2023 年 8 月 13 日

・説教 ルカの福音書8章19-21節「神の家族=み言葉を聞いて行う者」

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2023.8.13

鴨下直樹

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 今、私たちの教会では「信徒交流会」ということで、夏の間の祈祷会は、信徒の方々が担当してくださっています。担当になってくださる方はほとんどみなさん証しをしてくださっています。先週は、水曜日は私の娘のキャンプの報告と、Sさん、木曜日はMさんが証しをしてくれました。

 先週話してくださった方も、その前に証ししてくださった方々もそうですが、決まって家族のことを取り上げられます。特に、木曜に話してくださったMさんは、今は結婚して山口県の岩国におられますが、今ちょうど帰省してきておられます。その証しでは、信仰に至るまでの、クリスチャンホームで育った中での葛藤をお話しくださいました。その証しをお聞きしながら、改めてクリスチャンホームの家庭の子どもたちが信仰に導かれる難しさというものに気付かされます。

 先週の説教でも少しお話ししましたけれども、私たちは今、全体主義の世界に生きてはおりません。個人が尊重される時代のなかで生きています。家族がクリスチャンだから、子どもの自分もクリスチャンになるように期待されていることは分かるわけですが、親の信仰と、自分はまったく別物です。いくら親が強制したとしても、自分で神様と出会うことなしに自分の中には信仰心は生まれません。この神様との出会いというのは、自分で神様とお会いして自分の心が動かなければどうにもならないことです。

 今日の聖書の箇所はまさに、主イエスの家族はどうであったのかということが記されています。

 19節にこのように書かれています。

さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。

 主イエスのところに主イエスの母と兄弟たちが訪ねてきたというのです。

 その続きはこのように記されています。20節と21節です。

それでイエスに、「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」

 イエス様の家族の立場で考えるとちょっと悲しい気持ちになってしまいます。ただ、ここを読んだだけでは、主イエスは結局のところ兄弟たちと会ったのか会わなかったのかははっきりしません。

 私たちはこれと同じ出来事がマルコの福音書にも書かれていることを知っています。そこでは、主イエスがおかしくなってしまったのではないかという噂が広がって、家族が主イエスの活動をやめさせるためにやって来たという流れで書かれています。

 ところが、ルカはそういう流れでは書いていませんので、マルコの福音書のことは一度忘れていただいて、ここを読んでいただきたいと思います。 (続きを読む…)

2023 年 8 月 6 日

・説教 ルカの福音書8章16-18節「明かりのもたらすもの ―聖書とキリスト教の歴史のはなし― 」

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2023.8.6

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は前回の種まきの譬えの続きの部分です。この18節には、種まきの譬え話の全体の結びが記されています。最初の予定では先週この18節までを扱う予定にしていたのですが、二週に分けてお話しすることにしました。ですから、覚えていただきたいのは今日の箇所は先週の種まきの譬えと一つの話だということです。そのことを初めに踏まえておいていただいて、この16節以下の部分の、み言葉に耳を傾けたいと思います。

 さて、今日の譬えは「明かりの譬え」です。16節にこうあります。

明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします。

 この主イエスの譬え話そのものは、単純明快です。明かりには、暗い部分に光をもたらす役割があるわけで、その役割を果たさないようにはしないでしょということです。ところが、この分かりやすい譬え話を聞いて、私たちは皆、誰もが同意できるかというとそうではないわけです。

 「明かり」というのは、この場合何を指しているかと言えば「神の国の福音」のことであることは明らかです。じゃあ私たちは、この「神の国の福音」を、誰から見ても、その光に照らされるように掲げて生きていますか? と問われたらどうでしょう。

 安倍元首相銃撃事件以降、キリスト教カルト集団のことが連日報道されました。統一教会とか、エホバの証人のようなカルト教団のことが取り上げられて「宗教二世」という言葉で、宗教を信じる家の子どもたちは可哀想だという論調が生まれました。ただ、この「宗教二世」という言葉は、どんどん一人歩きしていって、宗教を子どもに強要することの問題点がクローズアップされています。専門家は、ちゃんと「カルト二世」と言った方が良いという主張をしていますが、あまりそういう意見は取り上げられません。そして、日本人の多くは何かの関わりがある神道も仏教も、キリスト教も総じて宗教というものは悪いものだという理解になりつつあります。

