2010 年 11 月 21 日

・説教 「狭い門から入る道」 マタイの福音書7章13-14節

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 15:20

鴨下直樹

2010.11.21

この朝、私は久しぶりにこの芥見教会の講壇に立つことになりました。実に一か月ぶりのことです。その間、舛田執事をはじめ、メッツガー先生、マレーネ先生が説教をしてくださいました。そういうこともあって、私はいつもよりも長い間、今朝、私たちに与えられている言葉と向かい合い続けてきたといえます。そして、今朝は召天者記念礼拝の時でもあります。また、教会の暦で数えますと終末主日と言いまして、一年の最後の週となります。

私は、先ほど「私たちに与えられている言葉」という言い方をしましたけれども、まさに、この言葉はこの日のために、神から与えられた言葉だと思いながら、この御言葉に耳を傾け続けてきました。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

これが、今朝、私たちに与えられている言葉です。

それほど、長い箇所ではありません。「狭い門から入りなさい」というのは、どういう意味なのでしょうか。私がまだ子どもの頃ですけれども、教会学校で暗証聖句のカードを貰いました。そこには、こんな絵が描かれていました。大きな道にたくさんの人々が歩いているのですが、その道の先は地獄の火の海が待ち構えているのです。けれども、その広い道の傍らに細い小さな門と、細い道が描かれています。あまりにも小さいので誰も目にとめないのですが、わずかな人だけがその道を歩いています。そして、その寂しい道の先には天国が描かれているのです。ところが、子どもの私は、その絵を死んだあとのことが描かれていると勘違いしていました。ですから、人が死ぬと、みんなが歩いている太い道を歩かないで、狭い道を、気をつけながら、見つければいいのだ。そういうことを忘れないでいなさいという話だと思い込んでしまっていたのです。

この聖書の言葉を簡単な絵で表すとそうとすると、誤解をして読んでしまう危険があります。私には、子どもながらにその絵は衝撃的だったのです。誰が、そんな道を見たのだろう。聖書にはそんなことまでも書いてあるのかとか、子どもの想像はどんどんと膨らんでいきます。もちろん、この聖書は死後のことが言われているわけではないのです。けれども、子どもというのは、天国といえば死後のことを思い浮かべます。あるいは、子どもでなくてもそのように考える人は少なくないと思います。確かに子どもが相手であれば、そのような絵を見せることで、この主イエスの言葉を説明した気持ちになるのかもしれませんけれども、ここで語られている聖書の言葉は、このような絵で言い表されるということではないのです。

実に、この短い聖書の言葉はそのように誤って理解されることが多い言葉です。実際にこの言葉は私たちに日常の様々な場面で用いられることがあります。そこで、実にさまざまな用いられ方をします。私たちが陥りやすい誤解というのは、たとえばこれからの季節になりますと、受験の季節になります。なかなか難しい学校に合格すること、「狭き門を突破した」などいう言い方を日常的に使います。「狭い門」というこの聖書の言葉は、厳しい関門というような意味で理解されることが多いのだと思うのです。

このように、この「狭い門から入りなさい」というこの言葉は、厳しいことをやってのけるという意味で理解され、そこから、人生の様々な選択をする時に意味を持つ言葉であると理解されることが多いのです。確かに、それはある一面は言い表しているということはできるでしょう。私たちは、生きていく中で、様々な人生の選択をせまられることがあります。そもそも人生というのは大小の選択によって形作られているのです。ですから、そのような決断を支える言葉というのは、大きな助けになるといえるかもしれません。そして、そのようなときに、「狭い門から入りなさい」というのは、自分では厳しいと思う方を選択しないさいという意味で理解されるのです。

先週のことですけれども、毎月行われている芥見JCと言いまして、私たちの教会の学生たちの集会がありました。そこでも短くこのところからお話しをいたしました。学生にとっては、自分の人生にとって厳しいと思える方を選び取りなさいというのは、ある程度の意味を持つと思います。たとえば学校に行きたいという思いと、戦うことは学生にとっては小さな決断ではありません。友達とうまくいかないということもあれば、なんとなく行きたくないということもあるでしょう。いずれにしても、そのような時に、自分にとって嫌なことを避けてばかりいるような決断をしていけば、その後の人生でも、ちゃんと問題に向かい合うことができなくのは当然のことです。どうしたら、問題を克服できるかということを経験的に知らないということは、自分の自信も失っていくことになります。ですから、昔から「楽あれば苦あり」などと言いました。楽な道ばかり選んでいると、後で苦しくなるということを教え諭そうとしたのです。それは、この世界の人生哲学としては意味を持つと思います。

