・説教 マルコの福音書4章35-41節「どうして怖がるのですか」
2025.03.09
内山光生
イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
序論
先月の2月は個人的な事情によって休暇を頂いたので、久しぶりの説教の奉仕となります。まだまだ寒い日が続いていますが、梅の花も咲き始めており春の兆しを感じる事ができるのではないでしょうか。家庭菜園をしている方は、3月上旬前後といえば、じゃがいもを植える時期かと思います。すでに植え付けが終わった方がいるかと思います。私の実家でも2週間程前に、種イモを3キログラム程、植えつけました。家庭で食べる分には十分な収穫が期待できますが、天候が守られ順調に育つように神様にお祈りをしていきたいと思います。
さて今日から始まる箇所は、前回までとはテーマが異なっています。前回までは、大きなテーマとしてイエス様が「神の国の奥義」について語られていました。そして、今回からはイエス様の行った奇跡を通して「ご自身がどういうお方なのか」を示そうとしています。けれども、どの奇跡も、奇跡そのものに強調点があるのではなく、その奇跡を目撃した人々がどのような反応をしたかがポイントとなっています。
すなわち、今日の箇所も、単にイエス様がすごい奇跡を行ったという事ではなく、もちろん、すごい奇跡には違いないのですが、ポイントは弟子たちがどういう反応を示したかにあるのです。そのことを通して、今の自分たちの信仰生活にどのように生かしていけばよいかを考えていきましょう。
I 向こう岸へ渡ろうと言われた主イエス(35~36節)
35~36節に進みます。
場面は、ガリラヤ湖です。時は夕方と記されています。その日の昼間は、イエス様が群衆を前にして「神の国」についての解き明かしをしていました。そして夕方になった時に、イエス様は弟子たちに対して「向こう岸へ渡ろう」と命じられたのです。
それに対して弟子たちは、イエス様の言われた事に素直に従ったのです。イエス様の弟子たちの中には、漁師だった人が何人もいました。だから、彼らが自分たちで舟を操作して反対側の岸に移動することは特に難しい事ではなかったのです。
確かに、夕方になっているので辺りが暗くて前に進むのに苦労するかもしれない事を予期することはできたでしょう。ガリラヤ湖というのは、山に囲まれた地形ということもあって、突然、嵐がやってくる事で知られていました。けれども、プロの漁師たちが舟を漕いでいるので、大丈夫だろうと思っていたのでしょう。というのも、漁師たちは今までの経験から、大きな嵐が来そうだと感じたならば、舟で移動をする前に「イエス様。今は天候が良くないと思います。きっと嵐がやってきますので、舟で移動するのはやめましょう」と言うことができたと思うのです。そういう判断をしていなかった事から考えると、少なくとも、岸から離れる時には「嵐がやってきそうだ」とは思っていなかったのだと推測できるのです。
II 嵐で怯える弟子たち(37~38節)
37~38節に進みます。
どれくらい進んだのでしょうか。イエス様と弟子たちが乗っている舟の周辺に、激しい突風が起こったのでした。そして波が襲いかかり舟の中が水でいっぱいになったのでした。繰り返しますが、弟子たちの中には漁師たちがいました。その漁師たちでさえも、恐怖につつまれる程の嵐がやってきたのです。弟子たちは必死になって、舟の中に入ってきた水を外にだそうとしたと思います。また、舟から振り落とされないために必死で何かをつかんでいたかもしれません。一瞬にして、弟子たちとイエス様は命が危険な状態に立たされたのです。
ところが、イエス様はこの危機的状況の中にあって、舟の端っこで寝ておられたのです。私たち人間の感覚からすれば、このイエス様の姿は、常識ではありえないと言わざるをえないのです。
ある人は、イエス様は昼間、群衆の前で神の国の解き明かしをしていたので、疲れていたのだろうと言うのですが、しかし、いくら疲れていたとしても、舟が沈没するかもしれない状況の中で眠っているのはいかがなものかと思うのです。
もしもイエス様が普通の人間だったならば、イエス様の行動は非常識だという判断が下される事でしょう。一方、イエス様はどのような奇跡でも行う力がある、という視点で見ていく時、違った見え方がするかもしれません。
というのもイエス様には湖の上を歩く力もありましたので、たとえ舟が沈没したとしてもイエス様がおぼれ死ぬということは起こりえない訳です。だから、もし仮にイエス様が命の危険な状況に立たされたとしても、命を失うことがないことを十分に理解しているならば、イエス様が眠っていたという事は、それ程非常識な行動だとは言えないとも考えられるのです。
嵐の中でイエス様が寝ていた事が非常識だと感じるかどうかは、イエス様がどういうお方なのかを分かっているかどうかによって違いがでてくるのです。
