2025 年 5 月 18 日

・説教 マルコの福音書6章1-6節「郷里の人々のつまずき」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:51

2025.05.18

内山光生

イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」  マルコの福音書6章4節

序論

 今日の説教題は「郷里の人々のつまずき」です。聖書の中には「つまずき」という言葉が出てきますが、聖書を初めて読む人にとっては、どういう意味なのかが分かりづらいとの意見があるという事を知り、私はそのことについて何年がかりかで思い巡らしていました。けれども、辞書などを調べたりする訳でもなく、ただ時が過ぎ去っていきました。

 それで、今回、説教の準備をする際に、つまずきについて辞書で調べてみました。分かった事を整理すると、一般的な意味でのつまずきは二つに分類できると。一つは「文字通りのつまずき」で、歩いている時に石につまずいたといった感じで用いられます。もう一つは「比喩的な表現としてのつまずき」です。この場合、「人生につまずいた」といった感じで用いられます。そしてその意味は「人生に行き詰った」ということを指しています。ですから、比喩的な意味としてのつまずきの場合、別の言い方を付け加えることによって自分の言わんとしていることがきちんと伝わりやすいと解説されていました。

 しばしばクリスチャンの間で「誰かにつまずいた」と言った用いられ方をすることがあります。しかし、厳密に言うと、このような用い方は一般的な日本語としてはあまり使われていない表現です。クリスチャン独特の表現だと言えるかもしれません。ただ、言葉というのは時代によって変化するものなので、一概に「それは本来の用いられ方と違う」と指摘するのもナンセンスなのかもしれません。けれども、私自身、聖書で用いられている「つまずき」がどういう意味なのかをきちんと整理しておきたいという思いが出てきましたので、早速、聖書の色々な箇所を調べたり、ギリシア語や英語の聖書を調べてみました。

 分かった事は、日本語の聖書は一緒くたに「つまずき」と訳されているけれども、英語の場合は、文脈によって表現が変えられているということでした。具体的な事については、後で説明しますが、一つ言えることは、日本語の聖書で「つまずき」と訳されている聖書箇所については、英語の聖書で読んだ方が理解しやすいのではないか、ということです。

 聖書の中での「つまずき」という言葉は、大きく二つに分けることができます。一つは、今回の箇所のように「イエス様に対して人々がつまずいた場合」です。もう一つが、「誰かが誰かをつまずかせる場合」です。この二つは日本語では同じ「つまずき」と訳されていますが、しかし、先ほどお伝えしたように英語の聖書では、その文脈を踏まえた適切な訳となっています。

 今回の箇所について、どう訳せば分かりやすいかと言うと、「イエスにつまずいた」ではなく、「イエスを拒絶した」あるいは「イエスを疑った」とすればいいのです。それを踏まえると、今回の説教題は、「郷里の人々のつまずき」ではなく「イエスを拒絶した郷里の人々」と置き換えることができるのです。 (続きを読む…)

2025 年 5 月 11 日

・説教 マルコの福音書5章21-24,35-43節「タリタ・クム」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:28

2025.05.11
(母の日)

内山光生

そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。  マルコ5章41~42節

序論

 今日は母の日です。母の日について改めて調べた所、どうやら母の日というのは国によって日にちや祝う方法が様々だということが分かりました。日本における母の日というのは、アメリカの習慣を取り入れたことによって一般の人々に広まっていったと記録されています。日本に母の日が取り入れられた当時は、アメリカではカーネーションを贈る習慣がありましたので、それが日本でもそのまま受け入れられていったのです。ですから、今の時代においても母の日となるとホームセンターや花屋さん、そして、スーパーなどにおいてカーネーションが並べられているのを見ることができるのです。

 ところで最近、私はインターネットの情報というのは、必ずしも正しくないということを色々な経験から学んでいましたので、念のため、アメリカにおいてカーネーションを贈るということが今でも普通の事なのかどうかを確認したくなりましたそれで今年の3月頃でしょうか。私はアメリカ人で元宣教師をされていた方に「アメリカでも母の日はカーネーションをプレゼントするのですか。」と聞いてみました。すると、その方からは、少なくともその方が住んでいる地域では、「その人が好きな花をプレゼントする」と返ってきました。どうやら、あちらの方では、色々な考え方を受け入れるという土壌があるようで、皆が同じものをプレゼントされるというのは肌に合わないと考える人が多いというのです。

