2020 年 5 月 16 日

新型コロナウイルス感染症流行下の礼拝について

Filed under: お知らせ — susumu @ 21:02

芥見教会として今後の礼拝について以下のようにいたします。(2020/7/19 更新)

礼拝について

芥見教会では、礼拝が「三密」状態になりやすい集まりである性質を考え、今後も慎重に対応していきたいと考えています。
当面の間は緊急事態宣言中と同様に、家庭での礼拝を基本としてください。

2020年7月26日以降は、午前9時の礼拝はありません
午前10時半からの礼拝を、同時にネット配信いたします。
また礼拝終了後も、教会のホームページからライブ礼拝の録画・録音を視聴できるようにいたしますので、ご自宅での礼拝を継続いただけます。

礼拝に来られる方へ

  1. 必ずマスク着用で礼拝にお越しください。
  2. 出入りの際、礼拝堂に備え付けのアルコール消毒を行なってください。
  3. 席は、一列に2名までとし、1~2列おきにお座りください。
  4. 賛美歌の歌唱は1節のみ、大きな声で歌うことはできませんので、ご協力ください。
  5. 挨拶などは屋外で、少なくとも2メートルの間を開けてお願いします。
  6. 人数が多いと判断した時には、1階集会室にて、モニター越しでの礼拝をお願いすることになります。
  7. 教会での飲食はしないようお願いします。

以上のことを守っていただくことにご同意いただいた上で、礼拝に集われる方はお集いいただきますようお願いします。

芥見キリスト教会
長老会

2021 年 9 月 19 日

・説教 ローマ人への手紙4章9-25節(1)「望みえない時に」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:12

2021.09.19

鴨下直樹

説教全文はただいま入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

2021 年 9 月 12 日

・説教 ローマ人への手紙4章1-8節「アブラハムの場合」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:35

2021.09.12

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日からローマ人への手紙の第4章に入ります。パウロは3章までのところで、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」という24節で語られている信仰によって義と認められるのだということを語ってきました。

 一生懸命良い行いをして、徳を積んで、救いに至るという考え方が一般的です。しかし、パウロがここで語っているのは、主イエスを信じるということで、その人がどれほど罪があったとしても、神の救いの中に招かれて、この人は義である、救われているのだと神は宣言してくださるというのです。

 そして、この4章に入ります。ここでは、この福音の知らせを、ユダヤ人たちにとって父とも呼べるアブラハムを例に考えてみようというわけです。聖書が、この場合は旧約聖書ですが、そこでなんと言っているか見てみようというわけです。

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。

 という1節の言葉からはじまります。

 パウロは「アブララハムは何を見出したのか」と語り始めます。この「見出した」という言葉は「得たところ」という意味です。アブラハムは何を得ることができたのというのかと語り始めます。

 このことばは、この4章を理解する手掛かりになる言葉ですので、ぜひ、心に留め続けていただきたいと思います。

 今日の3節ではアブラハムの生涯が記されている創世記15章6節のみ言葉が引用されています。

 私たちは昨年まで創世記から御言葉を聞き続けて来ました。その時に、アブラハムの生涯についても、丁寧に御言葉を聞き続けてきました。

 この創世記の15章に何が書かれているかというと、主がアブラハムを夜空の下に連れ出して、夜空に見える無数の星を見せられながら、あなたの子孫はこの星の数のようになるという約束を語られたところです。その時に、聖書はこう書いています。

アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた

 創世記15章6節です。

 このときのことをパウロはここで引用しているわけです。

 アブラハムにはその前から子孫の約束が与えられていました。けれども、子どもが与えられていませんでした。この創世記15章でも、アブラハムにはもう跡取りがないので、自分のしもべに財産をあたえるのかと、主に文句を言ったのです。そのあとで、主がアブラハムにもう一度この約束をお語りになったのです。

 この主が語られる約束を信じる。そのことで、アブラハムは義と認められたのだと、創世記に記されているのです。 (続きを読む…)

2021 年 9 月 8 日

ざっくり学ぶ聖書入門30 福音書

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 19:57

2021 年 9 月 5 日

・説教 ローマ人への手紙3章27-31節「誇りではなく、信仰によって」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:33

