2023 年 4 月 9 日

・説教 詩篇116篇「死からの救い」

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復活主日(イースター)礼拝
2023.4.9

鴨下直樹

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 イースターおめでとうございます。

 今日は、私たちの主イエスのよみがえりを共に祝い、喜ぶ日です。

 今日はこの詩篇116篇が私たちに与えられています。この詩篇116篇は、教会の伝統では洗足式の木曜日に読まれたり、また、葬儀の時に読まれたりすることの多い詩篇です。

 この詩篇の主題は、死と、よみの恐怖からの救いと、その感謝が歌われています。

 3節にこう記されています。

死の綱が私を取り巻き
よみの恐怖が私を襲い
私は苦しみと悲しみの中にあった。

 この詩篇はいつの時代のものか、誰が書いたものであるかははっきりしません。けれども、イスラエルでは古くからこの詩篇を個人の救いの感謝の詩篇として用いることが多かったようです。ここに書かれている「死の綱が私を取り巻く」というのは、死に支配された状態です。病のため、あるいは、人が何らかの事情で窮地に置かれた時に、まるで大蛇が体に巻き付いて自分を締め付けるように、死の綱が私を取り巻いたと、この詩篇では表現されています。この詩篇を書いた人は、そんな死の恐怖を味わっていた人のようです。

 この詩篇の言い方から分かるのは、死の危機が迫っている状況は、よみの世界に落とされてしまったことと同じように考えられているということです。まだ、死んではいないのですが、死に支配された時、それは「よみ」に、つまり死の支配する世界にいるのと同じだと考えているのです。

 このような表現はまさに、主イエスが十字架に磔にされて、死なれ、よみがえられるまでの、よみの期間を過ごされたことと重なります。

 詩篇の祈り手は、死の支配の中にあって4節にあるように「主よ、どうか私のいのちを助け出してください」と祈りました。主の御名を呼び求めると、救い出されたのです。主の御名を呼ぶことがどれほど大きな意味を持っているかが、ここで私たちにはよく分かります。

 この4節で「私は主の御名を呼び求めた」とあります。この詩篇の中で「主の名を呼ぶ」という表現は、13節にも、17節にも出てきます。

 救いの主の御名を呼ぶことから、主の救いの御業は始まるのです。

 「どうか、私のいのちを助け出してください」という祈りは、どの世界の人々もしているのだと思うのです。けれども、ここではその前に「主よ」という言葉が冒頭にあります。この主の御名を呼ぶということが、とても重要なことなのです。 (続きを読む…)

2022 年 9 月 25 日

・説教 詩篇57篇「私をあわれんでください」

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2022.09.25

鴨下直樹

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私をあわれんでください。

 今日、私たちに与えられている聖書の言葉はこの祈りの言葉からはじまっています。

 皆さんは、お祈りをするときに、何を祈っているでしょうか。どのように祈っているでしょうか。

 日ごとの感謝の祈り、あるいは、何か困ったことが起こった時に神に助けを求める祈り、毎日の神様との交わりの祈り、誰かのための執り成しの祈り、などいろんな祈りがあると思います。

 そこで、もう一度考えたいのは、自分と神様との交わりの祈りはどうでしょうか? 私たちは自分のことを神の御前に心を注ぎだして祈っているでしょうか。今日はそのことを考えてみたいと思います。

 お祈りをするとき、私たちはお金も求められていなければ、何か特別なことを要求されているわけでもありません。いつでも、どんな時でも私たちは神に祈ることができます。それなのに、神様と深い関係、どんなことでも祈ることができる関係にまだなっていないのだとしたら、それはとても残念なことです。

 今日、ここに記されている祈りの言葉は、祈りの極意と言ってもいいほど、祈りの本質を表しています。

神よ。私をあわれんでください。

 この祈りの中に、私たちは深い神との交わりを発見することができるようになります。

 この詩篇57篇の祈りには表題がつけられています。

指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで。ダビデによる。ミクタム。ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに。

 こんなふうに書かれています。おそらく、この詩篇がイスラエルの人々に歌われていた頃には、「滅ぼすな」というメロディーがあったのでしょう。そのメロディーでこの詩篇を歌います。そんな楽譜に書かれた指示のようなことが表題に書かれています。「ミクタム」というのは、意味が良く分かりませんが、記念碑の「碑」とギリシャ語の七十人訳聖書では訳されております。「黄金」という言葉と似ているので、「黄金の歌」というように説明されることもあります。

 特に大切なのはその後です。「ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに」とあります。

 ダビデはサウル王に追われて逃げて洞窟にいた時というのは、第一サムエル記の22章に出てくる「アドラムの洞窟」にいた時と、24章の「エン・ゲディの荒野」にいた時と二度聖書には記されています。22章では、その洞窟に続々と仲間たちが集まって来て400人の仲間になったことが記されています。この時、ダビデのことを助けた祭司アヒメレクの家族がサウル王によって皆殺しにされてしまうことが記されています。24章ではダビデたちの隠れている洞窟に、サウル王が用を足しに来た時、サウルを殺すチャンスがあったのですが、ダビデはそれをしないで、上着の裾を切り取っただけで、サウルを助け、自分に敵意はないことを知らせたことが記されています。それを聞いたサウルは、この時はダビデに誓いをさせて、帰っていきます。