 これはアメリカに住んでいる人の考え方によるもので、日本全体の考え方とは異なっています。しかし、どちらが正解ということではありません。ただ言えることは、日本においても母の日のプレゼントの内容について様々な方法が出てきている、ということは確かなことだと言えるでしょう。

 さて、今日の聖書箇所は二つの箇所を選びました。その理由は、いきなり35節以降の話から始めても、前回聞いてなかった人や、忘れてしまっている人にとっては唐突に感じてしまうかもしれない。だから、もう一度21~24節に書かれている会堂司ヤイロがイエス様にお願いをした場面を確認した方が良いと考えたからです。

I ヤイロの信仰(21~24節)

 ではさっそく21~24節から見ていきたいと思います。

 会堂司というと、以前の訳では会堂管理人と訳されていましたが、会堂管理人と表現すると、まるで会堂の修繕や掃除をする人のようなイメージが出てきて、権威ある立場だということが分かりづらいと指摘されていました。そこで、新しい訳では会堂司となったのです。会堂司は、ユダヤ人の会堂において、安息日ごとの礼拝に関する責任者です。ですから、会堂司が礼拝で聖書朗読をしたり、聖書の解き明かしをすることがありましたし、会堂司の一存で、誰に聖書の解き明かしをしてもらうかを決めることができたのです。

 それゆえ、会堂司ヤイロは、町に住んでいるユダヤ人の間では、尊敬される立場だったのです。そんなヤイロが、自分の立場に関係なく、イエス様にひれ伏してお願いするのです。「娘が死にかけています。どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」と。

 ヤイロはイエス様が病気を癒すことがおできになるといううわさを聞いていて、それで、今まさに娘には癒しが必要だと考え、必死になってイエス様にすがりついたのです。ここにヤイロの信仰が現されているのです。そして、イエス様は彼の願いを聞き入れ、娘のところに向かおうとされたのです。 (続きを読む…)

2025 年 5 月 4 日

・説教 ルカの福音書17章11-19節「キリエ・エレイソン」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 07:18

2025.05.04

鴨下直樹

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 今日は復活節の第三主日、「ミゼリコルディアス・ドミニ〈主の慈しみ〉」と呼ばれる主の日です。教会歴で今日読むことになっている聖書は詩篇33篇5節の「主の恵みで地は満ちている。」というみ言葉です。ところが、新改訳聖書では肝心の「慈しみ」という言葉が出てきません。新共同訳聖書ではこのようになっています。「地は主の慈しみで満ちている。」。この後半の「地は主の慈しみで満ちている」という言葉がラテン語で「ミゼリコルディアス・ドミニ」と言うのです。「慈しみ」という言葉はヘブル語で「ヘセド」という言葉です。これを、新改訳は「恵み」と訳し、新共同訳は「慈しみ」と訳しています。「愛」と訳されることもありますし、「慈愛」と訳す場合もあります。新改訳と新共同訳の日本語の翻訳はそれぞれ異なりますが、この「ヘセド」という言葉で言い表そうとしているのは神の大きな愛の眼差しが、「恵み」や「慈しみ」という神の思いがこの地に、この世界に注がれているということです。

 雨宮慧(さとし)というカトリックの言語学者がおられます。この方は、『旧約聖書の心』という本の中で、このヘセドという言葉を、「神と人を結びつける絆である」と言っています。この絆には二つの側面があって、一つは両者を結ぶ愛、もう一つはその愛に対する誠実さであると説明しています。ここに、神の愛、恵み、慈しみと訳される神の本質的な心が表されています。

 今日は、復活節の第三主日で、イースターによって示されたこの神のヘセドに表されている思いを心に刻む日です。そんな中で、今日は、ルカの福音書の17章の11節から19節のみ言葉が与えられています。ここに記されているのは、まさにこの神の慈しみ深さであると言って良いと思います。

 今日の聖書の箇所は読む私たちに強烈な印象を与えます。というのは、主イエスはサマリヤとガリラヤの境にある村に入られたと書かれています。この村に住んでいるのは、「ツァラアト」に冒された人々でした。サマリヤというのはイスラエルが二つに分裂し、北イスラエルと南ユダに分かれた後、ユダの人々は主への信仰を受け継いでいたのですが、北イスラエルの人々は神の思いから完全に離れてしまった人々で、外国の人々といわゆる雑婚をしていきます。そうするとどうなるかというと、それぞれの民族の信じる神々を取り入れていくわけで、主なる神への信仰を捨ててしまった人々です。それで、北イスラエルとはもはや呼ばないで、「サマリヤ人」と呼ぶようになって、ユダヤ人たちはこのサマリヤの人々を蔑んできたわけです。

