2021 年 2 月 21 日

・説教 詩篇119篇33-40節「ゴールを目指して」

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2021.02.21

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今朝は、予定されていた説教題を変えまして「ゴールを目指して」としました。何やら、サッカーでもしそうなタイトルですが、私たちの人生のゴールという意味で、ゴールとしました。

 ジョン・バニヤンが書いた『天路歴程』という物語があります。読んだことのある方がおられるでしょうか。クリスチャンの信仰の歩みをテーマにした旅の物語です。この物語は、滅びの町に住んでいる背中に大きな荷物を背負ったクリスチャンという名前の主人公の物語です。ある時、クリスチャンが読み物を読んでいて、いずれこの世界は天から火が降って来て滅んでしまうと知り、どうしたら救われるのかと、救いを求めて旅をする物語です。途中、エバンジェリスト(福音宣教者)という名前の人と出会い、遠くに見える光のところに小さな門があるから、そこに向かって進むように教えられます。そして、その天の都の門にたどり着くまでの旅が記されているのですが、途中でさまざまな人達と出会い、何度も道を踏み外しては危険な道を歩んでいく、そんなクリスチャンの冒険物語です。教会の図書にもありますので、是非、読んでみてほしい一冊です。

 今日の詩篇を読んでいますと、まさにこの天路歴程の物語を思い起こすような書き方がなされています。
33節と34節にこう記されています。

よ あなたのおきての道を教えてください。
そうすれば 私はそれを終わりまで守ります。
私に悟らせてください。
私があなたのみおしえから目を離さず
心を尽くしてそれを守るために。

 詩篇119篇は「道」という言葉がほとんどどの段落にも出てきます。ここでは「あなたのおきての道」という言葉が出てきます。その道はどこに続いているのか、祈り手は、その道を「終わりまで守ります」と言っています。「終わりまで」ということは、死に至る時までその道は続いているということです。自分の人生の歩みをかけて、その道を進んで行くというのです。なぜなら、その先にゴールがあると信じているからです。それが、天の都の門です。そして、そのゴールを目指して主が歩ませてくださる道が、自分の人生をかけて進んでゆくのにふさわしい道だと信じているのです。

 その道を進むために「あなたのみおしえから目を離さず」とここで言っています。この道を進む先にあるゴールを目指して進んで行くのです。

 そのゴールを目指して進むときに、目を離さずに、しっかりとゴールの方向、進むべき方向を見据えていることが大切です。

 問題は、「目を離さず」とあるのですが、私たちはすぐに目を離してしまって、どこに向かって行くのかが分からなくなってしまうことです。

 天路歴程の物語も、さまざまな登場人物が登場します。最初に出てくるのは、カタクナ氏と、イイカゲン氏です。その他にもヨワタリ氏、オキテマモル、カタチバカリ、コワガリ、シンジナイ氏など色々なユニークな名前の人物が登場してきます。こういう名前の人たちが、主人公のクリスチャンの進む道を邪魔していくのです。

 私たちの人生の進む道もそうです。セケンテイ氏だとか、ミンナヤッテル氏だとか、リュウコウさんやら、フツウさんやら、さまざまな人が私たちに声をかけて、この進むべき主の道とは違う道を示そうとしてきます。そして、その都度、私たちはそういう言葉にも一理あると思いながら、遠回りを繰り返してしまうのです。

私に悟らせてください。
私があなたのみおしえから目を離さず
心を尽くしてそれを守るために。

とありますが、これは私たちにとって切実な祈りなのではないでしょうか。

 今日の詩篇のところは、「へー」というヘブル語から始まるのですが、面白いことに、最後の40節以外のすべての節で、この「へー」という文字が入る単語から文章が始まっています。そして、そのすべての箇所はすべて命令形で記されています。

 〇〇してください、〇〇し給えというのは、お願いですけれども、文法としては命令形になるわけです。悟らせてください。み教えから目を離さないで、心からその教えを守ることができますようにという祈りです。
この祈り手は主に願い求めながらどうしても、知りたいのです。主の道を歩むことが最善であると。それが分かれば、わきのものに目を奪われることはなくなるのです。 (続きを読む…)

2021 年 2 月 14 日

・説教 詩篇119篇25-32節「真実の道」

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2021.02.14

鴨下 直樹

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 今日の詩篇は少し重い空気が立ち込めています。

25節の冒頭には

私のたましいは、ちりに打ち伏しています。

とあります。

28節

「私のたましいは、悲しみのために溶け去ります。

31節

主よ、どうか私に恥を見させないでください。

このような重たい言葉が繰り返されています。

 今、水曜日にオンラインで聖書を各巻ごとに、ざっくりとした解説をしています。先週でもう15回になりました。先週は第一歴代誌をとりあげました。第一歴代誌というのは、アダムからダビデが王として立てられるまでの神の民の歴史を取り扱っています。第二は、その後のソロモン王からイスラエル王国が崩壊して捕囚を経験するまでの流れが記されています。