 この二度の出来事を通してみても、ダビデは何度もサウルに追われて、危機に瀕していたことがよく分かると思います。この時の出来事がこの祈りの背景にあるようです。

 ダビデがこのサウルに追われていた時の祈りという内容の詩篇は、詩篇の中に沢山あります。ダビデの詩篇と言われているものの多くが、ダビデが絶体絶命の危機に瀕している時のことが歌われているのです。

 問題は、まさにそういう時に、私たちはどのように神に祈るのかということです。こういう時に、私たちの神への信仰が明らかになるのです。 (続きを読む…)

2022 年 9 月 11 日

・説教 詩篇11篇「直ぐな人は御顔を仰ぎ見る」

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2022.09.11

鴨下直樹

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 以前、この芥見教会の祈祷会でレビ記の学びをしたことがあります。聖書通読をしていますと、創世記から読み始めた方の多くがこのレビ記で止まってしまうことが多いようです。レビ記は難しいという印象を持つようです。けれども、このレビ記が分かってくるようになると、聖書がかなり読めるようになります。

 このレビ記のまとめが書かれているのが26章です。ここは、「祝福と呪い」というテーマで書かれています。神様の戒めを守るものは祝福に与り、神様の戒めをないがしろにするならば、呪われる。そういった内容です。

 昨日、東海聖書神学塾で、このレビ記の学びの最後の講義を行いました。そこで、講義を聞いていた方が、この26章を学んでこんな質問をしました。
「これは、因果応報ではないのですか?」というのです。

 よく、私の説教の中で、「聖書の神は因果応報の神ではない」という発言をします。これは、私だけではなくて、多くの牧師がそのように語るのだと思います。けれども、実際に聖書を読んでみると、このレビ記26章にあるような、どうしても、因果応報というテーマで書かれているような箇所にでくわすことになります。

 良いことを行えば祝福される。悪いことをすれば裁きにあう。一般的な言葉で言えばバチが当たるというわけです。そうするとこれは因果応報ではないか? そんな思いを持つのです。みなさんも、そのように感じることがないでしょうか?
 
 その方の質問はそこで終わりませんでした。さらに、こんなことを言われたのです。
「でも、クリスチャンとしてちゃんとやっているはずなのに、自分の身に災いが降りかかってくることが沢山あって、どうしてもモヤモヤしてしまうのです」そう言われました。

 その方はがんを患って抗がん剤治療でかなり苦しんだようです。今はがんからは癒されたようですが、その後もずっと体調が悪くて日常生活に支障が出ています。私は何か神様を怒らせるようなことをしただろうか。ちゃんと信仰生活しているはずなのに、どうしてなのだろう。どうして、こんなに辛いことばかりが身に降りかかってくるのだろう。そんな悩みを感じているのです。

 私たちも、そういった思いを持つ方があると思います。そして、なかなかこのモヤモヤがすっきりしないのです。

 私は、その時にこの方にこんなことを言いました。 (続きを読む…)

2022 年 9 月 4 日

・説教 詩篇17篇「瞳のように私を守ってください」

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2022.09.04

鴨下直樹

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 これまでローマ人への手紙からみ言葉を聞いて来ましたが、今日からしばらくの間、詩篇やさまざまな箇所からみ言葉を聞いていきたいと願っています。

 今日の、この詩篇の祈り手は、自分の訴えが正しいと信じています。自分は、主の前に誠実に生きて来たのに、自分の身に降りかかってくるのは災いばかり。それで、神からの救いを、慰めを求めるのです。詩篇を読んでいると、時折このような詩篇の言葉に出会います。

 先日、私はある方からとても美味しい梨を頂きました。梨は私の大好物です。梨好きなので、触っただけで、その梨が美味しいかどうか想像ができます。頂いた梨も、どれもとても美味しく私のお腹の中に入りました。ただ、梨以外の果物となると、触っただけで味を見極められるとはいきません。

 みなさんも経験のあることだと思うのですが、これは美味しい果物に違いないと、少し高めのお金を払って、家に帰って食べてみると、思ったほどではないという経験をすることがあるのではないでしょうか?

