2016 年 3 月 27 日

・説教 ヨハネの福音書 20章1-18節「よみがえりの主とお会いして」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:22

 

2016.03.27 イースターファミリー礼拝

鴨下 直樹

 
 イースターおめでとうございます。今日は、イースター。主イエスの復活をお祝いする日です。昨年くらいからでしょうか、お店など色々なところで、このイースターという言葉を見かけるようになりました。先日も、買い物に行くと、お菓子のコーナーにイースターと書かれた特別包装のパッケージのお菓子が陳列されていて驚きました。お祭り好きな国民性もあるのかもしれませんけれども、イースターが取り上げられることは嬉しい気持ちになります。主イエスがよみがえられたことを、少しでも多くの方の耳に入るのであればそれは、素晴らしいことです。

 先ほど、聖書のおはなしで、このイースターの物語を聞きましたし、今も、このイースターの出来事の聖書を聞きました。イースターの日、ここでは「週の初めの日」という言葉から始まっていますが、この日に起こった出来事が記されています。教会では「週のはじめの日」といえば日曜日だと誰もが分かりますが、最近は、新年のために手帳やカレンダーを買おうと思って文房具屋さんに行っても、ほとんどが月曜始まりになってしまっているので、日曜が週のはじまりの日であるということは、ひょっとすると、もう多くの人はあまり気にしていないのかもしれません。

 この聖書の記されていた当時、特に、ユダヤ人たちにとって休みの日といえば土曜日です。翌日の日曜日はもう仕事がはじまる日でした。けれども、教会の人々は仕事がはじまる前、つまり夜明け前に礼拝をするようになっていたようです。それで、復活の朝の日の出来事を、ごく自然に「週の初めの日に」という言い方で書き記すようになったのです。そして、この言い回しが、いま、私たちが当たり前に日曜日は一週間の始まりの日というようになったのです。世界中で、日曜を週の始まりとするとするように決まったのは、まさに、このイースターの出来事がこの時に起こったからです。

 さて、この朝の物語には男の弟子たちの姿と、女の弟子の姿が描き出されています。とても対照的です。男の弟子たちはこの日、とてもアクティブといいましょうか、活動的です。女の弟子たちは感傷的と言えるかもしれません。 (続きを読む…)

2016 年 3 月 25 日

・説教 ヨハネの福音書 19章38-42節「主イエスの葬り」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 20:36

 

2016.03.25

鴨下 直樹

 
 ピエタと言われるミケランジェロの彫刻の作品があります。ローマのバチカン、サン・ピエトロ大聖堂にあります。私たちは岐阜県美術館に行きますといつでもそこにレプリカがありますので、そこで見ることができます。十字架から降ろされた主イエスの亡骸を、その母マリヤが抱いている母の悲しみを描き出しています。この日曜日の説教でも語りましたけれども、主イエスは「完了した」と言われて、その霊をお委ねになられました。この地上でなすべきすべてのことを成し遂げられた。それは、まさに、父なる神のみこころをすべて完成させて、人への愛を成し遂げられた十字架の主イエスの姿でした。そして、その亡骸をマリヤは抱きながらそこで何を思ったことでしょうか。

 今日は受難日です。それで、この夜私たちは主イエスの十字架の死を覚えるためにこうして集まって礼拝を捧げています。私たちがここでするのは、まさに、このピエタに込められているように、私たちもまた主イエスの亡骸を抱えながら、主イエスの死を自分の心に刻むことです。

 死と向かい合うこと。それは、多くの人がどうしたらいいのか分からなくなるので、避けて通ろうとすることです。できるかぎり、死を生活の中で思い出さないように、考えないようにして人は生活しています。そして、まるで、死など存在しないかのように思い込むことこそが、充実した人生をおくっているかのような錯覚をしてしまいます。