では、この箇所で神は私たちに何を考えさせようとしているのでしょうか。そこを見ていく鍵は、これまでにイエス様による数々の奇跡を目撃していたにも関わらず、弟子たちはイエス様の力を十分に理解できていなかった事に気づかせようとしていることにあります。
38節には、弟子たちの叫び声が記されています。彼らはイエス様をたたき起こします。そして「私たちが死んでもかまわないのですか」と激しい口調で言ったのです。弟子たちは、自分たちの命が危ない事で気が動転してしまい、イエス様の力がどういうものなのかを考えることができなくなっていたのでしょう。彼らは、とにかく、自分の安全が確保されるために必死になってイエス様にすがりつこうとしているのです。
この時、弟子たちの心の中がどうであったかを想像してみましょう。あの旧約聖書の預言者ヨナは、神様から命じられた事に逆らったが故に、海の上で嵐に遭いました。これは明らかに、神様からの警告としての戒めでした。一方、今回の弟子たちは、イエス様の命令に素直に従っているという点でヨナの不信仰とは全く正反対でした。弟子たちは、イエス様の言われた通りに舟を出したのです。それゆえ、きっと安全に目的地に着くことができると期待したと思うのです。
ところが、いざ前に進むと漁師たちでさえも経験したことのない大きな嵐に遭遇したのです。これはある意味、「どうしてなのですか。」「あなたに従ったのに、なぜこんな危険な状況にあうのですか。」との否定的な気持ちが湧き出てきてもおかしくないのです。そのことを考えると、彼らの口から「私たちが死んでもかまわないのですか」との言葉がでてきた事に対して、多くの人は同情する気持ちが出てくるのではないかと思うのです。
多くのクリスチャンはしばしば、神様の導きならば、きっと無事安全に前に進むことができると考えるのです。そう願いたいという気持ちが出てくるのです。ところが、神様の導きだとの確信があって前に進めていった働きが、大きな問題が起こって方向転換を余儀なくされる事もあるのです。そんな時、人々は神様に対して「どうしてですか。」「あなたの働きが、ここで中断しても構わないのですか。」と様々な否定的な感情がでてきてしまうのです。逆境に立たされた時にこそ、一人ひとりの信仰がどうであるかが試されるのです。
1月末から2月中旬にかけて、私は大型1種の免許を取るために自動車学校に通っていました。
自動車学校の場所が京都の最北部に位置する京丹後市でした。ちょうど冬の寒さのピークを迎えていた頃で、芥見よりもずいぶん気温が低かったのでした。私は油断をしていたせいで、身体を冷やしてしまい、仮免許の試験となる前の日ぐらいから、風邪のような症状がでてきました。薬を飲んだり身体を温めたり、十分な休息をとって回復することを祈ったのですが、熱こそはでなかったものの、頭痛と集中力低下で、運転することが困難な状況となってしまいました。
ちょうどその頃記録的寒波が襲ってきて、自動車学校が閉鎖される事となりました。2日間ぐらいの閉鎖ですみましたが、その間「私は無事に免許を取ることができるのだろうか。」と不安な気持ちが襲いかかってきたのです。芥見教会の方々から祈られている。また、自分自身も神様に十分に祈っている。にも関わらず、心が不安な気持ちでどうする事もできない状態となったのです。
このような苦しい経験は、恐らく、何十年ぶりかの事でした。しかし、結果的には良い経験だったと思うのです。というのも、自分が苦しむ事によって、ようやく、世の中で苦しんでいる人々の気持ちをより深く理解しやすくなったからです。また、神様に熱心に祈っても、すぐには結果がでない、そういう苦しみの中にある人々の気持ちを、よく理解できるようになったからです。
私たちクリスチャンは、「祈ればなんとかなる」という思いで、自分のために、あるいは、周りの人々のために祈っていると思うのです。ところが、神様のみこころだと思って前に進んでいたとしても、いつでもどんな場合でも、無事、平穏に事が進むかといえば、そうとは限らないのです。だからこそ、突然の嵐がやってくる、そういう場合もある事を心の片隅に置いておくことによって、いざ嵐がやって来た時に、落ち着いて考えることができるのです。そして、信仰によって神様に「助けてください。」と祈ることができるのです。
一方、この時の弟子たちのイエス様に対する信仰は、まだまだ未熟な状態にありました。それゆえ、イエス様に対して、激しい口調で否定的な発言をしてしまったのです。
III 嵐を静めた主イエス(39節)
39節に進みます。
イエス様は弟子たちが死にそうになっているのをよく分かっていました。それで、まずは嵐を静めるために風を叱りつけたのです。「黙れ、静まれ」と。すると、風がやんだのでした。これは人間の常識では考えられない奇跡です。弟子たちは、すでにイエス様が病人をいやす奇跡を行ったのを何度も目撃していました。が、しかし、彼らはイエス様には嵐を静める力があるという事を理解できていなかったのです。
