2025 年 4 月 27 日

・説教 ルカの福音書17章1-10節「神のくださる安心」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:04

2025.04.27

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。」という言葉から始まっています。

 「つまずき」というのは教会の中で、何度も取り上げられるテーマです。「教会殺すにゃ刃物は要らぬ、ただこの教会でつまずいたと言えばいい」と言った人がいます。なかなか核心をついた言葉ですが、私たちは苦笑いするしかありません。私を含め、皆さんもそうかもしれませんが、自分の言動が誰かにつまずきを与えたのではないかと感じる場面は、これまでに何度もあったのではないでしょうか? こういう言葉もあります。「牧師殺すにゃ刃物は要らぬ、この牧師には愛がないと言えばいい」。

 私たちは信仰の歩みをしていく中で、何度も何度もつまずきを経験します。そして、それと同じように、何度も自分は誰かにつまずきを与えてしまったのではないかと苦しむことにもなり得ます。ここに、クリスチャンの悩みがある、そう言っても言い過ぎではないのが、この「つまずき」というテーマです。

 しかもです。主イエスは2節で「その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。」と言われたのです。

 今はひき臼にお目にかかる機会も少なくなりました。和食レストランのサガミに行きますと、玄関先でこのひき臼が自動で蕎麦を粉にしているのを見ることが出来ます。大きな平らな丸い石を二つ重ねて、上臼を回すことで蕎麦を擦り潰して蕎麦粉にするわけです。おそらく、ひき臼一つで何十キロ、下手したら100キロ以上あるかもしれません。そんな石を首にくくりつけられて海に投げ込まれた方がましだと、主イエスが言われるのです。まるでヤクザ映画のようなセリフを、こともあろうに主イエスが言われたのです。この言葉を読んで、心中穏やかで無くなる人はたくさんあると思います。

 誰かをつまずかせる人は殺された方がまし、こんなひどい言葉は無いと思うのです。もし、自分が誰かをつまずかせたとしたら、私は死んだ方がいいのか? そういうことにもなりかねません。そこで、一度落ち着いて考えるわけです。この「つまずき」という言葉は、そもそもどういう意味の言葉なのかと。先日の聖書の学び会でもそういう質問が出ました。 (続きを読む…)

2025 年 4 月 6 日

・説教 ルカの福音書16章19-31節「ある金持ちの末路」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:10

2025.04.06

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は、「金持ちとラザロの譬え話」です。この箇所は前回の14節に出てきた「金銭を好むパリサイ人たち」に向けて話しておられる箇所の続きです。

 ここに二つの生き方が示されています。誰もが羨む金持ちの生活と、誰もが蔑みたくなる貧乏人の生活。この二人の正反対の人物を対比しながら話をしています。しかも、主イエスの話は、この金持ちは悪人で、貧乏人の方は善人であったとも書かれていません。考えてみますと、私たちの人生でも同じようなことが起こります。この二人の違いがどこにあるのか考えてみると、この二人には境遇の違いがあるわけです。どういう家で生まれたか。誰と出会ってきたか。何を学び、何を経験してきたか。そこで、大きな違いや差がでてくるわけです。

 どの世界でもそうですが、そこには成功した者と、失敗した者がいます。そして多くの人は、成功した者を尊敬し憧れを抱き、そのようになりたいと思うのです。書店には成功者の本が並び、自分の体験談の本はよく売れます。これらの本は前向きに生きることを教えてくれるのです。例えていうならば、料理のレシピのようなものです。こうすれば美味しく作れますよ! というわけです。そして、それがこの世界の一つの価値観なのです。

 ここには金持ちと、貧乏人が出てきますが、これは他にも何にだって例えることができます。「健康な人と病の人」「心の強い人と弱い人」「商売の成功と失敗」、結婚、子育て、進路何でも良いのですが、この世界の人は誰もが、失敗するよりは成功する人生を夢見るのです。もちろん、それは決して悪いというわけではありません。ただ、私たちの世界が、この成功者は勝者であるという価値観で支配されてしまっているのが問題です。

 もちろん私たちはこれほどまでに単純化された生活をしていないかもしれません。中庸を生きるという生き方だってあるはずです。ただ、主イエスのこの譬え話は、まさに私たちが生きている世界の、成功者はお金持ちになるという価値観を問題にしています。

