2015 年 11 月 15 日

・説教 ヨハネの福音書17章6-19節「主のみもとに」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:02

 

2015.11.15

鴨下 直樹

 
 今日は、主に11節を中心にこのみ言葉に耳を傾けてみたいと思います。

わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。

 ヨハネの福音書の第十七章は主イエスの祈りが記されているところです。しかも、最後の祈り、主イエスが十字架で死ぬ直前の祈りです。弟子たちへの最後の別れの言葉を伝えたあとで、主イエスが弟子たちと別れる前に、祈った祈りです。その祈りは、この世に残される弟子たちを守って欲しいという祈りです。

 今日は召天者記念礼拝です。今日は共に先に天に送った私たちの家族、信仰の友として生きられた方々のことを思い起こしながら、礼拝を捧げています。礼拝では順にヨハネの福音書からみ言葉を聞き続けていますけれども、まさに、この箇所は召天者記念礼拝にふさわしい箇所です。けれどもよく考えてみますと、私たちは毎週の礼拝において既に天にあげられた主イエスのことを思い起こしつつ礼拝をささげているのです。

 昨日のことですけれども、私たちの教会で特別講演会を行いました。名古屋にあります中京大学の安村仁志学長をお招きいたしました。講演のテーマはすこし長いのですけれども、「人とは何者なのでしょう。人はどこに向かっているのでしょう。ほんとうに大切なものは何でしょう」というテーマでした。安村先生自らがつけてくださったテーマです。

 この講演で安村先生は、「パスカルの原理」で知られるフランスの自然哲学者でもあり、思想家でもあるブレーズ・パスカルの話をもとにお話しくださいました。このパスカルという人はパンセという本を書いたことで知られています。あの「人間は考える葦である」と言った人です。私も昨日とても興味深く聞いたのですが、このパスカルがどんなふうに人間を見ていたのかというところから講演をしてくださいました。もちろん、ここで昨日の講演を繰り返すつもりはありませんけれども、パスカルは「人間が偉大なのは、自分が悲惨だということを知っている点においてである」と考えたのだそうです。それは、自分の存在が不確かなものだというところからきているわけです。このパスカルが悲惨さをどこに見たのか、いくつかあるようですけれども、人間は死んでしまう存在だということ、そして、無知であるということです。人は必ず死ななければならないというところから生じる悲惨さ、知らなければならないことも知っていない悲惨さ。けれども、その悲惨さを受け止めることができるなかに人間の偉大さがあると考えたのです。多くの場合、人はその自分の悲惨さに目を止めようとはしません。それで人間は何をするのかというと「気晴らし」をするのだとパスカルは考えたのだそうです。どういう気ばらしかというと、死ぬとか、無知だとかいうことを考えなければ幸せでいられるというわけです。思い当たるところがたくさんある気がします。それで、パスカルは神を知らなければその人間の悲惨さからは解放されないのではないかと考えたということでした。 (続きを読む…)

2015 年 11 月 8 日

・説教 ヨハネの福音書17章6-19節「悪い者から守られ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:32

 

2015.11.08

鴨下 直樹

 
 先日、子どもを幼稚園に乗せていく途中、娘が急に質問をしてきました。「ねぇ、神様は誰かがつくったの?」と言うのです。いつも、この世界にあるすべてのものを神様がお造りになられたという話をしているので、何かのきっかけがあって急に疑問がわいたのでしょう。私が、「神様は誰からもつくられていないの。はじめからおられたんだよ」と答えました。「ふーん。」と少し納得したのか良く分からなかったのですが、しばらくしてまた別の質問をしてきました。指を上にあげて「これの上には何があるの?」というのです。私は、「車の屋根? 屋根のこと? 屋根の上には何にも載ってないよ」と答えますと、「違う、あれ!」と空を指差すのです。「ああ、空? 空の上のこと? 空の上には宇宙が広がっているの」と教えます。そうすると「宇宙って何?」と聞いてきます。そこで、私は何と答えたのかというと、「ほら、この間、お父さんが見ていた映画、スターウォーズの世界だよ」と答えてしまったのです。我ながら、後々になっても後悔しているんですが、空のうえには「天があって神様がおられるところ」と答えればよかったのに、私ときたらよりによってスターウォーズはないだろうと・・・。反省しました。

