2024 年 9 月 15 日

・説教 マルコの福音書3章7-12節「汚れた霊どもを戒める」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:21

2024.9.15

内山光生


序論

 8月末から9月上旬にかけて、全国各地のお店でお米が不足している状態となっていました。マスコミの報道が影響したのでしょうか。ますますお米がお店からなくなっていったのでした。政府は国全体では在庫が足りている。また、新米の入荷が始まるのですぐに問題は解消すると言っていました。そしてその通りに、今となっては新米がどんどん入荷してきて米不足は収束を迎えたようです。ただ、値段が例年よりも高くなっているとのことです。

 余談ですが、9月上旬に私の実家でも、米の収穫を終えました。私も少し手伝いをしに行きましたが、例年になく苦労をしました。というのも、肥料を多くやりすぎたせいでしょうか、稲穂が倒れてしまったのです。そうなると、米を刈り取るコンバインがうまく作動せずに、何度も機械のメンテナンスをしながらの作業となるのです。

 そんな訳で通常2日で終わる作業が2倍の4日かかってしまいました。けれども、なんとか収穫できた事に感謝を覚えます。私の父が後何年、米作りができるかは分かりませんが、今まで、神様が守り導いて下さったことに感謝をいたします。

I 様々な地域の人々が主イエスの元に来る(7~8)

 7~8節から順番に見ていきます。

 前回の箇所では、イエス様が安息日に「片手のなえた人」を癒した出来事が記されていました。そして、イエス様に敵対している人々、つまり、パリサイ人たちが「イエス様を殺害する計画をし始めた」と記されていました。

 それまでイエス様は、町々の会堂、すなわち、シナゴーグにおいて、安息日ごとに聖書の解き明かしをするという方法で福音を宣べ伝えていました。けれども、パリサイ人たちの敵対心が大きくなった事を受けて、イエス様たちは、町から離れガリラヤ湖の方に向かったのです。

 あのパリサイ人たちは、当時のユダヤ世界では、宗教的に最も権威のある立場でした。そして、イエス様に対してあからさまに敵意をむき出しにしていました。それを見ていたイエス様の弟子たちや群衆は、どちらが正しいと思ったのでしょうか。

 言うまでもなく、イエス様の弟子たちはイエス様の言っていることが正しいと受け止めていました。それに加えて、大勢の群衆たちも、イエス様の言っていることが正しいと受け止めたのです。その証拠として、イエス様たちが町から出て行っても、イエス様が向かう所について行ったのです。

 もしもパリサイ人たちの言っている方が正しいと受け止めていたならば、どうしてイエス様たちについて行くでしょうか。人々がイエス様について行ったのは、安息日に「善いことをする」のが当然だと受け止めたからです。また、安息日に「いのちを救うこと」が正しいと確信していたからです。

 確かに、パリサイ人たちや律法学者たちは、旧約聖書に預言されている救い主に関する知識を持っていました。、しかし、目の前に救い主が現れているにも関わらず、そのお方が誰なのかに気づけなかったのです。反対に、旧約聖書の知識をそれほど持っていない群衆たちは、イエス様の言葉や行いを見て、この方について行きたいとの思いが出てきて、その気持ちを行動に移し、イエス様たちについて行ったのです。 (続きを読む…)

2024 年 9 月 8 日

・説教 マルコの福音書3章1-6節「善か悪か」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:29

2024.9.8

内山光生


序論

 前回の箇所は安息日に関することがテーマとなっていました。すなわち、イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことが律法に違反するのか、しないのか、が問われていました。それに対して、イエス様は「安息日は人のために設けられた」と答えました。更には、「人の子は安息日にも主です。」と宣言したのです。これらの言葉は、パリサイ人たちから反発をまねく内容でした。

 とはいえパリサイ人たちは、すぐに反論してきた訳ではありません。ただ、彼らの心の中が怒りの感情で支配されていて、チャンスがあれば主イエスを訴えようという気持ちが出てきていたのです。

 今日の箇所は、前回の内容とつながりがあることを理解しながら順番にみていきましょう。

I 主イエスを訴えようとする人々(1~2)

