2019 年 3 月 17 日

・説教 マルコの福音書12章28-34節「一番大切なもの」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:44

2019.03.17

鴨下 直樹

 みなさんにとって、「一番大切なものってなんですか?」と質問されたらなんと答えられるでしょうか。ちょっといろいろ考えてから答える必要がある質問です。

 私の場合、今すぐに直感的に出てくるのは「こども」という答えです。でも、こう答えた後で、いや、それだと牧師らしくないと考えて「信仰」と答えたくなる衝動が出てきます。でも、もう少し丁寧に考えればもっと上手に答えられるのではないかと、少し冷静になって考えてみると、もっと大きな意味を込めて「いのち」と答えることもできるかなとか色々考えます。人によっては、ケータイの中に自分のすべてが詰まっているという人もあるかもしれませんし、やはり家族がなによりも大切と答えたくなるかもしれません。

 少し質問を変えて、「いちばん大切にしていることは何ですか?」と質問するとどうなるでしょうか。「もの」から「こと」に替わるだけでずいぶん違った答えになるはずです。「一番大切にしていること」と聞いて、すぐに出てくるのは、どの分野での質問だろうということです。「牧師として一番大切にしていること」というのと、「説教するときに一番大切にしていること」ではおのずと答えが変わってきます。

 実は、この説教題のつけ方はだいぶまずかったなと反省しています。タイトル自体が抽象的すぎるのです。教会の前を通りかかると、次の説教の題が一週間掲示されているわけですが、自分で何度も目を通しながら、これを近所の人が目にしてどんなことを想像するんだろうかとあれこれと考えるわけです。そして、きっと「人生において一番大切なものって何かな」と考えてくれるのではないかと思うことにしました。そう考えるのが妥当だと思えるからです。

 けれども、そう考えて聖書を読んでみますと、「すべての中で、どれが第一の戒めですか」と書かれています。ここで、ちょっと困ってしまうわけです。「人生の中で一番大切なもの」と、「戒めの中で第一にするべき戒め」というのとは、少しというか、かなりニュアンスが違ってくるわけです。

 私たちは毎日生活するなかで、それほど多くの戒めに縛られて生きてはいないと思います。けれども、いろんな考え方はあります。「人に親切にしよう」とか「ちゃんと挨拶をする」とか、あるいは、「電話は10回以内で出る」とか、「待ち合わせは5分前に着くようにする」とか、人によって、いろいろと大事にしていることがあると思うわけです。なかでも、多くの人のかなり上位にランクインする考え方として「人に迷惑をかけないようにする」というのがあると思います。この考え方は、いろいろなものを含んでいます。たとえば、「電話を10回以内で出る」というのも、「待ち合わせは5分前に着くようにする」も、「人に迷惑をかけないようにする」ということの中に含まれます。ですから、より包括的な考え方というのが大事になってくるわけです。 (続きを読む…)

2019 年 3 月 15 日

・説教 マルコの福音書12章18-27節「生きておられる神と共に」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:49

2019.03.03

鴨下 直樹

 今日のテーマは「復活」です。先日、妻とさきほど話した聖書の話しのことでこんな話が出ました。「復活」という言葉は子どもに分かりにくいのではないかと思って、「よみがえり」という言葉に言い換えようとしていたのです。ところが、最近の子どもは「よみがえり」という言葉よりも「復活」という言葉の方が、なじみが深いということに気づいたのです。子どもの遊びでもゲームでも、「復活」という言葉がなじみになるほどによく使われるというのは、考えてみればとても興味深い気がします。けれども、その場合よく考えてみると、「元の状態にもどる」という意味がそこには込められていることに気がつきます。そして、私たちはひょっとすると、聖書が語っている「復活」も、そのように考えているのかもしれないということに、改めて気づかされるわけです。

