2026 年 1 月 25 日

・説教 テモテへの手紙第二 2章1-7節「成長し、成長させる喜びを知る」アイマン・ドロテア師

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:30

2026.01.25

アイマン・ドロテア師

2026 年 1 月 18 日

・説教 マルコの福音書8章27-30節「ペテロの信仰告白」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:42

2026.01.18

内山光生

するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」  

マルコ8章29節

序論

 今日の箇所では、ペテロが信仰告白をしています。ペテロはイエス様の問いかけに対して「あなたはキリストです。」と答えたのです。この告白は模範的な解答と言えるのです。その点においては大いに評価ができるのです。けれども、この時点においてペテロが心の中で思っていたキリストというイメージとイエス様の本当の姿との間には、大きなギャップがあったのです。

 つまり、イエス様が何のために地上世界に来られたのかについては、ペテロは何も分かっていなかったのです。しかしながら、前回の箇所において、目の見えない人が2段階に分けて完全に見えるようにされていったように、ペテロを始め他の弟子たちも、最終的にはイエス様がどういうお方なのかをはっきりと理解できるように変えられていくのです。

 今の時点では、ペテロにしても他の弟子たちにしても、何も分かっていないのは確かな事です。しかし、その後、どうなっていくのかを踏まえて今日の箇所を見ていきましょう。

I イエスは誰かについての人々の考え(27~28節)

 ではまず27節から見ていきます。

 イエス様と弟子たちは、この直前には、ガリラヤ湖の北側に位置する漁師が多く住んでいる村、ベツサイダにいました。その後、北の方に向かって行き、ヘルモン山のふもとにあるピリポ・カイサリアに進んで行ったのです。

 当時のピリポ・カイサリアという町は、ローマ皇帝が神としてあがめられたり、更には異教の神々を信じる人々が大勢いたと言われています。つまり、偶像の神々に満ちた町だったのです。ですから、伝道したとしてもなかなか人々が心を開きにくい、そういう地域だったと考えられます。

 けれども、イエス様は敢えて、その町に向かっていったのです。そして、その途中、とても重要な問いかけをしたのでした。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」と。 (続きを読む…)

2026 年 1 月 11 日

・説教 マルコの福音書8章22-26節「はっきりと目が見えるようになった人」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:21

2026.01.11

内山光生

それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。  

マルコ8章25節

序論

 昨年の12月にはクリスマスに関係のある聖書箇所から説教を致しましたが、今日から再び、マルコの福音書に戻ります。

 まず最初に今日の箇所よりひとつ前に、どのような内容が記されていたのかを振り返りたいと思います。マルコの8章14~21節では、イエス様がご自身の弟子たちに向かって「まだ分からないのですか。悟らないのですか。」と言われました。とても厳しい表現が用いられています。それは、この時点で弟子たちが、イエス様の奇跡を目撃しながらも、そこから何も悟っていなかったからでした。つまり、この直前において、わずかなパンから何千にもの人に食べ物を与えた出来事を二度も体験しながらも、イエス様がどういうお方なのかを悟っていなかったからでした。

 イエス様は、しばしば、弟子たちに対して厳しい言い回しをしています。けれども、その背後には、なんとかして弟子たちに霊的真理を悟ってほしいとの願いが込められているのです。つまり、弟子たちはきっと悟ることができる、そういう時が来るとの期待があっての厳しい言葉だと言えるのです。

 人というのは、相手がもう成長する見込みがないと思うと、その人に対して厳しいことを言わなくなる、そういう事があります。期待をしていないゆえに、当たり障りのない態度を取ったりするのです。しかし、あと少しでその人が成長できるかもしれない、そういう期待があるならば、厳しい言い回しをすることがあるのではないでしょうか。