 ところが、この聖書の箇所を読んでいくと分かってくるのですが、「ツァラアト」という病に冒された人々というのは、重い皮膚病を患った人々で、この時代では人々から隔離されていまして、もはや家族とも一緒に生活することが許されません。当然、この人々のところには医者も訪ねてはきません。いわば、捨てられた人々の集落となっていたわけです。しかも、この捨てられた人々同士が、民族の争い関係も忘れて一緒にこの村で生活していたようです。捨てられた者たちの間にはもはや民族的な差別意識は無くなっていたわけです。

 ただ、そう聞くととても麗しい愛の共同体が生まれているかのようにも思いますが、実際には見捨てられた人々が肩を寄せ合って生きていたというのが、本当の姿のように思うのです。もはや、ここには希望がない、死を待つだけの世界、それがこの村の姿であったのです。

 ところが、この村を主イエスは訪ねられたのです。 (続きを読む…)

2025 年 4 月 27 日

・説教 ルカの福音書17章1-10節「神のくださる安心」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:04

2025.04.27

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。」という言葉から始まっています。

 「つまずき」というのは教会の中で、何度も取り上げられるテーマです。「教会殺すにゃ刃物は要らぬ、ただこの教会でつまずいたと言えばいい」と言った人がいます。なかなか核心をついた言葉ですが、私たちは苦笑いするしかありません。私を含め、皆さんもそうかもしれませんが、自分の言動が誰かにつまずきを与えたのではないかと感じる場面は、これまでに何度もあったのではないでしょうか? こういう言葉もあります。「牧師殺すにゃ刃物は要らぬ、この牧師には愛がないと言えばいい」。

 私たちは信仰の歩みをしていく中で、何度も何度もつまずきを経験します。そして、それと同じように、何度も自分は誰かにつまずきを与えてしまったのではないかと苦しむことにもなり得ます。ここに、クリスチャンの悩みがある、そう言っても言い過ぎではないのが、この「つまずき」というテーマです。

 しかもです。主イエスは2節で「その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。」と言われたのです。

 今はひき臼にお目にかかる機会も少なくなりました。和食レストランのサガミに行きますと、玄関先でこのひき臼が自動で蕎麦を粉にしているのを見ることが出来ます。大きな平らな丸い石を二つ重ねて、上臼を回すことで蕎麦を擦り潰して蕎麦粉にするわけです。おそらく、ひき臼一つで何十キロ、下手したら100キロ以上あるかもしれません。そんな石を首にくくりつけられて海に投げ込まれた方がましだと、主イエスが言われるのです。まるでヤクザ映画のようなセリフを、こともあろうに主イエスが言われたのです。この言葉を読んで、心中穏やかで無くなる人はたくさんあると思います。

 誰かをつまずかせる人は殺された方がまし、こんなひどい言葉は無いと思うのです。もし、自分が誰かをつまずかせたとしたら、私は死んだ方がいいのか? そういうことにもなりかねません。そこで、一度落ち着いて考えるわけです。この「つまずき」という言葉は、そもそもどういう意味の言葉なのかと。先日の聖書の学び会でもそういう質問が出ました。 (続きを読む…)

2025 年 4 月 20 日

・説教 マタイの福音書28章1-10節「よみがえられた主イエス」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 16:59

イースター(復活祭)
2025.04.13

内山光生

イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」  マタイ28章10節

序論

 個人的な事ですが、先週の金曜日、すなわち受難日に突然、私自身の背中と腰のあたりに激痛が走りその苦しみによってベッドに横たわっていました。原因は、結石によるもので、石が動くときに、しばしば、寝込むほどの痛みが生じるのです。そのような結石による痛みは、たいてい2~3時間で治まるのですが、今回の場合、半日以上激痛が続いたので、その日に予定されていた受難日賛美礼拝に出席できなかった事を残念に思います。しかしながら、翌日の土曜日の朝になるとすっかりと痛みが取り除かれていて、日曜日の説教の奉仕ができそうだとの思いが与えられ、神様に感謝をささげました。