 この主イエスの譬え話は三幕まで準備されています。

 第一幕は、生前の二人の生活ぶりです。金持ちの生活と貧しい人であるラザロの生活ぶりです。

 第二幕は、二人が死んでからの姿です。それは生きている時とは正反対で、死後には貧しい人は神のみもと、ここでは「アブラハムの懐」と呼ばれるところにいて、金持ちは「炎の燃え盛るよみの世界」にいるというのです。

 そして、第三幕では、よみの世界にいる金持ちが、何とか家族までがここに来ないようにしてほしいと頼み込みますが、もうすでに聖書があるのでそれで十分という結論で終わっています。

 主イエスはお話のとても上手なお方です。この世の人々の多くは、今の人生のことだけを考えて生きています。その先のことがあるなんてことはあまり考えていません。考えていたとしても、多くの人はきっと自分は天国に行けると考えていることが多いのでないかと思うのです。昔はお寺の和尚さんから、死んだら閻魔様のところで生前の罪の刑罰がくるからという話を聞かされたものですが、最近はそういう話もあまり耳にしません。教会も、それほど死後の裁きの話をしなくなりました。

 というか、旧約聖書を読んでいるとほとんどこの死後の話は描き出されてもいなかったのですが、主イエスはここで急にこんな話をなさったわけです。即ち死んだ後で自分の人生がひっくり返ることがあるのだという話をなさったわけです。

 私たちは、誰にもある日死が訪れます。早いか遅いかの違いはあったとしても、それは誰にも等しく訪れます。

 興味深いのは、主イエスのこの話は、ここで貧しい人として描かれているラザロの生前の信仰が語られていないことにあります。ラザロは実はとても信仰深い人物だったのだと書かれていれば、この話の意図は明白になるのですが、ここでは金持ちとラザロの違いは最初に話したように「生い立ち」や、その後の「人生経験」以外にはないかのように感じられます。表面上は、です。

 そこで、もう少し丁寧にこの聖書の箇所を考えてみたいのです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 30 日

・説教 ヨハネの福音書15章16節「私が牧師になったわけ 〜憧れの福音〜」

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2025.03.30

鴨下直樹

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 今日は進級式の礼拝ということで、子どもたちや学生たちも一緒にこの礼拝に集ってくれています。できるだけ難しい話はしないで分かりやすく話したいと思っています。

 先ほど楽しいスキットを見ました。最近は「推し活」と言うんでしょうか。皆さんにも、いろんな「推し」というのがあると思います。「推し」というのは、念の為に説明しておくと、その人がハマっているものや、人のことをさします。アイドルだったり、ゲームのキャラクターだったり、YouTuberだったり、いろんなものに夢中になって「推し活」なるものを始めるわけです。

 私が子どもの頃とてもハマったものがあります。それは、今で言えば「推しのゲーム」であったわけですが、それが「ドラクエ」と呼ばれるゲームでした。シナリオも絵も音楽も、そのゲームの世界観に当時小学6年生の私は夢中になったわけです。あまりにも夢中になって、いつか自分はゲームクリエイターになりたいとさえ思うほどでした。

 そんな具合でしたから、小学生の時も、中学校に入ってもゲームでよく遊びました。中学生になってから夢中になったものも沢山あります。中学では卓球部で、卓球にのめり込みました。音楽も中学生の時は洋楽にハマりました。マイケル・ジャクソンから始まって、いろんなアーティストにハマり込みました。でも、これらは今の推し活とは少し違うような気もします。

 それで、「推し活」の意味を調べてみると「自分にとって一押しのキャラクター(推し)を様々な形で応援する活動のこと」と書かれていました。調べてみて気づくのは「推し」は「キャラクター」なんですね。もちろん、それがアーティストであることも多いわけです。私の場合は、特定のキャラクターというよりも、たとえばゲームであればその世界が全部好きという感じだったのかもしれません。

