2020 年 8 月 9 日

・説教 創世記27章30-45節「エサウの恨み」

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2020.08.09

鴨下 直樹

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 さて、今朝はイサクから祝福を与えられたヤコブの物語の続きのところです。弟ヤコブに祝福を奪われた兄エサウはその後、どうしたのかというのが、今日のところです。

 それで、前回あまり丁寧に考えることができなかったので、そもそもイサクが与えた祝福の内容に、もう一度注目してみたいと思います。

27節から29節です。

ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。
「ああ、わが子の香り。
主が祝福された野の香りのようだ。
神がおまえに
天の露と地の肥沃、
豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。
おまえは兄弟たちの主となり、
おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。
おまえを呪う者がのろわれ、
おまえを祝福する者が祝福されるように。」

 内容は、三つのことが言われています。第一は、豊かな収穫の約束です。第二は、近隣諸国との平和な関係の構築です。そして、三番目に書かれているのは、家族内での尊敬と平安と言っていいと思います。そして、この三つの祝福の内容は、こう言い換えることができると思います。仕事の成功、社会との平和な関係、そして、家庭内の平和です。

 弟ヤコブにこのような祝福が与えられたということは、同時に、兄エサウはこれらのことを失ったことになります。

 考えていただきたいのですが、仕事がうまく行かず、社会との関わりが薄く、あるいは悪くて、家庭内でも争いばかりあるとしたら、人はどこに生きがいを見出すことができるでしょう。実に、神の祝福というのは、私たちが生きていくうえで必要不可欠なものであるということが、ここからもよく分かると思います。

 仕事がうまく行かない、それはヤコブのせい。対社会とよい関係が築けない、それもヤコブのせい。家庭内でいざこざがある、それもこれも、みんな弟ヤコブのせいと、常に恨みを抱かなくてはならない生活というのは、とても悲しいものですし、苦しいものです。いや、ヤコブだけではない、祝福をうっかり渡してしまった父イサクを責めたくなる気持ちにもなるでしょうし、弟をかばいだてする母リベカに憎しみを抱くということもあると思うのです。

 あるいは、その後の人生で何度も何度も、なぜ自分はあの時長子の権利を弟にレンズ豆の煮物で譲り渡してしまったのかとか、母親を疑うべきだったかとか、自分を責めたくなることもあったでしょうか。

 あるいは、いや、それもこれも、そもそも神が悪いのだと神に対する敵対的な感情をもつこともあったかもしれません。

 このような反応は、私たちが何か思いがけない出来事に見舞われるときにしてしまいがちな三種類の反応です。他者を責めるのを他罰的思考と言います。自分を責めるのを自罰的思考といいます。そして、いやそもそも誰かが悪いのではなく、このシステムが悪いとか、神が悪いと考えるのを無罰的思考と言います。

 もちろん、これはどれが正しくて、どれが間違いと安易に言うことはできないと思いますが、自分にはどういう傾向があるか知っておくことで、その対処の仕方も、また見えてくるものでもあります。
 このエサウの場合はどうも、他罰的な傾向があると言っていいと思います。

 さて、少し聖書に戻って考えてみたいと思います。 (続きを読む…)

2020 年 8 月 2 日

・説教 創世記27章1-29節「ヤコブの祝福」

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2020.08.02

鴨下 直樹

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 今日の聖書の物語を私たちはどのように聞いたらよいのでしょうか。母と子どもが結託して、年老いて目の見えなくなった父イサクの祝福をだまし取ろうというのです。そもそも、そんな嘘にまみれた祝福に、どんな意味があるのか。そんな気持ちにさえなります。

 私の手元にある聖書注解を見ても、皆それぞれに違う解釈を記しています。それだけこの出来事を正しく理解するのは難解なのだということがよく分かります。ある注解者はここのリベカの考察から、そもそも、女性というのはと、女性批判を始めている人もいるほどです。読んでいて、この文章を書く前に夫婦喧嘩でもしたのだろうかとさえ思えてくるようなものまであるのです。

 ここで、私はあまり難しい議論の紹介をすることに意味はないと思いますので、要点だけお話ししたいと思います。

 この物語を聞いて、私たちはイサクが兄エサウを祝福しようとしていることをまず知ります。そして、兄であるエサウは、父の願いをかなえるために野に出かけます。それを陰でイサクの妻リベカが聞いていて、弟のヤコブにそのことを伝えます。そして、リベカは夫イサクを欺いて、ヤコブが祝福を受け取れるようにする計画を伝えます。ヤコブはこれを聞いてはじめ、尻込みしますが、結果的にはイサクを見事にだまして、祝福の祈りをしてもらったという出来事がここに記されています。

