2012 年 12 月 2 日

・説教 ガラテヤ人への手紙2章15-21節 「イエス・キリストの真実」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 23:21

2012.12.2

鴨下 直樹

いよいよ今週からアドヴェント、待降節を迎えました。毎週、蝋燭に一つづつ火を灯しながら、クリスマスまでの四週間を待ち望む期間を迎えているのです。教会の暦では今日のアドヴェントから新しい一年が始まると考えています。このアドヴェントの季節を迎えて、教会が最初に思い起こさなければならないのは、主を待ち望む信仰です。クリスマスの日にお生まれになられる赤子の主イエス・キリストが来られることを待ち望むのです。今週からいくつものアドヴェントの讃美歌を歌います。どのアドヴェントの讃美歌も、主を待ち望む喜びを歌っています。考えてみますと、待つということはあまり嬉しいことではないかもしれません。待たされているなどというのはいい気がしないものです。けれども、待つに値するものであればあるほど、その期待は膨らみます。
先週の木曜日、ある方からチケットをいただいてコンサートに行ってきました。ドイツのドレスデン聖十字架合唱団のクリスマスコンサートがありました。九歳から十九歳までの少年合唱団による賛美です。たいへん楽しいひと時でした。このアドヴェントの季節になると、たくさんのアドヴェント賛美歌を口ずさみながら、アドヴェントの意味を改めて味わうのです。コンサートではドイツ語の讃美歌が沢山歌われました。ですから、マレーネ先生などはやはり一緒になって歌いたい思いだったのではなかったかと思います。
そのコンサートで最後のアンコールの時に、「シオンの娘よ」ではじまるヘンデルの讃美歌が歌われました。メロディーは日本では優勝式で演奏されることになっている歌です。この讃美歌は日本では聖歌168番の「いざひとよほめまつれ」でなじみのある曲です。同じ歌が表彰式で演奏され、イースターやアドヴェントにも演奏されるのです。ドイツ語の讃美は「シオンの娘よ喜べ、エルサレムよ叫べ。見よ、平和の君が来られる」という歌詞です。「平和をもたらす王がおいでになられるから喜べ」と歌うのです。この歌を、アドヴェントになったらドイツであればどこの教会でも歌います。クリスマスにお生まれになられたイエス・キリストは平和をもたらすために来られるのだと、この讃美歌を歌いながら平和の君を待ち望むのが私たちの信仰なのだと教えているのです。
アドヴェントというのはこのように、イエス・キリストがもたらすもの、それを私たちはこの季節にもう一度思い起こしながらこの季節を過ごすのです。それはとても大切なことです。

パウロもまたこの手紙で、キリストが何をもたらしたのかを語っています。しかも、今日の箇所はガラテヤ書の中心といってもいいし、信仰の中心的なことをこのところで語っているということができるほどです。このガラテヤ書の説教を始めたときに、宗教改革者ルターはこの手紙を「私の妻である、と言ったほど大切にした」とお話ししました。なぜかというと、まさに、今日のところで語られているパウロの主張は、ルターがもっとも語りたいことだったからです。それは、まさにキリストの福音が何をもたらしたかということです。
パウロは語ります。 (続きを読む…)

2012 年 11 月 25 日

・説教 ガラテヤ人への手紙2章1-14節 「キリストにあって持つ自由」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:13

2012.11.25

鴨下 直樹

今日の午後から教団の総会が岩倉教会で行なわれます。私たち同盟福音教会には26の教会がありますが、年に二度三月と十一月に牧師、宣教師、長老、執事が集まりまして総会を行ないます。そこで教会の大切なこと、主に来年のことについて話し合いをし、決議をいたします。特に今年は役員選挙が行なわれますし、教団全体のシステムについて今、長い時間をかけて話し合いをしています。そのように話し合いの時を持ちながら、総会で決議されたことはすべての教会で守られていきます。特に、私たち同盟福音基督教会というのは包括宗教法人といいまして、宗教法人格を一つしか持っていません。個々の教会一つ一つを一つの教会として考えるのだということをそこでも現わそうとしているのです。こうして話し合われて、会議で決定されたことは私たち26の教会すべてで尊重されます。そこに神のみ心があると信じるからです。
このような教会会議というのはいつから始まったかと言いますと、エルサレム教会で行なわれた教会会議から続いていると言えます。そのエルサレム会議で何が話し合われたのかというのが、ちょうど今日の聖書箇所です。パウロがテトスを連れてエルサレムに再び上ったのはそのためでした。この第一回エルサレム会議において何が話し合われたのかといいますと、異邦人がイエス・キリストを信じた場合ユダヤ人と同じように割礼を受けなければならないのかということを話し合うためでした。それで、テトスを連れて行ったのです。といいますのは、テトスが異邦人であるギリシャ人であったからです。

