2023 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「祈りをおしえてください~主の祈り1」

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2023.12.24

鴨下直樹

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 クリスマスおめでとうございます。クリスマスにお生まれになられた主イエスの祝福が皆様の上にありますようお祈りします。

 今日は、クリスマス・イブです。でも、今は朝の礼拝なので、イブというのはなんだか変な感じがするかもしれません。みなさんは、今日の週報に待降節第四主日と書かれているので不思議に思われる方もあるかもしれません。

 「クリスマス・イブというのはクリスマスの前夜祭です」そんな説明が巷ではなされることがあります。そういう理解だと、今日のような24日の朝の礼拝が、待降節第四主日だということが分からなくなってしまうのかもしれません。

 当時のイスラエルの暦というのは、日が暮れたところから一日が始まるという理解があります。ですから、24日の夜に主イエスがお生まれになったと考えると、その日はすでにイスラエルの考え方では25日になったわけで、それで25日がクリスマスということになったのです。でも、私たちの暦では深夜の12時を過ぎてから日付が変わります。主イエスがお生まれになられた夜は、まだ24日ですから、24日の夜のことを「クリスマス・イブ」と言ったり、「聖夜」と言ったりするわけです。

 ですから、今朝のこの24日の礼拝は、厳密に言うと日が暮れていませんからクリスマス・イブではないことになります。なので、今朝は少しまだるっこしいのですが待降節第四主日という言い方になってしまうのです。

 先ほど、私たちはスキット(寸劇)で宿を探すヨセフとマリアの場面の聖書の物語を聞きました。人々が、長い間待ち望んでいたはずの救い主がお生まれになられるのに、実際にはそのことに誰も気づかなくて、マリアとヨセフは宿を見つけることができなかったのです。とても残念な出来事でした。

 今日の礼拝は、子どもたちも一緒にこうしてみ言葉を聞いています。この日の夜、サンタさんがクリスマスプレゼントを持ってきてくれることになっています。どうでしょう、子どものみなさんは、明日の朝、プレゼントが届いているのに、それに気づかないなんてことがあるでしょうか? もし気づかなかったら血眼になって探すかもしれないですね。
 
 私が小さかった時、小学生の低学年の時に、朝起きるとクリスマスプレゼントにセーターとくつ下が入っていたことがありました。そういう時代だったといえばそうなのかもしれませんが、子どもの私は、その事実を受け入れることができませんでした。欲しいものが沢山あったのに、よりによってセーター? くつ下? 弟も姉も、その年は同じような衣類で、微妙な顔をしていました。もう記憶があまりないのですが、たぶん両親に泣いて抗議したのだと思います。でも、もうプレゼントは届いてしまっているわけで、返品も交換もできません。

 願い事というのは、強ければ強いほど、それが実現した時には、「願ったものはこんなものではない」という思いが強くなるのかもしれません。

 旧約聖書の時代から、神の民であるイスラエルの人々は救い主が与えられることを願い、祈り続けて来ました。そして、待ちに待った救い主が、この夜にお生まれになられました。今は、世界中でこのクリスマスのお祝いをしています。救い主イエス・キリストのことをよく知らない人でさえ、このクリスマスをお祝いしています。

 けれども、お生まれになられた時は、誰もマリアのお腹に神の御子であられる救い主が宿っておられるとは気づきませんでした。それこそ、どこにも身重のマリアを泊める家もないほどに、無関心だったのです。あんなに楽しみにして、長い間たくさんの人たちがお祈りしてきたのに、ちょっとびっくりしてしまいます。 (続きを読む…)

2023 年 12 月 17 日

・説教 ルカの福音書10章38-42節「マルタへの福音」

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2023.12.17

鴨下直樹

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 何年か前のことです。誰と話したのかあまり覚えていないのですが、その方は、「私はこのマリヤとマルタの話が嫌いです」と言われました。その言葉だけが私の耳に残っています。「一所懸命奉仕をして、もてなしているのに、これではマルタが浮かばれない」ということのようでした。

 反対に、この話が大好きですという方も何人かあるのだと思います。よく知られた話です。私自身も、聖書の話ということとは関係なく、「どちらが正しくて、どちらかが間違っている」と一方的に断罪される話はあまり好きではありません。そのどちらにも言い分というものがあると思うからです。