2021.09.05

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日のテーマは「誇り」です。私たちがよく耳慣れた言葉で言うと「プライド」ということです。

 今、パラリンピックが開催されております。私は残念ながら見ていないのですが、パラリンピックの男子バスケットが決勝まで進みました。これまでにないことのようです。私は試合を見ていないのですけれども、そのネットニュースを読んでいるだけで、感動して目に涙が溜まって来るのを覚えました。

 こんな文章が私の目に留まりました。「この選手たちはどれだけ練習して、これほどの力を手に入れたのだろうか。きっと本当に厳しい練習を積み重ねながら、この強さを手に入れたのだ」ということが書かれていました。そういう文章に心打たれるわけです。

 そうやって、自分たちの修練の結果として手に入れる力、それは美しいものですし、他の人を惹きつける魅力があります。それは、その人たちの自信となるし、「誇り」としてよいものです。

 「誇り」「プライド」というのは、決して悪いものではないはずです。その人が、自分として、どうありたいか、その目標を掲げて、それに取り組んで、得た力を誇るというのは、誰の心にも感動を与えます。というのは、それは簡単なことではないということが分かるからです。

 そして、宗教というものもそれに似ています。精神をある努力によって鍛えるという考え方があるのです。まさにそのような「行い」を「修める」と書いて、「修行」と言うわけですけれども、行いを徹底して自分のものとして修めていく姿が、人の精神の修練となると考えるわけです。ですから、ほとんどの宗教というのは、どれもそうですけれども、この行いを修めて、あるレベルにまで到達する。そうやって徳を積む、功徳を修める。そうして、精神的に一つ上の世界に上り詰めていくのだという考え方があるのです。

 それは、日本の宗教というだけではなくて、旧約聖書の教え、律法も同じように考えているところがあります。神の民であるイスラエルの人々は、この律法の行いを厳密に行っていくことで、神から義しい者であると認められるような生き方をするべきなのだと考えてきました。これは、人としてはごく自然な流れであったと言っていいと思います。

 ところが、パウロはこの前の21節から26節までのところで、「しかし今や、律法とは関わりなく・・・・神の義が示されました」と語り始めたのです。

 ここで語られているのは、前回話したところですが、神の恵みによってなされたキリストの贖いの業である十字架と復活の出来事、この神の救いの御業が私たちに示されたことを信じて受け入れることで、人は神から義と認められる。そういう、新しい義の道が示されたのだと、ここでパウロは語りました。

 こうすると、すぐに一つの問題が出てきます。それが「誇り」の問題です。それは3章1節ですでに語られた「それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか」という言い方と同じような言い方をしています。この27節では、「私たちの誇りはどこにあるのでしょうか」と言っています。ユダヤ人たちの持っている、あるいは私たちが持っているこの、修行をして手に入れる精神の向上というような、人としての誇りはどうなるのですかということを、パウロはここですぐに取り上げているわけです。

 私たちの教会ではコロナ感染症の緊急事態宣言を受けて、礼拝と祈祷会以外のすべての集会を休会としています。今日もそういう中での礼拝ですので、礼拝堂に集うのをやめて、自宅からオンラインで礼拝されるという方々が何人かおられます。そんな中で、先週の木曜日の聖書の学び会に、しばらく教会に来られていなかった方が、久々に集われました。その方がその集会で、今日の聖書箇所をみんなで読んだ時に、こんなことを言われました。

 「今、家を出ないような生活をしている。そういうなかで、家に閉じこもっていると本当に自分のような人間はいてもいなくてもいいような存在に思えてくる。教会の礼拝にも、集まりにも出られない。そうやって、考えていくと、どんどん自分がいやになって、自分には信仰が無くなってしまったのではないかと思える。そして自分は、『信仰者としてそれではダメですね』と言ってもらった方が、よっぽど楽になれる。そう思って、今日は教会に来た」とその方が言われました。

 それは、その集まりに出ておられた方みんなに共通する思いであり、皆さんもどこかで同じような思いを持つことがあるのだと思います。その方のその質問は、多くの方の心の言葉を代弁するような言葉だと、私も思いましたし、聞いておられた方々も同じように話しておられました。

