「説教音声」カテゴリーアーカイブ

・説教 ルカの福音書22章1-13節「人の計画と主イエスの計画」

2026.03.01

鴨下直樹

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 ルカの福音書も今日から第22章に入ります。先週から主イエスの十字架の苦しみを覚える受難節、レントに入っています。ルカの福音書もこの第22章からいよいよ明確に受難の出来事が記されていきます。

 まず、この1節から7節までに書かれているのは、ユダの裏切りの計画が始まったという出来事です。そして、その背後には祭司長、律法学者たちの思惑が働いていたことが記されています。今回、この聖書箇所を読みながら、改めて考えさせられるのは、2節の言葉です。

 「祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた」とあります。彼らは、まがりなりにも宗教指導者たちです。もちろん、聖書の戒めをよく知っている人たちです。「殺してはならない」という戒めもよく理解していたはずです。それにも関わらず、主イエスに対する殺意が生まれているのです。

 どうして殺意が生まれたのか、ルカはこの2節で「彼らは民を恐れていたのである」と書いています。ここには二通りの意味があることが考えられます。第一の意味は、祭司長、律法学者たちは、主イエスの人気が高まるにつれて、イスラエルの人々の心が自分たちの大切にしている教えを軽んじることになってはならないという、彼らの宗教的な熱心さから生じる不安や恐れです。もう一つ考えられる彼らの恐れは、主イエスに人気が集中することへの妬みです。群衆の反応への恐れです。そのどちらかであったかは分かりませんし、あるいは両方の思いがあったのかもしれませんが、祭司長や律法学者たちは主イエスの殺害計画を立て始めます。

 他の福音書のマルコによると、彼らが恐れた理由として「民が騒ぎを起こすといけない」と書かれています。つまりこの過越の祭りの時期に行うのは民衆の暴動が起こる可能性があるといけないからだという事を理由としていることになります。マルコの福音書によれば「今ではない」という判断の理由が民衆を恐れたからだとしていることになります。

 いずれにしても、祭司長たちの中では主イエスを殺すという思惑はすでに固められていたわけです。

 すると、そこに主イエスの十二弟子の一人であるユダが訪ねて来ます。ユダは祭司長たちに「どのようにしてイエスを彼らに引き渡すか相談した」と4節にあります。祭司長たちにしてみれば渡りに船です。5節にこうあります。「彼らは喜んで、ユダに金を与える約束をした。続きを読む ・説教 ルカの福音書22章1-13節「人の計画と主イエスの計画」

・説教 ルカの福音書21章20-38節「心を高くあげよ」

2026.02.22

鴨下直樹

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 私ごとから始めて恐縮なのですが、コロナ禍があってからインターネットの動画配信サービスを見ることが増えました。そうすると、最近の傾向というのが分かってきます。特に「異世界転生もの」と呼ばれる作品がずいぶん増えました。これはゲームなどの影響もあるかもしれませんが、主人公が何かのきっかけで、今の世界とは全く異なる異世界に飛ばされてしまって、そこでモンスターと戦いながら生き延びるという作品です。私は、この系統の作品が好きで時折見ることがあります。けれども、一昔前は違いました。私が子どもの頃の多くの作品は、ヒーローものが圧倒的でした。善と悪との戦いを描くものが多く、最後にヒーローが登場して悪をやっつけるという作品です。こういう作品を見慣れているうちに、私たちはいつの間にか、力は正義であるという思いを植え付けられていきます。

 けれども、その力は常に「暴力」を伴うわけです。そして、敵が悪の場合は暴力を振るうことが正当化されるのだと考えてしまうようになります。では、その場合、敵と悪の基準はどうなるのでしょうか? 確かにゲーム作品などのタイトルにあるように “完全超悪” という世界であれば分かりやすいのです。悪が常に破滅と破壊だけを繰り返す、愛の心も優しさもない絶対的な悪であれば滅ぼされても構わないと考えることは容易なのですが、私たちが生きている世界に「完全超悪」「絶対悪」と呼べるものは、全く無いとは言えませんが、そこにもさまざまな思いは有るわけです。

 今日の聖書の箇所には主イエスがいよいよ受難に向かう前の、最後の遺言のような言葉が語られています。そこで何を仰っているかというと、「しばらくするとエルサレムは軍隊に囲まれるようになる。そうなったらみんな逃げるように」と勧めておられるわけです。