 美味しい味を知っていると、それは、それなりの値段がするということが分かるわけですが、出した値段の割に、思ったほどでなかったりするとがっかりしてしまいます。ある程度の品質のものを求めると、それ相当の値段がするのです。

「クオリティー・オブ・ライフ」という言葉があります。「生活の質」を豊かにしたいということをあらわす言葉です。最近いろんな所で使われるようになりました。病院の生活や、介護施設などでも使われることがあります。

 意味は良く分かるのです。豊かな質のものに囲まれて生活したい。それをさまざまな領域で求めるのです。私たちは、一度良い物を知ってしまうと、なかなかその質を下げることが難しくなってしまいます。だから、どこででも、それなりの生活の質を求めたいということになるわけです。

 問題は、良い物を知ってしまうと、残念なことですが悪いものでは満足できなくなるということが起こります。食べるものがない時代や、困難な時代は、食べるものがあるだけでありがたいのですが、いつの間にか、クオリティーの低いものを掴まされると、腹がたつというジレンマに陥ってしまいます。良い物に囲まれて生きたいと願うのに、その結果、悪いものに悩まされるというジレンマが待ち構えることになるのです。
 
 これは、私たちの人生のさまざまな場面で登場します。ここ数週間、教会の中のかなりの割合の方々がコロナウィルスに感染してしまいました。そうなると、自宅に留まらなければならなくなってしまいます。買い物を自由にできません。この隔離期間の間は、外に出られませんので、それこそ人生のクオリティーというようなことが言えなくなってしまいます。

 そんな時、私たちはそのがっかりした気持ちから、どのように抜け出すことができるのでしょう。本当の慰めというのは、いったいどこから来るのでしょうか。

 この詩篇17篇というのは、ダビデの祈りと表題に記されています。もし、ダビデが書いたのだとすると、いつ頃の祈りかなと想像するのですが、ダビデは祭司サムエルから王様になるという油注ぎを受けます。ところが、ダビデが油を注がれた時、イスラエルにはサウルという王がいました。ダビデはこのサウル王に仕えるのですが、サウル王はダビデを憎んで、いつもダビデを捕らえようと狙い、常に命の危機を感じていました。

 そんなときの祈りだとすると、この詩篇の状況がよく理解できそうです。 (続きを読む…)

2022 年 7 月 17 日

・説教 詩篇119篇169-176節「みことばを歌うようにしてください」森岡泰子師

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2022.07.17

森岡泰子師

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2021 年 5 月 9 日

・説教 詩篇119篇161-176節「羊のようにさまよい」

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2021.05.09

鴨下 直樹

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 詩篇119篇も、今日で最後となりました。この詩篇は、ひたすらに、みことばに生きることの幸いを語り続けています。そして、恐らく詩篇のその背後には預言者エレミヤのような存在があると考えられます。他国の支配の中で、信仰に立ち続けようとする幸いを求めているのです。

 この161節から168節の部分は、祈り手がどれほどみ言葉を愛しているか、神の御救いに期待し、戒めを守っているのかが、何度も語られています。そして、みことばを大切にする理由として165節にこう語っています。

あなたのみおしえを愛する者は
豊かな平安があり つまずきがありません。

 みことばを愛して歩むことが、困難な生活の中でも、確かな平安を約束してくれるのだと信じているのです。

 今週からお隣の愛知県では、三度目の緊急事態宣言が出されることが決まりました。岐阜県でも、蔓延防止等重点措置が取られることが報道されています。一年数カ月に及ぶ、このコロナ禍で、多くの人々の生活が脅かされています。平安と言えるには程遠い生活を、多くの人々が強いられています。

あなたのみおしえを愛する者は
豊かな平安があり つまずきがありません。

 このように言えるのは、よほどのことです。では、この詩人は主のみおしえをどのように愛していたのか。それが、その前の164節で記されています。

私は日に七度 あなたをほめたたえます。

 教会は長い歴史の中で、さまざまな礼拝の仕方を作り出してきました。中でも、修道院では一日に七回礼拝をする、「聖務日課」という習慣が生まれました。この聖務日課はミサ、つまり聖餐式ではなくて、みことばに思いを寄せる礼拝が行われました。

 この聖務日課という習慣は6世紀の修道院から生まれたのですが、この聖務日課の根拠となっているのが、この詩篇119篇の164節です。

 まず、「晩課」という一日の仕事の終わりの礼拝があります。そして、就寝前の「終課」、その後は「宵課」(しょうか)または、「夜課」とよばれる深夜に行われる礼拝。そして、夜明けに行われる「賛課」。夜が明けてしばらくすると「一時課」が行われ、午前中にもう一度「三時課」が行われます。正午には「六時課」が、そして、午後には「九時課」が行われて、このように一日に七回礼拝を行う習慣がうまれたのです。実際に数えると8回あるのですが、これは日中に七回と、夜一回という考え方になったようです。

 これは、修道院生活の基本となっています。起きている時間の二、三時間に一度は礼拝をしてみことばを味わう時を持っていたことになります。

 この詩篇の言葉から、主にある平安を求める生活というものを考えて、作り出した一つの生活の姿です。

 それは、まるで浮世離れした生活と思うでしょうか。それとも、主にある平安というものを、そこまで真剣に追い求めた姿と思われるでしょうか。

 カトリック教会の考え方、それも修道院に入るような特別な人のことと考えることも出来るのかもしれません。もちろん、主のみ言葉を愛する生活というのは、そこまでしなければならないということではないと思います。けれども、そこまで主のみ言葉を真剣に求めて信仰の歩みをしている人たちがいる、あるいはいたということに心を寄せることは大切です。