 こうやって聖書をずっと学んでいきますと、見えてくるのは神の民イスラエルというのは本当に小さな存在だということです。吹けば飛ぶような弱小国です。そんな国が、神の民として支えられ、励まされ、導かれて来た姿を歴代誌から読み取ることができます。そうやって見ていきますと、そこから見えてくる神の姿というものがあります。それは神の愛とか、恵みとか、慈しみという言葉で表現されるわけですが、本当に温かいものです。

 神であられる主は、神の民である私たちの存在がどれほど小さくても、神はそこに全力の愛を傾けてくださるお方なのです。そして、その神の愛はどういう形で、その小さな民に示されているのかというと、それは神の言葉によってです。この神の言葉によって、私たちは主が真実なお方であるということを知ることができるのです。

 言葉というものを、神はご自身の思いを伝える伝達手段としてお取りになりました。

 愛の伝達手段というのは、いろいろとあると思います。花束を贈るとか、プレゼントを贈る。その人の喜ぶことをする。お手伝いをする。綺麗な景色を見せる。おいしい食べ物を一緒に食べる。一緒に楽しい時間を過ごす。挙げればきりがありませんが。さまざまな方法がある中で、神は、「言葉」をお用いになりました。

 ただ、言葉というのは、もろ刃の剣です。良かれと思ってかけた言葉が、かえって相手の心を傷つけるという苦い経験をしたり、されたりという経験は誰にでもあると思います。それを、あえて神がなさったというのは、驚くべきことです。

 聖書の神は、言葉の神です。私たちは、それぞれの意思伝達をするために、言葉を使います。例えば、今こうして横で手話通訳が行われています。手の指を使っていろいろな形をさせながら、それを言葉として思いを伝えています。声であったり、文字であったり、手話であっても、私たちは言葉を用いて、思いを相手に伝えます。そこには、日常の情報交換のような言葉から、私とあなたという個人の関係があることが前提で交わされる深い内容の言葉まで、いろんな種類の言葉があります。軽い言葉から、重たい言葉まで、言葉は伝える内容の違いで、その重要度は異なってきます。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 31 日

・説教 詩篇119篇9-16節「清さを保つ道」

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2021.01.31

鴨下 直樹

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 みなさんは、新しい電化製品を購入した時、まず取扱説明書を丁寧に読んでから使いますか、それとも、まず使ってみて、分からないところがあれば調べるでしょうか。私は後者です。というか、ほとんど説明書を見ません。機械にトラブルがあって、エラーが出てから、仕方がなく説明書を開きます。

 少し前のことですけれども、テレビを見ていましたらコピー機を駆使していろんなことができるという番組をやっていました。2チームに分かれまして、出された色んな課題をどちらが早くクリアーできるかという番組でした。出て来た課題はどういうのかというと、紙のサイズがそれぞれ全く違う何種類かの紙を、綺麗に一つのサイズにまとめてコピーするというものでした。別の課題は、分厚い本をコピーするときに、真ん中に影が入らないようにどちらが綺麗にコピーできるか。そういった課題がいくつも出されて、順番にクリアーしていくわけです。
 そこで私は初めて知ったのですが、コピー機というのは、実にいろんな機能があるんだそうで、紙のサイズが違っても、全部紙のサイズを自動で整えてくれるとか、そういった機能もあるんだそうです。もっとも、「へー」と見ていただけですから、自分で試してみようとは思いませんでしたので、やってみたことはありません。ただ、「ああ、そういう機能があるのね」ということを知って、感心したわけです。
 取扱説明書を丁寧に読めば、せっかく高いお金を出したコピー機ですから、実にさまざまな機能を駆使して、色んな事ができる可能性が広がるのです。

 創造者であられる神は、この世界を、そして、私たち人間を創造されました。そして、神は、私たちにこの世界と私たちの取扱説明書として、聖書を与えてくださいました。ですから、聖書の中には、私たちの生活の中で起こるさまざまなトラブルやエラーの対処法があらかじめ記されているわけです。もし、記されていないとすれば大変なことです。

 今日、私たちに問いかけられているのは、こういうテーマです。

どのようにして若い人は
自分の道を 清く保つことができるでしょうか。

 「若い人」がテーマです。そう聞くと、「ああ、じゃぁ今日は私とは関係ないわ」と思わないでいただきたいのです。

 「若い人」。かつて、若かった人も、現在進行形の方もあると思います。若さというのは、力です。可能性に満ち溢れています。まだ、さまざまな限界がない状態と言えるかもしれません。臓器に負担を感じていないとか、骨に異常がないということさえ、そういう問題を抱えている人にしてみれば、うらやましく思えるのかもしれません。けれども、もう一度若い時からやり直したいですか?と質問してみるとどうでしょう。今の年齢にもよりますし、年代によっても違うかもしれませんが、想像するに、それほど多くの方が、若い時からやり直したいという思いにはならないのではないでしょうか。なぜそうなるかというと、若い時の大変さというのも分かるからです。若い時には、必ずその上に立ちはだかる人がいて、やりたくないことをやらされて、苦労してきたという経験が皆あるのではないでしょうか。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 17 日

