2020 年 7 月 5 日

・説教 ローマ人への手紙10章9-11節「主の救い」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:20

2020.07.05

鴨下 直樹

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 あまり気づいていなかったのですが、どうも私はこれまで何度かこの箇所から説教をしているようです。それはいつも洗礼式の時の聖書箇所として、ここを選んでいるからです。それには、理由があります。きっと何度もお話をしているのだと思いますが、この箇所は私自身が、洗礼を受ける決断をした時に与えられた聖書箇所なのです。

 私のことを話して恐縮ですが、私は牧師家庭に生まれました。父は大衆伝道者としていろいろな教会で説教をすることがあったために、子どもの頃から遊園地には行ったことがほとんどありませんが、伝道集会にはよく連れられて行きました。

 実は、このコロナの自粛期間中、子どもの頃や若い時に聞いた説教者たちの本を集めまして、あの頃どうしてその説教を喜んで聞くことができたのか、思い起こすことができました。私が子どもや学生だった当時、伝道集会やキャンプに参加しますと、いつも「救いの証し」という、その人がどのように信仰に導かれたのかを証しするという習慣がありました。そこで私は、いろんな人の証しを聞くうちに、証しにはひとつのパターンがあることが分かって来ました。どうも、聞いているとみんな、洗礼を受ける前まではひどく罪深い生活をしていて、教会に行って、説教を聞き、福音を受け入れると、人生が180度変わったという証しを誰もがすることが分かってきたわけです。

 そういう話を、子どもの頃から何度も何度も聞いているうちに、私は「ああ、クリスチャンになるためには、一度悪いことをする人にならないといけないのか」と考えるようになっていました。ですから、子どもの頃や、学生の頃というのは、クリスチャンホームで育った私は、自分の中にある罪ということがよく分かりませんでしたので、自分はまだ当分の間クリスチャンにはなれないのだ、まだ自分は洗礼を受けるのにふさわしくないのだと考えるようになっていたのです。そして私は、いつの間にか、クリスチャンになる日がある時、ビックウェーブのように突然訪れるのだと考えるようになっていったのです。

 ところがです。当時中学二年生だった私は、夜寝る前になると父がやって来まして聖書を読んで祈るという、家庭礼拝の習慣がありました。今時、中学生までそんなことをする親はいないのではないかと思います。その家庭礼拝の中で、父はその日に限って、かなりしつこくいろいろな箇所の聖書を開いて話し始めたのです。子どもながらに、今日はしつこいなと思ったのですが、その時、突然ビックウェーブが訪れたわけです。

 その時、父が読んだたくさんの聖書箇所の一つが、このローマ人への手紙10章と9節と10節です。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 この御言葉を聞いた時に、「あれ?」と思ったのです。
「イエスを主と告白する」
「うん、大丈夫。」
「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」
「うん、信じている。そんだけ?それなら信じてる」
そう思ったのです。それで、「お父さん、僕イエス様のこと信じてるよ」と話したのです。不思議に泣いていました。

 いつの間にか、クリスチャンになるというのは、ちゃんと聖書を全部読んでからとか、もっとふさわしくなってからとか、罪を犯してそれを赦してもらいたいと思うようになってからとか、そういうものが、条件であるかのように考えこんでしまっていたのです。
 けれども、ここにはそんなことは何にも書かれていません。

「イエスは主である」。私にとって、私のとても大切なかけがえのない方として、そして、主イエスは十字架で私たちのために死なれ、私たちを新しくするためによみがえられたお方なのだということを信じることができる。そのことを告白することができる。それが信仰なのだということが、私はこの時に分かったのです。 (続きを読む…)

2020 年 6 月 21 日

・説教 ローマ人への手紙1章16節「私は福音を恥としない!」

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2020.06.21

鴨下 直樹

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「私は福音を恥としません。」

 パウロはここで「私は福音を恥ずかしいとは思わない」と語っています。どうも、ローマの教会の人々の中に福音を恥とするということが、あったのでしょう。だから、パウロはこう語る必要がありました。それはどういうことかと言うと、主イエスはローマの手で十字架にかけられた男だ。そんな十字架刑にかけられるような犯罪者のことを信じているのかという声があったということです。