 主と共にある生活の平安というのは、何もしないで与えられるものということではないのです。いつも、主と共に歩むためには、いつも主のみことばを聞きたいという、主への愛なしにはなりたたないのです。 (続きを読む…)

2021 年 5 月 2 日

・説教 詩篇119篇145-160節「私の苦しみをご覧ください」

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2021.05.02

鴨下 直樹

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 詩編119篇からみ言葉を聞き続けてきまして、ようやく終わりが見えてきました。今週と来週とで、この詩篇119篇の説教も終わります。この詩篇119篇は、一貫した主題はみことば、神の律法とは何なのかということが、ひたすら語られています。しかも、各段落にアルファベットの頭文字を用いているので、いろは歌のように、書きだしの言葉がかなり限定されるのですが、あまりそういった違和感のないほど巧みな言葉づかいで記されています。

 詩篇というのは、イスラエルの人々の祈りや賛美の言葉が、詩という形態で整えられてイスラエルの人々に用いられるようになった詩ですから、そこには詩ならではの書き方、スタイルがあります。

 先週、今年の農民文学賞の詩の部門で賞を取られた、古川彩さんの詩を見せていただきました。高校時代の、山形県の独立学園で経験した農作業や酪農の経験などが詩という形式で書かれています。読んでいますと、まだ高校生であった彩さんの姿がイメージできるような言葉づかいで書かれていて、その学校でした経験を言葉に綴る巧みさのようなものを感じます。

 かつて、ドイツの説教者ルドルフ・ボーレンは、すべての牧師は詩人でなければならないと言いました。短い言葉で、適切に言葉を表現することができる必要性を訴えていました。彩さんの詩は、まさにその自分が見て、感じたことを、短い適切な言葉で表現する詩になっています。「農民文学 春号」に載っておりますのでぜひ、多くの方に読んでいただきたいと思います。「大地青春」というタイトルがつけられています。詩は、三年間経験した農作業や稲刈りの思い出などがつづられています。この冊子の中に、独立学園の今の校長が記した祝辞が述べられています。その文章の中に、独立学園の理念となっている内村鑑三の言葉が紹介されています。「読むべきものは聖書、学ぶべきものは天然、なすべきことは労働」この言葉に基づく人間教育を独立学園は重視していると書かれていました。

 彩さんの詩、「大地青春」の終わりに、卒業のことを書いた「旅立ち」という詩があります。少しその部分を紹介したいと思います。

〇旅立ち

未だ雪深い弥生の空に
食堂から漏れるコーラスの声が
高く高く吸い込まれていく

わが学び舎の
三度目の冬の終わりの始まり

人と出会い人と生き
土に学び土に生き

出会いの大きさを捉えられず
身の内の空っぽを見つめたこともあった

その都度
ほんの少しずつ
心に沈んでいくものはあって
それは消えてなくならないと
分かってしまった
たったひとつ探求し得た 真理の片鱗

世に独り立つ時
その生き方が問われよう

幾度の涙で清められた眼差しの本当と
山の懐の本物を
ただ抱きしめていく

小さく満たされて
丁寧さに誠実で在ろう
こころいっぱい

 三年の間に、人と出会い、土に学び、自分と向き合ったことで自分が造られていったことが、見事に文章化されています。そして、世に出た時に、自分の生き方が問われる。
「小さく満たされて 丁寧さに誠実で在ろう こころいっぱい」
と結ぶ、その詩の言葉にすがすがしさと、詩人が経験してきたものが、自分のものになっていった強さを見ることができます。

 詩を読むというのは、詩人がそこで語ろうとしていることを聞きとる楽しみがあります。彩さんの詩は、読む人に、その楽しみを味わわせてくれる豊かな言葉の詩です。

 今日は、ちっとも聖書の話をしないままになっていますが、詩篇を読むことも同じです。
この119篇の詩人が、読み取って欲しいと願っていることを、聞きとる楽しみがあるのです。

 そうやって、145節から152節までを読んでみると、詩人がどんな生活をしているのかが見えてきます。この祈り手もまた、自分自身を見つめながら、毎日を生きています。そして、その毎日の歩みの中で生まれてくる心の叫びが見えてきます。 (続きを読む…)

2021 年 4 月 25 日

・説教 詩篇119篇129-144節「み言葉の戸が開かれると」

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2021.04.25

鴨下 直樹

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 今日の130節にこういう言葉があります。

みことばの戸が開くと 光が差し
浅はかな者に悟りを与えます。

 この詩篇119篇の中でも有名な言葉の一つです。このみことばが言おうとしていることは明らかです。聖書が分かるという経験は、まさに今まで真っ暗だったところが光に照らされていくという経験です。浅はかな考えが正されて、ものの道理が見えるようになるわけです。

 この130節のみことばは聖書が分かるということの意味を語っています。ある牧師は、「分かって分かる」と言いました。どうしても、聖書は頭では分かるんだけれども、なかなかその本当の意味というか、心にまで落ちてこないという経験は誰もがしているのではないかと思います。けれども、みことばが開かれて、そこに光が当てられると、その分かって分からないという部分が、分かって分かるようになるのです。