 1~2節に進みます。

 主イエスは安息日ごとに、どこかの会堂に行って聖書の解き明かしをしていました。1節に記されている会堂がどこの町にあったのかは、はっきりとは分かりません。可能性としてはカペナウムだったかもしれません。あるいは別の町だったかもしれません。

 そこでイエス様は、病人を癒すことが目的で会堂に入った訳ではありません。でも、そこには「片手の萎えた人」がいたのです。この片手の萎えた人は、恐らく、イエス様の評判を聞いていて、自分の手を治してもらえるかもしれないと期待していたのだと思われます。

 イエス様は苦しんでいる人々に愛の御手を差し伸べるお方です。そういうことを知っていたパリサイ人たちは、主イエスが安息日にこの片手の萎えた人を治すかどうかをじっと見ていたのです。彼らは、主イエスが安息日にしてはならないことをするかどうかを見極めようとしていたのです。つまり、もし主イエスが、片手の萎えた人を治すならば、すぐにでも「あなたは安息日にしてはならないことをしている」と訴えようとしていたのです。

 誰かに対して初めから悪い感情を持っていたり、偏見があるならば、その人からどのようなメッセージを聞いたとしても、心に届かない、そういうものです。パリサイ人たちは、すでにイエス様の言われた言葉に対して疑問を抱いていました。というのも、イエス様の安息日に対する考え方と自分たちの考え方に大きな違いがあったからです。

 パリサイ人たちは、自分たちは先祖から伝えられた教えを忠実に守っていて正しい考え方をしていると確信していました。

 例えば、「安息日は働いてはいけない」「収穫作業をしてはいけない」、「病人を治療することも禁止されている」と理解していました。一方、イエス様は、弟子たちがお腹をすかして安息日に麦の穂を摘んだ時に、弟子たちは間違った事をしていないと考えていました。また、安息日であっても病人を治しても良いと考えていました。 (続きを読む…)

2024 年 9 月 1 日

・説教 ルカの福音書13章22-30節「主イエスという門をくぐって」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:52

2024.9.1

鴨下直樹

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 9月に入りました。私たちの教会では夏休みの期間、「信徒交流会」という名前で、毎週行っている水曜と木曜の祈祷会の時間に、信徒の方々に証しや、聖書研究や、さまざまな発題をしていただいております。今年は、7月の後半から始まり、10回10名の方が発題してくださいました。毎週、とても多くの方が参加してくださって、水曜と木曜の参加者を合わせると毎週20人以上の方の参加がありました。

 今、笠松教会と兼牧をしていることもあって、合同で祈祷会をしますと笠松教会の方がびっくりします。どうしてこんなに大勢の参加があるのかと質問が出るのです。一番の理由は楽しいからだと思うのです。発題してくださる方の内容に興味があるということもありますし、また、参加者の皆さんが思いのままに発題されるその発言を聞くのが面白い、あるいは、その発言に対して自分たちの思いを好きなように話せるから楽しいということでもあると思います。みなさん、かなりリラックスして参加してくださっていますから、時折びっくりするような発言を耳にすることもあります。それも含めて楽しいのだと思うのです。

 そう考えながら、今日の聖書を読みますと主イエスの周りにいる人々も同じようであったことが分かります。今日の、聖書箇所であるルカの13章23節にこんなことが書かれています。

すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」

 この質問をした「ある人」というのが弟子なのか群衆だったのかも分かりませんが、かなり直球な質問です。「救われる人は少ないのですか?」こういう質問を主イエスにできるというのも、やはり何でも言える環境であったのだろうということが分かります。

 この12章から主イエスは群衆や、弟子たちといろんな話をされています。この前のところでは安息日に癒しの出来事をなさって、そこで「神の国」の話をされたばかりです。神の国というのは、小さいもの、弱いものであっても、その人から神は大きなみ業をなさるのだという話をされたばかりでした。そんな中で、「主よ、救われる人は少ないのですか?」という問いかけがあったのです。

 私は、祈祷会の時でもそうなのですが、いろいろな質問が出て来る時にどうしてその質問がでてくるのかという、その背後にある思いに目をとめることが大切だと考えています。そうでないと、質問の意図が読めなくて、質問をした人の願っていることと違うことを答えてしまうことになってしまうからです。

