2025 年 7 月 6 日

・説教 ルカの福音書18章15-17節「神の国を受け入れる者」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:47

2025.07.06

鴨下直樹

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 私が子どものころ、教会でしきりに聞いた話は、「私たちは死んだ後、天国に行ける」という話でした。まだ小さかった子どもの頃なので、正直この話がよく分かりませんでした。「死んだ後」というのがイメージできなかったのです。昔は、「四つの法則」なるトラクトがあって、「神、罪、救い、天国」の順で神様の救いの説明がなされていました。みなさんの中にも、そのころこういう話を聞いたことのある人がたくさんおられると思います。あるいは、5つの色のフエルトで作った本がありました。黒、赤、白、黄色、そして表紙が緑の5色で、一つずつの色の説明をしながら福音を説明していくのです。

 黒は、私たちの「罪」。私たちは神様の思いを離れているので、心が真っ黒です。けれども、今度は赤色を示して、イエス様の「十字架の血」の説明をします。イエス様が私たちの罪を十字架の上で流された血潮によってきよめてくださいました。それで、私たちの真っ黒な心は雪のように白くなるというのです。そして続いて黄色を示して、私たちは光り輝く「天国」に入れていただけるのですという説明がなされるのです。最後の緑はそれまで私たちの信仰が「成長」していくことを「緑」の色で表して説明をするのです。

 キリスト教の福音を単純化して分かりやすく説明するためには、とても良い方法だと思います。ただ、このような分かりやすい話で、福音を説明していくのですが、子どもの頃の私には、「死んだら天国に行ける」というのは、イメージしにくいどこか遠い話でした。話としてはよく分かるのですが、死ぬということを考えたことがない子どもの私には、あまりピンときていなかったのです。

 その頃、私にとって衝撃的だったことがあります。当時、「日曜学校」と言っていましたが、礼拝の前の時間に、子どものための礼拝として「日曜学校」が行われていました。そこで、讃美歌を歌って、聖書の話を聞いて、お祈りをするわけです。その頃、聖書の話を聞くと、最後に「暗唱聖句カード」という小さな豆カードが一人一人に渡されていました。

 その時もらったカードにはこういうみことばが書かれていました。マタイの福音書7章13節と14節のみことばです。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

 この聖句のカードに絵が書いてありました。広い道の先に大きな門が描かれていて、パレードのように多くの人たちがその道を進んでいくのですが、「ウェルカム」と書かれた物の先には火が燃えていて、悪魔が描かれています。そこにたくさんの人たちが落ちていくのです。ところが、その広い道の途中で細い怪しげな道があって、そこに小さな門があります。そして、その門の先には天国が待っているという絵です。

 その時の私が何年生だったのか覚えていないのですが、その時私は心に誓ったのです。もし、こういう小さな門を見つけたら、その時はその門をくぐっていけば失敗しないんだと。こういう小さな門があることをちゃんと覚えておこうと思ったのです。 (続きを読む…)

2025 年 6 月 22 日

・説教 ルカの福音書18章9-14節「二人の祈り人」

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2025.06.22

鴨下直樹

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 今日の箇所には二人の祈る人の姿が描き出されています。パリサイ人の祈りと、取税人の祈りです。これは、主イエスの譬え話ですから、実際にあったかどうかは分かりません。けれども、ここに描き出されている二人の姿は、私たちにとって非常に現実味のある譬え話となっています。

 人前でお祈りする時というのは、良くも悪くも緊張するものです。自分一人でお祈りするのとは違って、みんなが聞いているわけで、恥ずかしさが有ったり、自信が無かったり、変なお祈りをしていないかなと、気になったりするかもしれません。何か、お祈りの正解が分かれば準備もできそうなものですけれども、何が正解かもよくわからない。そんな思いを抱きながら、礼拝の献身のお祈りがあたるときには一週間心が重いという方もあるかもしれません。

 そんな中で主イエスがお祈りの話をなさる。一方のお祈りは褒められているような感じですし、もう片方のお祈りはどちらかというと褒められていない。そうすると、ここでは何か参考になるようなことが言われているのか。そんな気持ちでこの話を聞くこともできるのかもしれません。