 私たちは、教会に集うようになって、聖書の話を聞きながら、あるいは毎日自分でみ言葉を読みながら、信仰の歩みをしていく中で、やはり少しでも自分の信仰を誇ることができるような生き方をしたいと誰もが願うものです。キリスト者として恥ずかしくない立派な信仰者として歩みたい。そう願うのは自然なことだと思うのです。そうして、やはり自分の信仰の修練というか、信仰の成熟というものを誇りとしたいという願いは誰にでもあると思うのです。

 パウロ自身、そういう思いに生きて来たのです。ですから、ユダヤ人たちが、そのような誇りを持っているということはよく理解できました。けれども、パウロはここで、そのような人の持つ「誇り」というものは排除されたと言っているのです。 (続きを読む…)

2021 年 9 月 1 日

ざっくり学ぶ聖書入門29 新約聖書

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 19:56

今月の礼拝予定(2021年9月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 18:02

9月5日 三位一体後第14主日

主日主題: 信仰
聖餐式礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙3章27-31節
説教:「誇りではなく、信仰を」鴨下直樹牧師

礼拝後:役員会

9月12日 三位一体後第15主日

主日主題: 義認
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙4章1-8節
説教:「アブラハムの場合」鴨下直樹牧師

礼拝後:礼拝準備会/月間予定確認会

9月19日 三位一体後第16主日

主日主題: 希望
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙4章9-25節(1)
説教:「望みえない時に」鴨下直樹牧師

9月26日 三位一体後第17主日

主日主題: 約束
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙4章9-25節(2)
説教:「弱まらない信仰」鴨下直樹牧師

午後: 教団の日(Zoomにて) 2:30~4:00pm

2021 年 8 月 29 日

・説教 ローマ人への手紙3章21-26節「示される神の義」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:04

2021.08.29

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日の箇所から、ようやく光が見えてきます。「しかし今や、」とパウロは語るのです。

 パウロはこの手紙でひたすら罪の悲惨な姿を描き続けてきました。人間の醜い姿と言ってもいいのかもしれません。人と比較し、自分の方が上にいると考えることで満足し、充足感を得ようとする人間の姿をパウロは描き出してきました。

 神学者カール・バルトは1章18節から描き出されるこの部分を「夜」と名づけたという話をしました。この3章20節まで、まさに光を失った人のもがいている姿というのが、語られて来たのです。そして、「義人はいない、一人もいない」という重苦しい宣言のことばまで出て来たのです。
 
 「しかし今や、」とパウロは言うのです。

しかし今や、神の義が示されました。

 もちろん、これまでも神の義が語られていました。これまでのところで語られていた「神の義」とは「律法」のことです。神のみこころが、この神の律法の中に記されていたのです。しかし、その神の義を知っていたユダヤ人たちは、その神の義を掲げて、人を裁く物差しとしてきました。それまでの、神の義というのは、正解はこれであるというものでした。そして、この律法をたずさえて、人をさばくことを人はしてきてしまったのです。

 今、パラリンピックが行われています。本当に選手の方々の能力というのは毎回驚かされます。近年、差別の問題が大きく取り上げられるようになってきました。それは本当に大きなことだと思います。その一方で、障害と言ってもいろいろなものがあるわけですが、なかなか理解が進まないという現実も確かにあります。どうしても、自分と違うということで、人を下に見てしまうという悲しい現実があるのです。

 今、またコロナウィルスの第五波と言われて、緊急事態宣言が出されています。ワクチンを接種したとか、まだしていないとかということでも、いろんな情報が飛び交います。接種を勧める人も良かれと思って勧めますし、接種しないことをお勧めする人も良かれと思ってそれをします。そんな中で、どうしても、出てくるのは自分の判断が最善であるという思いが、見え隠れしてくるわけです。そして、そのことに対して、今全国で、実に多くの方々が苦しんでいます。人間不信になるというようなことまで起こってきています。それぞれに考えがあります。持病があったり、支える必要のある家族がいたりでその考え方が変わってきます。

