2025 年 11 月 30 日

・説教 ルカの福音書20章20-26節「大切なものはその奥に」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:11

2025.11.30

鴨下直樹

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 今週からアドヴェントを迎えました。毎日少しずつ寒さが増して、クリスマスが近づいてきていることを感じます。先週、私は残念ながら、みなさんと一緒に礼拝を捧げることができなかったのですが、子ども祝福礼拝には大変大勢のご家族が集まられたのだそうで、あとで写真を見せていただきました。教会のインスタグラムにも、その時の写真が出ておりました。毎年のことですけれども、子ども祝福礼拝で子どもたちはアドヴェントカレンダーチョコレートを貰います。今回は、礼拝の参加者が増えるたびに、私は何度もお店にチョコレートを買いに行きました。合計で3度行ったでしょうか。お店の人も、またチョコレートをたくさん買っていく人が来たと思われたのかもしれません。

 先日の祈祷会である方が、「子どもだけじゃなくてワシらも欲しい」と言われました。その時に、「敬老の礼拝の時にプレゼントを貰ったじゃないですか?」という話になったのですが、「何かしてもらったか?」と言われてしまいました。食事を一所懸命に準備された方々は残念な気持ちになってしまうかもしれませんが、「ワシもアドヴェントカレンダーチョコレートを貰って、クリスマスを心待ちにしたい」という気持ちの表れなのだと思います。

 その話をしていた時に、チョコレートは24日までなのか、25日までなのか? という質問が出てきました。「24日までですよ」とお答えすると、「でもクリスマスは25日なので、25日までないのはおかしい」という声が出てきました。これは、ユダヤの暦の考え方にあるのですが、ユダヤでは日が暮れて夜になると、そこから一日が始まります。つまり、24日の夜は、ユダヤでは25日なわけです。主イエスは24日の夜、「聖夜」に生まれたので、24日の夜までしかチョレートがなくても何の問題もありません。

 アドヴェントカレンダーチョコレートは24日の分のチョコレートが少し大きいのか、何か他の日のチョコレートと違いがあるのか、24日が来たら子どもたちに訊いてみたいと思っています。

 何でこんなにチョレートの話を一所懸命しているかと言いますと、今日の説教題を「大切なものはその奥に」としましたが、最後の最後に、大切なものが出てくる。そんなことを覚えるのが、このアドヴェントの季節なのかもしれないと考えるからです。
 
 さて、今日私たちに与えられている聖書の言葉は、全くもってクリスマスの雰囲気はありません。アドヴェントのみことばというわけでもありません。ここでなされているのは、税金の話です。先日、私も年末調整の書類を書いて提出したところですが、年末に税金の話というと、頭に思い浮かぶのは年末調整の話くらいなのかもしれません。

 しかし、今日のところは、なかなか興味深いところです。主イエスのところに、一人のスパイが送り込まれてくるのです。20節に「義人を装った回し者」とあります。英語の聖書ですと、「スパイ」と書かれています。そのスパイが義人を装っているとあります。コンピューターで入力していましたら、一段下のキーと打ち間違えて「美人を装った」と入力してしまいそうでした。美人を装った人も沢山いるかもしれませんが、この義人を装った人というのも、案外沢山いるのかもしれません。 (続きを読む…)

2025 年 11 月 23 日

・説教 マルコの福音書8章11-21節「弟子たちが悟ることを期待したイエス」

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2025.11.23

内山光生

イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」  

マルコ8章21節

序論

 今日は、一年に一度の子ども祝福式礼拝です。イエス・キリストが子どもたちを愛し、祝福されたように、子どもたちが神様から祝福を受ける存在だということを確認することができればと願います。また、大人の方々も、子どもたちを喜んで受け入れ、また、愛のある言葉をかけて頂けると幸いです。

 さて、今日の箇所では、主イエスの弟子たちが、イエス様がどういうお方なのかを悟ることができていなかった事が記されています。それで、イエス様の口から少しばかり厳しい言葉が出ているのです。けれども、イエス様の願いは、弟子たちがイエス様がどういうお方なのかを悟るようになる事であって、そのことを考えるとき、イエス様の言葉が愛に基づく発言だと言えるのです。

