2020 年 4 月 19 日

・説教 創世記22章20節-23章20節「見えるものと見えないものの狭間で」

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2020.04.19

鴨下 直樹

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 今日のところは、言ってみればアブラハムの生涯の結びの部分です。アブラハムはまだ生きていますが、次のところからはイサクの物語へと視点が移っていきます。これまで、神はアブラハムの生涯に常に介入され続けてこられましたが、ここでは主は出てきません。まるで、アブラハム一人が勝手に行動しているかのような印象さえ受けます。

 ここに書かれているのは、22章の終わりの部分は、イサクの妻となるリベカの家族のことと、アブラハムが妻サラのためにお墓を購入したという出来事が記されています。ここでは特に神が介入されてはいないわけですから、こういう箇所から福音を聞き取るというのは、いったいどうしたら良いのだろうかと、普段聖書を読んでいる方は思うかもしれません。

 先週の金曜日から、私が教えております東海聖書神学塾の講義が始まりました。と言いましても、この新型コロナウィルスのための緊急事態宣言が今度は全国に出されることになり、そのために、神学塾の講義は当面の間オンライン講義になりました。実は一週間前に急遽そのように決めたのですが、講師の先生方には高齢の方もおられますし、塾生もみなすぐにオンライン講義に対応できるとは限りません。それで、先週の金曜日に一度だけ名古屋の塾に集まっていただき、一人ずつ丁寧にやり方を説明しまして、さっそくオンライン講義を行うことになりました。

 私が教えているのは、今年は「聖書解釈学」という講義です。先週の金曜日の講義には8名が受講したのですが、半分の塾生は教室に来て、窓を全部開け、ひとりずつ離れたところに座り、マスクを着けての受講です。ところが、残りの半分の4人はすでにオンラインでやりたいということで、私はパソコンを前に置き、半分はパソコンに向かって話し、半分は目の前の受講生に向かってお話しするというちょっとこれまでに経験のない講義をいたしました。目の前の人がした発言は、少し遠いためにパソコンのマイクで音を拾えません。それで、私がもう一度通訳のように言い換えまして、パソコンの前に座っている人に聞こえるように話しなおして、そして、その質問に答えるというちょっと面倒な講義をいたしました。

 今回は、そういう状態でまだ自宅にいる人には私が用意した講義のテキストも届いていませんから、とりあえずある個所の聖書を一緒に読み、ここをどう読むかという話をいたしました。その箇所は、マルコの福音書の主イエスがご自分の郷里に行かれたけれども、みな不信仰で何もできなかったという箇所です。そこも、今日の聖書箇所と同様に、特に明らかに福音的な言葉が語られているわけではありません。そういう箇所からどう福音を聞き取るのかという話をいたしました。その講義の時にも、お話ししたのですが、私たちは聖書を読むときに、どうしても自分の心に訴えてきそうな聖書の言葉を探して、何か自分にいい教訓のようなものはないだろうかと考えて読んでしまうことが多いように思うのです。

 けれども、そうやって読んでいきますと聖書の大切なメッセージを聴き取り損ねることになりかねません。そういう時に気を付けなければならないのは、聖書がこの出来事から何を伝えたいのかということをしっかりと聞き取ることです。そのためには、その前後の文脈を理解しなければなりませんし、ここで言えばアブラハムの人生の結びの記事として、今日のこの箇所はどういう意味をもっているのかということを、ちゃんと聞き取ることが重要になってくるわけです。

 といっても、これは神学校の講義ではありませんので、できるだけ難しい話はしないで、聖書に耳を傾けていきたいと思います。

 たとえば、今日の22章の20節から24節のところですが、これは、前回のイサクを犠牲としてささげるという出来事の後に、この話が書かれているということが大事で、神はアブラハムの信仰をご覧になってイサクを守られたという出来事と、まったく別のところではイサクの妻となるリベカのことを神はちゃんと備えられているということが記されています。何でもない出来事のようなことですけれども、神の配慮と、神の計画というはこのように進められていくのだということが、ここから語られているわけです。

 そして、この23章のサラのお墓のこともそうです。「サラが生きた年数は127年であった」と1節に記されています。そのうち、アブラハムと共に生きたのは、アブラハムがハランを出たのが75歳で、その時にはもうサラは妻となっていますから、結婚生活が何年だったのかということは、聖書の中に書かれていませんから分かりませんが、アブラハムとサラとは10歳年が離れていますので、サラは65歳から127歳まで、ほとんど人生の半分の年月が、アブラハムと共にカナンの地のあたりでの遊牧生活であったことが分かるわけです。今でいえば、定年退職を迎えてから、その後、一緒に旅をして暮らしてきたと考えてもいいかもしれません。それは、もう一つの人生であったと言うことができるのかもしれません。

