2018 年 12 月 31 日

2019年 新年礼拝のお知らせ

Filed under: お知らせ — susumu @ 19:12

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1月伝道(ファミリー)礼拝のお知らせ

Filed under: お知らせ,ファミリー礼拝(伝道礼拝) — susumu @ 18:12

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今月の礼拝予定(2019年1月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 17:04

1月1日(元旦礼拝) 命名祭・新年

主日主題: 新年
元旦礼拝: 午前11時
聖書: 詩篇34篇14節b
説教:「平和を求め、それを追い続けよ」鴨下直樹牧師

1月6日 降誕後第二主日

主日主題: 憐れみ
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: 詩篇34篇14節b
説教:「平和を求めよ」鴨下直樹牧師
子ども: 鴨下愛

午後:役員会

1月13日 降誕後第三主日

主日主題: 信従
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書11章1-11節
説教:「主がお入用なのです」鴨下直樹牧師
子ども: 鴨下愛

午後:

1月20日 降誕後第四主日

主日主題: 平和
伝道(ファミリー)礼拝: 午前10時30分
聖書: 詩篇34篇14節b
説教:「追い続けること」マレーネ・S師
子ども: 鴨下愛

午後:餅つき愛餐会、礼拝準備会/月間予定確認会

1月27日 降誕後第五主日

主日主題: 信仰の戦い
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書11章12-25節
説教:「戦う主イエス」鴨下直樹牧師
子ども: 河合和世

2018 年 12 月 24 日

・燭火礼拝説教 イザヤ書 60章1―3節 「あなたの光が来る」~レンブラントのクリスマスの絵画による~

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:21

2018.12.24

鴨下 直樹

起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。
見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

イザヤ書 60章1~3節

 今年の燭火礼拝はオランダの画家レンブラントの描いたクリスマスにまつわる絵をご覧いただきながら、聖書を聞いていただきました。

 レンブラントが最初にクリスマスの物語を描いたのは1627年、レンブラントが21歳の時で、「エジプトへの避難」というタイトルがつけられています。レンブラントは裕福な家族のもと、9人兄弟の6人目として育ちます。はじめ学者の道を進もうとラテン語学校を卒業したあと、15歳で学び始めた大学を辞めて画家の道を目指します。最初の先生に3年間ついて学び、そのあとイタリヤでカラヴァッジョの弟子として学んできたラストマンという画家のもとで絵を学びます。ところが半年後には独立しています。独立後もラストマンから学び続けたようです。そんな時代に書かれたのが最初の絵です。

レンブラント作 「エジプトへの逃避」
 私が興味を持つのは、クリスマスの物語を描く時に、大抵はもっとクリスマスらしい場面を描くのだと思うのですが、レンブラントはなぜか、この場面を選んだのです。エジプトへの避難というのは、東方の博士たちが、はじめ救い主の誕生の星を見つけた時に、当時イスラエルを支配していたローマの総督であるへロデ王のところに訪ねていったのです。そこで、聖書の預言によると、ベツレヘムで救い主が生まれるという預言があることを聞き、また、その星が博士たちを導いて、主イエスの生まれたところを訪ねることができたわけです。ところが、その後博士たちは夢を見て、帰りにヘロデ王のところに行かないように告げられたために、どこで生まれたのかをヘロデ王に知らせませんでした。そのために、ヘロデ王はベツレヘムの2歳以下の赤ちゃんを殺してしまえと命令を出すのです。その時、夢でヨセフはベツレヘムにいることが危ないと聞いて、エジプトへ避難をしたのです。

まさに、主イエスがこられたこの世界は闇と死に支配された世界であることがよく分かる出来事です。レンブラントの描いたマリヤの腕に抱かれている主イエスの光は、まだ弱々しいのです。闇の中に輝く光とはまだなり得ていません。

rembrandt_joseph_dream_1945 レンブラントがその次にクリスマスの出来事を描いたのはそれから18年後のことです。この18年の間にレンブラントは非常に多くのことを経験します。サスキアという裕福な法律家の娘と結婚をします。4人の子供をもうけますが、3人は生まれてすぐに死んでしまいます。結婚したのは1632年、レンブラント26歳の時です。ところが、この妻サスキアは結婚して8年後に亡くなってしまいます。そして、この後からレンブラントの人生は坂道を転げ落ちるようになっていきます。それまでの間、レンブラントは幻想的な装飾やエキゾチックな雰囲気を描いていたのですが、この後、そういった装飾性を排除した作品を知るようになっていきました。この2枚目の絵を描く2年前に、サスキアとの間に残った子どもの面倒を見るためにひとりの女性を雇いますが、結婚しなかったということで訴えられてしまいます。そういう生活の大変な中で描いたのが、この「ベツレヘムの馬小屋でのヨセフの夢」という絵です。この絵が描かれたのは1645年レンブラント39歳の時です。