 今日の冒頭の9節にはこう書かれています。

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。

 この部分には、主イエスがこの譬え話をなさった理由が書かれているわけですから、とても重要な部分と言うことができるでしょう。そこで、考えるわけです。「ほかの人を見下している人たち」という部分に関しては、誰でも分かることですけれども、これは良くないと判断できます。ところが、前半部分、「自分は正しいと確信していて、」という部分は、それほど問題は無い気がするわけです。

 お祈りをする時には、確信を持ってお祈りしたいと思うのではないでしょうか。礼拝の司式をする方は、教会祈祷の時にみなさん確信を持ってお祈りされます。その時に他の人を見下して祈るなんてことはないと思いますが、確信を持って祈るということは、大事なことではないかと思えるわけです。

 確信を持っていることが良くないのだとすると、反対に謙虚であれば良いのかと考えてしまいがちです。ところが、この謙虚さというのも、一概に良いとも言えません。その最たる例として、「私は上手にお祈りできないので、お祈りの当番から外して欲しい」という思いを持つ方は少なくありません。しかし、これが謙虚な姿勢かというと、そういうわけでもないわけです。

 謙虚さは美徳という部分はあると思うのですが、これも度が過ぎると良くない場面というのもあるわけです。では、主イエスはここで何をお語りになろうとされているのでしょうか。

 まずパリサイ人の祈りから見てみたいと思います。11節と12節です。

パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」

 このお祈りは、一部を除けばとても立派なお祈りのようにも思えます。「この取税人のようでないことを感謝します。」の部分は余計な言葉な気がしますが、その他の部分はある意味では立派なところでもあります。きっと、こういうことに気をつけて生活しているから出てくる祈りだとも思うのです。人から奪い取ることはしない、不正は働かない、姦淫しない。週に二度断食をしながら祈りを捧げ、自分の収入の十分の一を聖書の戒めに従って献金している。立派なことだと言えると思うのです。それができない人がたくさんいる中で、自分が頑張っていること、ちゃんと出来ていることを神様の前で感謝するというのは、悪くない気もするのです。 (続きを読む…)

2025 年 6 月 1 日

・説教 ルカの福音書18章1-8節「諦めない祈り」

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2025.06.01

鴨下直樹

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 今日の聖書の冒頭にこうあります。

いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために…

 これまでの信仰の歩みの中で祈ることをやめたという経験があるでしょうか? 「祈ることを諦めた」という経験です。信仰の歩みの中で私たちはさまざまな祈りをします。そういう中で、祈りがきかれないということを経験していくと、信じるのをやめる、疲れる、飽きる、だれてくる、そういう経験をすることが時折起こり得ます。この「諦め」というのは、お祈りというようなことでなくても、ごく身近な経験として、たとえば応援している野球チームや、サッカーのチームが負け続けて、今年は、優勝はないなと諦めるということもあるかもしれません。そういう日常的なものから、自分の大切な進路や、目標や、夢を諦めるというとても厳しい決断ということもあると思います。

 諦めるというのは、それまで張り詰めていたものが突如失われる経験です。目の前に迫る現実に飲み込まれていく。何回も挑戦してみたけれどもダメだった。お祈りしていたけれどもダメだった。信じていたけれどもダメだった。そういうことが起こります。

 もちろん、諦めなくてはならない場合もあると思います。それは悪いことばかりではありません。それまでこだわってきたことを諦めて、新しい可能性に挑戦するチャンスでもあるはずです。そうすると、諦めても仕方がない場合と、諦めてはならない場合とがあるということかもしれません。

 あるいは、自分の忍耐力がなくて、待つことができなくて、耐えることができなくて、戦ったり、努力したりすることが苦手で、諦めるという場合もあるでしょう。戦えない、抵抗するということが性格的に難しいということもあるかもしれません。そこにはいろんな理由があります。抗うことはみっともないことだという考えがあるかもしれません。あるいは、自分は他の人とは違うから、そんなに戦い続けられないのだということもあるかもしれません。あるいは、自分が求めるものが、時代にあっていないものだからスパッと諦めた方が良いのだと感じたというようなこともあるかもしれません。

 諦めてもよいことであれば、それはそんなに問題ありません。ものには大小というものがあります。大きな志もあれば、小さな志もあります。だいたい、子どもの頃からわがままがひどくて、諦めることばかりを言われてきたなんてことだってありうるわけですから、諦めることが常に悪いというわけでもないはずです。