けれども、ここで、主イエスが語られていることはそれと同じことなのかということとは別問題です。ここで「狭い門」と言われていますけれども、十四節ではこれが「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出すものはまれです」と言い換えられています。そうすると、どうも厳しい道を選択しなさいというようなことではなくて、この門というのは、ほとんど見つかりそうにもないような小さな門なのだということになります。

「門」というものについて、少し考えてみたいのですけれども、私たちの中にも、ひょっとすると、門構えのある家に住んでおられる方があるかもしれません。そうしますと、それはすぐに大きな家だということがわかります。門というのは、中にある立派なものを守るために入り口を狭くして誰にでも簡単に入り込むことができなくするために備えられるものです。ですから、大きな屋敷の門が、見つけられないなどということはまず考えられません。だいたい、門があるなどということ自体が、もうすでに大事だという気がしてまいります。そのような、大切な入口を示す場所ですから分かりにくいなどということはないはずです。たとえば、お城の門というのを考えていただいてもいいと思いますけれども、それは正面にどんと据えられているはずで、誰からも見えるのです。

ですから、その門が小さくて、ほとんど誰にもみつからないような門というようなものは、そもそもどのような門なのか、一体何のための門なのかということになってしまいます。

主イエスはここで少し、わざと人の思っていることと違うことを話されながら、これはいったいどういうことかと関心を引き付けようとして話しておられるようです。「門が狭い」しかも、「見出すものがまれ」であるほどに、見つけにくい門というのは、どういうことなのでしょうか。先ほども少し触れたのですけれども、門というのは、門の中にいるものを守るために設けられたものです。その囲いの中には人々が安心して住んでいたり、あるいは、動物であれば、家畜が安心して住むことができるなかで、許可されたものだけが、その出入り口を入ることができるように設けられたものです。私がドイツにおりました時に、Sigen(ズィーゲン)という大変牧歌的なところに住んでおりました。家の周りは牛や羊の牧場がたくさんありました。そのような牧場の周りに、囲いがされているのですが、その囲いには、電気が流れていて、動物たちが外から入ってこないように、あるいは中の動物が囲いの外に出ないようにしてあります。けれども、人間も出入りしなければなりませんから、どこかに小さな門が設けてあるのです。そこは電気が流れていないので、羊飼いや牛飼いは安心してそこから、牛や、羊たちのところに入っていくことができるのです。その門をくぐることによって、安心して、その世界に足を踏み入れることができるわけです。

門というのは、そのように、その門をくぐることによって、ようやく門の内側の世界に足を踏み入れることができます。ですから、日本では様々な習い事をする時に「入門」などいう言い方をします。その門の中に入ることによって、その世界を体験しようというのです。

それならば、主イエスはここで、その門の中の世界をどのような世界と教えておられるかというと、天国の世界です。このマタイの福音書では、何度も「天の御国」という言葉で語られた世界です。天国というのは、誰だって入りたいと思っているところです。今朝は、こうして召天者記念礼拝をしているわけですけれども、信仰を持って天に召されていった方々は、今、この天国にいるということを私たちは信じています。

けれども、ここで、主イエスはそのような天国の入り口を見出すものは、この世界においてはほとんどいないのだと言っておられるのです。ですから、今日、後で、召された方々の名前が紹介されますけれども、このような信仰を持って天に召された方々は、本当に極めて少ない天国の入り口をこの地上で見出した人々であったということを、私たちは今日、もう一度、思い起こすことができるのです。

しかし、なぜ、これほどまでに誰もが求めていながらも、この門は見つけにくいのでしょうか。この入口に気づかないままに終わってしまうのでしょうか。もちろん、それは、私たちの罪には違いないのですが、この主イエスの短い言葉の中に、そのことがよく表されているということができます。というのは、「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていくものが多いのです」という言葉の中にすべてが示されているといえます。