 しかし、死はいつも私たちの傍らにあるのです。誰か、身近な人が亡くなると、私たちは取り乱してしまいます。それを冷静に受け止めて、自分の膝に抱えるなどということはほとんどありません。死を恐れるからです。けれども、私たちは死を恐れるのではなくて、まさに、主イエスが死を引き受けてくださったがゆえに、私たちは落ち着いて死を思うことができるはずなのです。 (続きを読む…)

2016 年 3 月 20 日

・説教 ヨハネの福音書 19章28-37節「完了した!」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:32

 

2016.03.20

鴨下 直樹

 
 今日の週報にも書かれておりますけれども、復活節の第二主日に洗礼式を予定しています。今、二人の方々が信仰の入門クラスという学びを続けています。この芥見教会では、洗礼式に先立って試問が行われます。試問というのは、口述の試験という意味があります。ですから、ちょっと言葉が厳しいので、面接とか面談にした方がいいのではないかという意見もありますけれども、いままで試問として続けてまいりました。ここで何をするかといいますと、洗礼、入会を希望する方の証を長老と執事たちで一緒にお聞きして、いくつかの質問をしながら、洗礼を受けさせてもよいかどうかを確認するのです。最近は、教保といいますけれども、この洗礼入会希望者の信仰の支え手となってくださる方も一緒に出ていただいています。私は、いつも思うのですけれども、この試問の時に行われる会話を教会員のみなさんが御一緒できればいいのにと思います。

 時折、長老や、執事から厳しい質問が出る場合があります。わずか5分から10分程度の証で、その方のことがすべて語られているわけではありません。ですから、役員の方々もできるかぎり、洗礼を受けられてからの信仰が支えられることを願って色々な質問をしたり、色々な意見を言われます。ところが、いつもそうですけれども、気が付くと役員の方々が自分がどのように信仰に至ったのか、何を悩んだのか、信仰の歩みの中で戦いになることはこういうことだという証をしはじめるのです。私は、洗礼を受ける方のことばかりでなくて、そこで、その役員方の今まで知らなかった一面を知る機会ともなるので、この時をいつもとても楽しく思うのです。

 自分の信仰の話をする。自分はどのように信仰が与えられて来たのか。どのように、教会に来るようになったのか。どう信じたのか。何を悩むのか。そこには、一人一人の生きた信仰の言葉があります。そして、そこには、必ず、主イエスとの出会いがあるのです。それは、みな違います。心に響く聖書の言葉も違います。それまでの歩みもみな違います。みな同じように、主と出会うわけではないのです。けれども、そういう言葉を聞くと、自分の味わったことのない、生きて働いておられる主の姿を知ることができるので、それはとても嬉しい時間となるのです。

 今日の箇所は、いよいよ今週から受難週に入ります。そこで、主イエスが十字架ですべてを成し遂げられて、頭をたれて、その霊をお渡しになったときの事が記されています。主イエスはその時、「完了した」と言われたと、聖書は記しています。
28節でまず「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、」と記されています。
(続きを読む…)

2016 年 3 月 13 日

・説教 ヨハネの福音書19章17-27節「十字架の王、イエス」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:28

 

2016.03.13

鴨下 直樹

 
 先週の金曜日に私が教えております東海聖書神学塾で理事会と、評議員会と卒業式が行われました。一昨年より、後藤喜良先生が校長になれられまして、それまで校長をしておられた河野勇一先生は神学塾の理事長になられました。朝、理事会で河野先生が短くお話しくださったのですが、とても興味深い話をしてくださいました。ホワイトボードに富士山の絵をかきまして、山頂には雲がかかっている。私たちはその山のすそ野で生活しているとすると、山の上の雲の上をぐるっと赤色のペンで丸い円を描きまして、この山の上のこの部分が聖書の語る信仰の世界ですと言われました。そうすると、私たちはついつい、この山の上の世界のことを、この地上の生活の方にそれを持ち込んできて、聖書は私たちの生活にどう役に立つのかというように考えてしまいます。けれども、大切なことは、聖書の語る信仰の世界を、自分たちの生活に持ち込むのではなくて、この裾野に生きている私たちが、どうしたら、この山の上の世界に引き上げることができるか。そのことが大事なのだということを言われました。

