・説教 ルカの福音書15章8-10節「再発見する喜び!」
2024.12.29
鴨下直樹
今日は今年の最後の礼拝となりました。最後というと、どうしてもこの一年を振り返りたくなります。皆さんにとって、この一年はどんな一年だったでしょうか?
先日のイブ礼拝の時にも少しお話ししたのですが、今年はお正月から能登の地震がありました。また、その後も何度も地震や水害が起こって、被災地域の人々には本当に厳しい一年となりました。ウクライナとロシアの戦争は更に拡大しましたし、イスラエルとハマスの戦争も起こりました。教会でも今年は2名の方が天に召されました。悲しい知らせの多い一年であったと言えます。
そんな中で、今日はMくんの洗礼式をすることができました。天にある、いのちの書に名前が書き記される人が増えるということは、この上もない喜びです。主が一年の最後に私たちに大きな喜びを備えてくださいました。
今日の聖書のみ言葉は次のように書かれています。「一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」と10節に記されているように、今、御使いたちの前には大きな喜びが湧き起こっています。そして、私たちも今、大きな喜びの中にあります。
この世界のことを愛しておられる主は、この世界で起こる悲劇的な出来事の数々に心を痛めておられます。しかし、同時に救いに至る人々のことを神の御国では大きな喜びでお祝いしてくださるのです。今日は祝いの日です。教会の暦の中では今週から降誕祭です。主の御降誕を皆で喜んでお祝いする日です。そして、洗礼を受けて神の国の民に加えられたMくんのことを覚えて共にお祝いする日でもあるのです。
今日の聖書は私たちに「救いとは何か」を語ります。救われるというのは、どういうことなのか。そのことが、このルカの福音書には三つの譬え話で記されています。前回は、1節から7節までのところを読みました。ここには見つけ出された羊のことが記されていました。ここで語られている救いというのは、神に見つけ出されることです。ひとつ目の譬え話では、見つけ出されるということは、いのちが救われることだということが記されていました。迷い出た羊が陥っている危機というのは死の危険です。羊が迷い出てしまったままでは、常に死が傍に潜んでいるのです。けれども羊飼いに見つけ出された羊は、死の危険から抜け出すことができます。いのちが贖われること、確かないのちに入れられること、これが聖書の語る救いです。これを聖書は「永遠のいのち」という言葉で紹介しています。救いとは、死の危険から救い出されて、永遠のいのちを頂くことなのです。
今日洗礼を受けたM君もそうです。今日から、M君はたとえ死ぬことがあったとしても、神から永遠のいのちを頂いていますから、死の滅びを味わうことなく、神の御国で永遠に生きる者となったのです。だから、嬉しいのです。お祝いするのです。それが、前回の1節から7節までで語られている救いです。
では、今日の8節から10節には何が書かれているのでしょうか。この譬え話も、迷い出た羊の譬え話と非常に似ている話です。けれども、羊の場合は自分の意思で迷い出てしまうのですが、お金には意思はありません。ドラクマ銀貨10枚のうちの1枚が無くなってしまったというのです。「失われたお金、銀貨」の話です。
皆さんはお金を無くしてしまったという経験があるでしょうか。私はこれまでに2回お金を無くしてしまったことがあります。一度目は神学生の時のことです。神学生の時というのは、いつもお金が無くて大変でした。私は岡崎の教会で奉仕し神学生として受け入れてもらって、そこから名古屋の神学塾に通っていました。ある時、当面使う予定の無い3万円を持っていました。そのお金をどうしようかと考えた私は、めずらしく「へそくり」をしようと思いまして、本の間にそのお金を挟みました。いつも使う本では、へそくりにならないと考えた私は、しばらく開きそうにない本の間に、この3万円を隠したのです。
しばらくは、このお金の存在も忘れてしまっていたのですが、ある時、急にお金が必要になって、ついにこの「へそくり」の出番が来るはずだったのです。ところがその時になると、どれだけ探しても肝心のお金が出てこないのです。どの本に挟んだのかも、もはや思い出せません。その時は、すべての本を開いて探したのですが、どこからも出てきませんでした。どうしてかは分かりませんが、考えられるのは誰かに貸した本の中に挟んであったのか、あるいはその頃、お金が無いと持っている本を古書店に売りに行っていたので、そういった本の中に挟んでしまったのかもしれません。それ以来30年が経過しましたが、いまだに出てきていないのです。もっとたくさん勉強して、いろんな本を開いていたら、そのうちひょっこりと出てきたかもしれませんが、残念ながら、そんなことは今日まで起きていませんので、処分した本の中に挟まっていたのだろうと思うのです。
ですから、このお金を無くしてしまった譬え話は、私にもよく分かる話です。必死になって探すのです。ここには「明かりをつけ、家を掃いて、」とあります。この時代の家は窓が無くて暗い部屋だったので、探し物をしようとすれば明かりを灯す必要があります。ランプの油もお金がかかりますが、背に腹は代えられません。そこまでしてでも、必死に探すのです。
しかし、主イエスはこの救いの譬え話をされる中で、どうして人の救いをお金にたとえて話されたのでしょうか。そこがとても興味深いところです。
8節に、この女の人が持っていた銀貨はドラクマ銀貨だと書かれています。しかも、その銀貨の価値は欄外の注を読むと「1ドラクマはローマ銀貨の1デナリに相当し、当時の1日分の労賃に相当」と書かれています。