 今日の聖書の箇所は、また新しい主イエスの敵が登場してきます。よくもまあ、毎回手を替え品を替えしながら、色々な人々が出てくるものだと感心したくなります。今日新たに出てくるのは「サドカイ人」です。サドカイ人というのは使徒の働きに何回か出てきますが、復活を信じない人たちです。それ以外の詳しいことはあまり書かれていないのですが、このサドカイ人たちは、モーセの記した五書といわれる律法の書をとても重んじていました。そして、そのモーセ五書には復活のことは書かれていないわけです。それで、19節にあるように申命記に書かれている律法を読み上げました。これは「レビラート婚」と言われる戒めで、夫が亡くなった場合、その妻は兄弟に嫁ぐことによって財産を守るという考え方があったわけです。ルツ記に出てくるルツはこの戒めに従ってボアズと結婚をしています。

 19節にこう書かれています。

もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を残さなければならない。

 現代の私たちには少し理解しにくい結婚観ですが、日本でも少し前まではこういう考え方はありました。サドカイ人はこの聖書の箇所を復活がないことの証拠の箇所としてこの申命記に書かれている戒めを引用しているわけです。つまり、これはどういうことかというと、モーセの律法は、永遠のいのちということに関心があるというよりも、この世での生活に関心があることを示しているではないかということになるわけです。

 そして、続いて20節以下のところでは七人の兄弟がいて、その兄弟が次々に死んでしまった場合、その長男の妻は復活の際誰の妻となるのかという質問を投げかけます。

 サドカイ人は復活を信じていない人たちです。もし復活があるならこの妻は誰の妻となるのか。ちょっと考えてみてもそんなことはあり得ないのは明らかではないかと言おうとしているわけです。

 このサドカイ人の問いかけは一見相手をバカにしている不真面目な質問のように映ります。けれども私たちもサドカイ人と同じような考え方を持っている気がします。

 国語辞典を調べますと復活という言葉の意味は一番目の意味としては「死んだ者がいきかえること、よみがえり」となっていて、二番目に「元の状態に戻すこと」となっています。そのためでしょうか。私たちは復活ということを考える時に「元の状態にもどること」ということがどうしても頭から離れないでいます。

 そのためでしょうか、復活の後、つまり死んだあとでクリスチャンはよみがえるのだとすると、それは元の状態になることだと、つい考えてしまうことがあるのだと思います。死んでしまったペットと天国で一緒に暮らす。家族もまた天で同じように家族として暮らす。あるいは仲良し家族の場合も、天ではみんな近くに住んで一緒に暮らせるというような夢を持つこともあるわけです。

 けれども、よく考えてみるとそのように、絵にかいたような幸せそうな家族像がそこにはあるのかもしれないのですが、いろんな家族の形がありますから単純にきっとこうなるというような思い込みはよく考える必要があるのかもしれません。 (続きを読む…)

2019 年 3 月 8 日

今月の礼拝予定(2019年3月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 16:43

3月3日 降誕後第10主日

主日主題: 生ける神
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書12章18-27節
説教:「生きておられる神と共に」鴨下直樹牧師
子ども: 鴨下愛

午後:役員会

3月10日 受難節第1主日

主日主題: 戒め
合同礼拝: 午前10時30分
聖書: コリント二 4章6-7,16-18節
説教:「土の器と宝」鴨下直樹牧師

午後:宣教ネットワーク合同役員会@芥見

3月17日 受難節第2主日

主日主題: キリスト
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書12章28-34節
説教:「一番大切なもの」鴨下直樹牧師
子ども: 鴨下愛

午後:手話講座

3月24日 受難節第3主日

主日主題:
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書12章35-37節
説教:「キリストって?」鴨下直樹牧師
子ども: 鴨下愛

3月31日 受難節第4主日

主日主題: 霊性
合同礼拝: 午前10時30分
聖書: (未定)
説教:渡辺睦夫師

午後:聖歌隊練習

子どもと親のプログラム(3月のご案内)

Filed under: 子どもと親のプログラム,教会の活動 — susumu @ 16:30


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  • Mama’s cafe
    ...3月26日(火)朝10:00~12:00(第4火曜日です)
    参加費:300円…デザート&飲み物
     
    ノーバディーズパーフェクト(略NP)から生まれたママ達のおしゃべりサロンです。NP卒業したママや、こひつじクラブのママ、ハレルヤちびっこ、サタデージョイのママ達と、そのお友達にご案内しています!
     