 今日の箇所の少し前の14節からこの16節までを読んでみます。

 私はギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

 パウロは、ローマに住んでいるギリシア人に手紙を書き、このローマの人たちに福音を伝えたいと願っていました。ところが、ローマの人は、ローマ人ではない他の人たちのことを全部ひとくくりに「未開人」と呼んでいたようです。未だ開拓されていない地の人というわけですから、完全に上から目線です。もっとも、そう言えるほどの栄華がローマにはあったのです。

 そんな華やかな都に憧れて、世界中から人が集まってきます。珍しいものが運び込まれてきます。ローマにいれば、それだけで世界を知ることができたわけです。そのローマの人たちに、主イエス・キリストを語ろうとするときに、ポンテオ・ピラトによって十字架につけられたユダヤ人の話にが、ローマ人の心を惹きつける魅力がどのくらいあったのかということは、想像するよりありません。

 この頃、パウロはまだローマを訪れてはいませんでしたが、ローマにすでに教会が出来ていたようですから、各地でキリスト者になった人々がローマに福音を届け、ローマの中にも主イエスを信じる人の集まりが出来ていたようです。それは、とてもすごいことですが、パウロはさらに多くの人に福音を届けたいと願ったのは当然のことでしょう。けれども、最初から主イエスの十字架の話をすると、それ以上聞く必要はない、そんな恥ずかしい人物の話になど聞く耳を持たないといった人がいたのは、想像に難くありません。

 そして、教会の人々もまた、そのような主イエスの福音をローマの人々に語ることに恥ずかしさがあったのかもしれません。それは、ローマの人たちであれば経験的にもよく分かるのです。それは、私たちでも、同じことが言えるかもしれません。

 先日、教会でこの説教に先立ちまして、聖書の学び会で、この箇所を一緒に読みました。その時に、福音そのものを恥とは思わないけれども、福音にふさわしい生き方ができていない自分を恥じるという思いがあると、多くの方が口をそろえて言われました。それは、私たちが誰もが抱く思いであるかもしれません。

 聖書が語ることは素晴らしい、神の恵みも本当に素晴らしい内容だと思う。けれども、それを人に語ろうとするときに、「じゃあ、あなたはその福音にふさわしい生き方ができているのですか?」と問われると、自分はその福音にふさわしい生き方はできていないと、自分を恥じる思いというのが出てくるのです。 (続きを読む…)

2020 年 6 月 7 日

・説教 ローマ人への手紙2章11節「えこひいき?」

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2020.06.07

鴨下 直樹

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「神にはえこひいきがないからです。」

 今日の聖書にはそのように書かれています。「えこひいき」という言葉は、私たちにいろんな連想をさせます。

 以前、ドイツにおりました時に、平日の「ユングシャー」と呼ばれる子ども集会のお手伝いをしておりました。ドイツの学校はほぼ午前中で終わります。学校が終わってから、塾にいくという習慣もありませんから、子どもたちは午後のびのび生活しています。それで、教会では平日に子どもたちを集めまして、子どもの集会を持つのですが、その多くの時間ゲームをして過ごします。ゲームといってもビデオゲームではなくて、体を使ってする様々なゲームです。

 そのゲームをしていた時に、ひとりのスタッフが、小さな子どもや、あまりそのゲームが得意ではない子どもに対して、少しルールを緩めて、沢山点数がとれるようにしてやったのです。すると、それを見ていた子どもたちが一斉に「アンフェアー!」と叫び出しました。

 私はその姿をみながら、ああこういう時は「アンフェアー」と言うんだと言葉を覚えて喜んでいたのですが、子どもたちの顔は真剣そのものです。そして、日本の子どもならなんて言うんだろうと想像してみたのです。岐阜の方言なら「ずるやげー」とか「ずりーげー」とか言うのかもしれません。あるいは「ひいきやん」、「えこひいき」と言うのかもしれません。