 昨日もある方と話していたのですが、自分の子どもに教会へ行くことを強要しないようにしていると話しておられました。とても残念なことですが、親の通う教会に子どもを連れていくのは悪いことをしているような感覚が最近では生まれてきてしまったようです。

 こういうご時世ですから、私たちキリスト者も「私はクリスチャンです」ということを公にすることに抵抗を感じるようになった人たちも少なくありません。

 いくら聖書が「明かりは燭台の上に置いて、光を見えるようにするのです」と言っても、「いや、今は隠しておいた方が賢い選択なんです」という声の方が勝ってしまうような社会に、私たちは置かれているのです。

 けれども「明かり」というのは、その性質上、隠せるものではありません。そのため、クリスチャンの家族の中でも、子どもに信仰教育をする上で葛藤があるのだと思います。子どもに信仰を強要するのか、自分で選び取ってもらうのかというのは、いつの時代も振り子のように揺れ動いています。 (続きを読む…)

2023 年 7 月 30 日

・説教 ルカの福音書8章4-15節「神の言葉をどう聞くか?」

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2023.7.30

鴨下直樹

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 昔、「のらくろ」という漫画がありました。ご存知ない方も多いと思いますが、犬たちを主人公にした、戦争をテーマに扱った少しユーモラスな漫画です。この「のらくろ」の作者は田河水泡さんといいますが、この方はキリスト者です。この田河水泡さんが晩年、「のらくろ」を書くのをやめたあと、キリスト教をユーモアで紹介したいと『人生おもしろ説法』という本を書かれました。

 その本の中に「名画の切り売り」という話があります。

「画商さん、この額に入っているセザンヌの静物だがね、こんな大きな絵は私の部屋には大きすぎるので、はじっこの果物一個だけ、切り取って売ってもらえないかね」

 そんな会話からはじまります。もちろん無理な注文です。作品を一部だけ切り取ってしまっては絵全体の構図がだめになって、作品としての価値がなくなってしまいます。

 そこで、こんな話を書いています。あるところに、クリスチャンとして非の打ちどころのない人がいました。でも、その人は形式というものが嫌いで、洗礼だけは受けなかった。洗礼は形式だけだからそんなのはいらないと言っていたというのです。

 でも、田河さんは、これはセザンヌの絵を一部だけ切り売りして欲しいというようなものではないかと書いています。自分の都合しか考えない身勝手な要求で、そんなことをすればそのものの価値を失ってしまうことになるというのです。

 今日の説教題を、「神の言葉をどう聞くか?」としました。この箇所でも、同じようなことが言えるのかもしれません。私たちは、聖書から、神の言葉を聞くのですが、そこで自分の気に入ったところだけ切り売りするかのように、部分的にしか聞き取っていないと、同じことになりかねないのではないでしょうか。

 今日の聖書箇所は主イエスのなさった譬え話です。「種まきのたとえ」とか「四つの土地のたとえ」などと言われる譬え話です。実は、この譬え話は、譬えなだけにいろいろな解釈が存在します。み言葉をどう聞くか? というのがテーマの箇所でありながら、一部だけを切り取るようなさまざまな解釈が出てくるのです。

 というのは、種のたとえなのか、土地のたとえなのか、種を蒔く人のたとえなのかで、読み方は全然変わってくるのです。それこそ、その中にはみ言葉を聞いた時の受け取り方のタイプとして四つあるというような話をすることが多いと思います。そうすると、自分は「良い地」なのか、それとも「いばらタイプ」なのか、「岩地タイプ」なのか「道端のカラスタイプ」なのかを考えて、自分はこのタイプだから、私はどうもダメみたいという話になってしまいます。

 このような読み方は、一般的でよく耳にすることがあると思うのですが、そのように読んでしまうと、結局私はダメで、実を実らせることのできないダメなクリスチャンだという話になってしまいます。

 あるいは、こういう解釈もあります。この土地は私たちの心の中の姿で、み言葉を受け入れる準備のできている「良い土地」の部分と、耕されていない道端や、岩地や、いばらの生えた「悪い土地」の部分とがあるのではないかという解釈をする場合もあります。人の心の中に、み言葉を受け入れやすい場所や、頑なな部分があるのではないかと読むこともできるのです。私自身も、そのように解釈して話したこともあります。

