2024 年 4 月 7 日

・説教 ルカの福音書12章8-12節「神が知っていてくださる」

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〈新生〉
2023.4.7

鴨下直樹

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(本日はYouTube動画はありません)


 今日は、私自身がコロナになってしまったために、このようなオンライン越しで説教することになってしまったことを申し訳なく思います。お聞き苦しいところがあるかもしれません。ご了承ください。

 さて、今日の聖書の中にはとても気になる言葉が記されています。10節にこういう言葉があります。

聖霊を冒瀆する者は赦されません。

 聖書の中に赦されない罪があると書かれているわけですから、どうしたって気になるのではないでしょうか?ここで、主イエスはいったい何を語りかけようとしておられるのでしょうか。

 先週のイースター礼拝ではこの前の1節から8節までの箇所を取り上げました。その時にもお伝えしたのは、主イエスのこの時の話は1節から12節まで一まとまりの文章で語っておられますから、内容としては1節から12節までを一つの内容と考えた方が、よく理解できると思います。

 前回の復習も兼ねて少しお話ししますと、冒頭の1節から8節までで、まず主イエスはパリサイ人の偽善に気をつけなさいと語り出されました。そして、神は小さなことをも見ておられるお方だから、人に見られていないから大丈夫と思って行動するのではなく、神の御前で誠実に生きるようにとお話しなさいました。主は、自分は無価値な存在だと思っているような人であっても、その人をとても大切に思ってくださるお方であることが、語られていました。

そこまでが、前回の内容でした。そして今日の続きの箇所、8節と9節にはこのように書かれています。

あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。

 一瞬、突然違うテーマの話になったのではないか?と思えるほどテーマが変わった印象を持ちます。けれども、主イエスがお話になられた意図としては、ここからが大事なところになるわけです。

 神様にとっては、パリサイ人のような目立つ存在が大切なのではなく、一羽の雀のような、たとえ小さな者であったとしても、自分に自信がないような者であったとしても、そんなあなた方が大切なのだと主イエスは伝えました。そして、今日の箇所です。そのようなあなた方、弟子たちが人々の前で、私たちは主イエスの弟子なのだと宣言することが大事なのだと言っておられるのです。

 この時、主イエスと弟子たちの周りには大群衆が押し寄せてきていました。そんな中で、主イエスは、群衆に向かってではなく、弟子たちに向かって話しかけられます。大事なのはあなたがた弟子たちが、わたしのことを、主イエスのことを認めているかどうかが鍵なのだと、このところで言っておられるのです。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 29 日

・説教 ルカの福音書11章45-54節「預言者の血の責任を問う」

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受難日
2023.3.29

鴨下直樹

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 今日は受難日です。灰の水曜日から始まったレントも、今日で日曜を除いて40日が経ちました。前に並んでいた受難節のろうそくも全て消え、今日は黒いろうそく1本に火が灯されました。毎年お話ししていることですけれども、これで主イエスの命が完全に尽きたことを表現しています。教会の暦の中で生まれた習慣の1つです。

 毎週1本ずつろうそくの灯火が消えていって、この日全てのろうそくが消える。主イエスの命が尽きたことを、このように表現してきたのです。

 私たちの人生のことを考えてみる時に、私たちの寿命の残りがあとどれくらいで、今何本目のろうそくまで来ているのかが分かれば、残りの人生の過ごし方を考える機会にできるかもしれませんが、私たちは誰も自分の寿命の残り時間を知りません。ということは、私たちは、自分の人生をどう歩むかを先延ばしにすることはできないわけです。

 全ての人は、やがて死を迎えます。そして、その時に全てのことが清算されることになります。死んだ後からは何もすることができませんから、今、私たちがどう生きるかということが問われています。

 私たちは誰もが、この世界で生きるための判断基準を持っています。何が良いことで、何が悪いことか、善悪の基準は人によって違いますし、文化や時代によっても変わります。そこには、さまざまな価値観や、信念の違いが生まれます。そして、何が正しくて、何が正しくないのかを見極めることはとても難しいことです。

