2025 年 10 月 26 日

・説教 ルカの福音書20章1-8節「何の権威によって?」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:56

2025.10.26

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 先週の火曜日と水曜日、日本自由福音教会連盟の理事会があって、私は神戸まで行ってきました。私たち同盟福音基督教会と信仰のルーツを同じくする教団は、日本福音自由教会協議会、日本聖約キリスト教団、日本聖契キリスト教団とありまして、これら4つの団体で、「日本自由福音教会連盟」という交わりを作っています。来年で、この交わりが作られて30年が経過するということで、会議の中で、これまでの交わりを振り返るような時間が持たれました。というのも、今年、15年ぶりにこの連盟、4団体の牧師研修会が再開されることとなったからです。これまでも、この4つの教団は実に楽しい交わりをしてきました。

 この自由福音連盟は今、IFFECと呼ばれる世界の自由福音教会の交わりに加盟しようとしています。特に今回、提出する資料の準備をするということもあって、これまでの歴史を振り返ることとなったのです。そこで、今から15年前に『連盟記念誌』というものが発行されていたことが分かりました。その記念誌の中に、「私たちは4年おきに合同牧師会を行う」と書かれていました。ところが、この記念誌が書かれたのを最後に、15年の間、合同牧師会が行われていなかったのです。詳しい理由はよく分からないのですが、15年前の合同牧師会の時に、何かトラブルがあったようで、そのために大きな赤字が出てしまったようなのです。

 トラブルが起こると、どうしても誰が責任を取るのかという話になりますが、その時の代表の先生方も、それぞれに責任を負って、かなりご苦労をされたことが分かりました。そんなこともあって、それから15年の間、合同牧師会をやろうという声が上がらなかったのが実際のようなのです。そんな話を聞いていますと、どうしても考えてしまうのは、代表として選ばれている先生方というのは、さまざまなことを決定する権限が与えられていると同時に、大きな責任を負うことになるのだということでした。

 今日の聖書の箇所は、主イエスがエルサレムの神殿にやって来られたところです。神殿では、商売人たちが商売をしていて、福音が語られる場所とはなっていません。それで、主イエスは、神殿にいた商売人たちをみな追い出してしまわれます。こうしてようやく落ち着きを取り戻した神殿で、主イエスは福音を語り始めることがおできになったのです。主イエスにしてみれば、神を礼拝する神殿に行ってみると、そこには大きなトラブルがあったわけです。それで、そのトラブルを解決して、ようやく本来の姿に戻ったという状態です。ところが、主イエス側から見れば確かにそうなのですが、神殿側の人間から見れば、まさにこの時の主イエスこそがトラブルの張本人です。そこで、神殿側の人間である、祭司長、律法学者、長老たちは主イエスに詰め寄ります。2節です。

「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか。」

 冷静な言葉を装っていますが、彼らの内心は、はらわたが煮えくり返るほどの憤りに満ちていたに違いありません。「どんな資格があって」「誰の権限で」「いったいどういう了見でこれをしているのか!」と主イエスに詰め寄ったのです。

 トラブルが発生した時というのは、その代表者たちは問題を解決しなければなりません。神殿側の代表者として、ここで名前が挙げられているのは、祭司長、律法学者、長老たちです。そこで、まずこの人たちが実際にどんな権威を持っていたのかを、考えてみたいと思います。

 最初に、祭司長ですが、これは祭司の家系に生まれなければなりません。祭司の一族というのはレビ人と言いますけれども、モーセとアロンから始まって、彼らの子孫が神殿の務めや祭儀を執り行う祭司となるように神様が定められました。そして、毎年特別な儀式を行なって祭司長に任命されるわけです。ですから、彼らの権威は神から来たものとも言えますし、イスラエルで長く続く伝統とも言えます。つまり、神様からも、人々からも認められている権威を持っていると言えます。

 続く律法学者もそうです。聖書を学ぶために、誰かの先生のもとで学びます。「誰々先生のもとで自分は学びました」と言えば、それがそのまま権威として通用するわけです。今で言えば〇〇大学を出ましたとか、〇〇先生に師事しましたというのと似ています。最後に、長老たちというのは民の代表です。これもモーセの時代から、民を治めるために定めらたもので、これまでの知恵と経験に基づいています。このように考えてみても、祭司長、律法学者、長老たちには、それぞれに認められた権威というものが存在していることが分かります。