 実際どうだったのでしょう。マルタはこの時、主イエスに咎められて胸が締め付けられたのではなかったか。「どうして自分ばかりが損な役回りをしなければならないのか」そんな思いが心の中に浮かんできたのではないかと思うのです。

 私たちの周りには理不尽な出来事というのはいくらでも存在します。私たちはこの「理不尽さ」というものに対して、子どもの頃から立ち向かって生きていると言っても言い過ぎではないと思うのです。細かな例を上げなくても、みなさんも心の中にいくつも浮かんでくるのではないでしょうか?

 そんな時、私たちは理不尽さに対して憤りを覚えたり、心をすり減らしたりしながら耐えている。職場でも、家の中でも、地域の中でも、この理不尽さというものは存在するのです。

 マルタの家に主イエスたち一行がやってまいりました。前の話の流れからすれば72人という大所帯です。もし主イエスと12人の弟子たちだけであったとしても13人いますから、もてなす方としてはかなり大変だということは想像できます。

 前のところで、主イエスが律法学者のシモンの家を訪ねたときには、ここでは「あなたは足を洗う水をくれなかった」と言われています。そんな主イエスの言葉を耳にしていたとすれば、弟子たちの足を洗う水の準備だけでも大変だったと思うのです。今のように水道のある世界ではありません。もし72人もいたと考えると、考えるだけでも恐ろしいことです。

 今の日本のようにお茶を出す習慣があったとは思いませんが、手を洗う水や、飲み水の準備もあったかもしれません。弟子たちを座らせるだけでも、一苦労だったに違いないのです。

 そして、気づくと、おそらく妹だと思うのですがマリアを見ると、弟子たちと一緒になって腰を下ろしている。

 私がマルタでも、マリアに一言言ってやりたい気持ちになるのは当然のことです。もちろん、マルタにも良くないところがあります。せめてマリアの耳元で「ちょっと大変だから手伝って!」と言えばよかったことを、こともあろうに主イエスに当たるかのように言ってしまいました。 (続きを読む…)

2023 年 12 月 10 日

・説教 ルカの福音書10章25-37節「隣人となる愛」

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2023.12.10

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は「善きサマリア人のたとえ」と呼ばれるところです。ルカの福音書の譬え話の中でもよく知られた譬え話です。

 内容は、お聞きいただければよく分かると思います。隣人を愛することとはどういうことなのかが、記されています。しかも、この譬え話は、イメージしやすい物語として語られています。ここに出てくるサマリア人というのは、ユダヤ人たちとはあまり仲が良くありません。言ってみれば敵対関係にあるような、そんな民族同士の争いを抱えている間柄です。そして、この物語の主人公となるサマリア人は、まったく偶発的に、この出来事に巻き込まれていくわけで、隣人を愛そうと思って、愛の業を行ったという話ではないのです。

 こういう話を私たちが読む時に、どうしても考えてしまうのは、どうしたら私たちは隣人に親切にできるようになるだろうかということです。道徳の教科書でも読むかのようにして、この譬え話から、「教訓」を導き出そうとしてしまうのです。けれども、私たちはそういう聖書の読み方を、一度立ち止まってよく考えてみる必要があります。

 このような出来事は、私たちの周りにはいくらでもあります。そして、私たちはこういう出来事を経験する時に、いわゆる「建前」としては、何をどうしたら良いかということは、よく分かります。けれども、「実際のところ」あるいは「本音」では、それができないということに直面させられるのです。

 先日、ある牧師から連絡をいただきまして、今、拘置所にいる方が教会に手紙を書いてきて、コンタクトを取りたいと言ってきているというのです。自分は対応できないので、岐阜県のキリスト教会の教誨師の方を紹介して欲しいということでした。拘置所にいるということは、今裁判中ということのようです。私はその話を伺って、教誨師を紹介しました。ところが、その教誨師は現在、病気の治療中であり、また自分は日本人ではないので手紙でコンタクトを取ることが難しいという返事が返ってきたということでした。あとでこの牧師から直接お話を伺ったのですが、刑務所にいる受刑者の方への教誨師の働きはされておられたのですが、裁判中の拘置者と連絡を取ることは困難だというご事情があったようでした。