 この場合、質問をした人は何を思ってこういう質問をしたのでしょうか。考えられる一つの可能性は、「自分は神の国に入れてもらえないのではないか?」と考えたのではないかということです。こういう考え方は、私たちでもよく理解できることだと思います。自分の信仰と他の人の信仰を比較する時に、こういう思いというのはどうしても出てきてしまうのです。

 この出来事の前に主イエスは、「神の国はからし種に似ている」と言われました。あるいは「パン種に似ている」とも言われました。小さなものであっても、そこから大きな実りをもたらすと言われた主イエスの話を聞いて、ひょっとして自分の中には「からし種」ほどの信仰もないのではないかという不安を抱いた可能性があるのではないかと思うのです。 (続きを読む…)

2024 年 8 月 25 日

・説教 ピリピ人への手紙4章4-7節「三つの証し」田中啓介師

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:24

2024.8.25

田中啓介


2024 年 8 月 18 日

・説教 マルコの福音書2章23-28節「人の子は安息日にも主です」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:24

2024.8.18

内山光生


序論

 我が家では、毎年、夏になると私の実家の三重県桑名にあります「多度滝」に泳ぎに行くのが恒例となっています。そして先週、実家に行く次いでに泳いできました。

 そこは川がせき止められて泳げるようになっていて、「天然プール」と呼ばれています。、プールと言っても深さがせいぜい80センチ程度で、どちらかというと小学生、あるいは幼稚園児・保育園児にちょうど良い深さとなっています。

 その天然プールの特徴は、水温が低いという事です。だいたい20度くらいの水温でしょうか。最初、水につかる時、とても冷たいと感じるのですが、しばらくすると心地よい感じとなっていくのです。だから、猛暑と呼ばれるここ数年、ますます、利用客が増えているようです。ちなみに、入場料は無料ですが、駐車場代が1000円かかります。

 芥見からは2時間近くかかるので遠いと思いますが、もしも三重県方面に行くことがあれば、ぜひ、お出かけください。

I 主イエスの弟子たちの行動を非難するパリサイ人(23~24節)

 では23~24節から見ていきます。

 23節で、イエス様の弟子たちが麦畑で麦の穂を摘んでいました。しかしながら、その日は安息日だったのです。当時のイスラエルでは、他人の畑であっても、道具を使わなければ、たとえば鎌などを用いなければ、多少の麦ならば摘んでも良いとされていました。それは、貧しい人を助けるという教えがイスラエル全体に広まっていたからです。

 ですから、弟子たちは他人の麦畑で麦の穂を摘んでいましたが、それ自体は悪いことをしている訳ではありませんでした。問題なのは、「安息日に仕事をしてはならない」という教えをどのように理解しているかでした。

 パリサイ人たちは、イエスという人物が律法の解き明かしをしていて、人々から良い評判を得ていることにいらだっていました。おそらく、同じ宗教家としての嫉妬心がでてきたのでしょう。そして、イエス様の行動に何か問題を見つけ出して、文句を言ってやろうと思っていたのです。ところが、イエス様の行動には、なかなか落ち度を見出すことができません。それで、イエス様の弟子たちの行動に目をつけたのです。

 推測ですが、イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んでいたのは、今回が初めてではなく、何度も何度も繰り返していたと思うのです。そして、すでにパリサイ人たちは、そのことを知っていたのでしょう。それで、彼らは安息日に主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んでいるのを見つけるや否や、イエス様に対して文句を言ったのです。

 「なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのですか。」と。

 当時のパリサイ人たちは、旧約聖書の教えだけでなく、彼ら独自のルールを作っていました。そして、安息日に具体的に何をしてはならないかを決めていました。ですから、彼らにとっては、安息日に麦の収穫をすることは禁止事項であり、大いに問題があると理解していたのです。一方、イエス様の弟子たちは、安息日であっても、お腹がすきます。だから、手で麦の穂を摘む程度ならば、ルール違反ではないと考えていたのでしょう。もしも、その行動がルール違反と分かっていたならば、弟子たちは安息日に麦の穂を摘まなかったと思うのです。つまり、弟子たちは悪いことをしているという意識がなかった一方、パリサイ人たちにとっては、明らかにルール違反であり、両者の考えが対立していたのです。

 そこでイエス様はパリサイ人たちの文句に対して反論していきます。  (続きを読む…)

