2020 年 5 月 16 日

緊急事態宣言解除後の礼拝について

Filed under: お知らせ — susumu @ 21:02

芥見教会として今後の礼拝について以下のようにご案内させていただきます。

礼拝について

芥見教会では、礼拝が「三密」状態になりやすい集まりである性質を考え、宣言解除後も慎重に対応していきたいと考えています。
一気に従来のように集まっていただくのではなく、段階的に解除できるよう、当面の間は緊急事態宣言中と同様に、家庭での礼拝を基本としてください。

午前9時から、ネットライブ配信を同時に行う礼拝、午前10時半から同じ内容の礼拝を行います。今後も毎主日午前10時半までには、教会のホームページからライブ礼拝の録画を視聴できるようにいたしますので、ご自宅での礼拝を継続いただけます。

また、教会では礼拝に集いたい方々が少人数で礼拝に集えるよう、2回の礼拝に分散してお集いいただけるように考えています。1回の礼拝で、礼拝堂に入れる方は15人程度とします。

そのような状態であることをご理解いただいた上で、礼拝に来られる方にはいくつかお願いがあります。

  1. 必ずマスク着用で礼拝にお越しください。
  2. 出入りの際、礼拝堂に備え付けのアルコール消毒を行なってください。
  3. 席は、一列に2名までとし、1~2列おきにお座りください。
  4. 賛美歌の歌唱は1節のみ、大きな声で歌うことはできませんので、ご協力ください。
  5. 挨拶などは屋外で、少なくとも2メートルの間を開けてお願いします。
  6. 人数が多いと判断した時には、1階集会室にて、モニター越しでの礼拝をお願いすることになります。
  7. 教会での飲食はしないようお願いします。

以上のことを守っていただくことにご同意いただいた上で、礼拝に集われる方はお集いいただきますようお願いします。

芥見キリスト教会
長老会

2020 年 6 月 29 日

今月の礼拝予定(2020年7月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 10:24

7月5日 三位一体主日

主日主題: 神の眼差し
公同礼拝・ライブ配信 午前9時、午前10時30分
聖書: ローマ人への手紙10章9-11節
説教:「主の救い」鴨下直樹牧師

午後:マレーネ師感謝会/役員会

7月12日 三位一体後第1主日

主日主題: いのち
公同礼拝・ライブ配信 午前9時、午前10時30分
聖書: ダニエル書3章19-27節
説教:舛田忠興長老

午後:礼拝準備会/月間予定確認会

7月19日 三位一体後第2主日

主日主題: 福音
公同礼拝・ライブ配信 午前9時、午前10時30分
聖書: 創世記26章1-16節
説教:「二つの試練」鴨下直樹牧師

7月26日 三位一体後第3主日

主日主題: 祝福
公同礼拝・ライブ配信 午前9時、午前10時30分
聖書: 創世記26章17-25節
説教:「いのちを支える神」鴨下直樹牧師

2020 年 6 月 28 日

・説教 コリント人への手紙第一 3章5-9節「使命か実績か」マレーネ・シュトラスブルガー

Filed under: ライブ配信 — susumu @ 06:43

2020.06.28

マレーネ・シュトラスブルガー

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

2020 年 6 月 21 日

・説教 ローマ人への手紙1章16節「私は福音を恥としない!」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:55

2020.06.21

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

「私は福音を恥としません。」

 パウロはここで「私は福音を恥ずかしいとは思わない」と語っています。どうも、ローマの教会の人々の中に福音を恥とするということが、あったのでしょう。だから、パウロはこう語る必要がありました。それはどういうことかと言うと、主イエスはローマの手で十字架にかけられた男だ。そんな十字架刑にかけられるような犯罪者のことを信じているのかという声があったということです。

 今日の箇所の少し前の14節からこの16節までを読んでみます。

 私はギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

 パウロは、ローマに住んでいるギリシア人に手紙を書き、このローマの人たちに福音を伝えたいと願っていました。ところが、ローマの人は、ローマ人ではない他の人たちのことを全部ひとくくりに「未開人」と呼んでいたようです。未だ開拓されていない地の人というわけですから、完全に上から目線です。もっとも、そう言えるほどの栄華がローマにはあったのです。