 今日の箇所の直前の出来事で、イエス様は弟子たちに対して「まだ悟らないのですか。」と言われました。しかし、それは「もう間もなく、あなたがたは悟るようになるんですよ。」との期待が込められているのです。今日は取り扱いませんが、次回の箇所では、ようやくペテロの霊的な目が開かれた事が記されています。つまり、イエス様が期待しているように、弟子たちはイエス様がどういうお方なのかを悟ることができるようになっていくのです。

 もちろん、イエス様が復活する前の段階では、ペテロにしても他の弟子たちにしても、まだはっきりとはイエス様がどういうお方なのかを悟ることができていません。ペンテコステの日に、ようやく、はっきりと心の目が開かれるのです。しかし、イエス様が十字架にかかる前の段階においても、主イエスの弟子たちは、ぼんやりとした状態かもしれないけれど、イエス様がメシアだということは理解できているのです。

 今日の箇所の出来事には、目の見えない人が出てきています。この人は、ただただイエス様の憐れみによって、目が見えるようにさせて頂けるのです。このことから、聖書は私たちの霊的な目を開かせてくださるのがイエス様なんだ、ということを示そうとしています。しかも、今回の出来事の場合は、この人自身に信仰があったから見えるようになったのではなく、イエス様の一方的な愛のみわざによって、見えるようになったことが示されているのです。 (続きを読む…)

2026 年 1 月 4 日

・説教 ルカの福音書21章1-5節「自己からの解放」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:32

2026.01.04

鴨下直樹

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 新しい年を迎えました。今年、私たちは年間聖句としてヨハネの黙示録21章5節の「見よ、わたしはすべてを新しくする」とのみ言葉が与えられています。

 先日の元旦礼拝の時にこの箇所から説教しました。そこで、私は「私たちが新しくされるのは、悔い改めの先に、神は新しい事柄を備えておられる」という説教をいたしました。説教全体としては、それほど厳しい説教ではなかったと思っていますが、説教を聞かれた方は、厳しい説教という印象を持たれた方もあったかもしれません。

 「悔い改め」という言葉を聞くと、どうしても自分の振る舞いを反省して改めなければならないという部分に心が向いてしまうと思うのです。けれども、悔い改めというのは、私たちが変えられていくとても大切なきっかけです。これはまさに恵みであるということをぜひ知っていただきたいと思っています。

 今回、予定表にはルカの福音書の20章45節からとなっていました。しかし、前回の説教で、45節から47節も同時にお話ししたこともあって、今回は21章からといたしました。しかし、今日の箇所ではやはりどうしてもこの45節からの流れがとても重要です。この45節以降で、主イエスは人前で見栄をはる律法学者に警戒するようにと話しておられます。聖書のみ言葉に従って生きているはずの律法学者たちは、神のみ前の歩みということを忘れてしまって、人の前で自分を装う人となってしまっていることを戒めておられます。

 この律法学者たちは自分たちがやっていることが、神の前に問題のある行動だということにさえ気づいていないのかもしれません。主イエスにこう指摘された時、律法学者たちは腹をたてたはずです。はらわたが煮えくり返るような憤りを覚えたかもしれません。けれども、その心の中では、「これの何が悪いのか? みんなやっていることだ」と考えていたかもしれません。あるいは、「私たちは、人々に聖書に従って正しく生きる姿を示しているのだ」と考えていたのかもしれません。

 人々は律法学者たちのことを尊敬していました。「自分たちはなかなか聖書の教えを理解していたとしても行うことができない。けれども、この先生たちは神の前に忠実に生きている人たちだ」と考えていたのです。人から尊敬され、人からもてはやされ、人から褒められる生活というのは悪い気はしないものです。そういう生活が続いていくと、人からどう見られるかに心が向いてしまい、神のみ前でどう見られているかを考えることができなくなっていきます。そうして、この律法学者たちは、困っている人に親切にするという姿勢で、「やもめの家を食い尽くした」と主イエスは言っているのです。善人のふりをして近づき、弱い人に寄り添うふりをしながら、その人たちに養ってもらうようなそんな有様だったというのです。