 では、その聖書の分からなさ、分からないという部分というのは、いったいどこになるのでしょうか。何が私たちの腑に落ちることを妨げているのでしょうか。色々なことがその背後には考えられます。

 今、私は名古屋の東海聖書神学塾で、「聖書解釈学」という講義を教えています。聖書をどう読むのか、その基本的な学びです。その学びの最初に、私は加藤常昭先生の書かれた『聖書の読み方』という本をテキストにして、講義のはじめの数回ですが、みんなで読んでいます。

 この本の中で、加藤先生が映画を見る時のことを例にあげて語っているところがあります。そこでは聖書の読み方のコツを語っています。泳ぎがうまくなかった加藤先生が、学校で一番早く泳げるようになったのは、泳ぎのコツをつかんだからだと言っています。ここで、その文章を少し紹介してみたいと思います。

「第一に、聖書の正しい読み方が身についていなければいけないということでしょう。速く泳げるようになるコツは、正しい泳ぎ方でなければならないのは当然です。聖書にはふさわしい読み方があるはずです。
ある人が映画をつくります。デザイナーが見に行って登場人物のデザインに感心したり、腹を立てたりしました。音楽好きの人は主題歌を一生懸命おぼえてきました。絵描きは色彩感覚の野暮なことでがっかりして、この映画はくだらないと言いました。外国の会話が上手になりたい学生は目をつぶって発音をできるだけ正確に聞きとろうとしました。
みんなそれなりに理由のあることでしょう。しかしそれだけで終わるのなら、だれもその映画を見たことになりません。はじめから見当ちがいだったのです。」

 そんなことを言っています。自分の楽しみたいように映画を見るということでは、映画をちゃんと見たことにならないわけです。それと同じように、聖書を読むときのコツというのも、まず、自分の興味から読み始めるのではないということです。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、案外私たちが聖書を読もうとするときに、何かその一日の目標になる標語のような言葉を探してみたり、行動指針のようなものを探して聖書を読むということをしてしまいがちです。けれども、そのような自分の都合で聖書を読むということが、聖書が分からないという原因であるということに気づかされます。

 その本の中に、加藤先生が太宰治のことを紹介している文章があります。太宰治が死ぬ少し前に書いた「如是我聞」(にょぜがもん)という文章です。これは外国を旅した人が書く旅日記のことを語っている文章です。
 これも少し紹介してみたいと思います。

「私には不思議でならぬのだが、いはゆる『洋行』した学者のいはゆる『洋行の思い出』とでも言ったような文章を拝見するに、いやに、みな、うれしそうなのである。うれしいはずがないと私には確信せられる。・・・私は、かねがね、あの田舎の中学生女学生の団体で東京見物の旅行の姿などに、悲惨を感じてゐる。
 醜い顔の東洋人。けちくさい苦学生。赤毛布(あかげっと)(あかげっとというのは、上着のかわりに赤い布団を羽織って外に出たという、田舎者を揶揄する言葉のようです)。オラア・オツタマゲタ。きたない歯。日本には汽車がありますの? 送金延着への絶えざる不安。その憂鬱と屈辱と、孤独と、それをどの『洋行者』が書いてゐたらう。・・・
 みじめな生活をして来たんだ。さうして、いまも、みじめな人間になってゐるのだ。隠すなよ」

 これは、加藤先生の文章ではなくて、太宰治が外国に行った人の経験談を読むときのことを、ここで語っています。少し時代を感じる文章ですが、言おうとしていることはよく分かると思います。では、なぜ、加藤先生が、聖書の読み方を教える本の中で、この太宰治のことを言っているのでしょうか。外国に行った旅行記のようなものを書いても、その人の姿が見えてこない。楽しかったことや美しかった景色のことは、書かれていても自分のことが書かれていない。そんな自分の存在を無視したかのような文章が、自分をごまかしているのではないかという指摘です。それと同じように、聖書を読んでも、そこに自分のことを読み取っていかなければ聖書を読んだことにはならないということです。

 そこで加藤先生はこんなことを言っています。

「自分のことをしばらく捨てて聖書を読んでみるということは、聖書そのものがゆるさないのです。しかもこういうことが案外多いのです。」

 自分自身を聖書の中に読まないと、聖書は読めないのです。自分と関係なしに聖書を読んでも、それは聖書を読んだことにはならないのです。聖書というのは、私たちと深くかかわってきます。この聖書の中に、私たちのあるべき姿が示されているからです。 (続きを読む…)

2021 年 4 月 11 日

・説教 詩篇119篇113-128節「あなたのみことばのとおりに」

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2021.04.11

鴨下 直樹

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 先週の聖書の学びの時にみなで、今日の詩篇を読みました。私は少し別の用のために遅れてしまって終わりの方しか出ることが出来ませんでしたが、私の代わりにM長老が担当してくださいました。ずいぶん活発な意見を交わしていたようで、とても嬉しく思いました。その最後の方に、ある方がこういうことを言われました。

