・説教 マルコの福音書3章7-12節「汚れた霊どもを戒める」
2024.9.15
内山光生
序論
8月末から9月上旬にかけて、全国各地のお店でお米が不足している状態となっていました。マスコミの報道が影響したのでしょうか。ますますお米がお店からなくなっていったのでした。政府は国全体では在庫が足りている。また、新米の入荷が始まるのですぐに問題は解消すると言っていました。そしてその通りに、今となっては新米がどんどん入荷してきて米不足は収束を迎えたようです。ただ、値段が例年よりも高くなっているとのことです。
余談ですが、9月上旬に私の実家でも、米の収穫を終えました。私も少し手伝いをしに行きましたが、例年になく苦労をしました。というのも、肥料を多くやりすぎたせいでしょうか、稲穂が倒れてしまったのです。そうなると、米を刈り取るコンバインがうまく作動せずに、何度も機械のメンテナンスをしながらの作業となるのです。
そんな訳で通常2日で終わる作業が2倍の4日かかってしまいました。けれども、なんとか収穫できた事に感謝を覚えます。私の父が後何年、米作りができるかは分かりませんが、今まで、神様が守り導いて下さったことに感謝をいたします。
I 様々な地域の人々が主イエスの元に来る(7~8)
7~8節から順番に見ていきます。
前回の箇所では、イエス様が安息日に「片手のなえた人」を癒した出来事が記されていました。そして、イエス様に敵対している人々、つまり、パリサイ人たちが「イエス様を殺害する計画をし始めた」と記されていました。
それまでイエス様は、町々の会堂、すなわち、シナゴーグにおいて、安息日ごとに聖書の解き明かしをするという方法で福音を宣べ伝えていました。けれども、パリサイ人たちの敵対心が大きくなった事を受けて、イエス様たちは、町から離れガリラヤ湖の方に向かったのです。
あのパリサイ人たちは、当時のユダヤ世界では、宗教的に最も権威のある立場でした。そして、イエス様に対してあからさまに敵意をむき出しにしていました。それを見ていたイエス様の弟子たちや群衆は、どちらが正しいと思ったのでしょうか。
言うまでもなく、イエス様の弟子たちはイエス様の言っていることが正しいと受け止めていました。それに加えて、大勢の群衆たちも、イエス様の言っていることが正しいと受け止めたのです。その証拠として、イエス様たちが町から出て行っても、イエス様が向かう所について行ったのです。
もしもパリサイ人たちの言っている方が正しいと受け止めていたならば、どうしてイエス様たちについて行くでしょうか。人々がイエス様について行ったのは、安息日に「善いことをする」のが当然だと受け止めたからです。また、安息日に「いのちを救うこと」が正しいと確信していたからです。
確かに、パリサイ人たちや律法学者たちは、旧約聖書に預言されている救い主に関する知識を持っていました。、しかし、目の前に救い主が現れているにも関わらず、そのお方が誰なのかに気づけなかったのです。反対に、旧約聖書の知識をそれほど持っていない群衆たちは、イエス様の言葉や行いを見て、この方について行きたいとの思いが出てきて、その気持ちを行動に移し、イエス様たちについて行ったのです。
聖書のことばの中には、難しい内容もあります。でも、すべてが難しい訳ではなく単純明解な内容もあります。その中にあって、文章を理解する力が優れている人が、イエス様を信じるようになりやすいかと言えば、そうとも限らないようです。むしろ、国語が苦手だと思っている人の方が案外、素直に聖書のことばを受け入れることがあるのです。
大切な事は、イエス・キリストに対して心を開こうとしているかどうかなのです。あるいは、イエス様に対して良い印象を持っているかどうかなのです。そのような前提があって、ようやく、みことばが心に入ってくるのです。
さて、イエス様たちについて行った人々は、ガリラヤ地方の人々だけではありませんでした。ガリラヤ以外の多くの人々が、イエス様の元に集まってきたのです。