 そして、今朝は8時半からイースター朝食会が行われ、いつもと違った楽しい食事の交わりを持つことができました。また、9時45分から通常の礼拝の前に聖餐式に与ることができた事に感謝いたします。

 さてイースターというのは、「イエス・キリストがよみがえられた」という喜びの知らせを伝えるのに最も適した時です。

 とは言うものの、例えばイエス様を信じていない人々の間であっても、クリスマスを楽しく過ごすという習慣はありますが、残念ながら、イースターは、まだまだ一般の人々に浸透している行事とは言い難いと思われます。注意深く情報を集めると、確かに、どこかのテーマパークでイースターを意識したイベントが企画されていたり、ある食品業界のチェーン店が、イースターの特別メニューや期間限定商品を販売することがあるのですが、果たして、イースターがイエス様の復活の喜びをお祝いする時だと認識している人はどれ程なのかと思います。

 そういう中にあっても、私たちクリスチャンがイースターのこの時に「イエス様がよみがえれた事によって、私たちに救いがもたらされた」というその喜びを再確認する時となればと願うのです。

 というのも、先に救われた私たちが、神様に対する感謝な思いで心が満たされていく時に、間接的かもしれないけれども、まだ救われていない周りの人々に、その雰囲気や態度を通して、神様の事について考えるきっかけとなることを期待できるからです。

 この日本においては、多くの場合、まだキリスト教に関心を持っていない人に対して、強引に聖書の話をしても、かえって警戒される可能性が高いと思われます。しかしながら、ある人が聖書に興味を持ったり、イエス・キリストがどういうお方なのかを知りたいと願う、そういう思いが出てきた時に、ようやく、イエス・キリストの福音を伝えるチャンスが出てくるのです。

 人々の心が耕され整えられるためには、私たちクリスチャンの心が、「イエス様によって救われているという喜びで満たされていく事」、ここに目を向けていきたいのです。

I 主イエスの墓へ向かったマリアたち(1節)

 では1節から順番に見ていきます。

 安息日とあります。これは土曜日の事を指しています。それゆえ、「安息日が終わって週の初めの日」とは、日曜日のことになります。この日の明け方、つまり、まだ薄暗い時間帯にマリアたちが墓を見に行ったのです。

 すべての福音書において、このイースターの日の明け方にマグダラのマリアがイエス様の葬られた墓に向かったことが記録されています。他にも女性がいたのですが、しかし、マグダラのマリアが先頭に立って墓に向かった、そういう雰囲気が伝わってくるのです。マタイの福音書では、彼女たちがイエス様が葬られた墓に向かった理由が記されていませんが、他の福音書によると、イエス様をもう一度葬るために、香油を持って向かったと記されています。 (続きを読む…)

2025 年 4 月 13 日

・説教 マタイの福音書27章32-44節「ののしられた主イエス」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:34

2025.04.13

内山光生

わが神 昼に私はあなたを呼びます。/しかし あなたは答えてくださいません。/夜にも私は黙っていられません。/けれども あなたは聖なる方/御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。(詩篇22篇2~3節)

序論

 今日から受難週となります。個人的な事ですが、毎年、この時期になると花粉症による苦しみで身体が重くなったり、集中力が低下し、祈ろうとしても賛美をしようとしても、声がかすんでしまう状態となってしまいます。「苦しいな。しかし、もうしばらく忍耐すればこの苦しみから解放される」と自分にいい聞かせながら、説教の準備をしておりました。

 もちろんイエス様の十字架の上での苦しみと自分自身の花粉症の苦しみは、比較にならない程だと言うことは分かるのですが、しかし、自分自身も多少、辛い状況になっていた方が、イエス様の受けた苦しみについて思い巡らすのに、ちょうど良いと感じています。

I 十字架を背負わされたシモン(32節)

 では32節から順番に見ていきます。

 イエス様が裁判にかけられ、十字架刑という判決を受けた後、いよいよ処刑される場所へ移動することとなりました。通常、十字架刑となった人は、十字架の横木を自分で担いで移動することとなっていました。ところが、この時点でイエス様はすでに肉体的な限界がきていたようです。横木を担いで前に進もうとしても、歩けない程、弱っていたのです。それで兵士たちが見るに見かねて、たまたま近くにいたクレネ人シモンに、イエス様が担ぐはずだった十字架の横木を背負わせたのです。マタイの福音書だけでなく他の福音書すべては、イエス様の十字架での苦しみについては直接的には表現していません。しかし、文章の背後をよく思い巡らすことによって、イエス様がどのような苦しみを味わったかについてイメージすることができるのです。