 主イエスはここで諦めない祈りについて教えておられます。ここで主は私たちに何を語りかけておられるのでしょうか。 (続きを読む…)

2025 年 5 月 25 日

・説教 ルカの福音書17章20-37節「終わりの時への備え」

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2025.05.25

鴨下直樹

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 教会員の恵美子さんが、少し前に俳句についての本を出されました。俳句の世界では辻恵美子という名前で活動されております。本のタイトルは『樹下随感 ―作句の心と形―』という俳句についてのエッセー集です。とても面白い本で、少しずつ楽しみに読み進めています。

 ちょうど、昨日のことですが、この辻恵美子さんが主宰をなさっておられる俳句の結社「栴檀」の24周年記念大会が開かれまして、私も出席させて頂きました。最初に、この一年の間に活躍された方々の表彰が行われまして、私たちの仲間であるOさんも栴檀賞を受賞されました。また、その授賞式の後で、能登の輪島で住職をしておられ、栴檀の仲間でもある市堀玉宗さんの「俳句と共に能登に生きる」という講演がありました。ここで少しそのお話の内容に触れようかとも思ったのですが、今日の聖書箇所と全然違う内容になってしまいますので、また別の機会にお話しできればと思います。

 ただ、今日の説教題を「終わりの時への備え」としましたが、市堀玉宗さんの講演は能登で2回の震災を経験して、まさに「もう輪島は終わりや」という声が聞こえてくるような、まさに心が折れる経験を通して、そこからどう生きていくのかというお話でした。能登の未来、輪島の未来は20年後どうなるか分からないと思っていたけれども、それが、突然やってきたということなのだという話は、まさに涙無くしては語れない話で、とても心に訴えるものがあったと思います。

 未来が絶たれる、希望が絶たれる、そういった中で、何を支えに生きるのか。この玉宗さんの講演を私流に切り取るとそういう話であったと思います。

 私も、5分ほどのスピーチの時間を頂きました。あの、玉宗さんの話を聞いた後だけに、何を語ることがあるかとも思ったのですが、私は恵美子さんの出された『樹下随感』の中からの話をさせて頂きました。というのは、恵美子さんはこの本の中で「新しさは俳句のいのち」と言っておられるのですが、この言葉は、私にとってとても考えさせられる言葉でした。毎週説教していますから、新鮮さといいますか、新しさが無くなってしまって、ついマンネリ化した話になってしまうからです。

 たとえば、この芥見教会では礼拝説教の箇所を前もって水曜と木曜の聖書の学びと祈り会で、丁寧に解き明かしをしています。これは、私としても皆さんに聖書を読む力をつけて欲しいという願いでやっているという部分もありますし、共に聖書を読んでいくことで、何が分からないのか、どこが難しいのかということを、私自身が理解することができるという意味でも、大いに助かっています。

 ただ、問題もあります。というのは、祈祷会に参加された皆さんは一度説明を聞いた聖書の箇所を、次の日曜に説教で聴くことになります。だいたい、礼拝に集われる方の半数が、聖書の学び会に参加してくださっております。これは、とても珍しいことで、皆さんが聖書を学ぶことに大きな関心を持っていてくださることの表れでもあります。それでは、何が問題かというと、牧師は半数の方がすでに聞いた説明を日曜にもう一度するのかという葛藤が私の中に生まれるわけです。福音の新しさが感じられなくなってしまうのではないか、そういう葛藤がいつも私の心の中に生まれるのです。 (続きを読む…)

2025 年 5 月 4 日

・説教 ルカの福音書17章11-19節「キリエ・エレイソン」

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2025.05.04

鴨下直樹

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 今日は復活節の第三主日、「ミゼリコルディアス・ドミニ〈主の慈しみ〉」と呼ばれる主の日です。教会歴で今日読むことになっている聖書は詩篇33篇5節の「主の恵みで地は満ちている。」というみ言葉です。ところが、新改訳聖書では肝心の「慈しみ」という言葉が出てきません。新共同訳聖書ではこのようになっています。「地は主の慈しみで満ちている。」。この後半の「地は主の慈しみで満ちている」という言葉がラテン語で「ミゼリコルディアス・ドミニ」と言うのです。「慈しみ」という言葉はヘブル語で「ヘセド」という言葉です。これを、新改訳は「恵み」と訳し、新共同訳は「慈しみ」と訳しています。「愛」と訳されることもありますし、「慈愛」と訳す場合もあります。新改訳と新共同訳の日本語の翻訳はそれぞれ異なりますが、この「ヘセド」という言葉で言い表そうとしているのは神の大きな愛の眼差しが、「恵み」や「慈しみ」という神の思いがこの地に、この世界に注がれているということです。

