2010 年 10 月 17 日

・説教 「恐れる心と向き合って」 マタイの福音書7章1-6節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 08:59

鴨下直樹

今日、私たちに与えられている聖書の言葉が「さばいてはいけません」という言葉からはじまっています。唐突にこの言葉が出てきたかのような印象さえ持ちます。この前に何が語られていたかというと、そこでは「明日のための心配は無用」だと言われているのです。先ほどまでは、実に憐れみ深い方として優しく語りかけていてくださったかと思えば、今度は、その顔がすぐに鬼のように変わったかのように「裁くな!」と言われるのです。裁くというのはどういうことでしょうか。

日本語というのは本当に面白い言葉がたくさんあります。何かを表現するときに色々な言葉を使います。同じ意味のことを色々な言葉で表現します。たとえば、怒りを表現する言葉、この言葉は特にたくさんあります。その一つに「腹が立つ」という言葉があります。こういう言葉を通訳するのは大変だと思いますけれども、「腹の虫がおさまらない」などという言い方もあります。このような言葉は、お腹で責任をとる時代、つまり、切腹ということが行われていた時代に生まれた言葉だと言います。ところが、こういう怒りを表現する言葉は段々変っていきます。その一つに「頭に来る」という言い方があります。これは頭で判断して決断することが求められるようになってからのことです。そして、少し前から「むかつく」という言葉が使われるようになりました。この言葉はもともとは怒りを表す言葉ではありませんでした。気分が悪い時に使うのです。けれども、こういう言葉が怒りの言葉として使われるようになったのは、自分の怒りが気分の問題、感情の問題として捉えられるようになったからです。今はなんと言うかというと、「うざい」などと言います。「うっとおしい」という言葉が短くなって「うざい」などと若い人たちが使います。この言葉になりますと、もう、感情の煩わしさだけに留まりません。自分が関わりたくないと思うものを拒むという態度です。たとえば、自分の方に非があることを認めながら、そういうことを色々言われたくない、自分の非を責めたてられたくないので、何処かに行って欲しいという願いが「うっとおしい」、「うざい」という言葉になる。あるいは、相手がしつこいことにもう自分は耐えられないというニュアンスがそこにはあります。
そのように、私たちはさまざまな怒りの表現を使います。そうして、自分の判断で相手をさばくのです。何故そんなことをするのかというと、自分を守るためです。自分が傷つくことが耐えられないのです。それで、私たちは自分が傷つくことを恐れ、自らを守るために人を裁くのです。

さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(1、2節)

私たちはこの聖書の言葉を理解することはそれほど難しくありません。この「人を裁く」ということがどういうことを意味しているか、私たちにはそれほど説明はいらないと思います。自分の判断で誰かに対して、悪い判断をするのです。
けれども、「裁いてはならない」と言われてしまいますと、すぐに私たちはそこで言い訳したい気持ちになるのではないかと思うのです。自分は人に怒りを表すとき、ここで言われているような「裁く」というような強い言葉が使われる時というのは、確かに身に覚えがあると思うのですけれども、良く考えてみるとそれにはそれなりの事情があるのです。好きで人を裁くというようなことを誰だってしたくないのです。それには、よほど心に耐えかねたことがあるからそのような判断をするに違いないのです。
私たちは日常の生活において、人を裁くことはしないということは誰にも言えないと思います。私たちは毎日、さまざまな判断をしながら生きているからです。その中でも特に、「裁く」という言葉が身に当てはまると思える時というのは、常識的な判断からして著しく相手がそれに反している時ではないかと思います。普通はそういうことはしないということに腹を立てるのです。決して、自分が傲慢だから人を裁いているとか、自分の心が狭いからだなどというようなことではない場合が多いのだと思います。

そう気づいて、この主イエスの言葉に目を留めてみると、ただ「裁いてはいけません」と言っているのではないことに気がつきます。少し落ち着いて考えてみようと、立ち止まって考えてみますと、この言葉はこのように読むことができます。
「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」
この言葉をそのまま読めばこういうことになります。自分が相手を小さい量りで量れば、自分もその器で量られるということではないかと読めるのです。自分の判断が心の狭いものであれば、その狭さで、相手からも判断されることになるから、心にゆとりをもって、少し多めに見るくらいの態度が必要なのだと主イエスはおっしゃっておられるのだろうかと考えると、少しは納得するのです。自分にだって欠点はあるのだから、相手に対して寛容でありなさいという意味だと思って読むのです。
確かにそうであれば、それほどこの話は難しい話ではありません。むしろ、誰にでも考えさせる余地を残しておくべきだと思えるのです。

ところが、この主イエスの物語を続いて読んでみますとこう記されています。

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。(3節)