 ただ、そのように読むと、私たちの心を少しずつ良い地として耕していきましょうという話になってしまうこともあります。そうなると、もはや福音ですらなくなってしまいます。頑張って心を耕しましょうという努力目標になってしまうからです。

 聖書を読む時に私たちは分かりやすく聖書の言葉を受け取ろうとするのですが、話を単純化してしまうと、この箇所が語ろうとしていることがつかめなくなってしまいます。この譬え話はルカだけでなく、マルコの福音書にも載っています。マタイの福音書にも載っています。けれども、どの福音書も同じ譬え話を、同じように語っているわけではないので、それぞれの文脈を注意深く見極めて聖書の言葉を受け取る必要があります。

 この種は明らかに「神の言葉」のことを語っています。これは、聖書の言葉と言ってもいいし、説教のことと言ってもいいものです。 (続きを読む…)

2023 年 7 月 23 日

・説教 ルカの福音書8章1-3節「主イエスに従う女性たち」

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2023.7.23

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所はとても短いところで、主イエスに従った女性たちのことが記されていますが、歴史家と呼ばれるルカならでは、の、とても貴重な聖書箇所といえます。

 というのは、この箇所に続いて、この8章では、主イエスが種まきのたとえ話と、燭台のあかりのたとえ話をなさいます。このたとえのテーマは「隠れているものと明らかになるもの」です。

 そして、今日の箇所はこのたとえ話をする前の導入として、この1節から3節が配置されています。そこからも、ルカがどんな意図をもって、この話をここにおいたのかが見えてきます。

1節にこのようにあります。

その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。

 ルカはここで、主イエスと十二弟子との宣教がはじめられたことを書いています。私は先日の祈祷会でこの話をした時にはすっかり失念していたのですが、6章の12節以下で十二弟子のことが取り上げられていまして、弟子たちのことを「使徒」と呼んだという記録がすでに記されております。この8章では、主イエスの神の国の宣教に、この十二弟子たちを伴ったことが短く記されていますが、読んでみるとルカの関心は、十二人の弟子よりも、むしろこの後の2節と3節に記した女性の弟子たちに向けられていることが分かります。

 2節と3節にこう記されています。

また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。

 このように書かれています。この「悪霊や病気を治してもらった女たち」という言葉は、このマグダラのマリア以外にも、2節には「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。」とありますから、主イエスに仕えた女の弟子たちの多くは、主に悪霊や病気を治してもらった人たちが多かったことが分かります。

 このマグダラのマリアをはじめ、クーザの妻ヨハンナも、スザンナも、その他の主イエスに付き従った多くの女の弟子たちは、主イエスによって病気や、悪霊から解放されたという救いを経験して、主に従う者へと変えられたのです。

 特に、ここにはじめて名前が登場してきますこのマグダラのマリアというのは、一体どういう人なのでしょうか? (続きを読む…)

2023 年 7 月 9 日

・説教 ルカの福音書7章36-50節「あなたの罪は赦された」

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2023.7.9

鴨下直樹

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 人が涙を流す時には様々な涙があります。悲しみの涙や、怒りの涙というものもあるかもしれません。惨めさを感じる時に涙を流すこともあるでしょうし、嬉しくて流す涙というのもあると思います。いずれにしても、涙が流れる時というのは、その人の中である限界を超えた時に、涙が流れるのだと思うのです。

 自分の話で恐縮なのですが、私が小学一年生の時のことです。国語の時間に「詩を書いてみよう」という時間がありました。クラスのみんなは紙にさらさらっと詩を書き始めたのですが、私は何を書いていいか、全く思い浮かべることができませんでした。

 私が何も書けないのを見た担任の先生は、「嘘でもいいから何か書け」というアドヴァイスをくれました。今思えば、先生はとにかく何か書かせることに必死だったのだと思うのですが、このアドヴァイスは私にはとても効果的でした。実際に起こったことでなくていいなら、何か書けるかもしれないと思ったのです。