 「フェアーではない」という言葉と「えこひいき」という言葉のニュアンスは少し違うようにも感じます。
私の持っている国語辞典で意味を調べてみると、「えこひいき」は、「自分の気にいった者だけの肩をもつこと」と書かれていました。「アンフェアー」というのは「不公平」ということです。意味は似ていますが、えこひいきという場合には判断する側の主観に強調点が置かれている感じがします。

 このパウロの手紙の「神にはえこひいきがないからです」という言葉は、神が裁きをするときの態度のことを指して言っている言葉です。つまり、この箇所のテーマは「神の裁き」です。そして、神が裁きをなさるときには、神の主観で、人をえり好みしたりはしないのだということが、ここで言われているということになります。

 考えようによっては当たり前のことなのかもしれません。神が人を裁くときに、同じ基準で判断しないとしたら、それこそ、「アンフェアー」と叫びたくなります、けれども、パウロはここで、神はそんなことをしない。公平に裁くのだと言っているのです。

 問題は、パウロはここで人を裁く場合のことを語っているのですが、私たちが人を裁くときには、どういう視点で裁きをしているのかということです。

 先日、この聖書箇所を調べるためにいくつかの本を読んでおりましたら、ある本にこんな文章が載っておりました。

以前、ある評論家が、子供の親に勧めていることがありました。
一日でいいから、自分と子供の会話を全部録音してごらんなさい。そして、一人でゆっくり録音を再生して自分の言葉を数えてごらんなさい。あなたが裁判官のように、子供に何回の判決を申し渡したか、朝起きてから寝るまでに、あなたの子供は何回被告席に座らされ、何回有罪判決を下されているか、子供の立場に身をおいて聞いてごらんなさい。その教育評論家は、更にこう問うのです。裁判官は判決を言うだけ、でもあなたは、それ以上の刑罰を子供に課していないか。

 私はこの文書を目にして、もう自分の心が痛んで痛んでしょうがないのです。本当に、一日録音した方がいいかもしれないなどと思わされます。親が子どもを叱る場合、他の方はどうか分かりませんけれども、問答無用で一方的に裁いてしまうということをしてしまいがちなのです。子どもにそうであるということは、他の人に対してもそうすることがあるわけです。 

 私たちが人を裁いてしまう場合のことを考えてみますと、子どもにするときもそうですけれども、自分が正しいという立場に身を置いて、人を裁きます。自分のもっている常識や、価値基準というものが、判断するときの材料になります。けれども、一方的に悪者にされてしまう側にも、それなりの道筋があるはずなのです。ということは、本当に人を裁くためには、その人に寄り添って、その人がどういう信念を持っていて、どういう判断をして物事を考えているのかということに、思いを馳せることがどうしても必要になるはずなのです。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 12 日

・説教 ローマ人への手紙6章23節「死と永遠のいのち」

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2020.04.12

鴨下 直樹

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「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」  ローマ人への手紙6章23節

 イースターおめでとうございます。今、私はみなさんと共にイースターの喜びをともに分かち合いたいと心から願っています。しかし、今日私の前には教会の皆さんの姿は残念ながらありません。新型コロナウィルスのために県が緊急事態宣言を出しました。そのために、今日もみな自宅からこの礼拝の様子をライブ配信で見たり、あるいは後でホームページから音声を聞かれたり、原稿を読みながら、それぞれの家庭でイースター礼拝を行っておられると思います。しかし、その小さな礼拝のなかにも主は今生きて働いておられ、私たちの礼拝を喜んでお受け下さっておられると信じます。

 今、私たちはこのローマ人への手紙6章23節のみ言葉をともに聞いています。

 「罪の報酬は死である」とこの言葉は語っています。今ほど、この言葉の意味がよく分かるときはないと言えるでしょう。罪は身を亡ぼすことになるということを、今多くの人々が身をもって味わっています。外出自粛要請が出されていますが、その要請に聞き従わないで、自分には関係ないと飲み歩いていた人が、自分のしたことを後悔しているという放送を、何人もの方が目にしたと思います。病になって、自分のしていることが、いかに愚かなことであったかということに気づくようになるのです。