 この河野先生という方は、名古屋の神学塾で教理を教えてくださる先生で、説教を教えてくださる先生でもあります。私も、神学生の時に、この河野先生から教理や説教を学ばせていただきました。とても短く、とても簡単な説明ですけれども、信仰の本筋をとても分かりやすく、絵で描きながらお話しくださったので、私自身、改めてこのような簡単な説明の仕方ができるのだと、とても教えられました。

 今日の箇所は、主イエスが十字架におかかりになられるところです。今日は17節から27節のところですが、ここにはいくつかのことが記されています。はじめの17節から22節は主イエスがご自分で十字架を担がれてゴルゴタへ行かれ、そこで、「ユダヤ人の王」と書かれた罪状書きが掲げられ、十字架につけられたところです。その後、23節と24節では、主イエスを十字架につけるときに、兵士たちが主イエスの着物を分け合い、下着もくじを引いて分けたという出来事が書かれています。これは、詩篇22篇18節の成就だとされています。そして、最後の部分は、25節から27節ですが、読み方によって人数が変わって来ますけれども、4人の女の弟子たちが主の十字架のそばにいて、主イエスの母マリヤのことを、主の愛された弟子にゆだねたということが記されています。

 最初にも言いましたけれども、私たちはこの主イエスの十字架の箇所を読む時に、この聖書の箇所は私の生活にどのような意味を持つだろうかとつい考えて読んでしまいます。そして、ここから、色々な意味を見つけ出そうと努力します。けれども、まずなによりも大事なことは、ここで語られているのは何かということに、素直に心を向けることです。

 はじめの場面にまず目を向けたいと思うのですが、17節にこう記されています。

イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。

とあります。主イエスは十字架に磔にされてしまいます。それこそ、雲の上の生活と、この富士山のすそ野の生活とがぶつかり合って、天上の生活、信仰の敗北という出来事がおこっているかのように見えているところです。ですから、そのように理解して聖書を読みますと、ああ、聖書に書かれている神の世界というのは結局人間たちの罪にやぶれて、主イエスは殺されてしまわれた。だとすると、神の言葉は、信仰の生活というのはこの世に敗北するような弱いものなのだということになります。

 神の言葉は弱い。ある意味ではそうなのかもしれません。神の言葉であられる主イエス・キリストもここで十字架に磔にされてしまっているのです。けれども、興味深いのは、このヨハネの福音書は他の福音書のように、主イエスは弱々しく、十字架を担いでゴルゴタに行けそうにないほどに弱られていたので、クレネ人のシモンに助けてもらったというようことは書いてはいないのです。十字架のところで、主イエスをさげすむ群集たちの言葉もありません。劇的といえるような描写はほとんどはぶかれてしまっていまして、静かな十字架のお姿が記されているといってもいいかもしれません。ただ、ここでは主イエスは自ら十字架を背負ってゴルゴタに行かれた。そのことだけで十分です。
(続きを読む…)

2016 年 3 月 6 日

・説教 ヨハネの福音書 19章1-16節「そして、王は十字架へ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:58

 

2016.03.06

鴨下 直樹

 
 「エッケ・ホモ」というラテン語があります。ずいぶん、有名になった言葉です。オランダの画家、レンブラントも、19世紀から20世紀のフランスの画家ルオーも、この「エッケ・ホモ」という題のついた作品を描いています。今日の聖書の言葉で言うと、5節にある「さあ、この人です」という言葉です。

 今日の箇所を少し振り返ってみたいのですが、ピラトは、主イエスを裁きにかけています。ピラトはユダヤ人ではありません。この裁きが始まったときには、ピラトは主イエスにほとんど関心を示していませんでした。けれども、主イエスと語りあっているうちに、主イエスの言葉に引き込まれていってしまいました。そして、前章の18章の最後では、ユダヤ人の過越しの祭りの時にひとりの囚人を釈放する習慣があったことから、イエスを釈放するよう提案をします。ところが、この場にいたユダヤ人たちは強盗のバラバの釈放を要求します。