 主イエスが歩んでおられた時代、すでにイスラエルの土地やエルサレムはローマに支配されていました。けれども、この時代は比較的穏やかにユダヤ人たちが生活できるようになっていました。当時のローマはイスラエルの人々に特別な保護を与えていたからです。けれども、その日々は長くは続きませんでした。実際に主イエスがおられた時から約40年後の紀元70年にエルサレムはローマに取り囲まれて、陥落してしまいます。

 自分の愛する国が敵国に支配されてしまう時に、主イエスは人々に「正義の名のもとに」あるいは「神の名のもとに戦いなさい!」とは仰らないのです。そうではなくて、「逃げなさい」と語りかけておられます。24節にこうあります。

人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国の人々のところに連れて行かれ、異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。

 この神の都エルサレムは外国人たちに踏み荒らされると仰っているのです。この話を聞いているのはユダヤ人たちですから、心穏やかに聞いてはいられない話だと思います。「こういう時代が間もなく来るから戦争できるように準備をしておきましょう!」と叫べば国民から70%ぐらいの支持率は得られそうな話をしているわけです。けれども、主イエスは「力による平和」「武力による平和」を語られはしないのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書21章20-38節「心を高くあげよ」

・説教 ルカの福音書21章5-19節「一本の髪の毛までも」

2026.02.01

鴨下直樹

 

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 今、私たちは教会で総会の準備を進めております。先日、教会のホームページの一年間の取りまとめの資料が出されたので、目を通しておりました。これまでも、教会のホームページの閲覧数は、なかなか多い方だと思っていたのですが、昨年突然と言っていいと思うのですが、1.5倍に増えたという報告でした。今はYouTube配信もしておりませんので増える要因はそれほど思いつきません。ただ、これまで長い間、こつこつとホームページの管理をしてくださっている方々や、説教の原稿の校正をしてくださる方があって、続けてきている働きの一つです。そのような働きを、一年ごとに振り返って確認するというのはとても大切なことだという気がしています。

 今日の聖書の箇所は、少しこのことと似たようなことが記されています。5節です。

さて、宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。

と書かれています。エルサレムにはこの時代、ヘロデが改修したとても立派で大きな神殿が建てられていました。今はすでにこの時あったエルサレムの神殿は壊滅してしまっています。この神殿は、ゼルバベル神殿と呼ばれた、バビロン捕囚からの帰還のあと、ネヘミヤやゼルバベルによって再建された神殿を、のちの時代になってヘロデが大幅に改修したものです。当時、エルサレムの神殿は白く光り輝く神殿として有名になり、ローマの世界の中でも巨大な神殿として知られ、権力の象徴のような建物となっていました。この立派な神殿を眺めながら、何人かの人々が話をしていたのが、今日の箇所の導入です。

 このような建物を見て人々が喜んでいた時、主イエスはこの建物はやがて粉々に壊れてしまう時が来ると話をはじめられたのです。私たちのこの礼拝堂もそうですけれども、献堂して20年が経ちました。立派な建物です。昨年ようやく借入金の返済も終わったことですから、これからしばらくは安泰だとどこかで思う気持ちがあります。

 私たちは時折、自分たちのしてきたことを振り返りながら、その業績のすばらしさを誇りたい気持ちになることがあります。たとえば貯金通帳にたくさんの預金額を見て、嬉しくなる思いに似ています。ホームページの閲覧数が増えたこともですけれども、こういったことは、とても喜ばしいことです。誇るべきことです。ほっとできるひと時だとも言えます。

 ところが、そんな時に主イエスはその会話に口を挟んでこう言われるのです。「それらのすべてがダメになってしまう日が来る」と。主イエスはどんなつもりで、この話をなさったのでしょうか? 少し意地悪な気持ちなのでしょうか? それとも、ここから何かを考えさせたいと願っておられるのでしょうか? 続きを読む ・説教 ルカの福音書21章5-19節「一本の髪の毛までも」

・説教 ルカの福音書21章1-5節「自己からの解放」

2026.01.04

鴨下直樹

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 新しい年を迎えました。今年、私たちは年間聖句としてヨハネの黙示録21章5節の「見よ、わたしはすべてを新しくする」とのみ言葉が与えられています。