単純に、今の労賃を1日1万円と計算すると、この女の人は10万円持っていたことになります。女の人が銀貨を10枚持っている。ひょっとすると、このお金は女の人の結婚の持参金であったのかもしれません。そのうちの1枚が無くなってしまったわけで、きっとそのお金には色んな思い入れがあるのだということが想像できます。
「猫に小判」という諺があります。今日の聖書を理解するために、この諺はとても重要な意味を持ちます。お金には、その額面通りの価値が保証されています。1ドラクマ銀貨であれば、1ドラクマの価値があります。1万円には1万円の価値があります。当たり前のことです。ところが、小判を猫が持っていたらどうか? 猫にとっては、小判の価値は意味を持ちません。買い物をしないからです。いくら猫が小判を大切に握りしめていたとしても、「猫に小判」なのです。「猫に小判」というのは、「どんなに価値が有るものでも、本人にその価値が分からなければ何の値打ちも無い」という意味の諺です。
お金は、お金そのものだけでは価値を発揮できないのです。失われてしまったお金は、どこかの片隅に落ちていていたとしても、そのお金を使う人がいなければ、その価値は発揮されないのです。そして、これこそが主イエスが人の救いをお金に譬えられた意味だと言えます。
主イエスは救いを説明される中で、「失われた銀貨」の譬え話をなさいました。もう一度見つけ出された銀貨、「再発見された銀貨」というのは、「あるべき所に戻って、ようやくその価値を取り戻すことができた」銀貨なのです。
つまり、主イエスがもたらしてくださる救いというのは、失われた私たちもまた同様に、私たちの価値を分かって正しく使ってくださるお方の所に戻ってきて、ようやく私たちの本来の価値が発揮されるのだという譬え話なのです。
小判そのものに価値が有るわけではないのです。その小判を使うことのできるお方の手の中にあって初めて、その価値が取り戻されるのです。そのように、私たち自身の価値を発揮するのは自分自身ではなくて、私たちを使ってくださる方の御手の中にあって、ようやく私たち自身の本来の価値を取り戻すことができるようになる。主イエスはこの譬え話を、そのような意味を込めてお語りになっておられるのです。
主イエスはここで私たちの価値の再発見を救いとしてお語りになっておられるのです。人生の意味についてです。私のいのちの価値、いのちの尊さは自分が決めるのではありません。そしてそれは、誰か他の人が決めるのでもないのです。会社が決めるわけでもないし、親が決めるわけでもない。私のいのちの本来の価値を知っておられるお方は、私を創造し、私を支配し、私に期待しておられる主なる神以外に無いのです。だから、私たちは私たちの価値を、私たちの生きる理由を握っておられるお方のことを、「主」とお呼びするのです。
10節にこうあります。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。
羊が悔い改められないように、銀貨は悔い改められません。自らの意思で価値を取り戻すことはできないのです。見つけ出してくれた女の人の手の中にある状態のことを、ここでは「悔い改め」と呼んでいます。どうやって主人の手の中に戻ってきたのか、その方法はここでは問われていません。大切なことは、今この失われた銀貨は主人の手の中にあるという事実、それがが大切なのです。
今日、私たちは洗礼入会式をいたしました。一人の罪人が、あるべき主人の手の中に戻ったのです。そして、今から主は、主が期待しておられるように、その価値を発揮させてくださることでしょう。そのことを私たちは期待したいのです。それは、天にとって、主にとってどれほど嬉しいことでしょう。
すでに洗礼を受けておられる方も、同様にこのことを今日思い出して頂きたいのです。主は私たちの本来の価値を取り戻してくださいました。私たちは、すでに主の御手の中にある1ドラクマ銀貨と同じです。私たちの本来の価値は主によって取り戻されているのです。あとは、主に私たちを用いて頂いたら良いのです。それぞれの賜物に従って、それぞれの今できることを、喜んでしていくことができたら良いのです。
今年の年間聖句を覚えておられるでしょうか?
一切のことを、愛をもって行いなさい。
コリント人への手紙第一 16章14節のみ言葉です。これが、今年私たちに与えられた年間聖句でした。今年の、芥見教会の大きな変化の一つは、子ども食堂を始めたことです。まさに、教会がこの地域に行う愛のわざです。毎月のように約100名の地域の方々が参加してくれています。ボランティアをしてくださる地域の方だけでも毎月20名は与えられています。地域としても愛のわざを行ってきましたし、この地域に向けて愛を示すことができた一年であったと言うことができます。
このような働きの中では、直接的には伝道することができません。けれども、私たちはこのような働きを通しても、失われた人たちの価値を再発見したいという主の救いの愛を示そうとしているのです。失われた価値の人を探し出し、失われたいのちを探し出したいと考えているのです。そのような働きを通して、もう一度自分のいのちを取り戻し、もう一度自分の価値を再発見することができることを願っているのです。
また、今週の水曜日には新しい一年を迎えようとしています。年間聖句はまた新しく変わりますが、私たちの愛のわざは変わることなく行われていくのです。こうして、主の救いの御業を私たちは行い続けていきたいのです。
一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。
この御言葉に支えられて、主が喜んでくださる働きを私たちは続けていきたいのです。
お祈りをいたしましょう。