 けれども、よくよく注意深く読んでみますと、いろいろな腑に落ちない出来事がここで行われていることに気づくのです。

 さて、この箇所を正しく理解するカギは、リベカがこの双子の子ども、エサウとヤコブを身ごもった時にまでさかのぼります。
25章の22節と23節にこう書かれています。

子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。

すると主は彼女に言われた。
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから別れ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」

 ここで、リベカは生まれてくる双子のことを主に聞いた時、「兄が弟に仕える」という言葉を聞いていました。問題は、このことをイサクは知っていたのか、知らなかったのかということです。あるいは、どの程度このことを心に留めていたかということが問題になります。
 
 リベカは当然、イサクにこのことを話していただろうと考えることはできると思います。ただ、もしそうだとすると、イサクは主の心が弟を祝福する計画であることを知っていたのに、自分の気持ちを押し通して、兄を祝福しようとしたということになります。もし、そうだとすると、リベカに向けられた非難の目は、イサクに向けられることになります。

 では、もう一人の被害者であるはずのエサウはどうでしょう。エサウは長子の権利をあのレンズ豆の煮物で弟ヤコブに明け渡していたのに、そのことをイサクに告げないで、父から祝福の知らせを聞いた時に、そのことを弟のヤコブに知らせず、こっそり野に出かけて獲物を捕まえて来て、祝福を自分のものにしようとしたことになります。

 つまり、ここに出てくる4人の人物には、それぞれのやましさが満ち溢れていることになるのです。ですから、これは決して美しい物語であるということはできません。

 しかし、もしイサクが、神が弟を祝福しようとしておられる計画をリベカから聞かされていないのだとすると、この出来事はどういうことになるのでしょう。

 リベカは夫の計画を耳にします。父イサクは兄のエサウを祝福しようとしているのです。けれども、リベカは子どもが生まれる前から、主の計画を聞かされているのです。イサクの思いを尊重するのか、神の思いを尊重するのかという決断を、一瞬でしなければなりません。そしてリベカは、後者を選び取りました。

 ただ、これも、今日の箇所だけを読むならそれすらわからないのです。今日のこの27章に書かれている情報だけ読めば、リベカは自分の好きな息子に祝福が与えられるために、この計画を実行したことになります。けれども、このリベカはヤコブを愛していたということも、実は、このリベカが主の言葉を聞いた後の、25章の28節に記されているわけですから、その部分だけを切り抜いて、リベカは自分の好みの息子に祝福を受けさせるために、この計画を実行したと理解するのは、聖書からリベカに対する悪意しか読み取っていないことになります。聖書が伝えたいのは、そういうことではないはずなのです。

 リベカは、子どもが生まれる前に、主に祈って伺いを立てたのです。そして、その結論として、神の計画である弟を祝福しようとしているとの神の言葉を、大事に受け止めたと考えるのが、一番自然なことです。 (続きを読む…)

2020 年 7 月 26 日

・説教 創世記26章17-25節「いのちを支える神」

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2020.07.26

鴨下 直樹

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※今週からライブ配信の時間およびアカウント(ライブチャンネル)が変更になっております。ご注意ください。


 
 創世記26章は、イサクの生涯の物語が短く記されています。そして、今日の箇所は前回の箇所の続きの部分です。

 前回、あまり注意深く話しませんでしたが、12節にこのように書かれています。

イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。

 「イサクはその地に種を蒔いた」のです。飢饉の時です。しかも、父アブラハムは遊牧民でしたから、農夫のようなことはしていませんでした。飢饉のときに、ペリシテの地に主に命じられるまま滞在して、そこで、それまでの羊や牛を飼う、酪農の仕事に加えて、種を蒔いて、農業までやりはじめたと書かれているのです。

 これは、イサクの生きることへの逞しさが描かれていると言えます。そして、これが、イサクなのです。父と同じではないということです。

 立派な父を持つ子どもというのは、父の背中を追い続けているだけではなくて、そこに自分なりの挑戦もする。聖書というのは、そのことを、特別なドラマのようなナレーションは入れていませんが、しっかりと書き記しています。そして、こういう発見をすることが、聖書を読む、面白さでもあります。

 そして、12節の続きの部分では「百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。」と書かれています。イサクは、イサクなりの生き方をして、神の祝福を経験するのです。ここに、主がイサクの生き方を喜んで受け入れておられる姿を見ることができます。