 私はその話を聞きながら、このサマリア人の譬え話の、祭司やレビ人と同じことが起こっているなと感じるわけです。今困っている人を助けたいという気持ちはあるけれども、いろんな事情があって助けることができないのです。きっとこの譬え話に出てきた祭司やレビ人にだって、説明のつく助けられない事情があったのです。

 一方で、やはり助けてやるべきではないか、という思いがないわけではありません。けれども、そう思うと同時に、この話の相談を受けた私自身の中にも、この牧師はその立場にいるからやるべきだけれども、その時に私自身はどこか外からそれを眺められる所に立っているのだということもまた、考えさせられてしまうのです。

 結果としてどうなったのかというと、はじめに連絡をしてきてくださった牧師が直接対応されることになったようです。私も、何かあればコンタクトを取りますと昨日お伝えしたところでした。

 私たちは、「建前」では、何をすることが良いことなのかということは、誰でもある程度理解できます。けれども、実際にそれを行う時の難しさというものをどうしても意識せざるを得ないのです。 (続きを読む…)

2023 年 12 月 3 日

・説教 ルカの福音書10章17-24節「恵み、このすばらしきもの」

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2023.12.3

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所を読んで私たちの心に印象として残るのは、弟子たちの喜びの姿です。72人の弟子たちが伝道に派遣されて、戻って参りました。そしてお互いの顔を見合わせて喜んだのです。何を喜んでいたのかというと、17節に書かれているように、「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」ということでした。

 きっと派遣される前の弟子たちは緊張していたと思うのです。伝道がうまくいくのかどうか。前の9章に記されていた弟子たちの姿というのは「こんなにもダメな弟子たち」という説教タイトルにしなければならなかったほどのダメっぷりでした。

 主イエスが山の上でモーセとエリヤと共に光り輝いていた時も、地上では残りの弟子たちは悪霊を追い出すことができず、右往左往するしかなかったのです。そんな弟子たちでしたから、今度もうまくいかないのではないかと心配だったに違いありません。不安を抱えていたに違いありません。

 ところが、今度は「自分にもできた!」という経験をすることができたのです。弟子たちがどれほど嬉しかったかは、私たちにも容易に想像できます。

 私たちは、毎日あらゆるメディアを通して、知恵のある人や、経験の豊富な人が成功するという情報を耳にしています。そして、うまくできない人というのは努力を怠った人だという評価をされることを知っています。そのような共通理解があるために、実に多くの人々が苦しんでいることも知っています。誰だって喜びたいと思っているはずです。誰だって、できないよりは出来た方が幸せだし、そういう成功者の仲間入りをしたいと望んでいます。

 しかし、そうできないという現実が私たちを苦しめます。できる部分もあるはずなのですが、出来ない部分で人は苦しみを担うのです。自分はダメだという落胆、心が満たされないという不満、そうして、もう何もしたくないという絶望感が生じて、そんな思いが更に私たちを苦しめるのです。

 主イエスの弟子たちは決して知恵があったわけではなかったでしょう。経験が豊かだったわけでも、自信があったわけでもない、私たちと何も変わらない人たちです。弟子になってから日も浅く、分からないことだらけ、不安だらけ、そんな中で伝道に遣わされて行ったのです。そうした中で、主イエスの言葉に聞き従った時に何が起こるのかを、弟子たちは経験したのです。

 自分たちの語る言葉、福音が目の前で現実的な救いの出来事となっていくのを目の当たりにしたのです。語った言葉が、光となり、人々の希望となっていったのです。それが、「悪霊どもでさえ私たちに服従します。」という言葉の中に込められています。

 弟子たちは嬉しかったに違いありません。喜びを感じたし、生き甲斐を覚えたと思うのです。すると、主イエスはここで、その弟子たちにまず18節から20節の言葉を語りかけました。19節にこうあります。

「確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」

 この主イエスの言葉は、どれほど弟子たちを力づけたことでしょう。主イエスの言葉は、弟子たちの中に今すでに与えられているものが何なのかを、ここで明らかにしているのです。あなたがたは、自分のことを自信のない小さな存在としか思っていないのかもしれない。けれども、わたしはあなたがたにサタンにも打ち勝つことのできる権威を与えている。そのために、サタンはあなたがたに何もできないのだと言われたのです。 (続きを読む…)