 「この詩篇の作者は、『私は公正と義を行います』と121節などでは言っていて、自分は正しいという正義の側にいるけれども、そんなふうになれるのだろうか」と言われた方がありました。

 今日の箇所を読んでいますと、そのように読めるわけです。冒頭の113節にもこう記されています。

私は、二心のある人たちを憎み、あなたのみおしえを愛します。

 二心のある人たち。神様とこの世、内と外、本音と建て前、そういう者の姿と考える時に、それは自分の姿ではないかという思いになるのであって、人のことを責め立てる側に立てるのだろうかという疑問です。

 先週の「ざっくり学ぶ聖書入門」で、ヨブ記を取り扱いました。ヨブ記を読んでいても、そんなところが何度も出てきます。「自分は裁かれるような悪いことをしていないのに、神はどうして私を苦しめるのか」そういうヨブの悲痛な訴えが何度もでてきます。

 ヨブの友達は、そういうヨブの言葉を聞きながら、そのヨブの考え方が傲慢なのだと訴えます。そして、何か悪いことをしているからそうなったのだと、因果応報を説くのです。

 ここでヨブ記の話をするつもりはないのですが、自分の正しさを訴えるという民族性というか、この時代の人々の考え方の中にそういう理解の仕方があるのかもしれません。こういう聖書を読んでいますと、時々、私たちとは感覚が少し違うと感じるのかもしれませんが、よくよく考えてみると、私たちにも人の行いを指摘したいという考え方は少なからずあるのだと思います。

 ただ、この方の指摘である、「自分は正しい側にいるという視点で悪い者を退けてくださいと祈れるのだろうか」という視点は、聖書を読むときに、聖書を正しく理解するきっかけになります。素朴な疑問を持つことが、聖書が分かるということに結びついていくのです。

今、私たちはこの長い、詩篇119篇から言葉を聞き続けています。とても長い詩篇です。全部で176節もあります。そのためにこうして、細かく区切って説教しています。しかし、この詩篇は本来ひとまとまりの文章ですので、やはり、いつも全体の内容を理解する必要があります。

 細かく分けていくと、この詩篇の内容が忘れられていってしまうのです。改めて、最初の1節から目を通して読んでいくと、様々な発見があります。そして、そこから見えて来る祈り手の姿というは、決して自分は正しいのだという視点にはいないということが見えてきます。主のおきての道を知りたい、自分が罪ある者として歩んでいきたくない、神の言葉に従って生きることが、どれだけ自分を救うことになるのかという祈り手の姿が見えてきます。それは、切実な祈りの言葉で、何度も何度も繰り返し語られています。

 各段落の冒頭の言葉だけを拾い集めてみても、その姿はよく分かります。

1節「幸いなことよ/全き道を行く人々/主のみおしえに歩む人々。」
9節「どのようにして若い人は/自分の道を 、清く保つことができるのでしょうか。」
17節「あなたのしもべに豊かに報い 向かい、私を生かし/私があなたのみことばを守るようにしてください。」
25節「私のたましいは/ちりに打ち伏してします。みことばのとおりに私を生かしてください。」
33節主よ あなたのおきての道を教えてください。/そうすれば 、私はそれを終わりまで守ります。

 このように、祈り手は必死になって神の御言葉に従いたいのだとい言う意思を明確にしているのです。

 以前、聖書学び会で、M長老が、この祈り手はエレミヤのようではないかと言われたことがあります。聖書を解説する人の中にもそのように言う人もいます。
少し前の85節で「高ぶる者は私に対して穴を掘りました。/彼らはあなたのみおしえに従わないのです。」という言葉があります。

 そこの箇所を読んだ時に、すぐにM長老はエレミヤのことが出て来たのです。エレミヤは穴の中に落とされて捕らえられたことが、このみ言葉を目にした時にすぐに思い浮かんで来たのです。私は、この祈り手はエレミヤのような人ではなかったかというM長老の指摘を聞いて、それ以来、この詩篇を読むときにエレミヤのような人の祈りとして読んでみるということを意識するようになりました。そうすると、不思議とこの祈り手の信仰が見えてくる気がするのです。

114節

あなたは私の隠れ場 、私の盾。
私はあなたのみことばを待ち望みます。

 祈り手はここで、そう祈っています。

 ここで、この詩篇の祈り手は、明確な敵の姿が見えています。そして、その敵から主が私を守ってくださるお方だということを、みことばからよく知っているのです。それはエレミヤの姿とも重なるようにも思えます。ただ、こうやって聖書を読んでいきますと、確かにエレミヤには明確な敵がいました。エレミヤの預言をないがしろにして、落とし穴まで掘って語らせないようにしようとした人たちがいたのです。

 そこで、考えるのです。確かに、エレミヤには明確な敵の姿がありました。しかし、現代に生きる私たち信仰者の敵とは何でしょうか? 誰なのでしょうか? 私たちはいったい何と戦っているのでしょうか。そんなことを考えさせられます。