イエス様は、最初、ガリラヤ地方を廻って宣教活動をしました。そして、この時点では、それ以外の地域の人々にはまだ福音を伝えていなかったのです。ところが、ガリラヤの人々が、別の町々に住んでいる人々に、イエス様のうわさをしたのでしょう。ガリラヤよりも更に広い地域の人々が、イエス様を一目見ようとやってきたのです。
当時は、今の時代のようにインターネットはありませんし、携帯電話もありません。車も走っていませんので、遠くにいる人にすぐに会いに行くこともできません。それでも、イエス様の評判は口づてに多くの人々に伝えられたのです。
これは驚くべき反響です。この時の群衆は、イエス様に対して好意的に受け止めていたのです。残念な事に、この群衆は、後にイエス様を十字架に追いやるのですが、少なくとも、ガリラヤ伝道をしていた頃は、多くの群衆はイエス様に対して好意的に見ていたのです。
II 小舟を用意するよう命じる主イエス(9~10)
9~10節に進みます。
イエス様は、多くの群衆がやってきた事に気づくと、弟子たちに小舟を用意するよう命じられました。弟子たちの中には、漁師出身の人々がいます。例えば、ペテロがその代表格です。ですから、彼らが小舟を用意して、そして、それを操縦する事は朝飯前だった事でしょう。こうして、イエス様の活動は漁師出身の弟子たちに支えられていくのです。
さて、イエス様の評判が色々な地域に広められ、その結果、多くの群衆が押し寄せました。けれども残念な事に、ほとんどの人は、イエス様の福音の中身に関心がある訳ではなく、むしろ、イエス様に病人を癒す力があることに関心を持ったにすぎなかったのです。
数えきれない人々が、イエス様の元にやってきている。その人々は、イエス様に期待をしている。イエス様がすばらしい人だと思っている。しかしながら、イエス様がどなたなのかに気づいている人は、ほとんどいなかったのです。
今から20年程前に、私は東京のある教会で神学生という立場で奉仕をしていました。その時、日野原先生がまだご健在であって、しばしばテレビに登場していました。その日野原先生の講演会が、なんと、私の奉仕していた教会で開催されたのです。会堂は、いっぱいに詰めたとしても120~130人ほどの広さです。にも関わらず、当日、300人の人が押し寄せたのです。そして、中に入れない人が怒りをあらわにしていたので、急遽、別の部屋にプロジェクターで映すという方法をとり、なんとか集会を終えることができました。
いまだかつて、その教会に300人もの人が集まったことがありません。だから、なんとも言えない喜びで満たされたのです。ところが、その翌週になってもその次の週になっても、日野原先生の集会にきていた人の中から日曜日の礼拝に訪れる人は一人もいなかったのでした。
日野原先生の講演会の内容は、すばらしいものでした。きちんと聖書のことばを引用していて伝道的な内容が含まれていました。しかし、集まった人々が期待していたのは、有名な人の話を直接、聞きたい、それだけの事だったのでした。
この出来事から、私は神様に感謝しつつも、すぐには実を結ばない現実を直視することとなりました。でも私は、すぐに結果が出なかったとしても、長い年月で見ていく時に、すべてが益となる、そう受け止めるのが良いと思わされたのです。
III 汚れた霊を戒める主イエス(11~12)
11~12節に進みます。
多くの群衆は、イエス様ならば病人を直すことができると、期待して、みもとにやってきました。そして、実際にイエス様は、自分の元にやって来る人を皆、癒されたのです。
人々はイエス様のいやしのみわざに対して高く評価しました。けれども、人々は、イエス様がどなたなのかに気づいていなかったのです。つまり、イエス様が本当の意味での救い主だということが分からなかったのです。一方、汚れた霊ども、すなわち悪霊どもは、イエス様がどなたかをきちんと分かっていました。悪霊どもは、イエス様に対してひれ伏して「あなたは神の子です。」と叫んだのです。けれども、悪霊どものこの叫びは、イエス様に対する信仰心から出ていたのではありません。つまり、悪霊どもは、イエス様が救い主だと認めている訳ではないのです。ただ知識として、イエス様が神の子だと知っているにすぎないのです。ここに大きな問題があったのです。
