた肉体を励まし、ここにあらためて集まりみことばに耳を傾け、私どもの存在の中に植え付けてくださった歌の心を思い出すことができて、感謝いたします。

道に行き悩むとき、自分たちのことばが自分たちを傷つけてしまうとき、望みの言葉ばを語ることができなくなるとき、歌わせてください。自分の信仰の心に先だって、すでに起こっている主の救いのみわざをほめたたえる歌を。そこから光が放たれています。そこからいつも力が湧きあがっています。歌わせてください。死の床においても勝利の歌を。 主イエス・キリストのみ名によって、感謝し、祈ります。 アーメン。

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