 ここからはいつもの親ばかですけれども、しかし、三歳ですでに時間概念、空間概念の質問ができるとは我が子ながら、天才ではなかろうかと、娘を幼稚園に送ったあとで一人でほくそ笑んでおりました。
 この金曜日も東海聖書神学塾で今、説教学を教えているのですが、塾生に説教の導入は大切だと教えているのですけれども、こういう話で説教を始めることが、いったい今日の説教のなにかに役立っているのか私にも少し分からなくなります。

 もちろん、小さいながら意図はあるのです。今日のヨハネの福音書は主イエスの祈りです。とても重要なところですので、今週と来週と二回に分けて話をする必要があると思っています。この主イエスの祈りは、ちょっとこの時間概念と空間概念が超越しています。もちろん、ここでそんな何とか概念という難しい話をするつもりもありません。娘の質問にあった神様が世界を創られた以前のことや、あるいは、父がおられるところと、主イエスが今おられるところという意味だけわかっていだければそれで充分です。

 これは主イエスの祈りです。まさに父なる神と、御子イエスの親しい交わりの姿がここに描き出されています。そこには「わたし」と「あなた」という主イエスの深い父なる神に対する親しい語りかけの言葉だけが記されています。色々なことが語られていますけれども、少し注意深く読んでみますとそれほど難しいことが祈られているわけではありません。主イエスのことを弟子たちはこの祈りの前の部分でついに主イエスを理解して、信じました。けれども、主イエスは今から天に戻られるので、どうか、この弟子たちを守ってやって欲しいということが祈られているのです。 (続きを読む…)

2015 年 10 月 18 日

・説教 ヨハネの福音書17章1-8節「永遠のいのちを」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:48

 

2015.10.18

鴨下 直樹

 
 今日から、ヨハネの福音書の第17章に入ります。ここは、主イエスの告別説教の結びの部分でもあります、主イエスの告別の祈りがささげられているところです。この17章はすべて主イエスの祈りですが、少し分けてこの主の祈りに耳を傾けたいと思います。
 今日の箇所は冒頭の一節にこのように記されています。

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」

 この時、主イエスと一緒にいた弟子たちはこの主イエスがなさる祈りを傍らで聞くことができました。主の祈りの姿を直に見ることが出来たのです。そして、私たちはここにこの祈りが記録されているので、私たちも、まるで弟子たちと共に、主の傍らにいるかのようにして、主の祈りを聞くことがゆるされています。

 先週の木曜日の祈祷会の時に、ある方が人の前で祈ることが苦手だという話をされました。何人かの方が同じように感じておられるようで、おそらく、ここにも同じような思いの方がおられると思います。その時に、ある方が、「先生はどういう祈りがいい祈りだと思われますか」と率直に質問してくださいました。みなさんとしても、どういう祈りがいい祈りなのかと興味のある方があるかもしれません。私はすぐに、「主に、直接語りかけているような祈りは、いい祈りだと思いますねぇ。」と答えました。祈るときに、どうしても、うまく祈りたいと思う。立派な祈りをして、他の人にあの人はこんな立派な祈りをすると思ってもらいたいというような下心がある。あるいは、反対に、せめて恥ずかしい祈りだとは思われたくないという思いがあるのかもしれません。けれども、祈りは私たちにゆるされている、父との深い交わりの時です。先週の説教でもいいましたけれども、私たちは、主イエスに取りなしてもらってやっと祈ることができるという関係ではなくて、もう、直接父よと祈ることができる関係にされているのです。

 弟子たちはこの時、主イエスと父なる神との会話をすぐ横で聞くかのようにして、主の祈りの交わりを目の当たりにしました。それは、弟子たちにいいところをみせようとか、かっこ悪い姿を晒さないようになどということがまったく入り込む余地のないほど深い交わりでした。ある人が、「受話器の向こう側の声が聞こえてきそうだ」と言いましたが、まさに、そのような深い交わりの祈りがここに記されています。 (続きを読む…)