 しかし、聖書はそのような、イサクの成功だけを描いているのではなくて、そんな中でイサクが経験したことにも目を向けています。

 14節と15節にはこう書かれています。

彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。

 ここに、「ペリシテ人は彼をねたんだ」と書かれています。主の祝福は、すべてのことがうまく行くようになったということではなかったようです。確かに、収入の面では目を見張る成果があったのです。しかし、生活のしやすさという視点でみると、イサクは決して、その地で生活しやすかったということではなかったようです。

 というのは、その周りに生活している人々は、神の思いとは関係なく生きているからです。人は、それぞれに意志があります。イサクの周りの人々は、イサクのことを喜んで受け入れてくれるという可能性もあったのでしょうが、実際にはそうはなりませんでした。目の前で成功している人を見ると、どうしても自分と比較するという心が、人の心の中には存在します。そして、そんな中で、人の醜さが出てきてしまうのです。

 問題は、そうなった時にどうするかということです。いろいろな考え方があると思います。徹底的に戦って、自分の意志を貫くということもできたでしょう。あるいは、別の形で仕返しをするという選択もあります。お金を渡して、解決するという方法もあります。

 イサクはそこでどうしたのか、それが、今日の17節からのところです。

「イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。」と17節にあります。このイサクの選択をみなさんがどう思われるか、そこにも、みなさんの考え方が反映すると思いますが、イサクは嫌がらせされている土地を去るという選択をしました。そこにイサクの意外性が描かれていると私は思うのです。

 しかもです。移動した場所で井戸を掘りあてると、またそこにゲラルの人があらわれて、「この水はわれわれのものだ」と言って、争いが起こったと書かれています。そして、どうも、読んでみると、そんなことが二度もあったようで、三度目にようやく、争いもなく、井戸を使うことができるようになったようです。

 この腰の低さと言いましょうか。争わない姿勢が、イサクの選んだ決断だったのです。弱腰と言う事もできるのかもしれません。もっと勇ましい選択もあり得たと思います。しかし、イサクのこの選択は、自分たちのことだけを考えるという考え方ではなくて、自分たちが掘り当てた井戸を、すぐにゆずることができるゆとりを持っていたということです。そして、このイサクの在り方こそ、神の望まれる考え方だったのではないかと思うのです。 (続きを読む…)

2020 年 7 月 19 日

・説教 創世記26章1-16節「二つの試練」

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2020.07.19

鴨下 直樹

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 突然ですが、もしみなさんがあまり会いたくない人にこれから会わないといけない時、どうするでしょうか。苦手な仕事の取引相手、義理の両親とか、あるいは、仕事の同僚や、近所づきあいの中とか、私たちが生活していくうえで、そういう出会いを避けて通ることはできません。

 出たとこ勝負で、不安を抱えたままその日、家を出るという人は少ない気がします。あるいは、家を出かける前にお祈りをして出かけるという方もあるかもしれません。あるいは、これは色んな人と話していると時々耳にするのですが、相手の人の出方を想定しておいて、様々な対処法を考えておいてから出かけるという方もあるようです。備えあれば憂いなしということです。場合によっては、もう前の日から気持ちが沈んでしまって、あれこれ考えて、仕事も手につかなくなるという人もあるかもしれません。

 このような、「心配の先取り」というのは、まだ起こってもいないことを先にイメージして、気分まで落ち込んでしまうというのですから、あまり賢い選択ではない気がするのですが、不安になってしまう気持ちというのは、どうしようもないのかもしれません。

 今日から、また創世記に戻ります。今日のところは、アブラハムの息子であるイサクの物語です。そして、そのイサクもまた、父アブラハムと同じようなことを経験したことが記されている箇所です。

 残念なことですけれども、アブラハムの信仰は、そのまま息子イサクの信仰になるわけではありません。そういう意味で、信仰の継承ということが、いかに難しいことなのかということをここからも考えさせられます。

 親の信仰がいくら優れていたとしても、あるいは親が経験したことだといっても、それはその子どもには直接的には何の関係もないことです。ですから、父アブラハムが経験したことを、息子イサクもまた、同じように経験しなければならなかったわけです。

 「他人のふんどしで相撲をとることはできない」のです。親の信仰は親のもの、自分の信仰は自分のもの、その意味で言えば、クリスチャンの場合、親の七光りというものは存在しないのです。少なくとも神の御前では、です。