 その間には、いろんな苦労がありました。たくさんの悲しみを経験してきた夫婦です。アブラハムからしてみれば、本当に自分の苦しみを共に分かち合ってきたわけです。そういう妻サラが死を迎える。この妻との別れというのは、どれほど悲しい出来事であったか分かりません。しかも、その愛する妻を葬る土地さえもアブラハムはまだ手にしてはいないのです。そのことが、アブラハムにとって更なる悲しみになったことは想像にかたくありません。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 5 日

・説教 創世記22章1-24節「主に試みられる時」

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2020.04.05

鴨下 直樹

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 今日は少しいつもと様子が違います。新型コロナウィルスのためにほとんどの教会の方々は自宅で映像や音声や説教原稿をみながら礼拝を行っていただいています。岐阜県では当面の間、不要不急の外出自粛要請が出されました。いつも教会堂に集いながら礼拝をしておられるので、戸惑いもあるかもしれません。それぞれの場所でともに主を見上げてまいりましょう。

 今日は「棕櫚の主日」と呼ばれる主の日です。そして、今週から受難週を迎えます。主イエスが十字架の苦しみを受けるこの一週間を私たちは過ごそうとしています。私たちは、このレントの期間、文字通り苦しみを心に留めて過ごしてまいりました。新型コロナウィルスに感染した人の数は世界では96万人を超え、世界の半数にあたる人々が今、外出を制限されています。そして、それはこの岐阜市にもやってきました。そのため、今日はみなさんに自宅で礼拝をしていただいて、インターネットを用いて礼拝をしていただくようにお願いしています。とても残念なことですけれども、仕方がありません。この世界が今まさに試練を受けていると言っていい状況にあります。

 今日、私たちに与えられているみ言葉はまさに、この「試練」の物語です。

これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。

と今日のみ言葉は始まっています。1節です。

 「試練」と聞くと、私たちは「幸せ」の反対にあるものという理解がどこかであります。幸せを壊すものが試練であると考えるのです。確かに、試練にはそのような性質があると言えます。

 地震や津波のような自然災害、あるいは今回のようなはやり病、伝染病といったものは自然災害などと言われます。私たちはこのような試練を経験する時に、まさに信仰が問われている思いになります。そのような試練がやってくると私たちはどこかで神が、私たちから平和を奪ってしまったような、何か神に見捨てられているような思いになるのではないでしょうか。

 アブラハムのことを考えてみたいと思います。アブラハムは今や、約束の子どもが与えられ、ペリシテからの脅威もなくなり、井戸のあるベエル・シェバの土地で平穏な暮らしをすることができるようになりました。それは、まるで絵にかいたような幸せなひと時であったに違いありませんでした。

「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。」と1節に書かれています。

「試練」によって、アブラハムに訪れていた平和が、幸せが打ち破られた。しかも、神によって、この出来事は起こったと、ここに書かれているのです。主なる神はアブラハムに語りかけます。2節です。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

 その日は突然やってきました。幸せをかみしめていたであろうアブラハムに、主なる神は突然、難題を突き付けたのです。しかも、その試練とは、アブラハムが100歳になってようやく与えられた約束の子である息子イサクを、全焼のささげものとして献げなさいという命令です。

 先に生まれた女奴隷ハガルの子イシュマエルは追放してしまっています。そんな中で、あろうことか、約束の子であるイサクまで献げるようにとの命令なのです。これはどういうことなのでしょうか。考えてみれば、神のこれまでの語りかけと、この命令とは矛盾しています。もし、イサクを殺してしまえば神の約束それ自体が無効となってしまうのです。しかも、息子を全焼のいけにえとして殺してしまうということも、理解できることではありません。この神からの要求、これこそが、ここでアブラハムに問われていることでした。

 私たちはどこかでこう考えます。信仰によって幸福感が得られ、不信仰に陥ると不幸になって、試練が訪れるのだと。しかし、それは本当なのでしょうか。私たちは、この受難週を迎えているこの時、神が与えておられる試練の意味をもう一度考えるように促されています。そして、今、世界が抱えている新型コロナウィルスの蔓延という試練が、信仰にとってどういう意味を持つのかということを考えさせられているのです。 (続きを読む…)