 そんな華やかな都に憧れて、世界中から人が集まってきます。珍しいものが運び込まれてきます。ローマにいれば、それだけで世界を知ることができたわけです。そのローマの人たちに、主イエス・キリストを語ろうとするときに、ポンテオ・ピラトによって十字架につけられたユダヤ人の話にが、ローマ人の心を惹きつける魅力がどのくらいあったのかということは、想像するよりありません。

 この頃、パウロはまだローマを訪れてはいませんでしたが、ローマにすでに教会が出来ていたようですから、各地でキリスト者になった人々がローマに福音を届け、ローマの中にも主イエスを信じる人の集まりが出来ていたようです。それは、とてもすごいことですが、パウロはさらに多くの人に福音を届けたいと願ったのは当然のことでしょう。けれども、最初から主イエスの十字架の話をすると、それ以上聞く必要はない、そんな恥ずかしい人物の話になど聞く耳を持たないといった人がいたのは、想像に難くありません。

 そして、教会の人々もまた、そのような主イエスの福音をローマの人々に語ることに恥ずかしさがあったのかもしれません。それは、ローマの人たちであれば経験的にもよく分かるのです。それは、私たちでも、同じことが言えるかもしれません。

 先日、教会でこの説教に先立ちまして、聖書の学び会で、この箇所を一緒に読みました。その時に、福音そのものを恥とは思わないけれども、福音にふさわしい生き方ができていない自分を恥じるという思いがあると、多くの方が口をそろえて言われました。それは、私たちが誰もが抱く思いであるかもしれません。

 聖書が語ることは素晴らしい、神の恵みも本当に素晴らしい内容だと思う。けれども、それを人に語ろうとするときに、「じゃあ、あなたはその福音にふさわしい生き方ができているのですか?」と問われると、自分はその福音にふさわしい生き方はできていないと、自分を恥じる思いというのが出てくるのです。 (続きを読む…)

2020 年 6 月 14 日

・説教 エゼキエル書16章6節「生きよ!」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:00

2020.06.14

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 6月に入って、この長い間続いた新型コロナによる外出制限が少しずつ解除されはじめています。この期間、私たちはステイホームといって、外に出ないようにということが言われてきました。

 家に留まっていることが全く苦痛ではない人にとっては、とても良い時間になったのではないかと思います。けれども、一方で、その期間孤独と向き合い続けなければならなかった人もあると思います。先日も買い物で近くのイオンに行きましたが、思っていたより人が少なくて、まだまだ、沢山の人が外出を控えているのだということを目の当たりにしました。

 外出できない、人と会えない期間が長く続きますと、人によってはどこかで自分は世界から取り残されて独りぼっちであるかのような、そんな思いを持つ方もあるのではないかと思うのです。

 私は長い間、教団の学生の担当牧師をしていました。といっても今から15年以上の前のことですから、今の学生たちとは少し違うのかもしれません。学生たちと膝を突き合わせて話してみると、時折出てくるのは、自分の自信のなさ、それは信仰のことだけではなくて、勉強のこと、運動のこと、容姿のこと、家族のこと、あれもこれも、みんな自分はだめだという劣等感を抱いてしまっている学生が少なくありませんでした。そういう複雑な思いの中で、進路をどうするかについて決めなければならないわけですから、そこで嫌でも、自分のポジションというものが突き付けられます。そして、さらに自信をなくしていくということが起こってしまいます。

 大人になりますと、不思議なもので、経験的になんとかなるということを覚えていきます。自分と向き合わなくても、何とかなるという経験をしていくことで、自分と向き合わずに生きていくすべを身に着けてしまいます。

 その時期のことを「アイデンティティ・クライシス」なんていう言い方をすることがあります。何も、英語なんか使わなくてもいいのかもしれませんけれども、「人生の危機」と言ったらいいのでしょうか。自分自身の存在が問われているという危機感と向かい合う必要が出てくるわけです。

 私たちは、シンデレラの物語をよく知っています。父を亡くしてしまったシンデレラは父親の再婚相手の母親と、その子どもたちによって、まるで家政婦のように下働きを命じられてしまいます。ところが、お城からの舞踏会の知らせがあった時に、魔法使いの助けによって、綺麗なドレスを与えられて、カボチャの馬車に乗って、お城の舞踏会に参加するのです。そして、そこで王子に見染められる話です。