2024 年 8 月 11 日

・説教 マルコの福音書2章18-22節「新しい皮袋に」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:56

2024.8.11

内山光生


序論

 7月末から8月1日(木)にかけて、私たち家族は大阪に行きました。一番の目的はUSJに行くことでした。当初から、夏は暑いので覚悟が必要だと思っていましたが、やはり暑かったです。例えば、アトラクションで順番待ちをしている時は、まさに我慢大会のような苦しさがありました。一緒に並んでいる人の顔色を見ると、たいていの人が疲れ果てた雰囲気を醸し出していて、それを見ると更に疲れが出てくるのでした。しかしそれでも、順番がまわってくると、その暑さがいっきにふきとび、思う存分、楽しむことができました。

 いわゆるインバウンドで、大阪の道頓堀周辺は外国人観光客でにぎわっていました。昔、20代の頃、道頓堀を散策した事がありましたが、これほどまでに多くの人が集まっているのは初めての体験でした。

 普段、芥見周辺で過ごしている私にとっては、かなり刺激のある夏季休暇となりました。

I 断食についての質問(18節)

 18節から順番に見ていきます。

 旧約聖書の時代では、しばしばイスラエルの民は断食をしていました。なんのために断食をしたのかというと、「贖罪の日」とよばれている日に、罪を悔い改める行為として、民全体で断食を行ったのです。

 また、イエス様の生きている時代においては、それ以外に、パリサイ人たちや宗教熱心な人々は、週に二度、月曜日と木曜日に断食を行っていました。

 さらにまた、バプテスマのヨハネやその弟子たちは、神のさばきを免れるために断食をして神に祈っていたのです。

 断食をすることは、決して悪いことではありません。しかし、何の目的で断食をするのか、そこはよく考えた方が良いと思うのです。

 バプテスマのヨハネやその弟子たちは、決して、イエス様に敵対している立場ではありませんでした。けれども、イエス様とその弟子たちが取税人たちと一緒に飲み食いしているのを知って、疑問に感じたのです。

 バプテスマのヨハネやその弟子たちは、自分たちが、一生懸命断食をしながら罪のさばきから逃れるために神に祈りをささげていました。一方、イエス様とその弟子たちは、自分たちの行いとは正反対の事をしていました。果たして、イエスというお方は、本当に救い主なのだろうか。そのような疑問が出てきたのです。

 また、イスラエルの人々は、パリサイ人と呼ばれる律法の指導者たちから、週に二度、断食するようにと言われていました。そして、実際にパリサイ人たちは忠実に断食をしていたのです。

 見た目だけで判断すれば、バプテスマのヨハネやその弟子たちやパリサイ人たちの方が、明らかに宗教熱心だと言えるでしょう。

 イエス様の良い評判は、かなり広い地域まで広まっていました。しかし、イエス様とその弟子たちの行動を見て、疑問に思う人たちが現れ、イエス様に直接質問したのです。

 「なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」 (続きを読む…)

2024 年 8 月 4 日

・説教 ルカの福音書13章10-21節「解放の主」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:26

2024.8.4

鴨下直樹

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 私たちは、毎週、毎週こうして礼拝に集っています。私たちは何を期待して、礼拝に集うのでしょうか。私は名古屋の東海聖書神学塾で毎週礼拝学を教えているのですが、いつもこの問いが頭に浮かんできます。何を期待して礼拝に集うのか? 私たちは神に何を期待しながら毎週こうしてみ前に集っているのでしょうか。

 今日の聖書の箇所で、18年もの間、腰が曲がってしまったまま、安息日に会堂に集い礼拝をささげていたであろう一人の女性の姿を見ることができます。果たして彼女は何を期待して礼拝に集っていたのでしょうか。

 これは、私の想像ですけれども、ひょっとすると彼女は、18年間、自分の体のことではなく、ただ神のみ言葉を聴くことを期待して、来る日も来る日も、会堂で神のみ前に集っていたのではないかと思うのです。この人は、主のみ前に出る喜びを知っていた人ではなかったか。きっとそうであったのではないかと、私には思えるのです。そして、この女の人のことを、見てきた周りの人は、彼女のことをどう思っていたのでしょうか。