2020 年 3 月 29 日

・説教 創世記21章22-34節「共におられる神と生きて」

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2020.03.29

鴨下 直樹

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 私たちは今、アブラハムの人生を目の当たりにしながら、主の御言葉を聞き続けています。言ってみれば、アブラハムの伝記のような性質がここにはあるといえます。多くの人の伝記、特に偉人伝などと呼ばれる物語には、だいたい最後に大きなクライマックスが準備されています。アブラハムの人生もそうです。まだ、この後最大の出来事が待ち受けています。

 今、NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」をこの地域の人たちは特に楽しんで見ているようで、明智光秀というこの戦国時代の最大のヒール役を演じた人物を、このドラマでは明智光秀なりの生き様や人との関わりを描きながら、これまであまり描かれていなかった側面からもう一度明智光秀という人となりを描こうとしています。まだ、始まったばかりということもありますが、ほとんど創作なのではないかという出来事ばかりが続いて描かれています。明智光秀がこの期間どのようにしていたのか、あまり記録がないようです。このドラマを見ていない方はあまり興味のない方もあると思いますが、お許しください。今日の聖書と何の関係があるのかと思うかもしれません。実際ほとんど関係ないのですが、大きな出来事と大きな出来事の間には、陰に埋もれてしまうような幕間劇とでもいうような小さな出来事がたくさんあります。そして、そういう小さなエピソードが、その人物の姿をよく描き出しているものです。

 今日の箇所の出来事もアブラハムの生涯からしてみれば、省いてもほとんど何の影響もないような小さなエピソードのように感じます。けれども、この出来事は、確かに出来事としては小さな出来事のように映りますが、「ベエル・シェバ」という地名として、後々まで人の心に留められる地名がどうして生まれたのかということを説明する出来事です。そして、この小さな出来事の持つ意味は、決して小さくはないのだということを、今日はみなさんに知っていただきたいのです。

 今日の聖書の最後にこんな言葉が書かれています。34節です。

アブラハムは長い間、ペリシテ人の地に寄留した。

 実は、この言葉はちょっとここに入る文章としてはふさわしくないのです。これまで、ここに出てきているアビメレクはゲラルの王と記されていました。ゲラルというのは、後にペリシテ人の土地の中でも重要な場所となるところです。新改訳2017の後ろにあります地図の4の下の方に、「ベエル・シェバ」が出てきます。その左上に「ツィクラグ」と書かれた地名が出てきます。そのあたりが「ゲラル」です。このツィクラグという名の土地はダビデの時代にペリシテの王アキシュからダビデに与えられた土地です。

 けれども、この創世記の時代にはペリシテ人という言い方はまだしていないのです。この箇所からだんだんとゲラルという言い方ではなくて、ペリシテ人という言い方が出てくるようになってきます。そして、なぜ、ここでアブラハムがペリシテの地に住むようになったと書かれているかということですが、ペリシテというのは、みなさんもご存じの通り、イスラエル人とはライバル関係になるような民族です。けれども、アブラハムは後に敵とされるようなペリシテとも、一緒に生きたのだということが、この21章の結びで描かれているのです。そして、そのことは、決して小さくない意味を持っているのです。

 今日のところが、このゲラルの王であるアビメレクと、軍団の長であるピコルがアブラハムを訪ねてくるところから始まっています。言ってみれば、信長と明智光秀が出会ったようなものでしょうか。明智光秀がアブラハムだとすると、ちょっと言い過ぎかもしれませんが・・・。アビメレクの方は、一地方の王です。アブラハムは一部族の族長、しかも羊飼いをしているような遊牧民です。その差は歴然としているのですが、アビメレクにしてみれば、この前、アブラハムの妻サラを、アブラハムが妹だと言ったので、妻に迎え入れるという出来事の後です。今風の言い方をしれば、アブラハムに貸しが一つあるわけです。それで、盟約を結ぼうという提案を持ち掛けに来ているのです。 (続きを読む…)

2020 年 3 月 22 日

・説教 創世記21章8-21節「エル・ロイ」

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2020.03.22

鴨下 直樹

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 今、世界中で蔓延している新型コロナウィルスのために、世界中で大きな混乱を引き起こしています。フランスなどでは100人以上集まる集会は禁止されました。そういうこともあって欧米では実際にかなりの数の教会が教会堂で礼拝をすることが困難な状況を迎えています。外出禁止令が出された地域も多くあり、アメリカやイタリア、スペイン、フランス、ドイツなどでも非常に多くの人々がこの病に感染し、多くの死者が出始めています。このかつてないほどの危機的な状況のために非常事態宣言が出されているのです。

 そのために、世界中の経済活動が停滞し、収入がなくなってしまう人たちがたくさん出ています。それでも、病気を広げないために自宅に留まるということは、どれほど厳しい苦渋の決断を迫られるかわかりません。