116節と117節でこう祈っています。

あなたのみことばのとおりに、
私を支え 、生かしてください。
私の望みのことで
私を辱めないようにしてください。
私を支えてください。
そうれば私は救われ 絶えずあなたのおきてを
見つめることができます。

 私の敵とは何だろうか。何から救われることをも願っているのでしょうか。そう考える時に、今の私には一つの答えしか出てきません。それは、「私の敵は、私だ」ということです。この箇所を読んでいると、改めて、気づかされるのです。主の御前で、自分自身を恥じるしかないことに。この詩篇の祈り手のように、人をさばけるような立場に自分がいないことを意識せざるを得ないのです。

 人をさばくどころか、反対にどんどん怠惰になっていく自分の姿に気づくのです。毎日毎日、それなりに生活して、それなりに事が進んで行くうちに、ああ、これでうまく行くんだからこれでいいのだと考えてしまっている自分の姿に直面させられるのです。

113節

私は 二心のある人たちを憎み
あなたのみ教えを愛します。

 ここを読むと、私はそう祈れるのか。自分に二心があるのではないのか。「あなたのみ教えを愛します」と言えるのか。自分は主のみ教えを損なっているのではないのか。そんなふうに思えて仕方ないのです。

 だから、最初にお話しした、祈祷会で「祈り手が人をさばける立場に自分を置けるのだろうか」と、発言された時に、私自身もハッと気づかされたのです。この祈り手と自分は、同じところに立っているのではない。そのことを認めざるを得ないのです。

119節にこう書かれています。

あなたは 、地の上のすべての悪しき者を
金かすのように 取り除かれます。

 面白い言葉です。金属加工をしておられるY長老が面白がられりそうな言葉です。金属を加工するときに、金かすが出でます。今ならばそれは捨てられてしまうのでしょう。けれども、その金かすはきっとこの時代にはもう一度炉に入れられて、金属になったるのでしょうか。あまり詳しくないのですが、そのくらいの想像はできます。

 神にとって、悪しき者は金かすのように削り取られ、捨てられて、やがて熱い火の中に投げ入れられる。それが、私たちの姿なのかもしれません。

 祈り手は、もちろんそうではない神の側につく者として祈っているのですが、今の私に迫ってくるのは、そうして裁かれる者の姿です。

120節

私の肉はあなたへの恐れで震えています。
私はあなたのさばきを恐れています。

 神の側にいる者だとしても、主への恐れを持ち続けているのです。神は、悪しき者を金かすのようにするということが、よく分かるからです。

 だからこそ、116節、117節のような祈りになるのです。

あなたのみことばのとおりに
私を支え 生かしてください。
私の望みのことで
私を辱めないようにしてください。
私を支えてください。
そうれば私は救われ
絶えずあなたのおきてを
見つめることができます。

あなたのみことばのとおりに、私を支え、生かしてください。

 これは、私たちの切なる祈りです。神の言葉のとおりに生きていない。けれども、主のみ言葉のとおりに生きたいのです。そのために私を支え、私を生かしてください。これが、私たちに共通する祈りの姿だと思うのです。

 この願いは、自分の弱さと戦っている小さな信仰者でも、エレミヤのような主の傍らで語ろうとする預言者であっても共通する祈りの姿です。

 この祈り手は1217節からこう祈っています。

私は公正と義を行います。
私を虐げる者どもに 私を委ねないでください。
あなたのしもべの幸いの保証人となってください。
高ぶる者が私を虐げないようにしてください。

 祈り手は、願うのです。敵が、私を支配することが無いようにと。そして、私の幸いの保証人になって欲しいと。

 私たちの敵とは何でしょう。私たちを神から引き離そうとするものはなんでしょう。自分自身のどんな思いが私の敵となっているのでしょう。私たちはそのことをしっかりと見据えなければなりません。主が幸いの保証人となってくださる。そうだとすれば、主の願う幸いを知らなければなりません。自分の願う幸いではないのです。主の願う幸いです。この自分の願う幸い、この願いが私たちを神の願いから引き離してしまう、私たちの敵となり得るのです。

 126節ではこう祈っています。

今こそ主が事をなさる時です。
彼らはあなたのみおしえを破りました。

 今こそ、神の介入がなされるべきだ。私の敵は、主のみおしえを破ったのだから。そう祈っています。厳しい祈りです。激しい祈りです。律法を破る、神の約束を踏みにじる。その時、神が介入なさるべきだという祈りです。

 とても人間的な願いです。不正を行えば暴かれるべきだとい言うのです。神のさばきが行われるべきだというのです。

 しかし、ヨブ記にもあります。ヨブもそう語ったのですが、この世界には不正をする者が満ちていて、その者は裁かれることもなく楽しそうに生きている。かえって貧しい者、虐げられている者がも、特に顧みられることもないままにいるではないか。そんなヨブの叫びがあります。それも、一つの見方です。