2023 年 11 月 19 日

・説教 ルカの福音書10章1−16節「羊とオオカミ」

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2023.11.19

鴨下直樹

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 今日は、子ども祝福式礼拝です。私たちの教会にこうして多くの子どもたちが集まってくれているのは、教会として大きな祝福です。

 今日は、羊とオオカミというタイトルにしました。今日の聖書の言葉の中に、主イエスが言われたこんな言葉があります。3節です。

「さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。」

 主イエスは、ここで72人の弟子たちを伝道に送り出されます。そこで、言われたのが、この言葉です。主イエスの弟子たちに対する愛に満ちた言葉です。

 すでに、9章で主イエスは12弟子たちを伝道旅行に送り出していますが、ここではさらに多くの弟子たちを伝道に派遣するところです。

 主イエスからしてみれば、弟子たちのことが子羊のように可愛くて仕方がないです。この子羊が遣わされていくのは、狼の中に送り出すようなものだと言われました。

 きむらゆういちさんの書かれた絵本で「あらしのよるに」という本があります。ご存知でしょうか? この方はいろんな絵本を書いている方で、主に赤ちゃん向きの絵本が多いのですが、この絵本は小学校低学年向きの絵本です。また、大人にも人気のある作品です。出てくるのはオオカミとヤギの話です。

 ある嵐の夜に、ヤギは嵐を逃れるために山小屋で一夜を明かすことにします。すると、そこに、もう一匹が嵐を逃れるために山小屋に入ってくるのです。小屋の中はまっくらで相手のことが見えません。そこに入ってきたのはオオカミだったのですが、お互い、そのことに気づかないで、仲間だと勘違いしたままの言葉の掛け合いが、実にスリリングで面白いのです。その嵐の中で、二匹は仲良くなります。そして、あくる日、一緒におひるごはんを食べに出かけようと約束して終わるのです。

 この続きの2巻は、「あるはれたひに」というタイトルです。翌日は、すがすがしい天気を迎えます。おひるごはんを食べる約束をした二匹は、お互い顔を合わせてびっくりします。そんな中で、二匹はえさ場まで歩いて向かうのです。その時の会話もまた、スリリングで、ユーモアにあふれています。ヤギがいつ食べられてもおかしくないという緊張感の中で物語が進んでいくのですが、ヤギにできることはオオカミを信頼するということしかできないのです。この物語の中で二匹はとても仲良くなっていくのです。物語はシリーズを重ねて第七巻まで出ています。

 この物語に多くの子どもや大人が惹かれるのは、ありそうもない話だからです。けれども、同時に、そんなことが起こったら楽しいだろうなと思うのです。

 オオカミには力があります。その持てる力で相手を恐れさせることによって、オオカミらしくあることができます。力を持つ者が、上にたつことで優位さを示そうとするのは普通です。そして、この世界では残念なことですが、誰もがこのオオカミのような力を手に入れたいと願いながら生きているのです。

 ヤギのようになりたい。今日の聖書の言葉でいえば羊のように生きたいと思う人はごくわずかしかいないのです。 (続きを読む…)

2023 年 11 月 12 日

・説教 ルカの福音書9章51−62節「主イエスの決意」

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2023.11.12
召天者記念礼拝

鴨下直樹

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 今日は、召天者記念礼拝です。主のみもとに送った家族のことを覚えて、こうしてたくさんの方々がこの礼拝に集ってくださっています。

 特に、今日はこの礼拝の後、墓地で行われる墓地礼拝で3名の方の納骨式を致します。その亡骸(なきがら)を納骨堂に収めるのです。私たち、はそうすることで主のみもとに送った家族のことを思い起こし、彼らが主のみもとにいることを覚えようとしているのです。

 今、私たちの教会ではルカの福音書からみ言葉を聞き続けています。今日、この召天者記念の礼拝に丁度当たっている場所がこの箇所です。ここには、父親の葬儀をしたいと言っている人に、それは他の人にやらせなさいなど、主イエスが言われたということが書かれています。読んでびっくりされた方もあると思うのです。けれども、ここには今日私たちにとってとても大切なことが記されていますので、ぜひ、一緒にこのみ言葉に耳を傾けていただきたいと願っています。