II 苦味を混ぜたぶどう酒を飲まなかった主イエス(33~34節)

 33~34節に進みます。

 イエス様は、ついに、ゴルゴタの丘に到着しました。ゴルゴタが「どくろの場所」という意味からすると、いかにも処刑する場所にぴったりの名前だと言えるでしょう。この名前を聞いただけで不気味な雰囲気がある場所だと感じてしまうのです。

 さて、イエス様が十字架につけられる前に、兵士たちは「苦みを混ぜたぶどう酒」を飲ませようとしました。これは、十字架につけられた時の痛みを和らげるもので、鎮痛剤の役割を果たすものでした。ところが、イエス様は、「苦味を混ぜたぶどう酒」をお飲みにならなかったのです。どうしてなのでしょうか。それは、十字架で受ける苦しみを味わい尽くすために、敢えて、鎮痛剤のようなものに頼ろうとしなかったと考えられます。

 もしもイエス様が「苦みを混ぜたぶどう酒」を飲んでいたのならば、悪意のある人々は「どうせ痛みをあまり感じてなかったでしょう。」と言って、イエス様がまるで苦しまなかったかのように言い張るかもしれません。しかしながら、イエス様は十字架の苦しみをすべて背負うために、敢えて、兵士たちから差し出された「ぶどう酒」を飲まなかったのでした。 (続きを読む…)

2025 年 4 月 6 日

・説教 ルカの福音書16章19-31節「ある金持ちの末路」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:10

2025.04.06

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は、「金持ちとラザロの譬え話」です。この箇所は前回の14節に出てきた「金銭を好むパリサイ人たち」に向けて話しておられる箇所の続きです。

 ここに二つの生き方が示されています。誰もが羨む金持ちの生活と、誰もが蔑みたくなる貧乏人の生活。この二人の正反対の人物を対比しながら話をしています。しかも、主イエスの話は、この金持ちは悪人で、貧乏人の方は善人であったとも書かれていません。考えてみますと、私たちの人生でも同じようなことが起こります。この二人の違いがどこにあるのか考えてみると、この二人には境遇の違いがあるわけです。どういう家で生まれたか。誰と出会ってきたか。何を学び、何を経験してきたか。そこで、大きな違いや差がでてくるわけです。

 どの世界でもそうですが、そこには成功した者と、失敗した者がいます。そして多くの人は、成功した者を尊敬し憧れを抱き、そのようになりたいと思うのです。書店には成功者の本が並び、自分の体験談の本はよく売れます。これらの本は前向きに生きることを教えてくれるのです。例えていうならば、料理のレシピのようなものです。こうすれば美味しく作れますよ! というわけです。そして、それがこの世界の一つの価値観なのです。

 ここには金持ちと、貧乏人が出てきますが、これは他にも何にだって例えることができます。「健康な人と病の人」「心の強い人と弱い人」「商売の成功と失敗」、結婚、子育て、進路何でも良いのですが、この世界の人は誰もが、失敗するよりは成功する人生を夢見るのです。もちろん、それは決して悪いというわけではありません。ただ、私たちの世界が、この成功者は勝者であるという価値観で支配されてしまっているのが問題です。

 もちろん私たちはこれほどまでに単純化された生活をしていないかもしれません。中庸を生きるという生き方だってあるはずです。ただ、主イエスのこの譬え話は、まさに私たちが生きている世界の、成功者はお金持ちになるという価値観を問題にしています。

 この主イエスの譬え話は三幕まで準備されています。

 第一幕は、生前の二人の生活ぶりです。金持ちの生活と貧しい人であるラザロの生活ぶりです。

 第二幕は、二人が死んでからの姿です。それは生きている時とは正反対で、死後には貧しい人は神のみもと、ここでは「アブラハムの懐」と呼ばれるところにいて、金持ちは「炎の燃え盛るよみの世界」にいるというのです。

 そして、第三幕では、よみの世界にいる金持ちが、何とか家族までがここに来ないようにしてほしいと頼み込みますが、もうすでに聖書があるのでそれで十分という結論で終わっています。

