2021.04.11
鴨下 直樹
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
先週の聖書の学びの時にみなで、今日の詩篇を読みました。私は少し別の用のために遅れてしまって終わりの方しか出ることが出来ませんでしたが、私の代わりにM長老が担当してくださいました。ずいぶん活発な意見を交わしていたようで、とても嬉しく思いました。その最後の方に、ある方がこういうことを言われました。
「この詩篇の作者は、『私は公正と義を行います』と121節などでは言っていて、自分は正しいという正義の側にいるけれども、そんなふうになれるのだろうか」と言われた方がありました。
今日の箇所を読んでいますと、そのように読めるわけです。冒頭の113節にもこう記されています。
私は、二心のある人たちを憎み、あなたのみおしえを愛します。
二心のある人たち。神様とこの世、内と外、本音と建て前、そういう者の姿と考える時に、それは自分の姿ではないかという思いになるのであって、人のことを責め立てる側に立てるのだろうかという疑問です。
先週の「ざっくり学ぶ聖書入門」で、ヨブ記を取り扱いました。ヨブ記を読んでいても、そんなところが何度も出てきます。「自分は裁かれるような悪いことをしていないのに、神はどうして私を苦しめるのか」そういうヨブの悲痛な訴えが何度もでてきます。
ヨブの友達は、そういうヨブの言葉を聞きながら、そのヨブの考え方が傲慢なのだと訴えます。そして、何か悪いことをしているからそうなったのだと、因果応報を説くのです。
ここでヨブ記の話をするつもりはないのですが、自分の正しさを訴えるという民族性というか、この時代の人々の考え方の中にそういう理解の仕方があるのかもしれません。こういう聖書を読んでいますと、時々、私たちとは感覚が少し違うと感じるのかもしれませんが、よくよく考えてみると、私たちにも人の行いを指摘したいという考え方は少なからずあるのだと思います。
ただ、この方の指摘である、「自分は正しい側にいるという視点で悪い者を退けてくださいと祈れるのだろうか」という視点は、聖書を読むときに、聖書を正しく理解するきっかけになります。素朴な疑問を持つことが、聖書が分かるということに結びついていくのです。
今、私たちはこの長い、詩篇119篇から言葉を聞き続けています。とても長い詩篇です。全部で176節もあります。そのためにこうして、細かく区切って説教しています。しかし、この詩篇は本来ひとまとまりの文章ですので、やはり、いつも全体の内容を理解する必要があります。
細かく分けていくと、この詩篇の内容が忘れられていってしまうのです。改めて、最初の1節から目を通して読んでいくと、様々な発見があります。そして、そこから見えて来る祈り手の姿というは、決して自分は正しいのだという視点にはいないということが見えてきます。主のおきての道を知りたい、自分が罪ある者として歩んでいきたくない、神の言葉に従って生きることが、どれだけ自分を救うことになるのかという祈り手の姿が見えてきます。それは、切実な祈りの言葉で、何度も何度も繰り返し語られています。
各段落の冒頭の言葉だけを拾い集めてみても、その姿はよく分かります。
1節「幸いなことよ/全き道を行く人々/主のみおしえに歩む人々。」
9節「どのようにして若い人は/自分の道を 、清く保つことができるのでしょうか。」
17節「あなたのしもべに豊かに報い 向かい、私を生かし/私があなたのみことばを守るようにしてください。」
25節「私のたましいは/ちりに打ち伏してします。みことばのとおりに私を生かしてください。」
33節主よ あなたのおきての道を教えてください。/そうすれば 、私はそれを終わりまで守ります。
このように、祈り手は必死になって神の御言葉に従いたいのだとい言う意思を明確にしているのです。
以前、聖書学び会で、M長老が、この祈り手はエレミヤのようではないかと言われたことがあります。聖書を解説する人の中にもそのように言う人もいます。
少し前の85節で「高ぶる者は私に対して穴を掘りました。/彼らはあなたのみおしえに従わないのです。」という言葉があります。