 私たちは今日、天に送った家族や信仰の仲間のことを覚えて、この召天者礼拝に集っています。ここで私たちは、私たちに与えられた人生について一度立ち止まって考えようとしています。

 人の生涯というのは本当に不思議なものです。若い時は、自分がどんな大人になるのかと悩みながら人生を歩みます。大人になれば、自分の今の生き方が間違っていないのか、もっと意味のある生き方ができたのではなかったのかと不安になりながら、毎日を送ります。年をとっても悩みがなくなることはありません。自分の過去を悔いたり、今からでも充実した時間を過ごそうと、そこでも悩みを持ったりするのです。

 自分の生き方はこれで正しいはずだ、間違っていなかったと思えるのだとすれば、それは幸いなことと言えると思います。

 豊かな人生というのは、いったいどう生きることを言うのでしょう。豊かな人生というものがあるのだとすれば、それはきっと、神からあなたの生き方はこれで間違いないとお墨付きをいただくことができる人生でしょうか。人は神様からそう言っていただいてようやく平安を抱くことができるのだと思うのです。しかし、それにはどうしたら良いのでしょう。

 今日の聖書の箇所は、主イエスの生涯の中でも、重要な局面を迎えた時のことが記されています。51節にこのように書かれています。

さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んでいかれた。

 ここに「天に上げられる日が近づいて来たころ」とあります。主イエスが、ご自分の死を意識するようになった時のことが、ここから書かれているのです。つまり、ここからの主イエスの歩みは死に向かう歩みであり、それが始まったということです。

 これは余命宣告を受けた時のようなものだと言ってもよいかもしれません。以前、この教会にホスピスケアの働きをしておられる柏木哲夫先生をお迎えして、講演会をしたことがあります。私はその時に聞いた話を今でも忘れることができません。

 柏木先生はその時、「余命宣告を受けた方は、はじめはそれを受け入れるのにとても動揺してあらがうのだけれど、一週間ほど過ぎると誰もがみな何か吹っ切れたような状態になる」という話をなさいました。そして、人は自分の死を受け入れた時に、その人はそこから新しく生きるようになるのだという話をしてくださいました。これは私にはとても印象的な言葉でした。

 余命宣告を受けて自分の死を受け入れるというのは、簡単なことではないはずです。けれども、それを受け入れた時に、残された時間をどう使うか、そこに集中するようになるというのは、分かる気がするのです。

 主イエスはここで「イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んでいかれた」とあります。少し不思議な言葉ですが、意図していることはわかると思います。エルサレムに行くというのは、この場合、十字架にかかりに行くということです。自分の死に向かって覚悟を定めて、ひたすらに進んでいこうとするということです。 (続きを読む…)

2023 年 11 月 5 日

・説教 ルカの福音書9章46−50節「こんなにもダメな弟子たち2」

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2023.11.05

鴨下直樹

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 今日の説教題は、先週に引き続き「こんなにもダメな弟子たち2」としました。今日の箇所は先週の続きの部分です。

 このルカの福音書の9章は、弟子のペテロが主イエスのことを「あなたはキリストです。」と告白したところから、大きな転換点を迎えています。この「主イエスはキリストである。」という言葉は、いったいどういう意味を持っているのか、このことを主イエスはこの時から弟子たちに教え始めておられるのです。

 そこで、変貌の山ではモーセとエリヤが現れて、主イエスが旧約聖書の預言の人物であることを弟子たちに示し、また、天からの神の言葉を聞かせることで、神自ら、主イエスがキリストであることを明らかにしてくださいました。そして、山から降りて戻ったところでは、悪霊に支配されて困っていた子どもから悪霊を追い出す力があることを改めて示され、再度、主イエスが人々から苦しみを受け、殺されることを予告されます。