・宣教40周年記念礼拝説教 詩篇100篇「感謝の歌を!」

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宣教40周年記念礼拝

2021.01.17

鴨下 直樹

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説教全文はただいま入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。

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(礼拝前半)証し:赤塚尚武


 

(礼拝後半)説教:鴨下直樹


 
 芥見キリスト教会の皆さん、宣教40周年おめでとうございます。

 1981年1月18日の礼拝からこの教会の宣教は開始されました。先ほど、芥見教会の最初の受洗者であるAさんが証しをしてくださいましたが、そこでお話しされたように最初の礼拝に集われたのは、Oさん夫妻とAさん夫妻、そして今は高山にみえるIさんご夫妻と学生の7名だったそうです。

 その時から、今週で40年を迎えました。本来でしたら、これまでこの教会で労してくださった先生方をお招きして、特別な記念礼拝をしたいところですが、今はコロナウィルスのために、大きなお祝いをすることもできません。それどころか、先週からこの岐阜県でも緊急事態宣言がだされていまして、この場に集って礼拝をすることを控えておられる方もいるという状況です。

 そう考えてみれば、芥見教会の40年の歩みというのは、荒野の40年であったということができるのかもしれません。30周年の時にもお話ししたのですが、この教会はこれまで、最初の宣教師であるストルツ先生、そして宮園先生、飯沼先生、背戸先生、浅野先生、後藤先生をお迎えし、私で7人目の牧師ということになります。30年で7人の牧師というのは、かなり多い方です。その間、きっとみなさん色んな思い出や経験がおありになると思います。

 この40年の間、芥見教会は実に豊かな経験を与えられてきました。そして、イスラエルの民が、荒野を40年さまよいながら主に導かれてきたように、この教会も主に導かれてきた40年であったということができます。

 イスラエルの民は40年ですべての世代が入れ替わりました。けれども、本当に幸いなことですが、芥見教会のほとんどの方々が、今日まで代替わりすることもなく、こうして40年のお祝いをすることができるということも、本当に感謝なことです。

 神の民は、主との契約に生きる民です。主は、その民に約束を与えてくださいました。あなたがたを約束の御国に招き入れ、そこで子孫繁栄の約束を頂いたのです。この約束は、今も変わることはありません。

 神の民であるイスラエルは、約束を与え、果たしてくださる主なる神さまに感謝をささげる歌として、この詩篇100篇を賛美してきました。この詩篇には、神の約束に生きる民にとって大切なことが歌われています。

全地よ に向かって喜びの声をあげよ。

 この詩篇は主の御前に感謝をささげる賛美の歌です。その内容は喜びと感謝に満ちています。命令形で書かれていますけれども、この言葉には嫌な響きはありません。主は喜びと感謝を創造してくださる主だからです。

 この詩篇は、冒頭の1節から7つの命令形の言葉が続きます。
「喜びの声をあげよ」
「主に仕えよ」
「御前に来たれ」
「知れ 主こそ神」
「賛美しつつ大庭に入れ」
「感謝せよ」
「御名をほめたたえよ」

 この七つの命令形の言葉の中に、約束に生きる主の民が、何を大切にしてきたのかが、全て語られています。主を喜ぶこと、主に従う事、主の御前で礼拝をささげること、主を知ること、御前で賛美すること、感謝すること、主の御名をほめたたえること。

 この七つの命令形の言葉の主語はすべて「あなたがた」です。つまり、私たちに期待されていることです。

 そして、この七つの言葉はすべて、礼拝と深くかかわっている言葉です。主を礼拝すること。これこそが、主の民の最大の使命であり、私たちの務め、責任なのです。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 10 日

・説教 詩篇144篇「わが岩なる主」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:43

2021.01.10

鴨下 直樹

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*1:ライブ録画から抽出した音声を掲載しています。聞きづらい点はご容赦ください。

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 今年も、しばらく詩篇のみ言葉を聴き続けていきたいと願っています。

 今日の詩篇は、「王の詩篇」と呼ばれる詩篇の最後のものです。この詩篇の祈り手は、王さまの立場で記されているのです。またこの詩篇は詩篇の18篇がもとになって書かれました。今どきの言葉で言えば、詩篇18篇をリメイクしたのです。詩篇18篇の王の詩篇に影響を受けて、詩人が自分でも作ってみた。そんな内容です。

 表題には「ダビデによる」と書かれていますが、ダビデ作というのではなくて、「ダビデによせて」というような意味だと思っていただけるとよいと思います。

 ただ、とても興味深いのは、ギリシャ語の七十人訳の方では「ゴリヤテに対して」とか「ゴリヤテと戦う」という意味の言葉が表題に付加されています。この詩篇を作った人は、ダビデがゴリヤテと戦う時のことを思い返しながら、この詩篇を作ったと考えられたようです。