 もちろん、ここでパウロが問いかけているのは「罪」の問題です。パウロはこのローマ人への手紙の少し前のところで、「罪の奴隷」という言葉を使っています。罪が人を奴隷にすると言っているのです。けれども、面白いものですけれども、人が罪の行動を選択するとき、たいていの場合、自分は自由だと思いながらその選択をするのです。罪とは自分のしたいことをするのです。自分は自由なのだ、誰にも支配されないといいながら、実はその人は罪の奴隷となっているのだとパウロは語ります。奴隷には、かならず主人がいます。罪の奴隷の主人というのは奴隷の思いや考えを無視して、その人の意志を奪ってしまいます。

 ここが罪の不思議なところですけれども、自分では自分のやりたいこと、したいことをしている、自分は自由なのだと思っているのに、気づかないままに罪に支配され、罪の奴隷となってしまっているのです。そのことを、「欲」という言葉で表現します。パウロはここではこの「欲」のことを「罪」と言い換えて語っています。自分のしたいこと、自分の欲、それがいつの間にか自分を支配している。気が付くと、自分の欲に支配されてしまっているのだと言うのです。それが、罪の姿なのだと言っているのです。

 今世界中で150万人の人がこのウィルスに感染していると報道されています。実際にはこの2倍以上の人が感染しているとも言われています。この時期、私たちは自分が感染者になっている可能性があるので、外出自粛をするようにと呼び掛けられています。特に、半数の人は自分が感染していることに無自覚であるというのが、今度の病気の特徴です。だから、自分は若いから大丈夫だとか、自分はかからないという自信があるなどと言いながら、自分のやりたいことを優先させてしまって、その結果、感染者は世界中で爆発的に広がってしまっているのです。

 まさに、罪の報酬は死であるというこの御言葉の意味は本当なのだということを、今のこの世界が証明してしまっているのです。 (続きを読む…)

2019 年 3 月 31 日

・説教 ローマ人への手紙8章14-16節「御霊に満たされ導かれて生きる」渡辺睦夫師

Filed under: 説教音声 — susumu @ 14:33

説教:「御霊に満たされ導かれて生きる」

2019.03.31

渡辺睦夫師

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2018 年 4 月 8 日

・説教 ローマ人への手紙10章9-11節「主を信じる信仰」

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2018.04.08

鴨下 直樹

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なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることはない。」(新改訳2017訳)

 さきほどYさんの洗礼入会式を行いました。洗礼式の時に、五つの誓約をいたします。
「あなたは天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか。」「あなたは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われていることを確信しますか。」そのように尋ねていきます。そうしますと、「信じます」「確信します」と答えるわけです。すでに洗礼を受けておられる方はみなそのようになさったと思います。

 それは、先ほど読みました聖書の言葉を土台にしていると言っていいと思います。「人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあるように、心に信じて、告白することが大事なのです。

 では、心に何を信じるのかというと、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じる」ということです。先週私たちは礼拝でイースターをお祝いしました。主イエスがよみがえられたことをお祝いしているわけです。ところが、先週の説教でもお話しましたが、死んだ人がよみがえるなどいうことは、ちょっと信じられないような話です。実際、ルカの福音書の最初の記述は、誰も信じられなかったと書かれているわけです。けれども、考えてみると、復活のことだけではなくて、聖書に書かれていること、特に主イエスが私たちにしてくださったことは信じられないようなことばかりです。
 
 先日も、洗礼を受ける方のための学びの時に、もう一度聖書が語っていることを簡単に説明しました。神がこの天地を造られたこと。そして、人間が神の思いに逆らって自分勝手に生きたために、楽園から追い出された事。そして、神はその後、次々に信仰の導き手を与えて、神の御心に応えて生きることが大事なのだということを示してこられました。けれども、神の民は神の心に従って生きようとはしません。それで、神は天からご自身が人の姿でこの世界に来られて、神の心に生きるというのはどういうことかを、自ら示そうとされました。それが、主イエス・キリストです。主イエスがどう生きられたのかというと、簡単に説明してしまえば、神を愛することと、人を愛して生きるということでした。それなのに、人は、主イエスを十字架につけてしまったのです。