 推し活にもいろいろあるんだと思います。好きなキャクターの缶バッチを集めたり、アクスタと呼ばれるそのキャラクターの描かれたアクリル製のスタンドを集めたり、ぬいぐるみやフィギュアを集めたり、あるいはそのキャラクターの出るコンサートや催しに参加したり、実にさまざまな応援の仕方があるようです。

 私の子どもの頃は推し活ではなかったわけですが、好きなものに夢中になってそれにのめり込んでいきましたので、勉強もあまりしませんでした。それでも毎日楽しかったのをよく憶えています。

 ところが、中学も2年生が終わり3年生になりますと、だんだんと現実的な問題が差し迫って来ます。自分がどういう道に進んでいくのかということを考えて決断していかなくてはならないわけです。その時点で、自分の進路を考えると気分が落ち込み始めます。それまでは、毎日とても楽しいことばかりだったのに、自分の現実が突きつけられるわけです。勉強をしてこなかったつけが回って来ます。というのは、高校を選ぶにあたって、私には選べる選択肢が無いことに気がつくようになるわけです。

 そうなると今まで自分の毎日を楽しくしてくれていたゲームや音楽が、実は自分の足を引っ張っているんじゃないかと感じ始めるわけです。でも、大好きですからそんなに簡単には捨てられません。

 思うに「推し活」というのは、普段頑張っている自分が、いろんな壁や問題に直面する中で、小さな慰めや希望を見つけ出して私たちにちょっとした希望や勇気をくれるものだと思うのです。その中にはさまざまな形で「憧れ」と呼べるものが存在しているはずです。そこには、自分の「こういうものが好き」という自分の中にある例えば「応援したい気持ち」だったりが隠れているわけです。

 中学3年生の時の私は、自分のことがよく分からなくなっていました。一所懸命に励んできた卓球部の部活は3年の春までは100人の生徒の中でわずか数名しか選ばれないレギュラーでした。けれども、夏の大会の直前で調子を落としてレギュラーから外されてしまいます。そこからやる気が失われていきました。勉強も全然していませんでしたから、進路を決める時に私が希望を出した高校は、担任の先生から100%落ちるからやめておけと言われる始末でした。

 それでも私には一つの希望がありました。それは、聖書の中に出てくるソロモンという王様の話です。ソロモンは、自分は王様にはなれないと自信が無かったのですが、神様にお祈りすると、神様から知恵を与えられて立派に国を治めた王様です。あの頃の私には、この聖書の話だけが希望でした。私はこのソロモン王にどこかで憧れていたのだと思います。それで、勉強もしないで毎日真剣に神様に「どうか、ソロモンのように頭を良くしてください」と祈り続けたわけです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 2 日

・説教 ルカの福音書16章14-18節「神の国の福音に生きる」

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2025.03.02

鴨下直樹

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 主イエスは話のとても上手なお方です。今日のルカの福音書のこの箇所にも主イエスのお話の上手さがよく現れていると言えます。

 前回の話、不正な管理人の譬え話をなさったあとで、神に対して忠実に富を用いることをお話しになられました。この話を主イエスは弟子たちに向けてお語りになられたわけですが、その話を聞いていたパリサイ人たちは、この話を嘲笑いながら聞いていました。主イエスの話をあざ笑ったのです。それに対して話されたのが今日の箇所です。ここには、主イエスの話の巧みさがよく出ているとても面白い箇所だと言えると思います。

 パリサイ人たちがこの時、主イエスの話を聞いて、なぜ笑ったのかというとパリサイ人なりの理由があります。それは、申命記28章にも書かれているのですが、イスラエルの民が主の戒めを守り従うなら祝福されるという約束があります。それで、ユダヤ人たちは仕事が成功して富を得るのは神からの祝福のしるしだと考えていました。それなのに、主イエスは「神にも富にも仕えることはできない」と言われたので、それはおかしいと考えたのです。この考え方に関しては、パリサイ人たちは自信を持っていたと思いますし、実感でもあったのだと思うのです。

 富を得られるのは神からの祝福のしるし。パリサイ人たちはそのように考えていたのです。それなのに、主イエスは富のことを「不正の富」と言ったり、「この世の富」と言ったりして、神と富を別々のものとする考え方を示されました。この話を聞いて、パリサイ人たちは主イエスの考え方には同意できない、これは神の考えに反する教えだと考えて嘲笑ったのでした。