 では反対に主イエスはどうでしょう。主イエスはまだ30代の若者で、大勢の群衆から人気を集めてはいますが、それだけです。多くの経験を積んでいるような年齢ではありません。また、誰かのもとで師事してきたわけでもありません。少なくとも、神殿側当局としては、そのように判断していたに違いないのです。何の権威も、権力も持たない男、それが主イエスなのです。ですから、神殿側の彼らから言わせれば、「正義は我にあり!」だったでしょう。

 「あなたは何の権威によって、これらのことをしているのか?」と神殿関係者は主イエスに問いかけます。ひょっとすると神殿側が許可を与えて商売をしていた人たちからクレームが入ったのかもしれません。あるいは、神殿側でも商売ができなくなると実際に困るということもあったと思います。彼らの生活を支える収入源ですから、主イエスの活動をやめさせたいというのは、彼らから言わせれば当然といえば当然のことです。

 ここで主イエスがされているようなことが、もし私たちの生活の中で起こったとしたらどうでしょう。誰かが、自分の家や、仕事場や、近隣にやってきて、突然私たちの意に反したことを行うならば、すぐに問題となるはずです。特に、〇〇ハラスメントという言葉が多用される時代です。自分が不快だと感じれば、それはみんなハラスメントであると訴えることが正当化される社会に私たちは生きています。人々は、自分の持つ権利を主張します。自分にはこういう権利があるはずだと主張するのです。自分に与えられている自由は何人たりとも犯させない、これが今日の多くの人が心の中に抱いている思いだとしたら、この時の主イエスのお姿は、自分勝手なわがままな振る舞いと見えてしまうのだと思うのです。

 彼らの主イエスへの問いかけは実にシンプルです。あなたは「どういう了見」があってそれをしているのか? という問いかけです。主イエスの振る舞いの根拠を訊いているだけです。考えようによってはそれほど悪い問いかけではありません。

 私たちは毎日、それぞれの人生経験だとか、先人の知恵だとか、あるいは学校で学んだことや、手に入れた技術で、日常生活をしています。「技術」や「知識」、「経験」というものは、私たちの人生を豊かなものにしていきます。それらは決して「悪」ではないはずです。それらが自分自身の生活を形作っているのです。そして、そのように自分が習得したものを人に伝えていくことで、豊かな生活が形成されていくはずです。

 ところが、そこには人それぞれの考え方や、信念があります。その為、誰かからそのような「技術や知恵や経験」を「権威」として押し付けられてしまうと、反発したり、抵抗したくなるという思いが浮かぶのも仕方のないことかもしれません。なぜなら人の生き方は、一つではないからです。そうすると、どこまでが許容範囲で、どこからが許容範囲を超えるのかという線引きが必要になってきます。私たちは、そういう時にどう考えたら良いのでしょうか?

 教会に限らず、昔から長い間、物事を判断する時に三つの基準で考えると良いのではないか? ということを教えられてきました。物事の重要度を、判断の基準にするという考え方です。そこで、まず絶対的に重要なことを「絶対的基準」としました。ここには、ごく基本的な、人類が共通して大事にしなければならないものが入ると考えました。教会の中で言えば基本教理というものが、これに当てはまるわけです。使徒信条や、主の祈りや、十戒などに教えられている、「絶対的真理」と呼ばれるものです。

 その次に、絶対的ではないけれども、相対的に考える基準というのがある。これを「必然的真理」とか「相対的真理」なんていう言い方をしてきました。厳密に言うと、この「必然的真理」と「相対的真理」の二つは少し違うのです。ものの考え方は、それぞれの立場や信念によって変わりますが、同じ立場の人であれば共通して、他の考え方もあるけれども私たちはこういうふうに考えていこう、大切にしていこうとする考え方のことです。

 そして、三つ目に「アディアフォラ」と言いますが、「どちらでもよいこと」というのがあります。これは、個人個人の好みによって変わってくる価値基準です。食べ物や着るものなど、実際にはその他多くのものが、このアディアフォラの中に含まれていくことになります。ハラスメントと言っているものの多くも、この中に含まれます。

 少し話が、聖書の話からずれてしまっているのですが、こういう考え方を知っていると優先順位によって、この判断基準の受け入れ方が変わってくるのだということが分かります。そうすると、少し安心してものごとを考えられるようになるのかもしれません。

 では私たちは自分自身の中にどういう価値基準があると安心して生きることができるようになるのでしょう。そのことをよく知っていなければなりません。伝統や、知恵や、経験というものは、私たちを助ける大きな足掛かりになるものです。若さや、健康、築き上げた信頼関係も大切ですし、お金も私たちに安心を約束してくれるものの一つではあります。