 聖書は、神がこの世界を創造されたと語っています。そして、この世界を創造された神は、この世界に生きる一人一人に、どう生きてほしいかを記録として残されました。それが聖書です。そして、聖書の興味深いことは、ここには人にとって都合の悪いことがたくさん書かれているということです。誰か頭の良い人の創作であるとすれば、完全な理想像を示そうとするのだと思うのですが、聖書はそうは書いていません。

 聖書の時代、この神の教えのことを「律法」と呼び、この律法をどのように正しく読み解くのかを教える「律法の専門家」と呼ばれる人たちがいました。

 この律法の専門家は、人々に聖書の読み方を助言するのが役割でした。ただ、ここで大きな問題が起こります。当時のパリサイ人や律法学者たちが、聖書に書かれている神の願いを受け取ることができていたら、なんの問題もなく、パリサイ人や律法学者の教えに耳を傾ければ良いわけです。ところが、この人たちが神の思いを受け取り損なってしまうと大変なことになってしまいます。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 24 日

・説教 ルカの福音書11章37-44節「心の内側を見られる神」

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2023.3.24

鴨下直樹

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 今から20年以上前のことです。以前牧会していた教会でもこのルカの福音書から説教をしたことがあります。それで、時々ですが、以前どんな説教をしたか見てみることがあります。すると、今回の説教の原稿に面白いことを書いていました。

 ちょうどこの時期に説教していたのですが、当時私は教団学生会の責任を持っていまして、この季節になると教団学生会の春キャンプが行われます。春キャンプでは、中学生から大学生までが集まるのですが、その時のエピソードが書かれていました。

 そのキャンプの中で行われた分科会で、ある一つのアンケートを取ったのです。

 「あなたにとってクリスチャンというのはどんなイメージですか?」という問いかけです。

 アンケートの結果は大きく二つに分かれました。一つの意見は敬虔なクリスチャン像です。「やさしい」「まじめ」「聖書をいつも読んでいる」「いつも礼拝に通っている」。そんな言葉がアンケートに埋め尽くされています。もう一つの答えはこれとは真逆です。とても否定的な意見が強く、その中にはこんな答えがありました。「自分の力では何もやろうとしない人」「しなければならないことがたくさんある」「聖書の通りには生きていない人」こういった言葉が続きます。なかなか厳しい答えです。

 当時のキャンプに集まってくる学生は、クリスチャンホームの学生が半分ほど、半分は自分から教会に来ている学生たちです。おそらくですが、クリスチャンホームの学生たちの意見の中に否定的なものが強いのだろうと思います。ただ、このアンケートは20年前です。今ならもう少し違った結果になったのかもしれません。あるいは、今もそれほど変わらないのかもしれません。

 その時のアンケートを見ながら、これは今日の聖書箇所の導入としては興味深いものだと思いました。

 クリスチャンはしなければいけないことがたくさんあるというイメージがあるのです。礼拝に参加しなければならない。聖書を読まなければならない。お祈りしなければならない。献金しなければならない。そんな「やらせられている」というイメージです。これは、クリスチャンホームの子どもたちの中にあるイメージなのでしょう。

 ある意味では、仕方がない部分もあると思います。スポーツを身につけるのも同じですが、基礎訓練というのは大抵つまらないものです。やらされていると感じる場合もあると思います。けれども、基礎訓練をしっかりしなければ、どんなスポーツも同じですが自由自在にプレイすることはできません。そういう意味では当時のクリスチャンホームの家庭の親たちが、そのイメージを持っていたので、子どもたちにしっかりと信仰生活の基本を身につけさせようとしていたのだということは言えるかなと思います。

 ただ、このクリスチャンは硬くて厳しくてというイメージのまま、それが本当にそういうものだという理解になってしまうのだとすると、それはとても残念なことです。

 アンケートに答えた子どもたちにも、その親たちの思いのイメージが共有されていなかったことはとても残念なことだと思いました。

 今日の聖書箇所は、あるパリサイ人が主イエスを家に招いたところから始まります。しかも、今日の箇所を読んでみると、このパリサイ人は一言も発していません。ただ、38節で「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て驚いた。」と書かれているだけです。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 17 日

・説教 ルカの福音書11章29-36節「あなたの目に見えているもの」

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2023.3.17

鴨下直樹

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 今日の説教箇所はルカの福音書11章29節から36節です。この前のところでは主イエスによって悪霊から解放されて話すことができるようなった人の出来事が記されていました。そこではこの出来事をきっかけにして、集まってきた群衆とのやりとりが記されていました。そして、今日の29節ではこのように記されています。

さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。」

 この冒頭の言葉だけでもかなりいろいろなことが語られています。

「群衆の数が増えてくると」とあります。別の翻訳では「押し寄せてきた」とか「集結して来た」と訳されています。これは少し珍しい言葉で「さらに集まる」とか「どっと押し寄せる」という意味の言葉で、新約聖書の中でここだけに使われている珍しい言葉です。悪霊追い出しの一件から、人々の関心が一気に主イエスに傾いて来たことをここで表しています。

 この時に、集結して来た人々の要求は何かというと、「しるし」を見たいということです。主イエスは信頼に足る人物かどうかを見極めようということです。

 私たちの周りには今、さまざまな情報が溢れています。スマホのおかげで手軽に情報を得ることができるようになりました。もちろんそれはスマホに限った話ではありません。書店に行くと、いろいろな雑誌が積み上げられています。健康食品やサプリなど、どうしたら健康が維持できるかという情報や、新型NISAや投資などでいかにして利益を出すかといった経済の情報、美味しい食べ物や旅行案内などの旅情報、あげればきりがありません。その中で、人々は自分なりに最善の判断をするための「しるし」を求めているといえるでしょう。どうやったら間違いないか、失敗しないか、その見極めをしようとやっきになっています。

 「この時代は悪い時代です」と主イエスは言われました。この言葉は、考えてみれば今でも全く同じように言うことができます。戦争や災害、政治不信や経済情勢、あげればきりがありませんが、今は良い時代であるとはなかなか言えません。

 しかも、この「悪い」という言葉は、ただ「良い悪い」という判断の言葉ではなく、とても厳しい言葉です。「邪悪」という言葉です。「よこしまな」と訳している聖書もあります。ただの「良い悪い」という判断の言葉ではなくて、悪に引き込もうとしている時代だと主イエスは言われます。

 それこそ、悪に引き込もうという話は、私たちの周りには溢れています。こういう投資をしたら儲かるよと言われて、お金を儲けたいのに、そのお金がまるまる奪われてしまうなどというニュースを、私たちはひっきりなしに耳にするのです。

 誰もが生きるために賢い選択をしたいと思いながら、さ迷い歩いています。もうずいぶん前のことですが、私たちがドイツにいた時に時間ができると時折旅に出かけました。お金が豊かにあるわけではありませんから、旅に出る前は大抵前もって宿を探しておいてから出かけます。けれども、いつもそうできるわけではなくて、思いつきで旅に出かけることもあります。そうすると、その目的の街に到着すると、まずその街の観光案内所を訪ねます。そこで宿の情報を貰うのです。少しでも安くて、より条件の良いところを探そうと必死になって探します。すぐに見つかることもありますが、なかなか見つからないこともあります。すぐに良さそうな宿を見つけても、街中を観光していると思いがけずもっと良さそうな宿を見つけてしまうことがあります。そうすると、しまったもっと探せば良かったと後悔するのです。

 私たちの人生というのは、このような経験の連続なのかもしれません。居心地の良い場所、最善の場所を求めて旅する者のようなのです。良い人がいて、良い環境があって、良い職場があって、よい信頼関係を築くことができる。そういう私たちが安心して生活できる場所を得たいと思うのです。誰も、失敗したいと思う人などいないのです。居心地の良い、生活のしやすい場所を私たちは探し求めています。

 だから、「これは良い」という知らせを耳にすれば、そこに人々が集まってくるのは当然のことです。そういう噂を耳にして人々が主イエスの周りに大勢集まって来たのです。「集結した」「どっと押し寄せて来た」のです。そういう人々をご覧になりながら主イエスは「この時代は悪い時代だ」と言っておられる。この主イエスの言葉の重みをどうしても、ここで感じざるを得ないのです。そのために人々は「しるしを求めますが、しるしはあたえられない」と主イエスはここで言っておられるのです。

 主イエスはここで、私たちに何を気づかせようとしておられるのでしょうか。私たちの何が問題だと言っておられるのでしょう。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 10 日