今現在、今年のクリスマスの礼拝で洗礼式をするための準備を進めています。この時同時に割礼を行なうということはありません。第一回エルサレム会議において、異邦人に割礼を受けさせる必要がないと決められたからです。九節を見ますと、

柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。

とあります。ここにエルサレム会議の結論がどうであったのかが記されています。パウロの言い分がエルサレム会議で受け入れられたのです。
パウロの言い分と言いますのは、異邦人はユダヤ人のように割礼を受けなくても、洗礼をうけることができるということでした。異邦人であっても、主イエス・キリストを信じることによって約束の神の民になれるのだということです。それが、パウロが二節で語っている「私の宣べている福音」という言葉や、五節に出て来る「福音の真理」という言葉で表そうとしています。パウロにとって福音というのは、ユダヤ人のようになること、つまり、ユダヤ人と同じように律法を重んじることによってしか救われないのではなくて、ただ、信じるだけで救われるのだということなのです。

先週の祈祷会でもある方から質問がありました。「律法というのは守らなくてもいいいものなんでしょうか」という質問です。 (続きを読む…)

2012 年 11 月 11 日

・ガラテヤ人への手紙1章11-23節 「主との出会い」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:14

2012.11.11

鴨下 直樹

 今回から、新しくガラテヤ人への手紙から順に御言葉を聞き始めております。この一年が終わろうとしている時に、なぜ、ガラテヤなのだろうと思われる方もあるかもしれません。しかし、私自身ガラテヤ人への手紙を読みながら、今私たちが聞き届けなければならない聖書の言葉がここにあるという思いがしています。

 今年も十一月に入りまして早くも中旬を迎えました。教会でもクリスマスの準備が始まりますが、私たちの日常の歩みでも、年越しと新年の準備が始まります。先日、買い物に行きまして、年賀状印刷のチラシが目に飛び込んできました。もうそういう季節なのかと一年のすぎるのを早く感じます。この時期に届く手紙の中に、今年家族を亡くし、今喪中なので新年のあいさつを控えさせてもらいたいという葉書がまじって届きます。

 先週もここで召天者記念礼拝を行ないました。非常に大勢の召天者の家族の方々がお見えになりました。墓地での礼拝も行なわれました。そこでも聞いたのですけれども、「キリスト教の葬儀は明るいですね」と何人もの方々が言われました。復活の望み、よみがえりのいのちに生きる希望があるからです。そこでどうしても考えなければならないのは、喪中につき欠礼という習慣と、私たちの信仰はどういうつながりがあるのかということです。もちろん、この手紙には昨年家族が亡くなったことを、葬儀に出ていない方にも知らせるという意味がありますからとても大事なものです。また、喪中であるために、喜びの挨拶をすることは控えさせていただきます、というのは当然のことで喜びの挨拶をすることは憚られます。ですから決して間違った習慣ではありません。とても大事なことです。けれども、キリスト者は家族の死を悲しみの中で、忍ぶことによって乗り越えていこうとするのではなくて、主にある希望に生きています。よみがえりの主にある喜びに生かされているのです。ですから、葬儀に来られた方々も、キリスト教の葬儀は明るいと言われるのでしょう。新年のあいさつを記す時に、「昨年、家族を亡くしましたがしかし、今、私たちは喜びでいます。復活の主の御許に愛する家族がいまいるからです。今年も変わることなく、この喜びにいきたいと思います」というような新年の挨拶の言葉を送るということがあってもいいように思うのです。もちろん、手紙を受け取った人は驚くかもしれません。しかし、それだけに、キリスト者の喜び、信仰が伝わるのではないかと思います。

 パウロはここで手紙を書き送っています。挨拶などということを飛ばしていきなり本題に入るという、心を注ぎ出す言葉をこの手紙につづっています。手紙を受け取った人が驚くような言葉がつまっています。 (続きを読む…)

2012 年 10 月 28 日

・説教 ガラテヤ人への手紙1章1-10節 「使徒パウロからガラテヤの諸教会へ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:58