 「あなたは何の権威があって、これらのことをしているのか?」これは、あなたの判断基準は何ですか? 何によって、どんな考えによって、あるいはどんな力によって、あなたは生きているのですか? という問いかけです。

 そこで、私たちがまず気がつかなければならないのは、実際に主イエスどういう権威を持っておられるのかということです。まずはっきりさせる必要があるのは、主イエスは何をしようとしておられるのかということです。主イエスがなさろうとしていることと、主イエスの権威は結びついているはずだからです。

 主イエスについて、この1節で「福音を宣べ伝えておられる」と書かれています。それでは、福音が伝えられると何が起こるのかと言うと、人が救いを経験するようになります。つまり、主イエスの持っておられる権威というのは、「人を救う力」であると言うことができます。もっと別の言い方をすると、人を縛り付けている悪の力、罪の力から人を解き放ち、自由にするための力です。

 このことが分からないと、ここでの主イエスのお姿というのは、ただゴネているだけの人というふうに見えてしまうことになります。

 さて、そこで、主イエスは何とお答えになったでしょう。それが3節と4節です。

イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。
ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。」

 このヨハネというのはバプテスマのヨハネのことです。主イエスがお生まれになられる前に、主の道を備える者として神から遣わされて、荒野で人々に悔い改めを語った人です。主イエスは、ヨハネの権威は神から与えられたもの、つまり天からのものなのか? それとも自分自身の信念、つまり人から出たものなのか? あなたがたは、どう考えますかと問いかけられました。

 質問に質問で返すというのはどうなのかという意見も出てきそうですが、主イエスは、あなたがたが、この問いに答えるのであれば、私もあなたがたの質問に答えましょうと仰っています。

 この主イエスの問い返しは、実にこの問題の核心を突く問いかけでした。人を悔い改めに導くのは、神が望まれていることなのかどうかということです。答えは明らかです。神が望んでおられることを、ヨハネがしているのだとしたら、ヨハネは天から与えられた権威によって、人々を説得していることになるからです。

 この主イエスの問いかけを受けて、神殿側の祭司長たちの心の声が続く5節と6節に記されています。ここで彼らは人々の顔色を見て、自分たちの身をを守ることを優先したので、「どこから来たのか知りません」と答えることにしたというのです。主イエスからしてみれば、人の顔色を恐れて、ちゃんと答えも言えないあなたがたに、私が何かを答える必要がありますか? というわけです。

 つまりこのように答えた瞬間、この神殿側の祭司長、律法学者、長老たちは民衆の反応を恐れているのであって、まことの神の権威を恐れているのではないということが明らかになってしまったわけです。

 ここに、私たちにも主イエスからの問いかけがあります。あなたがたは何を恐れているのか? どなたを恐れているのか? という問いかけです。神からの眼差しを恐れるのか、人からの眼差しを恐れているのか?

 主イエスは、福音を宣べ伝えることを大切にしておられるお方です。福音というのは、私たちを不自由にしているものから私たちを解き放つ知らせです。そして、私たちを不自由にしているもの、私たちを生きにくくしているものは何かというと、私たちに自由を与えたいと願っておられる神を見あげないで、人の顔色を見て恐れる心の中にある、あなたがたを縛り付けている力、つまり罪です。

 主イエスが持っておられる権威というのは、私たちをまさにそのような罪から解き放ち、自由にしてくれるものです。私たちを自由にする神の救いの力です。そして、神を礼拝する神殿という場所は、この神の権威が発揮される場所であるはずです。だから、神殿で商売をして、自分たちが利益を得ようとしている、人の持つ自由を奪おうとしている人々を、主イエスはその場所から追い出されたわけです。神を礼拝するところというのは、人が神のみ力によって真理を知って自由にされるところなのです。

 私たちは、この礼拝を通して、神のみ言葉を聞くことで、人の眼差しを恐れる思いから解放されることができるのです。私たちが本当に見なければならないのは、人の顔色ではなくて、主なる神のみ顔なのです。私たちは、主のみ顔を仰ぎ見るならば安心するのです。その眼差しがどれほど大きな愛と赦しに満ちておられるか、どれほど、私たちを愛して、私たちの心が不安から自由になることを望んでおられるか、主のみ顔を見る時、私たちは瞬く間に、安心することができるようになるのです。なぜなら、私たちの主イエスは、私たちを救いたいと願っておられるお方だからです。

 お祈りをいたします。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.171 sec. Powered by WordPress ME