そこの箇所を読んだ時に、すぐにM長老はエレミヤのことが出て来たのです。エレミヤは穴の中に落とされて捕らえられたことが、このみ言葉を目にした時にすぐに思い浮かんで来たのです。私は、この祈り手はエレミヤのような人ではなかったかというM長老の指摘を聞いて、それ以来、この詩篇を読むときにエレミヤのような人の祈りとして読んでみるということを意識するようになりました。そうすると、不思議とこの祈り手の信仰が見えてくる気がするのです。
114節
あなたは私の隠れ場 、私の盾。
私はあなたのみことばを待ち望みます。
祈り手はここで、そう祈っています。
ここで、この詩篇の祈り手は、明確な敵の姿が見えています。そして、その敵から主が私を守ってくださるお方だということを、みことばからよく知っているのです。それはエレミヤの姿とも重なるようにも思えます。ただ、こうやって聖書を読んでいきますと、確かにエレミヤには明確な敵がいました。エレミヤの預言をないがしろにして、落とし穴まで掘って語らせないようにしようとした人たちがいたのです。
そこで、考えるのです。確かに、エレミヤには明確な敵の姿がありました。しかし、現代に生きる私たち信仰者の敵とは何でしょうか? 誰なのでしょうか? 私たちはいったい何と戦っているのでしょうか。そんなことを考えさせられます。
116節と117節でこう祈っています。
あなたのみことばのとおりに、
私を支え 、生かしてください。
私の望みのことで
私を辱めないようにしてください。
私を支えてください。
そうれば私は救われ 絶えずあなたのおきてを
見つめることができます。
私の敵とは何だろうか。何から救われることをも願っているのでしょうか。そう考える時に、今の私には一つの答えしか出てきません。それは、「私の敵は、私だ」ということです。この箇所を読んでいると、改めて、気づかされるのです。主の御前で、自分自身を恥じるしかないことに。この詩篇の祈り手のように、人をさばけるような立場に自分がいないことを意識せざるを得ないのです。
人をさばくどころか、反対にどんどん怠惰になっていく自分の姿に気づくのです。毎日毎日、それなりに生活して、それなりに事が進んで行くうちに、ああ、これでうまく行くんだからこれでいいのだと考えてしまっている自分の姿に直面させられるのです。
113節
私は 二心のある人たちを憎み
あなたのみ教えを愛します。
ここを読むと、私はそう祈れるのか。自分に二心があるのではないのか。「あなたのみ教えを愛します」と言えるのか。自分は主のみ教えを損なっているのではないのか。そんなふうに思えて仕方ないのです。
だから、最初にお話しした、祈祷会で「祈り手が人をさばける立場に自分を置けるのだろうか」と、発言された時に、私自身もハッと気づかされたのです。この祈り手と自分は、同じところに立っているのではない。そのことを認めざるを得ないのです。
119節にこう書かれています。
あなたは 、地の上のすべての悪しき者を
金かすのように 取り除かれます。
面白い言葉です。金属加工をしておられるY長老が面白がられりそうな言葉です。金属を加工するときに、金かすが出でます。今ならばそれは捨てられてしまうのでしょう。けれども、その金かすはきっとこの時代にはもう一度炉に入れられて、金属になったるのでしょうか。あまり詳しくないのですが、そのくらいの想像はできます。
神にとって、悪しき者は金かすのように削り取られ、捨てられて、やがて熱い火の中に投げ入れられる。それが、私たちの姿なのかもしれません。
祈り手は、もちろんそうではない神の側につく者として祈っているのですが、今の私に迫ってくるのは、そうして裁かれる者の姿です。
120節
私の肉はあなたへの恐れで震えています。
私はあなたのさばきを恐れています。
神の側にいる者だとしても、主への恐れを持ち続けているのです。神は、悪しき者を金かすのようにするということが、よく分かるからです。
だからこそ、116節、117節のような祈りになるのです。
あなたのみことばのとおりに
私を支え 生かしてください。
私の望みのことで
私を辱めないようにしてください。
私を支えてください。
そうれば私は救われ
絶えずあなたのおきてを
見つめることができます。
あなたのみことばのとおりに、私を支え、生かしてください。