・説教 ルカの福音書11章14-28節「もう神の国は来ている」

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2023.3.10

鴨下直樹

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 主の祈りがようやく終わりまして、今日からその続きのみ言葉に耳を傾けようとしています。前回の結びの言葉は「聖霊を与えてくださいます。」という言葉でした。

 そして、今日の冒頭の箇所は「さて、イエスは悪霊を追い出しておられた。」と繋がります。この福音書を書いたルカの意図は、ここからもよくわかります。祈る人に聖霊が与えられるということは、悪霊が追い出されることだからです。

 「悪霊を追い出す」などという物々しい言葉を耳にすると、ホラー映画の「エクソシスト」のようなものをイメージしてしまう方があるかもしれません。私はホラー映画をあまり見たことがないので、良くわからないのですが、悪霊追い出しがテーマの映画なのでしょう。自分ではどうすることもできない「霊」や「悪霊」の働きというのは、私たちの心に「恐怖心」を植え付けます。

 映画などでは、悪霊を追い出す人がいるというのはポピュラーなのですが、実際に教会では、悪霊追い出しの話を耳にすることは、あまりないかもしれません。けれども、耳にしないからといって、悪霊の働きが無いわけではないのです。私自身も、これまでに何度かそういう祈りをしてきたことがあります。以前にもお話ししたことがありますが、ナルニア国物語を書いたイギリスの文学者のC・S・ルイスは、「悪魔の働きは2種類ある。1つは、悪魔など存在しないと思わせること、もう1つは、悪魔はとても恐ろしいものだと信じ込ませること」と言っています。悪魔の働きを信じないことも、過度に恐れることも、どちらの反応も健全ではないのです。

 聖書には、こんなにもたくさん悪霊の追い出しの話が出てくるのに、このテーマを取り上げて教会でお話しする機会はあまり多くはありません。その理由は、C・S・ルイスがあげているように、悪魔や悪霊の働きを過度に恐れる心配があるからです。けれども、悪魔の働きを侮ることもできません。

 別に、私はここで悪霊論を展開しようなどとは考えていません。けれども、私たちは占いだとか、ホラーだとか、ミステリーといったテーマに心を惹かれるうちに悪魔に対する過度の恐怖を持つことがないように気を付けなければなりませんし、同時に、侮ってはならないことも心に留める必要があります。悪魔の働きは、神様から私たちの関心を引き離すことです。神様との関係を断ち切るような働きは、すべて悪魔の働きであると言っても言い過ぎではないのです。とすれば、それらの働きは私たちにとって日常的なテーマだと言わなければなりません。そして、私たちは誰かが、そのような悪霊の働きに関心を持つようになる場合には、そのことを明確に指摘していくことも大切です。

 今日の聖書箇所に、1人の、悪霊に支配されていた人が登場します。この人は、この悪霊の働きのために話すことができませんでした。このように聖書に書かれている時には、聖書を読む私たちも気を付けなければなりません。病気や、さまざまなその人の弱さを簡単に悪霊の働きとすることはできないからです。先ほども言ったように、悪霊の働きというのは私たちを神様から引き離すことです。

 主イエスはここで、話すことができなくされていた人をご覧になられて、この人を悪霊から解放し、自由に話ができるようにしてやりました。その場にいた人たちは皆驚きました。普通であれば、こういう出来事を目の当たりにした人たちは、口々に主の名を褒め称え、癒された人のところに行って、喜びの言葉を口にするはずです。

 ところが、今日の聖書の箇所には、続いてこのように書かれています。15節です。

しかし、彼らのうちのある者たちは、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

 びっくりする反応です。この人たちは、主イエスのなさった御業を見て、これは悪魔の親玉であるベルゼブルが、悪霊を追い出しているのだと言っているわけで、主イエスのことを悪魔の親玉扱いしているわけです。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 3 日

・説教 ルカの福音書11章1-13節「本当に必要なものを~主の祈り8」

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2023.3.3

鴨下直樹

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 主の祈りからの説教も今回で8回目となりました。ここで最後です。今日は主に5節から13節の御言葉に耳を傾けたいと願っています。

 この主の祈りは、はじめに主イエスの弟子たちが主イエスに「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」と問いかけたところから始まっています。主イエスの弟子たちは、祈ることに憧れを持っていました。神との交わりのすばらしさを知りたいと願っていたのです。

