2020 年 5 月 31 日

・説教 ガラテヤ人の手紙5章13-26節「御霊によって歩む」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:43

2020.05.31

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日の17節に、「あなたがたは願っていることができなくなります」という言葉があります。私たちはこの数か月の間、確かに願っていることができない状態がつづいていますから、この聖書の言葉をよく理解できるかもしれません。

 コロナウィルスが終息に向かいつつある中で、私たちは少しずつですけれども、自分のしたいことができるようになり始めています。外食をする。誰かと一緒に楽しい時間を過ごす。スポーツジムに行く。いろんな願いが、私たちの心の中に膨らんできています。

 今日の聖書箇所のテーマは「自由」です。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。

と13節にあります。私たちはそもそも自由に生きるように、神は私たちを召した。任命したのだと言うのです。本来は、誰かと楽しく会食をするのも、ジムに行くのも、外食するのも自由です。ただ、パウロはこう続けます。

ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

 この後で、「肉」という言葉と「霊」という言葉が反対の意味の言葉として出てきます。この「肉」というのは、人の心の中に働く自分中心の考え方のことを「肉」と呼んでいます。 

 私たちは自由に生きていいんだけれども、その自由を自分自身のために使わないで、「愛をもって互いに仕え合いなさい」とパウロは勧めているのです。

 ただ、私たちはこういう命令の言葉を見つけますと、もうさっそく「自由」ではない気分になります。なんだ、命令されてるんじゃん。命令に従うなんて自由じゃないじゃん。そんなふうに感じるのです。そして、やっぱり自分の好きなようにやりたいという思いが、頭をのぞかせるわけです。

 自由の難しさはそこにあります。命令されてやるのか、自主的にやるのか。どっちがいいのかということになります。今回のコロナの対応について日本のやり方は、「命令しないが、自主的にお願いします」というスタンスでした。そして、見事にそれをやってのけたことを、世界中の国々が驚いています。もちろん命令されてやるよりも、自主的に判断してやる方がいいに決まっているのです。けれどもほとんどの場合はうまくいかないわけで、それで世界中が驚いているのです。そもそも命令されるというのは、その人がちゃんとできないと思っているからです。 (続きを読む…)

2019 年 12 月 1 日

・説教 創世記11章27節―12章4節「75歳からの新しい冒険」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:56

2019.12.01

鴨下 直樹

 今日からアブラハムの生涯を通して、主なる神がこの世界にどのように神の救いの御業を行われたのか、この神の御業に心をとめていきたいと願っています。

 創世記12章の1節から4節を中心に、み言葉に耳を傾けたいと思いますが、その少し前の11章の27節から、先ほど聖書のみ言葉を聞きました。11章にはアブラハムの父テラのことが記されています。テラには三人の息子があります。アブラム、ナホル、ハランです。

 家系図が頭に描けるとよいのですが、ハランの娘ミルカは、お父さんであるハランの兄のナホルと結婚します。ですから、テラの息子たちはカルデヤのウルというメソポタミヤ文明で栄えた町で、それぞれに生活していたということが分かるわけです。
 そして、アブラムはサライと結婚しますが、「サライは不妊の女であった」と書かれています。そして、そのあとで、テラは息子のアブラムと、ハランの息子であるロトを連れてカルデヤのウルから出発したと書かれています。この家系は、とても重要な意味をもっていますので、注意深く理解する必要があるのですが、アブラムの末弟であるハランはウルの地で死んでしまっています。ハランには三人の子どもがあり、ナホルの妻となったミルカと、イスカとロトという子どもたちがいました。アブラムはその甥のロトと一緒にウルの地から出て来たというのです。

 つまり、ウルを出てきたのは、子どもがいないアブラムと、父親の跡継ぎではない若者のロトだけが、テラにつれられてカルデヤのウルの地を出てきたわけです。このことが、創世記の11章の最後に書かれているのです。

 創世記の11章までに何が書かれているかというと、神が「非常に良い」と言われた神の創造の御業から、人が罪を犯し、兄弟で争い、人々は自分勝手に生きるようになって、大洪水による裁きを経験します。またバベルの塔を築き上げて自分たちの権力を誇示しようとします。神は人々の言葉をバラバラにされて世界に散らされました。神の民たちはここにきてついに、希望のない家族だけとなったという、人間の悲惨さがここに記されているということなのです。