 それで、主イエスはお金の好きなパリサイ人たちに対して話されたのが、この14節以下の話です。この時に主イエスが話された言葉、今日の聖書箇所には少しびっくりする言葉が投げかけられています。15節です。途中からお読みします。

神はあなたがたの心をご存知です。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。

 ドキッとする言葉です。「人々の間で尊ばれるもの」でイメージするのはなんでしょうか? 今だと野球は新しいシーズンのための準備の期間ですが、大谷選手の話でいつもニュースは持ちきりです。人々の間で尊ばれている大谷選手は、神には忌み嫌われているのか? そんなふうに考えてしまうと、よく分からない言葉とも言えます。

 主イエスはこのように少しドキッとする言葉を発されて、人々が考えるように促しておられるわけです。 (続きを読む…)

2025 年 2 月 23 日

・説教 ルカの福音書16章1-13節「不正な富の用い方」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:12

2025.02.23

鴨下直樹

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 私ごとから始めて恐縮なのですが、この一週間この聖書箇所にずいぶんと悩まされてきました。手元にある本を何十冊読んだか分かりません。この聖書箇所は難解な箇所としてよく知られているのですが、実に、さまざまな解釈が存在します。同じように読んでいる人は一人もいないと言ってもいいくらい、それぞれが、まるっきり読み方が違うのです。

 聖書朗読をお聞きになられて、皆さんもこれが何を語っている話なのか、すぐには理解できないのではないかと思います。というのは、聞いていて引っかかる箇所がいくつもあるのです。

 ある管理人が「主人の財産を無駄遣いしている」という訴えから話が始まります。この管理人は「不正な管理人」と8節で命名されています。この「不正な管理人」は、「主人のお金の無駄遣い」がバレてしまって、首を宣告されます。ところが、まだ取引先のお客さんは、その管理人が首になったことを知りませんから、証文を安く書き換えてやることで、恩を売って自分が失職した際に家に迎え入れてもらおうと画策したという譬え話を主イエスがなさいました。どうみても、不正のうえにさらに不正を働いているわけですが、主人は、これを知ってこの「不正な管理人を褒めた」というのです。

 皆さんはこの話を聞いて、どう思われるでしょうか? ここに出てくる不正な管理人というのは、不正に不正を重ねて自己保身のために知恵を使った人物です。ここで主イエスが「この人はやがて裁かれるのだ」とか「こういう人の末路は惨めなものだ」と仰ったのであれば理解することもできます。しかしもし本当に主イエスが褒めておられるのだとしたら、真面目に、誠実に生きようとしているのが馬鹿みたいです。そもそも主イエスがこんなことを仰るなんて、きっと何か理由があるはずで、ここで語ろうとされている福音は何なのかが気になって仕方がないのではないでしょうか。

 主イエスのなさる話というのは、いつもそうですが予想のはるか上をいっている感じがします。「主人がほめた」のだとしたら一体何を褒めたのか? あるいは、そもそも褒められているわけだから、この管理人のしたことは実は悪いことではなかったのではないか? と、それらをめぐって実にさまざまな聖書解釈が存在します。 (続きを読む…)

2025 年 2 月 2 日

・説教 ルカの福音書15章25-32節「不満が溢れる心に」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:45

2025.02.02

鴨下直樹

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 今日の説教題ですが、予定を変えて「不満が溢れる心に」としました。今日の聖書に出てくる兄息子の心を表した言葉です。

 「不満」。今日はこの言葉を少し考えてみたいと思うのです。というのは、私たちが生活している時、常に私たちはこの「不満」と対峙しながら生活しているからです。ガソリンがまた高くなった。スーパーの野菜が高い。そんな日常の細かな不満をあげればキリがありませんが、そういう物事に対する不満もありますが、「不満」の多くは人に向けられる感情であることが多いと思います。そして、そのような人に向けられる不満の感情の多くは、どこかに表されることなく、心の中に仕舞い込んでいることが多いかもしれません。それを口に出した途端、その人との関係が壊れてしまうこともあるからです。