    お申込みは教会まで 電話 ♪058-243-5798
    または⇒こちらのフォームからメッセージを送信してください。
    (お申し込みは23日頃までにお願いします)。
     
    ★託児はありませんが、ママの近くで乳幼児さんプレイスペースがあります!★

 

  • 子どもグッツや日頃の裁縫、素敵な作品なんでも!「マレーネ先生とてしごとの会」
    ...3月13日(毎月第2水曜日)朝9:30~12:00
    ※茶菓代100円

 

  • 未就園(0歳から)のお子さんと親のプログラム「こひつじクラブ」
    ...3月は休会です。(基本は毎月第2火曜日開催)朝10:30~13:00
    ※参加費:200円(茶菓代/材料費)

 

  • 就園児(3歳から)と親のプログラム「ハレルヤちびっこ」
    ...3月9日(毎月第2土曜日)朝10:30~13:00
    ※参加費:親子一組で300円
    前日までに出欠をご連絡ください。

 

  • 小学生のためのプログラム「サタデージョイ」
    ...3月9日、16日、23日(毎週土曜日)朝10:00~11:30 参加無料
     
    ★毎回、家ではできない思い切った活動で、想像力がぐんぐん育っています!

現在少人数ですので、小学校で揉まれる子ども達にとっても心落ち着く居場所になっています。
世界のベストセラー、「聖書」の言葉を学んで、心の豊かさと、目には見えないけれど大切なことを考える心豊かな時間です。
 

  • ゲームナイト(芥見7丁目・宣教師館にて)
    ...3月16日(毎月第3土曜日)夕18:00~ 参加費:200円(軽食付き)
    ★ドイツのボードやカードゲーム

 
お問い合わせ・申込みは教会まで 電話 ♪058-243-5798
または⇒こちらのフォームからメッセージを送信してください。

2019 年 2 月 17 日

・説教 マルコの福音書 12章13―17節「神のものを神に」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:11

2019.02.17

鴨下 直樹

 「私とはいったい何者なのだろう。」みなさんは、自分のことをそう問われることはあるでしょうか。「自分とはいったい何者なのか」そんな難しいことは考えていなくても、「他の人は自分をどう見ているんだろう。」そんなことは考えるかもしれません。

 先週の金曜日に名古屋で教えております神学塾で、今年度の最後の講義が行われました。その時、私が神学生だった時に、どの講義が助けになったかという話がでました。私は、その時に、いつも「カウンセリング」と答えることにしています。本当に、この講義で、というか、この講義を担当してくださった先生によって、私は実に多くのことに気づかされたのです。その先生は、赤坂泉という先生なのですが、今は、東京にあります神学校の聖書宣教会というところで、学生主任をしておられる方です。私が学んだ当時は、もう20年以上も前ですけれども、アメリカでカウンセリングの専門の学びをされて、帰ってこられたばかりで、当時は三重県の伊勢で牧会をしておられました。先週の講義時にも話したのですが、この赤坂先生の「牧会カウンセリング」という講義の中で、ある時、まる一日かけて松坂市のある研修施設に一日「缶詰」になって学ぶ機会がありました。当時この講義をとっていたのは教職課程の4〜5人だったと思うのですがその日は、自分で自分をどう理解していて、他の人は自分のことをどう理解しているのかを語り合うという時を持ったのです。