 そこで私は「お母さんが泣いた」という詩を書きました。その詩は、もう手元に記録がありませんので、完全ではないのですが、大まかにいうとこんな内容の詩です。

お母さんが泣いた。
僕は、お母さんが泣いているのを見て、心配になって、お母さん大丈夫? と聞いた。
すると、お父さんが、僕に「あれは嬉し涙だよ」と言った。

 ざっくりいうとそんな内容の詩です。ちょっと凄くないですか? 小学一年生の私。この時の詩が、当時の小学校が出していた、すべての親に読まれる学校新聞の表紙を飾りました。たぶん、私の人生で、もっとも人から褒められたのは、後にも先にもこの時以外には記憶にありません。

 涙には、悲しい涙だけではなくて、嬉しい涙もあるはずだと、なぜかその時私は思って、この詩を創作したわけです。もちろんそんな事実があったわけではないのです。ただ、たぶん学校の先生をはじめ、多くの人は鴨下家の生活の一部を切り取った詩だと思ったのではないかと思うのです。近所ではずいぶん評判になって、良い証になったのだと思います。ですが、実際には当時五人の子どもを抱えていた我が家に、そんな麗しい光景はありませんでした。担任の先生のアドヴァイスによって生まれた私の想像の産物だったわけです。

 今日の聖書にも、一人の涙を流す女性が登場します。ここには名前も記されておりません。書かれているのは「その町に一人の罪深い女がいて」とあるだけです。この罪深い女の人が、主イエスと出会うまで、どんな歩みをしていたのかは、書かれていないので分かりません。想像するしかないわけですが、この「罪深い人」というのは、「遊女」などと呼ばれ、性的な罪を犯していた人だと思われます。当時のイスラエルは倫理的に非常に厳しい国で、誰かから訴えられたりすれば、石打ちの刑にされて殺されることもある時代です。私たちが今日の「娼婦」とか「売春婦」というイメージから来る、そういう仕事をしながらも逞しく生きている人とはまた少し異なるのだとも思います。今よりももっと生きにくい時代です。表立ってはいないけれども、誰もが知っているというようなことであったようです。

 そういう女性が、どこで主イエスと出会ったのかは分かりませんが、すでに主イエスの語る言葉を聞いたのか、あるいはどこかで癒やされた人なのかもしれません。その女の人が今日の箇所に登場してきます。

 主イエスはこの時、パリサイ人の家に招待されておりました。この人の名前は後で「シモン」という名であったことが記されています。シモンがどういう思いで主イエスを招いたのか、その理由もここにははっきり書かれていませんが、主イエスのことを知りたいと思ったから、主イエスを招いたのでしょう。ところが、そこに、この罪深い女がどこからともなく現れて、主イエスの足元で涙を流し始めたのです。 (続きを読む…)

2023 年 7 月 2 日

・説教 ルカの福音書7章24-35節「神の国に生きる偉大な者として」

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2023.7.2

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は、バプテスマのヨハネの質問の続きの部分です。ヨハネは主イエスが、聖書に約束された「救い主」なのかを確認したいと願っていました。この時の主イエスのお答えから、ヨハネ自身も主イエスにつまずいていた可能性が考えられます。そこで、主イエスは、ご自身のことをお語りになり、主イエスがこの世にあって何をなそうとしておられるのかは、その行いを見れば分かるでしょうとお答えになられました。すると、ヨハネの弟子たちは帰って行きました。

 今日の箇所はその後の出来事です。今日の箇所は主イエスがずっとおひとりで語り続けておられる部分です。主イエスはここで何を話しておられるのでしょうか?

 聖書の学び会で、私がいつも最初にする質問は「ここには何が書かれていますか?」という質問です。その質問をしますと、皆さん、もう一度聖書を落ち着いて読み始めます。そして、できるだけ短い言葉で、何が書かれているかを言い表そうとします。聖書を読む時には、そのように読んでいくことが大切です。まず、文脈を読み取るのです。そうすると、前に何が書かれていたのかを、もう一度考えてみる必要がある時があります。場合によっては、この後の文章に何が書かれているかにまで目を向ける必要が出て来ることもあります。いずれにしても「ここに何が書かれているか?」をしっかりと把握することで、そこに書かれている「主題」「テーマ」を見つけ出すことができます。

 ここには、「主イエスから見たバプテスマのヨハネの評価」が書かれていると言えるでしょう。そして、それと同時に人々の評価も語られていることに気が付きます。

 当時の多くの人々は荒野で悔い改めを語るバプテスマのヨハネの噂を耳にして、荒野にヨハネを見に出かけました。ところが、ヨハネの語ることを受け入れた人々もいたのですが、受け入れなかった人たちも多かったのです。