 学びの中でも、こんな質問が出てきました。どうして、主イエスが十字架にかけられたことが、自分と関係あるのですか、という質問です。もっともな質問です。 (続きを読む…)

2017 年 10 月 15 日

・説教 ローマ人への手紙1章17節「Reformation~私たちの改革」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:23

2017.10.15

鴨下 直樹

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 先週の木曜日から6回にわたって宗教改革記念講演会を行ってまいりました。今朝で最後の7つの講演がすべて終わります。私たちの教会としても、これほど長い期間にわたって講演会を持つというのは初めての試みでしたが、本当に大勢の方々が集ってくださって、素晴らしい講演を聞く機会に恵まれたと思っています。この6回の講演を通して、本当に色々な角度から宗教改革について知る機会を与えられましたし、本当に、宗教改革という出来事が、まさに今日の時代を築きあげてきたのだということを知ることができました。

 今朝、私たちに与えられている聖書の言葉は、まさにこの宗教改革者マルチン・ルターが福音を再発見する、いわゆる「塔の体験」の引き金となった聖書のみことばです。今朝は、この聖書の言葉が私たちに何を語りかけているのかを少しの時間ですけれども、一緒に考えてみたいと思っています。

 一日目の夜に、私は宗教改革者ルターをとりまく当時の状況とそこでルターが何をしたのかということについてお話しました。ルターははじめ、エアフルトの大学で教育学を学び、その次に政治学を学ぼうとしていたところでしたが、嵐の夜、雷に打たれた時に、「聖アンナ様、私をお助け下さい。修道士になります」と誓います。それで、その後、修道会に入りまして、神学の勉強をするようになったわけです。「聖アンナ様」と叫んでいるところからみて、ルターも当時の一般の人と同じ程度の聖書知識しか持ち合わせていなかったことがよく分かります。その修道生活でルターは神と向き合って生きることになるわけです。今までそれほど神を意識して生活していなかったルターにとって、この修道院での生活は、いままでの生活と一変したはずです。神とはどういうお方か、そして、自分とは何者なのかということをいやでも考えなければならなくなるのです。

 二日目のキリスト教美術の時にも、アルブレヒト・デューラーの自画像の話を古川さんがしてくださいました。自画像を描くという習慣自体、まだ誰もやっていないなかで、デューラーは自分を見つめて、自分を描いたのだそうです。その生涯で何度も何度も自分を描いているということでした。こうして、あの有名なデューラーの自画像が登場してくるわけです。それは、まさに自分がイエス・キリストであるかのように描く自画像となるのです。今の時代でもそうだと思いますが、その頃も多くの若い世代は自分とは何者であるのかということについて考えたのです。

 自分とはいったい何者なのか。私はどう生きるべきなのか。どうあるべきなのか。何のために生きているのか。この問いかけは、今日でも、例えば中学生の時代などに問いかけることがあると思います。あるいは、大学生に進む時、または進路を決める時など、自分の人生の決断をするときに、人は自分を正しく理解したいと考えるわけです。けれども、自分の仕事が決まってしまうと、いつのまにか次第にそういうことを考えることはやめて、生活することに埋没していくのが私たちの現実的な姿です。そして、気が付くと、人からどう見られているかを気にするようになったり、自分のやりたいことをやって生きられればよいと考えるようになって、自分は何者であるか、どう生きるのかという大切な本質から目を背けて生きるようになる。そして、難しいことはできるだけ考えないようして、私たちは普段生きているわけです。 (続きを読む…)

2016 年 7 月 10 日

・説教 ローマ人への手紙 5章1-11節「神からの平安」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:09

 