 雨宮慧(さとし)というカトリックの言語学者がおられます。この方は、『旧約聖書の心』という本の中で、このヘセドという言葉を、「神と人を結びつける絆である」と言っています。この絆には二つの側面があって、一つは両者を結ぶ愛、もう一つはその愛に対する誠実さであると説明しています。ここに、神の愛、恵み、慈しみと訳される神の本質的な心が表されています。

 今日は、復活節の第三主日で、イースターによって示されたこの神のヘセドに表されている思いを心に刻む日です。そんな中で、今日は、ルカの福音書の17章の11節から19節のみ言葉が与えられています。ここに記されているのは、まさにこの神の慈しみ深さであると言って良いと思います。

 今日の聖書の箇所は読む私たちに強烈な印象を与えます。というのは、主イエスはサマリヤとガリラヤの境にある村に入られたと書かれています。この村に住んでいるのは、「ツァラアト」に冒された人々でした。サマリヤというのはイスラエルが二つに分裂し、北イスラエルと南ユダに分かれた後、ユダの人々は主への信仰を受け継いでいたのですが、北イスラエルの人々は神の思いから完全に離れてしまった人々で、外国の人々といわゆる雑婚をしていきます。そうするとどうなるかというと、それぞれの民族の信じる神々を取り入れていくわけで、主なる神への信仰を捨ててしまった人々です。それで、北イスラエルとはもはや呼ばないで、「サマリヤ人」と呼ぶようになって、ユダヤ人たちはこのサマリヤの人々を蔑んできたわけです。

 ところが、この聖書の箇所を読んでいくと分かってくるのですが、「ツァラアト」という病に冒された人々というのは、重い皮膚病を患った人々で、この時代では人々から隔離されていまして、もはや家族とも一緒に生活することが許されません。当然、この人々のところには医者も訪ねてはきません。いわば、捨てられた人々の集落となっていたわけです。しかも、この捨てられた人々同士が、民族の争い関係も忘れて一緒にこの村で生活していたようです。捨てられた者たちの間にはもはや民族的な差別意識は無くなっていたわけです。

 ただ、そう聞くととても麗しい愛の共同体が生まれているかのようにも思いますが、実際には見捨てられた人々が肩を寄せ合って生きていたというのが、本当の姿のように思うのです。もはや、ここには希望がない、死を待つだけの世界、それがこの村の姿であったのです。

 ところが、この村を主イエスは訪ねられたのです。 (続きを読む…)

2025 年 4 月 27 日

・説教 ルカの福音書17章1-10節「神のくださる安心」

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2025.04.27

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。」という言葉から始まっています。

 「つまずき」というのは教会の中で、何度も取り上げられるテーマです。「教会殺すにゃ刃物は要らぬ、ただこの教会でつまずいたと言えばいい」と言った人がいます。なかなか核心をついた言葉ですが、私たちは苦笑いするしかありません。私を含め、皆さんもそうかもしれませんが、自分の言動が誰かにつまずきを与えたのではないかと感じる場面は、これまでに何度もあったのではないでしょうか? こういう言葉もあります。「牧師殺すにゃ刃物は要らぬ、この牧師には愛がないと言えばいい」。

 私たちは信仰の歩みをしていく中で、何度も何度もつまずきを経験します。そして、それと同じように、何度も自分は誰かにつまずきを与えてしまったのではないかと苦しむことにもなり得ます。ここに、クリスチャンの悩みがある、そう言っても言い過ぎではないのが、この「つまずき」というテーマです。

 しかもです。主イエスは2節で「その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。」と言われたのです。

 今はひき臼にお目にかかる機会も少なくなりました。和食レストランのサガミに行きますと、玄関先でこのひき臼が自動で蕎麦を粉にしているのを見ることが出来ます。大きな平らな丸い石を二つ重ねて、上臼を回すことで蕎麦を擦り潰して蕎麦粉にするわけです。おそらく、ひき臼一つで何十キロ、下手したら100キロ以上あるかもしれません。そんな石を首にくくりつけられて海に投げ込まれた方がましだと、主イエスが言われるのです。まるでヤクザ映画のようなセリフを、こともあろうに主イエスが言われたのです。この言葉を読んで、心中穏やかで無くなる人はたくさんあると思います。