2015 年 10 月 11 日

・説教 ヨハネの福音書16章25-33節「主イエスを知る日」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:02

 

2015.10.11

鴨下 直樹

 
 今、名古屋で教えております東海聖書神学塾で、この10月から説教学を教え始めました。先週の金曜日で二回目の授業です。先週いきなり宿題を出しました。創世記1章1節からの説教を800文字で書いて来るようにという宿題です。それで、この金曜日に今学んでおります8名の神学生に、順番にこの短い説教を読んでもらいました。まだ、何も学んでいない状態で、いきなりの宿題ですからずいぶん手こずるだろうと思っていました。実にバラエティに富んだ説教が出てきました。そこで、説教の分析をするために大切なことを少しお話ししました。

 こういう話を礼拝でしてしまうのは自分の説教の手の内を明かしてしまうようなものですが、説教には大きく分けて四種類の言葉があります。一つは聖書を説明する言葉です。これは説明はいらないと思います。この聖書はこういう意味だという言葉は必ず説教の中に入ります。二番目は聞き手を解く言葉です。説教を聞く人々の心を解く言葉、たとえば、この箇所を読むとこう思うかもしれませんがとか、人にはこういう考えがありますなどといいながら、人の心に寄り添いながら、み言葉を語っていくわけです。もう一つは説教者の言葉というものがあります。いまやっているこの冒頭からの言葉はみんな説教者の言葉といってもいいかもしれません。最後に、神の名による宣言があります。神はあなたにこう言われるという神の言葉を宣言する。この言葉が説教のもっとも大事な部分です。金曜日に、神学生たちの何人かの説教を取り上げまして、一つ一つの文章を丁寧に読みながら、ここで何を意図して説教をしようとしているのか、四つの色で色分けしながら、その説教の内容を分析していくわけです。私はこの説教分析という作業はとても好きです。色々な説教を読みながら、そういう視点で読んでいきますと、語り手の言いたいことというのが、つかみやすくなるからです。
 
 今日の聖書の言葉は、そういう意味でもとても興味深い箇所です。今まで主イエスは何度も何度も同じ話をなさってきたわけですが、今日のところで、ついに、弟子たちは「今、はっきりと分かった」と言ったのです。それで、私は主イエスのこの言葉を分析してみるわけですが、どの言葉で弟子たちは主イエスのことがようやく分かるようになったのか。
 分かったと言っているのは29節ですからその前の言葉ということになります。つまり、今日の25節から28節までの言葉を聞いて、どうも弟子たちは分かったらしい。けれども、そう思いながら、この部分を注意深く見てみても、この言葉かなというのは見えてきません。
 先週説教をしました、18節で、弟子たちは「分からない」と言っていますから、少し箇所を広く見たとしても19節から28節までが重要な言葉であることが分かります。
 また、先週のところからお話しするつもりはありませんので、先週のところと、今日のこの前半部分は弟子たちにとって決定的な意味をもつ言葉であったということは少なくとも分かるわけです。
 そこで、今日のところで、25節にこう書かれています。

これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。

(続きを読む…)

2015 年 10 月 4 日

・説教 ヨハネの福音書16章15-24節「悲しみから喜びへ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:52

 

2015.10.4

鴨下 直樹

 
 先週の日曜日、私たちは教団の日を共に祝いました。私は先週、みなさんと共に礼拝を祝うことは残念ながらできませんでしたけれども、午後に教団の日の集いが稲沢教会で行われ、そちらで一緒に教団の日の祝いをいたしました。四年前から、この教団の日の集いを地区別の主催にいたしました。そのために、その地区の教会の方々は本当に大変な準備をして、どのようにしたらこの日を一緒に祝うことができるのかと考えながら毎年のことですけれども、大変素晴らしい集会を計画してくださいます。今年は、稲沢の教会に270名以上の方々が集まったようで、懐かしい方々と一緒に教団の日を祝う礼拝をするというというのは本当に嬉しいものです。