 それで、主イエスは主の祈りを教えた後で、5節からの譬え話をなさいました。5節から8節にひとつの譬え話が書かれています。そこには、あなたがたの友だちが訪ねてきたので、真夜中に別の友だちのところに「パンを三つ貸して欲しい」とお願いに行ったという話が書かれています。パンを借りに行ったのはもう真夜中です。友だちはすでに寝ています。子どもたちも寝ています。そんな状態ですから、友だちはこの願いを断ります。8節で主イエスはこう答えておられます。

「この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。」

 先日の祈祷会でも、みなさんここからいろいろな意見が飛び出してきました。「もう真夜中なんだから、明日の朝まで待たせることができたんじゃないか?」とか「パンを三つも求めるのは多すぎじゃないか? 友だちの分だけではなくて、自分も食べるつもりだろうか?」とか色々な意見がでました。

 私たちは、ここで感じるのはパンを借りにいく人の厚かましさです。ただ、同時に私たちは聖書の中に「旅人をもてなしなさい」という御言葉があるとこも知っています。そう考えれば、この人はこの御言葉を誠実に実行しようとした人、隣人に対する愛に満ちた人だという考え方もできるのかもしれません。

 ところが、ここで主イエスは「この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。」の後に、こう言われました。

「しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上り、必要なものを何でもあげるでしょう。」

 そうしますと、ここで主イエスが教えようとしておられることは、どういうことになるかというと、「しつこく求めれば何でも与えられる」という理解になると思います。

 すると、私たちはすぐに首を傾げたくなるわけです。私たちがしつこくお祈りすれば必要なものは何でも与えられるのか? という疑問です。きっと、みなさんもこれまでの信仰の歩みの中で、何度も、何度もしつこいくらいに願い事のお祈りをした経験がおありになると思います。そのお祈りはどうなったでしょうか? もちろん、その祈りが叶えられたという経験をした方もあると思います。けれども、ダメだったという経験を持っておられる方も少なくないと思うのです。

 それで、その疑問を解消するためにもう少し丁寧に聖書を読んでみますと、原文ではこの「しかし」という言葉がないことにまず気がつきます。つまりこれは、「しかし」という意味を成り立たせるために、後で補った言葉です。そうだとすると、「しかし」の後の文章は、何らかの意訳が入っていると考えられます。 (続きを読む…)

2024 年 2 月 18 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「試みにあわせないでください~主の祈り7」

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2023.2.18

鴨下直樹

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 今週から受難節、レントを迎えました。主イエスが十字架にかけられるまでの40日間、教会では主の苦しみを心に留めて過ごすという習慣があります。国によってはこのレントの期間、肉を絶って生活するというような習慣のある国もあります。謝肉祭とか、カーニバルという言葉を聞いたことのある方もあると思います。これは、この期間は主の受難を覚えるために肉が食べられなくなるので、その前にどんちゃん騒ぎをして、この期間を乗り越えるためのエネルギーをつけておこうなどという習慣が生まれたのです。

 私たちは今週からレントを迎えるというタイミングで、主の祈りの中にある「私たちに試みにあわせないでください」という御言葉に耳を傾けようとしています。レントの期間というのは、先ほどお話したように、肉を食べないとか、好きなものを絶って、主イエスの苦しみを偲ぶ季節ということができます。このように、一方では自らに試練を課して、主の苦難を偲ぼうという習慣、もう一方では「試みにあわせないでください」と祈る。こうなると、私たちは互いに相反するようなことをしているのではないかという印象を持つのではないでしょうか?

 私たちは「試練」をどう考えているでしょう? 多くの場合、「試練」というのは、私たちを成長させるためには必要不可欠なものという認識が、どこかで私たちにはあると思います。けれども、ここでは「試みにあわせないでください」と祈るように勧められています。とすれば試練はない方がいいというわけです。これはいったいどういうことなのでしょう。

 「若い時の苦労は買ってでもしろ」という諺もあるくらいです。そう考えると、私たちが「試み」にあわないようにと祈るのは少しおかしい気もするのです。

「試練」というのは、この言葉にも表されていますが「試み」という言葉と「練る」という言葉で作られています。たとえば、私は鉄の専門家ではないので詳しくは分かりませんが、鉄を強くするためには精錬して、鉄を高熱で練り上げて、不純物を取り除いて、強い鉄を作り出していきます。ここには鉄の専門家がおりますから、あまり適当なことを言わない方がいいかもしれませんが、少なくとも私にはそんなイメージがあります。