 イエス様が弟子たち一人ひとりの事を心から愛していたのは明らかなことです。そういう前提があって、弟子たちもイエス様を心から慕っていたのです。そのような人間関係が成立していたゆえに、多少厳しめの発言であっても、弟子たちは、イエス様の言葉を受け止めることができたのです。

 私自身、子どもの頃に、しばしば親に叱られた事を思い出すのです。叱られた時、自分が良くないことをした事を自覚し、それなりに反省するのですが、翌日、また同じ過ちをする。そんな事を何度も何度も、いや何十回も繰り返していたのを思い出すのです。一方、自分が親となった時、今度は子どもを叱る立場へと変わりました。子どもを愛する気持ちがあるのは当然なのですが、子どもが問題を起こす時に、感情が揺れ動くのです。そんな時、見て見ぬふりをするという方法があります。しかし、そのままの状態で大人になったならば、まるでモンスターのような、迷惑をかける人間になりかねない。それで、言うべきことは言わざるを得ない。そんな事を繰り返していくのです。

 人間は立場が変わると、ようやく、自分自身が何者なのかについて気がつくようになります。つまり、叱られる側にいる時は、「なんでそんなに私を責めてくるの。」と相手に対する不平不満な感情が出てくるのですが、一方、叱る側に立つ時、「どうして、あの人は、自分の問題行動を変えることができないのか。」と相手が変わろうとしない事に苛立ちを覚えるのです。

 私自身が子ども時代に親から叱られていた時、「納得できない、もっと優しく言ってほしい」と思うことがありましたが、親の立場になって、ようやく、子どもの頃の自分が、いかに親の言うことを聞かない人間だったのか気づかされ、それを注意してくれた親に感謝を覚えるようになったのです。

 ところで、イエス・キリストは、完全に聖いお方であり、全く罪を犯しませんでした。けれども、弟子たちが、ご自身が伝えようとしている事を悟っていない事で、厳しく接しておられます。これは、あくまでも、弟子たちを愛していて、そして、福音がどういう意味なのかを悟ってほしいがゆえの言動だということを心にとめておきたいのです。 (続きを読む…)

2025 年 11 月 16 日

・説教 マルコの福音書8章1-10節「七つのパン」

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2025.11.16

内山光生

すると、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。  

マルコ8章6節

序論

 今日の箇所に書かれている出来事は、少し前に記されていた「五つのパンと二匹の魚」と似たような内容となっています。だから、ある人は「これは前の出来事と同じではないか。」と感じるかもしれないのです。そして、「この話は知っているから、軽く流し読みをすればいい。」と考えるのです。ある人々にとっては、同じような内容が繰り返されると、くどいと感じ、興味深く読み進めていくのが難しくなるというのです。

 ですから、似たような内容が続くと、軽く流し読みをしてしまう人が出てくるのです。一方、説教を語る側の立場からすれば、同じような内容が書かれている聖書箇所から説教の準備を進めていく時に、どのような気持ちが出てくるのでしょうか。

 率直に言うと、私自身、「これは以前の箇所と似たような内容だから、何を語ればいいかを見つけ出すために苦労するだろうな。」と感じるのです。それで、いつもよりも慎重にその聖書箇所の内容を見ていく事となるのです。つまり、より一層、何度も何度も読み返す作業が必要になってくるのです。そうしないと、何を語ればいいかが分からなくなるからです。

 さて、聖書の中で似たような内容が出てきた時に、どのように解釈していけばいいかのコツがあります。それは「なぜ同じような出来事が記されているのだろうか。」と疑問に思いつつも、「きっと、それなりの理由があるに違いない。」と考えるのです。そして、そこに書かれている内容の意図が何であるかを考えていくのです。すると、今回の箇所の場合、何かを強調するために、敢えて、似たような内容が記されていることに気づかされるのです。