 誰かをつまずかせる人は殺された方がまし、こんなひどい言葉は無いと思うのです。もし、自分が誰かをつまずかせたとしたら、私は死んだ方がいいのか? そういうことにもなりかねません。そこで、一度落ち着いて考えるわけです。この「つまずき」という言葉は、そもそもどういう意味の言葉なのかと。先日の聖書の学び会でもそういう質問が出ました。 (続きを読む…)

2025 年 4 月 6 日

・説教 ルカの福音書16章19-31節「ある金持ちの末路」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:10

2025.04.06

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は、「金持ちとラザロの譬え話」です。この箇所は前回の14節に出てきた「金銭を好むパリサイ人たち」に向けて話しておられる箇所の続きです。

 ここに二つの生き方が示されています。誰もが羨む金持ちの生活と、誰もが蔑みたくなる貧乏人の生活。この二人の正反対の人物を対比しながら話をしています。しかも、主イエスの話は、この金持ちは悪人で、貧乏人の方は善人であったとも書かれていません。考えてみますと、私たちの人生でも同じようなことが起こります。この二人の違いがどこにあるのか考えてみると、この二人には境遇の違いがあるわけです。どういう家で生まれたか。誰と出会ってきたか。何を学び、何を経験してきたか。そこで、大きな違いや差がでてくるわけです。

 どの世界でもそうですが、そこには成功した者と、失敗した者がいます。そして多くの人は、成功した者を尊敬し憧れを抱き、そのようになりたいと思うのです。書店には成功者の本が並び、自分の体験談の本はよく売れます。これらの本は前向きに生きることを教えてくれるのです。例えていうならば、料理のレシピのようなものです。こうすれば美味しく作れますよ! というわけです。そして、それがこの世界の一つの価値観なのです。

 ここには金持ちと、貧乏人が出てきますが、これは他にも何にだって例えることができます。「健康な人と病の人」「心の強い人と弱い人」「商売の成功と失敗」、結婚、子育て、進路何でも良いのですが、この世界の人は誰もが、失敗するよりは成功する人生を夢見るのです。もちろん、それは決して悪いというわけではありません。ただ、私たちの世界が、この成功者は勝者であるという価値観で支配されてしまっているのが問題です。

 もちろん私たちはこれほどまでに単純化された生活をしていないかもしれません。中庸を生きるという生き方だってあるはずです。ただ、主イエスのこの譬え話は、まさに私たちが生きている世界の、成功者はお金持ちになるという価値観を問題にしています。

 この主イエスの譬え話は三幕まで準備されています。

 第一幕は、生前の二人の生活ぶりです。金持ちの生活と貧しい人であるラザロの生活ぶりです。

 第二幕は、二人が死んでからの姿です。それは生きている時とは正反対で、死後には貧しい人は神のみもと、ここでは「アブラハムの懐」と呼ばれるところにいて、金持ちは「炎の燃え盛るよみの世界」にいるというのです。

 そして、第三幕では、よみの世界にいる金持ちが、何とか家族までがここに来ないようにしてほしいと頼み込みますが、もうすでに聖書があるのでそれで十分という結論で終わっています。

 主イエスはお話のとても上手なお方です。この世の人々の多くは、今の人生のことだけを考えて生きています。その先のことがあるなんてことはあまり考えていません。考えていたとしても、多くの人はきっと自分は天国に行けると考えていることが多いのでないかと思うのです。昔はお寺の和尚さんから、死んだら閻魔様のところで生前の罪の刑罰がくるからという話を聞かされたものですが、最近はそういう話もあまり耳にしません。教会も、それほど死後の裁きの話をしなくなりました。

 というか、旧約聖書を読んでいるとほとんどこの死後の話は描き出されてもいなかったのですが、主イエスはここで急にこんな話をなさったわけです。即ち死んだ後で自分の人生がひっくり返ることがあるのだという話をなさったわけです。