 今日の聖書に出てくる二人の息子にもそれぞれに、異なる不満があったはずです。ここに出てくる二人の息子には、それぞれに心のうちに秘めた思いがあったはずです。そして、弟息子はある時それを口に出し、行動に移しました。それが、父に向けて言ったことば「お父さん、財産のうち私がいただく分をください」という12節の言葉に表されています。

 そして、「弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。」と続く13節に記されています。

 弟息子は、父への不満、家への不満をそのような態度で表しました。しかし、この兄息子の方は、この時に一緒に財産をもらいましたが、弟のように財産を持って旅立つことはせず、父親の元に留まったのです。兄にも家を出るチャンスはあったかもしれませんが、兄は父のもとでそのまま仕事に従事していたわけです。立派な跡取りとしての務めは果たしていると言えます。少なくとも、周りからはそう見えているはずです。けれども、今日の聖書の箇所まで進むと、この時の兄息子の心の中に秘められていた不満が明らかになっています。

 兄が畑でいつものように仕事をしていると、何やら楽しそうな音楽と踊りの音が聞こえてきます。それでしもべに尋ねると、弟息子が帰ってきたので、父親が子牛を屠って盛大な宴会を催しているというのです。この瞬間、兄の心は一気に崩れてしまいます。

 兄には父の思いが理解できません。どうして弟息子を喜んで迎え入れるのか。盛大な宴会を開いているということは、弟息子を喜んで迎え入れたにちがいないのです。兄の心の中がざわつきます。弟に対する怒り、父親への不満が一気に噴出します。「こんな馬鹿らしいことがあるか!」それが、兄息子の心の中の思いです。

 この兄の思いは、誰もが共感する思いでもあります。兄からすれば自分が不当に扱われているような、そんな気持ちになるのも私たちには良く理解できるのです。

 「正直者が馬鹿を見る」という諺があります。それは、この世の中のあり方を表している言葉でもあります。けれども、それは聖書の考え方ではないし、神はそういうことを認めない。そうでなければ何が信仰かという思いが、私たちの中にはどこかにあると思います。

 信仰というものは、心を見てくださる神の御前にあって、誠実に生きること、真実に生きること。そこに神の祝福もあるはずです。私たちはそう考えます。私たちの主は人の心を見られるお方だからです。

 けれども、この聖書を読んでいるとやはり「正直者が馬鹿を見る」という思いが拭えない、そんな思いになるのかもしれません。聖書はここで何を私たちに語ろうとしているのでしょうか? (続きを読む…)

2025 年 1 月 26 日

・説教 ルカの福音書15章11-24節「家へ帰ろう!」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:01

2025.01.26

鴨下直樹

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 皆さんは、自分の人生をやり直したいと考えることがありますか? この世の中には、高校生から人生をやり直して勉強したいとか、会社の選択をやり直したいとか、結婚生活をやり直したいとかいろんなことを考える人たちがいます。私は最近、特にコロナ禍に入ってからでしょうか、Amazonプライムという動画配信サービスでいろんなドラマやアニメを見ることがあります。そこで感じるのは特にアニメの作品では「異世界転生もの」と呼ばれる作品がたくさんあるということです。

 そんなことを言っても皆さんにはあまりピンとこないかもしれませんが、自分がひょんなことから異世界に飛ばされてしまって、そこで新しく人生をやり直す、そんな設定のアニメやドラマがたくさんあるのです。

 実は、この異世界転生ものの先駆けとなったのは、イギリスのキリスト者の小説家、C・S・ルイスの描いた『ライオンと魔女』から始まるシリーズ『ナルニア国物語』です。ナルニアという異世界はアスランというライオンの王が治めている世界です。しかしその世界は魔女の力によって氷漬けにされ、人々は自由を奪われてしまっているのです。そこに、現代から(と言っても古い作品なので第二次世界大戦中のイギリスから)ナルニア国に招き入れられた主人公たちによって、世界が回復されていくという物語です。

 C・S・ルイスはこの作品を通して、「信じる力」をテーマにキリスト教の信仰を分かりやすく物語ろうとしています。その他にも「転生もの」とは少し違いますが、やはりキリスト者の作家で『指輪物語』を記したトールキンの描いた世界も異世界でした。このトールキンの物語は多くのファンタジー作品の土台となった作品でもあります。