 苦渋の決断。それは、一つの決断をしたとしても、そこに苦しみや苦さが残ることを指している言葉です。そして、私たちはこの朝、ここに集まって聖書のみ言葉を聴こうとしています。今日、私たちに与えられているみ言葉は、アブラハムが苦渋の決断を迫られているところです。

 アブラハムはここで苦渋の決断を迫られています。なぜなのでしょうか。アブラハムとサラに与えられた約束の子、イサクはここで乳離れの祝いを迎えています。3歳から4歳くらいではないかと思われています。その乳離れの祝いの時に、その出来事は起こりました。もう一人の息子、この時には少年に育ったイシュマエルが、まだ乳離れしたばかりの幼子イサクをからかっていたのです。子どものしたことだから、気にしないということもできたと思いますが、妻のサラは気にしないでおくことはできませんでした。実際、この「からかっているのを見た」という翻訳のところに注が付いていまして、「あるいは、笑っている」と書かれています。協会共同訳では「遊び戯れているのを見て」と訳しています。ほほえましい光景にみることもできるわけですが、見方によっては「からかっているようにも見える」ということが、翻訳からもうかがえます。実際に、サラはその光景をほほえましくは見られなかったようです。それで、サラはアブラハムに言ったのです。「この女奴隷とその子を追い出してください。」と。

 常識的に判断すれば、そんなことはできないことです。サラに我慢するように話をするのが大人としての判断なのだということを、私たちは知っています。しかし、妻サラがそう言うのです。世の男性と同じように、と言っていいかわかりませんが、アブラハムとしては、その声を無視することはできませんでした。

 このことはいろんな考え方ができると思います。「そもそも、ハガルから子どもをもうけるように勧めたのはサラではないか。自分の言葉の責任を果たすべきだ」と言うこともアブラハムにはできたはずなのです。

 アブラハムはどうしたのでしょうか。続く11節にこう書かれています。

そのことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。

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2020 年 3 月 15 日

・説教 創世記21章1-7節「イサクによる笑い」

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2020.03.15

鴨下 直樹

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 今、私たちはレント(受難節)を迎えています。主イエスがエルサレムに入られてから十字架にかけられて殺されるまでの一週間の出来事を覚え、教会は40日間という期間、主イエスの苦しみに思いを寄せながらこの期間を過ごそうというのです。その期間は好きな肉を断つということで、その前に謝肉祭(カーニバル)をして、たらふく肉を食べておこうというお祭りまで行われるようになりました。レントは自分を喜ばせることはしないという期間でもあるわけです。ですから、どこかで今日のテーマである「笑い」は、あまりそぐわないような気もします。

 「レント」が連想させるものが、「苦しみ」や「試練」であるとすれば、「笑い」を連想させるのは「喜び」や「幸福」です。それは本来相反するものです。けれども、苦しみや試練の先にあるものが「笑い」であり、「喜び」であるはずです。

 実際にアブラハムとサラは、40日間どころではない、25年もの間、神から子どもが与えられる約束をいただきながら、子どもがいない悲しみを味わっていました。けれども、今ここに、アブラハムは試練を乗り越えた先にある喜び、即ち、神から与えられた笑いを心から味わう時が与えられているのです。

 1節にこうあります。

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。

 「主は約束したとおりに」「主は告げたとおりに」と書かれています。ここには「言う」「告げる」という言葉が使われています。そして、それを受けて「顧みられた」「行われた」という動詞が続いています。神が語られた言葉と、それを受けて起こった出来事が、ここで一つに結びついているのです。特に、この「顧みる」という言葉は、ヘブル語で「パーカード」と言いますが、神の救いの御業を表す言葉です。例えば、イスラエルがエジプトの奴隷から解放された時に、この「顧みる」という言葉が使われています。主なる神が心を向けてくださって、事を行ってくださるということです。

 そして、この言葉にはもう一つの意味もあります。というのは、この言葉は「訪問する」という意味の言葉でもあるのです。神が言葉を語られるときは、ただ口に出して相手に言葉を投げかけるということではなくて、その言葉がそのとおりになるように訪問してくださる、訪れてくださるという意味があるのです。このように、神が語られた言葉は、必ず実現するのです。
 
そして、その言葉のとおりの出来事が起こります。

サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ

と続く2節に記されています。

 神が語られた言葉は、そのまま出来事となるのです。この箇所は、まるでクリスマスの出来事と似ています。フランスのヴェルダンにある教会には、片方に降誕の出来事が描かれていて、もう片方には、サラがイサクを産んだ場面が描かれている祭壇画があるのだそうです。