 聖書の専門家である律法学者たちでさえそうであったのですから、他の人はそのような生き方が間違っているとはなかなか気が付かないのです。

 この律法学者の姿というのは、「神の前で悔い改めをすることを忘れてしまった人の姿」と言うことができます。主イエスはこのような姿にとても心を痛めておられるのです。

 そのような律法学者たちの姿を嘆いておられる時に、主イエスは宮の中で一人の人の姿が目にとまりました。金持ちたちが献金箱に献金している姿を見る中で、一人の貧しいやもめの献金する姿が目に飛び込んできたのです。その人はレプタ銅貨を2枚献金の箱に投げ入れたのでした。まさに、律法学者たちに食い尽くされている人と主イエスが言われたその人が、神殿にやってきて、そのなけなしのレプタ銅貨を献金したというのです。 (続きを読む…)

2026 年 1 月 1 日

・説教 ヨハネの黙示録21章5節「すべてを新しくされるお方」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:51

2026.01.01
元旦礼拝

鴨下直樹

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 新しい年を迎えました。今年のローズンゲンによる年間聖句は、ヨハネの黙示録の21章5節のみことばです。5節全体を読んでみます。

すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」

 主は、語られます。「見よ、わたしはすべてを新しくする!」と。新年を迎えるとき、私たちは家を大掃除し、冬の寒い中で車を洗車し、気持ちよく新年を迎えたいと思うものです。そのようにして新年を迎える時に、気持ちも新たに新しいスタートを切りたいと願う。そう考える人は少なくありません。問題は、その新鮮な気持ちがいつまで続くかということかもしれません。

 お正月の三が日はゆっくりと過ごし、今年だと5日が月曜日ですからこの日から仕事が始まる人も多いかもしれません。はじめのうちの数日は新鮮な気持ちで働くことができるのかもしれませんが、一週間もたつと新年の志は薄れていってしまいます。そうすると、あとは特に大きな変化もなく、同じような日々が続いていくことになるでしょう。それが、私たちの生活というものかもしれません。

 今年の年間聖句は、聖書を読む人々にとって、希望を与えるみ言葉です。ヨハネの黙示録の21章は、この世界を神がやがてどうされるのかが約束されているところです。まず、21章の1節では「新しい天と新しい地」を見たと語られていて、2節ではこの新天新地が「神のみもとから、天から降ってくるのを見た」と記されています。

 この黙示録は絶望の時代に生きている人々に希望を知らせているのです。今の世界が永遠に続くのではない、やがて神が備えられた「新しい天と新しい地」があなた方に与えられるのだと約束しているのです。

 この約束に、私たちのすべての希望が込められています。続く3節と4節では、その新しい世界は、死も悲しみもない、慰めに満ちた世界だとも語っています。

 そして、今日の箇所5節では、今度は神ご自身が「見よ、わたしはすべてを新しくする」と自ら宣言してくださっているのです。

 この幻を見ているのはヨハネで、1節から4節までは、ヨハネが見たこと、聞いたことが語られていました。しかし、この5節では神ご自身がこれを語られているのです。だから、この知らせ、わたしはすべてを新しくするという知らせは間違いない知らせなのだという宣言です。

 では、この神が語られているメッセージの中身は、どういった内容なのでしょう。「すべてを新しくする」とはどういうことなのでしょう? (続きを読む…)

2025 年 12 月 28 日

・説教 ルカの福音書20章41-47節「あなたの主はどんな方?」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:33

2025.12.28

鴨下直樹

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 先ほど、私たちは洗礼入会式を行いました。洗礼に先立ってSさんの救いの証しを聞きました。Sさんは芥見教会に来られて10年以上、いわゆる求道生活を続けてこられました。どうなったら自分はクリスチャンになれるのか、教会に通う間、ずっと考え続けてこられたのです。