そこには華麗な装飾はどこにも見当たりません。そして、ただ、屋根からこぼれ落ちる天からの光だけが唯一の装飾として描き出されています。貧しいマリヤとヨセフを慰めるものはただ、神からくる光だけだと物語っているのです。 (続きを読む…)

2018 年 12 月 23 日

・説教 テトスへの手紙2章11節「神の恵みがあらわれる時」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 17:47

2018.12.23

鴨下 直樹


 明日は、クリスマス・イブです。教会ではこのイブの夜に燭火礼拝をします。今日は、アドヴェントの第四主日ですので、まだクリスマスではないのですが、今週の火曜に訪れるクリスマスのことを覚えて、クリスマスの礼拝をしようとしています。

 クリスマスというのは、神がなさった約束が実現したことをお祝いする日です。長い間、待ちに待ったものを頂くというのは、とてもうれしいものです。この季節、子どもたちを見ていると、そのことを教えられます。あと何日でクリスマスになるのか、一週間くらい前から毎日子供に質問されています。そして、時々、もうだいぶん待ったので、もうそろそろいいのではないかと交渉を持ちかけてくることもあります。何がそろそろいいのか、親としてはいろいろ考えさせられるわけですが、「まだクリスマスじゃないよ」とだけ答えます。

 きっと何か欲しいものがあるのでしょう。待ち遠しくて仕方がないのです。今日は子どもたちもたくさんこの礼拝に集ってくれています。どこの家でも似たような経験をされているのだと思います。

 「約束」というのは、きちんと果たされるべきものです。ただ、どんな約束でもそうですが、その約束が実現するためには、少し「時間」が必要です。少し待たなくてはなりません。教会ではこの約束と、この待つ時間のことを「すでに」と「未だ」という言葉で表現してきました。

 たとえば結婚の約束をするために、婚約というのをします。結婚することはすでに決まっているわけですが、まだ夫婦になったわけではないわけです。それと似ています。この結婚に備えるまでの期間というのは、とても大切な時間です。ある意味で言えば、一番いい時間を過ごすことができます。けれども、それは同時に準備の時間でもあるわけで、大変な時間でもあるわけです。

 水曜日と木曜日、教会では聖書の学びをする会が行われています。先週は今年最後の聖書の学び会となりました。それでいつもの学びをやめて、参加されているみなさんに、これまでのクリスマスの思い出を話していただきました。いろんな話を聞くことができて、とても楽しい会となりました。参加されている方は比較的年齢の高い方が多いのですが、その中で、クリスマスというと、若草物語の映画に出て来たクリスマスの場面の話や、あるいは、チャールズ・デッケンズの「クリスマス・キャロル」や、O・ヘンリーの「賢者の贈り物」だとか、アンデルセンの「マッチ売りの少女」だとか、クリスマスの季節をテーマにした文学の話がいくつか出てきました。今から40年前とか50年前とか、そのころに子どもであった方にとっては、クリスマスに大変な憧れがあったということがよくわかりました。今みたいに、商業化される前のことです。みなが、思い思いにクリスマスの祝い方を考えた時代です。

 祈祷会に参加されている方の中でも最年長のOさんは、友達の家にあったもみの木の枝を切ってもらって、その木の枝を家まで引いてきて、そして瓶に土を入れて、挿して立たせて、綿や、手作りの飾りを並べて飾ったというような話を聞かせてくださいました。
 クリスマスまでの4週間のことをアドヴェントといいます。このアドヴェントの期間、蝋燭を毎週ひとつずつともしてクリスマスが来るまでを心待ちにして待つのです。それはとても楽しい期間です。そこにあるのは「約束」を待ち望む心です。この約束を待ち望む心のことを「憧れ」という言葉で表現してもいいかもしれません。 (続きを読む…)

2018 年 12 月 9 日

・説教 マルコの福音書10章46-52節「何一つ持たないで」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:36

2018.12.16

鴨下 直樹


 教会で長く祈られてきた祈りに、「キリエ・エレイソン」という祈りがあります。今日出てくる、「主よ、憐れんでください」というラテン語の祈りです。残念ながら、私たちはあまりこの祈りを祈る習慣がありません。讃美歌21にも、いくつかこのキリエの賛美がありますが、私たちはあまり礼拝でこの曲を歌うこともありません。ただ、礼拝の中で交読する「栄光の賛美」「グローリア」という祈りを、長い間私たちはしてきました。ここに、「主よ、私たちをあわれんでください」という、祈りの言葉が三度、繰り返されています。これが、「キリエ」と言われる祈りです。