 それで、少し気になって「試み」という日本語の意味を調べてみました。すると、面白いことが書かれていました。「心を見る」という言葉から、「試み」という言葉が生まれたというのです。その人の心を見る。その人が本当は何を考えているのかを見る。表面に出てきていない、その内側を見るというわけです。私たちは普段、心の内側は誰にも知られていないと思って、うまいこと表面上を取り繕って、ごまかしながら生きているかも知れません。だから、その人の内面を、心を見るために、試みに合わせる、テストするというわけです。

 私たちは、ひょっとすると神様からテストされてばかりではなくて、私たちの方でも神様の心を見てやろうと、テストするということがあるのかもしれません。本当にこのお方は信じるに値するのか、試してみたくなる。そうやって、たとえば願い事を祈ってみて、それが叶うかどうか、そういうことで判断をしようとすることがあるかもしれません。私たちが神を試みるということについては、今日のテーマではないので簡単にお話したいと思いますが、これは神を侮る態度ですし、結局のところ自分本位な態度だと言わなければなりません。

 今日、私たちが考えたいのは神が私たちを試みられることです。私たちが試されることがある。私たちの心が見られることがあるのです。けれどもそれは、神からの罰ではないということを、一方で私たちは知る必要があります。私たちは思いがけない不幸が訪れると、それは試練だと考えます。それと同時に、反射的に考えてしまうのは「何か悪いことをしてしまって、神様を怒らせてしまっただろうか?」と考えたり、「神のバチが当たった」と考えたりしてしまうのではないでしょうか。

 原因があって結果があるわけで、こうなったのには自分に何か悪い原因があるのではないかと、自分を責めてしまったり、神様を恨んだりする感情が私たちの心の中に浮かんできてしまいます。ここが、試練の怖いところです。

 病気になる、事故に遭う、災害で被害を被る、いろんな試練が私たちの人生の中で襲いかかってくることがあります。それらの出来事が起こると、それに付随して色々なことが起こります。そのためにたとえば仕事ができなくなる、経済的に厳しくなる、人が怖くなって外に出られなくなる、人を信じられなくなる。さまざまな感情が私たちを襲うようになります。そうなっていくと、平安でいられなくなってしまいます。そんな中で他の人を見ると、案外幸せそうにやっている気がして、他の人が羨ましく思えてしまう。自分だけが苦労を背負っているかのような錯覚を起こしてしまうことがあるのです。

 簡単に乗り越えられそうなことを「試練」とは言いません。「試練」には深い闇が潜んでいます。私たちはこの試練に対して、どう向き合うことができるのでしょう。 (続きを読む…)

2024 年 2 月 11 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「罪の赦しを~主の祈り6」

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2023.2.11

鴨下直樹

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 主の祈りも今日で6回目になりました。こんなにゆっくりと解き明かしをしなくても良いのではないかという声も有るかもしれません。けれども、この祈りは私たちの信仰の歩みの根幹を支えるものですから、できるだけ丁寧にみ言葉に耳を傾けたいと願っています。

 今日は「私たちの罪をお赦しください」という祈りです。ここでは、罪の赦しを祈り求めます。

 「罪」。この言葉は、教会に来るようになった人の多くが、最初に戸惑う言葉の一つです。私たちは、クリスチャンになる前は、「罪」という言葉を「犯罪を犯すこと」という意味で認識している場合が多いと思います。ですから「あなたには罪があります」と言われると、「自分は警察にお世話になるようなことはしていない」と抵抗したくなります。けれども、教会に集うようになって、聖書の話を聞いていくうちに、この「罪」というのはどうやら「犯罪を犯した」という意味ではないことが少しずつ理解できるようになってきます。

 この「罪」という言葉は、ギリシャ語で「ハマルティア」と言います。そのもともとの意味は「的が外れている」という意味です。向くべき方向を向いていないことという意味です。では、その「的とは何か?」というと、それは「神」と言ってもいいし、「神が願っている生き方」と言っても良いものです。この私たちが向かうべき「的」とも言えるゴールというのは、神の目にかなう生き方ができていることを指します。このことを「義」と言います。そして、この神の目にかなわない生き方のことを「罪」と言うのです。