 ピラトはそれで何をしたのかというのが、今日の19章ですが、「イエスを捕えてむち打ちにした。」とまず1節に記されています。もう今から何年前でしょうか、俳優のメル・ギブソンが監督をした「パッション」という映画が上映されました。この主イエスの受難の出来事を描いた作品です。見られた方も多いと思いますが、私にはこの映画の中で、十字架よりも、ほとんどこのむち打ちの場面の生々しさだけが印象に残りました。あまり、見ることを他の人に薦めたいとも思えないほどの過激な描写です。しかし、このところの解説を読んでいますと、あの場面は過激な演出ではなかったのかもしれないと思う記事がいくつも出て来ます。どうも、このむち打ちというのは、むち打ちで痛めつけることによって十字架に磔(はりつけ)にされた時に早く死ぬことができるための慈悲行為だったというのです。

 しかも、この後で、続く2節と3節を見てみますと、

また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らはイエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。

と書かれています。この兵士たちの嘲笑は言ってみれば非公式に行われたものですけれども、ヨハネはこうして、主イエスが王としてさげすまれたことを描いています。

 そこで、ピラトが言った言葉が4節です。

ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」

 ピラトがここで何をしたいかはもう明らかです。ここにいるユダヤ人宗教指導者たちは、イエスが、ユダヤ人の王であると言っていることを問題にして、ローマ皇帝への反逆者であると訴えているけれども、この鞭打たれ、ぼろぼろにされたこの哀れな男が、ローマに反逆しようとしている者にみえるのか? と問いかけているのです。そこで、言った言葉、「エッケ・ホモ」、「この人を見なさい」という言葉だったのです。 (続きを読む…)

2016 年 2 月 21 日

・説教 ヨハネの福音書18章28-40節「真理とは何ですか?」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:49

 

2016.02.21

鴨下 直樹

 
 受難節を迎えています。この季節、私たちは主イエスの苦難の姿を心にとめながら、主イエスの苦しみの意味を考える時間があたえられています。そして、今日私たちに与えられている聖書の言葉は、私たちが主イエスの姿を心に刻むためにもとても重要な箇所だということができると思います。

 この主イエスのピラトによる裁判の箇所は18章28節から19章16節までです。本当はもう少し丁寧にみ言葉を心にとめたいのですが、二回に分けてここから主の言葉を聞きたいと思います。さっそく今日の28節にとても興味深いことが記されています。

さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは過越しの食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。

と書かれています。

 ここは、ヨハネの福音書特有の皮肉のこもった書き方がされているのですが、そもそも、過越しの食事を食べるために異邦人の家に入ってはいけないというような戒めは聖書にはありません。けれども、どうも、当時のユダヤ人たち、特に律法学者たちは、律法を完全に守るために、さらに細かい細則を作っていました。そういう自分たちで決めた決まり事を守るために、ユダヤ人宗教指導者たちは、主イエスの裁判を求めてローマの総督ピラトの官邸まで連れて行ったのですが、自分たちは汚れるので入らないというようなことをしたようです。殺してはならないという戒めについては目をつぶっておいて、本来戒めでもなんでもない細かい決まりは守ろうとするという、このユダヤ人指導者たちの姿をヨハネはここで皮肉をもって描いているわけです。

 それで、実に面倒くさいことだったと思いますけれども、ローマ総督のピラトの方からこのユダヤ人たちと対話をするために外に出向いて、ユダヤ人たちと会話をするという場面がはじめに記されています。
 ここでピラトはユダヤ人たちに尋ねます。「悪い人だから連れて来たんでしょう。なぜ、自分たちで裁かないのか」と問いかけています。ユダヤ人指導者たちは、「自分たちでは死刑にする権限がありません」と答えます。もちろん、そんなことはないわけです。主イエスの時代、「石打ち」という言ってみればリンチのようなやり方で、ユダヤ人たちは罪を犯した者を殺してきた事実があります。これは、ローマの手で主イエスを殺させる方が、自分たちはローマに逆らう気持ちはないのだというアピールにも使えるわけですし、自分たちの手も汚さなくて済むという考えが彼らにはありました。32節はそれこそが、イエスのことばの成就だという書き方をしています。