イエス様は、悪霊どもが「あなたは神の子です」と叫んでいたけれども、お喜びになりませんでした。それは、悪霊どもが心の中では、イエス様が救い主だということを認めていない事をイエス様は見抜いていたからです。言うなれば、悪霊どもは「嘘の告白」をしていたと言えるのです。この手の事をイエス様はお怒りになるのです。
ローマ書10章10節には、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。
ですから、このみことばの通り、「イエス様は私の救い主です。」と告白できる人は、救われている人と言えるのです。でも、それは、あくまでも「心に信じている」ことが前提となっている事に注意が必要です。
ある牧師から聞いた話ですが、その牧師がまだ経験が浅かった頃に、10代の青年が教会に集うようになったそうです。そして、個別に学びを進めていく中で、数か月がたった頃、その青年が「イエスは主だと信じます。」と告白したそうです。それで牧師はうれしくなって神様に感謝をしたそうです。ところが、その青年のもくろみは、キリスト教系大学の推薦入学を受験するために、教会からの推薦状を書いてもらうことであって、そのために、形だけでも教会員になっておこう、そういう事だったそうです。
残念な事ですが、その青年は推薦状を書いてもらってしばらくすると、教会に来なくなったというのです。
これは特殊な事例なのかもしれません。ただ注意しないといけないのは、「イエスは主です。」という告白を聞くと私たちクリスチャンはうれしい気持ちとなります。しかし同時に、冷静になって、その人が心の中でイエス様をはっきりと信じているかどうかを判断していく視点も必要なのです。
多くの場合、本当にイエス様を信じているならば、喜んで礼拝に集うようになる事でしょう。本当にイエス様を信じたならば、ことばや態度になんらかの変化が起こるものです。
つまり、その人の口から出ることばの数々によって、また、その人の行動の変化によって、「ああ、この人は確かにクリスチャンだ」と受け止めることができるのではないでしょうか。
イエス様が悪霊どもを戒められたのは、イエス様に対する信仰がないにも関わらず、「あなたは神の子です。」と口先で言っていたからです。つまり、偽証していることに対して戒められているのです。
まとめ
悪霊は言葉の上では正しい事を言っていました。けれども、心の中ではイエス様を救い主とは認めていませんでした。そのような発言に対して、イエス様は戒められたのです。
イエス様の願いは、イエス様の言葉を聞いて福音を信じるようになる事です。ですから、悪霊どもの口から出てくる言葉によって、ご自身のことが広められることを望んでいなかったのです。一方、神は本当にイエス様を信じている人々が、周囲の人々に自分の身に起こったことを証しすることによって福音が広められることを願っておられます。
今日の箇所を見ると、イエス様が直接、福音を伝えた時に多くの人々がイエス様を好意的に見たものの、イエス様が救い主だということを信じる人々が少なかったことが分かります。そういう意味では、今の時代の日本でも似たようなところがあると感じるのです。
伝道活動あるいは福祉的な活動というのは、私たちが願っているようにすぐに結果が出るとは限りません。しかし種を蒔かなければ実を結ぶことがないように、誰かがイエス様の事を証ししなければ、救われる人が生まれてこないのです。
今の時代、インターネットを通して多くの教会、あるいは個人が福音を伝えています。それと同時に、偽キリストや異端の働きが活発になっています。そういう中にあって、私たちは、自分たちの周りにいる人々がイエス様を信じることができるようにと祈り続けていきましょう。
神様は、私たち信仰者の切なる祈りに答えて下さるお方です。ですから、各々が神様に期待をして、自分たちの願いを祈っていくこと、それが私たちに生きる希望を与えるのです。
お祈りします。