 しかも、聖書を読むと、ヨシュア記24章の2節でヨシュアはこう書いています。

あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。

 アブラムの父テラは、主なる神ではなく、メソポタミヤの神、月の神を礼拝する信仰だったようですけれども、そういう神々に仕える者だったのだということが書かれています。

 罪の悲惨さというものは、ここまで来て、テラの子であるアブラムには子どもがなく、また父を亡くした若者ロトも、おそらくハランの子どもで後継者となるイスカがいるので、行くところがなくなった者としてアブラムについて旅に出た。そんな希望のない中で、何か新しいものはないかと、ささやかな可能性に期待しながらハランまで来たけれども、それ以上旅を続けることができず、そこでテラは死んだのだということが書かれているのです。

 この何ともいえない重たい空気を読むときに、私たちは今、私たちが置かれている状況に当てはまるような気持ちになるのかもしれません。 (続きを読む…)

2014 年 12 月 28 日

・説教 ガラテヤ2章20-21節 「パウロの生涯に示された神の恵み」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:42

本日は舛田忠興執事が礼拝説教で奨励をして下さいました。

2013 年 2 月 10 日

・説教 ガラテヤ人への手紙6章11-18節 「私たちの戦い」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

2013.2.10

鴨下 直樹

 「戦いの手紙」と呼ばれたガラテヤ人への手紙もここでようやく筆を置くことになります。そして、今日のところでパウロは、自ら筆をとって書いています。ここにパウロがどのような思いで戦っていたのか良く分かります。

 パウロの戦いというのは、相手を飲み込むように威圧して力によって戦うことをしませんでした。自分の持つ力を示すことではなくて、神の愛を、恵みをさし示すことに終始心を注ぐ戦いです。愛がとどくために戦っているのです。

 

 戦いといいますと、私たちは先週横浜で行なわれた全日本製造業コマ大戦の話を聞いたかもしれません。私たちの教会の長老であるYさんの会社がこの大会に優勝しました。新聞にも取り上げられたようで、わたしもさっそくインターネットで調べてその戦いの様子を見させていただきました。決勝戦の様子を見たのですけれども、決勝でYさんのまわすコマが勝った時には思わず目頭に熱いものがこみ上げてきました。

 全国から二百社の応募の中からの優勝ということです。色々なコマがありますけれども、様々なアイデアのなかでいかに堅実に戦うことが大切かということをもう一度考えさせられました。今日の説教題を私たちの戦いとしました。私たちの歩みにも様々な戦いがあります。教会と戦いという言葉はあまり一つに結びつくというイメージがないかもしれませんけれども、信仰の歩みは戦いの歩みです。教会の歩みは戦いの歩みです。しかし、私たちの戦いは力でよって勝利を得る戦いではありません。私たちの業や、私たちが何かをなし得ることで勝利を得るわけでもありません。

 

 パウロはこの手紙の結びの部分でこう言いました。

「割礼を受けているか受けていないかは大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」

 パウロはここで力に生きるのではなく、大事なのは新しい創造であると語りました。最後にこの手紙を結ぶにあたってそのことはどうしても、自分の手で伝えたいと思ったのです。 (続きを読む…)

2013 年 2 月 3 日

・説教 ガラテヤ人への手紙6章1-10節「兄弟として共に生きる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:20

2013.2.3

鴨下 直樹

 間もなく総会を迎えます。今朝、総会資料が配られておりますので、すでに目を通された方も多いと思います。その時に、ちょうどこの御言葉が与えられております不思議を感じずにはおられません。

 今日の聖書個所の冒頭にこのように記されています。

「兄弟たちよ。もしだれかが過ちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心で正してあげなさい。」

 今朝はこの聖書の言葉を少し考えてみたいと思います。

 