 ここで、イサクは父親同様に、飢饉を経験します。父アブラハムはその時、エジプトに逃げて、難を逃れようとしました。そして、彼はその地で美しい妻のために自分が殺されるかもしれないとの危険を覚えて、妻のことを妹であると吹聴して、難を逃れようとした出来事がしるされていました。それと、同じことを、イサクはここで問われているのです。
 さて、ところが、その時に、主はイサクに語り掛けられました。

2節から5節です。

主はイサクに現れて言われた。「エジプトへは下ってはならない。私があなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」

 主なる神は、イサクにこの土地、つまりその時いたペリシテの地に留まるようにイサクに語り掛けられました。エジプトに行ってはいけないというのです。そして、アブラハムと約束された子孫繁栄の約束をここでイサクにも約束してくださったのです。

 このように、イサクはその人生の試練の時に、すぐに神からの約束の言葉をいただいたのでした。あとは、その約束に従うか、自分で判断するかの選択を委ねられているわけです。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 24 日

・説教 創世記25章27-34節「何に価値を見出すか」

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2020.05.24

鴨下 直樹

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 ドイツにいた時のことです。最後の半年間私はある町の教会でインターンとしての実習を受けることになりました。その教会の牧師は日本でも宣教師として働いたことのあるクノッペル先生の教会です。当時、まだ青年だった私はこのクノッペル先生ととても仲がよくて、良い時間を過ごしていましたので、このインターンの期間はとてもよい実習の時となりました。

 この牧師の書斎の机の上にいつもひとつの石ころが置いてありました。遠くから見ているだけでは特に変わった石には見えません。ごつごつした黒っぽい石です。私自身は、石ころにとてもロマンを感じます。これは、どこにあった石なのか、どんな歴史を経て来たのか、何万年前からあるのか、そんな想像力を掻き立てられます。あるとき、私がクノッペル先生に、この石はなんですかと質問してみました。すると、クノッペル先生は顔を輝かせて、まるでその質問を私がするのを待っていたとばかりに、その石について語り始めました。最初に見せてくれたのは、その石の後ろにライトを当てて、よく見るように言われました。すると、なんとその石の後ろに置かれた光を通して見てみると、その石の中に水が溜まっているのが見えるのです。そして、この石の中の水はいつからここに閉じ込められていて、何万年前の水かと想像するとわくわくするという話を聞かせてくれたのです。

 何となく、この人は私と同じタイプの人間なんだと共感できた一瞬でした。もちろん、何の興味もない人からすれば、それはただの石ころでしかないのですが、ちょっと関心を向けると、そこにはとてつもないドラマがあることが分かります。一見、何の変哲もない石に見えても、そこに秘められたドラマに価値を見出すこともできるわけです。

 今日の聖書は、エサウとヤコブの兄弟のある一日の出来事が記されています。読みようによっては、何の意味も感じられないような出来事なのかもしれません。弟が作っていたレンズ豆の煮物を、兄が食べたいと言った時の小さな会話。それだけのことです。けれども、小さな出来事の中に、聖書は実に大きなテーマを取り扱おうとしています。
 それは神の選びと委棄の物語です。「委棄」(いき)という言葉はあまり普段使わない言葉です。委ねられたものを放棄するということです。つまり、この場合、長男としての権利を、エサウは放棄したということです。

 私は五人兄弟の二番目で、長男です。上に姉がおり、下に、弟が二人と、妹が一人います。子どもの頃、まだ小学生の頃のことです。弟は、この話が気に入ったのか、時々神様は弟を祝福するというテーマの話を私にしていました。私は弟になったことがありませんでしたので、兄の持つ価値ということに、あまり興味がありませんでした。もっとも、姉はそうではなかったようで、兄弟げんかがはじまると、その責任を問われるのはいつも姉でしたからずいぶん悩んだのだと思います。そう意味では、私は気楽な二番目の長男だったわけです。けれども、たとえば、おやつを兄弟と分けるというような場合になれば、長男の権利を発動して、大きなものを取ることができましたので、長男のありがたみをそれなりに満喫していたのだと思います。けれども、弟からしてみれば、いつもいい方を兄である私がかっさらって行くわけですから、面白くなかったのでしょう。そんなこともあって、この聖書の物語にことさらに興味を覚えたのかもしれません。

 あるとき、ヤコブがレンズ豆を煮ていると、兄のエサウが疲れて帰ってきます。何日も狩りに出かけてへとへとになって帰って来た。そんなことだったのかもしれません。そして、兄はちょうど料理をしていた弟に、その豆の煮物を欲しいと頼むのです。それは何でもない日常の一コマの出来事です。「いいよ」と言って差し出せばそれで済む話です。ですが、ヤコブはその時にこう言います。