 そんなことを少し心に覚えながらこの詩篇の言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 この詩篇は「わが岩なる主」という呼びかけの言葉ではじまります。

 みなさんは、お祈りをするときに、「わが岩なる主よ」と呼びかけて祈ったことがあるでしょうか? 祈りは、私たちが主をどのように呼びかけるかということが、とても大切です。どういうお方に祈ろうとしているのか、この呼びかけに、私たちの信仰の姿勢や、その後の祈りの内容がすべてかかってきます。この詩篇にならって、私たちもお祈りをするときには、すぐに祈りはじめるのを少し待って、はじめに主をどのように呼びかけたらよいのかを少し考えて祈ってみるとよいかもしれません。

 「岩」というのは、どんなイメージでしょうか。

 私たちの生活の身近に、「岩」はあまりないかもしれませんので、私たちがお祈りするときに、神さまのことを「岩」にたとえるというイメージはなかなか湧いてこないのではないでしょうか。

 「岩」は人が簡単には動かすことができないものです。昔からそこにあり、それを自分たちの都合で取り除くというよりは、その岩があることを前提に考えていかなければなりませんでした。ずっとそこにありつづけるもの。変わらなく存在するもの。それが、岩のイメージです。

 年末に下仁田教会に奉仕に行ったとき、川沿いの道を走っていると、「夫婦岩」という看板がありました。見てみると、それほど大きくはないのですが、二つの岩がそれぞれ寄りかかって支え合っている岩が、川の真ん中にありました。川があふれることがあっても、ずっとそこに有り続けるから、看板まで出してあるのだと思うのです。岩というのは、そのように、いつも変わらず、そこにあるのです。そんな岩のイメージと主なる神のイメージがそこで重なっているのです。

 何があっても変わることなく、周りに惑わされることもなく、いつも変わることのないお方が、私たちの主なのだと祈っているのです。そういうお方に、この祈り手はこれから祈ろうとしているのです。

わが岩なるが ほめたたえられますように。

という言葉の後にはこういう言葉が続きます。

戦いのために私の手を
戦のために私の指を鍛えられる方が。

 岩である主が、私の手と指に戦いを教えてくださるというのです。

 岩と格闘するというのは、普通はあまりイメージできません。ただ、最近はそうでもないのかもしれません。今世間を騒がせている「鬼滅の刃」というアニメがあります。その主人公の竈門炭治郎は、最初の修行で、岩を刀で断ち斬るというところから始めるのですが、もちろんそれは、この聖書がベースになっているわけではないと思います。この漫画の主人公の炭治郎は、その修行で岩を斬ってしまうのですが、普通は斬れません。だから漫画になるわけです。ただ、絶対的に不可能だと思えるものに挑み続けることが、自分を強くしてくれるという表現があそこには込められているのでしょう。

 そう考えれば、岩なる主が私の手や指に戦いを教えてくださるというイメージも理解しやすくなるかもしれません。 (続きを読む…)

2020 年 12 月 6 日

・説教 詩篇138篇「低き者を顧みて」

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2020.12.06

鴨下 直樹

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 今週はアドヴェント第二主日です。アドヴェントクランツの二番目の蝋燭に火を灯しました。アドヴェントの間、こうして毎週一本ずつ、蝋燭の灯を増やしていくことで、主のご降誕を待ち望む習慣が教会にはあります。

 そのためにクランツにする蝋燭は太い蝋燭を選ぶことがほとんどなのですが、日本にはあまり太い蝋燭はポピュラーとはいえません。蝋燭を灯すという習慣があまりないのです。私たちの教会では、いつもYさんが作ってくださる蜜蝋燭を使っています。良い匂いがしますし、使っていてとても気持ちよく使えます。ただ、そうすると問題があります。最初の蝋燭は4週目には短くなりすぎて使えなくなってしまうのです。

 短い蝋燭というのは、それだけ火を灯したということです。蝋燭は、自身を燃やして、消費して明かりを周りにもたらします。この礼拝用の蝋燭は4週の間に長さが少しずつ短くなりますから、バランスがとれなくなるので、適当な短さのものと入れ替えたりしながら、4週目を迎えていくことになります。

 ある時、小さな子どもがそんな短くなった蝋燭を見て、こう言いました。「ちっちゃい蝋燭。これ、僕みたいな蝋燭」と言ったのです。そして、背の高い蝋燭を見て、「これは大人の蝋燭」と言いました。私はそれを見ながら、こう言いました。
「実はねぇ、この長い蝋燭が君の蝋燭で、この短い蝋燭が大人の蝋燭なんだよ。短い蝋燭は、たくさん働いて、少しずつ短くなるから、こっちの蝋燭の方が大人の蝋燭なんだよ」と。