 結論から言いますと、この奇跡がマルコの福音書に記録されている理由は、主イエスの弟子たちが「イエス様には奇跡を行なう力がある。こんな奇跡を行なうことができるのは神様だからだ。」ということを悟っていなかった事を伝える、そういう意図があるのです。

 イエス様がまことの神様だということをなかなか悟ることができないこの現実は、主イエスの弟子たちに限った事ではありません。つまり、どの時代に生きた人々であっても、しかも、神様のみわざを直接、体験していたとしても、すぐに「イエス様って、本当に偉大な力があるお方だ。」ということを悟ることができるとは限らないのです。

 人々の心というのは、簡単には変わらない。どうしても、自分の中にある常識によって物事を判断してしまう。そういう性質があります。だから、本当の意味で聖書の言っていることを理解するまでに時間がかかる事があるのです。

 しかしながら、聖霊が働く時、「あの出来事は、こういう意味があったんだ。神様って本当に私を導いて下さっているんだ。」ということに気づかされるのです。そのような事を何度も繰り返していくうちに、神様に対する信頼関係が深められていくのです。 (続きを読む…)

2025 年 11 月 9 日

・説教 ヨハネの黙示録21章1-5節「涙を流すことのない天の御国で」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:19

2025.11.09
召天者記念礼拝

鴨下直樹

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 みなさんはヨハネの黙示録と聞くとどんな印象を持たれるでしょうか。「世の終わり」だとか、「誰にもどうすることもできないような悲惨な最期」が書かれているという印象を持っておられる方もあるかもしれません。もちろん、黙示録は、その後の時代の終わりに起こる神の裁きが語られている聖書の箇所です。そして黙示録の最後、つまり「聖書」の最後であるこのヨハネの黙示録の21章と22章では、この世界が最後の最後にどうなるのかが記されています。

 21章には、神が私たちに与えてくださる新しい天と地のことが記されています。この21章の1節にこう書かれています。

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 この黙示録を記したヨハネは神様からさまざまな幻を与えられます。最後に与えられた幻は、この世界が最後の最後にどのようになるかという幻でした。ここでヨハネはついに「新しい天と新しい地」とを目撃します。それが、いわゆる「天の御国」とか「天国」と一般にいう完成された世界のことです。

 この言葉の興味深いのは、ここに書かれている「新しい」という言葉です。この言葉はギリシャ語で「カイノス」という言葉が使われています。この言葉は、「絶対的な新しさ」を意味します。一般に使う「新しい」という言葉は「ネオス」という言葉を使います。英語の「ニュー」という言葉です。この場合の新しさは、その時には新しくても、やがて古くなっていってしまうものです。人間に使う場合は、「青年」などという意味にもなりますが、若々しさも時間の経過と共に失われていきます。お店などにいくと「NEW」とか「新発売」などと言いますけれども、新しく世に登場した商品も、その瞬間からすぐに古びていってしまう。それが、この「ネオス」、「ニュー」という言葉です。

 それに対して、ここで「新しい天と新しい地」と言う言葉に使われている「新しさ」「カイノス」というのは、絶対的な新しさ、古びることのない新しさを表す言葉です。神は、この「新しさ」でもって「新しい天と新しい地」によって世界を完成なさいます。この新しい天と地のことを「新しいエルサレム」とも言っています。これが2節に記されている「新しいエルサレム」です。この新しい世界は、「古いもの」と共存することができません。ですから、「以前の天と以前の地は過ぎ去り」と書かれているのです。つまり、今私たちが生活しているこの天と地、この世界とはまったく異なる新しい世界がやがて来るというわけです。 (続きを読む…)