 さて、そこで、次の33節からの場面ではピラトと主イエスとの対話の場面に移ります。この対話にいたって、この裁判にさほど関心も示していなかったピラトが主イエスの言葉に引き込まれていく姿が描き出されています。ピラトは尋ねます。「あなたはユダヤ人の王ですか。」すると、主イエスは「それはあなたがそう思うのですか、誰かからそう聞いたからですか」とピラトに反対に問いかけます。ピラトにしてみれば、何をいっているんだという感じであったに違いありません。「わたしはユダヤ人ではないのだから、私には関係ないことだ、いったい何をしてここに連れられてきたのだ」とピラトは問い返します。
(続きを読む…)

2016 年 2 月 14 日

・説教 ヨハネの福音書18章12-27節「アンナスの尋問と主の弟子ペテロ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:18

 

2016.2.14

鴨下 直樹

 
 今週からレントに入ります。また私たちはこの礼拝にまさにレントにふさわしい聖書の箇所を聞きました。主イエスの裁判が行われるところです。主イエスが弟子のユダの裏切りによって捕えられ、裁判にかけられます。今日のところはローマの裁判というよりも、ユダヤ人たちによる裁判と言ったらいいでしょうか、尋問というべきかもしれませんけれども、アンナスによる取り調べをうけるところです。

 先週の木曜日、前任の浅野牧師のお子さん、Y君の記念会が行われました。亡くなって10年を今年で迎えました。私はその時ドイツにおりましたので葬儀にでることはできませんでした。浅野先生たち家族がY君を支えられた生活は本当に厳しいものだったのだろうと想像します。また、教会のみなさんも、そのために祈り支えてこられたのだろうと思います。この記念会で浅野先生がコリント人への手紙第二、第四章16―17節のみ言葉を紹介してくださいました。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

 この聖書の箇所は、Y君が病を再発して動揺していた時に、聖書を読んでほしいと頼んだそうですけれども、読む箇所、読む箇所、そこじゃない、そこじゃないと言っていたんだそうです。ところが、このみことばを読んだとたん、「もう大丈夫」と言って落ち着きをとりもどしたのだそうです。

 まだ10歳という若さで、自分の病と闘いながら、死と向き合うというのはどういうことだったのだろうかと、改めて考えさせられました。そんなことを考えながら、今日の説教のために、この箇所を読んでいたのです。
 そうしたら、金曜日の昼に、Nさんから電話がありまして、妻のHさんが心筋梗塞で、今から救急で県病院で治療を受けるので祈って欲しいという電話をいただきました。電話をいただいてすぐ病院に向かいました。Hさんは、四か月前、祈祷会の最中に急に胸が苦しいと言って倒れられ、救急車を呼んで、治療を受けたばかりです。「大動脈解離」という、心臓から出ている大動脈という血管が縦に裂けてしまう大変な病だったのですが、治療している間に血管の傷が塞がっていきまして、その時は手術をしないでも良いということで回復したわけです。今回、また心臓ということで、とても心配しながら病院に行ったのですが、幸いにも、大事には至りませんでした。心臓の痛みを覚えたそうですが、血液をサラサラにする薬を飲んだところ、痛みは消えたのだそうで、今は原因を探りながら、薬で症状を改善できるように調べているということでした。
 思わぬ事態というのは、どこか遠いところにあるのではなくて、本当に私たちの日常というのは、常に死と隣り合わせのところにいるのだということを、改めて認識させられています。 (続きを読む…)

2016 年 2 月 7 日

・説教 ヨハネの福音書18章1-11節「誰を捜しているのか」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:03

 