 アドヴェントに蝋燭を灯すのには、そんな意味もあるのだと言えます。毎週短くなっていく蝋燭を見ながら、ご自身を捨てて、小さく、低くなられた主を思うのです。

 今日の詩篇は「感謝の詩篇」と呼ばれる詩篇です。祈り手は、エルサレムの宮に向かってひれ伏しています。神殿まで行って、そこでひれ伏しているのか、それとも、遠くから神殿のことを思いながらそこでひれ伏しているのか、はっきりは書かれていませんが、なんとなく、遠くの地から神殿の方を向いて、ひれ伏し、感謝の祈りを捧げているのではないかというように読める気がします。

 神殿があるということは、ダビデの時代にはまだ神殿はありませんでしたから、直接ダビデの作ということではなさそうです。ダビデに思いを寄せて作られた詩篇なのかもしれません。

 旧約時代にすでにヘブル語からギリシャ語に訳された七十人訳聖書には「ゼカリヤによる」という題がついているものがあるのだそうですから、もしそうだとすれば、捕囚期に作られた詩篇なのかもしれません。あるいは、捕囚が終わって、イスラエルに戻って来たことを感謝しているということなのかもしれません。

 この詩篇の面白いのは、4節のところで、「地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。」と言っています。感謝をささげる理由は何かというと、「彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。」となっています。

 この祈り手が何を感謝したのか、具体的には分かりません。何か、日常のささやかな感謝なのか、あるいは、バビロンに連れていかれて、そこから帰ってくることができた感謝なのか。いずれにしても、自分がささげる感謝の相手は、地のすべての王たちも、感謝をささげる相手なのだと言っているのです。
 
そしてこの5節から読んでいきますと、ここから少しずつ感謝の内容が見えてきます。

彼らは主の道について歌うでしょう。
主の栄光が大きいからです。

 王たちは、主が歩まれた道を知って、その栄光の大きさに歌い出すと言っています。私は、この詩篇がアドヴェントに読まれてきた詩篇なのかどうか、よく分からないのですが、この詩篇はまさにアドヴェントに読まれるべき詩篇だと思っています。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 29 日

・説教 詩篇139篇「神の栄光」

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2020.11.29

鴨下 直樹

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 昨日の我が家の会話です。娘が体操服を着ていました。それを見て、妻が「なんであんた半ズボンはいているの」と言ったのです。どうも、午後から体操に行くことになっていて、そのために体操服を着ていたのですが、半ズボンでは寒いと妻は言おうとしたのです。
 すると、その会話を聞いていた私が娘に言いました。「自分で考えて判断しなさい」と。寒いんだから半ズボンはダメだということくらい考えろと言いたかったわけです。
 すると、娘がこう言いました。「私なりに考えたの。それで、体操をすると体が熱くなるから、お母さんは半ズボンを出したのかなって。」

 それを聞いて、妻は「あら、私、長ズボンのジャージを出したつもりだったのに、私が間違えて半ズボンをだしたのね、ごめんね」と言いました。それを聞いた私もいいました。「そうか、自分なりに考えてたのね、理不尽なことをいうお母さんとお父さんで大変だね。ごめんね。」と謝ったのです。

 昨日は、私たち夫婦はだいぶ冷静だったので、こういう会話で終わったわけですが、これが平日の朝、学校に行く10分前ならこうはいきません。たぶん、一方的に子どもが叱られて、納得できないまま泣きながら学校に行くというパターンなんだと思います。

 説教の冒頭から我が家の恥をさらして申し訳ないのですが、牧師家庭と言ってもそんなものです。みんな罪人なんです。でも、なぜこんな話をするかというと、私たちは子どもの頃から理不尽さというものと何とか折り合いをつけていかなければならないということを今日はお話ししたいと考えているからです。

 納得できないと前に進めないということがあるわけですが、場合によっては納得できなくても、それを受け入れていかなければならないということが沢山あります。

 なぜあの人はいいのに、自分はダメなのか。というような場面だって日常生活の中にはいくらでもあります。

 今日の詩篇139篇の背景にあるのは、この「理不尽さ」です。ダビデの詩篇と呼ばれる詩篇の中にはいくつか、このテーマの詩篇があります(7、35、37、69篇)。
 自分が無実であるのに、非難を受けるというような状況をうたっているのです。
1節にこうあります。

主よ あなたは私を探り 知っておられます。

 この「探り」という言葉は、「調べ尽くす」という意味です。神が「私のことを調べ尽くして、私が無実だと知っておられるはずです」と、この詩篇は冒頭から自分の無実を語っているのです。自分には非はないはずなのに、なぜこのような事態になっているのでしょうかと言いたいのです。言われもない理不尽さに耐えきれず、主が私のことを知っていてくださるのだと、ここで詩人は訴えているのです。

 この詩篇はとても美しい言葉で表現されていますが、それはまるで組織神学の講義のような内容だと言われています。
 この詩篇は四つのブロックで構成されています。最初の部分は、「神が全知」、神がすべてのことを知っておられるということが言われています。二番目の部分(7節~12節)では「神の遍在」といいますが、どこにでもおられるということが言われています。三番目のブロック(13節~18節)は神が全知であられる理由である「神の創造」が語られています。そして、最後の部分(19節~24節)は詩人の訴えです。