2025 年 11 月 2 日

・説教 ルカの福音書20章9-19節「貧しい神と豊かなしもべ」

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2025.11.02

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は、主イエスの譬え話が記されています。譬え話自体はそれほど複雑ではありません。ぶどう園の主人が旅に出るので、ぶどう園を農夫に託して出かけます。しばらくして収穫の時期になったので、主人は収穫物の中から農夫たちに与えると約束した分を除いて、収穫物を納めるように使いを送り出します。ところが、農夫たちは主人の言うことを無視して、遣わされて来たしもべたちを3度にわたって暴行を加えた上で追い返してしまったというのです。それで、ついに、主人は自分の跡取りの息子を送り出します。しかし、農夫たちは跡取りを殺してしまえばこの土地は自分たちのものにできると考えて、この跡取りを殺してしまったというのです。

 この譬え話のテーマは何でしょうか? これは、前の1節から8節までの話が前提となっています。つまり、神殿の商売人を追い出してしまった主イエスに対して、神殿側の祭司長、律法学者、長老たちが、主イエスに尋ねた「あなたはいったいどんな権威があってこれらのことをしているのですか?」という問いの続きなのです。ですから、この譬え話の箇所もテーマは「権威」です。この「権威」という言葉は、まず覚えておいていただきたいのは「権威」の他にも「権力」や「権限」という意味にもなる言葉だということです。

 主イエスは、ご自分の持っておられる権威について、ここで譬え話を用いて話しておられるわけです。この譬え話の中で、農夫たちが登場します。そこでまずこの農夫たちの視点で考えてみたいと思います。この農夫たちは、主人に雇われているわけですから、何の権限ももっていない人です。ところが、主人から預かっている畑で毎日働いていると、いろんなことを考えます。言われたことだけをやっていては、作物は育ちません。肥料をやったり、剪定をしたり、雑草を刈ったり、鳥や動物から作物が奪われないように知恵を絞ります。あるいは、日当たりを気にしたり、害虫の駆除をしたりと、やりはじめると実に様々な労力が必要となります。そうやって、ようやく多くの実を実らせることができるのです。収穫物というのは農夫たちの労苦によって得られたわけで、勤勉に働かなければそれを実らせることはなかったかもしれません。そう考えると、収穫物が取れた時に何も仕事もしないでどこか遠くにいる主人に収穫物を渡すのが惜しくなる。そういう農夫の気持ちはどこかで私たちも分かる気がするのではないでしょうか。

 何も仕事もしていないのに、自分が毎日あくせく働いた労働の実を奪う主人は、なんて強欲で、酷い主人なのかと考えてしまう。この農夫は、毎日ぶどう畑で働くうちに、この畑は自分の所有物であるかのように錯覚してしまったようです。ということは、いつのまにか農夫たちは、この土地の収穫物の権利を持っているのは自分たちであって、主人ではないと考えるようになってしまったということなのです。

 このように考えてしまう問題点はどこにあるかというと、ぶどう園の主人がどこか遠くに旅に出ているからです。主人が近くにいないために、農夫たちはこの土地が主人のものであるという思いを忘れてしまうわけです。

 主人の視点で考えてみるとどうでしょう。この主人はぶどう園を農夫に託して出かけていきます。収穫物が取れた時、10節では「彼は農夫たちのところに一人のしもべを遣わした。ぶどう園の収穫の一部を納めさせるためであった。」とありますから、主人は収穫物の全てが自分のものと言っているわけではなくて、あらかじめ約束しておいた分を納めるようにとしていたことが分かります。それが、収穫物の何パーセントなのかまでは分かりませんが、お互いに納得をして約束をしていたはずで、主人が不当なことをしたというようなことは読み取れません。

 先日の祈祷会でお話をした時に、ある方が「ぶどう園の農夫たちは不作で収穫物がなくて焦ったので渡せなかったのではないか?」という意見を言われた方がありました。なかなか斬新な聖書の読み方です。その意見を聴きながら、確かにそういうリスクも農夫にはあるなと考えさせられます。ただ、ここで聖書が語っているのは、このぶどう園の主人は、厳しい取り決めをしたわけでもなく、農夫たちのことも考えている人物であるということは、ここから読み取れるはずです。しかも、主人は何度も使いを送って、農夫たちが自主的に判断できるように促してもいます。