 ここで彼女のことを「十八年も病の霊につかれ」と10節に書かれています。この病は、悪霊による働きだというのです。この「病」という言葉はギリシャ語で「アステネイア」という言葉なのですが、この言葉は「病」のほかに「弱さ」という意味もある言葉です。ということは、「病の霊」、というのは「弱さの霊」とも言うことができるわけです。

 そうなると、これはもう立ち所に他人事ではなくなります。自分の「弱さ」に対して悪霊がそこに付け込んでくるというのです。そうなると、私たち自身、実感があるのではないでしょうか。私たちは自分の弱い部分に気づきながらも、同じことで何度も、何度も同じ過ちを犯してしまうことがあるのです。たとえになっているかどうか分かりませんが、私の場合、車でトンネルを走っていると、気がつくといつも速度オーバーをしてしまっています。そのように、ごく日常的に、正しくないと分かっていても同じことを繰り返してしまうのです。そこに、私たちの弱さがあります。今週も愛することができなかった。振り返ってみると今週もまた、この自分の弱さが克服されていない。そんなことを繰り返しながら、礼拝に集うのです。悪に立ち向かう強さがないのです。弱さの霊に支配されているとしかいえない状況は、誰にだってあるのです。そのようにして、もう18年の間、いやそれ以上に礼拝に通い続けている。そうであるとすれば、これはもはや私たち自身の物語です。

 私ごとで恐縮ですが、私自身も腰の骨が曲がってしまっていて、来月手術することになりました。見た目は真っ直ぐに見えても、隠れたところで曲がっているわけです。見えている部分だけではないのです。体はまっすぐかもしれません。けれども、見えないところがまがっている、心が曲がっていく、ずれていってしまう。そうするとまっすぐに伸ばせなくなるのです。まっすぐがどういう状態だったかさえ分からなくなるのかもしれません。そうなると、自分の曲がってしまった弱さ、脆さに悪魔につけ込まれて、何度も同じような過ちを繰り返してしまうという経験を、私たちは繰り返してしまうのです。この、弱さのために、罪のゆえに、曲がってしまったところを持つ私たち。そのような思いを持っている私たちが、毎週礼拝に集ってくるのです。そして、そこで、主イエスは突然私たちに声をかけられる。「あなたの弱さは癒された」「あなたの病は癒された」と宣言してくださるのです。ここにこそ、礼拝に集う私たちの喜びがあるのです。 (続きを読む…)

2024 年 7 月 28 日

・説教 ルカの福音書13章1-9節「神の裁きは因果応報なのか?」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:11

2024.7.28

鴨下直樹

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 今日からルカの福音書の第13章に入ります。今日の説教題を「神の裁きは因果応報なのか?」としました。今日は、このところから「因果応報」という考え方について、少し考えてみたいと思います。

 私が神学生の時のことです。名古屋の金山にある神学塾の建物は、当時は今の場所とは少し違うところにありましたが、神学塾の周りには駐車場があまりありませんでした。また、当時は神学生で経済的に苦しかったこともあって、神学塾へ車で行くと、駐車場に停めないで、塾の建物のすぐ隣の道路に停めるということがありました。そんなある日、とうとう駐車違反で車をレッカー移動されてしまったことがあります。

 駐車違反だけなら反則金だけですみますが、レッカー移動されますと罰金が跳ね上がります。だいたい当時で4万円弱。お金が無いから路駐するわけですから、4万円も払えるわけがありません。私が神学塾でそのことを嘆いていると、友達の塾生が私にこう言いました。

「やっぱりねぇ、日頃の行いが悪いからだよ」と。

 そこで、私がこう言い返しました。

「クリスチャンでもやっぱり日頃の行いは大事なのかなぁ」と。

 その友人は、私の一言でようやく、自分が変なことを言ったと気付いたようです。いくら神学生でも、自然に、「日頃の行いが悪いから」というセリフが出てしまうわけです。そのくらい、私たちには「因果応報」という考え方が体に染み込んでいるようです。

 今日の聖書は、まさにこのことを問いかけているところです。まず、1節に「ちょうどそのとき」とあります。12章の話を主イエスが弟子たちにしていた「ちょうどそのとき」です。