 主イエスはお話のとても上手なお方です。この世の人々の多くは、今の人生のことだけを考えて生きています。その先のことがあるなんてことはあまり考えていません。考えていたとしても、多くの人はきっと自分は天国に行けると考えていることが多いのでないかと思うのです。昔はお寺の和尚さんから、死んだら閻魔様のところで生前の罪の刑罰がくるからという話を聞かされたものですが、最近はそういう話もあまり耳にしません。教会も、それほど死後の裁きの話をしなくなりました。

 というか、旧約聖書を読んでいるとほとんどこの死後の話は描き出されてもいなかったのですが、主イエスはここで急にこんな話をなさったわけです。即ち死んだ後で自分の人生がひっくり返ることがあるのだという話をなさったわけです。

 私たちは、誰にもある日死が訪れます。早いか遅いかの違いはあったとしても、それは誰にも等しく訪れます。

 興味深いのは、主イエスのこの話は、ここで貧しい人として描かれているラザロの生前の信仰が語られていないことにあります。ラザロは実はとても信仰深い人物だったのだと書かれていれば、この話の意図は明白になるのですが、ここでは金持ちとラザロの違いは最初に話したように「生い立ち」や、その後の「人生経験」以外にはないかのように感じられます。表面上は、です。

 そこで、もう少し丁寧にこの聖書の箇所を考えてみたいのです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 30 日

・説教 ヨハネの福音書15章16節「私が牧師になったわけ 〜憧れの福音〜」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:41

2025.03.30

鴨下直樹

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 今日は進級式の礼拝ということで、子どもたちや学生たちも一緒にこの礼拝に集ってくれています。できるだけ難しい話はしないで分かりやすく話したいと思っています。

 先ほど楽しいスキットを見ました。最近は「推し活」と言うんでしょうか。皆さんにも、いろんな「推し」というのがあると思います。「推し」というのは、念の為に説明しておくと、その人がハマっているものや、人のことをさします。アイドルだったり、ゲームのキャラクターだったり、YouTuberだったり、いろんなものに夢中になって「推し活」なるものを始めるわけです。

 私が子どもの頃とてもハマったものがあります。それは、今で言えば「推しのゲーム」であったわけですが、それが「ドラクエ」と呼ばれるゲームでした。シナリオも絵も音楽も、そのゲームの世界観に当時小学6年生の私は夢中になったわけです。あまりにも夢中になって、いつか自分はゲームクリエイターになりたいとさえ思うほどでした。

 そんな具合でしたから、小学生の時も、中学校に入ってもゲームでよく遊びました。中学生になってから夢中になったものも沢山あります。中学では卓球部で、卓球にのめり込みました。音楽も中学生の時は洋楽にハマりました。マイケル・ジャクソンから始まって、いろんなアーティストにハマり込みました。でも、これらは今の推し活とは少し違うような気もします。

 それで、「推し活」の意味を調べてみると「自分にとって一押しのキャラクター(推し)を様々な形で応援する活動のこと」と書かれていました。調べてみて気づくのは「推し」は「キャラクター」なんですね。もちろん、それがアーティストであることも多いわけです。私の場合は、特定のキャラクターというよりも、たとえばゲームであればその世界が全部好きという感じだったのかもしれません。

 推し活にもいろいろあるんだと思います。好きなキャクターの缶バッチを集めたり、アクスタと呼ばれるそのキャラクターの描かれたアクリル製のスタンドを集めたり、ぬいぐるみやフィギュアを集めたり、あるいはそのキャラクターの出るコンサートや催しに参加したり、実にさまざまな応援の仕方があるようです。

 私の子どもの頃は推し活ではなかったわけですが、好きなものに夢中になってそれにのめり込んでいきましたので、勉強もあまりしませんでした。それでも毎日楽しかったのをよく憶えています。

 ところが、中学も2年生が終わり3年生になりますと、だんだんと現実的な問題が差し迫って来ます。自分がどういう道に進んでいくのかということを考えて決断していかなくてはならないわけです。その時点で、自分の進路を考えると気分が落ち込み始めます。それまでは、毎日とても楽しいことばかりだったのに、自分の現実が突きつけられるわけです。勉強をしてこなかったつけが回って来ます。というのは、高校を選ぶにあたって、私には選べる選択肢が無いことに気がつくようになるわけです。

 そうなると今まで自分の毎日を楽しくしてくれていたゲームや音楽が、実は自分の足を引っ張っているんじゃないかと感じ始めるわけです。でも、大好きですからそんなに簡単には捨てられません。