 きっかけは今年の夏のことです。私たちの教会は「信徒交流会」という名称で、毎年7月の後半から8月いっぱい、教会の水曜日と木曜日の祈祷会の時間を使って、信徒のみなさんが順に一人ずつ証しをする時間をもうけています。まだ洗礼を受けていなかったSさんに、長老が「この時間に証しをしないか?」と声をかけたのです。

 そこで聞いたのが、先ほどの証しの内容でした。お姉さんがエホバの証人に入ってしまって、そこから助け出すために、今から30年ほど前でしょうか、Sさんは豊橋の教会を初めて訪問したのです。その時に、牧師から「お姉さんをそこから救い出す前に、まず自分が信仰とは何かを知る必要がある」と言われて、教会に通うように勧められたのです。それがきっかけでSさんは教会の礼拝に通うようになったのです。それ以来30年近く、引越しをしたりしながらも教会に通い続け、そして芥見教会に来られるようになったのです。でも、その間どうなったら救いが理解できるのか分からないまま、時間が過ぎてしまったようです。

 この信徒交流会でSさんの証しをお聞きして、すでに信仰の歩みをしておられることがよく分かりました。もうすでに信仰に生きているので、これ以上何がどう変わったら良いか分からなかったのです。お姉さんを導こうとする、さまざまな牧師の説教を聞き続ける間に、お姉さんではなく、Sさん自身が信仰に生きる者とされていたのです。今日からこうして、私たちの教会の一員として共に信仰の歩みをすることができることを、とても嬉しく思います。

 今日の説教題を、「あなたの主はどんなお方?」としました。この問いかけは、主からの私たち自身への問いかけです。みなさんも、それぞれ様々な主イエスとの出会い方をしてこられたと思います。「私にとって主イエスは、私の隣にいつもいてくださるお方です」という方もあるでしょう。「私を苦しみから救い出して下さったお方です」という方もおられるかもしれません。私たちは、それぞれに主イエスのイメージを持っていると思うのです。

 今日の聖書箇所は、そういうことを考える意味ではとても良い箇所と言えます。前回の終わりの言葉、40節にこう書かれていました。

彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった。

 主イエスがエルサレムに入られてから、ここまでずっとさまざまな質問が投げかけられてきました。きっかけは主イエスがエルサレムの神殿で商売をしていた人たちを追い出してしまったからです。それで、「あなたは一体何者ですか?」という質問が立て続けに投げかけられたのです。主イエスが彼らの問いかけに丁寧に、また見事に答えていかれる中で、彼らは主イエスの欠点を見つけることができず、質問することができなくなってしまいます。

 すると、今度は主イエスの方からお尋ねになられているのが今日の箇所です。主イエスの問いかけはこうです。

「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか。」

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2025 年 12 月 21 日

・説教 マタイの福音書2章1-11節「礼拝をささげた博士たち」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:12

2025.12.21

内山光生

それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。  

マタイ2章11節

序論

 先ほど、古川長老から絵画を通してのクリスマスのお話を聞くことができました。その絵画の中に東方の博士たちがキリストに礼拝をささげた場面があったと思います。今日は、その場面を中心として、いつもより短めの説教をさせて頂きます。

I エルサレムで質問した博士たち(1~2節)

 ではマタイ2章1~2節を見ていきます。

 イエス・キリストがお生まれになった時代に、当時のユダヤの国では、ヘロデ王が、その国を支配していました。それで、東の方からやってきた博士たちは、ヘロデ王のところに行って、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」がどこにいるかを尋ねたのです。

II 動揺したヘロデ王(3節)

 今の私たちの時代では、クリスチャンにとっては「キリストの誕生」は喜ばしい出来事です。いやクリスチャンでない人にとっても、クリスマスは、町がにぎやかになったり、おいしい食べ物で心が満たされやすい、そういう時期とも言えるのです。