 先日の元旦礼拝の時にこの箇所から説教しました。そこで、私は「私たちが新しくされるのは、悔い改めの先に、神は新しい事柄を備えておられる」という説教をいたしました。説教全体としては、それほど厳しい説教ではなかったと思っていますが、説教を聞かれた方は、厳しい説教という印象を持たれた方もあったかもしれません。

 「悔い改め」という言葉を聞くと、どうしても自分の振る舞いを反省して改めなければならないという部分に心が向いてしまうと思うのです。けれども、悔い改めというのは、私たちが変えられていくとても大切なきっかけです。これはまさに恵みであるということをぜひ知っていただきたいと思っています。

 今回、予定表にはルカの福音書の20章45節からとなっていました。しかし、前回の説教で、45節から47節も同時にお話ししたこともあって、今回は21章からといたしました。しかし、今日の箇所ではやはりどうしてもこの45節からの流れがとても重要です。この45節以降で、主イエスは人前で見栄をはる律法学者に警戒するようにと話しておられます。聖書のみ言葉に従って生きているはずの律法学者たちは、神のみ前の歩みということを忘れてしまって、人の前で自分を装う人となってしまっていることを戒めておられます。

 この律法学者たちは自分たちがやっていることが、神の前に問題のある行動だということにさえ気づいていないのかもしれません。主イエスにこう指摘された時、律法学者たちは腹をたてたはずです。はらわたが煮えくり返るような憤りを覚えたかもしれません。けれども、その心の中では、「これの何が悪いのか? みんなやっていることだ」と考えていたかもしれません。あるいは、「私たちは、人々に聖書に従って正しく生きる姿を示しているのだ」と考えていたのかもしれません。

 人々は律法学者たちのことを尊敬していました。「自分たちはなかなか聖書の教えを理解していたとしても行うことができない。けれども、この先生たちは神の前に忠実に生きている人たちだ」と考えていたのです。人から尊敬され、人からもてはやされ、人から褒められる生活というのは悪い気はしないものです。そういう生活が続いていくと、人からどう見られるかに心が向いてしまい、神のみ前でどう見られているかを考えることができなくなっていきます。そうして、この律法学者たちは、困っている人に親切にするという姿勢で、「やもめの家を食い尽くした」と主イエスは言っているのです。善人のふりをして近づき、弱い人に寄り添うふりをしながら、その人たちに養ってもらうようなそんな有様だったというのです。

 聖書の専門家である律法学者たちでさえそうであったのですから、他の人はそのような生き方が間違っているとはなかなか気が付かないのです。

 この律法学者の姿というのは、「神の前で悔い改めをすることを忘れてしまった人の姿」と言うことができます。主イエスはこのような姿にとても心を痛めておられるのです。

 そのような律法学者たちの姿を嘆いておられる時に、主イエスは宮の中で一人の人の姿が目にとまりました。金持ちたちが献金箱に献金している姿を見る中で、一人の貧しいやもめの献金する姿が目に飛び込んできたのです。その人はレプタ銅貨を2枚献金の箱に投げ入れたのでした。まさに、律法学者たちに食い尽くされている人と主イエスが言われたその人が、神殿にやってきて、そのなけなしのレプタ銅貨を献金したというのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書21章1-5節「自己からの解放」

・説教 ヨハネの黙示録21章5節「すべてを新しくされるお方」

2026.01.01
元旦礼拝

鴨下直樹

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 新しい年を迎えました。今年のローズンゲンによる年間聖句は、ヨハネの黙示録の21章5節のみことばです。5節全体を読んでみます。

すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」

 主は、語られます。「見よ、わたしはすべてを新しくする!」と。新年を迎えるとき、私たちは家を大掃除し、冬の寒い中で車を洗車し、気持ちよく新年を迎えたいと思うものです。そのようにして新年を迎える時に、気持ちも新たに新しいスタートを切りたいと願う。そう考える人は少なくありません。問題は、その新鮮な気持ちがいつまで続くかということかもしれません。

 お正月の三が日はゆっくりと過ごし、今年だと5日が月曜日ですからこの日から仕事が始まる人も多いかもしれません。はじめのうちの数日は新鮮な気持ちで働くことができるのかもしれませんが、一週間もたつと新年の志は薄れていってしまいます。そうすると、あとは特に大きな変化もなく、同じような日々が続いていくことになるでしょう。それが、私たちの生活というものかもしれません。

