・説教 マルコの福音書6章1-6節「郷里の人々のつまずき」
2025.05.18
内山光生
イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」 マルコの福音書6章4節
序論
今日の説教題は「郷里の人々のつまずき」です。聖書の中には「つまずき」という言葉が出てきますが、聖書を初めて読む人にとっては、どういう意味なのかが分かりづらいとの意見があるという事を知り、私はそのことについて何年がかりかで思い巡らしていました。けれども、辞書などを調べたりする訳でもなく、ただ時が過ぎ去っていきました。
それで、今回、説教の準備をする際に、つまずきについて辞書で調べてみました。分かった事を整理すると、一般的な意味でのつまずきは二つに分類できると。一つは「文字通りのつまずき」で、歩いている時に石につまずいたといった感じで用いられます。もう一つは「比喩的な表現としてのつまずき」です。この場合、「人生につまずいた」といった感じで用いられます。そしてその意味は「人生に行き詰った」ということを指しています。ですから、比喩的な意味としてのつまずきの場合、別の言い方を付け加えることによって自分の言わんとしていることがきちんと伝わりやすいと解説されていました。
しばしばクリスチャンの間で「誰かにつまずいた」と言った用いられ方をすることがあります。しかし、厳密に言うと、このような用い方は一般的な日本語としてはあまり使われていない表現です。クリスチャン独特の表現だと言えるかもしれません。ただ、言葉というのは時代によって変化するものなので、一概に「それは本来の用いられ方と違う」と指摘するのもナンセンスなのかもしれません。けれども、私自身、聖書で用いられている「つまずき」がどういう意味なのかをきちんと整理しておきたいという思いが出てきましたので、早速、聖書の色々な箇所を調べたり、ギリシア語や英語の聖書を調べてみました。
分かった事は、日本語の聖書は一緒くたに「つまずき」と訳されているけれども、英語の場合は、文脈によって表現が変えられているということでした。具体的な事については、後で説明しますが、一つ言えることは、日本語の聖書で「つまずき」と訳されている聖書箇所については、英語の聖書で読んだ方が理解しやすいのではないか、ということです。
聖書の中での「つまずき」という言葉は、大きく二つに分けることができます。一つは、今回の箇所のように「イエス様に対して人々がつまずいた場合」です。もう一つが、「誰かが誰かをつまずかせる場合」です。この二つは日本語では同じ「つまずき」と訳されていますが、しかし、先ほどお伝えしたように英語の聖書では、その文脈を踏まえた適切な訳となっています。
今回の箇所について、どう訳せば分かりやすいかと言うと、「イエスにつまずいた」ではなく、「イエスを拒絶した」あるいは「イエスを疑った」とすればいいのです。それを踏まえると、今回の説教題は、「郷里の人々のつまずき」ではなく「イエスを拒絶した郷里の人々」と置き換えることができるのです。 (続きを読む…)