「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」

31節です。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 17 日

・説教 創世記25章19-26節「イサクとリベカの祈り」

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2020.05.17

鴨下 直樹

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 先週の15日、新型コロナウィルス感染拡大防止のための緊急事態宣言の解除が出されました。この岐阜県でも段階的に解除していくという指針がだされています。本当に長い期間に感じられましたが、少しずつ本来の生活を取り戻していくことができるようになればと願っています。

 特に、教会に集って礼拝ができなくなるなどということは、これまでの歴史のなかでもそれほどないことです。ですから、多くの方がまた一緒に礼拝ができる日が来るようにと祈ってこられたと思うのです。

 さて、今日のテーマは「祈り」です。イサクが祈り、またリベカも祈っています。私たちもまた祈ります。このような事態から一日も早く回復できるようにと祈ります。祈りには色々ありますが、ここに記されている祈りは、願い求めの祈りです。
 私たちはお祈りをするという時に、そのほとんどが、この願い求めの祈りだと思います。神様に願い事をする。願い求めの祈りをする。それはごく日常のことです。車に乗るとき、運転が守られるように祈る。仕事に出かける時、玄関先で短く、今日の一日の守りを祈る。家族の健康が支えられるように祈り、あるいは、他の人の病気がいやされるように祈る。私たちの祈りの生活の多くが、そのような願い求めの祈りです。そして、時折、私たちにはどうしても祈りをかなえてほしい願いがでてくることがあります。

 時々、お話しすることですけれども、私が中学3年生の時、毎日窓を開けて、天を見上げながらある祈りをしました。それは、私はあまりにも勉強をしていなくて、入学できそうな公立の高校がありませんでした。先生からも私立の受験をすすめられていましたが、我が家にはそんな経済的な余裕がありません。それで、私は一念発起しまして、その日から、毎日祈りました。「神様、どうか私の頭がよくなるようにしてください。あなたはソロモンに知恵を与えられました。私にもできるはずです。」とかなんとか言う祈りです。毎日、毎日、勉強もしないで、祈り続けました。結果、頭は全然よくなりませんでした。幸いに、何とか県下の工業高校に当時は最高の2.6倍という倍率を乗り越えて、公立ぎりぎりの高校に入ることが出来たのは、神様の憐れみだったのだと思います。なんでそんなに倍率が高かったのかよく分かりませんけれども、たぶん、そこが公立の一番下のラインという事で、受験する人が殺到したのだと思います。

 みなさんにはこんな経験があるでしょうか。私たちが祈るとき、時としてとてもわがままな祈りになってしまうことがある気がします。

 ですが、少し考えてみる必要があると思うのです。たとえば、みなさんが相手は誰でもいいのですが、誰かから、顔を合わせるたびに、「ねぇ、お願い、お願い」と願い事ばかりを頼まれたらどうでしょう。ちょっとうっとうしく感じるのではないでしょうか。そういう人と少し距離を取りたいと思うのではないでしょうか。

 よく、デパートに買い物に出かけますと、小さな子どもがおもちゃ売り場の前で泣いていて、母親が腕をひっぱったり、あるいは子どもを無視したりしている光景を目にすることがあります。私はあの光景を見るのは嫌いではありません。がんばっている親の姿を見て、どこか応援したくなる気持ちがあります。みんなそういうことを通して、願うものは何でも手に入れられるわけではないのだという事を、体験的に学んでいくわけです。

 ところがです。不思議なこともあるものですけれども、こと神様にお願いをするときに、私たちは時折この子どものような祈りをしてしまうことがあるのも事実です。祈ったものが与えられないと、へそを曲げたり、腹を立てたりします。でも、よく考える必要があるのです。親は、自分の子どもにでさえ、すべてのものが手に入れられるわけではないことを教えるのに、神さまは全部何でもいうことを聞いてくれると考えるのは身勝手なことなのだ、ということがそこで明らかにされている。それ以外の何物でもないのではないか。そんなことに気づくことが必要なのだと思うのです。