 その講義の時に、先生は一枚の絵を使いました。その絵の真ん中には一本の木があるのですが、その木の周りに、いろんな人が描かれています。これから木に登ろうとしている人、木を登りかけた人、枝の幹のところで腰掛けている人、木の一番てっぺんに上り詰めている人、そのほかにも、木に背を向けてほかのところに行こうとしている人なんかも書かれていたと思います。そして、自分はこの絵の中のどれにあてはまると思うかということを尋ねられたのです。私は、当時神学塾で学びながら、他の教会で奉仕神学生として働いていた時です。自分の無知なことを知り、改めてたくさんのことをまだまだ学ぶ必要があるということを感じていたので、その絵をみて、私は迷わず、これから木に登ろうとしている人を指さしました。ところが、その瞬間、他の人たちから一斉にどよめきが起こりました。みんな一斉に、木の一番上にいる人を指差して、「お前はここにいつもいる」と口を揃えて言ったのです。私は、ショックでした。私はまだ、何もはじめてもいないと自分では思っているのに、周りからはまったく違うイメージで見られていたわけです。それと同時に、自分の傲慢さということに、改めて気づかされました。自分ではそう思っていなくても、周りからはそう見えるのかということに気づかされたわけです。自己理解と、他者理解というのでしょうか。こうも自分が考えていることと、人が見ている自分というのは違うのかとショックを受けました。そして、そのことは、とても大切な気づきになりました。

 みなさんはもう気づいておられると思いますが、私は普段あまり、人からどう見られているかということを、さほど気に留めません。それは、この学びを通して気づかされたことでもあるわけですが、他の人が考えること、感じることというのは、自分ではどうすることもできないということが、よく分かったからです。人のイメージに合わせていたら何もできなくなってしまうのです。けれども、多くの人にとって、人から自分がどう見られているかというのは、とても大きな意味を持つ場合があります。自分が正しく評価されていないとか、自分のことを正しく認めてもらえないということが、悲しみの大きな原因になるのです。

 今日の聖書の中に出てくる人は、パリサイ人とヘロデ党の人が新たに登場してきます。彼らを連れて来たのは、前から続いている祭司長や律法学者たちです。この人たちは、人からどう見られているかということが、気になって気になって仕方がない人たちです。今日の話は、まさにそういう中で、誰の顔色を見るのが正しいのでしょうかというような問いかけがなされているところです。

 さて、まず今日出てきた「パリサイ人」という人たちですが、この人たちは宗教的な熱心さが特徴で、律法を守ることを大切にしてきた人たちです。そして、当時のユダヤ人たちの信仰の代表者と言ってもいいような人たちでした。そして、もう一方の「ヘロデ党」というのは、イスラエル人でありながら、当時のイスラエル近郊を支配していたヘロデ・アンティパスというローマの総督の政治を支持する人たちのことです。つまり、長いものには巻かれろというような考えで、時の支配者であるローマの権力に従うことを表明していた人たちのことです。イスラエルのこれまでの伝統を大切に考える人たちと、ローマに従うことも仕方がないという人たちとでは本来、相容れない考え方のはずです。けれども、この両者は以前から主イエスを懲らしめるという点では一致していたので、ここでも手を取り合って、主イエスを陥れようとやってきたわけです。 (続きを読む…)

2019 年 2 月 10 日

・説教 マルコの福音書12章1―12節「神の信頼」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:11

2019.02.10

鴨下 直樹

 こういう話から始めるのは、自分の首を締めることになるのかもしれませんが、皆さんにとってよい説教の条件とは何でしょうか。どういう説教を聞くと、ああいい説教だと思うのでしょう。もちろんいろ、色んな言い方ができると思います。何週間か前に、祈祷会に来ておられる皆さんに聞いてみました。色いろんな意見が出てきました。そして、その殆どの意見は、私にとってとても厳しいものばかりが並ならびました。

 ある方は、「説教には愛が必要だ」と言われました。ある方は「聖書の説明はいらないから、もっと自分の心をさらけ出したお言葉を聞きたい」と言われました。ある方はもっとストレートに「先生はこちらに来られた頃の説教は良かったのに」と言われた方もあります。私は、こういう言葉をとても大事なことだと思っています。そういう言葉に耳を傾けながら、人の心に言葉が届くというのは、どういうことなのかといつも考えさせられるのです。