 ぶどう園の主人は、このぶどう園の責任者です。ご自分のぶどう園のすべての権威をもっています。それなのに、農夫たちのことを信頼して、農夫たちが自らの判断で、主人に決められた収穫物を納めるように忍耐を持って待ち続けているのです。 (続きを読む…)

2025 年 10 月 26 日

・説教 ルカの福音書20章1-8節「何の権威によって?」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:56

2025.10.26

鴨下直樹

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 先週の火曜日と水曜日、日本自由福音教会連盟の理事会があって、私は神戸まで行ってきました。私たち同盟福音基督教会と信仰のルーツを同じくする教団は、日本福音自由教会協議会、日本聖約キリスト教団、日本聖契キリスト教団とありまして、これら4つの団体で、「日本自由福音教会連盟」という交わりを作っています。来年で、この交わりが作られて30年が経過するということで、会議の中で、これまでの交わりを振り返るような時間が持たれました。というのも、今年、15年ぶりにこの連盟、4団体の牧師研修会が再開されることとなったからです。これまでも、この4つの教団は実に楽しい交わりをしてきました。

 この自由福音連盟は今、IFFECと呼ばれる世界の自由福音教会の交わりに加盟しようとしています。特に今回、提出する資料の準備をするということもあって、これまでの歴史を振り返ることとなったのです。そこで、今から15年前に『連盟記念誌』というものが発行されていたことが分かりました。その記念誌の中に、「私たちは4年おきに合同牧師会を行う」と書かれていました。ところが、この記念誌が書かれたのを最後に、15年の間、合同牧師会が行われていなかったのです。詳しい理由はよく分からないのですが、15年前の合同牧師会の時に、何かトラブルがあったようで、そのために大きな赤字が出てしまったようなのです。

 トラブルが起こると、どうしても誰が責任を取るのかという話になりますが、その時の代表の先生方も、それぞれに責任を負って、かなりご苦労をされたことが分かりました。そんなこともあって、それから15年の間、合同牧師会をやろうという声が上がらなかったのが実際のようなのです。そんな話を聞いていますと、どうしても考えてしまうのは、代表として選ばれている先生方というのは、さまざまなことを決定する権限が与えられていると同時に、大きな責任を負うことになるのだということでした。

 今日の聖書の箇所は、主イエスがエルサレムの神殿にやって来られたところです。神殿では、商売人たちが商売をしていて、福音が語られる場所とはなっていません。それで、主イエスは、神殿にいた商売人たちをみな追い出してしまわれます。こうしてようやく落ち着きを取り戻した神殿で、主イエスは福音を語り始めることがおできになったのです。主イエスにしてみれば、神を礼拝する神殿に行ってみると、そこには大きなトラブルがあったわけです。それで、そのトラブルを解決して、ようやく本来の姿に戻ったという状態です。ところが、主イエス側から見れば確かにそうなのですが、神殿側の人間から見れば、まさにこの時の主イエスこそがトラブルの張本人です。そこで、神殿側の人間である、祭司長、律法学者、長老たちは主イエスに詰め寄ります。2節です。

「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか。」

 冷静な言葉を装っていますが、彼らの内心は、はらわたが煮えくり返るほどの憤りに満ちていたに違いありません。「どんな資格があって」「誰の権限で」「いったいどういう了見でこれをしているのか!」と主イエスに詰め寄ったのです。 (続きを読む…)

2025 年 10 月 19 日

・説教 マルコの福音書7章31-37節「エパタ」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:44

2025.10.19

内山光生

そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。  

マルコ7章34~35節

序論

 先週、久しぶりに本巣の方にある谷汲温泉に行きました。岐阜県には、評判の良い温泉が幾つもありますが、谷汲温泉は私が好きな温泉の一つです。夏の間は、シャワーで済ませていた事が多かったのですが、久しぶりにゆっくりと温泉に浸かると、身体と心が癒される気持ちとなりました。