2016.07.10

鴨下 直樹

 
 今日は、あらかじめお知らせしておりました聖書の箇所を改めまして、このローマ人への手紙からしばらくの間、み言葉を聞きたいと思います。
 昨日、私たちの教会でMigiwaさんをゲストにお迎えしてコンサートを行いました。とても素敵な歌声を聞かせてくださいましたし、ご自身のことも少しお証ししてくださいました。今朝も、コンサートに来られた方でしょうか、この礼拝に何人かの方々がお集いくださったことを大変うれしく思います。昨日のコンサートでMigiwaさんが学生時代に不登校になってしまったことや、過度のストレスのために声が出なくなってしまったことをお話しくださいました。そして、そういう中で神さまと出会ったこと、また神の言葉に触れて平安を持つことができるようになったこと、そして、今、この喜びを歌うことができるようになったことをお話ししてくださいました。私たちはみな、昨日、その喜びを一緒に味わうことができました。みなさんの中にはそういう話を聞かれて、少し教会に興味を持ってくださってこの礼拝に来てくださった方があるかもしれません。そして、信仰に生きるということはどういうことなのだろうかと、もし心動かされた方があるとすれば、それはとても嬉しいことです。

 しかし、「信仰に生きる」というのはどういうことなのでしょうか。実は、今日の聖書の言葉はそのことがとてもはっきりと記されているところだと言えます。特に、冒頭でこのように書かれています。

私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

これは、この手紙を書いたパウロの言葉です。パウロは、私たちは「神との平和」を与えられたと、ここで高らかに宣言しています。これは、もう、私たちは大丈夫、神が私たちを見捨てないでいてくださるというところに立たせてくださった。これが、イエス・キリストによって私たちに与えられた神の御業なのだと宣言しているのです。

 ここでパウロは「神との平和」という言葉を使いました。「平和」というのは争いのない状態を示す言葉です。しかも、この「平和」を与えてくださるのは、神です。神が人生に私たちをドキドキさせるような介入をしてくることはなくなった。そういうことを心配しなくてもよくなったのだと言っているのです。このような「神との平和」を与えられた人は、そこから「安心」を、心の安らぎを、つまり「平安」を持つことができるようになるということでもあるのです。これはただひとつのこと、つまり「信仰」ということにかかってくるのです。この「信仰」というのは、私たちがそのように信じているその心というよりも、神の「信実」と言ってもいいようなものです。この「信実」というのは、漢字で書くと、信じるという言葉と実行するという言葉の方の「信実」です。「誠実」と言ったら分かりやすいかもしれません。今、この信仰ということばを「信実」という言葉で訳したほうがいいのではないかという提案がなされているようですけれど、神が誠実でいてくださるがゆえに、私たちはこの神を信頼して信仰に生きることができるようになるということです。神はそのようなお方なので、平安に生きることができるようになるのだとパウロはここで言っているのです。 (続きを読む…)

2015 年 12 月 27 日

・説教 ローマ人への手紙15章7節「主の愛に生きる」―2015年 年間聖句より

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:17

 

2015.12.27

鴨下 直樹

  

「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」 ローマ人への手紙15章7節

 この一年、元旦礼拝から私たちはこのみ言葉を聞き続けてきました。折に触れてこのみ言葉から語って来ましたし、今年は教会のキャンプでもこの箇所から二回にわたる学びの時を持ちました。役員会でもこの箇所から学びをしました。各会でもこの箇所をとりあげて分かち合いの時を持った会がいくつかあったと思います。そこでも何度かお話をしたとおもいますが、この箇所は、こういう言い方をすることがゆるされるとすれば、「クリスチャン生活の基本」を教える箇所です。キリストがまず、私たちを受け入れてくださいました。そのことがすべての土台です。このみ言葉がなかなか理解できないことがあるとすれば、おそらく、キリストが私を受け入れてくださったということが分からないからだということができます。これは、一人ひとり、どのように受け止めているかは全く異なりますし、なかなかそれはこういうものだと言葉で説明するのも難しい部分があります。というのは、受け入れられるというのは、自分の体験、経験がそれぞれの根拠となっていますので、この受け入れられるということが、その人にとってどれほど重要なことなのか、個人個人に違いがあるのです。