 ところが、キリストが生まれた頃のユダヤの国は、キリストの誕生をお祝いすることが出来ない独特の雰囲気があったのでした。どうやら、ヘロデ王は人々からの評判が悪く、次々と周りの人々を殺害した結果、「あの王は、次に誰を殺すのだろうか。」とうわさされるような王だったのです。ヘロデは、なんと自分の妻や子どもさえも信頼できなくなり、殺害してしまった、そういう王だったのです。

 ですから、3節に「ヘロデ王は動揺した。」とありますが、彼は、本当に自分の地位が奪われるかもしれないと心配していたのです。そして、エルサレムの人々も、王がまた悪さをするのではないかと心配したのです。

 そういう訳で、ユダヤの国の中では、「キリストがお生まれになった」という知らせがあったにもかかわらず、人々は、王に目をつけられてはいけないと考えて、誰もキリストに礼拝をささげに行く人がいなかったのです。 (続きを読む…)

2025 年 12 月 14 日

・説教 マタイの福音書1章18-25「インマヌエルと呼ばれるお方」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:18

2025.12.14

内山光生

「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。  

マタイ1章23節

※ 本日の礼拝説教は、内山師がインフルエンザにかかったために代読となっています。

序論

 皆さん、おはようございます。家族全員がインフルにかかりましたが、回復の方向に向かっています事を感謝いたします。来週には、皆さんにお会いすることができると思います。

 さて、今日は第三アドベントです。クリスマス礼拝が来週に迫っていて、世界中でクリスマスを待ち望む雰囲気が漂っていると思います。今日選んだのは、マタイの福音書によるイエス・キリストの誕生についての箇所です。マタイの福音書では、ヨセフ側の視点でイエス・キリストの誕生が描かれています。一方、ルカの福音書では、マリアの視点で描かれています。両方とも意味深い箇所です。今回は、ヨセフの視点で見ていきたいと思います。

I 聖霊によってみごもったマリア(18節)

 では18節から順番に見ていきます。

 まず確認したいのは、当時のユダヤ社会においては、現代の私たちとは異なる結婚の順序があったということです。すなわち、ユダヤ社会においては、男女二人が婚約をしたら、その時点で二人は夫婦と見なされていた、ということです。おおむね一年ぐらいの婚約期間のうちに、互いに結婚に向けての準備を進めていくのです。

 ですから、マリアとヨセフは、すでに夫婦と見なされているけれども、しかし、まだ結婚している訳ではなかったのです。つまり、マリアが妊娠するというのは、あってはならない事だったのです。けれども、ルカの福音書を読むと、マリアのお腹にイエス様が身ごもった時に、御使いがマリアの前に現れて、聖霊によって身ごもったという事実をお告げになりました。それで、マリア自身は戸惑いながらも、感謝な事として受け止めたのです。

 ところが、聖書にははっきり書かれていないのですが、このマタイの記述を読むと、どうやら、マリアは御使いからのお告げがあった事や自分が聖霊によって身ごもっているという事を周囲に伝えていなかったように感じるのです。マリアは、感謝な思いを心に秘めつつ、沈黙を守っていたのでしょう。

 しかしながら、マリアのお腹が大きくなってくると、お腹に赤ちゃんがやどっている事実を隠しておくことができなくなります。それで、ついに、ヨセフはマリアが妊娠しているのに気づいてしまったのです。事情を知らないヨセフにとっては、様々な苦しい感情が心に湧き出ていたのではないうかと思うのです。例えば、「どうしてマリアは私を裏切ったのだろうか。」あるいは、「もしかしたら、誰かに乱暴をされたのではないか。その相手は誰なのだろう。」そういう感情が出てきていたとしてもおかしくなかったと思うのです。

 聖書は、ヨセフがどのように苦しい思いをしたかについては、一切、沈黙しています。ですから、本当のところは分からないのですが、ヨセフ自身が自分には身に覚えがないとなると、他の誰かと何かがあったに違いない、そう考えるのはごく自然な反応だと思うのです。 (続きを読む…)

2025 年 12 月 7 日

・説教 ルカの福音書20章27-40節「人はみな神に生きるのだから」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:12