 自分の現実である悲惨さから、自分の本当の価値を王子によって回復される、まさに、シンデレラ・ストーリーです。

 今日の聖書の話は、まさに、聖書の中に記されたシンデレラ・ストーリーが、このエゼキエル書の16章の1節から14節です。

 物語はいたってシンプルです。ある家庭に、一人の赤ちゃんが生まれます。女の赤ちゃんです。普通であれば、生まれたばかりの赤ちゃんは、へその緒を切られ、産湯につかり、綺麗な布でふき取られて、布にくるまれて母親の腕に抱かれるのです。けれども、この時の状況はそんなご時世ではありませんでした。男であればまだ跡継ぎとして、あるいは家族の支えになったのでしょうが、女の子では食い扶持が増えるだけです。それで、その赤ちゃんは、生まれたままの、それこそ血まみれの状態で捨てられてしまうのです。そして、誰ひとりとして、そんな赤ちゃんを代わりに育てようとする人もなかったのです。

 ところが、そこに王様が通りかかります。その王様が、その赤ちゃんを見つけるなり、言った言葉が、今日読んだ聖書箇所です。 (続きを読む…)

2020 年 6 月 7 日

・説教 ローマ人への手紙2章11節「えこひいき?」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:55

2020.06.07

鴨下 直樹

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「神にはえこひいきがないからです。」

 今日の聖書にはそのように書かれています。「えこひいき」という言葉は、私たちにいろんな連想をさせます。

 以前、ドイツにおりました時に、平日の「ユングシャー」と呼ばれる子ども集会のお手伝いをしておりました。ドイツの学校はほぼ午前中で終わります。学校が終わってから、塾にいくという習慣もありませんから、子どもたちは午後のびのび生活しています。それで、教会では平日に子どもたちを集めまして、子どもの集会を持つのですが、その多くの時間ゲームをして過ごします。ゲームといってもビデオゲームではなくて、体を使ってする様々なゲームです。

 そのゲームをしていた時に、ひとりのスタッフが、小さな子どもや、あまりそのゲームが得意ではない子どもに対して、少しルールを緩めて、沢山点数がとれるようにしてやったのです。すると、それを見ていた子どもたちが一斉に「アンフェアー!」と叫び出しました。

 私はその姿をみながら、ああこういう時は「アンフェアー」と言うんだと言葉を覚えて喜んでいたのですが、子どもたちの顔は真剣そのものです。そして、日本の子どもならなんて言うんだろうと想像してみたのです。岐阜の方言なら「ずるやげー」とか「ずりーげー」とか言うのかもしれません。あるいは「ひいきやん」、「えこひいき」と言うのかもしれません。

 「フェアーではない」という言葉と「えこひいき」という言葉のニュアンスは少し違うようにも感じます。
私の持っている国語辞典で意味を調べてみると、「えこひいき」は、「自分の気にいった者だけの肩をもつこと」と書かれていました。「アンフェアー」というのは「不公平」ということです。意味は似ていますが、えこひいきという場合には判断する側の主観に強調点が置かれている感じがします。

 このパウロの手紙の「神にはえこひいきがないからです」という言葉は、神が裁きをするときの態度のことを指して言っている言葉です。つまり、この箇所のテーマは「神の裁き」です。そして、神が裁きをなさるときには、神の主観で、人をえり好みしたりはしないのだということが、ここで言われているということになります。

 考えようによっては当たり前のことなのかもしれません。神が人を裁くときに、同じ基準で判断しないとしたら、それこそ、「アンフェアー」と叫びたくなります、けれども、パウロはここで、神はそんなことをしない。公平に裁くのだと言っているのです。