 特に、今年は講師を招きました。大学生の伝道をするKGKという団体がありますが、このKGKの副総主事をしておられる大嶋重徳先生が説教をしてくださいました。非常に情熱を込めた説教をしてくださり、エレミヤ書からですけれども、主に喜んで仕えていきましょうと語ってくださいました。私もずいぶん色々なチャレンジを受けました。来年はこの同盟福音の宣教が始められて60年を迎えようとしています。そういうなかで、もう一度地域に伝道していくことの大切さを共に心にとめていきたいと思っています。

 先週の祈祷会でも、この芥見教会の伝道も来年で35年になるのではないかということを話していました。来年何か記念集会でもするかどうかという意見もありましたが、やはり40年がいいのではないかと思っています。そこでつい口に出したのですけれども、「荒野の40年」というテーマがいいのではないかと言ってしまいました。40年というと、まずやはり出てくるのは聖書の中では患難を示す数字です。40年の宣教は大変であったということをやはり表現するべきなのではないかととっさに思ったからです。けれども、もちろん、まだそれまでには5年あります。その間に主の再臨がないとも限りませんし、その間にもまだまだ色々な歩みがあるはずです。一言で、それを「荒野の40年」という言葉でまとめることもできないなと思います。

 今朝、私たちに与えられているみ言葉は、主イエスが「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」と弟子たちに向かって語りかけられたところです。もう何度も、主イエスはご自分がこの地を去ることを語り続けておられます。けれども、この主イエスが弟子たちに向かって語り続けてこられたことは、弟子たちにはまだはっきりと何を意味するのか、分かってはいなかったようです。それが続く17節にありますが、弟子たちは互いに、主が何を言っておられるのか、これはどういうことなのだろうと、語り合っていたとあります。主イエスが去って行かれるということが理解できなかったのです。弟子たちはもはや直接、主イエスに尋ねることもできないほどに、悲しみに支配されてしまったようです。そこで、主イエスはそのような弟子たちが抱いている悲しみをとてもよく理解してくださいました。21節ではその悲しみ、苦しみをこんな言葉で表現されています。21節。

女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。

とても興味深い言葉です。 (続きを読む…)

2015 年 9 月 20 日

・説教 ヨハネの福音書16章4-15節「聖霊の示す真理」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:31

 

2015.9.20

鴨下 直樹

 
 今、私たちは主イエスの告別説教といわれる言葉を聞き続けています。14章から16章までで、主イエスは弟子たちに別れの言葉を告げておられます。特に、今日のこの短い箇所の中にも、何度も、私は去って行くのだという言葉が語られています。5節、「今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうと」、7節「わたしが去って行く」「もしわたしが去って行かなければ」「しかし、もし行けば」とあります。10節にも「わたしが父のもとに行き」と言われています。もう、わたしは行くのだ、去るのだという言葉を弟子たちはどのような思いで聞いたことでしょう。主イエスと弟子たちが一緒に過ごした期間は3年であると一般にいわれています。このヨハネの福音書を読む限りですと、一年ほどの期間しかなかったような書き方になっています。一年であろうと、三年であろうと、寝食を共にし、実に中身の濃い時間を過ごした人との別れというのは心に大きな穴をあけてしまいます。どんな教師や牧師であってもなしえない、実に豊かなものを主イエスと共に生きた弟子たちは味わうことができたはずです。

 それで、主イエスは言われました。5節の後半部分です。「あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません」。もちろん、弟子たちは何度も主イエスに尋ねたのです。13章の最後のところではペテロがイエスに命がけで「あなたの行くところに私はついて行きます」と言いました。14章ではトマスが「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちには分かりません」と言っています。はじめのうち弟子たちは主イエスに尋ねていたのですが、だんだんと主イエスの行かれるところに自分たちはついていけないこと、そして、主イエスを失った後迫害があること、けれども互いに愛し合うことなどを主イエスから聞かされました。そうこうするうちに弟子たちは悲しみに支配されてしまったようです。ですから6節で主イエスはこう言われました。

かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。

 弟子たちにしてみれば主イエスと一緒に歩み、寝食を共にしながら、毎日慰められ、生きる望みが与えられ、これこそが人の生きるべき姿なのだということを味わってきました。そして、これから自分たちがどのような生き方をすることになるのかを心躍る思いで毎日過ごしていたに違いないのです。この主イエスと共に生きることが、自分の生きる喜びそのものだったのです。それが、ここに来て、急に主イエスが別れの言葉ばかりを告げられるようになってきたので、もう弟子たちには続けて主イエスに尋ねる気持ちが失われてしまうほど悲しみにくれていたのです。それは誰もがよく分かることなのだと思います。