 30節でこう言っています。

ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。

 当時のイスラエルの宗教指導者たちは、ヨハネの語る言葉を聞いたのですが、受け入れなかったのです。受け入れなかったということは「神のみこころを拒んだ」ということなのだと、ここで主イエスは言っています。

 つまり、どういうことかというと、当時の人々は、ヨハネが語っている悔い改めは、神のみこころと違うことをしていると思っていたということです。

 ヨハネも異なる救い主像を持っていたのだとすれば、群衆が異なる救い主像を持っていてもおかしくはないでしょう。そして、それは、聖書に慣れ親しんでいるはずのパリサイ派の人々や、律法学者たちにまで及んでいたというのです。今日でいえば、教会の牧師たちも、聖書がちゃんと理解できていませんでしたということになるわけです。それほどのズレがあったというのです。

 「救い主」というのは、煌びやかな服を身に纏い、立派な身なりをしていると思っていたのでしょう。まるで、白馬にまたがるダビデのごとき王さまを期待していたのかもしれません。想像していた預言者のイメージは、荒野で粗布を着て、まるで家を失って着るものも持ち合わせていないような、ひどい風体のヨハネのような人物ではなくて、エリヤやエリシャや、あるいはイザヤやエレミヤのような人の姿だったのかもしれません。けれども、荒野にいたのは、イメージとは程遠いワイルドな風貌のバプテスマのヨハネだったのです。

 人々が抱いたのは「これじゃない感」です。聖書のことが分かっている人、というか、分かっていると思っている人ほど、この「これじゃない感」は大きかったのです。人々は頭の中で、素敵な救い主像を思い描いていましたから、おそらく、バプテスマのヨハネを目にしたら、実際多くの人がそう思ったのでしょう。 (続きを読む…)

2023 年 6 月 25 日

・説教 ルカの福音書7章18-23節「あなたは救い主ですか?」

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2023.6.25

鴨下直樹

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 信仰者にとって絶えず繰り返される問いがあると思います。それは、聖書に出てくるイエスが、本当に私を救ってくださるお方なのか? という問いです。この問いは、私たちが教会に集う度に、ことあるごとに何度も何度も繰り返される問いなのだと思います。

「本当にあなたを信じていていいんですか?」
「あなたは私の救い主で間違いありませんか?」

 このような問いかけは、私たちの信仰の歩みの中で繰り返し起こってくることがあります。

 自分の願っているように事柄が進まない時、あるいは度重なる不幸に見舞われる時、私たちはこのような疑問が心の中に浮かび上がって来るのです。

 そして、今、この問いの前に苦しんでいるのは、他の誰でもないバプテスマのヨハネなのです。

 この問いは、私たちだけの問いではないのです。聖書には、福音書の中には、主イエスが来られた時に、この問いは何度も主イエスに向けて投げかけられているのです。

 今、バプテスマのヨハネは捕えられて牢の中にいます。

 少し想像していただきたいのです。ヨハネはそれこそ命懸けで、人々に悔い改めを語り続けました。そして、「やがて救い主がおいでになる」と告げてきたのです。このヨハネがキリストだと思っていた主イエスの働きはヨハネとはまるで違う働き方をしていました。ヨハネは、人々を避けて人里離れた荒野に住み、獣の毛衣を着て、野蜜を食べ、聖くあろうとしたのです。ところが、主イエスはヨハネとは対照的で、どんどん人の中に入って行き、罪人たちと交わり、食事をし、お酒を飲みます。こうして、「大食いの大酒飲み、収税人や罪人の仲間だ」と言われるようになるのです。こうして、主イエスは人々から注目を集めます。ヨハネも主イエスも、目覚ましい働きをするのですが、形は全く異なっているのです。そんな違いが、ヨハネの中にひょっとしてイエスはキリストではないのかもしれないと考えるに十分な理由となったのではないでしょうか。

 この福音書を書いたルカは、バプテスマのヨハネの誕生の物語から書き始め、ヨハネに対して非常に丁寧な記述をしてきました。そこではマリアがヨハネの母エリサベツのもとを訪ねたことが記されていて、ヨハネと主イエスが遠い親戚であったことまで明らかにされています。ヨハネの方が年長ですから、そういう意味では主イエスのことを気にかけていたということはあったと思うのです。