 問題は、パウロはここで人を裁く場合のことを語っているのですが、私たちが人を裁くときには、どういう視点で裁きをしているのかということです。

 先日、この聖書箇所を調べるためにいくつかの本を読んでおりましたら、ある本にこんな文章が載っておりました。

以前、ある評論家が、子供の親に勧めていることがありました。
一日でいいから、自分と子供の会話を全部録音してごらんなさい。そして、一人でゆっくり録音を再生して自分の言葉を数えてごらんなさい。あなたが裁判官のように、子供に何回の判決を申し渡したか、朝起きてから寝るまでに、あなたの子供は何回被告席に座らされ、何回有罪判決を下されているか、子供の立場に身をおいて聞いてごらんなさい。その教育評論家は、更にこう問うのです。裁判官は判決を言うだけ、でもあなたは、それ以上の刑罰を子供に課していないか。

 私はこの文書を目にして、もう自分の心が痛んで痛んでしょうがないのです。本当に、一日録音した方がいいかもしれないなどと思わされます。親が子どもを叱る場合、他の方はどうか分かりませんけれども、問答無用で一方的に裁いてしまうということをしてしまいがちなのです。子どもにそうであるということは、他の人に対してもそうすることがあるわけです。 

 私たちが人を裁いてしまう場合のことを考えてみますと、子どもにするときもそうですけれども、自分が正しいという立場に身を置いて、人を裁きます。自分のもっている常識や、価値基準というものが、判断するときの材料になります。けれども、一方的に悪者にされてしまう側にも、それなりの道筋があるはずなのです。ということは、本当に人を裁くためには、その人に寄り添って、その人がどういう信念を持っていて、どういう判断をして物事を考えているのかということに、思いを馳せることがどうしても必要になるはずなのです。 (続きを読む…)

2020 年 6 月 1 日

今月の礼拝予定(2020年6月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 00:10

6月7日 三位一体主日

主日主題: 神の眼差し
公同礼拝・ライブ配信 午前9時、午前10時30分
聖書: ローマ人への手紙2章11節
説教:「えこひいき?」鴨下直樹牧師

6月14日 三位一体後第1主日

主日主題: いのち
公同礼拝・ライブ配信 午前9時、午前10時30分
聖書: エゼキエル書16章6節
説教:「生きよ!」鴨下直樹牧師

6月21日 三位一体後第2主日

主日主題: 福音
公同礼拝・ライブ配信 午前9時、午前10時30分
聖書: ローマ人への手紙1章16節
説教:「私は福音を恥としない!」鴨下直樹牧師

6月28日 三位一体後第3主日

主日主題: 祝福
公同礼拝・ライブ配信 午前9時、午前10時30分
聖書: コリント人への手紙第一 3章5-9節
説教:「使命か実績か」マレーネ師

2020 年 5 月 31 日

・説教 ガラテヤ人の手紙5章13-26節「御霊によって歩む」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:43

2020.05.31

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日の17節に、「あなたがたは願っていることができなくなります」という言葉があります。私たちはこの数か月の間、確かに願っていることができない状態がつづいていますから、この聖書の言葉をよく理解できるかもしれません。

 コロナウィルスが終息に向かいつつある中で、私たちは少しずつですけれども、自分のしたいことができるようになり始めています。外食をする。誰かと一緒に楽しい時間を過ごす。スポーツジムに行く。いろんな願いが、私たちの心の中に膨らんできています。

 今日の聖書箇所のテーマは「自由」です。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。

と13節にあります。私たちはそもそも自由に生きるように、神は私たちを召した。任命したのだと言うのです。本来は、誰かと楽しく会食をするのも、ジムに行くのも、外食するのも自由です。ただ、パウロはこう続けます。

ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

 この後で、「肉」という言葉と「霊」という言葉が反対の意味の言葉として出てきます。この「肉」というのは、人の心の中に働く自分中心の考え方のことを「肉」と呼んでいます。 

 私たちは自由に生きていいんだけれども、その自由を自分自身のために使わないで、「愛をもって互いに仕え合いなさい」とパウロは勧めているのです。

 ただ、私たちはこういう命令の言葉を見つけますと、もうさっそく「自由」ではない気分になります。なんだ、命令されてるんじゃん。命令に従うなんて自由じゃないじゃん。そんなふうに感じるのです。そして、やっぱり自分の好きなようにやりたいという思いが、頭をのぞかせるわけです。