 思うに「推し活」というのは、普段頑張っている自分が、いろんな壁や問題に直面する中で、小さな慰めや希望を見つけ出して私たちにちょっとした希望や勇気をくれるものだと思うのです。その中にはさまざまな形で「憧れ」と呼べるものが存在しているはずです。そこには、自分の「こういうものが好き」という自分の中にある例えば「応援したい気持ち」だったりが隠れているわけです。

 中学3年生の時の私は、自分のことがよく分からなくなっていました。一所懸命に励んできた卓球部の部活は3年の春までは100人の生徒の中でわずか数名しか選ばれないレギュラーでした。けれども、夏の大会の直前で調子を落としてレギュラーから外されてしまいます。そこからやる気が失われていきました。勉強も全然していませんでしたから、進路を決める時に私が希望を出した高校は、担任の先生から100%落ちるからやめておけと言われる始末でした。

 それでも私には一つの希望がありました。それは、聖書の中に出てくるソロモンという王様の話です。ソロモンは、自分は王様にはなれないと自信が無かったのですが、神様にお祈りすると、神様から知恵を与えられて立派に国を治めた王様です。あの頃の私には、この聖書の話だけが希望でした。私はこのソロモン王にどこかで憧れていたのだと思います。それで、勉強もしないで毎日真剣に神様に「どうか、ソロモンのように頭を良くしてください」と祈り続けたわけです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 23 日

・説教 マルコの福音書5章21-34節「長血の女性」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:58

2025.03.15

内山光生

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

序論

 今日の箇所から次回の箇所にかけて、イエス様による二つの奇跡が記されています。そして、この二つの共通のテーマは、「信仰による癒し」となっています。人間の力ではどうすることもできない、そういう病にかかって苦しんでいる人が、「イエス様なら癒すことができる」という信仰によって、癒しがなされていく、そういう場面です。また、これらの奇跡は、病気の癒しだけでなく、魂の救いをもたらすことも強調しています。

 この事は、別の聖書箇所に記されている「神様が一方的に救い出して下さる」との教えと矛盾しているかのように思えるかもしれません。けれども、それは強調する部分が異なっているだけであって、私たちがイエス様を信じるようになるかどうかは、やはり、神様による導き、あるいは聖霊の働きがあるかどうかにかかっている、そういう点では、全く同じだと言えるでしょう。
 

I ヤイロの娘のところへ向かう主イエス(21~24節)

 21~24節から順番に見てきます。

 これらの箇所は、次回に詳しく取り扱いますので、簡単に説明していきたいと思います。

 ヤイロという人物が出てきています。この人は会堂司という立場にあります。ユダヤ人の会堂では安息日ごとに礼拝がささげられていましたが、その礼拝に関する責任を任されていた人です。そのヤイロという人が、イエス様の下にやってきて「死にかけている自分の小さな娘を助けてほしい」とお願いをしたのです。

 その願いに応じるために、イエス様はすぐさま、ヤイロの娘のところに向かわれたのです。ところが、その途中で、大勢の群衆がついてきたのでした。

II 長血の病で苦しんでいた女性(25~26節)

 25~26節に進みます。

 イエス様が、ヤイロの娘のところに行かれる途中で、別の出来事が起こりました。長血をわずらっている女性が出てきています。長血というのは女性特有の病であって、血が止まらなくなるという症状があるようです。これが現代医学において、どういう病なのかは専門家の目から見れば幾つかの候補を挙げることができるかもしれません。でも聖書には、具体的な病名までは記されていませんので、あくまでも「血が止まらなくなる病気」と理解しておけば良いでしょう。

 この女性は、12年という長い期間、病で苦しんでいました。その間、いろいろなお医者さんに診てもらったのですが、しかし、医者代がかかるだけであって、治ることはありませんでした。それどころか、かえって悪い状態となっていたのです。

 今の時代では、少なくとも医療が発達している国々においては、このような事はめったに起こらないのではないかと思うのです。一つの病院で原因が分からなかったとしても、別の病院に行く、あるいは、評判の良いお医者さんの下に行けば、何とか治療をしてもらえる、そういう可能性が高いからです。例外的には、いわゆる難病と呼ばれているものだとか、腫瘍が末期的な状態になっている場合は打つ手が無い場合もありますが、そうでない限りは、何とかなるのが今の医学の現状だと思うのです。