 「もし誰かが過ちに陥ったなら」とパウロは語りかけます。私たちの身近に、日常によく起こることです。私たちの日常の生活の中で、家族が過ちを犯す、兄弟が過ちを犯した時に、私たちはどうするのかということが問われているのです。もちろん、それは家の中のことだけに留まりません。教会でも同じことですし、地域の人との関わりも同じことです。そこで、私たちがよく経験するのは、誰か近しい人が過ちを犯した現場を目撃したら、鬼の首をとったかのように攻撃をしてしまうという場面です。攻撃する側は気持ちがいいのですが、攻撃される方としてみれば大変なことです。人はなかなか人の過ちを簡単に見過ごしにすることができないようです。何故なのでしょうか。

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2013 年 1 月 27 日

・説教 ガラテヤ人への手紙5章16-26節 「自由への戦い」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:24

2013.1.27

鴨下 直樹

今日の説教題を「自由への戦い」としました。今日の十六節からの聖書箇所には自由という言葉はありませんので、なぜこんな題をと思う方があるかもしれませんが、その前の十三節から自由についてパウロが語っているからです。ですから本当でしたら今日は十三節からにするべきだったかもしれません。
この「自由」という言葉は色々なものを連想させます。自由と言った時に連想するのは、多くの場合、自分の願いが満たされること、自分がまさに自由に、気ままに生きることができる時であろうと思います。けれども、私たちがキリスト者としてこのテーマから連想する自由のイメージは、もしかすると、信仰に生きるために欲望を我慢して不自由を強いられることが信仰的な生き方で、それを聖書は御霊に生きると言っていると理解してしまうことがあるかもしれません。
このような考え方を禁欲主義といいます。禁欲主義などという言葉を使いますと、自分はそんな堅苦しく考えていないと思うかもしれませんが、信仰に生きるというのは、禁欲的な生活を強いられるというイメージを持っている人は意外に多いと思います。今日の箇所は私たちが信仰者としてどのような自由に召されているのかを考えてみたいと思います。

私は今、「自由に召される」と言いました。召されるという言葉は、たとえば牧師になるために神学校にいくように召されたなどという使い方をしますから、何か特別な召命を受けた人のことと考えてしまうかもしれません。しかし、パウロはこの十三節で「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。」と書いています。召すというのはそのために任命するということです。神は私たちが自由に生きるように任命してくださったのだというのです。

けれども私たちが信仰に生きる時、この自由によって与えられる喜びが失われていることに気づくことがあるのではないかと思います。教会に来始めた頃、聖書の話に興味をもって礼拝に来ていた時は喜んで来ていたのだけれども、信仰に生きるようになって、洗礼を受けていつのまにか、喜びが心の中に感じられなくなってしまって、何となくの義務感や、人付き合いから来る責任感の方が大きくなってきてしまうということがあるようです。これは残念なことです。いくら残念と言っても、簡単に喜びを取り戻すことができなくなっていくと、それは深刻な問題です。
今日の聖書の箇所は私たちが失いそうになってしまいがちな、この信仰の喜びに深く根差す自由はどこから来るのかということを、パウロは教えようとしているのです。

パウロは今朝のところでこう言っています。 (続きを読む…)

2013 年 1 月 20 日

・説教 ガラテヤ人への手紙5章2ー15節 「愛によって働く信仰」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:02

2013.1.20

鴨下 直樹

先ほど、詩篇の五十一篇を聞きました。「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」との表題がついています。イスラエルの王ダビデが、自分の部下ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯します。そして、部下のウリヤを戦争のもっとも激しい所に送り出して殺してしまうという出来事が起こりました。今日流の言葉で言えば不倫です。そして、それが殺人事件に発展したのです。しかし、ダビデは王さまです。自分のしたことをうまく隠すこともできれば、それを攻め立てる人もおりません。この出来事の書かれているサムエル記第二の第十一章、十二章を見てみますと、ダビデはその出来事を隠そうとはしていても、悪びれている様子はありません。けれども、預言者ナタンがダビデを訪ねて来て、このダビデの罪を臆することなく指摘します。その時にダビデが悔い改めた祈りが、この詩篇五十一篇です。
ダビデの時代というのは、罪の赦しのために犠牲を捧げることが律法に定められていました。けれども、ダビデはこの詩篇の中で、自分の罪に目をとめながら神は本当は犠牲を捧げることを願っているのではなく、心から悔い改めることを求めているのではないかと気づきます。それが、この詩篇の祈りの中で現れているのです。