 組織神学なんて言うと、何やら難しい講義でもはじまるのではないかと身構えてしまうかもしれませんが、そういう話はしませんのでご安心ください。ただ、この詩篇はまさに、「神の全知」だとか「遍在」という神学的なテーマを説明するのによく用いられるテキストであることには違いありません。

 そもそも、聖書の中に「全知」という単語は出てきません。けれども、私たちは神のことを「全知全能の神」であると聞いたことがあるはずです。どうしてこういう考え方が生まれて来たのかと言うと、今日のような詩篇の内容から、聖書の時代に生きた信仰者たちが、この詩篇のような言葉を尽くして、神はわたしが座るのも立つのも知っておられるお方で、私が何かを言う前から私の心の中の思いを知っておられるお方だと理解していることが分かるからです。それで、この神のことを短い言葉で言い表すなら、「すべてのことを知っておれる神」つまり「神の全知」というようにまとめられていったわけです。

 あるいは、7節から12節までのところもそうです。神は私がどこに行っても、一緒におられるお方だと告白しています。特に、この部分の表現はとても興味深い言い方をしています。
 たとえば8節~10節です。

たとえ 私が天に上っても/そこにあなたはおられ/私がよみに床を設けても/そこにあなたはおられます。/私が暁の翼を駆って/海の果てに住んでも/そこでも あなたの御手が私を導き/あなたの右の手が私を捕らえます。

 天の上にも、地のもっとも下であるよみの世界にも神はおられると言っています。もちろん、見たことはないのですから、想像しているのです。もう一つの表現は、「海の果てに住んでも」とあります。この時代は、今のように地球が丸いなんていうことは知らなかった時代ですから、海にはきっと果てがあると考えていた時代です。その海の果てに思いを寄せながら、そこにもし自分が暁の翼を駆って飛んで行ったとしても、神はそこから私が外におちてしまわないように右の手で捕らえて離さないでいてくださるお方だと信じたのです。

 そのくらい、上も下も、右も左も、どこまで行っても神はそこにおられて、自分を支えてくださるに違いないと信じたのです。理不尽な現実に突き付けられながら、この詩篇の詩人、ダビデでしょうか。この祈り手は、神がどのようなお方であるかに思いを馳せながら美しい言葉を紡ぎだしていきます。そうして、神のことを言い表しながら、自分の祈りを聞いて欲しいと訴えているのです。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 22 日

・説教 詩篇126篇「収穫の喜びを期待して」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:34

2020.11.22

鴨下 直樹

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 今、オンラインで水曜日に「ざっくり学ぶ聖書入門」を配信しております。水曜日の聖書の学び会に集えない方のために、自宅からでも見てもらえるようにということで10月から始めています。できるだけ、一回1時間で各書簡をざっくりと紹介したいと思っています。

 先週は、民数記の学びをしました。民数記というのは、レビ記と並んで、聖書を読み始めると、途中で止まってしまう難所の一つです。特に前半には、何々部族、何万何千何百人というカタカナと数字の羅列が続くので、もう読みたくなくなってしまうようです。ご経験のある方も少なくないと思います。

 この民数記というのは、モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出してからの40年の荒野の旅のことが、まるまる記されています。読み進めれば面白い箇所がいくつもあるところです。私は、旧約聖書はあまり得意ではありませんので、この配信のために、一週間のかなりの時間をかけて準備をします。特に民数記は大きな出来事がいくつも記されておりますので、できるだけ短くまとめながら、分かりやすく説明したいと思うので時間がかかってしまうのです。

 ただ、そうやって時間をかけて民数記を読んでいますと、際立っているのは、イスラエルの民の身勝手さだということにどうしても目が留まるのです。わがままなのです。エジプトの奴隷の状態から救い出されたにもかかわらず、何か困ったことがあると、エジプトの方が良かったと、すぐに不平をこぼすのです。

 一度や二度ではありません。十回や二十回というような頻度です。いや、もうほとんどずっと文句ばかり言っているわけです。そして、その都度、神はそのイスラエルの民のわがままな要求に応え続け、救いの道を示し続けておられることが記されています。

 民数記を読んでいて考えさせられるのは、神の忍耐強さです。もちろん、そこには、何度も民を裁き、懲らしめる姿が記されているのですが、けれども、いつもそこに神は救いを備えてくださっているのです。

 そういう箇所を読んでいますと、私たちの歩みも全く同じだということに気づかされてきます。事あるごとに私たちは不安に感じ、不信仰に陥りそうになります。そして、何度も何度も悔い改めながら、神の救いの大きさと忍耐深さに救われて、今日まで支えられているというのがよく分かるのです。

 今日、私たちに与えられているのは詩篇126篇です。とても短い箇所です。読んでいますと、その背景もなんとなく想像できます。

 イスラエルの民が捕囚から帰って来た時の喜びがまずは歌われています。遠い国、バビロンに連れていかれ、祖国を追われていたのに、ようやくイスラエルに戻って来ることが出来た。それは、まるでエジプトの地で奴隷であったところから救い出された時とも重なります。そして、私たちが罪の奴隷から救い出されたこととも重なるのです。