 自由の難しさはそこにあります。命令されてやるのか、自主的にやるのか。どっちがいいのかということになります。今回のコロナの対応について日本のやり方は、「命令しないが、自主的にお願いします」というスタンスでした。そして、見事にそれをやってのけたことを、世界中の国々が驚いています。もちろん命令されてやるよりも、自主的に判断してやる方がいいに決まっているのです。けれどもほとんどの場合はうまくいかないわけで、それで世界中が驚いているのです。そもそも命令されるというのは、その人がちゃんとできないと思っているからです。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 24 日

・説教 創世記25章27-34節「何に価値を見出すか」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:55

2020.05.24

鴨下 直樹

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 ドイツにいた時のことです。最後の半年間私はある町の教会でインターンとしての実習を受けることになりました。その教会の牧師は日本でも宣教師として働いたことのあるクノッペル先生の教会です。当時、まだ青年だった私はこのクノッペル先生ととても仲がよくて、良い時間を過ごしていましたので、このインターンの期間はとてもよい実習の時となりました。

 この牧師の書斎の机の上にいつもひとつの石ころが置いてありました。遠くから見ているだけでは特に変わった石には見えません。ごつごつした黒っぽい石です。私自身は、石ころにとてもロマンを感じます。これは、どこにあった石なのか、どんな歴史を経て来たのか、何万年前からあるのか、そんな想像力を掻き立てられます。あるとき、私がクノッペル先生に、この石はなんですかと質問してみました。すると、クノッペル先生は顔を輝かせて、まるでその質問を私がするのを待っていたとばかりに、その石について語り始めました。最初に見せてくれたのは、その石の後ろにライトを当てて、よく見るように言われました。すると、なんとその石の後ろに置かれた光を通して見てみると、その石の中に水が溜まっているのが見えるのです。そして、この石の中の水はいつからここに閉じ込められていて、何万年前の水かと想像するとわくわくするという話を聞かせてくれたのです。

 何となく、この人は私と同じタイプの人間なんだと共感できた一瞬でした。もちろん、何の興味もない人からすれば、それはただの石ころでしかないのですが、ちょっと関心を向けると、そこにはとてつもないドラマがあることが分かります。一見、何の変哲もない石に見えても、そこに秘められたドラマに価値を見出すこともできるわけです。

 今日の聖書は、エサウとヤコブの兄弟のある一日の出来事が記されています。読みようによっては、何の意味も感じられないような出来事なのかもしれません。弟が作っていたレンズ豆の煮物を、兄が食べたいと言った時の小さな会話。それだけのことです。けれども、小さな出来事の中に、聖書は実に大きなテーマを取り扱おうとしています。
 それは神の選びと委棄の物語です。「委棄」(いき)という言葉はあまり普段使わない言葉です。委ねられたものを放棄するということです。つまり、この場合、長男としての権利を、エサウは放棄したということです。

 私は五人兄弟の二番目で、長男です。上に姉がおり、下に、弟が二人と、妹が一人います。子どもの頃、まだ小学生の頃のことです。弟は、この話が気に入ったのか、時々神様は弟を祝福するというテーマの話を私にしていました。私は弟になったことがありませんでしたので、兄の持つ価値ということに、あまり興味がありませんでした。もっとも、姉はそうではなかったようで、兄弟げんかがはじまると、その責任を問われるのはいつも姉でしたからずいぶん悩んだのだと思います。そう意味では、私は気楽な二番目の長男だったわけです。けれども、たとえば、おやつを兄弟と分けるというような場合になれば、長男の権利を発動して、大きなものを取ることができましたので、長男のありがたみをそれなりに満喫していたのだと思います。けれども、弟からしてみれば、いつもいい方を兄である私がかっさらって行くわけですから、面白くなかったのでしょう。そんなこともあって、この聖書の物語にことさらに興味を覚えたのかもしれません。

 あるとき、ヤコブがレンズ豆を煮ていると、兄のエサウが疲れて帰ってきます。何日も狩りに出かけてへとへとになって帰って来た。そんなことだったのかもしれません。そして、兄はちょうど料理をしていた弟に、その豆の煮物を欲しいと頼むのです。それは何でもない日常の一コマの出来事です。「いいよ」と言って差し出せばそれで済む話です。ですが、ヤコブはその時にこう言います。