 さて、今日のところからイサクの物語に移っていきます。そして、聖書はここでイサクを描くのにあたって、まずこう書いています。21節です。

イサクは自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。

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2020 年 5 月 10 日

・説教 創世記25章1-18節「その後のアブラハム」

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2020.05.10

鴨下 直樹

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 20年ほど前のことです。当時私が牧会していた教会に、音楽をやっている20代の女の子が来るようになりました。毎週、教会に集い、よく説教に耳を傾けていました。あるとき、当時私は教団の学生や青年たちの担当していたこともあって、教団の青年の交わりに、その女性を誘いました。同世代の子たちと仲良くなれるといいなと思ったのです。ところが、彼女は、私が青年たちとはしゃいでいる姿の方に驚いたみたいで、終始、周りの青年たちに鴨下はいつもこうなのかと聞いてまわっていたのです。どうも、日曜の私の説教の姿と、青年たちと一緒に騒いでいる姿が重ならないので、そのギャップに驚いていたのです。

 その当時、わたしの普段のイメージを知っている方の教会に、礼拝説教者として呼ばれたことが何度かあったのですが、よく「先生の説教は案外普通なんですね」と言われました。暗に面白い話を期待していたようなのですが、それほどでもないので、がっかりしたようです。私としては何とも申し訳ないのと、どんなのを期待していたんだろうと、そのころはずいぶん悩みました。

 今もそれほど変わっていないのかもしれませんが、どうも私に期待しているものと、実際の私には大きなギャップがあるのかもしれません。今、目の前に人がおりませんので、こういう話を誰もいない会堂でやるのはちょっと勇気がいります。今のは一応笑うところです。

 私に限らずですが、私たちはきっとお互いにそんなところがあるのだと思います。いかがでしょうか。教会に来ている時の自分の姿が、自分のすべてではない。なんとなく、そんなギャップに苦しんでいる方もあるかもしれません。

 人にはいろいろな顔があります。人に見せてもいい姿と、人にはあまり見せたくない姿。そして、この人たちには自分のマイナスの面を見せたくないとか、あるいは、本当の自分を知られたら困るとか、そんな思いがひょっとすると、どこかにあるのかもしれません。

 今日のアブラハムの姿は、まさにそんなアブラハムの新しい一面を垣間見せるものです。というのは、アブラハムにもう一人ケトラという側女(そばめ)がいたというのです。しかも、6人も子どもがいたというのです。ちょっとこの最後にきて耳を疑いたくなる話です。今までのは一体何だったのと言いたくなります。

 私たちは何となく、聖書を順に読んでいきますから、息子のイサクがリベカと結婚したので、その後でアブラハムが再婚したようなイメージで読むのですが、どうもそういうことではないようです。100歳のアブラハムに子どもが生まれるのは難しいと言っているのに、イサクが結婚した後ということは、アブラハムは140歳を超えていることになりますから、そうやって読むのは現実的ではありません。1節に「再び妻を迎えた」とありますが、これは恐らくハガルを妻としたときと同じようにという意味なのでしょう。ですから時期としてはまだサラがいた時のことだと考えた方がよさそうです。ただ、ハガルの子、イシュマエルはアブラハムの子孫とされていませんから、ケトラの子たちも、同様にやがて「東の国に行かせた」と6節にあるように、アブラハムの子孫のようには考えられていなかったということなので、最後の最後まで物語の中心にはなりえないということで、これまで書かれていなかったということなのでしょう。

 こういうアブラハムの一面を、最後の最後に聖書はなぜ書くのかという思いになるのですが、それが聖書です。都合のいい部分だけでなく、その人となりを描くことによって、アブラハムという人物の姿を描き出しているのです。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 3 日

・説教 創世記24章10-67節「ある結婚の形」

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2020.05.03

鴨下 直樹

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 今日の聖書箇所はとても長い箇所です。今は、新型コロナウィルスの対策のために礼拝の時間を短くしていますので、すべての聖書箇所をお読みすることができません。それで、今日は、10節から14節と、終わりの62節から67節をお読みしました。前回、1節から10節のところから説教しましたが、この24章全体が、イサクの結婚について書かれているところです。長い箇所ですから、そのすべてに目をとめることもできません。ご了承ください。

 ここには、ある一つの結婚の形が描き出されています。それは、恋愛結婚でも、お見合い結婚でもありません。イサクの父アブラハムは、自分のしもべであるエリエゼルにイサクの妻となる人を探しに行かせたのです。ですから、イサクからしてみれば、そのしもべに自分の人生を託すしかないわけですが、どうも聖書を読みますと、イサクの好みを聞いたとかそんな記述も見当たりません。しかも、自分の知らないうちに親が自分の結婚相手を決めてしまっているというありさまです。現代では少し考えにくい結婚の形です。