 私たちは、誰にもある日死が訪れます。早いか遅いかの違いはあったとしても、それは誰にも等しく訪れます。

 興味深いのは、主イエスのこの話は、ここで貧しい人として描かれているラザロの生前の信仰が語られていないことにあります。ラザロは実はとても信仰深い人物だったのだと書かれていれば、この話の意図は明白になるのですが、ここでは金持ちとラザロの違いは最初に話したように「生い立ち」や、その後の「人生経験」以外にはないかのように感じられます。表面上は、です。

 そこで、もう少し丁寧にこの聖書の箇所を考えてみたいのです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 2 日

・説教 ルカの福音書16章14-18節「神の国の福音に生きる」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:41

2025.03.02

鴨下直樹

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 主イエスは話のとても上手なお方です。今日のルカの福音書のこの箇所にも主イエスのお話の上手さがよく現れていると言えます。

 前回の話、不正な管理人の譬え話をなさったあとで、神に対して忠実に富を用いることをお話しになられました。この話を主イエスは弟子たちに向けてお語りになられたわけですが、その話を聞いていたパリサイ人たちは、この話を嘲笑いながら聞いていました。主イエスの話をあざ笑ったのです。それに対して話されたのが今日の箇所です。ここには、主イエスの話の巧みさがよく出ているとても面白い箇所だと言えると思います。

 パリサイ人たちがこの時、主イエスの話を聞いて、なぜ笑ったのかというとパリサイ人なりの理由があります。それは、申命記28章にも書かれているのですが、イスラエルの民が主の戒めを守り従うなら祝福されるという約束があります。それで、ユダヤ人たちは仕事が成功して富を得るのは神からの祝福のしるしだと考えていました。それなのに、主イエスは「神にも富にも仕えることはできない」と言われたので、それはおかしいと考えたのです。この考え方に関しては、パリサイ人たちは自信を持っていたと思いますし、実感でもあったのだと思うのです。

 富を得られるのは神からの祝福のしるし。パリサイ人たちはそのように考えていたのです。それなのに、主イエスは富のことを「不正の富」と言ったり、「この世の富」と言ったりして、神と富を別々のものとする考え方を示されました。この話を聞いて、パリサイ人たちは主イエスの考え方には同意できない、これは神の考えに反する教えだと考えて嘲笑ったのでした。

 それで、主イエスはお金の好きなパリサイ人たちに対して話されたのが、この14節以下の話です。この時に主イエスが話された言葉、今日の聖書箇所には少しびっくりする言葉が投げかけられています。15節です。途中からお読みします。

神はあなたがたの心をご存知です。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。

 ドキッとする言葉です。「人々の間で尊ばれるもの」でイメージするのはなんでしょうか? 今だと野球は新しいシーズンのための準備の期間ですが、大谷選手の話でいつもニュースは持ちきりです。人々の間で尊ばれている大谷選手は、神には忌み嫌われているのか? そんなふうに考えてしまうと、よく分からない言葉とも言えます。

 主イエスはこのように少しドキッとする言葉を発されて、人々が考えるように促しておられるわけです。 (続きを読む…)

2025 年 2 月 23 日

・説教 ルカの福音書16章1-13節「不正な富の用い方」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:12

2025.02.23

鴨下直樹

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 私ごとから始めて恐縮なのですが、この一週間この聖書箇所にずいぶんと悩まされてきました。手元にある本を何十冊読んだか分かりません。この聖書箇所は難解な箇所としてよく知られているのですが、実に、さまざまな解釈が存在します。同じように読んでいる人は一人もいないと言ってもいいくらい、それぞれが、まるっきり読み方が違うのです。

 聖書朗読をお聞きになられて、皆さんもこれが何を語っている話なのか、すぐには理解できないのではないかと思います。というのは、聞いていて引っかかる箇所がいくつもあるのです。

 ある管理人が「主人の財産を無駄遣いしている」という訴えから話が始まります。この管理人は「不正な管理人」と8節で命名されています。この「不正な管理人」は、「主人のお金の無駄遣い」がバレてしまって、首を宣告されます。ところが、まだ取引先のお客さんは、その管理人が首になったことを知りませんから、証文を安く書き換えてやることで、恩を売って自分が失職した際に家に迎え入れてもらおうと画策したという譬え話を主イエスがなさいました。どうみても、不正のうえにさらに不正を働いているわけですが、主人は、これを知ってこの「不正な管理人を褒めた」というのです。