 ちょっと珍しい祭壇画ですが、このイサクの誕生の出来事を正しく理解していると言えます。というのは、この時、サラから生まれたイサクは、アブラハムの子孫の第一子です。先に生まれたイシュマエルはアブラハムの子孫として数えられていません。このイサクは、直接の神からの約束の担い手であり、アブラハムに約束された神の救いの計画は、イサクから始まるのです。それは、新約聖書で語られているマリアから生まれた「主イエスのひな型」であったと言えるのです。

 私たちの多くは、この時に生まれたイサクのことをあまりよく知りません。先日、T兄が神学塾に入塾するための試験を受けました。その試験の中に、聖書の中に出てくる人物について二行で短く説明するという問題が出されることがあります。先日のテストにイサクという問題が出たかどうか、私は覚えていませんが、イサクについて書きなさいと言われたらみなさんはどんなことが書けるでしょうか。アブラハムとサラの子ども、イサクの子どもはエサウとヤコブ。そのくらいのことは書けるかもしれません。けれども、それは両親のことと子どものことを答えただけで、イサクの人となりについてはまるで答えていないのと同じです。 (続きを読む…)

2020 年 3 月 8 日

・説教 創世記20章1-18節「アブラハム再び・・・」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:03

2020.03.08

鴨下 直樹

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 今日の説教題を「アブラハム再び・・・」としました。「・・・」の中に何を入れるか、色々な想像力が働くかもしれません。「アブラハム再び、ブラックアブラハムに」。そんなタイトルにしてもよかったのかもしれません。私が好きな映画で、スターウォーズというのが、ありますが、そのイメージ言えば「ダークサイドに堕ちたアブラハム」という言い方もできるかもしれません。ちょっとマンガのような描写ですが、この創世記は、ホワイトアブラハムとブラックアブラハムという、良いイメージと悪いイメージが交互に登場してくるような書き方をわざとしているのではないかと感じるほどです。

 と言いますのは、この20章で、アブラハムが12章で犯した失敗をもう一度このタイミングで犯してしまうというのは、少し考えにくいのです。18章に出てくるのはホワイトアブラハムですが、ロトとソドムの人々の救いを求めて祈る美しい信仰者の姿です。そして、その際に、主とお会いしながら、来年の今ごろサラから子どもが生まれるというお告げを、アブラハムにも、サラにも受けているということが書かれているのです。ひょっとすると、サラのお腹は大きくなっていたのでないかという想像すらできる、そんなタイミングで、自分の妻であるサラをカナンの君主であるアビメレクに嫁がせたというのです。

 サラはこの時90歳ということになります。もちろん90歳でも美しい方もあると思います。アビメレクの好みがそういう女性であったということもあるかもしれません。けれども、一般的にはこのタイミングは考えにくいわけです。1節にアブラハムたちが「ゲラルに寄留していたとき」とあります。このゲラルという町は、ここではカナン人と書かれていますが、後のペリシテ人と呼ばれる民族の首都となった町です。そういう町の王ですから、アブラハムが恐れを覚えたとしても理解はできます。しかし、時間的な順序としては少し考えにくいタイミングです。

 ただ、そういうタイミングであえてこの出来事をここに置いているわけですから、そこには聖書の意図があるはずなのです。そして、その意図というが、ここを読み進めていくと見えてくるようになります。

 まず、ここから見えてくるのは、アブラハムの弱さです。かつて12章でエジプトに赴いた時に、自らのいのちを守る決断として、妻のサラを妹ということにしたのです。そのときアブラハムは75歳ですから、このタイミングでいえばそれから25年たっていることになります。そういう長い間、主と共に歩んできたのにも関わらず、アブラハムの主への信頼が少しも深まっていないかのような印象を受けるのです。自分の身は自分で守らなければならないというアブラハムの姿勢がここでも明らかになっているのです。

 これは、私たちも経験のあることでしょう。自分の弱さというのは、時間がたってもなかなか乗り越えることができないことを、私たちは誰もが経験しているのではないでしょうか。

 お金に弱い、異性に弱い、自己防衛本能が強い、色々な弱さが私たちにはあります。つい陰口を言ってしまう。自分の方が力がある、上だと示したくなる。挙げればきりがありませんが、人にはそういう弱さがあるのです。アブラハムの弱さは、美しい妻でした。妻が美しすぎるために、自分のいのちが狙われるかもしれないという恐怖をいつも持っていたということになります。それが、妻が90歳になってもなおそうであったということになるのだとすれば、一方で妻は嬉しかったのかもしれません。けれども、それは同時にアビメレクに引き渡されてしまった時点で、そのアブラハムの思いは結局自分が可愛いだけのことではないかということにもなるわけです。