2016.02.07

鴨下 直樹

 
 私事で始めて恐縮ですが、みなさんは散歩をされることがあるでしょうか。私は長い間飼っていた犬が死んでからすっかり散歩をしなくなってしまいました。けれども、まだドイツにおりました時は、必ず一日、小一時間犬と一緒に散歩に出かけました。私の住んでいた村はオーバディルフェンという小さな村です。人口も1000人いるかどうかというような村で、家の通りを500メートルも歩きますとすぐに森に入ります。毎日、ほぼ同じ道を、ドイツ語の単語帳片手に午後3時頃から歩き始めるというのが日課でした。今でも、その時のことを時々思い出して、懐かしく思う時があります。

 主イエスもまたエルサレムにおられた時に、いつも決まったコースを歩きながら祈りに出かけられたようです。弟子たちであれば、みなその道を知っていました。弟子たちにとってその道は特別な道です。ケデロンという、冬の間だけ水が流れて川になった谷がありまして、その川筋にそってオリーブ山と言われる所へとつながる道です。ヨハネはそのことをここでしっかりと記録しています。特別な思いがあったのでしょう。あるいは、その弟子たちにとって特別な場所が、裏切り者のユダによって汚されてしまったのだという悲しい気持ちが込められているのかもしれません。
 ユダはそこに一隊の兵士たちと、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れてきています。数百人というものものしい人数で、夜だったのでしょう、たいまつと、おのおの武器をもってその道に集まって来ているのです。

 今日のこの箇所は主イエスが逮捕されたところが記されています。新共同訳聖書ではここに小見出しがついていまして、「裏切られ、逮捕される」と書かれています。聖書を読み進めていくなかで、読む人にショックを与える箇所と言えます。けれども、聖書を読む時にとても大事なことは、このヨハネの福音書はまさに、人々がショックを受けるところで、何を語っているかということです。

 先日も、ニュースで有名な野球選手が覚せい剤で逮捕されたというニュースが報道されました。そうしますと、いたるところで、あの人は昔からちょっと問題があったというような発言がどこからともなく飛び出してきまして、もうそんなことばかりが報道で取り上げられます。捕まえられる人間というのは、どこかに問題をかかえている弱い人間なのだと、それまでとはまるで手の平を返したような言葉で一斉に攻撃を始めます。
 私たちはそういう人間の弱さを見ると、まるで鬼の首を取ったかのように、突如として攻撃的になります。不快だと感じるのです。不快だと感じるので、そういう人を攻撃しながら、自分はそうではない、そういう弱い人間ではないのだとことさらに語ろうとします。

 しかし、このヨハネの福音書をみていますと、ここで捕えられようとしている主イエスの姿はちょっと異なります。4節よみますと、主イエスの方から、出てこられて「誰をさがすのか」と問いかけられているのです。そして、5節と6節を見てみますとこのように記されています。 (続きを読む…)

2015 年 11 月 22 日

・説教 ヨハネの福音書17章20-26節「主にあって一つとなる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:32

 

2015.11.22

鴨下 直樹

 
 11月14日、私たちの教会で特別講演会を行った日に、フランスのパリで同時多発テロが起こりました。日本でははじめあまり取り上げられていませんでしたけれども、ヨーロッパではかなり大きな問題として人々は捉えています。毎日の生活が脅かされているのです。多くの人々は今、とても不安な中で毎日を過ごさなければなりません。それと同時に平穏な生活というのは常に脅かされる危険があるのだということを、誰もが身に沁みて感じています。

 このヨハネの福音書には「世」という言葉が何度も出てきます。「コスモス」という言葉です。それ以外にも聖書には「世」と言う言葉は何種類かあるのですが、この「コスモス」という言葉は、神に敵対する世界という意味でこのヨハネの福音書では使われています。神の救い、神の支配、神の国、色々な言い方で聖書では書かれていますけれども、この神の救いの世界に相対する世界が「世」と聖書では言っています。それは、こういうふうにも言うことが出来るのですが、神の救いのない世界という意味です。