 別の話ですが、数か月前から私は毎日、足裏マッサージをしていました。もう20年以上前に買ったマッサージ機ですが、ずいぶんお世話になっていて、愛着を持っていました。ところが、先日、突然、その器械が壊れてしまったのでした。とても残念に思いました。けれども、20年以上も用いることができたので、十分に役割を果たしてくれたと感謝しています。と同時に、新たなマッサージ機が必要なので、良い物が手に入るよう神様に祈っています。

 さて今日の箇所は、イエス様による癒しがなされた出来事が記されています。また、結構、有名な箇所なので内容自体は知っている人が多いかと思います。その中にあって、聖書が私たちに伝えようとしている事が何なのかを考えていきたいと思います。

I 耳が聞こえず口の聞けない人が連れてこられる(31~32節)

 31節から見ていきます。

 前回の場面は、ツロの地方、すなわち、ガリラヤ地方よりも北西に位置する異邦人の町が舞台となっていました。イエス様とその弟子たちは、恐らく、ツロの地方で短い期間ですが休息を取るために滞在していたと思われます。

 そして、休息の時が終わると、イエス様とその弟子たちは、再び、宣教活動の拠点となっているガリラヤ湖の方に戻って来られたのです。その地はイエス様の活動拠点ですから、すぐに「イエス様が戻ってこられた」とのうわさが広げられ、そして、大勢の人がイエス様の元にやってきたのではないかと推測できるのです。そういう状況の中で、32節にあるように「耳が聞こえず、口のきけない人」が連れてこられたのでした。

 この人は、目で見ることはできるのですが、しかし、人々が言っていることを自分の耳で聞くことができませんでした。また、自分で話すこともできませんでした。それで、この人の事を助けてあげたいと思った人々によって、イエス様のところに連れてこられたのです。ここに、人々の愛のある行動を垣間見ることができるのです。自分のためではなく、困っている人、苦しんでいる人を助けてあげたい、そういう心を持っている方がおられたのです。

 この人を連れてきた人々は「イエス様ならば、治すことができる」と確信していたのでしょう。事実、今までにイエス様の元に連れてこられた人々は、皆、癒されたのでした。また、前回の箇所に記されている出来事では、イエス様はその場にいない人であっても、その苦しみを取り除くことができるお方だということが示されています。ところが、今回の癒しのみわざは、前回のパターンとは対照的な方法が取られたのです。すなわち、イエス様は助けが必要な人に直接、手を触れてくださり、祈りをささげつつ、癒しのみわざをなしていくのです。 (続きを読む…)

2025 年 10 月 12 日

・説教 マルコの福音書7章24-30節「女性の娘を助けたイエス」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:50

2025.10.12

内山光生

そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」  

マルコ7章29節

序論

 昨日は、当教会で韓国の賛美宣教団オンギジャンイのコンサートがもたれ、すばらしいひと時を持つことができました。個人的な思い出となりますが、今から25年以上前に大垣のルーテル教会を会場に行なわれたオンギジャンイのコンサートに参加した事があり、その頃は割と韓国語での賛美が多かったように記憶しているのですが、今回は日本語での賛美がほとんどで、また、特別に日本人に馴染みのある歌も歌っていただき、心に染みるコンサートとなりました。

 さて、今日の箇所は、前回までの箇所から大幅に舞台が変わっていきます。

I ツロの地方に行かれた主イエス(24節)

 24節から順番に見ていきます。

イエス様とその弟子たちは、今までにガリラヤ地方やユダヤ地方を中心に宣教活動を繰り広げてきました。それらの地域では、一部の町を除いて、多くの人々に受け入れてもらえました。けれども、イエス様と弟子たちが、休みを取ることができない程に忙しくなってしまいました。それで、なんとかして弟子たちと共にリフレッシュする時間が必要だと考えたのでしょう。