2012.10.28
宗教改革記念

鴨下 直樹

10月31日は宗教改革記念日です。それで、教会の暦ではこの日に一番近い主の日の礼拝で宗教改革を祝う習慣があります。今日からガラテヤ人への手紙の説教をしますけれども、それは大変意味深いことだと思います。宗教改革者のマルチン・ルターはこのガラテヤ人への手紙のことを「ガラテヤ人への手紙は私のケーテ・フォン・ボーラである」と言っています。このケーテ・フォン・ボーラというのはルターの妻の名前です。自分の妻のように愛したのがこのガラテヤ人への手紙であると言ったのです。聖書を自分の妻のように愛するなどということは、私たちにはあまり考えにくいことであるかもしれません。けれども、今日からこのガラテヤ人への手紙を通して、ルターがまるで妻のようだと言って愛したこの手紙を、私たちも、この主の言葉を愛することができるようになればと願っています。
今日は宗教改革記念を覚える主の日です。ルターは信仰の戦いを戦い抜いた宗教改革者でした。人は良いことを行なうことによって神から義、良いと認められるのではなく、信仰によるのだということをこの時、再確認したのです。そして、そのためにとても大きな役割を果たしたのがこのガラテヤ人への手紙でした。この使徒パウロの信仰の戦いの手紙があったからこそ、マルチン・ルターもまた信仰の戦いを戦い抜くことができたのです。

私たちにとって信仰の戦いと言う言葉はあまり現実味を帯びて感じられないということがあるかもしれません。しかし、私たちは毎日毎日いろいろな場面で、キリスト者としての決断を求められる時があります。そんな戦いというような仰々しいものではなかったとしても、やはりそこにはさまざまな心の迷い、葛藤があるでしょう。そこで、この手紙がルターにとって大きな助けとなったように、みなさんにとっても大きな助けになるものであると信じます。このガラテヤ人への手紙は戦いの手紙と呼ばれています。私たちもこの手紙を通して、パウロが戦いの中でガラテヤの教会の人々を愛していたか、そして、この手紙を聴く者たちに本当の自由を得させるため、救いを与えてくださった主のみ心をしっかりと聴き取りたいと願っています。

さて、この手紙はこう書き出します。 (続きを読む…)

2009 年 10 月 18 日

・説教 「新しい創造」 ガラテヤ人への手紙6章11節-18節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 11:02

鴨下直樹

 私たちは半年にわたり、創世記の御言葉を聞き続けてきました。この朝は、これまでの創世記の前半を振り返りながら、もう一度、御言葉に耳を傾けたいと思います。

 それで、この朝私たちに与えられている聖書のテキストは、パウロがガラテヤの人たちに宛てた手紙の最後の部分で語られている「大事なのは新しい創造です」という言葉です。新共同訳の聖書では「大切なのは、新しく創造されることです」となっている言葉です。

 何度もお話しておりますけれども、今、水曜日と木曜日の祈祷会で「パウロ伝」を学び続けております。先回は、パウロが三度の伝道を終えた後エルサレムに戻りまして、そこでユダヤ人たちに捕えられてしまうところまでを学びました。使徒の働きの21章27節から36節に、その時の出来事が記されています。

 パウロは、アンテオケの教会からつかわされ、イスラエルにありますシリアから、キリキア、パンフリア、ガラテヤを通ってピリピやテサロニケのある海の向こうのマケドニヤ、さらにコリントやアテネなどのあるアカヤ地方、そして、エペソ、コロサイなどのあるアジアなどのローマの属州を次々にわたって伝道いたします。その期間にいくつもの教会を建て上げて行きました。これらの国々は、もちろんイスラエル人たちの国ではありませんから、ユダヤ人たちが異邦人と呼んだ人々に福音を語り続けていったのです。そこで、パウロはこの異邦人たちに対しては、ユダヤ人のように、聖書の戒めに従って生きるのではなく、主イエスへの信仰に生きることが大切だと語り続けていきました。

 ところが、パウロが伝道すると必ずそこに、ユダヤ人のパウロの教えに反対する人々が現れます。この人々はエルサレムの教会で信仰をもった人々も中にはいたのでしょう。このユダヤ人のキリスト者たちというのは、パウロは、モーセの律法を軽んじていると、常につきまとってまいりまして、パウロの伝道の妨害をするのです。 (続きを読む…)

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