兄弟の目の中にあるのはちりで、自分の目の中にあるのは梁だと言われているのです。つまり、いや、あなたの方がその人よりももっとひどいでしょうと言われているのです。
5節になりますと、「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい」という言葉になっていますから明白です。
まさに、ここで主イエスは、主イエスの話を聞いている人々、私たちに向かって面と向かってこう語っておられるのです。一般論をここで述べておられるのではどうもないのです。そうすると、私たちはどうしたって考えざるを得ません。なぜ、そこまで言われなければならないのかということを。あるいは、なぜ、そのように強い言葉を主イエスは私たちに語っておられるのかということを、どうしたって考えなければならないのです。

以前、神学生の時のチャペルの時間に、神学校のある先生がこの箇所を選んで説教をしました。私のその礼拝で、礼拝の司式をしておりまして、この聖書の箇所を読みました。あとで、説教者に、今司式者が「針」と読んだけれども正しくは「梁」ですと、言い直されました。「はり」の終りのことばにアクセントがなかったので「針」に聞こえてしまったのです。実は私はその時、この「梁」が何のことなのかよく分かっていなかったのです。そう言うと驚く方がおられるのではないかと思いますけれども、今の一般的な家庭に住んでいる場合、梁というものがどういうものであるかということは明らかではないと思います。たとえば子供にこの梁の話をしても、説明抜きでは分かりません。私も、可児教会の十字架が昔の家の梁で作られていることを聞いて、「ああ、梁というのは家の壁から壁にかかって屋根を支えるためにかかっている大きな太い木のことか」と分かったくらいです。いずれにしても、そんなにも太い木を持ってきて、あなたの目には梁が入っていることに気づかないのかと言われる主イエスは、語りながら何を語ろうとしておられたのでしょうか。
主イエスはここで、あなたは人の小さなことを数え上げているけれども、あなたの中には根本的に間違ったものがあるではないか、それに気づかないのかと問いかけておられるのです。動かしようもない事実として、あなたの真ん中にどんとそれがあるのに、それを横において、人を裁くのかと言われるのです。

この主イエスの言葉の中には大切な言葉がいくつも隠されています。たとえば「兄弟の目の中の」と言われます。あなたが批判しているその人はあなたの兄弟です、と主イエスは言われるのです。「いえ、赤の他人です」などという言い訳はできない相手だというのです。相手がキリスト者でなければ「兄弟」には値しないとか、血はつながっていないからなどということを考えることはすでに的を外しています。
あなたが判断しているその人も、あなたも、神の前に同じ者として見られているといことを、主イエスはこの言葉によって気づかせておられるのです。そうすると2節の「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれます」という言葉も、誰かから裁かれるということではなくて、神から裁かれますということが語られているのです。
主イエスはここで、あなたが裁くその時、あなたはどこにいるのかということを問うておられるのです。腹が立つとか、頭に来るとか、うっとうしいと思っている時、それが一般的な常識の考えからみて相手がおかしいと思えることであったり、誰からみても自分の方が正しいと考えてしまう時があります。誰もが自分の判断に同意してくれると思えるほどに、自分は絶対に正しくて、相手が絶対に間違っているなどと考えてしまうことがあります。けれども、そのように考えているそのとき、あなたは神の前に立っていることを忘れてしまっていないのかと主イエスは問いかけておられるのです。
あなたが裁いているその人も、あなたも神の前に立たされていることを知らないのか。そうであるとすればその人に対するあなたの愛はどこにあるのかということが問われているのです。主イエスがここで問いかけていることは、そのような厳しい問いかけなのです。

しかも、興味深いことに続く6節でも、全く異なること語っています。

聖なるものを犬に与えてはなりません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(6節)

ここで主イエスが語っているのは何かというと、まるで正反対のことを問いかけておられます。自分が相手に与えるものが無駄になるような与え方をしていないかと問いかけておられるのです。豚に真珠という諺にあるとおりです。そうすると、ここでどういうことになるかというと、自分がキリスト者なのだから相手を赦そうと思う。けれども、そのような赦しに生きることは、豚に真珠をやるようなことではないか。結局正しく受け取ってもらえず、かえって相手を怒らせることになるのだから、そんなことは止めておけということにさえなります。
しかも、1節から5節のところでは「人を裁くな」と言いながら、ここでは人のことを「犬」や「豚」に譬えておられるのです。人のことを犬、畜生に譬えているということです。それこそ、ひどい裁きではないかということになります。