 普段、私たちは自分を憐れな存在であると感じることがあまりないと思います。あまり、自分の恥をさらすべきではないと思いますが、11月25日の午後、天白の教会で教団の11月総会が行われました。今は、代表役員ということになっていますので、この総会のために、さまざまなことを整えて総会に臨みます。ところが、11月は本当にいろいろなことがありまして、総会の始まる直前に、総会資料のプログラムに目を通しておりましたら、最初の説教のところに、私の名前が書いてあるのです。自分でそのプログラムを準備したのですから、当然分かっているわけですが、その時まで、すっかり忘れておりました。今更バタバタにしても仕方ありませんから、腹を決めて詩篇27篇から説教しました。それは、ここでも先月説教しましたし、総会の二日前にあった葬儀もここから説教しましたので、だいぶ自由に話せます。

 ところが、私はその時の説教で、感極まってかなり感情的な説教をしてしまいました。この詩篇は、前半部分では非常に信仰的な祈りがなされていますが、後半になると、祈り手は、神を見失ってしまって「主よ、憐れんでください」という祈りになります。その説教の中で、私たちの中にもそういうことがあるという一つの例として、自分のことを話しました。朝の礼拝の前に灯油をこぼしてしまって背広が灯油まみれになってしまったこと、いろいろ思うようにならないで愚痴が出てしまうことなどを話しました。そして、後になって、反省しました。自分が憐れだなどということを、人前で説教するというのは、聞いていて気持ちがいいものではありません。人前で自分の弱さを語るということは恥ずかしいことだと思うのです。

 そんなこともあって、総会でした自分の説教を恥じていたのです。そんな中で先週、その説教を聞いたある教会の役員が、ぜひ鴨下牧師を来年の修養会で教会に招きたいという声が上がったという知らせを受けました。私としては何とも言えない複雑な気持ちになりましたが、好意的に聞いてくださった方もあることが分かって少しの慰めになりました。
私たちは、人に自分がみじめな人間だ、自分はかわいそうだなどということをあまり話したがりません。私たちにはプライドがありますし、そもそも泣き言というのは、聞いていてあまり気持ちのいいものではありません。だから、そういう感情を隠しながら、あるいは歯を食いしばりながらなんとか耐えているということがあると思います。でも、本当は大変なのに、誰にも分ってもらえないということもまた、とてもつらいものです。

 ここに、一人の人が出てきます。名をバルティマイと言います。これまでの聖書ではバルテマイとなっていました。今度の翻訳で「バルティマイ」としたのです。バルというのは、「だれだれの子」という意味です。ですから、「ティマイの子」という意味ですが、聖書の中に、十二弟子以外で、個人の名前が出てくることは珍しいことです。名前があるということは、あとで、この人は知られる人になったということでもあります。なぜ知られるようになったのか。それが、この物語を通して分かるわけです。

 バルティマイは目の見えない、物乞いをしていた人です。エリコの街の出入口で物乞いをしていたのでしょう。通りかかる人の気配を感じると手をあげたり、声をあげて、誰かが恵んでくれるのを待つのです。人の憐れみにすがって生きて来た人です。けれども、そのことが、このバルティマイにとっては最大の強みであったということができると思うのです。 (続きを読む…)

・説教 マルコの福音書10章35-45節「土台のある人生」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 08:53

2018.12.09

鴨下 直樹


 先週、教団役員会で武豊教会を尋ねました。教会の前に、もみの木のクリスマスツリーが置かれていました。今年から武豊で牧会されているベルンス先生に聞くと、根の上の部分から切り落とした生のもみの木でした。プラスチックのものと比べるとやはり生のもみの木は雰囲気があって一段と綺麗に見えます。ただ、根がありませんので、しばらくすると枯れてしまいます。このクリスマスの季節だけ使うことを考えればそれで充分です。それで、この時期になると、切り倒してきたもみの木が売られているわけです。けれど、ひと月ほどは持つようですが、何か月かすれば枯れてきてしまうので、少し残念というか、もったいない気がします。今日は、「土台のある人生」という説教題にしました。土台がない、根がない人生ということについて考えてみたいと思います。