 イエス様の取った行動は、ツロの地方に行くという事でした。ツロというのは、ユダヤ人以外の民族、すなわち、異邦人が中心の町で、旧約聖書の時代から知られている町の一つです。ガリラヤ湖から見ると、北西の位置にあり、港町であり、かつて木材の輸出で栄えた時代もありました。けれども、良い材木が取れなくなると、漁師として生計を立てる人が増えたと言われています。聖書の中では、ツロに加えてシドンという町が出てきています。ですから、ツロとシドンをセットで覚えておられる方もおられるでしょう。共に地中海沿いの町なので、聖書の後ろにある地図を見るとすぐに見つけることができる場所です。

 さて、先ほどお伝えしたようにイエス様と弟子たちが、ツロの地方に行かれたのは、休息を取るためであって、その地方の人々に積極的に福音を伝えるためではありませんでした。だから、24節では、「だれにも知られたくないと思っておられた」と書かれているのです。

 普段、多くの人々と接する仕事をしている方の中には、休暇の時こそは、あまり人がいない静かな場所で過ごしたい、そう考えておられる方もおられるかと思います。それで、多少遠い場所であっても、自分がお気に入りの場所に行ってリラックスする時間を持とうとするのです。私も、最近減りましたが、休暇となると、どちらかというと人がたくさん集まる場所よりも、人が少ない公園を散歩する方が落ち着くと感じるのです。

 同じように、イエス様はツロの地方に行けば、自分のもとにやってくる人があまりいないのではないかと考えたのです。ところが、その予想に反して、ガリラヤから離れたツロの地方にまで、イエス様のうわさが広められていたのでした。この地方の人々は、どうやらすでにガリラヤやユダヤの地方でうわさになっている人物がいることを知っていたようです。そして、その中には、イエス様の顔を知っている人もいたのでしょうか。あるいは、雰囲気からして、あのうわさの人物に違いないとさとられたのでしょうか。どのような事だったのかは、はっきりした事は分かりませんが、結果的には、「自分たちの町にイエス様がおられる」そんなうわさが広まってしまい、イエス様たちは、もはや、隠れていることができなくなってしまったのでした。 (続きを読む…)

2025 年 10 月 5 日

・説教 ルカの福音書19章28-48節「エルサレムに入られる主イエス」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:15

2025.10.05

鴨下直樹

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 みなさんは、今日が何の日かご存知でしょうか? 10月5日、この日はなんと我が家の犬、サクラの誕生日です。実は、昨日の午後、妻と話していましたら、SNSでこんな記事を読んだと言うのです。それは、飼っていた犬が死んでしまったという呟きなんです。でも、その記事には、その飼い主が笑いながらこんなことを言っていたというんです。「もう隠れて焼き芋を食べなくていい。これからは家で堂々と焼き芋を焼いたっていい。ひとくちせがまれることもない、キッチンの攻防戦もしなくてもいい」と。そう言った途端に泣き出した時、その不自由や少しの面倒臭さごと愛していたのが伝わってきて切なかった。そんな記事を教えてくれました。本当に大切なものというのは、「不自由や少しの面倒くささがあっても、それごと愛していた」というこの人の言葉の中に、ささやかな愛の真理があるような気がしました。

 犬を飼っていると、いろんな制約があります。朝、今日はゆっくり寝ていたいと思っていても、起きて散歩に行き、餌やりをしなければなりません。それは確かに手間なことなのですが、その手間がかかることがそのまま愛情なのです。めんどくさいんだけど、実は嫌じゃない、そんな愛もあるのだと思うのです。その愛というのは、自分の方を向いている愛ではなくて、外へと向かう愛、そんなふうにも言えるかもしれません。面倒でも、手間がかかっても誰かを愛する愛というのは、その人の心を豊かにするのです。

 さて、今日の聖書の箇所はいよいよ主イエスがエルサレムに入城される出来事が記されています。前にもお話ししましたが、主イエスにとってエルサレムに近づくということは、死に近づくことです。旅のゴールが「死」に結びついているというのは、なんとも心苦しい気がします。けれども、主イエスはその厳しいはずの旅を受け入れているような姿が感じられます。