2025.12.07

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は、私たちにとってとても興味深い箇所です。というのは、天の御国に行った後、夫婦の関係はどうなっているのかということが書かれている箇所だからです。先日の祈祷会でも、みなさんいろんな意見を出されて、大変興味深い時となりました。

 実は、今週の月曜に私の東海聖書神学塾の恩師でもあった鈴木健二牧師が突然召されました。日曜の礼拝には元気に顔を見せて、みんなと一緒に食事をしておられたのに、その日の晩に、脳梗塞で召されてしまったというのです。この鈴木先生は、この地域のキリシタンの研究家でもあり、東海地区の宣教の歴史を丁寧にまとめ上げて、神学塾で昨年まで講義を受け持っておられました。難しい古文書などの解析にも長けておられた先生でした。そのために後任の教師を探すことが難しく、誰かが鈴木先生の講義を引き継がなければという話をしていたばかりだったのです。

 今日の聖書には36節でこう書かれています。

「彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。」

 とあります。天の御国で復活した人は、そこで御使いのような存在として、まさに復活の子として生きている、そのように書かれています。天の御国に生きる者とされた人は、そこで神と共に生きるものとされているのです。鈴木先生もまた、今、天の御国で復活の子として歩んでおられるのだと、今日の箇所から私自身も慰めを受けたのでした。

 私たちは、天の御国へいく時、そこで果たしてどんな生活をするのか、とても興味があります。それこそ、葬儀でよく語られる内容として「天の御国で再会」というテーマがあります。先月も私たちは召天者記念礼拝を行ったばかりです。すでに天に送った信仰の友や、家族のことを覚える時に、私たちは天の御国でもう一度再会する時のことを思い巡らしながら、その時をとても楽しみにしています。そんなこともありますから、私たちは天の御国、その人たちが、今どんな生活をしているのかと、想像することもあると思うのです。

 今日の箇所は、主イエスに対して神殿側の人間である祭司長や、律法学者たちとの議論が終わって、また別の種類の人が登場して主イエスと議論をしています。今回新しく登場するのは、「サドカイ派」の人々です。この27節では「復活があることを否定しているサドカイ人たち」とあります。この人たちは、旧約聖書のモーセ五書だけを重んじる人々で、モーセ五書には「復活の話が書いてない」ということを理由に、復活はないと考えている人たちでした。

 確かに、旧約聖書を読んでいると、新約聖書のような「永遠のいのち」とか、「復活」というテーマはあまり出てきません。むしろ、「この地上で長く生きることができる」とか、「千だいに至る祝福」という言葉が多くて、その内容は、先祖に与えられた土地を、子孫が受け継いでいくことが神の祝福であるという考え方があるのです。ですからサドカイ派のような考え方も当然できるわけです。ここでサドカイ人が主イエスに復活はないことの証明として、聖書の申命記に書かれている「レビラート婚」という結婚についての考え方を取り上げています。これは、ここに書かれているように、子孫が先祖の土地を受け継ぐために、子どもがないままに夫が死んでしまった時には、弟たちが、その土地を受け継ぐべく兄嫁を妻として迎えるということが書かれているのです。それで、一つの例として、そうやって兄弟七人が次々に兄の妻を迎え入れたとして最後に、子どもが生まれないままみな死んでしまったとしたら、その妻は天の御国があるとしたら、誰の妻となるのか? ということを問いかけたわけです。この例は極端ですけれども、弟とその弟くらいまでが引き継いで土地を治めようと思ったけれども、子どもが与えられないままに亡くなってしまうようなケースというのは、当時も考えられたわけです。ただ、そうなると復活があった場合、天国では少しおかしなことになるのではないか? そう考えるとやはり、復活ということを考えるのは無理があるのではないかというのが、このサドカイ人の主張なわけです。