 また、いつもの話になって申し訳ないのですが、私の娘はこの芥見の教会で育っています。しかも、この教会は月曜をのぞいてほぼ毎日、教会に誰かが来ては、さまざまな集会がおこなわれています。娘もまだ三歳ですけれども、当然のように来られた人を受け入れますし、また教会にこられている人も娘を受け入れてくれます。そのことは、本当に私にとって感謝なことです。子育ての本を読んでいましても、今は核家族化しているので、子どもに関わる大人の数が圧倒的に少なくなり、何よりも親が自分の子育てに自信を持つことができなくなっていて、その親の不安感が、子どもに非常に大きな影響を与えているということがどの本にも書かれています。けれども、教会にはそれがありません。みんなが子どもたちを受け入れます。礼拝中、なかなか静かにできなくても、周りのひとたちが受け入れていてくださる。ですから、安心して教会に来ることができます。もちろん、親は申し訳ないという気持ちがあるでしょうし、私にもその気持ちは沢山ありますが、本当にありがたいことだと思っています。けれども、子どもを受け入れるということ一つとってみても、教会はこの世の中とは大きく異なっています。ですから、娘も受け入れられているという確信があるものですから、調子に乗って騒いでしまいます。残念ながら、自分の安心感から、逆に周りの目というのを気にしなくなってしまうことから来る別の問題が生まれてしまうわけです。けれども、それほどに確かな人の愛の中で育つということは今の世の中では当たり前のことではないのです。

 愛される、受け入れられるというのは、愛され、受け入れられることを味わうことの少ない方、孤独の中で生きている人からすればまさに奇跡のようなものです。ですから、ここでパウロが受け入れられているということを前提にしているこの聖書の言葉が、今日に生きる人々には分かりにくくなってしまうのだと言えるのかもしれません。 (続きを読む…)

2015 年 1 月 1 日

・説教 ローマ人への手紙15章7節 「神の栄光のために」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:45

2015.1.1

元旦礼拝説教

鴨下 直樹

2015年のためのローズンゲンによる年間聖句

「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」(新改訳)

ドイツのヘルンフーと兄弟団が発行しております、ローズンゲンという、日ごとに読む聖書をローズング、くじ、で毎日の言葉を選びまして、それを毎日の生活の支えとしている本があります。毎年、私たちの教会では、このローズンゲンによって選ばれた年間聖句を、私たちに与えられた一年のみ言葉として心に留めるようにしています。

教会の年間聖句には教会のスローガンになるようなみ言葉を長老会なり、役員会で選んでもいいのではないかと思われる方もあるかもしれません。これは、私の考えでもありますが、誰か個人の願いや意図で教会を形成するのではなくて、み言葉が私たちの信仰の支えとなり、み言葉によって教会を建て上げたいと願っております。それは長老方も理解してくださっていると思っていますが、そのために、長老会が今年はみなさんにこういう人になっていただきたいので、この聖書を選びましょうなどと選ぶようなことをしないようにしているのです。ですから、毎週の礼拝説教も講解説教といいますけれども、毎週聖書を順番に学び続けているのも、それと同じ理由なのです。牧師が、自分が取り上げたいテーマを毎週選んで、牧師の話したいこと、気になっていることを説教しないようにと考えているのです。これには色々な考え方がありますから、あくまでも私が考えていることであって、他の牧師もみなそうすべきであると考えているわけではありません。けれどもこのことは、長老や執事、みなさんにも理解をしていただいていると思っています。

なぜ、こんな前置きからはじめたかと言いますと、今年の年間聖句として選ばれている聖書の言葉をご覧になって、「あれ、牧師は私に対して日頃思っていることをこの聖句に込めたのではないか」と思ってほしくないからです。けれども、この年間聖句は、実際に私たちが一年の間心に留め続けるみ言葉として、大切なのではないかと、長老会でも話し合いました。特に、今年は各部会で、毎回この年間聖句からお互いにみ言葉の分かち合いの時間を持って、このみ言葉に特に耳を傾けるようにしようということを決めました。

そういう意味でも、このみ言葉を、私たちは、自分に与えられたみ言葉としてこの一年耳を傾けていければと願っています。 (続きを読む…)

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