 聖書を読む時に、私たちはいつも、この世界に生かされているということを念頭においている必要があります。そして、前にも話しましたけれども、この救いのない世界に私は生きているということ、この世と自分とは無関係ではないということ、自分も世そのものとなっているという部分を認めなければなりません。

 テロが起こったので、この世界は危ないということではありません。テロが起きてしまう世界、誰でも自分の正義を持ちうるこの世界そのものは、神の正義とは違うところで生活が営まれている世界なのです。私たちは、11月14日以前からどうしようもないほど危ない世界に生きています。神の救いのない世界に生かされているのです。

 なぜ、この世、この世界には救いがないのか。そのはっきりとした答えが、今日の聖書の中に記されています。それは、主イエスがこの世界におられないからです。いや、この世が、この世界が主イエスを殺してしまった。神がこの世界にもたらそうとした救いを、この世界は拒みました。それが、主イエスの十字架です。ここに、この世界の罪があります。神の救いがなくても、この世界で幸せに生きられるのだと人々は考えているのです。 (続きを読む…)

2015 年 11 月 15 日

・説教 ヨハネの福音書17章6-19節「主のみもとに」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:02

 

2015.11.15

鴨下 直樹

 
 今日は、主に11節を中心にこのみ言葉に耳を傾けてみたいと思います。

わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。

 ヨハネの福音書の第十七章は主イエスの祈りが記されているところです。しかも、最後の祈り、主イエスが十字架で死ぬ直前の祈りです。弟子たちへの最後の別れの言葉を伝えたあとで、主イエスが弟子たちと別れる前に、祈った祈りです。その祈りは、この世に残される弟子たちを守って欲しいという祈りです。

 今日は召天者記念礼拝です。今日は共に先に天に送った私たちの家族、信仰の友として生きられた方々のことを思い起こしながら、礼拝を捧げています。礼拝では順にヨハネの福音書からみ言葉を聞き続けていますけれども、まさに、この箇所は召天者記念礼拝にふさわしい箇所です。けれどもよく考えてみますと、私たちは毎週の礼拝において既に天にあげられた主イエスのことを思い起こしつつ礼拝をささげているのです。

 昨日のことですけれども、私たちの教会で特別講演会を行いました。名古屋にあります中京大学の安村仁志学長をお招きいたしました。講演のテーマはすこし長いのですけれども、「人とは何者なのでしょう。人はどこに向かっているのでしょう。ほんとうに大切なものは何でしょう」というテーマでした。安村先生自らがつけてくださったテーマです。

 この講演で安村先生は、「パスカルの原理」で知られるフランスの自然哲学者でもあり、思想家でもあるブレーズ・パスカルの話をもとにお話しくださいました。このパスカルという人はパンセという本を書いたことで知られています。あの「人間は考える葦である」と言った人です。私も昨日とても興味深く聞いたのですが、このパスカルがどんなふうに人間を見ていたのかというところから講演をしてくださいました。もちろん、ここで昨日の講演を繰り返すつもりはありませんけれども、パスカルは「人間が偉大なのは、自分が悲惨だということを知っている点においてである」と考えたのだそうです。それは、自分の存在が不確かなものだというところからきているわけです。このパスカルが悲惨さをどこに見たのか、いくつかあるようですけれども、人間は死んでしまう存在だということ、そして、無知であるということです。人は必ず死ななければならないというところから生じる悲惨さ、知らなければならないことも知っていない悲惨さ。けれども、その悲惨さを受け止めることができるなかに人間の偉大さがあると考えたのです。多くの場合、人はその自分の悲惨さに目を止めようとはしません。それで人間は何をするのかというと「気晴らし」をするのだとパスカルは考えたのだそうです。どういう気ばらしかというと、死ぬとか、無知だとかいうことを考えなければ幸せでいられるというわけです。思い当たるところがたくさんある気がします。それで、パスカルは神を知らなければその人間の悲惨さからは解放されないのではないかと考えたということでした。 (続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.190 sec. Powered by WordPress ME