 そのヨハネは、今牢獄にあって自らの死を見つめています。まもなく自分の働きが終わろうとしていることを感じ取ったのかもしれません。そんな中で、その後のことが気にならないはずはないのです。しかも、バプテスマのヨハネが願っているのは来るべき旧約聖書で神が約束された救い主・キリストを待ち望んでいるのです。期待しないわけにはいかないのです。

 「救い主」は世を救うために来られるお方、それはイスラエルをもう一度神の民として歩ませるお方であるはずなのです。

 「おかしいではないか!」そんな疑問がヨハネの中に生まれてきたとしても不思議ではなかったのではないでしょうか。救い主であるならば自分のように歩むべきではないのか、そう考えたのではないでしょうか。ヨハネの中に、主イエスのしていることは不可解なこととしか理解できなかったのかもしれません。 (続きを読む…)

2023 年 6 月 11 日

・説教 ルカの福音書7章11-17節「もう、泣かなくてもよい」

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2023.6.11

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所は、ひとりのやもめの息子の死が描き出されています。この葬儀の時の出来事です。

 葬儀の際に遺族と対面する時、どんな慰めの言葉をかけたらよいのかという思いを抱かれる方は少なくないと思います。そんな中で、私たちは「おつらいでしょう」と声をかけたり、「泣きたいだけ泣いてください」という声をかけたりすることがあるかもしれません。死を前にして、人はもはや何もすることができないのです。そのあとは、死の悲しみをどのように克服していくか、乗り越えていくかです。けれども、死の悲しみを抱いている人に「くよくよしてもどうしようもない」と言ったとしたらどうでしょう。その言葉は決して慰めの言葉にはならないのです。

 ある人は、「死は私たちに諦めを要求する」と言いました。死の後からでは、人はいっさい手出しすることができないからです。もはや抗うすべがないのです。だからこそ、私たちは、身近な人の死を経験する時に、大きな悲しみを味わうのです。どうしようもないから悲しみを覚えるのです。誰にも、もはやどうすることもできません。そんな中で、私たちは神に慰めを見出そうとするのかもしれません。

 今日の聖書箇所は、百人隊長のしもべの癒しの出来事に続いて、ナインという町に主イエスがいかれた時のことが記されています。このナインで、ある母親の一人息子が死んで担ぎ出される場面に、主イエスたちは出くわしました。そして、主はこのやもめの息子をよみがえらせたのです。

 こういう奇跡の記された聖書を読むと、「なぜ主は今も生きて働いておられるお方なのに、今同じような出来事が起こらないのだろう」という思いが、どこかでよぎるのかもしれません。毎日の歩みの中でも、同じような思いを抱くことがあります。どうして、こんな悲しみを神さまは私に経験させるのかと思うことがあります。それは、死の悲しみにとどまらず、病を患うときも、困難な経験をする時も、あるいは自分の子どもに何か思いがけないことが起こるときも、そのように思うのだと思うのです。

 ここに出てくるやもめは、まさにそのような人物の代表ともいえる人でした。この人はすでに夫を亡くしていました。そして、自分の唯一の希望ともいえる一人息子がいたのですが、その息子がどういう理由かは分かりませんが、死んでしまったのです。

 この母親は泣きながら、子どもの亡骸が町の外へ運び出されるのに付き添っています。遺体を町の外に運び出すのは、町の外にお墓があるからです。そうすることで、人々は自分たちの生活の場所から、死を遠ざけるのです。悲しみを目の当たりにしないようにしているのです。

 主は、やもめだけではなく、一緒になって亡骸を運び出す町の人々にも目を留められました。大勢の人が、この悲しみの行列に連なる姿に、主イエスは目を留められました。その行列の中心には、悲しみにくれる母親の姿がありました。嘆きの行列を目にし、自分の息子が町の外へと追いやられていく母親の悲しみは、どれほど大きかったことでしょう。

 13節にこう記されています。

主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。

 主イエスは、まさに絶望を突きつける死の悲しみを目の当たりにしている人に向かって、「泣かなくてもよい」と声をかけられました。

 「泣かなくてもよい」というのは命令の言葉です。どこに、息子の死を噛み締めている母親に、「泣くな」と声をかける人があるでしょう。誰も、悲しみの人にこう声をかけることのできる人はいないと思える中で、主は「泣かなくともよい」と声をかけられたのです。