 ここにきて、まだアブラハムの中には乗り越えられていない弱さが存在していることを、聖書はこうして描き出しているのです。 (続きを読む…)

2020 年 3 月 1 日

・説教 創世記19章1-38節「うしろを振り返ることなく」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:59

2020.03.01

鴨下 直樹

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 ここ連日、テレビをつけると新型コロナウィルスのニュースで持ちきりです。もう、誰もが専門家になったのではないかと言えるほどに、このニュースの話ばかりが取り沙汰されています。実に多くの人がパニックになっていて、トイレットペーパーもなくなるところが出ているとかいう報道を耳にしています。多くの人が疑心暗鬼になっている姿がここからもよく分かります。

 そういう状況の中で、今日私たちは創世記19章のみ言葉に耳を傾けようとしています。 この物語の中心的な主題は神の裁きです。予期せぬ状況が目の前に迫ったときに、人はどう行動するのか。そのことがここで描き出されています。

 ここで神に滅ぼされたソドムとゴモラがどれほど罪深いのか、それは、この箇所を読むと明らかです。この町は道徳的に腐敗していたのです。今日ではさほど罪悪感を感じることもなくなっている、さまざまな形の性的な不道徳がここで明らかになっています。そして、それを神はそのまま見過ごしにすることのできない罪であることをここで明らかにされています。

 このソドムの腐敗ぶりは、わざわざこの聖書を丁寧に説明する必要もないほど明らかです。ここで、神が遣わされた二人の御使いは、ただ決然と事に当たっているのです。そこには、何の弁解の余地もなく、それらの人々が憐れみの対象にすら、もはやなっていないという事実を、私たちはどのように受け止めたらよいのでしょうか。

 これらの不道徳を悔い改めることがないならば、それは罪としてそのまま残る。そして、その罪のために神はこの町を滅ぼされるという事実に、私たちは目を向ける必要があるのです。このような神の裁きを目の当たりにするときに、私たちは神を畏れます。しかし、ほとんど、私たちのこの世界は、この神を軽んじ、神に対する畏れを抱くこともないまま、罪の上にあぐらをかいて生きてしまっているのです。目の前に危機的な状況がなければ普段は平和で、本当に考えなければならないことから目を背けて生きているのが、私たちの日常なのかもしれません。

 今、世界中がこの新型コロナウィルスのためにほとんどパニック状態に陥ってしまっています。カトリック教会は北海道と東京で礼拝を取りやめにしたというニュースも入っています。また、礼拝中止を検討する教会も出てきています。

 確かに、政府の要請ですべての学校を休校にするように呼びかけているわけですから、このような反応は一方では理解できます。もし教会から感染が拡大してしまうならば社会からどれほど大きな攻撃が加えられるか分からないからです。人を守るための決断のために、全国の小中高の学校がひと月にわたって授業を止めて、自宅待機にするというのは、大きな決断であったと思います。そういう世の流れの中で、教会も同様に対応する。それは一つの社会に対する責任の取り方です。

 ただ、そういう中で忘れてはならないのは、何よりも大切なことは、どんな事態に陥ったとしても、神を畏れる心を軽んじることはできないのだということです。例えばこの教会から被害が出て、実質建物が閉じられるようなことが起こったとしても、私たちは神への礼拝をやめるという決断はないのです。礼拝を取りやめている教会でも恐らく、形を変えて礼拝をしているのだと思います。たとえ場所や形を変えたとしても、神を神として礼拝をささげることが何よりも大切なことです。目の前に起こっている現象だけ見て、事の本質を忘れてしまっているのだとすると、本当のことが見えなくなってしまうのです。 (続きを読む…)

2020 年 2 月 16 日

・説教 創世記18章16-33節「主の前に立つアブラハム」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 14:08

2020.02.16

鴨下 直樹

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 私たちはここ二週間ほどでしょうか、テレビをつければ新型コロウィルスのニュースにくぎ付けになっています。ついに、日本人の死者が出たとか、感染ルートが分からない人が感染したという、もうこの新しい病が身近に差し迫っているというような危機感を煽る報道に、私たち自身もどのような身の振り方をすればいいのかと不安になります。