 しかし、主イエスはそのような弟子たちに向かって語りかけられます。7節。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。

と。
(続きを読む…)

2015 年 9 月 13 日

・説教 ヨハネの福音書15章18-16章4節「信仰の戦い」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

 

2015.9.13

鴨下 直樹

 
 この水曜日から祈祷会でレビ記を学び始めました。レビ記というのは、おそらく聖書を読み始められた方が、創世記と出エジプト記を何とか読み終えた後で、最初にぶつかる壁になる場合があります。こまかな戒めの規定がいくつも書かれていますので、レビ記で挫折してしまったという方の話をよく聞きます。けれども、注意深く読んでいきますと、なかなか面白い箇所です。神がどれほど細やかな配慮をしていてくださるのか、ご自身の民がどのように生きることをねがっておられるのか、そういう神の心をつかみとることのできる箇所です。この水曜日と木曜日の学び会に比較的多くの方が集ってくださったことを嬉しく思っていますけれども、これからすこしずつ丁寧に学んでいきたいと思います。先週は最初でしたので、レビ記というのがどういうことを目的として書かれたのかという話をしたのですが、一言でいうと「聖さ」です。主はご自身の民に聖くあることをねがっておられることが、レビ記を読んでいきますと分かってきます。この「聖い」という言葉は、その時もすこし説明をしたのですけれども、私たちがイメージする「聖さ」というのは、「純粋」とか「ピュア」、汚れがないということを連想しがちですが、「違う」という意味で理解してくださるとよいと思います。主は、ご自分の民に、この世の人とは違うことを求めておられる。ですから、「聖い」というのは、「この世のあり方とは違う」という意味です。

 今日、私たちに与えられている箇所は、この「世」があなたがたを憎むということが書かれています。19節にはこうあります。

もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

 旧約聖書に記されている神の民であるイスラエルも、主イエスの弟子も、まさに、主からこの世の者とは違う者、聖い者として召し出されます。だから、世はあなたがたを憎むのだと主イエスは言われているのです。 (続きを読む…)

2015 年 9 月 6 日

・説教 ヨハネの福音書15章11-17節「友なる主イエスに招かれて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

 

2015.9.6

鴨下 直樹

 
 少しの間、夏休みを頂いておりましたけれども、今日また、みなさんの顔を見ることができて、とても嬉しい気持ちでいます。この夏休みの間、私はいつも色々な教会の礼拝を見に行く機会としているのですけれども、今年は、群馬県にあります、私たちの群れの下仁田教会の礼拝に行ってまいりました。ですが、やはり下仁田教会の牧師も夏休み中ということで、井上牧師が説教をしにきておられました。井上牧師は、私たち芥見教会出身で牧師になられた方です。そして、その時井上牧師によってなされた説教はこのヨハネの福音書第15章1-17節からでした。
 お休みをいただく前に、私はこの部分の前半のところ、主がご自分のことをぶどうの木と言われたところから説教しました。そして、今日は、その後半部分をと二度に分けたのですけれども、井上先生は、まさにこの箇所から説教されました。大変素晴らしい説教で、もう、聞いた話をそのままやろうかななどと思ったくらいです。その説教で、井上先生はぶどうの木のはなしをなさったのですが、そこでは、やはりこの地域の出身ということもあって、長良川沿いのぶどうを買って食べる機会がたくさんあったようです。そこで、みられたそうですけれども、ぶどうの木は幹の部分と枝の部分の境がほとんどわからないと言われて、キリストとわたしたちも、どこから幹でどこから枝かわからなくなるほどに一つとされるのだというメッセージをされました。前回、私は、ぶどうの木の幹は60センチくらいで、あとは枝ばかりだという話をしましたので、休みのあいだ、気になって、ぶどう園を見に行きました。すると、そこはぶどう酒のためのぶどうを育てているところなのですが、やはり、私が話したように幹は60センチくらいしかありませんし、はっきりと枝の部分と区別ができます。そこで、気づいたのですが、どうも、ぶどう酒用のぶどうの木と、果実を食用するぶどうの木とはどうも少し性質が違うようで、食用の方のぶどうの木は、井上先生が言われるようにどこまでが幹で、どこからが枝かよくわからないのだそうです。それを知って少しほっとしています。