 では、その神の願う生き方とは何か?と言った時に、教会は何を教えてくたかというと、「十戒」と「主の祈り」と「使徒信条」の三つの文章を、三つの要の文、「三要文」として、これをを中心に教会は信徒に教えてきました。もちろん、三つの文章で神の御心をすべて知ることができるわけではありませんが、中心的な事柄が、この三要文で扱われているのです。そういう意味でも、今私たちはこの主の祈りの、み言葉を丁寧に聞き取っていこうとしているわけです。

 特に、三要文の中の「十戒」には、神からの10の戒めが記されています。そこでは、神がどう私たちに生きることを命じられているかが分かります。この十戒は、さらにまとめると二つのことを教えています。ここでは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の大切さが教えられていると言えます。ということは、「愛すること」が、神の御心の中心部分だということが分かってきます。つまり「罪」というのは、「犯罪を犯した」ということではなくて「愛さなかったこと」が問題になっているとも言えるわけです。神を愛さなかったこと、あるいは私たちの周りの人々を愛さなかったことが罪と言えるのです。

 「愛する」というのは、私たちの内側から出てくる自覚的な行動によって示されます。そして、その愛というのは、ギブ・アンド・テイクの愛、見返りを求める愛ではなくて、一方的に与える愛だということを私たちは何度も何度も聞いています。これが神の愛だからです。けれども、一方的に与える愛というのは、どういうものなのかとなると途端に解らなくなってしまいます。

 愛を知る。これは、とても短い言葉ですが、とても難しいことです。けれども、どうして愛を知ることを難しく感じてしまうのでしょうか? 私たちは生まれた時から、たくさん愛を受けて育ってきたはずです。だから、本当は愛をたくさん知っているはずです。ところが、私たちは子どもの頃から、この愛を受け取ることがうまくできないようです。慣れてしまうからでしょうか。それとも当たり前だと思ってしまうのでしょうか。毎日毎日、私たちが生きていけるように、親が働いてくれて、親が世話をしてくれて、衣食住を整えてくれていて、そこには十分な愛が示されているはずなのに、気づくと不満ばかりを見つけてしまう、これは一体どうしてなのでしょう。

 押し付けが過ぎるのでしょうか?それとも、もっと高品質の愛を求めているからなのでしょうか? (続きを読む…)

2024 年 2 月 4 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「日毎の糧を~主の祈り5」

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2023.2.4

鴨下直樹

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 ドストエフスキーの書いた短編小説で、しかも子ども向けに書かれた「キリストのヨルカに召されし少年」という児童文学とも呼べる作品があります。この作品はとても珍しいもので、「私は小説家だから、どうやらひとつの『物語』を思いついたようだ」という書き出しから始まります。小説家が小説を書くのはあたりまえのことですから、わざわざこう言うのはなんでだろうと思ったのですが、読んで、なるほどと思いました。

 この物語の少年は、どこかから移り住んできた少年のようで、病気の母親を看病しながら地下の暗い部屋で、飢えと寒さで身動きがとれないでいるのです。お腹があまりにも空いて母親のところに行くと、母はもう冷たくなって死んでいました。

 その後、地下から外に出ると、街中にはクリスマスの賑やかで眩い世界が広がっていて、広場の真ん中には大きなヨルカ、クリスマスツリーが飾られています。そんな中で、お腹の空いた少年が食べ物と暖かさを求めて歩いていると、ある家のパーティーの様子が目に飛び込んできます。そのあまりにも楽しそうな世界に心惹かれ、自分も入れてもらえるのではと思い、家の扉を開けるのですが、追い出されてしまいます。その時、銅貨を一枚握らされるのですが、手がかじかんで、その銅貨を掴むこともできませんでした。