 今年の年間聖句は、聖書を読む人々にとって、希望を与えるみ言葉です。ヨハネの黙示録の21章は、この世界を神がやがてどうされるのかが約束されているところです。まず、21章の1節では「新しい天と新しい地」を見たと語られていて、2節ではこの新天新地が「神のみもとから、天から降ってくるのを見た」と記されています。

 この黙示録は絶望の時代に生きている人々に希望を知らせているのです。今の世界が永遠に続くのではない、やがて神が備えられた「新しい天と新しい地」があなた方に与えられるのだと約束しているのです。

 この約束に、私たちのすべての希望が込められています。続く3節と4節では、その新しい世界は、死も悲しみもない、慰めに満ちた世界だとも語っています。

 そして、今日の箇所5節では、今度は神ご自身が「見よ、わたしはすべてを新しくする」と自ら宣言してくださっているのです。

 この幻を見ているのはヨハネで、1節から4節までは、ヨハネが見たこと、聞いたことが語られていました。しかし、この5節では神ご自身がこれを語られているのです。だから、この知らせ、わたしはすべてを新しくするという知らせは間違いない知らせなのだという宣言です。

 では、この神が語られているメッセージの中身は、どういった内容なのでしょう。「すべてを新しくする」とはどういうことなのでしょう? 続きを読む ・説教 ヨハネの黙示録21章5節「すべてを新しくされるお方」

・説教 ルカの福音書20章41-47節「あなたの主はどんな方?」

2025.12.28

鴨下直樹

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 先ほど、私たちは洗礼入会式を行いました。洗礼に先立ってSさんの救いの証しを聞きました。Sさんは芥見教会に来られて10年以上、いわゆる求道生活を続けてこられました。どうなったら自分はクリスチャンになれるのか、教会に通う間、ずっと考え続けてこられたのです。

 きっかけは今年の夏のことです。私たちの教会は「信徒交流会」という名称で、毎年7月の後半から8月いっぱい、教会の水曜日と木曜日の祈祷会の時間を使って、信徒のみなさんが順に一人ずつ証しをする時間をもうけています。まだ洗礼を受けていなかったSさんに、長老が「この時間に証しをしないか?」と声をかけたのです。

 そこで聞いたのが、先ほどの証しの内容でした。お姉さんがエホバの証人に入ってしまって、そこから助け出すために、今から30年ほど前でしょうか、Sさんは豊橋の教会を初めて訪問したのです。その時に、牧師から「お姉さんをそこから救い出す前に、まず自分が信仰とは何かを知る必要がある」と言われて、教会に通うように勧められたのです。それがきっかけでSさんは教会の礼拝に通うようになったのです。それ以来30年近く、引越しをしたりしながらも教会に通い続け、そして芥見教会に来られるようになったのです。でも、その間どうなったら救いが理解できるのか分からないまま、時間が過ぎてしまったようです。

 この信徒交流会でSさんの証しをお聞きして、すでに信仰の歩みをしておられることがよく分かりました。もうすでに信仰に生きているので、これ以上何がどう変わったら良いか分からなかったのです。お姉さんを導こうとする、さまざまな牧師の説教を聞き続ける間に、お姉さんではなく、Sさん自身が信仰に生きる者とされていたのです。今日からこうして、私たちの教会の一員として共に信仰の歩みをすることができることを、とても嬉しく思います。

 今日の説教題を、「あなたの主はどんなお方?」としました。この問いかけは、主からの私たち自身への問いかけです。みなさんも、それぞれ様々な主イエスとの出会い方をしてこられたと思います。「私にとって主イエスは、私の隣にいつもいてくださるお方です」という方もあるでしょう。「私を苦しみから救い出して下さったお方です」という方もおられるかもしれません。私たちは、それぞれに主イエスのイメージを持っていると思うのです。

 今日の聖書箇所は、そういうことを考える意味ではとても良い箇所と言えます。前回の終わりの言葉、40節にこう書かれていました。

彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった。

 主イエスがエルサレムに入られてから、ここまでずっとさまざまな質問が投げかけられてきました。きっかけは主イエスがエルサレムの神殿で商売をしていた人たちを追い出してしまったからです。それで、「あなたは一体何者ですか?」という質問が立て続けに投げかけられたのです。主イエスが彼らの問いかけに丁寧に、また見事に答えていかれる中で、彼らは主イエスの欠点を見つけることができず、質問することができなくなってしまいます。