 いま、名古屋の西地区の様々な教会の牧師たちが学びのために隔月で行っている牧師会で「届く説教になるために」というテーマで3回にわたって話をすることになっています。先月、その第一回目の話をしたのですが、そこに来られている牧師たちに、まず自分がどういう説教が好きなのか、どんな説教に心惹かれるのかと一人ずづつ聞いてみました。そこでも色いろんな意見が出でてきました。その時に、私はこう思うと4つのポイントを挙げてまとめてみました。皆さんはどう思うか分かりませんが、私はこの4つのポイントが大事だと思っています。

 一つ目は、まず聖書が分かるということです。そして、私自身が、なによりも大事にしていることでもあります。聖書が分からないと始まらないのです。二つ目は、神の御姿が見えてくるということです。神様が分かる。神と出会うと時、神の聖さに触れるとき、私たちの心は動きます。三つ目は自分の気持ちが言い当てられるということです。この三つめはかなり大事な点で、自分はこう考えていたのかと気づかされたり、あるいは、これは自分のことだと分かるという経験をするのです。そういう時に、人は涙をながします。そして、四つ目は、福音の言葉が響いてくるということです。色いろんな言い方ができると思いますが、私はこの四つのことに全て集約されると思っています。でも、その四つが分かっているからといって、いい説教が作れるということにはなりません。色いろんな妨げになるものがあるわけで、それが取り除かれていく必要があるわけです。 (続きを読む…)

2019 年 2 月 4 日

子どもと親のプログラム(2月のご案内)


akutami_kodomo_201902_cap

  • Mama’s cafe
    ...2月26日(火)朝10:00~12:00(第4火曜日です)
    参加費:300円…デザート&飲み物
     
    ノーバディーズパーフェクト(略NP)から生まれたママ達のおしゃべりサロンです。NP卒業したママや、こひつじクラブのママ、ハレルヤちびっこ、サタデージョイのママ達と、そのお友達にご案内しています!
     
    お申込みは教会まで 電話 ♪058-243-5798
    または⇒こちらのフォームからメッセージを送信してください。
    (お申し込みは23日頃までにお願いします)。
     
    ★託児はありませんが、ママの近くで乳幼児さんプレイスペースがあります!★

 

  • 子どもグッツや日頃の裁縫、素敵な作品なんでも!「マレーネ先生とてしごとの会」
    ...2月13日(毎月第2水曜日)朝9:30~12:00
    ※茶菓代100円

 

  • 未就園(0歳から)のお子さんと親のプログラム「こひつじクラブ」
    ...2月は休会です。(基本は毎月第2火曜日開催)朝10:30~13:00
    ※参加費:200円(茶菓代/材料費)

 

  • 就園児(3歳から)と親のプログラム「ハレルヤちびっこ」
    ...2月9日(今月は第3土曜日です。ご注意ください。)朝10:30~13:00
    ※参加費:親子一組で200円
    前日までに出欠をご連絡ください。

 

  • 小学生のためのプログラム「サタデージョイ」
    ...2月9日、16日、23日(毎週土曜日)朝10:00~11:30 参加無料
     
    ★毎回、家ではできない思い切った活動で、想像力がぐんぐん育っています!

 

  • ゲームナイト(芥見7丁目・宣教師館にて)
    ...2月16日(毎月第3土曜日)夕18:00~ 参加費:200円(軽食付き)
    ★ドイツのボード・カードゲーム

 
お問い合わせ・申込みは教会まで 電話 ♪058-243-5798
または⇒こちらのフォームからメッセージを送信してください。

2019 年 2 月 3 日

・説教 マルコの福音書 11章27―33節「神の権威と人の権威」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 15:54