 単純に、悪いことをしたものが、裁かれ、虐げられているものに、主の目が注がれるという、善悪がはっきりと分かるほど、単純な世界に私たちは生きていないのです。けれども、この祈りのように神が裁いてくださるかどうかは分からなくても、そう祈ることがゆるされているのです。神の義が行われて欲しい。それが、神の前に誠実に生きようと願う者の祈りの姿でもあるのです。

 悪い者が裁かれ、誠実な者が祝福される。そんな世界ならなんと分かりやすいことでしょう。しかし、私たちが生きている世界は実に複雑なのです。ただ、はっきりしていることがあるのです。そして、この祈り手はそのことを切に祈り求めています。二つの祈りです。

 1つは、118や119節にあるように、主のみことばに耳を傾けない者を、主は退けられるということ、悪しき者は金かすのように取り除かれるということです。
 そして、もう一つは127節にあるように、主の仰せは金よりも、純金よりも価値があるのだということです。

 結局のところ、この世界で幸いに生きられるかどうかは、主の言葉に価値を見出すかどうかにかかっているということです。

 神の言葉か、それ以外か。この、それ以外のものが、私たちを支配しそうになるのだとすれば、それは、神の敵となるのです。しかし、神の言葉の中に、幸いがあるのです。この言葉、神の言葉が、どれだけ人を幸せにするのか、神の言葉にどれほどの価値があるのか、この祈り手はよく知っているのです。

 この祈り手は、この詩篇119篇の中で、何度も何度も自分の弱さを口にします。自分が虐げられていること、自分が打たれ倒れこんでしまっていること、敵に狙われていること、悲しみに呑飲み込事まれてしまっていること。この詩篇119篇を読んでいくと、いくつもそういう言葉を見つけ出すことが出来ます。

 神は、自分の罪を言い表すもの、自分の弱さを知る者、自分を主の前にさらけ出し、自分を隠そうとすることをやめる者に、主は語りかけてくださるお方なのです。まさに、そのような弱さの中で、人は神の言葉を聞き、神と出会っていくのです。

 主は隠れ家となってくださるお方です。主は盾となってくださるお方です。主はみことばの通りに生かし、支えてくださるお方なのです。

 そういう主を知ること、主との出会いが、神のことばの中にはあるのです。

お祈りをいたします。

2021 年 4 月 4 日

・説教 詩篇119篇97-112節「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 04:47

2021.04.04

鴨下 直樹

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Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 イースターおめでとうございます。今日は、主がよみがえられたことを共に喜ぶイースター礼拝です。このイースターの礼拝で、洗礼入会式と、転入会式を行うことができるのはとても幸いです。

 このコロナ禍にあって、どこの教会もそうだと思いますが、なかなか伝道が思うようにできません。いわゆる伝道的な集会はことごとく休会となっています。そんな中で、55プラスに集っておられたMさんが、信仰告白をし、洗礼を受けることになりました。今、この場にはおられませんが、55プラスをはじめられたマレーネ先生もとても喜んでおられると思います。

 55プラスというのは、毎月一度ですが、55歳以上の方が集いまして、マレーネ先生が作ってくださるドイツのお菓子とコーヒーなどをいただきながら、テーブルごとに座られた方々と、しばらく歓談を楽しんだ後で、一人ずつ毎回異なるテーマが与えられていて、そのテーマについて参加された方々が自由にお話をするという集いです。そして、最後にマレーネ先生がその時のテーマに基づいた聖書の話をしておられました。

 Mさんは、そこでマレーネ先生が語られるメッセージを聞くうちに聖書に関心を持つようになって、インターネットで聖書の学びをされたそうです。

 聖書が何を語っているのかという事に、少しずつ心がひかれていったのです。

 今日、転入会されるSさんも、クリスチャンの友人が与えられて、そこから教会に集うようになり、やはり礼拝で語られる説教に心惹かれるようになって信仰に導かれた方です。

 今日の詩篇119篇の105節に、こういうみことばがあります。

あなたのみことばは 私の足のともしび
私の道の光です。

 おそらく、この詩篇119篇の中で最も有名なみ言葉といっていいと思います。Mさんも、Sさんも、自分の歩むべき人生の道の光として、聖書の光が必要だという事に気づかされていったのだと思います。これからの人生の道を示す指標として、その道を照らす光は聖書なのだということを知ったのです。

 暗い森の中を歩くという経験は、今の日本ではあまりないのかもしれません。けれども、想像することはできると思います。森を歩いていて進む方向が分からなくなるのは、太陽の位置が分からなくなってしまうからです。そうなると、自分がどちらの方向に進んだらいいのか分からなくなることがあります。よく知った森の道ならまだ大丈夫なのかもしれませんが、見知らぬ土地であればなおさらです。そんな道を進んでいる時に、民家の光が見えてきたらもうそれはホッとするに違いありません。自分の進んで来た方向は間違いではなかったということが分かる時でもあります。

 みことばは私の足のともしび、それは足元を照らす光でありながら、私たちに安心感をあたえるものでもあるのです。 (続きを読む…)

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