 けれども、私たちは日本でもそうですけれども、昔は、たとえば戦国時代などもそうですが、親同士が結婚相手を決めるということはごく普通に行われていました。ただ、その場合は家同士の格だとか、自分たちの身分を保つための方法という一面があったように思います。

 私たちは、今日この箇所から聖書が結婚について何を語ろうとしているのかということに目を向けてみたいと思います。といいますのは、創世記のこれまでのところでアダムとエバの結婚以外で、二人が結び合わされて結婚するという場面を描いているのは初めてです。ですから、ここに聖書が描いている結婚の一つの形というのが示されているといえると思うのです。

 さて、今日は24章全体なのですが、先ほど10節から14節までのみ言葉を私たちは聞きました。ここに書かれているのは、嫁探しを請け負うことになったしもべエリエゼルの祈りが記されています。しもべの立場からしてみれば、自分の主人であるアブラハムの担い手となるイサクの妻を探さなければならないわけですから責任は重大です。それで、どうしたのかというと、まず祈ったということがここに書かれているわけです。そして、実にこのまず祈るということの重要さを、私たちはもう一度知る必要があるのです。

 この祈りは、「私の主人のために恵みを施してください」という祈りでした。この二人の結婚が神の恵みであるようにという祈りです。何でもないようなことですけれども、ここに結婚の祝福があるのは明らかです。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 26 日

・説教 創世記24章1-9節「イサクへ、次世代へ継がせるもの」

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2020.04.26

鴨下 直樹

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 毎年、4月の第四週には、教団役員研修会が行われています。今年は、この新型コロナウィルスの拡大防止ということで、残念ながら中止になってしまいました。役員研修会は、各教会の長老や執事、役員がみな参加してその年のテーマでしばらくの時ですけれども、様々なテーマの研修の時を持っています。昨年は、今教団の五か年計画で「次世代への献身」というテーマを掲げていることもあって、教団の20代、30代の若い牧師や宣教師たち6名だったでしょうか、それぞれ描いているビジョンについて語ってもらうというテーマでした。

 その中で大垣教会の伊藤牧師がアブラハム世代、イサク世代、ヤコブ世代という言葉を使いまして、自分はイサク世代なんだという話をされました。実際に伊藤牧師は牧師の家庭に生まれた、二代目です。ただ、彼はそういうことではなくて、この同盟福音の第一世代のクリスチャン家族が、クリスチャンホームを形成して、信仰がその子どもたちに受け継がれている。そういう意味で、自分たちの世代のことをイサク世代であると定義して、その後に続く神様の祝福の担い手になりたいのだという話をしてくださいました。そして、先日この伊藤牧師にも三世代目の赤ちゃんが生まれたそうですから、なおさら伊藤牧師は今このことを願っておられるのではないかと思います。

 アブラハムにしても、ヤコブにしてもそうですが、聖書の中でもこの創世記の二人のことは非常に大きく取り上げられています。けれども、その間のイサクというのはあまり大きな出来事がないという印象があるのかもしれません。けれども、イサクがアブラハムの信仰をしっかりと受け継いだから、その信仰がヤコブへ、イスラエルへと受け継がれていったわけです。その意味で、二世代めのイサクの持っている意味が重要だということができると思います。

 今日は、この創世記の24章1-9節までとしました。ここにはまだイサクは出てきません。ここは父アブラハムの最後の仕事といってよいかもしれません。さて、そこで聖書は何といっているか、少し見てみたいと思います。

 1節にこう書かれています。

アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主はあらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。

 ここでアブラハムが老人になっていたと聖書は書いています。サラを葬った時、アブラハムは10歳年上ですから137歳を超えています。ですからこの時アブラハムはそういう年齢になっているわけです。そして、そのくらいの年齢になって「老人になっていた」という書き方をしているのは、とても興味深い思いがします。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 19 日

・説教 創世記22章20節-23章20節「見えるものと見えないものの狭間で」

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2020.04.19

鴨下 直樹

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 今日のところは、言ってみればアブラハムの生涯の結びの部分です。アブラハムはまだ生きていますが、次のところからはイサクの物語へと視点が移っていきます。これまで、神はアブラハムの生涯に常に介入され続けてこられましたが、ここでは主は出てきません。まるで、アブラハム一人が勝手に行動しているかのような印象さえ受けます。

 ここに書かれているのは、22章の終わりの部分は、イサクの妻となるリベカの家族のことと、アブラハムが妻サラのためにお墓を購入したという出来事が記されています。ここでは特に神が介入されてはいないわけですから、こういう箇所から福音を聞き取るというのは、いったいどうしたら良いのだろうかと、普段聖書を読んでいる方は思うかもしれません。