主がシオンを復興してくださったとき
私たちは夢を見ている者のようであった。

 長い間、待ち焦がれていたそこに帰ることができた。それはその当時の人たちからすればどれほどの喜びであったか知れません。

 昨日のことです。娘がクリスマスプレゼントの話をしだしました。あれが欲しい、これが欲しいというのです。今、世の中は『鬼滅の刃』というアニメが大流行しているようですが、その影響は我が家にも及んでしまっています。それに出てくるものが欲しいというのです。ネットで検索してみますと、まだクリスマスまでひと月あるのに、商品の到着はちょうどクリスマス頃になると書かれていましたので、仕方がなく慌てて注文しました。すると翌朝、娘は「ねえ、いつ届くの?」と言うのです。「だからひと月後」と答えるのですが、もう待ちきれないのです。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 15 日

・説教 詩篇127篇「子どもは主の賜物」

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2020.11.15

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日は子ども祝福礼拝。子どもたちが親御さんとともに、ここに集って礼拝ができることをうれしく思っています。

 今日の詩篇127篇というのは、結婚した若い夫婦がエルサレムの都に上って結婚の報告をする。その時に歌われた詩篇ではなかったかと言われています。結婚をして家庭を持つ、その祝福がこの詩篇で歌われています。その最初に言われているのは家を建てるということです。

 みなさんは、家を建てるという経験をしたことがあるでしょうか。私は残念ながらないので偉そうなことは言えません。ただ、これまで何度か、教会堂建設をしている教会にいたこともありますので、想像することはできます。

 はじめは漠然と家が欲しいという願いがあることから始まるのでしょうか。そのうちに、近くのハウジングセンターを見に行ったり、あるいは家を建てた友達の家を訪ねた時に、その話を聞いて、自分たちもという思いを抱くのかもしれません。

 とても高額な買い物ですから、よく考えます。自分たちの収入でできることをいろいろと考え始めます。銀行でお金を借りられるのか、共働きするのか、まずは、そういったそもそもそういうことが可能なのかということを考え始めます。

 それと同時に、家の間取りはどうするか、庭はどうするか、駐車場はどうするか、部屋の数は、考え出すときりがありませんが、そういうことを考えるのはとても楽しいことでもあります。夢が膨らみます。そして、同時に大きな不安も抱えることになります。

 そうやって、ついに土地が決まって、こまかな話を詰めて、青写真が出来て、いよいよ、家を建てるというときになりますと、「定礎式」というのをいたします。この定礎式の時に、この詩篇の127篇が読まれることがあります。

 そこで、この御言葉が読まれます。

主が家を建てるのでなければ/建てる者の働きはむなしい。/主が町を守るのでなければ/守る者の見張りはむなしい。/あなたがたが早く起き 遅く休み/労苦の糧を食べたとしても それはむなしい。/実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる。

 家を建てるということが、どういうことなのか、何を聖書が語っているのかを聞こうということなのです。そこで、語られるのは、せっかく家を建てたのに、「ああむなしいことをした」ということがないようにということです。

 トランプタワーをご存じでしょうか。アメリカの大統領のつくったあれではなくて、カードのトランプで作るタワーです。手に汗を握りながら、カードを合わせて、高いタワーを作っていきます。ドキドキして作っている時は楽しいのですが、ちょっとした手の加減の違いで、またたくまに崩れ落ちてしまいます。私は、せいぜい作れても2段までしか作れません。そもそも、上手につくる技術がないのです。でも、一所懸命つくっても、それは簡単に崩れてしまいます。

 私たちがもし、家を建てるのであれば、そんなトランプタワーのような家を造りたいとは誰も思わないでしょう。耐震強度のしっかりとした、地震にも台風にも、そして、シロアリにも、日本の湿度にも耐えられる家を造りたいと思うはずです。

 私は、実は名古屋の金山クリスチャンセンターの責任者をしております。少し前に、この金山クリスチャンセンターの耐震強度の検査をしてもらいました。耐震強度震度6弱まで耐えられるという結果でした。それが、高い方なのか、弱いという事なのか、なんとも判断の難しいところですが、築50年以上の建物です。それで、建て直しをということを考え始めたのですが、そうしますと反対をする方々がおります。どうせもうすぐ大きな地震が来るのだから、地震で建物が壊れてしまってから建てた方がいいではないかと言うのです。それで、今は建て替えの検討は見送りになっています。内心はとても複雑な思いでいます。地震が来るのを待っているというのもどうなんだろうという思いがあります。もし、建てるのであれば、地震が来ても大丈夫なものを建てたいと思うわけです。

 もし、そうやって一所懸命に建てたものが、瞬く間に崩れ落ちてしまうのだとしたら、それはまさにむなしいということになってしまいます。そうならないために、私たちはどうしたら良いというのでしょうか。