 井上先生はもうひとつ、「友」ということもその後半のメッセージで語られたのですが、まさに、それが、今日の個所の大切なテーマです。教会の中には子どもの名前にこの「友」という名前をつけておられる方が時々おられます。私たちの教会出身の舛田牧師も、ご両親がここにおみえになりますけれども、名前に「友」がついています。Kさんも子どもに「友」という名前をつけておられます。
 そのようにクリスチャンの名前に時々「友」という字がつけられた名前を聞くことがありますが、実は、聖書の中で「友」という言葉はそれほどでてきません。けれども、このヨハネの福音書には何度か、この「友」という言葉がでてきます。K家にしても、M家にしても、たぶん、このヨハネの福音書からつけられたのではないかと勝手に想像しているのですが、いつかちゃんと聞いてみたいと思っているのですが、気になる方はぜひ、後で直接聞いてみてください。

 このヨハネの福音書にはこのように書かれています。13節から16節です。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

 ここには、いくつかのことが語られていますけれども、私たちはここで少し驚くのは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」という部分でしょうか。もちろん、そこでは、当然のことですけれども、主イエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださるということが前提となっています。 (続きを読む…)

2015 年 8 月 16 日

・説教 ヨハネの福音書15章1-10節「主はまことのぶどうの木」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

 

2015.8.16

鴨下 直樹

 
 今日の箇所は主が「わたしはぶどうの木です」と語られた箇所です。いつも、聖書の流れが大切だと話していますけれども、今日のところは、少し複雑です。前の14章30節で、「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。」と語っておられ、31節では「さあ、ここから行くのです。」と言われました。ですから、14章からはじまっている主イエスの別れの言葉は、ここで終わっているような印象を受けます。ところが、続く15章では、その前に語られたことはまるでなかったかのように主イエスの話しがはじまっています。いつも、聖書の文脈を正しく理解することが大切だと話していることと、少し矛盾するのですが、この話の順序は、ここでいろいろ考えてもはっきりしません。この15章も16章も主イエスが弟子たちと別れる際に語られた大切な言葉が語られたところであることに変わりはありませんから、今日の場合は14章とのつながりについて、ここであまり深く考えなくてもよいと思います。

 ただ、このヨハネの福音書の第15章というのは、私にとっては少し特別な箇所です。私の父は牧師をしています。そして、私は5人きょうだいなのですが、両親はこのヨハネの福音書の15章から4人のきょうだいの名前を付けました。私は直樹という名前です。他のきょうだいにも、枝であるとか、実という名前を付けています。ここに記されているぶどうの木をイメージしながら子どもたちの名前を付けたのです。最後の弟は、もうアイデアが尽きたのか、こことは直接関係ない名前になっていて、その説明を聞いて弟がすねてしまったこともあります。私の場合は、父はまっすぐに伸びる樹をこのところから思い描いたようです。しかし、私は後になって気が付いたのですけれども、このヨハネの福音書に出てくるぶどうの木というのは、私の名前から連想するまっすぐにすくすくと伸びる大木のような木のイメージとは正反対の木です。たぶん、その時、私の父もぶどうの木というのがどういう木なのかあまりよく知らなかったのかもしれません。

 ちょうどこの季節はぶどうの収穫の季節です。いつも、休暇の時に長野県にあるたくさんのぶどう園を横切ります。日本の場合は、ちょうど立って作業のしやすいような高さにぶどうの枝がはりめぐらされていて、手を伸ばせばすぐに収穫できる位置にぶどうの実がなっているのを見ます。ドイツのぶどう園のイメージはだいぶ異なります。もっとも、ドイツで目にするのはほとんどワインの為のぶどうです。