いったいどういうことなのでしょうか。
1節から5節で主が問いかけておられるのは、神の前に立つときに、自分自身が罪人であるということをわきまえなさいということです。けれども、それでも、私たちは人に福音を聞いてほしいと思う。神の真理を知ってほしいと思うのです。相手が聞いてくれないと分かっていても、相手に届かないと思っても、何とか神様が働いて、この相手が変わってくれさえすれば自分の生活は間違いなく変わるのだから、どうか信仰に生きてくれと願う気持ちで、怒りを捨てながら伝道しようと思うのではないでしょうか。
けれども、そこで私たちがどうしてもぶち当たってしまう壁があることに気づくのです。相手の言葉が届かないのです。相手に分かってもらいたいと思えば思うほど、相手は心を固く閉ざしてしまうことがあるのです。神が働いてくだされば、どんな困難な道であっても開かれるし、そう信じることが信仰ではないかと思う。
そういうことを、主イエスはよくご存じで、ここでどんなに「聖なるもの」、「真珠」のような高価なものを持っていても、相手に届かないことがあるのだということを、ここで主イエスは語っているのです。
これは、悲しみのことばです。私たちにも信仰の限界を突きつけられる言葉でさえあります。けれども、そこで私たちが知らなければならないのは、そういう伝道の難しさを知っていたのは他の誰でもない、主イエスご自身でした。主イエスが働いてもなお、届かないことがあるということを、私たちは知らなければならないのです。神が働いてくだされば、豚だって聞く耳を持つはずではないか、犬にだって役立つはずではないか、と私たちは思うのですが、そうではないのだと主イエスは自らここで語っておられるのです。

ドイツの神学者でディートリッヒ・ボンヘッファーはかつて「キリストに従う」という題の書物を記しました。この山上の説教の解説を記したものです。非常に素晴らしい内容の本です。ボンヘッファーはちょうどここのところで、こういうことを書いているのです。
理念というものは強いと言います。そういう理想的な生き方を掲げながら自分はこう生きるのだという理念を掲げて生きる時に、そういう理念というのは狂信家を生み出す。強い信念を持って、生きることができると。ところが、神の言葉は弱いと言うのです。神の言葉は人間から軽蔑され、嘲笑を受けるほどに弱いと。私はこの本を最初に読んだ時に、読み間違えたのではないかと何度も読み返したのですが、そう書いてあるのです。目を疑いました。神の言葉が弱いなどということを考えたこともありませんでした。けれども、ここでボンヘッファーが言うように、神の言葉そのものであった主イエスは、人々からさげすまれ、罵られて十字架に架けられたのです。そして、こういうのです。信念に生きる狂信家は、反抗されることも知らず、突き進んでいくことができるが、神の言葉と共に生きる者はそこから引くことも、逃げることもできるのだと。
主イエスは、神の信念を貫き通すために、ただ一人で我が道を歩まれたのではありませんでした。ご自身が、もっとも弱い者となって、苦しむ者と共に生き、涙するものと共に生きられたのです。そして、自分を殺そうとするような者に、自分のいのちを殺させてしまうほどに弱かったのです。それが、主イエスというお方です。

あなたが立ち向かっているのは、犬か豚か、どんなに語っても耳を傾けない分からず屋か、そうであるなら、私にまかせるがいい、わたしが最後にはみんなをとっちめてやるからというようなことでないのです。主イエスはそのように、誰もが待ち焦がれるようなヒーローとして働かれたのではなかったのです。そうではなくて、そのような強い人の中にうずくまるようにして、人々のその強い言葉をじっと聞き続けておられたのです。言葉が届かないのであれば、そこで、黙ってひたすら耐えることができるほどの自由を持っておられたのです。

ここに、主イエスの姿があります。主イエスは相手よりも上に立って、高いところから人を見下しながら、あなたの目にちりがあるから取ってあげようなどと言われなかったのです。そして、この人には何が何でも理解させてやろうと力でねじ伏せるようなこともなさらないのです。私の目にも梁があります。神の前に立つとき、私は罪びとにすぎないのです。だから、あなたの傍らに私も立ちたい。批判するのでもなく、強制するのでもなく、ただ、心の中にある確かな神の真実にのみ支えられて、人と共に生きる自由を持っておられたのです。

今日、私は説教の題を「恐れる心と向き合って」としました。人に、自分の正しさを分かってもらいたいと思う時に、裁いてしまう思いにも、また、人に言葉が届かないむなしさを感じながら、無力感に打ちひしがれている時も、その両者にあるのは恐れの気持ちです。このままでは駄目だという思いです。けれども、主イエスはそのような恐れを私たちに乗り越えさせてくださるのです。それは、私たちが主イエスのように弱い者となるときにです。自分の罪に気づき、人の弱さに気がつきつつも、私は主に支えられているというところにある確かささえあれば、私たちはそこで耐えることができる。そのところに生きることができるのです。そこにいるのは、自分一人ではないからです。主がその同じところに立っていてくださることを知るのです。
そして、そこから、そのような死を乗り越えたところから、新しいいのちの道が開かれていくのです。そう信じることが信仰の道なのです。

お祈りをいたします。

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