 こういう報道をテレビなどで見ていますと、ふとこういう考えが心に浮かんできます。神様はどうしてこういうことをゆるされているのかと。もし神のゆるしがあって、この新しい病気で次々に多くの人の命が奪われているということならば、きっとこれは神の裁きなのではないか。そんな考えが私たちの頭の中に出てくるわけです。信仰生活の長い歩みの人は、こう考え方からある程度自由になっている人もいると思いますが、どうして神様はこんなことをなさるのだろうかという思いを抱かれる方もあると思うのです。

 もちろん、それは今回の病気にとどまりません。地震や、災害に見舞われるとき、不慮の事故や、災いを経験するとき、私たちの心の中に「神よ、どうして」という疑問が出てくることがあります。今日の聖書は、まさにこの神の裁きをどのように理解するかということと深くかかわってくる箇所と言えます。

 と言いますのは、ここで聖書は、神がロトたちの住んでいるソドムとゴモラの町を滅ぼそうとしておられるというのです。この箇所は神の裁きを語る箇所です。

 ここで聖書が神の裁きをどのように書いているのか、まず、注意深くこのところに目を向けていきたいと思いますが、この17節でこう書かれています。

主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」

 ここでソドムの町が裁かれることを、神がアブラハムに相談するべきではないかということを考えておられる、と書かれています。神様の心の中のことが書かれているなんて、ちょっと珍しい箇所です。それは18節以下にも続いています。

アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。

 とそのように記されています。つまり、これから起こるソドムとゴモラの神のさばきの計画を、アブラハムが知ることは、神がアブラハムに与えた約束が実現するためにどうしても必要なのだと言っているわけです。そして、ここで一番大事なことは何かというと、このことで、アブラハムやアブラハムの一族が「主の道を知り、正義と公正を行うようになるため」と言っています。 (続きを読む…)

2020 年 2 月 9 日

・説教 創世記18章1-15節「主にとって不可能なこと?」

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2020.02.09

鴨下 直樹

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 前回の17章でアブラハムは99歳、妻のサラは89歳。この時に主なる神はアブラハムに、来年の今ごろサラから子どもが生まれると語られました。今日の箇所はその続きと言いますか、今度はアブラハムだけでなくサラにもこの知らせが伝えられたことが書かれています。

 この頃、アブラハムたちはマムレの樫の木のふもとで暮らしています。ここに住み始めてもう長いこと時間がたっています。ロトと別れた時から、聖書で言えば13章の時から、アブラハムはこのマムレの樫の木のところで生活しています。このマムレというのは14章でアブラハムがエラムの王ケドルラオメルの連合軍と戦った時に、アブラハムと盟約を結んでいた人物で、一緒に戦って勝利を得ています。つまり、アブラハムは神から土地を与えられる約束をいただいていても、なおも、マムレの所有する土地を間借りするような状態で、ここまで過ごしていたということです。

 アブラハムにとってマムレの樫の木のふもとはもう住み慣れた地です。そこで落ち着いた生活をしていたところで、3人の旅人が日の暑い時間帯に、アブラハムの天幕のそばを通りかかったのです。

 この三人の旅人は主なる神ご自身でした。「主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた」と1節に書かれています。これは、主がわざわざアブラハムに会われるために、出向いて行かれたということです。17章と内容が同じですから、創世記では時々そのような書き方になりますが、アブラハムに語られた出来事と、サラにも語られたというように書き方を分けて書いているのかもしれません。それは、あのクリスマスの出来事の時と同じように、マリヤに御使いが受胎告知されただけでなくて、夫のヨセフにも語りかけられたことと似ています。

 主はアブラハムに寄り添われて、その信仰を導かれるように、ここではサラに対しても同じように、サラの信仰をも導いてくださるお方なのです。

 しかし、もちろん、アブラハムは主がわざわざ自分に会うためにこられていることは知らなかったはずです。アブラハムは、普段からこのように旅人を持てなしていたのか、あるいは、この旅人からただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、はっきりしたことは書かれておりませんから分かりませんけれども、精一杯のおもてなしをいたします。

 今年、オリンピックがあります。その時に「お・も・て・な・し」という言葉が日本の心を表す言葉として紹介されていましたが、アブラハムのおもてなしは、おもてなし文化のあるという私たちの予想を超えるおもてなしです。

 少し余談ですけれども、日本に毎年ドイツから一年の短期宣教師たちがもう何十年も前から来ていますけれども、彼らに聞くと日本で家に招かれたことがないと口をそろえて言います。そんなことを考えると、私たちは「おもてなし」という文化を持っていると言えるのかどうか、怪しい気がしています。人を自分の家に迎えるという気持ちよりも、掃除がめんどくさいとか、きっと他の人がやるからいいとか、そこまで親しくないとか考えるわけで、相手の気持ちよりも、自分の事情が優先されているのではないかということを考えさせられます。ところが、アブラハムはそうではありませんでした。

