2010 年 8 月 29 日

説教「私たちの信仰」 明田 勝利

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本日は甲府市の明田勝利牧師が説教をして下さいました。

説教 「私たちの信仰」
ヨハネ 9章 35~38節

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「私たちの信仰」   ヨハネ9章35〜38節

この朝、ヨハネ福音書を通して、私たちの信仰の背景について考えてみます。私たちの信仰を支えているものは何か。そのようなことを考えてみるとき、自分の信仰は、自分が支えているのではなく、過去から現在に続く、受け継がれてきた歴史があることに気づかされます。

ヨハネ福音書が、いつ、誰が、どこで書いたのか、正確には分かりません。ただ、四福音書の中では最後に書かれており、たぶん、紀元90年代後半終わりころに書かれていると考えられています。私にとって、聖書を読むとき、その時代背景に興味があります。人々がどのような時代に、何をどのように信じ、どのように生きていたのか。そのようなことに思いをめぐらし、そして、彼らの言葉に、信仰に、私たちの心、思いを重ねてみるのです。

最初に、古代ローマとのかかわりに関してお話しします。この数年、古代ローマ都市を尋ねる機会が多くありました。ローマ、トルコ、シリア、ヨルダン、イスラエルなどを訪問しました。そこには、数多くの古代ローマ時代の遺跡が残っており、特に、聖書に登場する地名や、パウロの足跡、主イエスの足跡などには興味をそそられました。

そのような史跡を巡り歩いて感じることは、2000年というときの隔たりを感じさせない生活の場がそこにあるということです。まず、その都市の規模の大きさに圧倒されます。公共広場、劇場、競技場、公衆浴場、トイレ、図書館、病院、上下水道、舗装された道路、整然と立ち並ぶ町並みなど、これが2000年前の都市なのかと思わされます。しかし、当然のこととして、格差社会、表の都市生活を支える裏の社会というものを考えなくてはなりません。聖書には、当時の人々として、貴婦人、支配層、奴隷、様々な層の人たちが登場します。まさに現代社会、そのものの縮図を感じさせるものです。聖書を読んでいて、時代をそんなに感じさせないのは、そんなところにあるのかなと思います。

次に、ユダヤ教とのかかわりについてお話します。ご承知のように、キリスト教は、イスラエル、特にユダヤ教と深い関わりを持っていました。そこで、主イエスの活動の前後の時代に関して少しお話します。紀元前60年ころ、イスラエルはローマの支配を受けます。当然のことながら、ローマに対する反感、争いが絶えることがなく、とうとう、60年後半、ローマによるイスラエル支配・圧迫に対して反乱をおこしますが、紀元70年に、ローマによりエルサレムとその神殿が破壊され、数年後には全土が完全に制圧されてしまいます。大変な犠牲が支払われたことになります。

90年ころ、ヤムニヤという小さな町にユダヤ教の中心が移され、ユダヤ教の宗教議会、サンヘドリンがそこに持たれ、ユダヤ教は神殿中心から聖書中心、会堂中心へと変貌するようになります。宗教としてのユダヤ教の誕生です。
このころ、キリスト教とユダヤ教の分離がなされたと考えられています。そして、ユダヤ教側はキリスト教会を異端と宣言し、ユダヤ教はよりパリサイ派的、律法的に、より過激になっていきます。このような時代背景が、ヨハネ福音書には大きな影響を及ぼしていると考えられます。その後、130年ころには、再び、そして最後の戦いである、バル・コホバの反乱が起こり、ローマの前にイスラエルは完全に滅亡します。イスラエルはパレスチナへと、エルサレムはアエリア・カピトリーナと名前をかえて、まったく新しいローマの都市へと変貌し、ユダヤ人はエルサレムへの立ち入りさえできない状態になります。

このような歴史背景の中でヨハネ福音書を読むとき、注目させる言葉がいくつかあります。そのひとつに会堂追放という言葉です。先ほどお話したヤムニヤ会議と関係があると思います。キリスト教とユダヤ教との分離が、キリスト者の会堂追放という事態を引き起こしたと考えられます。

ヨハネ福音書の中に、

彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。(9章22節)

しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。(12章42節)

人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。(16章2節)