 皆さんはこの話を聞いて、どう思われるでしょうか? ここに出てくる不正な管理人というのは、不正に不正を重ねて自己保身のために知恵を使った人物です。ここで主イエスが「この人はやがて裁かれるのだ」とか「こういう人の末路は惨めなものだ」と仰ったのであれば理解することもできます。しかしもし本当に主イエスが褒めておられるのだとしたら、真面目に、誠実に生きようとしているのが馬鹿みたいです。そもそも主イエスがこんなことを仰るなんて、きっと何か理由があるはずで、ここで語ろうとされている福音は何なのかが気になって仕方がないのではないでしょうか。

 主イエスのなさる話というのは、いつもそうですが予想のはるか上をいっている感じがします。「主人がほめた」のだとしたら一体何を褒めたのか? あるいは、そもそも褒められているわけだから、この管理人のしたことは実は悪いことではなかったのではないか? と、それらをめぐって実にさまざまな聖書解釈が存在します。 (続きを読む…)

2025 年 2 月 2 日

・説教 ルカの福音書15章25-32節「不満が溢れる心に」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:45

2025.02.02

鴨下直樹

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 今日の説教題ですが、予定を変えて「不満が溢れる心に」としました。今日の聖書に出てくる兄息子の心を表した言葉です。

 「不満」。今日はこの言葉を少し考えてみたいと思うのです。というのは、私たちが生活している時、常に私たちはこの「不満」と対峙しながら生活しているからです。ガソリンがまた高くなった。スーパーの野菜が高い。そんな日常の細かな不満をあげればキリがありませんが、そういう物事に対する不満もありますが、「不満」の多くは人に向けられる感情であることが多いと思います。そして、そのような人に向けられる不満の感情の多くは、どこかに表されることなく、心の中に仕舞い込んでいることが多いかもしれません。それを口に出した途端、その人との関係が壊れてしまうこともあるからです。

 今日の聖書に出てくる二人の息子にもそれぞれに、異なる不満があったはずです。ここに出てくる二人の息子には、それぞれに心のうちに秘めた思いがあったはずです。そして、弟息子はある時それを口に出し、行動に移しました。それが、父に向けて言ったことば「お父さん、財産のうち私がいただく分をください」という12節の言葉に表されています。

 そして、「弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。」と続く13節に記されています。

 弟息子は、父への不満、家への不満をそのような態度で表しました。しかし、この兄息子の方は、この時に一緒に財産をもらいましたが、弟のように財産を持って旅立つことはせず、父親の元に留まったのです。兄にも家を出るチャンスはあったかもしれませんが、兄は父のもとでそのまま仕事に従事していたわけです。立派な跡取りとしての務めは果たしていると言えます。少なくとも、周りからはそう見えているはずです。けれども、今日の聖書の箇所まで進むと、この時の兄息子の心の中に秘められていた不満が明らかになっています。

 兄が畑でいつものように仕事をしていると、何やら楽しそうな音楽と踊りの音が聞こえてきます。それでしもべに尋ねると、弟息子が帰ってきたので、父親が子牛を屠って盛大な宴会を催しているというのです。この瞬間、兄の心は一気に崩れてしまいます。

 兄には父の思いが理解できません。どうして弟息子を喜んで迎え入れるのか。盛大な宴会を開いているということは、弟息子を喜んで迎え入れたにちがいないのです。兄の心の中がざわつきます。弟に対する怒り、父親への不満が一気に噴出します。「こんな馬鹿らしいことがあるか!」それが、兄息子の心の中の思いです。

 この兄の思いは、誰もが共感する思いでもあります。兄からすれば自分が不当に扱われているような、そんな気持ちになるのも私たちには良く理解できるのです。

 「正直者が馬鹿を見る」という諺があります。それは、この世の中のあり方を表している言葉でもあります。けれども、それは聖書の考え方ではないし、神はそういうことを認めない。そうでなければ何が信仰かという思いが、私たちの中にはどこかにあると思います。

 信仰というものは、心を見てくださる神の御前にあって、誠実に生きること、真実に生きること。そこに神の祝福もあるはずです。私たちはそう考えます。私たちの主は人の心を見られるお方だからです。

 けれども、この聖書を読んでいるとやはり「正直者が馬鹿を見る」という思いが拭えない、そんな思いになるのかもしれません。聖書はここで何を私たちに語ろうとしているのでしょうか? (続きを読む…)

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