 ところが、主イエスと一緒にいる弟子たちは、なかなかこの神の意図を受け取ることができません。なかなかどころか、まったく分かっていないのが、今の状況です。

 ルカの福音書は、ここまでずっと一貫して、主イエスは弱い者、虐げられている者の傍におられることを示してきたのです。弟子たちも、その姿を見てきたはずなのです。

 ところが、今日のところでは、弟子たちは誰が一番偉いのかという論争を始めているのです。それで、今週も先週に引き続いて「こんなにもダメな弟子たち2」としたわけです。主イエスからしてみたら、もう泣きたくなるような状態であったに違いありません。

 もちろん、弟子たちにも、弟子たちの言い分というものがあります。弟子たちは、主イエスがキリストであるということを示されたわけです。キリストといえば、イスラエルを治める王というイメージがありますが、3人はその確証をあの山の上で得たわけです。しかも、3人だけが特別に山の上にご一緒させて頂いたわけですから、3人の弟子たちにしてみれば、自分たちは今、他の弟子たちよりも抜きん出ていると考えたに違いないのです。

 それで、誰が一番偉いのかという議論を始めたのです。もし、主イエスがイスラエルの王になるようなことがあれば、これまで一漁師や、収税人というような仕事をしていた一般的な人たちには、棚からぼた餅が落ちてきたようなものですから、色めき立ったに違いないのです。この弟子たちの無理解っぷりといったらないと言わざるを得ません。

 私たちは、どうしても人と比較してしまう世界の中で生活しています。上には上がいますから、頭では人と比較するのは終わりが無いことだと理解できるのですが、比較からなかなか自由になることはできません。

 スーパーに買い物に行けば、レタスを次々に手に取って見比べます。牛乳も日付を見たり、他の種類と見比べながら買い物かごに入れるかもしれません。比較するということは、私たちの生活に染み付いているものです。

 ものを比べることは悪いことでもなんでもないのですが、問題は、人と自分を比べる時に、そこで起こるのは何かということです。そこにはどうしても人の醜さが出てしまいます。弟子たちは、他の弟子たちや自分が、どのくらいのポジションにいるのか気になって仕方がないのです。そこに、どうしても人の卑しさが出てしまいます。

 人と自分を比べる時の基準というのは一体何に根ざしているのでしょうか。私たちは、子どもの頃から、この比較の世界の中で苦しんで生きているのだと思います。他の子どもと比べられた時に嫌な感情を持たなかった人はいないのではないでしょうか。けれども、自分が子どもを持つと、どうしても他の子と比べてしまうようになるのです。

 そこで、私たちが気づかなくてはならないのは、比較の世界に愛は入り込む余地を失うということです。能力を愛する、成功を愛する、比較の中で生まれる愛というのがあるのだとすると、それはどうしたって条件付きの愛です。ということは、条件が整わなくなった時に、愛することをやめてしまうのです。

 もちろん、その人を愛するが故に、叱る、注意するということはあります。子どもの時のしつけというのは、これにあたるものです。けれども、これも人との比較の中でするものではありません。その人の為を思って語ることはあると思います。けれども、そこに比較が入り込んだ途端、その言葉は愛ある言葉ではなくなってしまうのです。 (続きを読む…)

2023 年 10 月 29 日

・説教 ルカの福音書9章37−45節「こんなにもダメな弟子たち」

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2023.10.29

鴨下直樹

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 今週も先週に続いて、ラファエロの「キリストの変容」の絵を見ながら、今日のみ言葉に耳を傾けていきたいと思います。

「キリストの変容」ラファエロ ラファエロの描いた、「キリストの変容」はルカの福音書9章の変貌山での出来事と、その時に地上で起こっていた出来事が一つの画面に描かれています。下半分に描かれているのは、主イエスが山の上で天の輝きの中におられたその時に、霊に取り憑かれた子どもが親に連れられて来たのですが、取り残された他の弟子たちは、何もできなかったということが記されています。

 この二つの出来事を一枚の絵に上半分と下半分とで描きました。まさに、このところで福音書の著者は訴えたいことを見事に描き出していると言えます。

 今日の説教題を「こんなにもダメな弟子たち」としました。はじめに予定していたタイトルを変えたのは、まさにこの言葉が、今日の内容を一番的確に表していると思うからです。