 すると、今度は主イエスの方からお尋ねになられているのが今日の箇所です。主イエスの問いかけはこうです。

「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか。」

続きを読む ・説教 ルカの福音書20章41-47節「あなたの主はどんな方?」

・説教 マタイの福音書2章1-11節「礼拝をささげた博士たち」

2025.12.21

内山光生

それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。  

マタイ2章11節

序論

 先ほど、古川長老から絵画を通してのクリスマスのお話を聞くことができました。その絵画の中に東方の博士たちがキリストに礼拝をささげた場面があったと思います。今日は、その場面を中心として、いつもより短めの説教をさせて頂きます。

I エルサレムで質問した博士たち(1~2節)

 ではマタイ2章1~2節を見ていきます。

 イエス・キリストがお生まれになった時代に、当時のユダヤの国では、ヘロデ王が、その国を支配していました。それで、東の方からやってきた博士たちは、ヘロデ王のところに行って、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」がどこにいるかを尋ねたのです。

II 動揺したヘロデ王(3節)

 今の私たちの時代では、クリスチャンにとっては「キリストの誕生」は喜ばしい出来事です。いやクリスチャンでない人にとっても、クリスマスは、町がにぎやかになったり、おいしい食べ物で心が満たされやすい、そういう時期とも言えるのです。

 ところが、キリストが生まれた頃のユダヤの国は、キリストの誕生をお祝いすることが出来ない独特の雰囲気があったのでした。どうやら、ヘロデ王は人々からの評判が悪く、次々と周りの人々を殺害した結果、「あの王は、次に誰を殺すのだろうか。」とうわさされるような王だったのです。ヘロデは、なんと自分の妻や子どもさえも信頼できなくなり、殺害してしまった、そういう王だったのです。

 ですから、3節に「ヘロデ王は動揺した。」とありますが、彼は、本当に自分の地位が奪われるかもしれないと心配していたのです。そして、エルサレムの人々も、王がまた悪さをするのではないかと心配したのです。

 そういう訳で、ユダヤの国の中では、「キリストがお生まれになった」という知らせがあったにもかかわらず、人々は、王に目をつけられてはいけないと考えて、誰もキリストに礼拝をささげに行く人がいなかったのです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書2章1-11節「礼拝をささげた博士たち」

・説教 ルカの福音書20章27-40節「人はみな神に生きるのだから」

2025.12.07

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は、私たちにとってとても興味深い箇所です。というのは、天の御国に行った後、夫婦の関係はどうなっているのかということが書かれている箇所だからです。先日の祈祷会でも、みなさんいろんな意見を出されて、大変興味深い時となりました。

 実は、今週の月曜に私の東海聖書神学塾の恩師でもあった鈴木健二牧師が突然召されました。日曜の礼拝には元気に顔を見せて、みんなと一緒に食事をしておられたのに、その日の晩に、脳梗塞で召されてしまったというのです。この鈴木先生は、この地域のキリシタンの研究家でもあり、東海地区の宣教の歴史を丁寧にまとめ上げて、神学塾で昨年まで講義を受け持っておられました。難しい古文書などの解析にも長けておられた先生でした。そのために後任の教師を探すことが難しく、誰かが鈴木先生の講義を引き継がなければという話をしていたばかりだったのです。

 今日の聖書には36節でこう書かれています。

「彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。」

 とあります。天の御国で復活した人は、そこで御使いのような存在として、まさに復活の子として生きている、そのように書かれています。天の御国に生きる者とされた人は、そこで神と共に生きるものとされているのです。鈴木先生もまた、今、天の御国で復活の子として歩んでおられるのだと、今日の箇所から私自身も慰めを受けたのでした。

 私たちは、天の御国へいく時、そこで果たしてどんな生活をするのか、とても興味があります。それこそ、葬儀でよく語られる内容として「天の御国で再会」というテーマがあります。先月も私たちは召天者記念礼拝を行ったばかりです。すでに天に送った信仰の友や、家族のことを覚える時に、私たちは天の御国でもう一度再会する時のことを思い巡らしながら、その時をとても楽しみにしています。そんなこともありますから、私たちは天の御国、その人たちが、今どんな生活をしているのかと、想像することもあると思うのです。