この私たちの教会の近くに、中部学院大学というキリスト教の立場で学生たちを導いている大学があります。私たちの教会にもこの大学に関わりのある方々が何人もおられます。この大学の宗教総主事をしておられるのが、笠井恵二先生です。私も、年に何度かこの大学のチャペルの時間に聖書の話をさせていただいているのですけれども、毎年、地域の牧師との懇親会というのが持たれます。その時に、この笠井先生が短い講演をなさいました。この笠井先生の専門は宗教学ということですけれども、日本の宗教というのは、宗教というよりも、日本教といってもいい独特の宗教観があるということを話されました。つまり、その「日本教」という言葉で表そうとしたのは、何かといいますと、「みんながやっている」ということが、日本人の思想の深いところにあるのだということを話されたのです。みんなやっていることをすれば安心する。だから、キリスト教ではなくても、クリスマスになれば教会に来ることに抵抗はないし、年末にはお寺にいって除夜の鐘をたたき、新年になれば神社にいって参拝することができる。わずか一週間の間に、三つの宗教に足を運びながら、それに対して何の違和感ももたないのは、みんなやっているという、日本独自の宗教観がその背後にあるからだということでした。

まさに、この主イエスの語られたこと、そのままであると言ってもいいほどです。みんながやっていることだからおそらく間違いはないのだろう。誰も大きな声で反対しないから、それほど悪くはないのだろう。このようにして、大衆というものを判断の基準にするという性質があるということです。つまり、自分の中に、しっかりとした考え方がない、あるいは、自分の意見を自分の意見として表現しにくい文化の中に私たちは生きているということです。

ですから、キリスト教の信仰に生きるということも、誰もそんなことはしていないのだから、やめておこうかということになってしまうのです。聖書が何を語っていようと、ここで語られている救いというものがどういうものなのかということは、二の次の問題になる。ですから、誰も選び取ることのない道に、門になっていくわけで、そのうちに、そんな門があったことも、道が示されていたことも気にならなくなってしまうのです。

こうなると、何も考えないで、みんなのやっていることを、右にならえとするほうが、利口だと言う哲学が生まれてきてしまうのです。

けれども、本当は、私たちの毎日の生活を築き上げているのは、私たちの周りに生きている誰かではなくて、自分自身です。自分の選択が、自分の人生を築き上げていくのです。ですから、そのような周りの顔色をみながら生活したとしても、最終的な責任は誰もとってくれませんし、その責任は自分に全部跳ね返ってくることになるのです。

では、主イエスが示された道とは何か、どのように生きることなのかということは、この前までのところにすでに語られたのです。この山上の説教と言われている、マタイの福音書の五章から、ひとつひとつ丁寧に、主イエスはお語りになったのです。「本当の幸いとはなにか」、「人が生きる時に身に着けていなければならない生き方とは何であるか」、そして、その結論として、この箇所で語られえているのです。

それが、「私が示したように生きなさい」ということでした。主イエスのように生きなさい。いや、口で言うだけではあなたがたは分からないだろうか、これから私が、その生き方をあなた方に示そうではないかと、言われて、この後、主イエスは山を下りて、人々の中に入り込んでいかれるのです。

主イエスは、口先だけで、人の生き方を変えられるなどと思ってはおられませんでした。自分の生きる姿を見せなければ、自分の語る言葉に説得力無いことを知っておられるお方でした。そして、その言葉を聞いて、その行いを見る時に、私たちは、キリストの門をくぐって生きるその世界がどのような世界であるのかを知ることができるようになるのです。

主イエスはここで、自分の敵をも愛しなさいと言われました。そして、文字通り、自分に対して冷たい目が差し伸べられていても、その人たちを愛することを諦めてしまわれませんでした。その人たちから、この主イエスのような生き方を、自分は見たくない、目障りだと言って、殺そうとした時でさえ、主イエスは、まさにこのような敵を愛して、神の真実が示されるように祈り続けられたのでした。そして、彼らに殺されてしまっても、なおも、自らの死を通して、神の愛が示されることを願われたのでした。

死、その先には何がまっているのでしょうか。今朝は教会の暦で、終末主日と言います。教会の暦では一年の最後にあたる日です。その日に、死をどうしても考えざるを得ないと、教会ではこの日を終末主日と呼んで、自分の人生はこれから先どうなるのか考えるようにと促してきたのでした。

主イエスはどうして、人々に不当に十字架につけられても、それを受け入れることがおできになったのでしょうか。それは、たとえ、殺されてしまったとしても、その死の先に、神が支えてくださると信じることができたからです。そのような門をくぐった者として、死の先にある絶対的な平安を、確かな神の御手を信じることができることをお示しになるためでした。

そして、主イエスは、十字架で死んだ後、自らおよみがえりになって、死が、すべての終りではないことを、また、神の御手がそれほどに確かなものであることを示してくださったのでした。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」 13-14節。

私たちの人生の最大の決断は、この道を歩むことができるかどうかにかかっているのです。そして、その道を見出すならば、平安と確信をもって、生き、また死んでいくことができるのです。 お祈りをいたします。

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