 いつも、水曜と木曜の祈祷会で、日曜にする聖書箇所を先に丁寧な学びをしています。わたしはこれを「共同の黙想」と呼んでいます。教会に集われるみなさんと共に、み言葉を聞くのです。私一人で聖書を読むのと違って、実にいろんなことに気付かされます。疑問が出てくれば出てくるほど、聖書の洞察は深くなります。一緒にみ言葉を味わう経験は、とても有意義なものです。説教では30分ほどの時間しかとれませんが、祈祷会の時は、1時間から2時間ほどの時間をかけて、み言葉を味わいます。

 そこで、いつも最後に聞く質問があります。「この箇所から語られている福音は何ですか?」という質問です。聖書を読んでも、そこから道徳的な教訓を見出すことは、あまり意味がありません。特に、今日の聖書箇所などはなかなか積極的な言葉が見出せませんから、福音を聞き取ろうと思うと、少し考えなければなりません。

 すると、一人の方がこんなことを言われました。
「弟子たちがこんなにも理解できないのだということは、福音です」と言われました。

 それを聞いて、みんなで笑ったのですが、同時に確かにそれも慰めになるなと考えさせられました。ここまで主イエスが弟子たちに、あの手この手で、ご自身がキリストであることを示しておられるのに、一向に理解できない弟子たちの姿に慰められるというのです。

 これは、確かにそうで、みんな出来が良い人ばかりだとプレッシャーに感じるのですが、弟子たちがここまでダメっぷりを発揮してくれると、ああ、自分もこれでも主に受け入れていただけるのだということが分かって平安を感じることができるわけです。

 想像してみると、主イエスの三人の弟子たちが山に祈るために出かけた後、弟子たちの所には大勢の群衆が詰めかけています。すでに9章の1節で、弟子たちは悪霊を追い出したり、病気を癒す力と権威が与えられたりしていると記されています。

 実際に、弟子たちは遣わされたところで、すでに与えられた力で、主の御業を行って来たはずなのです。ですから、自分たちだけでも大丈夫という自信のようなものは持っていたかもしれません。

 ところが、その弟子たちの前に霊につかれた子どもが連れてこられると、弟子たちは誰もどうすることもできなかったというのです。そこに、主イエスたちが戻って来ました。すると、その子どもの親が、姿を現した主イエスにこう言います。40節です。

「あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」

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2023 年 10 月 22 日

・説教  ルカの福音書9章28−36節「光と言葉を」

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2023.10.22

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所は「変貌山」とか「キリストの変容」と呼ばれる出来事が記されているところです。前回の箇所で、主イエスの弟子のペテロが「あなたは神のキリストです」と、主イエスへの信仰を告白しました。このペテロの理解は正しかったのですが、主イエスはこのことを誰にも話さないように言われました。どうしてかと言うと、当時の人々や、この時の弟子たちが考えているキリストの理解と、主イエスの示そうとしているキリストのあり方が、まったく違っていたためです。

 この出来事に続いて、今日の「キリストの変容」という出来事が記されているのです。この意味について、私たちはここからしっかりと受け取りたいと思います。

 ルカはこの28節で「イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」と記しています。

 そして、この後、キリストのお姿が変わるという出来事が起こった時、32節では「ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが」と書いていますから、この出来事は夜通し祈りをしておられた中での出来事だったことが暗示されています。

 こういう書き方は他の福音書では書いていませんので、ルカはこのところで夜の祈りの中での出来事であったことを伝えようとしています。

「キリストの変容」ラファエロ ラファエロの描いた「キリストの変容」の大きな絵がヴァチカン美術館の一番奥の部屋に置かれています。この絵は、マタイの福音書をもとにして書かれたと言われていますが、マタイでは弟子たちが眠かったという記述はありませんので、ルカの福音書の場面を描いたのではないかと考えて良いと思います。この絵もやはり夜の祈りとして描いています。

 みなさんは夜、山で祈るという経験をしたことがあるでしょうか。私たちの教団は、根尾にクリスチャン山荘を持っています。ここからだと45分くらいで行くことができます。私は、神学校に入る前に、当時は管理人もおりませんでしたのでこの根尾山荘に半年ほど住んでいたことがあります。このキャンプ場の周りには家がありません。明かりも道にでればカーブのところに街灯が辛うじて一つ点いているだけで、あとは真っ暗です。夜は猿だとか、鹿の声が聞こえてくることもあります。