 今日の箇所は、主イエスに対して神殿側の人間である祭司長や、律法学者たちとの議論が終わって、また別の種類の人が登場して主イエスと議論をしています。今回新しく登場するのは、「サドカイ派」の人々です。この27節では「復活があることを否定しているサドカイ人たち」とあります。この人たちは、旧約聖書のモーセ五書だけを重んじる人々で、モーセ五書には「復活の話が書いてない」ということを理由に、復活はないと考えている人たちでした。

 確かに、旧約聖書を読んでいると、新約聖書のような「永遠のいのち」とか、「復活」というテーマはあまり出てきません。むしろ、「この地上で長く生きることができる」とか、「千だいに至る祝福」という言葉が多くて、その内容は、先祖に与えられた土地を、子孫が受け継いでいくことが神の祝福であるという考え方があるのです。ですからサドカイ派のような考え方も当然できるわけです。ここでサドカイ人が主イエスに復活はないことの証明として、聖書の申命記に書かれている「レビラート婚」という結婚についての考え方を取り上げています。これは、ここに書かれているように、子孫が先祖の土地を受け継ぐために、子どもがないままに夫が死んでしまった時には、弟たちが、その土地を受け継ぐべく兄嫁を妻として迎えるということが書かれているのです。それで、一つの例として、そうやって兄弟七人が次々に兄の妻を迎え入れたとして最後に、子どもが生まれないままみな死んでしまったとしたら、その妻は天の御国があるとしたら、誰の妻となるのか? ということを問いかけたわけです。この例は極端ですけれども、弟とその弟くらいまでが引き継いで土地を治めようと思ったけれども、子どもが与えられないままに亡くなってしまうようなケースというのは、当時も考えられたわけです。ただ、そうなると復活があった場合、天国では少しおかしなことになるのではないか? そう考えるとやはり、復活ということを考えるのは無理があるのではないかというのが、このサドカイ人の主張なわけです。

「では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」

33節にはそう記されています。

 サドカイ人には、サドカイ人の理屈があります。彼らの理屈では、この主張は正しい主張なのでしょう。それほどに、当時の価値観は土地を子孫に残すということが重要視されていたのです。日本でも100年ほど前までは同じような価値観がまだ存在していたと言えると思います。お家を存続させるために、先祖伝来の土地を守り継いでいくためには、個人の気持ちは無視される、そういう価値観です。

 しかし、この例に挙げられているような女性が存在したとしたらどうでしょう。死後にまで、この世のしがらみを持ち出され、一体誰の妻であるのかなどと言われたら、そんな天国ならいらないということにはならないのでしょうか。そういった想像の余地がないほどに、この時代の人々の価値観は絶対視されていたのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書20章27-40節「人はみな神に生きるのだから」

・説教 ルカの福音書20章20-26節「大切なものはその奥に」

2025.11.30

鴨下直樹

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 今週からアドヴェントを迎えました。毎日少しずつ寒さが増して、クリスマスが近づいてきていることを感じます。先週、私は残念ながら、みなさんと一緒に礼拝を捧げることができなかったのですが、子ども祝福礼拝には大変大勢のご家族が集まられたのだそうで、あとで写真を見せていただきました。教会のインスタグラムにも、その時の写真が出ておりました。毎年のことですけれども、子ども祝福礼拝で子どもたちはアドヴェントカレンダーチョコレートを貰います。今回は、礼拝の参加者が増えるたびに、私は何度もお店にチョコレートを買いに行きました。合計で3度行ったでしょうか。お店の人も、またチョコレートをたくさん買っていく人が来たと思われたのかもしれません。

 先日の祈祷会である方が、「子どもだけじゃなくてワシらも欲しい」と言われました。その時に、「敬老の礼拝の時にプレゼントを貰ったじゃないですか?」という話になったのですが、「何かしてもらったか?」と言われてしまいました。食事を一所懸命に準備された方々は残念な気持ちになってしまうかもしれませんが、「ワシもアドヴェントカレンダーチョコレートを貰って、クリスマスを心待ちにしたい」という気持ちの表れなのだと思います。