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

十節。そして、

たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

と十六節、十七節にあります。
ダビデはこの詩篇で、自分には母親から生まれた時から罪があるのだとの自覚を告白し、その罪から完全にきよめられるためには全焼のいけにえを捧げることによって罪が赦されるのではなくて、神によって新しい存在にされることだとの結論に達します。パウロの時代から約千年も前の出来事です。

人が罪からきよめられるために必要なことは、律法の規定のとおり全焼のいけにえを捧げることか、それとも、神によってきよめられることか。 (続きを読む…)

2013 年 1 月 6 日

・説教 ガラテヤ人への手紙4章12-20節  「パウロの願い」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 00:51

2013.1.6

鴨下 直樹

今日の説教の題を「パウロの願い」としました。それは今日の聖書の冒頭の言葉、「お願いです。兄弟たち。私のようになってください。」という十二節の言葉からとりました。もっと色々な題をつけることができると思います。いつも単純な題しかつけられないのですが、今日の聖書が語っているのは、パウロのこの言葉につきるのです。

お願いです。兄弟たち。私のようになってください。

しかし、よく考えてみますと、私たちは普段そのように誰かに言うことができるでしょうか。たとえば、昨年のクリスマスに洗礼式がありまして、洗礼を受けられた方に教保という人がつきます。新しい信仰の歩みの支えとなるように役員会でよく祈りながら教保をつけるのです。教えを保つと書きます。その教保が新しく教会員となった方に、「なに、心配することはないのです。私のように生きたらよいのです」と言えるかということです。そんなことを言うと、誰かの教保をしておられる方はびっくりしてしまうかもしれません。「私はそんな立派なキリスト者ではない」と言いたくなるのではないかと思うのです。

私たちは、「私のようになってください」などと言えるのは、よほど立派な人間でないと言えることではないとまず考えるのではないでしょうか。実際、そんなに軽々しく言える言葉ではないのです。しかし、パウロはここでそれこそ確信をもって語っています。もちろん口先だけの言葉ではなかったはずです。心からそう願っていたに違いないのです。
私たちが言うことができるとしたらどうでしょう。前任の後藤先生の書かれた『キリスト教Q&A21』という本があります。この本はこれまで洗礼を受ける方のテキストにしてきたということもあって、今もそれを使って洗礼の方の学びをしています。その中にもでてきますけれども、後藤先生自身、洗礼を受けたときに誰かにこう言われたそうです。「人間をみてはいけません。キリストを見ることが大事です。」と。人が何をしたとか、何をしなかったとかそういうところにいつも目を向けていると、腹が立ったりします。けれども、主イエスを見つめていれば、そういうことから回避できるというのです。後藤先生自身、そのアドバイスはとても役にたったと書いておられます。

パウロが、「私のようになってください」と言っているのは、自分は立派なキリスト者で、私を手本にすると良いという意味で言っているのでしょうか。パウロはこのすぐ後で「私もあなたがたのようになったのですから」と言っています。これは、どういうことなのでしょうか。 (続きを読む…)

2012 年 12 月 30 日

・説教 ガラテヤ人への手紙4章1-11節 「解放の言葉」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:36

2012.12.30

鴨下 直樹

クリスマスを迎え、今朝は降誕後第一主日です。教会の暦ではクリスマスを覚えて祝う主の日です。私たちは年末ということもあって、もうクリスマスの気持ちはすっかり抜けて、新年を迎えるための準備をしておられる方々も多いかと思います。私も先週三日間のお休みをいただきました。と言ってもどこかに出かけたというわけではなくて、念願の大掃除をいたしました。牧師室などは何年ぶりかで綺麗になりました。これで気持ちよく新年を迎えられるという思いが私にもあります。けれども、教会の暦ではクリスマスです。不思議な気持ちになるかもしれません。それは、クリスマスはもう終わってしまったことと考えてしまうので、今朝の礼拝ではクリスマスのお祝いなのですよ、と言われてもあまりピンとこないのかもしれません。