とあります。

いずれも激しい表現で、キリスト教とユダヤ教の対立が書かれています。90年代以降、この対立がさらに深まっていったと考えられます。さらに、「パリサイ人、ユダヤ人、人々」という表現の変化の中に、それは、単にユダヤ教という枠の中の出来事というよりも、当時の世界の図式を意味するもの、つまり、社会全体を意味するものとして考えられます。すなわち、会堂追放という言葉は、この世界、社会という枠組みからの追放を意味するということです。
それは、キリスト教信仰にとって危機的な状況であり、信仰を告白することがどれほど危険なことであったかを意味します。ヨハネ福音書は、そのような中での信仰告白を促しており、今日お読みしました9章に登場する生まれつき盲人の人が、「イエスをキリストであると告白し」、「あなたは人の子を信じますか」との問いかけに、「主よ、私は信じます」と語ります。

さらに、ヨハネ福音書は、このような時代の中で、信仰を告白するものに対して次のように語ります。

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(16章33節)

彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。(17章15、16節)

これらの言葉は、たとえ追放され、迫害され、苦難の中におかれても、その只中で、この世界に、信仰に、生きなさいという強烈なメッセージを読み取ることができます。

さて、私たちは、この朝、主イエスが生まれつきの盲人の目を開かれる出来事の聖書箇所を読みました。
この盲人のことを考えてみることにします。
盲人と主イエスとの出会いは、偶然のことのようです。主イエスのほうから進み出て、泥をこね、目に塗り、シロアムの池に行き、洗い落とせ、と一方的に語られます。盲人としては、目が見えなかったということを考えると、主イエスの言葉は、わずらわしいことであったかも知れませんが、しかし、無理難題、不可能なことではありませんでした。言葉だけを信じて、彼は従います。それも立派な信仰でしょう。他の福音書では、「あなたの信仰があなたを救った。」といわれ、このような奇跡物語は終わってしまいます。しかし、ヨハネ福音書は異なります。むしろここから、物語は始まるということさえできます。

すなわち、この男は、目を癒やされたと言うことで何度も尋問を受けます。そして、両親からも見放され、裁かれ追放されますが、彼は、信仰をさらに深めていくのです。最後には、主を告白し、「主よ。私は信じます。」とさえ語ります。この出来事は、単に、盲人の癒しを語っているのでなく、救いを受けた者が、裁かれ、迫害され、追放され、しかし、やがて本当の信仰に立ち上がっていく者の姿を語っています。

彼の語った言葉を追ってみます。25節、「ただ一つのことだけ知っています。今は見えると言うことを。」ここには信仰が表されています。35節、追放され行き場を失ったこの人に、主イエスが近づかれ、見つけだし、「あなたは人の子を信じますか」と問いかけられと、36節「その人は答えた。主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」と語り、38節、「主よ、私は信じます。」と告白します。

シロアムに行って目を洗いなさいという言葉に従うのも信仰ですが、そこで終わってしまうのではなく、その方はどなたですかとさらに尋ね求める信仰、会堂からの追放という行き場を失った苦難の状況の中で、なお、信仰を告白していく信仰のあり方を、ヨハネ福音書は語ろうとします。

ヨハネ福音書において信じるとは、新しく生きること、主イエスをキリストと告白する信仰に生きることであり、主イエスを常に新しく尋ね求め、しかもそれは、現実の世界、苦しみや困難が山積するこの世界を、逃避するのでも回避するのでもなく、現実という只中にとどまり、イエスを主と告白する信仰に生きることを語っています。

私たちは、ヨハネ福音書を読むとき、このような言葉を聴き続け、このような言葉に支えられながら、生かされていくことを考えさせられます。すなわち、あなたがたは、この世界の只中に生きることができる、生きよというメッセージを聞くわけです。そして、そのような中で、すなわち、苦しみや悲しみに打ち倒されそうになるその只中で、なお、イエスを私の主と信じ告白する信仰のあり方を求められています。

私たちは現代という社会にあって、古代ローマとはまったく違った世界に生きています。まったく同じ歴史を生きるということはありません。しかし、私たちは、福音書を通して、彼らの信仰に出会い、彼らの信仰に私たち自身の思いを重ね合わせ、それを、私たちの信仰にしていくように、また、現代社会に生きる私たちが、主イエスを信じるとはどういうことなのかを問い続けて行く、私たちは、そのような信仰へと導かれているのです。

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