 今日の聖書の箇所は主イエスの弟子であるヤコブとヨハネの言葉からはじまります。

「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」

 主イエスの2度目の受難予告の後の出来事です。主イエスがここで、自分が殺されるという話をしているのに、その後で出てくる質問としてはちょっとどうかと思う質問がここで出されています。33節で、主イエスは受難の予告をされたときに、エルサレムに上って行くという話をしています。昨年、冬のオリンピックで良い成績を収めた選手のパレードの様子を何度かテレビで見たことがありました。何万人という人が集まって、金メダルをとった選手を一目見よう、またお祝いの声をかけようと集まってくるのです。その時の歓声の大きさ、人の集まり、それはもうまさに大群衆というような人の群れが生まれます。主イエスがエルサレムを訪れる。今ほど人口の多い時代ではありませんから、何十万人というような人がエルサレムに集まることはないと思いますが、それでもかなりの人の群れがエルサレムに集まるのです。それほど、主イエスは当時の人々の注目を集めていました。大祭司や律法学者が妬みを引き起こすほどの人気ぶりだったのです。

 弟子たちは、そんなことを想像したのかもしれません。あるいは、これは私の想像が行き過ぎているのかもしれません。ただ、殺されるという話を聞いて、ならば今のうちにお願いできることはしておこうということだったのかもしれません。いずれにしても、ヤコブとヨハネは、自分たちの願い事をかなえていただきたいというものでした。兄弟二人で申し出たわけですから、このタイミングで思いついたということではなくて、前からお願いしたいと考えていたということでしょう。

 主イエスにかなえてほしい願い事がある。それは、よく考えてみれば、特に珍しいことでもないでしょう。私たちには実にさまざまな願いがあります。病気が治るように祈ることもあります。無くしてしまった財布が見つかるように祈ることもあるでしょう。遠くに住んでいる家族のために祈ることもあります。ですから、このヤコブとヨハネの申し出を私たちは簡単に場違いなひどい願いだと決めつけてしまうことはできないと思うのです。

そして、主イエスはこの二人の願い事に対してこう言われました。

「何をしてほしいのですか。」

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2018 年 12 月 4 日

今月の礼拝予定(2018年12月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 11:13

12月2日 待降節第一主日

主日主題: 神の国
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書10章17-34節
説教:「金持ちとペテロと主イエスと」鴨下直樹牧師
子ども:「らくだと針の穴」鴨下愛

聖餐式

午後:聖歌隊練習(礼拝後)

12月9日 待降節第二主日

主日主題: 信従
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書10章35-45節
説教:「土台のある生活」鴨下直樹牧師
子ども:「ヤコブとヨハネの願い」河合和世

午後:誕生月の祈り、聖歌隊練習(礼拝後)、礼拝準備会/月間予定確認会

12月16日 待降節第三主日

主日主題: 心の渇き
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書10章46-52節
説教:「渇いた心を満たしてくださる主」鴨下直樹牧師
子ども:「バルテマイの願い」鴨下愛

午後:キ聖歌隊練習(礼拝後)、手話講座

12月23日 待降節第4主日

主日主題: 降誕
伝道(ファミリー)礼拝: 午前10時30分
聖書: テトスへの手紙2章11-13節
説教:「神の恵の現れる時」鴨下直樹牧師
子ども:「イエス・キリストの誕生」鴨下愛

午後:クリスマス愛餐会(持ち寄り)・祝会

12月30日 降誕節第一主日

主日主題: 感謝
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: 未定
説教:古川秀昭長老
子ども:「小さい人」鴨下愛

礼拝直後:感謝の祈り会(礼拝堂にて)

2018 年 12 月 2 日

・説教 マルコの福音書10章17-34節「金持ちとペテロと主イエスと」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:29

2018.12.02

鴨下 直樹


 「本音と建て前」という言葉があります。時々、教会では本音で話せないというような発言が出ることもあります。信仰というのは、きれいな世界なので、どうしてもきれいごとを言わないといけないというような気持ちになることがあるのかもしれません。

 カトリックの作家の書かれた「本音と建て前」というタイトルの本があるのですが、ドイツから日本に来る宣教師たちが、日本人をよく理解するためにこの本を読むように勧められるのだそうです。そして、読んでびっくりするのだそうです。人前では建て前でものを言う。けれども、その心の中は全然違うことを考えているのだとしたら、それは「嘘」ではないかと思うのです。人の顔色を見ながら、体裁のいいことを言う。しかし、心の中では何を考えているか分からないのだとすると、もうどうしていいか分からなくなるのです。そういうことから、教会でもきれいごとを言わないで、もっとその心の中のドロドロしたもの、本音を出して話すべきだ、そういう議論が出てくるわけです。