 「そのとき」というのは、主イエスが弟子たちに神の裁きの厳しさを語っていた、まさにその時に、何人かの人々が主イエスの近くにやってきて、一つの報告をしたのです。聞くところによると、エルサレムの神殿で捧げ物をしていたガリラヤ人が、ユダヤの総督ピラトに殺害されて、神殿で捧げ物にしていた血と、殺害された人々の血が一緒にされたという事件が起こったようなのです。

 これは、ガリラヤの人々のみならず、ユダヤ人たちには衝撃的なニュースだったはずです。今で言えばトップニュースが飛び込んできたわけです。

 そこでそのニュースをもたらした人々は主イエスにこんな質問を投げかけたようです。2節で主イエスはこう言われました。

「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。」

 主イエスはここで人々の顔を見ながら、その思いを代弁したわけです。この神殿で捧げ物をしていたガリラヤ人たちは、信仰的には熱心な人々だったはずです。熱心にガリラヤから、わざわざ神殿のあるエルサレムまで訪ねて捧げ物をしたのに、その時に、ピラトの事件に巻き込まれるなんて、災難もいいところだ。けれども、きっとこの人たちは何か悪いことをしていた人であったに違いない。多くの人々はそう考えていたと思われるのです。

 私自身も、レッカー移動された車を取りに行く時に、心の中で同じようなことを考えました。「あれ?俺、何か悪いことをしたかなぁ」そんな考えが、一瞬私の頭に思い浮かんだのです。

 皆さんはいかがでしょうか。自分の身に何か不慮の出来事が起こると、何か悪いことをしてしまったから、こういう出来事が起こったのではないかと考えてしまうことがあるのではないでしょうか。

 さらに、主イエスはもう一つの出来事を例にあげます。4節ではシロアムの塔が何らかの原因で倒壊して、その下敷きになって18人の人が亡くなったという例をあげたのです。それが嵐や地震というような「自然災害」だったのか、「人為的なミス」なのかは分かりませんが、そういう時の犠牲になってしまう人というのが少なからずあるわけです。

 今でも街中で倒れたクレーン車の下敷きになってしまったとか、古くなった建物の壁が剥がれ落ちて犠牲者が出たとかいうニュースを、私たちは耳にすることがあります「不慮の事故」としか呼べないようなものがあるのです。

 そういう出来事で犠牲になった人は、「因果応報」とか、「神さまの罰(バチ)が当たったのだ」と言われてしまうと、たまったものではありません。けれども、時としてそんな考えが頭に思い浮かぶこともあるわけです。

 そこで、主イエスは何と言われたかというと、3節と5節で主イエスは同じことを2度繰り返してこう言われました。

「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

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2024 年 7 月 21 日

・説教 マルコの福音書2章13-17節「医者を必要とするのは病人」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:38

2024.7.21

内山光生


序論

 昨日行われた子ども食堂は、97名の参加がありました。毎回、たくさんの方々が芥見教会の子ども食堂に来てくださっていることを神様に感謝いたします。

 子ども食堂では、毎回、メニューが違っていて、よく工夫されているのが分かります。準備をして下さっているボランティアの方々に感謝をいたします。

 小学・中学・高校といよいよ夏休みに入ったと思います。今週は、猛暑日が続くと予報されているので、外で遊ぶよりも室内のクーラーのきいた部屋で過ごすのが良いかもしれません。夏バテにならないよう私も気をつけたいと思います。では今日の箇所を見ていきましょう。

I 召しに応じたレビ(13~14節)

 13~14節を見ていきます。

 この前の箇所は、イエス様がカペナウムの家で中風の人を癒した出来事が記されていました。そして今日の箇所13節では、イエス様はカペナウムの町を出てガリラヤ湖のほとりへ向かった事が記されています。

 イエス様の評判はガリラヤ地方全体に広められていました。それで、群衆がイエス様のもとに集まってきたのです。そして、イエス様は群衆に福音を宣べ伝えたのです。

 14節に移りますと、恐らくカペナウムから割と近い場所と思いますが、イエス様は、レビという取税人が座っているのを見つけました。レビとは、あの12弟子の一人、マタイの事を指しています。恐らく元々の名前がレビであって、弟子になった時、マタイという名前が与えられたのでしょう。