 「泣かなくてもよい」と言われたとき、そこに出てくる思いは、どうしてそう言えるのか? という理由なのだと思います。主が「泣かなくてもよい」と語りかけられるとき、何の理由もなく語られることはないはずです。主イエスの言葉は、口先だけの言葉ではないのです。主のこの言葉は、死の悲しみの涙を打ち破る力を持っているのです。

 ここに「深くあわれみ」という言葉があります。これは、ギリシャ語で「スプランクニゾマイ」という言葉で、聖書の中でも共観福音書にだけでてくる珍しい言葉です。このルカの福音書の中では3度だけ出てきます。この言葉は「腑(はらわた)が捩(よじ)れるような」という意味の言葉です。自分の内臓に痛みを伴うような思いを主は抱かれるのです。人ごとではないのです。このやもめの悲しみを、主イエスは自らの痛みとして担ってくださるのです。自分のことのように、心を痛めておられるのです。ここに、主の愛のお姿が描き出されています。 (続きを読む…)

2023 年 6 月 4 日

・説教 ルカの福音書7章1-10節「共に見上げる信仰」

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三位一体主日
2023.6.4

鴨下直樹

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 今年の9月に、この岐阜市にあります長良川国際会議場で第7回日本伝道会議が行われます。5年ほど前から準備が進められまして、いよいよあと4か月を切りました。明日から、掛川でJEA(日本福音同盟)の総会が行われますが、そこでも伝道会議のために多くの時間を取ろうとしています。

 今回の伝道会議のテーマは「おわりからはじめる宣教協力」です。この「おわり」には、いろんな意味合いを込めています。尾張地区から宣教協力が始められることを期待しています。また、今は「終わり」の時であるという終末的な意味もありますし、これまでのさまざまな習慣や伝統も、「終わらせる」ものは終わらせて、新しい取り組みをしていこうという願いも込められています。

 こういうテーマが掲げられております一つの理由は、今、教会の伝道の力が落ちてきていて、このままでは良くないという危機意識があるからです。もっと真剣に伝道について考えていかなければならないという危機感があるのです。その一つには2030年問題と言われているものがあります。2030年になりますと、日本の人口の3分の1が65歳以上になると言われています。そうすると、人材がどの分野でも不足していって、これからの社会が成り立たなくなるということが警戒されています。それは教会も例外ではなく、牧師に定年のない教団でも、日本中の牧師の数が半分になって、教会が立ち行かなくなると言われています。

 先週、日本自由福音教会連盟の理事会が行われました。この連盟ではルーツを同じくする同盟福音基督教会、日本福音自由教会、日本聖契キリスト教団、日本聖約キリスト教団という4つの教団が定期的に交わりをしておりまして、さまざまな宣教協力を行なっています。この理事会の最後に、私が閉会説教をしました。そこでも話したのですが、伝道が難しくなったのは今になって始まったことではありません。キリスト教会の伝道は、教会が誕生したペンテコステの時から今日に至るまでずっと難しい時代を通らされてきたわけで、あと7年で、どうにもならなくなるというようなものではないのです。私たちはいつも、今も生きて働いておられる主の働きに期待することができるのです。

 私たちの主は、今も生きて働いておられるお方です。この神と出会い、この神と共に歩んでいく以外に、私たちの道はありません。主はこれまでにも何度も、何度も教会を大変な状況の中に置かれましたが、その都度、よみがえってくるのが、私たちの信仰です。

 先週の木曜に朴先生が宣教報告に来られました。そこで興味深い話をしてくださいました。ある時、テレビを見ていたら解剖学者の養老孟司さんが出ておられたのだそうです。そこで、インタビューをする人が、「死についてはどうお思いですか?」と訊いたそうです。そうすると、養老さんは「死というのは、夜寝て目覚めなかったら死んでいるんだから」と達観しているように答えられたのだそうです。

 それを聞いて朴先生は「そうか、それなら私は毎朝復活のいのちを頂いているんだ」と思ったのだそうです。「今日生きているのも当たり前のことではない。主に生かされているのだということを改めて知った」「私たちはすでに永遠のいのちを与えられているのだから、たとえ目覚めることができなくても、天で目覚めるんだから、これほど確かなことはないと感じるようになった」とも言っておられました。