 この福音書を記したルカは、主イエスのエルサレム入城をどのように描こうとしたのか、ここにルカの特徴がよく現れています。というのは、他の福音書では、エルサレム入城は「ダビデの子にホサナ」という群衆の大歓声と共に迎えられ、人々は棕櫚の葉を道に敷き詰めてエルサレムに入城されたと書かれています。ところが、このルカは少し様子が違います。

 人々のホサナの歓声も描きません。むしろ、そこに居合わせたのは弟子たちだけであったかのように記述しています。しかも、その前にまず、記したのはエルサレムに入るためにロバを借り受ける出来事です。ルカはここでどんな主イエス像を描き出そうとしているのでしょうか。 (続きを読む…)

2025 年 9 月 28 日

・説教 ルカの福音書19章11-27節「王様の視点、しもべの視点」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:39

2025.09.28

鴨下直樹

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 みなさんは、仕事を誰かに頼まれると、先に終わらせてしまうタイプでしょうか? それとも、ギリギリまでやらないタイプでしょうか? こういう質問をすると、いろんな答えが返ってきそうです。もちろん、先延ばしにするよりは、すぐにやった方がいいと多くの方は考えると思います。自分でも言いながら、みなさんの視線が痛いような気もしてきます。誰がそれを言っているのだと。

 たぶん皆さんの家庭には今、国勢調査のアンケートが届いていると思います。もうすでに終わらせてしまった人と、まだ終わらせていない人といると思います。10月8日が最終締め切りだそうです。まだの方は、まだあと1週間ありますのでご安心ください。

 先延ばしにする人の場合「しなければならない用事というのは、いくつかの優先順位がある」そんな考え方で、重要度によって分けているという人もあると思います。いろんな考え方があると思うのですが、しなければいけないことを後まわしにする人にも言い分があります。「直前に何かの事情で、やらなくても良くなる場合もあるので、様子をみている」という意見です。「なるほどな」と私も思います。私はどちらかというと、そのように答える人の気持ちがよく分かるタイプです。

 私はというと、ご存知の方も多いと思いますが、「以前は」最後までやらない人間でした。夏休みの宿題も最後の日にラストスパートをかけるタイプです。けれども、実は芥見教会に来てから少し考えを改めました。十数年前のことなのですが、水曜の祈祷会の時に、長老と何かのことで相談をしたのです。もうその時すでに夜の10時頃だったのですが、長老は躊躇なくその場で電話をかけて、あっという間に、その要件を済ませてしまったのです。私なら、明日の朝電話をしようと思いながら、つい電話をかけ忘れてズルズルいくパターンが多いので、この時の長老の姿に私は衝撃を受けました。仕事ができる人というのは、こうも軽やかなのかと感動したのです。もちろん、改めたと言っても、誰も信じてくれないかもしれません。なぜなら今でも昔の癖が抜けきらず、ギリギリまで延ばしてしまうことも多々あるからです。ですが、気持ちとしては、できるだけ早めに終わらせようと思うようにはなりました。はい、信じるか信じないかはあなた次第です。

 どうしてこんな自分の首を絞めるような話から始めたかと言いますと、今日の聖書の話は主イエスのなさったミナの譬え話です。ある身分の高い人が10人のしもべに「私が王様に任命されるために留守にしている間に、一人1ミナで商売をしなさい」と命じて出て行ったという譬え話なのです。1ミナというのは、だいたい100万円くらいと考えていただいて良いと思います。

 そこで、10人のしもべたちは主人が帰ってくるまでに、そのお金を使って商売をしたわけです。当然、うまくやった人もいます。うまくできなかった人もいるわけです。すぐに商売に取り掛かった人もいたでしょうし、入念に計画を立てていた人もいたと思います。まだ時間があるから大丈夫と、のんびり構えていた人もあったと思うのです。ここで求められているのは「商売」という能力です。仕事の能力というのは個人差がありますから、誰もが商売上手とも言えません。商売ですから、失敗する可能性も大いにあるわけです。そういう中で、どう振る舞うのが正解なのか、そこには人の数だけ正解がある気もします。 (続きを読む…)

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