 ここに、素直な一人のお金持ちが出てきます。彼は、小さなときから律法に忠実でした。きっと育ちがいいのでしょう。親がしっかりした人だったのかもしれません。性格も悪くなさそうです。他の福音書には青年と書かれていますから、若さも持っています。若くて、お金を持っていて、性格も良さそうで、両親もちゃんとしている。言ってみれば、大切なものを何でも持っている人です。これ以上、何を求める必要があるのかと思えるような人です。彼は、主イエスにこう尋ねます。

「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいのでしょうか。」

 驚くべきことです。この人は、人が望むものをみな持っていても、それで幸せになるのではないということを知っているのです。永遠のいのちを得なければ、この世で何を持っていても、肝心のものが欠けているということを理解しているのです。

 彼は、目先のことだけを求めてはいません。しっかりとした考えを持ち、何が大事なのかを見極めることができているのです。こんなみどころのある青年が、果たしてどれほどいるというのでしょうか。立派な青年です。好青年です。非の打ちどころのない青年と言っても言い過ぎではないと思います。しかも、主イエスのことを「良い先生」と呼びかけるのです。あなたから学べるものがある。あなたは、普通の人ではない。良い先生です。私はあなたから、この大切なもの、今のいのちを豊かにするために必要なものを学びたいのです。必要な永遠のいちのをどうしたら得られるのでしょうと問いかけるのです。しかし、この人に主イエスはこう語りかけるのです。

「なぜ、わたしを、『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」

 これは、なぞなぞのような答えです。どういう意味なのでしょうか。主イエスのことを「良い先生」と呼びかけました。あなたから学ぶべきものがあると。しかし、主は「良い」方は神おひとり、つまり、わたしを見るのではなくて、神を見上げなければ見えてこないと言われたのです。そして、これが、この長いテキストの語っている答えのすべてなのです。
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2018 年 11 月 11 日

・説教 詩篇27篇 「心の歌」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:54

2018.11.11

鴨下 直樹

 今日は召天者記念礼拝の主の日です。毎年、この時になりますと、天に召された方々のご家族やご友人の方々がこの礼拝にお集いになられて、共に礼拝をおささげしています。その中で、今日は詩篇27篇を一緒に聞きたいと思っています。私の願いは、ぜひ、一度ご自分で声をだして、この詩篇を読んでいただきたいということです。まるで、故人がこの祈りを祈っていたのではないかという気持ちになるのではないかと思います。また、まるで、自分の祈りそのものだという錯覚を覚える方もあるかもしれません。

 今週、私自身、何度も、何度もこの詩篇を読みました。そして、声に出して読むたびに、深い慰めを覚えてきました。私ごとではじめてとても恐縮なのですが、この一週間、私自身自分では抱えきれないほどの問題をいくつも抱え、気がつくとため息ばかりついていました。気分がなかなか晴れない。

 その中で、この詩篇を声にだして読んでみる。

主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

まるで、私の気持ちを知っているかのような言葉が、ここで祈りの言葉として記されています。この言葉を自分に言い聞かせるように、声に出して読む。そうすると不思議です。言い知れない深い平安が私を包むのです。

 自分を慰める言葉というのは、自分の中からは出てきません。自分で自分を励ますように言い聞かせたとしても、自分を奮い立たせることはできるかもしれませんけれども、いつまでももつものでもありません。また、それは誰かに元気になれるような言葉をかけてもらえればいいということでもありません。それこそ、一杯やりながら同僚と語り合うことも気分転換にはなりますが、自分を支える確かなものにはなり得ません。

 私を支える言葉、それはいつも外からくる言葉です。こう声をかけて欲しいというような自分の望むことではなく、外からくる言葉というのは、権威があり、存在を支えるような言葉です。それが、聖書の言葉だと言っていいと思います。

主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

「主は私の光」。冒頭から、こういう言葉が出てくる。この詩篇の作者は、「ダビデによる」とあります。ダビデはイスラエルの王です。王には、王の悩みがあったでしょう。ダビデの生涯を見てみると、ほとんどが困難の連続であったと言っていいと思います。聖書でなくてもいいかもしれません。NHKの朝ドラをみる。大河ドラマをみる。こんなに次々にいろんなことが起こるかと思うほど、いろいろなことが起こる。もちろん、ドラマというのは、そういうエピソードだけを切り抜いて、その人物を描き出すわけですから、当然なのかもしれません。さまざまなこと、それこそ予想もできないようなことが、次々と起こる中で、ダビデは自分を支えるのは、光の主なのだと祈りました。闇の中に自分を閉じ込めるようなお方が、私の主なのではない。私の主は光の主。私の救い。そういうダビデの祈りの言葉を聞く時に、私たちもまた、この聖書に記された神が、光の主であることを、救いの神であることを知ることができるのです。 (続きを読む…)

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