これは、私たちの切なる祈りです。神の言葉のとおりに生きていない。けれども、主のみ言葉のとおりに生きたいのです。そのために私を支え、私を生かしてください。これが、私たちに共通する祈りの姿だと思うのです。
この願いは、自分の弱さと戦っている小さな信仰者でも、エレミヤのような主の傍らで語ろうとする預言者であっても共通する祈りの姿です。
この祈り手は1217節からこう祈っています。
私は公正と義を行います。
私を虐げる者どもに 私を委ねないでください。
あなたのしもべの幸いの保証人となってください。
高ぶる者が私を虐げないようにしてください。
祈り手は、願うのです。敵が、私を支配することが無いようにと。そして、私の幸いの保証人になって欲しいと。
私たちの敵とは何でしょう。私たちを神から引き離そうとするものはなんでしょう。自分自身のどんな思いが私の敵となっているのでしょう。私たちはそのことをしっかりと見据えなければなりません。主が幸いの保証人となってくださる。そうだとすれば、主の願う幸いを知らなければなりません。自分の願う幸いではないのです。主の願う幸いです。この自分の願う幸い、この願いが私たちを神の願いから引き離してしまう、私たちの敵となり得るのです。
126節ではこう祈っています。
今こそ主が事をなさる時です。
彼らはあなたのみおしえを破りました。
今こそ、神の介入がなされるべきだ。私の敵は、主のみおしえを破ったのだから。そう祈っています。厳しい祈りです。激しい祈りです。律法を破る、神の約束を踏みにじる。その時、神が介入なさるべきだという祈りです。
とても人間的な願いです。不正を行えば暴かれるべきだとい言うのです。神のさばきが行われるべきだというのです。
しかし、ヨブ記にもあります。ヨブもそう語ったのですが、この世界には不正をする者が満ちていて、その者は裁かれることもなく楽しそうに生きている。かえって貧しい者、虐げられている者がも、特に顧みられることもないままにいるではないか。そんなヨブの叫びがあります。それも、一つの見方です。
単純に、悪いことをしたものが、裁かれ、虐げられているものに、主の目が注がれるという、善悪がはっきりと分かるほど、単純な世界に私たちは生きていないのです。けれども、この祈りのように神が裁いてくださるかどうかは分からなくても、そう祈ることがゆるされているのです。神の義が行われて欲しい。それが、神の前に誠実に生きようと願う者の祈りの姿でもあるのです。
悪い者が裁かれ、誠実な者が祝福される。そんな世界ならなんと分かりやすいことでしょう。しかし、私たちが生きている世界は実に複雑なのです。ただ、はっきりしていることがあるのです。そして、この祈り手はそのことを切に祈り求めています。二つの祈りです。
1つは、118や119節にあるように、主のみことばに耳を傾けない者を、主は退けられるということ、悪しき者は金かすのように取り除かれるということです。
そして、もう一つは127節にあるように、主の仰せは金よりも、純金よりも価値があるのだということです。
結局のところ、この世界で幸いに生きられるかどうかは、主の言葉に価値を見出すかどうかにかかっているということです。
神の言葉か、それ以外か。この、それ以外のものが、私たちを支配しそうになるのだとすれば、それは、神の敵となるのです。しかし、神の言葉の中に、幸いがあるのです。この言葉、神の言葉が、どれだけ人を幸せにするのか、神の言葉にどれほどの価値があるのか、この祈り手はよく知っているのです。
この祈り手は、この詩篇119篇の中で、何度も何度も自分の弱さを口にします。自分が虐げられていること、自分が打たれ倒れこんでしまっていること、敵に狙われていること、悲しみに呑飲み込事まれてしまっていること。この詩篇119篇を読んでいくと、いくつもそういう言葉を見つけ出すことが出来ます。
神は、自分の罪を言い表すもの、自分の弱さを知る者、自分を主の前にさらけ出し、自分を隠そうとすることをやめる者に、主は語りかけてくださるお方なのです。まさに、そのような弱さの中で、人は神の言葉を聞き、神と出会っていくのです。
主は隠れ家となってくださるお方です。主は盾となってくださるお方です。主はみことばの通りに生かし、支えてくださるお方なのです。
そういう主を知ること、主との出会いが、神のことばの中にはあるのです。
お祈りをいたします。