 まず、「三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作りなさい」と6節にあります。先週、「55プラス」の集会に28名もの方々が参加されたそうです。そこではいつもマレーネ先生がパン菓子というか、ケーキを焼いてくださっています。これは本当におもてなしの心だと思います。それが魅力でたくさんの近隣の方々が教会を訪ねてくれているのだと思いますが、30人分のケーキを焼くのに必要な小麦粉はせいぜい2リットルくらいでしょうか?焼いたこともない私が偉そうに言うことではありませんが、23リットルものケーキを焼かされたサラはかなり大変であったことは想像するに難しくありません。

 それだけではなくて、子牛を一頭屠ります。もう大盤振る舞いです。それに凝乳と牛乳を準備します。「凝乳」というのは、チーズかヨーグルトかと思いますが、ドイツには「クワーク」というパンに載せて食べるヨーグルトとチーズの間みたいなのがあります。そんなイメージでしょうか。ドイツのルター訳ではどうなっているかと思ってみてみたら、「バターとミルク」となっていました。パンにあわせるものですから、バターの方が合いそうな気がしますが、どうだったのでしょうか。

 サラはパンの準備、しもべは子牛をほふって大忙し、アブラハムも8節には「彼自身は木の下で給仕をしていた」とありますから、もう一族上げての「お・も・て・な・し」です。 (続きを読む…)

2020 年 2 月 2 日

・説教 創世記17章15-27節「ノー! アブラハム」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:18

2020.02.02

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 みなさんが誰かに話を聞いてもらいたくて一所懸命話をする。ところが、聞いているはずの相手が、鼻で笑っている。そんな場面が私たちの日常でも時折起こるでしょうか。ちゃんと自分の話を聞いてくれていないと思ったとたん、自分が今話した内容が軽く扱われたような気がして空しくなる。悲しくなる。がっかりする。そんな経験をしたことが誰しもあると思います。

 この創世記、17章で主はアブラハムの反応も待たずに、まくし立てるかのように話し続けておられます。アブラハムが多くの国民の父となるという契約を結ぶこと。そのために名前をアブラムからアブラハムに変えること。そして、割礼を施すこと。そこまでが前回の箇所です。主の言葉はそれでとぎれることなく、今度は妻サライの名前もサライからサラに変えるようにと語り続けます。もう、一方的です。99歳になったアブラハムに、神はここぞとばかりに語りかけておられるのです。ここに、主なる神の情熱的なお姿を見ることができます。

 しかも22節を読みますとこう書かれています。

神はアブラハムと語り終えると、彼のもとから上って行かれた。

 えっ? 上って行かれたってことは、下りてこられていたってこと? という疑問符が付きますが、そういうことなのでしょう。神は天から降りてこられていて、アブラハムと顔を合わせて語っておられるのです。それが、どういう姿であったのか、人としての姿をおとりになったのか、御使いのお姿なのか、それとも、光の中から、あるいはモーセの時のように火の中から語りかけられたのかは、書かれていないので分かりません。けれども、この書き方の中に、神のただならぬ情熱のようなものを感じ取ることができます。

 前のめりになって語りかけておられる神。そう表現してもいいと思います。ここで主は満を持して、アブラハムに語っておられるのです。

 一方、アブラハムの方はどうかというと、前回もお話ししました、イシュマエルの出来事の後、13年もの間、何の神からの働きかけもない時間を過ごしています。もっといえば、ハガルとイシュマエルの出来事を通して、アブラハムは神からの直接の働きかけはないわけですから、もっと長い間、あの星空談義の後からここまでの間、アブラハムは神からの御声を聞いたことは書かれておりません。

 忘れたこところに突然現れて、何だかとてもいいことをたくさん話してくれるけれども、こっちの気持ちはどうなのだとアブラハムが思っていたとしても不思議ではありません。

 主なる神が前のめりになっておられるのとは正反対に、アブラハムは引いてしまっています。この主の語りかけのことばをアブラハムは受け止められません。
17節

アブラハムはひれ伏して、笑った。

 ここにそのように記されています。悲しい響きです。アブラハムに一所懸命に語りかけておられる主が、この時どのような思いになられたことでしょうか。神に対してこの態度をとるとは、とても畏れ多いことです。主が、前のめりになって語っておられるのに、アブラハムの心は冷めてしまっているのです。受け止められないのです。笑うしかないのです。

 これが、この17章で描かれているアブラハムの最初の反応です。 (続きを読む…)

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