 しかしながら、イエス様の時代においては、この長血という病を治すことができるお医者さんが、ほとんどいなかった、そういう時代だったのだと思われます。この女性は、自分にできる限りの事をやりつくしたのです。多くのお医者さんに治してもらうことを期待したが、もう治療してもらうお金も無なってしまった。こうして、病気による苦しみと経済的な苦しみを味わっていたのです。更には、彼女は堂々と多くの人々の前に行くことができない、そういう立場に立たされていました。

 というのも、旧約聖書の教えによれば、「血を流している者は汚れている」とみなされていて、多くの人々の前に出ていくことが禁止されていたからです。今の時代でも、伝染病にかかった人が強制的に隔離されるように、イエス様の時代においても、血が止まらなくなっている人は、人々との距離を置かなければならなかったのです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 16 日

・説教 マルコの福音書5章1-20節「良い知らせを伝えなさい」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:22

2025.03.15

内山光生

しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」

序論

 今日の箇所は、いつもより長めとなっています。よく知られている出来事ですので、「あっ、この箇所か」と思う方が多いのではないかと思います。全体が長いということもあって、あまり細かい所までは見ていくことができないですが、なるべく丁寧に解説していきたいと思います。

I 汚れた霊につかれた男性(1~5節)

 まず1節から5節を見ていきます。

 イエス様と弟子たちは、ガリラヤ湖を渡って反対側の岸、すなわち、東岸にやってきました。到着した場所はゲラサ人の地と呼ばれていました。その地は、いわゆるユダヤ人ではなく異邦人が住んでいる地域でした。それゆえ、今までに経験した事のないような困難やトラブルが起こる事が予想できたのです。

 ゲラサ人の地においてイエス様と弟子たちを待ち受けていたのは、汚れた霊につかれた人でした。イエス様は、以前にガリラヤ地方において、多くの悪霊で苦しんでいる人々を解放してきました。けれども、今回の場合は、今までとは様子が異なっていました。すなわち、すでにイエス様が助けてきた人々よりも、遥かに状態の悪い人と出会ったのです。その汚れた霊につかれた人は、なんと墓場に住みついていたのです。

 どこの国においてもそうなのですが、墓場というのはさみしい場所であって、その周辺にはあまり人が住まないものです。もちろん、住宅街の一角に墓場がある、そういう場所もあります。また、お寺さんの敷地内に墓があったりしますが、一般的には、墓場の中に住みつく人というのは、めったにいないのです。

 どうやら、この汚れた霊につかれた人は、あまりにも狂暴で誰かに危害を加える危険があったと思われます。それで、人々が自分たちの安全を守るために、無理やりその人を墓場に連れてきたようです。そして、彼に足かせと鎖をつなぐ事によって、隔離しようとしていたのです。ところが、この人は、足かせと鎖をひきちぎって、辺りをうろついていたのです。彼は墓場や山で叫び続け、更には、石で自分のからだを傷つけていたのです。

 周辺の町や村に住んでいる人は、この人の事で頭を悩ませていたと思うのです。いや、当の本人も、苦しんでいたのだと思うのです。叫び続けたり、自分のからだを傷つけるというのは、それを見た人は、なんとも複雑な思いにさせられた事でしょう。一部の心優しい人は、かわいそうにと思って、なんとかして助けてやりたいと思ったかもしれない。しかし、どうやって助ければいいか分からない、そういう問題にぶちあたった事でしょう。一方、多くの人々は、気分が悪くなると感じて、目をそらしたり、近寄ろうとしなかったと思うのです。

 多くの人々は、不気味な雰囲気を漂わせている人を見ると、距離を置いてしまうのです。ですから、誰もこの汚れた霊につかれた人を助けようとしないし、それどころか、彼を見ると、皆、逃げていく、そういった情景がイメージできるのではないでしょうか。一方、この汚れた霊につかれた人は、孤独な状態にたたされていて、精神的に非常に辛い思いとなっていた事でしょう。

 私たちというのは、どうしても自分や自分の家族の身の安全を大切にしようとします。それゆえ、乱暴で大きな声を出している人とは関わろうとしない、そういう態度を取ってしまうのです。それは、しかたがないと言えばしかたがない。しかしながら、神様は、どのような酷い状況に立たされている人であっても、その人の存在を決して忘れていない、そこに気づくことができればと思うのです。 (続きを読む…)

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