 今、子どもたちや若い人たちが好むゲームや映画、アニメや小説などでは、この異世界で冒険をする物語がたくさん描かれています。この最近の流行りを見ていると、どこかこの世界ではない別の世界でなら自分は自由に羽ばたいて生きることができるのではないか? そんな憧れをこの世界の人々が持っているのではないか、そんな気がしてなりません。

 今日の聖書の中にも、そんな一人の若者が登場してきます。彼は二人兄弟の弟で、父親のもとを離れて新しい世界に旅立つことに憧れを抱いていたようです。誰も自分のことを知らない世界、それこそ異世界のようなところへ行って、うるさい親から離れて、自分の力で好きなことをやって生きていく。彼にはそんな希望が有ったに違いありません。自分の家のしきたりや、親のもとでの生活は窮屈に感じられ、自分の生きている世界は魅力の無い世界だと感じていたようです。それで、今の生活とは全く異なった新しい世界に希望を見出したのです。そういう思いというのは、私たち誰もがどこかで抱いたことがある考えなのではないでしょうか?

 それで、この物語の弟息子は父親に、ある日こう言います。 (続きを読む…)

2025 年 1 月 5 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 5章21節「良いものをしっかり保ち」

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2025.01.05
新年礼拝

鴨下直樹

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 新しい一年を迎えました。今年の年間聖句はこのテサロニケ人への手紙第一 5章21節の御言葉です。

すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。

 これは、『ローズンゲン』が定めた年間聖句です。ローズンゲンというのは、ドイツにありますヘルンフート兄弟団という教会が、今から300年ほど前から始めた習慣です。この教会はその日、その日の聖書の御言葉を、くじ引きをして、それをその日の御言葉として生活をしていくという習慣から始まっています。「ローズング」というのは「くじ」という意味です。「ローズンゲン」というのは、その複数形です。ですから、「たくさんのくじ」というような意味になるかもしれません。日本では「日々の聖句」というタイトルで70年ほど前から翻訳、出版されるようになっています。ドイツの教会ではほとんどのクリスチャンが毎日の聖書を、このローズンゲンを通して読んでいます。私が芥見教会に来た時から毎年、年間聖句はこのローズンゲンから紹介させていただいています。

 さて、今年の御言葉は私たちにこう語りかけています。

すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。

 読んでお分かりになるようにこれは命令形で書かれています。「良いものはしっかり保つように」という命令です。文章の前後関係がこれだけでは分かりませんので、まず「良いもの」というのは何を指しているかを理解することが大切になります。

 そう思ってすぐ前の文章を読むと、「御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません」という二つの命令が書かれていることに気が付きます。つまり、ここでパウロが言っている「良いもの」というのは「聖霊」のことと「預言」つまり「聖書の御言葉」のことだということが分かります。

 誤解しないように言っておくと「預言」と聞くと私たちはすぐに「未来に何が起こるかを告げる言葉」と考えてしまうかもしれません。けれども、これは「神から預かった言葉」がまず第一の意味ですから、パウロの意図からすると「説教」という意味で使っていることになります。礼拝で語られた説教を軽んじないで、聖霊が消えることがないようにということを勧めているわけです。

 でも、そのようにして聞いた御言葉を鵜呑みにするのではなくて、その前に「すべてを吟味し」と言っています。「吟味する」というのは「見分ける」ということです。 (続きを読む…)

2024 年 12 月 1 日

・説教 ルカの福音書15章1-7節「見つけ出された羊」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:08

2024.12.01

鴨下直樹

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 今日からルカの福音書の第15章に入ります。ここは、有名な三つの譬え話が記されているところです。「迷える子羊」の譬え話と、「失われた銀貨」の譬え、そして「放蕩息子」と呼ばれる譬え話が記されています。

 はじめにお話ししておくと、この三つの譬え話というのは、主イエスが私たちにもたらしてくださる「救い」を3つの視点で語っているものです。もし誰かに、「聖書が語る救いって何ですか?」と聞かれたら、このルカの15章を思い出してくだされば良いわけです。