 そんな夜の山の中で、時折祈った経験があります。不思議なものですが、とても祈りに集中することができます。気を紛らわせるものが何もないからかもしれません。

 弟子たちはそんな祈りの時に、眠くなってしまったようです。ということは、主イエスの祈りが長く続いたということと、弟子たちには祈る必要性をあまり感じなかったということなのでしょう。言ってみれば主イエスに付き合わされているわけです。そして、この時まで、なぜ、自分たちがこの祈りの山に招かれているかを理解できていなかったのです。

 ところが、弟子たちが寝ている間に、とてつもない出来事が起きています。29節から31節にこう記されています。

祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。
そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。

 暗闇の山の中で、突如主イエスの御顔の様子が変わり、衣が光り輝き始めたのです。そして、そればかりか、主イエスの周りにはモーセとエリヤが姿を現わします。

 一体ここで、何が起こっているというのでしょう。この主イエスから発せられる光は一体何を物語っているというのでしょう。こんなとてつもない出来事が起こっているのに、三人の弟子たちは、眠さの中にあって、この姿にはじめ気づいていなかったというのです。 (続きを読む…)

2023 年 10 月 15 日

・説教 ルカの福音書9章18−27節「すべては祈りの中で」

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2023.10.15

鴨下直樹

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主イエスが一人で祈っておられた時

 今日の箇所は、この言葉から始まっています。静かな場所で主イエスが祈っておられる。このお姿を見るだけで十分と言えるような世界が、弟子たちの前に示されています。

 祈っておられる主イエスの姿。草原だったのか、荒地だったでしょうか。

 風の音、草木がたなびく音、鳥や虫のまでが美しく調和している。

 弟子たちはそんな中で、主イエスの祈る姿を見ているのです。それは、誰も主の祈る姿の前に割り込むことのできないような完成された世界であったに違いありません。

 どんな絵画よりも、どんな景色よりも崇高な世界がある。その姿を見ることが出来たならば、何と幸いなことだろうと、私などは羨ましくさえ感じます。

 まだ私が高校生の頃、この箇所を読んで素朴に驚いたことを今でも覚えています。「主イエスでも祈るのか」。聖書を読み始めた頃に、心に留まったそんな思いは、今でも覚えています。

 聖書学者や、解釈者たちは、この箇所がルカの福音書の頂点だといいます。頂点ということは、そこからすべてのものを見渡すことができるようになるということです。ここに記されている一切の出来事は、この主イエスの祈りがもたらしたものです。

 私たちは自分の人生の頂点がどこにあるかなど、知る由もありません。その多くは、気づいた時にはもう手遅れになっているような状況で…ということも少なくないのかもしれません。

 私たちは自分の人生の道半ばで立ち止まり、何度も後ろを振り返りながら、この道でよかったのか、あるいは今、目の前に差し迫っている壁や障害を、どう乗り越えたらよいのかと途方に暮れてしまうのかもしれません。

 そんな中で、信仰が一体どんな役割を果たすのか、神は私に何をしてくれるのかと思いながら、心を悩ませているのかもしれません。

 今、私たちは連日のように、戦争や災害の話を耳にします。最近ではイスラエルとハマスとの間で起こった争いや、ミャンマーでも政府の軍隊が難民キャンプを砲撃したというショッキングなニュースが入っていました。最近ではモロッコやアフガニスタンでも大きな地震があったというニュースも入ってきています。

 こういう時に、私たちは主がそれぞれの被害に遭われている土地の人々に、慰めを与えられるようにと祈ります。その時に、私たちは少し立ち止まって「私たちが祈っている主は、どういうお方なのか」と考えることはないでしょうか?

 今日の聖書箇所では、主イエスは祈りの後で、弟子たちの方を振り向いて言われました。

「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」

 この主イエスの問いかけは、今日の世界に生きる私たちにもそのまま通じる問いかけであると言えるかもしれません。

「この世の人々はわたしのことを誰だと言っていますか?」

 この主イエスの問いに、私たちは何と答えることができるのでしょうか? (続きを読む…)

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