 その後、大勢の人だかりのできていた所で人形劇を眺めていると、いきなり後ろから、わんぱく小僧に蹴飛ばされ、一目散に逃げ出します。そうして、路地裏の陰に隠れ込んでしまうのです。少年はそこで、急にぽかぽかと暖かさを感じるようになってきて、お母さんの子守唄が聞こえてきます。そして「ヨルカのお祝いに行こう、坊や」というお母さんの声を聞きます。その時、自分は眠たいのだと気づくとともに、自分の周りに他にもたくさんの子どもたちがいることに気づいていきます。自分の周りにいる子どもたちは皆、苦労していた子どもたちばかりなのです。こうして、その暖かな世界に招かれた親子たちは天の主なる神様のみもとで巡り会っていく。けれども、その街の傍で、その少年は冷たい死を迎えていく、そんな物語です。

 この物語の最後にドストエフスキーは、どうして自分は作家の日記としてもふさわしくない物語を書いたのだろうと言いながら、これが本当のことかどうかは言えないけれども、私は小説家だから、こういう話を創作するのが商売だと言って物語を結んでいるのです。

 この小説のあとがきを読むと、どうもこの時ドストエフスキーは少年犯罪者の感化院を訪れていて、その時の訪問記も、この小説が載せられた雑誌の同じ号に書いているようです。ということは、犯罪に手を伸ばしてしまう少年たちの現状を知って、こういう子どもたちが自分たちの周りにはたくさんいるんだと、知らせたかったのだろうということが分かってきます。そして、それと同時に、もし子どもたちがこの物語を読んだなら、その先には神のあたたかい御手の中に迎えられるのだということを、ドストエフスキーなりに伝えたかったのではないかと気づかされるのです。ドストエフスキー自身が、そこまで熱心なクリスチャンであったかどうかまでは私には分かりませんが、少なくともこの物語を書いた時にはそんな思いになっていたことは間違いないのです。

 私たちは、主の祈りを生活の歩みの中で祈ります。「私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。」と祈ります。

 私たちが普段、この祈りを祈る時に意識している「私たち」というのは、自分の家族のことだと思います。そこで祈られている「私たち」は狭い範囲をさしているはずです。あるいは、教会で主の祈りを祈る時には、この「私たち」は「教会の人たち」という意味で祈るのかもしれません。あるいは、時々はもっと外に目を向けて、被災地の人たちや、戦地の人たちのことを心に留めたり、あるいは、食べるものが無くて困っている人に思いを馳せたりしながら祈るのかもしれません。けれども、基本的にはやはり、自分の家族のことを一番に考えながら祈るのだと思うのです。 (続きを読む…)

2024 年 1 月 28 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「御国が来ますように~主の祈り4」

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2023.1.28

鴨下直樹

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 少し前のことですが、あるクリスチャンホームの家庭で、幼稚園の子どもが教会で教えてもらった子ども賛美を口ずさんでいたそうです。元気な賛美で、子どもに人気のある歌です。

イエス様を信じるだけで 天国へ一直線に進む 
涙ふいていっしょに乗ろう 喜びがあふれてくるよ
さあ 救いの汽車に乗り かがやく天国へ行こう 
さあ イエス様のまってる 天国へいっしょに行こう

 その娘の歌う歌を聴いていた、その家のクリスチャンではないご主人が、奥さんにこう言ったそうです。
「教会では、こんな小さな子どもに早く死ねって教えているのか?」

 この話を聞いたのはもうずいぶんと前のことですが、私にとって忘れられない出来事でした。この子どものお父さんの質問は、一つの信仰の急所をついた言葉だと言えます。

 まず、長い間、福音派の教会は「天国」のことを「死後の世界」のことだと教えてきたという事実があります。イエス様を信じたら、天国へ行ける。死の不安から抜け出して、来世に希望を見出すことができる。いわゆる大衆伝道者と呼ばれた牧師たちは、そういう福音を語ってきました。

 これは、完全に間違っているわけではないのですが、かなり偏った信仰理解を生み出してしまったと言わなければなりません。「イエスさまを信じたら、天国に行ける」と聞くと、今の苦しみから目を背けさせることができるかもしれませんが、今の生活から目を逸らさせる、現実逃避の信仰ということになりかねないのです。

 けれども、この主の祈りの今日の言葉、「御国が来ますように」という祈りは、そういう信仰の理解に対して、はっきりと「NO!」と告げていると言えます。

 この祈りは、「御国に行けますように」と祈っているのではない。「天国に入れますように」と祈るのではないのです。ここで、主イエスは「御国が来ますように」と教えているのです。 (続きを読む…)

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