 先週の金曜日から、私が教えております東海聖書神学塾の講義が始まりました。と言いましても、この新型コロナウィルスのための緊急事態宣言が今度は全国に出されることになり、そのために、神学塾の講義は当面の間オンライン講義になりました。実は一週間前に急遽そのように決めたのですが、講師の先生方には高齢の方もおられますし、塾生もみなすぐにオンライン講義に対応できるとは限りません。それで、先週の金曜日に一度だけ名古屋の塾に集まっていただき、一人ずつ丁寧にやり方を説明しまして、さっそくオンライン講義を行うことになりました。

 私が教えているのは、今年は「聖書解釈学」という講義です。先週の金曜日の講義には8名が受講したのですが、半分の塾生は教室に来て、窓を全部開け、ひとりずつ離れたところに座り、マスクを着けての受講です。ところが、残りの半分の4人はすでにオンラインでやりたいということで、私はパソコンを前に置き、半分はパソコンに向かって話し、半分は目の前の受講生に向かってお話しするというちょっとこれまでに経験のない講義をいたしました。目の前の人がした発言は、少し遠いためにパソコンのマイクで音を拾えません。それで、私がもう一度通訳のように言い換えまして、パソコンの前に座っている人に聞こえるように話しなおして、そして、その質問に答えるというちょっと面倒な講義をいたしました。

 今回は、そういう状態でまだ自宅にいる人には私が用意した講義のテキストも届いていませんから、とりあえずある個所の聖書を一緒に読み、ここをどう読むかという話をいたしました。その箇所は、マルコの福音書の主イエスがご自分の郷里に行かれたけれども、みな不信仰で何もできなかったという箇所です。そこも、今日の聖書箇所と同様に、特に明らかに福音的な言葉が語られているわけではありません。そういう箇所からどう福音を聞き取るのかという話をいたしました。その講義の時にも、お話ししたのですが、私たちは聖書を読むときに、どうしても自分の心に訴えてきそうな聖書の言葉を探して、何か自分にいい教訓のようなものはないだろうかと考えて読んでしまうことが多いように思うのです。

 けれども、そうやって読んでいきますと聖書の大切なメッセージを聴き取り損ねることになりかねません。そういう時に気を付けなければならないのは、聖書がこの出来事から何を伝えたいのかということをしっかりと聞き取ることです。そのためには、その前後の文脈を理解しなければなりませんし、ここで言えばアブラハムの人生の結びの記事として、今日のこの箇所はどういう意味をもっているのかということを、ちゃんと聞き取ることが重要になってくるわけです。

 といっても、これは神学校の講義ではありませんので、できるだけ難しい話はしないで、聖書に耳を傾けていきたいと思います。

 たとえば、今日の22章の20節から24節のところですが、これは、前回のイサクを犠牲としてささげるという出来事の後に、この話が書かれているということが大事で、神はアブラハムの信仰をご覧になってイサクを守られたという出来事と、まったく別のところではイサクの妻となるリベカのことを神はちゃんと備えられているということが記されています。何でもない出来事のようなことですけれども、神の配慮と、神の計画というはこのように進められていくのだということが、ここから語られているわけです。

 そして、この23章のサラのお墓のこともそうです。「サラが生きた年数は127年であった」と1節に記されています。そのうち、アブラハムと共に生きたのは、アブラハムがハランを出たのが75歳で、その時にはもうサラは妻となっていますから、結婚生活が何年だったのかということは、聖書の中に書かれていませんから分かりませんが、アブラハムとサラとは10歳年が離れていますので、サラは65歳から127歳まで、ほとんど人生の半分の年月が、アブラハムと共にカナンの地のあたりでの遊牧生活であったことが分かるわけです。今でいえば、定年退職を迎えてから、その後、一緒に旅をして暮らしてきたと考えてもいいかもしれません。それは、もう一つの人生であったと言うことができるのかもしれません。

 その間には、いろんな苦労がありました。たくさんの悲しみを経験してきた夫婦です。アブラハムからしてみれば、本当に自分の苦しみを共に分かち合ってきたわけです。そういう妻サラが死を迎える。この妻との別れというのは、どれほど悲しい出来事であったか分かりません。しかも、その愛する妻を葬る土地さえもアブラハムはまだ手にしてはいないのです。そのことが、アブラハムにとって更なる悲しみになったことは想像にかたくありません。 (続きを読む…)

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