2019.02.03

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 今日の聖書の箇所は、神殿の祭司長たちと主イエスが衝突しているところです。私たちもそうですが、時として人と衝突することがあります。人の意見と自分の意見が食い違う。そうすると、どうしても衝突が起こります。いさかい、争い、喧嘩、いろんな言葉で表現できます。私たちは人と言い争う時、どのようにして決着をつけているのでしょう。自分の言い分がある。言い分があるということは、話にスジが通っているということです。少なくとも自分ではそう思っているわけです。それでも、少し落ち着いて相手の言葉に耳を傾けてみる。もし、冷静に言葉を聞けるならですが・・・。そうすると、その相手の言葉にも言い分があり、それなりにスジが通っていることが分かるわけです。人と言い争っている時に、そこまでいくだけでも大変だと思うのですが、そうなってはじめて、自分の言い分と相手の言い分のどちらに分があるかということになるのだと思います。多くの場合は、相手の言葉にも耳を傾けることができず、感情だけをぶつけてしまって、後味の悪い思いをするというようなことをついしてしまっているのではないでしょうか。

今日の聖書はまさに、そういう論争、主イエスと律法学者たちとの論争が起こった時のことが記されています。そして、最終的は「分かりません」と言って、終わりにしてしまっているのを、私たちは見るわけです。
私たちは誰かとそれぞれの意見を交わす時、どうやって決着をつけているのでしょう。これは、毎日のことです。そして、信仰ということで考えてみると、神の思いと、自分の思いとがぶつかる時に、私たちはどうやって決着をつけているのかということでもあるわけで、それは、私たちが信仰の歩みをしていくなかで、常に問われることです。その時いつも「分かりません」と避け続けていくことはできないわけです。相手の意見に身を委ねるのか、それとも自分の思いを貫くのか。その時、私たちは何を手に入れ、何を失っているのか。そういうことをしっかりと分かっている必要があるのだと思います。

今日の出来事は、前の日に、主イエスがエルサレムの神殿で宮清めをなさったという出来事を受けてのことです。主イエスは神殿で商売をしている人たちの商売の台や腰掛けをひっくり返してしまわれました。そして、宮を通って物を運ぶこともお許しにならなかったというのです。それに、対して、神殿側の人間、祭司長や長老が「何の権威によって、これらのことをしているのですか」と問いかけてきたのです。 (続きを読む…)

2019 年 1 月 27 日

・説教 マルコの福音書11章12-25節「戦う主イエス」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 22:33

2019.01.27

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 今日の説教題を「戦う主イエス」としました。戦っている主イエスのイメージというのは、私たちが心惹かれる主イエスのお姿とは少し違っているかもしれません。私たちは、主イエスのお姿を見る時に、人を慈しみのまなざしで見てくださるお方、人を癒し、人を受け入れ、赦してくださるお姿に安心します。慰めをそこに見出すことができます。けれども、ここで出てくるような、いちじくの木を叱りつけ、呪われるお姿や、神殿の境内で商売をしている人々の台をひっくり返して怒るお姿というのは、あまり心惹かれるということはないわけです。だいたい、人が怒っている姿を見て、それが好きという人はそれほど多くはないと思います。

 けれども、この戦う主イエスというお姿は、私たちが信仰の歩みをしていくなかで深く心に刻む必要のあるお姿です。そして、ここに深い慰めがあるということを私たちは今日、心に刻みたいと思うのです。

 主イエスは何と戦っておられるのでしょう。今日の聖書を見ると、特に、いちじくの木に向かって叱りつけておられるお姿には理不尽ささえ感じます。12節で「イエスは空腹を覚えられた」と書かれています。よく、「男の人はお腹が空くと機嫌が悪くなる」などと言います。主イエスも例外ではなかった。そう考えれば、男性陣は少しそういう気持ちを正当化できる気がするのかもしれません。けれども、もちろん、聖書はそんなことを語りたいわけではありません。

 葉っぱは青々として見せかけは立派だけれども、実の無いいちじくと、祈りの場である神殿で神への思いはそっちのけで商売にいそしむ人々の姿。この両者のあり方に対して主は戦っておられるのです。それは、つまり見せかけだけの信仰との戦い、あるいは神に期待しない信仰に対して、主イエスは戦っておられるということなのです。