「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」

31節です。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 17 日

・説教 創世記25章19-26節「イサクとリベカの祈り」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:53

2020.05.17

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。

 
 先週の15日、新型コロナウィルス感染拡大防止のための緊急事態宣言の解除が出されました。この岐阜県でも段階的に解除していくという指針がだされています。本当に長い期間に感じられましたが、少しずつ本来の生活を取り戻していくことができるようになればと願っています。

 特に、教会に集って礼拝ができなくなるなどということは、これまでの歴史のなかでもそれほどないことです。ですから、多くの方がまた一緒に礼拝ができる日が来るようにと祈ってこられたと思うのです。

 さて、今日のテーマは「祈り」です。イサクが祈り、またリベカも祈っています。私たちもまた祈ります。このような事態から一日も早く回復できるようにと祈ります。祈りには色々ありますが、ここに記されている祈りは、願い求めの祈りです。
 私たちはお祈りをするという時に、そのほとんどが、この願い求めの祈りだと思います。神様に願い事をする。願い求めの祈りをする。それはごく日常のことです。車に乗るとき、運転が守られるように祈る。仕事に出かける時、玄関先で短く、今日の一日の守りを祈る。家族の健康が支えられるように祈り、あるいは、他の人の病気がいやされるように祈る。私たちの祈りの生活の多くが、そのような願い求めの祈りです。そして、時折、私たちにはどうしても祈りをかなえてほしい願いがでてくることがあります。

 時々、お話しすることですけれども、私が中学3年生の時、毎日窓を開けて、天を見上げながらある祈りをしました。それは、私はあまりにも勉強をしていなくて、入学できそうな公立の高校がありませんでした。先生からも私立の受験をすすめられていましたが、我が家にはそんな経済的な余裕がありません。それで、私は一念発起しまして、その日から、毎日祈りました。「神様、どうか私の頭がよくなるようにしてください。あなたはソロモンに知恵を与えられました。私にもできるはずです。」とかなんとか言う祈りです。毎日、毎日、勉強もしないで、祈り続けました。結果、頭は全然よくなりませんでした。幸いに、何とか県下の工業高校に当時は最高の2.6倍という倍率を乗り越えて、公立ぎりぎりの高校に入ることが出来たのは、神様の憐れみだったのだと思います。なんでそんなに倍率が高かったのかよく分かりませんけれども、たぶん、そこが公立の一番下のラインという事で、受験する人が殺到したのだと思います。

 みなさんにはこんな経験があるでしょうか。私たちが祈るとき、時としてとてもわがままな祈りになってしまうことがある気がします。

 ですが、少し考えてみる必要があると思うのです。たとえば、みなさんが相手は誰でもいいのですが、誰かから、顔を合わせるたびに、「ねぇ、お願い、お願い」と願い事ばかりを頼まれたらどうでしょう。ちょっとうっとうしく感じるのではないでしょうか。そういう人と少し距離を取りたいと思うのではないでしょうか。

 よく、デパートに買い物に出かけますと、小さな子どもがおもちゃ売り場の前で泣いていて、母親が腕をひっぱったり、あるいは子どもを無視したりしている光景を目にすることがあります。私はあの光景を見るのは嫌いではありません。がんばっている親の姿を見て、どこか応援したくなる気持ちがあります。みんなそういうことを通して、願うものは何でも手に入れられるわけではないのだという事を、体験的に学んでいくわけです。

 ところがです。不思議なこともあるものですけれども、こと神様にお願いをするときに、私たちは時折この子どものような祈りをしてしまうことがあるのも事実です。祈ったものが与えられないと、へそを曲げたり、腹を立てたりします。でも、よく考える必要があるのです。親は、自分の子どもにでさえ、すべてのものが手に入れられるわけではないことを教えるのに、神さまは全部何でもいうことを聞いてくれると考えるのは身勝手なことなのだ、ということがそこで明らかにされている。それ以外の何物でもないのではないか。そんなことに気づくことが必要なのだと思うのです。

 さて、今日のところからイサクの物語に移っていきます。そして、聖書はここでイサクを描くのにあたって、まずこう書いています。21節です。

イサクは自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。

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