 この詩篇はソロモンの詩篇と表題に書かれています。ソロモンというのは、イスラエルの王さまで、ダビデの子どもです。イスラエルが近隣の国に絶大な力を持ち、神殿が建てられたのも、このソロモン王の時でした。イスラエルの王たちの中でもっとも力のある王であったということができます。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 8 日

・説教 詩篇146篇「いのちあるかぎり」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:42

2020.11.08

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日の詩篇には、人間の悲しみが詰まっています。悲しい言葉がいくつも並んでいます。

 「虐げられている者」「飢えている者」「捕われ人」「目の見えない者」「かがんでいる者」「寄留者」「みなしご」「やもめ」。これらの言葉はみな悲しみを抱えている人たちのことを言っています。私たちが生きている世界には、そこかしこに、悲しみの原因が転がっています。いつ、誰が、この悲しみを拾ってしまうか分かりません。

 みなさんは、このような悲しみを経験するとき、それをどうしているでしょうか。私たちはストレス社会を生きていると言われています。体調を崩して病院に行きますと、「ストレスですね」と言われることが度々あります。どこにも持っていくことのできない苦しみや悲しみを抱えながら、誰もが生きています。

 中には、人に話を聞いてもらってその発散をしている人もあるでしょう。あるいは、趣味に没頭することで、気を紛らわしているということもあると思います。本を読む、映画を見る、ゲームをする。おいしいものを食べる。お酒を飲む。旅行に出かける。人それぞれ、自分にあった何らかの対処法をもっているのかもしれません。そして、それでなんとかなるうちはいいのです。自分の許容範囲を超えてしまうような出来事と遭遇するとき、私たちはそれをどこに持っていくことができるというのでしょうか。

 たとえば、職場などで上に立つ立場の人というのは、実にさまざまな問題を抱えることになります。責任が重くなればなるほど、抱える問題も大きくなってしまいます。そして、誰にも話せないことも増えていくのだと思います。

 今日の聖書の3節にこういう言葉があります。

あなたがたは君主を頼みとしてはならない。
救いのない人間の子を。

と書かれています。

 言いたいことはよく分かると思うのですが、実際には「君主」というのは、その国のリーダーです。会社で言えば、一番上に立つ人、社長を指します。スポーツで言えば先頭を走っている人です。

 一番上にいる人でないと見えない景色があります。先頭を走っている人でなければ見えていない問題というのが必ずあるはずです。下の方にいる人より、後ろの方にいる人よりは、上にいる人、前を進んでいる人の方が、沢山の答えを持っているはずです。けれども、この詩篇は、そういう人の上を行く人、人に先んじる人も、人に過ぎないのだと言っているのです。それほど、大きな差はないのだと言っているのです。

 子どもが成績表をもらってきます。二重丸、丸、三角、上級生になるとA、B、Cと成績がつけられます。中学からは5、4、3と成績がつけられていきます。その成績で一喜一憂します。私たちは子どものころから、そういう評価されることに慣れてしまいます。そして、そのような評価を絶対視してしまいます。

 少しでも上に、少しでも先に、それが一番大事なことだと当たり前のように考えてしまうようになります。個性が大事とか、その子らしさを受け入れようと言いますけれども、どこかで、そういうセリフがしらじらしく響く世界に、私たちは身を置いて生きているのです。

 だから、評価されなければ悲しいし、自分の存在価値は、人に評価されるところにあると考えてしまうので、この詩篇にあげられているような人々のようにはなりたくないという思いを、心のどこかで持つようになるのです。

 ところが、聖書は「君主を頼みとしてはならない」と言うのです。同じ、死に支配されている人間なのだからと。

 今日は、召天者記念礼拝です。すでに、この世の生を終え、天に召された家族のことを覚えて、ここに集っております。例年ですと、大変大勢のご家族の方が集まりますが、今年はコロナ禍ということもあって、多くの方々は来ることができませんでした。けれども、今、私たちは天に送った家族のことを覚えて、この礼拝に招かれています。

 そして、この詩篇146篇のみ言葉が、私たちに与えられています。この詩篇は、幸いを歌う詩篇です。ここにあげられている人は、みな悲しみを抱えている人たちですが、この詩篇は悲しみに支配されてはいないのです。それは、なぜか。
 詩篇の5節にこう記されています。

幸いなことよ ヤコブの神を助けとし
その神 主に望みを置く人。

 頼みとするのは、人ではなく、ヤコブの神、主であると言っています。ヤコブというのは、先週まで創世記の説教していましたあのヤコブです。兄をだまし、報復を恐れて逃げ、その逃げた先で、二人の妻をめとり、12人の子どもが与えられました。アブラハムに約束された神の祝福の約束は、このヤコブに受け継がれていったのです。あの、ヤコブと共にいて、祝福を与えられた神、主に望みを置く人は幸せに生きることができる。そのように、この詩篇では言っています。 (続きを読む…)

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