 たしかに、実のなる季節ではないのに、実を実らせていないいちじくに腹を立てることは非常識なことです。私たちはこの常識というものに支配されて生きています。もちろん、それは大事なことです。非常識なことを期待して生きている人は、夢見がちな人などと考えられてしまいます。けれども、神は、私たちの常識を打ち破ってことを行われるお方です。すべて自分の手のうちにあることを期待するのであれば、それは神の御業としては何も起こらないことと同じです。葉は青々としていて見かけはよくても、それだけではいちじくの実を楽しむことはできないのです。神は、私たちの思いを超えて働くのです。 (続きを読む…)

2019 年 1 月 13 日

・説教 マルコの福音書11章1-11節「主がお入用なのです」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:14

2019.01.13

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 マルコの福音書も今日から第11章に入ります。主イエスの一行が、いよいよエルサレムに入ってくるのです。そして、今日の箇所はそのことが記されているところです。

 特に、読み始めるとびっくりすることが書かれています。エルサレムに入る前に、ベテパゲとベタニヤという町に着いた時に、主イエスは二人の弟子を遣わして、子ろばを借りてくるようにと言われました。2節です。

「向こうの村へ行きなさい。村に入るすぐ、まだ誰も乗ったとこのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」

 こうやって読むと、気になることがいくつか書かれています。まず、「まだ誰も乗ったことのない子ロバ」っていうのは、どうやったら分かるんだろうかと思うわけです。けれども少し考えてみると、どういうことか分かってきます。まだ誰も乗せられないと思えるほどに小さいロバということなんだと思うのです。そうすると、そんなロバをどうするつもりなんだろうかという疑問が浮かびます。しかも、つながれているのをうまい具合に見つけることができるのか、もし見つけることができたとしても、勝手に連れて来てしまっていいのかということも気になるわけです。どういうことなのでしょうか。

 結論から言うと、これは主がすでに備えておられたということです。3節にこうあります。

「もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」

 ここに「主がお入用なのです」と言いなさいと書かれています。これは、主イエスご自身が、ご自分のことを「主が」と言われたとても珍しい箇所です。主ご自身はここで、「主」として、この世界の造り主であり、支配者であるお方ということを自覚しておられるわけです。主として、これから子ろばを用いて、エルサレムに入場しようとしておられるわけです。そして、まさに主がこの子ろばを必要としておられる。それは、旧約聖書のゼカリヤ書の9章9節にこう書かれています。

娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。

このゼカリヤ書に書かれているように、神はすでにこのことを預言しておられ、この出来事を神は前から備えておられたのです。そのことが、ここで実現しているのです。ここで「主が」と書かれている言葉が示しているのは、この出来事を主が、神がすでに備えておられたということなのです。これからエルサレムで起こることは、すべて神の御計画であり、主ご自身がそのために働いておられるのです。

 けれども、そのようにして主自らが備えておられるのですが、それは人が願っていることとはかなりかけ離れていたということが、ここから明らかになってくるわけです。

 主イエスがエルサレムに入られるとき、そのお姿は、弱々しそうな子ろばにまたがっての入場であったことがここに記されています。この時代の人々は主イエスに大きな期待を抱いていました。確かに人々は大歓声とともに主イエスをエルサレムに迎え入れます。けれども、その姿は人々の期待と大きくかけ離れていました。颯爽と軍馬にまたがって、ローマをエルサレムから追い出すような、ダビデの再来のような救い主を期待していたのです。しかし、主イエスは子ろばにまたがっての入場だったのです。

 クリスマスにお生まれになられた救い主は、ベツレヘムの馬小屋でひっそりと生まれられたのと同じように、「平和の君」と呼ばれると言われた主イエスはここで、まさに戦いには似つかわしくない子ろばにまたがってエルサレムに入られたのです。私はこの場面を想像するときに、ドン・キホーテとサンチョパンサの姿を思い起こすのです。かたや、さっそうと馬にのったドン・キホーテに対して、従者のサンチョパンサはろばに乗っている。そんな滑稽さが、ここにあるわけです。 (続きを読む…)

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