「では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」

33節にはそう記されています。

 サドカイ人には、サドカイ人の理屈があります。彼らの理屈では、この主張は正しい主張なのでしょう。それほどに、当時の価値観は土地を子孫に残すということが重要視されていたのです。日本でも100年ほど前までは同じような価値観がまだ存在していたと言えると思います。お家を存続させるために、先祖伝来の土地を守り継いでいくためには、個人の気持ちは無視される、そういう価値観です。

 しかし、この例に挙げられているような女性が存在したとしたらどうでしょう。死後にまで、この世のしがらみを持ち出され、一体誰の妻であるのかなどと言われたら、そんな天国ならいらないということにはならないのでしょうか。そういった想像の余地がないほどに、この時代の人々の価値観は絶対視されていたのです。 (続きを読む…)

2025 年 11 月 30 日

・説教 ルカの福音書20章20-26節「大切なものはその奥に」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:11

2025.11.30

鴨下直樹

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 今週からアドヴェントを迎えました。毎日少しずつ寒さが増して、クリスマスが近づいてきていることを感じます。先週、私は残念ながら、みなさんと一緒に礼拝を捧げることができなかったのですが、子ども祝福礼拝には大変大勢のご家族が集まられたのだそうで、あとで写真を見せていただきました。教会のインスタグラムにも、その時の写真が出ておりました。毎年のことですけれども、子ども祝福礼拝で子どもたちはアドヴェントカレンダーチョコレートを貰います。今回は、礼拝の参加者が増えるたびに、私は何度もお店にチョコレートを買いに行きました。合計で3度行ったでしょうか。お店の人も、またチョコレートをたくさん買っていく人が来たと思われたのかもしれません。

 先日の祈祷会である方が、「子どもだけじゃなくてワシらも欲しい」と言われました。その時に、「敬老の礼拝の時にプレゼントを貰ったじゃないですか?」という話になったのですが、「何かしてもらったか?」と言われてしまいました。食事を一所懸命に準備された方々は残念な気持ちになってしまうかもしれませんが、「ワシもアドヴェントカレンダーチョコレートを貰って、クリスマスを心待ちにしたい」という気持ちの表れなのだと思います。

 その話をしていた時に、チョコレートは24日までなのか、25日までなのか? という質問が出てきました。「24日までですよ」とお答えすると、「でもクリスマスは25日なので、25日までないのはおかしい」という声が出てきました。これは、ユダヤの暦の考え方にあるのですが、ユダヤでは日が暮れて夜になると、そこから一日が始まります。つまり、24日の夜は、ユダヤでは25日なわけです。主イエスは24日の夜、「聖夜」に生まれたので、24日の夜までしかチョレートがなくても何の問題もありません。

 アドヴェントカレンダーチョコレートは24日の分のチョコレートが少し大きいのか、何か他の日のチョコレートと違いがあるのか、24日が来たら子どもたちに訊いてみたいと思っています。

 何でこんなにチョレートの話を一所懸命しているかと言いますと、今日の説教題を「大切なものはその奥に」としましたが、最後の最後に、大切なものが出てくる。そんなことを覚えるのが、このアドヴェントの季節なのかもしれないと考えるからです。
 
 さて、今日私たちに与えられている聖書の言葉は、全くもってクリスマスの雰囲気はありません。アドヴェントのみことばというわけでもありません。ここでなされているのは、税金の話です。先日、私も年末調整の書類を書いて提出したところですが、年末に税金の話というと、頭に思い浮かぶのは年末調整の話くらいなのかもしれません。

 しかし、今日のところは、なかなか興味深いところです。主イエスのところに、一人のスパイが送り込まれてくるのです。20節に「義人を装った回し者」とあります。英語の聖書ですと、「スパイ」と書かれています。そのスパイが義人を装っているとあります。コンピューターで入力していましたら、一段下のキーと打ち間違えて「美人を装った」と入力してしまいそうでした。美人を装った人も沢山いるかもしれませんが、この義人を装った人というのも、案外沢山いるのかもしれません。 (続きを読む…)

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