 さて、ルカの福音書の第15章にある主イエスが話された三つの譬え話は、ある出来事がきっかけになっています。それが1節と2節に記されています。これによると、主イエスの話を聞こうと、その周りに取税人たちや罪人たちが集まっていたようです。どうも、食事も一緒にしていた様子です。その姿を見て、パリサイ人や律法学者たちは文句を言ったと書かれています。

 別に、誰が誰とご飯を食べようが、誰と話そうが勝手にしたらよいと考えがちですが、この光景を、パリサイ人たちはどうしても認められませんでした。というのは、取税人や罪人たちというのは、神様の意思に逆らう人と考えられていたからです。パリサイ人のように神様の戒めに従おうとする人たちというのは、できるだけきちんとした生活をすることを志していました。誰からも後ろ指をさされることがないように、生活を律していました。この人たちの志はたいしたものであったと言えると思います。ですから、ここで罪人とよばれるような人とのお付き合いは避けました。どうしてかというと、いつどこでその人たちが悪いことをしでかすか分かりません。そうなれば、後々誰かに咎められる可能性があったからです。

 連日、兵庫の知事さんの話題でもちきりでした。公職選挙法に違反したのではないかと考えられていましたが、あの問題となった広告代理店の女性の社長さんが「話を盛っただけだ」と答弁すると、「なるほどそういうこともあるかもしれない」とみんな納得して、それ以上追及されなくなりました。けれども、こういう教訓というのは大切で、普段の脇の甘さが肝心なときに問題となる怖さというのを、私たちはあそこで見たわけです。そういうものをイメージすると良いのかもしれません。

 パリサイ派の人々は他の人の目をいつも気にしています。そういう人たちですから、主イエスの周りに罪人たちがいて一緒に食事をしている光景というのは、ひどくだらしなくみえるのです。一言、言わないではいらないような気持ちになるのです。罪人と一緒にいるということは、自分もその影響を受ける。それは聖書を教える立場の人には相応しくないと考えたのかもしれません。 (続きを読む…)

2024 年 11 月 24 日

・説教 ルカの福音書14章25-35節「十字架を背負って」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:14

2024.11.24

鴨下直樹

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 今日はこの礼拝の後で、役員会による洗礼希望者の諮問会が行われます。洗礼式の前にはいつも洗礼を受ける人の証しを聞き、信仰告白の言葉を聞きます。役員の一人一人が、その言葉に耳を傾けます。そして、その後に、洗礼入会式の時になると、司式者の問いかけに対して受洗者は「はい、信じます」という告白をすることになるのです。

 洗礼式の時に必ずいくつかの問いかけをします。初めはこういう問いから始まります。

「あなたは天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか」

 すると、洗礼を希望される人は皆「はい、信じます」と答えるのです。ここにおられる教会員の皆さんも、かつて洗礼を受けられた時に、そう告白されたと思います。

 私は、あの「はい、信じます」という言葉を聞くと、いつも不思議に思います。決して簡単な言葉ではないはずなのです。

 主イエスが今日のところで群衆に問いかけておられる言葉があります。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。」

 26節の言葉です。

 驚くような言葉であるかもしれません。主イエスの弟子となるためには家族を憎むのだと言われるのです。しかし、私たちが洗礼の時に「はい、信じます」と告白するということは、この26節の主イエスの言われる言葉に「はい、分かりました」と答えるのと同じ意味を持っています。

 そんなことを言われると、びっくりする方があるかもしれません。「私はそこまで考えて洗礼を受けたわけではありません」と思うかもしれません。そのくらい、この26節の主イエスの言葉は厳しい言葉です。主イエスの弟子になるというのは、並々ならぬ覚悟が要る。そう語ろうとしているのでしょうか?

 主イエスはこう言われた後で二つの短い譬え話をされてています。一つは塔を建てる時に、完成できるかどうか、あらかじめ計算するという話です。もう一つは、戦いに勝つためには勝てる見込みがあるかどうか、よくよく考えるという譬え話です。

 この二つの譬え話が言おうとしていることは、それほど難しい話ではありません。この先に起こることを予め見越して決断しなさいということです。この後どうなるかよく見極めなさいという話です。

 なぜ、そういうことを主イエスはここで言われたのでしょうか? (続きを読む…)

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