 どんなテーマにしてもそうですが、いろんなものの見方があって、いろんな立場や状況の違いがあるということが、今の時ほどクローズアップされた時代は過去になかったかもしれません。

 人と比較して、自分を支える。それが人を裁く罪の姿です。そして、このことは、信仰の中でも起こってくるわけです。 (続きを読む…)

2021 年 8 月 22 日

・説教 マルコの福音書15章33-34節「十字架上の7 つの言葉」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教 — susumu @ 00:06

2021.08.22

田中啓介

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


ライブ配信が1時間を超えたため、説教の最後の部分で配信が途切れました。
続きはこちら ↓


 

2021 年 8 月 15 日

・説教 マタイの福音書11章20-30節「安息に招かれるお方」田村洸太

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:53

2021.08.15

田村洸太

⇒ 説教音声の再生はこちら

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

2021 年 8 月 8 日

・説教 ローマ人への手紙3章9-20節「人の努力に代わるもの」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:26

2021.08.08

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 少し前に、オンラインで配信しています「ざっくり学ぶ聖書入門」で、中間時代と呼ばれる頃のことを話しました。

 教会のホームページから見ることが出来るのですが、これがまた驚くほど人気がなくて、その動画を見ている人もほとんどいないようで、残念に思っています。

 聖書の話ではありませんので、興味がないのかもしれません。あるいは、この「中間時代」という言葉そのもののことが分からないのかもしれません。旧約聖書の終わりから、新約聖書までの400年の間、ユダヤ人たちはどのように歩んで来たのかという話です。主に、聖書の外典に記されている話でもあります。

 バビロン捕囚の後、イスラエルの人々はとても、熱心にその信仰に生きようとしてきました。特に、ギリシャから支配されるようになった時、ギリシャは、支配下の国々にギリシャの文化、ギリシャの価値観を宣伝していきます。このギリシャの文化のことを「ヘレニズム」と言います。

 このヘレニズムの価値観が押し寄せてくる中で、ユダヤ人の中でもこれに抵抗して「ハシディム」と呼ばれる人たちが現れます。この人たちは、ユダヤ人の習慣がギリシャの文化の波に飲み込まれないようにするために、必死に聖書の価値観を大切にすることを貫いてきた人たちです。

 そういう働きもあって、時代がどんどんと変わっていく中でも、ユダヤ人たちの信仰や伝統というものが、ギリシャやローマの世界の中でも認められていきます。そして、かえって、ローマにまでユダヤ人たちの価値観を伝える人たちが出てきました。

 その大きな役割を担ったのが、「パリサイ人」たちです。

 私たちは聖書を読んでいますと、パリサイ派と聞くと、主イエスの伝道を邪魔するろくでもない人たちだという認識を持ってしまいます。けれども、この時代の流れの中で、ユダヤ人の文化を残すために、このパリサイ人たちの果たした役割というのは、決して小さくはありませんでした。

 当然、このユダヤ人たちはローマに沢山住んでいました。4万人というユダヤ人が当時のローマにはいたという記録もあるほどです。

 そして、そのユダヤ人たちに対して、真の救い主として来られたのが、主イエス・キリストなのだと教会は伝道をしていきました。

 このユダヤ人たちは自分たちが貫いて来た信仰や、生き方に自負を持っていましたし、自分たちは神に選ばれた特別な民なのだという考えを持っていました。そんな中で、ローマにもキリスト教の教会が出来てきたときに、このユダヤ人の間で長年培われてきた、この自負、プライドというものが、この人たちの支えでもあったわけです。

 ですから、このまじめなユダヤ人たちというのは、まじめに生きることが、神の祝福であり、そのために律法を守って、特に割礼を子どもたちに施して、神の民であろうとしてきた人々だったわけです。

 しかし、ここでパウロは9節でこう言いました。

では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。

 パウロは、ユダヤ人がどれほどまじめな民族であったとしても、どれほど苦労してきたとしても、だからといって、ユダヤ人に特別すぐれたところがあるということにはならないのだと言ったのです。

 これは、ユダヤ人たちからすれば受け入れがたい言葉に響いたはずです。 (続きを読む…)

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