 私たちは、毎日、朝を迎えるたびに新しいいのちに生かされている。この毎日いのちを与える主が、私たちの主であることを知るなら、どんな困難な状況に置かれたとしても、私たちの将来は闇に覆われるということはない。これが、私たちに与えられている信仰なのです。

 今日、私たちに与えられている聖書の御言葉は「百人隊長のしもべの癒し」と呼ばれる出来事です。

 みなさんも、さきほどの聖書朗読を聞かれて、いくつかの発見があったのではないでしょうか? マタイの福音書にも同じ出来事が記されていますが、この福音書を記したルカの書き方は少し違っています。マタイでは百人隊長と主イエスは直接語り合っています。しかし、このルカの福音書では百人隊長と、病のしもべは一度も姿を現していないのです。ところが、ここでクローズアップされているのは、この場にはいない百人隊長の信仰です。ルカはここで百人隊長をとりまく人々が、百人隊長をどう見ているかという、「証言」に焦点を当てていることが分かります。 (続きを読む…)

2023 年 5 月 28 日

・説教 ルカの福音書6章39-49節「主イエスを土台として」

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ペンテコステ
2023.5.28

鴨下直樹

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 私が子どもの頃、教会の日曜学校で一枚の暗唱聖句のカードをもらいました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」というマタイの福音書7章の13節と14節の御言葉が書かれていたカードです。その肝心の聖句よりも、そこに描かれていた絵が衝撃的で今でもよく覚えています。その絵にはにぎやかな大通りが描かれていて、人々が楽しそうにその大通りを進んでいくのですが、その先には地獄の炎が描かれていました。また、その大通りの脇には誰にも気づかれないような小さな門があって、その先にも道があり、その先は天国につながっているのです。子どもながら、恐ろしいと思いました。それと同時に、自分はこの小さな門の入り口を絶対見逃さないようにしようと心に刻んだのです。

 今日の聖書箇所は、主イエスのなさったたとえ話が記されているところです。この39節で一つのたとえ話をなさいました。「盲人が盲人を案内できるでしょうか。二人とも穴に落ち込まないでしょうか」とあります。

 もちろん、これはたとえ話ですから、実際に目の見えない人のことではないことは明らかです。大勢の人々が進んでいる大通り、誰もがみんなが進んでいるから大丈夫だと思い込んでいるけれども、その先頭を進んでいるのは誰なのかということをあまり気に留めません。

 「止まれ!」と叫ぶ者がいないのです。このまま人類は今突き進んでいる道を進み続けていいのかと、問う者がいないのです。

 主イエスは、ここで師と弟子の話を続けてしています。先頭を進んでいるはずの人物が師であれば、その師のようになるという目標があります。けれども、その師よりも先に進むということはないのです。

 先日の祈祷会で、こんな質問がありました。「師を超えて行く弟子というのはたくさんいるのではないですか?」という質問です。この世の中にはいろんな先生がいますから、そういうこともあるいはあるかもしれません。先生がたいしたことなければ、弟子はすぐに師を超えて行くでしょう。けれども、ここに書かれている師とは、主イエスのことです。主イエスのようになれる、もしくは主イエスを追い越していける人などいないのは明らかです。けれども、ここでは驚くことが言われています。40節です。

「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。」

 主イエスはここで、弟子たちに自分のようになれると話しておられます。つまり、主イエスは、絶対に不可能な愛の人として歩んでおられるのはないのです。だれでも十分に訓練をうければ、主のようになることができるのです。

 主イエスはここで、弟子たちに、主に付き従って来る者たちにこの話をしています。主イエスは、ご自分の弟子たちに、自分のようになって欲しいと願っておられるのです。そして、主のようになれるのだとさえ、ここで明言してくださっているのです。

 そのことをここで明らかにしておいて、さらに議論を進めます。それが、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の梁には気づかないというたとえ話です。

 この話はそれほど難しい話ではありません。誰もが思い当たるところがあるからです。人のことは、重箱の隅をつつくようにいろいろと問題点は見えるのです。けれども、肝心の自分のことは見えていないことが起こるのです。 (続きを読む…)

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