今、礼拝ではこのガラテヤ人の手紙を順に学んでいます。そして、不思議にも、ちょうどクリスマスの出来事がここにも記されているのです。四節にこうあります。

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

神が定められた時、それがクリスマスでした。その神が定めたクリスマスの時に、神はイエス・キリストをこの世に生まれさせ、イエス・キリストもこの世界の律法、つまり法律のもとに生きる者とされましたと書かれています。ここに一つの大切なクリスマスの意味が記されています。クリスマスというのは、天におられた神であられたお方がこの地に来られて、この世界のルールに従う存在となったのが、クリスマスの意味だということができるわけです。
そして、神がなぜそんなことをなさったのかというと、続く五節で、

これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

となっています。大変、興味深い説明をパウロはここでしています。神の御子であられる主イエスがこの世界のルール、きまりに従うのは、私たちがそこから解放されて神の子とされるためだというのです。

先週の礼拝で、クリスマスを祝いながら洗礼式を行ないました。洗礼というのは、キリスト者として新しく生まれるという意味を持っています。主イエスを信じるまでの生き方は、この世の価値観に支配されながら、みんなが考えるように自分も考えて決断するという生き方をしてきました。この世の考え方と言っても色々あります。自分の生活が第一という人もいれば、人のためになることをしたいと思っている人もいます。ですから、それらを簡単に悪いと言いきることはできませんし、それを一口に言い表すことはできないのですが、パウロはここで、「この世の幼稚な教えの下に奴隷になっていました」とはばかることなく主張します。しかも、ここで「私たちも」とパウロ自身、この世の幼稚な教えに支配されていたと言っています。ここで、パウロはそのようなこの世界の価値観を否定しているわけではありません。神の価値観に比べて幼いのだと言っているのです。 洗礼を受ける前の生き方が、この世の幼稚な教えの下で生きて来た、などと言うと、そうとう多くの人が拒否反応を示すのではないかと思います。

あの宗教改革者のルターの改心の出来事を聞いたことがあるでしょうか。 (続きを読む…)

2012 年 12 月 9 日

・説教 ガラテヤ人への手紙3章1-14節 「聞くことから始まる信仰」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:26

2012.12.9

鴨下 直樹

第二アドヴェントを迎えました。先ほども賛美をいたしましたが、このアドヴェントに蝋燭を一つづつ灯します。讃美歌21の242番の「主を待ち望むアドヴェント」という賛美は、アドヴェントの日曜を迎える度に蝋燭を一つづつ灯しながら主イエスが来られる意味を思い起こさせます。「主を待ち望むアドヴェント、第二の蝋燭灯そう。主がなされたそのように、互いに助け合おう」。第二アドヴェントのところを今、そのように歌いました。この賛美は、主が何をなさったのかを思いだして、そのように互いに生きようという招きです。私たちはアドヴェントの時だけではありません。いつも主がどのようになさったのか思い起こす必要があります。
もう随分前のことですけれども、いつも説教の学びをしております説教塾というグループでお互いの説教を一つづつ集めて、説教集を出そうということになりました。まだ牧師になったばかりの時でしたけれども、私もその説教集に名前を連ねさせてもらいました。その説教集に説教塾の指導をしてくださっております加藤常昭先生が素敵なタイトルをつけてくださいました。「思い起こせキリストの真実を」というタイトルです。「キリストが何をしてくださったのかを、この説教によって思い起こそうではないか」と訴えかけているようで、よい題をつけてくださったと思っています。

今日の聖書はまさに、パウロはキリストの何を聞いて来たのかとガラテヤの教会の人々に語りかけているところです。
一節では「ああ、愚かなガラテヤ人。」と自分が築き上げた教会の人々に向かって、ついにパウロは「あなたがたは何と愚かなのだ」、「馬鹿者なのか」と語っています。いくらパウロ先生でも、言っていいことと悪いことがあると言い返したくなる人があったかもしれません。直接、相手を馬鹿者、愚か者と叱咤することはあまりいいことだとは言えません。けれども、パウロはそう言わずにはいられないほど、ガラテヤの教会の人々に語りかけたいことがあったのです。 (続きを読む…)

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