 その話をしていた時に、チョコレートは24日までなのか、25日までなのか? という質問が出てきました。「24日までですよ」とお答えすると、「でもクリスマスは25日なので、25日までないのはおかしい」という声が出てきました。これは、ユダヤの暦の考え方にあるのですが、ユダヤでは日が暮れて夜になると、そこから一日が始まります。つまり、24日の夜は、ユダヤでは25日なわけです。主イエスは24日の夜、「聖夜」に生まれたので、24日の夜までしかチョレートがなくても何の問題もありません。

 アドヴェントカレンダーチョコレートは24日の分のチョコレートが少し大きいのか、何か他の日のチョコレートと違いがあるのか、24日が来たら子どもたちに訊いてみたいと思っています。

 何でこんなにチョレートの話を一所懸命しているかと言いますと、今日の説教題を「大切なものはその奥に」としましたが、最後の最後に、大切なものが出てくる。そんなことを覚えるのが、このアドヴェントの季節なのかもしれないと考えるからです。
 
 さて、今日私たちに与えられている聖書の言葉は、全くもってクリスマスの雰囲気はありません。アドヴェントのみことばというわけでもありません。ここでなされているのは、税金の話です。先日、私も年末調整の書類を書いて提出したところですが、年末に税金の話というと、頭に思い浮かぶのは年末調整の話くらいなのかもしれません。

 しかし、今日のところは、なかなか興味深いところです。主イエスのところに、一人のスパイが送り込まれてくるのです。20節に「義人を装った回し者」とあります。英語の聖書ですと、「スパイ」と書かれています。そのスパイが義人を装っているとあります。コンピューターで入力していましたら、一段下のキーと打ち間違えて「美人を装った」と入力してしまいそうでした。美人を装った人も沢山いるかもしれませんが、この義人を装った人というのも、案外沢山いるのかもしれません。 続きを読む ・説教 ルカの福音書20章20-26節「大切なものはその奥に」

・説教 ヨハネの黙示録21章1-5節「涙を流すことのない天の御国で」

2025.11.09
召天者記念礼拝

鴨下直樹

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 みなさんはヨハネの黙示録と聞くとどんな印象を持たれるでしょうか。「世の終わり」だとか、「誰にもどうすることもできないような悲惨な最期」が書かれているという印象を持っておられる方もあるかもしれません。もちろん、黙示録は、その後の時代の終わりに起こる神の裁きが語られている聖書の箇所です。そして黙示録の最後、つまり「聖書」の最後であるこのヨハネの黙示録の21章と22章では、この世界が最後の最後にどうなるのかが記されています。

 21章には、神が私たちに与えてくださる新しい天と地のことが記されています。この21章の1節にこう書かれています。

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 この黙示録を記したヨハネは神様からさまざまな幻を与えられます。最後に与えられた幻は、この世界が最後の最後にどのようになるかという幻でした。ここでヨハネはついに「新しい天と新しい地」とを目撃します。それが、いわゆる「天の御国」とか「天国」と一般にいう完成された世界のことです。

 この言葉の興味深いのは、ここに書かれている「新しい」という言葉です。この言葉はギリシャ語で「カイノス」という言葉が使われています。この言葉は、「絶対的な新しさ」を意味します。一般に使う「新しい」という言葉は「ネオス」という言葉を使います。英語の「ニュー」という言葉です。この場合の新しさは、その時には新しくても、やがて古くなっていってしまうものです。人間に使う場合は、「青年」などという意味にもなりますが、若々しさも時間の経過と共に失われていきます。お店などにいくと「NEW」とか「新発売」などと言いますけれども、新しく世に登場した商品も、その瞬間からすぐに古びていってしまう。それが、この「ネオス」、「ニュー」という言葉です。

 それに対して、ここで「新しい天と新しい地」と言う言葉に使われている「新しさ」「カイノス」というのは、絶対的な新しさ、古びることのない新しさを表す言葉です。神は、この「新しさ」でもって「新しい天と新しい地」によって世界を完成なさいます。この新しい天と地のことを「新しいエルサレム」とも言っています。これが2節に記されている「新しいエルサレム」です。この新しい世界は、「古いもの」と共存することができません。ですから、「以前の天と以前の地は過ぎ去り」と書かれているのです。つまり、今私たちが生活しているこの天と地、この世界とはまったく異なる新しい世界がやがて来るというわけです。 続きを読む ・説教 ヨハネの黙示録21章1-5節「涙を流すことのない天の御国で」