 レビすなわちマタイは、取税人という仕事をしている人です。ですから、最初の弟子に選ばれたペテロたちとは違って、人々から嫌われていた職業の人だったのです。

 取税人は、ローマ帝国の手下となって同じユダヤ人であるにもかかわらず、同胞のユダヤ人から法外な税金を取りたてていました。ですから、今で言う税務署とは、やっている事が異なっていたのです。当時の取税人は、例えば、本来1万円の税金を集めればよかったところを、その何倍も、つまり、2万円とか3万円を集めていたと言われています。そして、1万円だけをローマに収め、残りを自分のふところに入れていたのです。

 こんなおかしな事が、どうして許されるの? と疑問に思うかもしれません。しかし、当時のローマ帝国は、自分たちにきちんと税金を収めてくれれば、余分に税金を集めていようが見て見ぬふりをしていたのです。

 当時の多くのユダヤ人たちは、取税人を嫌っていました。そして、彼らと仲良くすることはありませんでした。

 にもかかわらず、イエス様は取税人レビに声をかけたのです。「わたしについて来なさい」と。ここに人間の感覚と神様の決断とに大きな違いがあるのです。

 ある人々は、イエス様の弟子となって福音を伝える働きをするのならば、人々から信頼されている仕事についている人がいいに違いないと思うかもしれません。確かに、そういう場合もあると思うのです。しかし、神様が誰を招くかに関しては、私たちの常識や感覚とは異なっているのです。

 レビは、すでにイエス様の評判を聞いていたと思うのです。もしかしたら、直接、イエス様の話を遠くから聞いていたかもしれません。あるいは、間接的だけれども、誰かから良いうわさを聞いていたかもしれません。しかし、そんなお方が自分に声をかけて下さるなんて、驚くべき事であったに違いありません。 (続きを読む…)

2024 年 7 月 14 日

・説教 マルコの福音書2章1-12節「罪を赦す権威」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:37

2024.7.14

内山光生


序論

 最近、蝉の声がよく聞こえてくるようになりました。すでに何度か、真夏日となった日がありますが、もうすぐ梅雨が明けて、いよいよ夏本番を迎えようとしています。

 私は4月から芥見教会で奉仕をさせて頂いていますが、あっという間に4か月目となっていることに驚きを覚えます。この調子だと、すぐに1年が過ぎ去るのではないかと感じるのです。

 では順番に聖書を見ていきましょう。

I 中風の人が運ばれてくる(1~3)

 1~3節を見ていきます。

 前回の箇所は、ツァラアトに冒されていた人がイエス様によって癒された出来事が記されていました。それから数日経ってイエス様はカペナウムに戻ってきました。

 カペナウムの町の人々は、イエス様の評判を聞いていたものの、まだ、直接イエス様に会っていない人々が大勢いたと思われます。あるいは、もう一度、イエス様に会いたいと思っていた人もいたと思うのです。それで、イエス様が滞在している家に、多くの人々が押し寄せたのです。

 イエス様が滞在している家の中には、大勢の人が集まりました。更には、戸口のところまでびっしりと人で隙間がないほどになりました。そして、イエス様は、人々に向かって福音を宣べ伝えたのです。

 イエス様が地上世界に遣わされた目的は、あくまでも人々に福音を伝えることです。とはいえ、病で苦しんでいる人を癒したり、悪霊によって苦しんでいる人を解放したりして、助けが必要な人々に対して愛の御手を差し伸べました。

 この時も、イエス様は福音を伝えていたのですが、中風の人が連れてこられたと記されています。中風とは、現代の医学において、恐らく、脳卒中のような病だと考えられます。今の時代においても、脳卒中になると、後遺症が残って、身体の一部分が不自由になることがあります。そうなると、一人で生きていくことが難しくて、誰かの助けによって生活が成り立つのです。

 ここで登場してくる「中風の人」も、自力ではイエス様の元に歩いていくことができない人でした。それで、この人の家族あるいは仲間など四人の人の助けによって、イエス様に治してもらおうとやってきたのです。この姿を通して、この中風の人が周りの人々からどれ程大切にされていたかを垣間見ることができるのではないでしょうか。身体の不自由な人をなんとかして助けたい、その一心で、イエス様が戻ったとの情報が入るや否や、イエス様の元にやってきたのでしょう。 (続きを読む…)

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