 マレーネ先生が住んでおられるのはドイツのライン川沿いのバッハラッハという小さな町ですが、すぐ近くにローレライがあるために大変多くの観光者でにぎわうところです。ライン川の両脇にある山の峯はみわたすかぎりぶどう園です。それで、ドイツにいたときに、何度かマレーネ先生の家を訪ねたのですけれども、その時に、少し散歩にでますと、すぐにぶどう園を抜けることになります。そこで、ぶどうの木を見てびっくりしたのですが、ドイツで見たぶどうの木というのは、木の幹の長さが五、六十センチしかありません。それも、しわしわでぐにゃぐにゃと曲がっているものもある、ひどく不格好な木です。それを見ながら、私は、これは「直樹」という私の名前のイメージとはだいぶちがうなぁという印象を持ったのです。マレーネ先生の説明では、ぶどうの木というのは家具にも何にも使うことのできない木なのだそうです。ぶどうの木のむしろ大切なのは枝の方です。日本のように、頭の上の高さに綱を張り巡らせて、そこに枝をからませているような場合であっても、ドイツのように谷間を利用して育てているために、短いぶどうの木にまっすぐな木の棒を添え木して、そこに実をつけさせながら、高低差を利用して収穫させるやり方にせよ、大切なのは実を結ぶ枝の方だということが分かります。
(続きを読む…)

2015 年 8 月 9 日

・説教 ヨハネの福音書14章25-31節「平和を与えるお方」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

 

2015.8.9

鴨下 直樹

 
 私たちは、この一週間に何度も平和ということばを耳にしてきました。この一週間は、一年の中でも最も平和が語られる季節であるということが出来ると思います。広島と長崎に原爆が落とされて今年で70年を迎えます。戦後70年の談話を今、首相がどのような言葉にするべきか検討しているなかでも、何度も平和国家という言葉が語られます。戦争のために、考えられないほど多くの犠牲が生まれることを私たちは経験してきました。そして、この国は、世界に戦争の悲惨さがどのようなものであるかを伝える使命を持つ国としての役割を果たしてきたといえます。私がドイツに居りました時にも、「日本に行ったことはないけれども、広島と長崎だけは知っている」という方々に何人も会いました。今、私たちはここで改めて平和とは何を指して言うのかということを考えさせられています。

 今日、私たちに与えられている聖書は、こう語りかけています。

わたしは、あなたがたに平和を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平和を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

と27節にあります。今、私が聖書を読むのを聞いて、新改訳聖書をお持ちの方は、あれと思われたかもしれません。新改訳聖書では「平安」と訳されている言葉を、私はいま「平和」と読み替えました。この言葉は聖書の中でもよく知られたギリシャ語で、「シャローム」という言葉です。挨拶にも使われる日常的な言葉でもあります。この言葉は、「平安」とも訳すことができますけれども、個人の心の状態を表す言葉に留まりません。ですから、はっきりと「平和」とする方がよいと思います。それで、平和として読んでみたのです。
 主イエスはこの世が与えるのとは異なる平和を与えてくださるとここで約束しておられます。この世が与える平和とは何でしょうか。平和というのは戦争がない状態ということができるかもしれません。戦後70年間にわたって私たちの国も平和な国を築き上げてきました。そして、近年近隣諸国との関係が悪くなるにつれて、今私たちの国は、平和であるためにどういう国であろうとするのかを改めて問いかけられています。しかし、主イエスはそのようなこの世がもたらすのとは異なる平和について語られるのです。

 主イエスがここで語っておられるのは、何よりもまず自分自身の死についてです。主イエスはこれまで、人と争わないというような消極的な意味での平和について語ってはこられませんでした。むしろ、積極的な愛に生きることを自ら示し、また教えてこられました。愛するというのは、相手の状況とは関係なしに、自ら腰を低くすることによって示される愛です。自らが犠牲を払うことに示されるものです。そして、その模範となって主イエスは愛を世に示してこられました。しかし、これからはそうはいかないのです。ここで語っておられる主イエスは、次の日には十字架にかけられて、殺されてしまうのです。そして、世界はまた、主イエスという愛の模範を失ってしまうのです。 (続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.189 sec. Powered by WordPress ME