旧約聖書は、神が自然を支配する力があるということを色々な奇跡を通して示しています。特に有名なのがイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されるために、エジプトから逃げる時に海に強い風が吹き込んで水が干からびて、イスラエルの民が乾いた地を歩いて海を渡った奇跡です。
このように旧約聖書では神には自然を支配する力があるということが明らかにされているのです。同じように、新約時代に入って神の子として地上世界に遣わされたイエス様にも、自然を支配する力がある事が示されているのです。イエス様には自然を支配する力がある、つまり、イエス様は神なんだということを私たちに示そうとしているのです。
けれども、驚くべき奇跡を体験した弟子たちは、喜びに満たされるどころか、恐怖に包まれたのです。
IV お叱りになった主イエス(40~41節)
40~41節に進みます。
イエス様は弟子たちに対して「どうして怖がるのですか。」と言われました。弟子たちは、舟が沈みそうになっていた状態、すなわち命の危険から守られたのですから、感謝な気持ちが湧き出てきてもいいのではないか。と感じる人がいるかもしれません。けれども、彼らの心は、感謝や喜びではなく恐怖が襲いかかっていたのです。
旧約時代においても、人が神の臨在に触れる時に、恐怖に陥る場面があります。たいていの人は、今までに経験したことがない特別な奇跡や、常識では起こりえないような体験をすると、恐ろしい気持ちになるのです。
そうです。イエス様の弟子たちだけでなく、旧約時代の歴代の有名な人物たちも、神様の本当の姿を知った時に、恐ろしい気持ちになったのです。ですから、私たちは、弟子たちの事を、なんて不信仰な人間なんだと指摘することはできないのです。
というのも、イエス様は弟子たちに対して「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」と言われましたが、私たちも、もしも同じような場面にいたとすれば、やはり、「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」と言われるのではないかと思うからです。
大切なのは、イエス様の厳しい指摘を受けた後で、考え方がどのように変化するかなのです。すなわち、イエス様には私たちの常識では遥かに超えた、風さえも静める力があるお方なんだ、イエス様は本物の神様なんだ、ということをはっきりと自覚することができるかどうかなのです。
しかしながら、すぐに瞬間的に自分のイエス様に対する考え方が変わるかというと、人ぞれぞれにタイミングが異なっている場合もあります。
41節では、弟子たちの心の中は、まだまだ恐れが残っていたことが分かります。イエス様から「どうして怖がるのですか。」と言われても、彼らの心がすぐに変わった訳ではなかったのです。しかしながら、弟子たちは弟子たちなりに、この特別な奇跡を心にとめて、イエス様がいったいどういうお方なのかを思い巡らすようになったのは確かな事です。
弟子たちは、すぐにはイエス様がどういうお方なのかに気づくことができませんでした。しかし、やがて、イエス様が本当に神様なんだという事に気づく時がやってくるのです。
まとめ
私たちは、「イエス様から命じられた事ならば、きっとうまく事が進むに違いない」という気持ちが、心のどこかにあるかもしれません。けれども、神のみこころ通りに事が進んでいく、その途中において、予期せずトラブルや困難が襲ってくる事は決してめずらしい事ではないのです。
それゆえ、たとえ困難な状況に陥ったとしても、「イエス様、助けて下さい」「イエス様、この問題を乗り越えることができるよう導いて下さい」と落ち着いて祈りを捧げる事ができるかどうかが問われているのです。
心が動揺しているままでは、困難をどのように乗り越えていけばよいかの判断ができなくなってしまいます。一方、不安な気持ちがありながらも、神様にすがりついていく時、逃れの道が備えられていることに気づかされるのです。
それでも、私たちは弱い人間ですから、時には、うろたえたり、不安な気持ちが取り除かれずに苦しむことがあるかもしれません。しかし「イエス様は必ず自分を安全に目的地に導いて下さるお方なんだ」という事を信仰によって受け止める事が期待されているのです。
弟子たちには、信仰が全くなかった訳ではありません。ただイエス様がどういうお方なのかについて十分に理解できていなかったのです。同じように、私たちも、イエス様を信じる信仰を持っているけれど、イエス様の力がどれ程なのかについて、理解の仕方に幅があるかもしれません。ある人はかなり深い所までイエス様の力の大きさを理解している、一方、まだまだ分からない事が多い、そういう人もいて、人の信仰には色々な段階があるのです。
そういう状況を受け止めた上で、私たちの歩んでいる信仰生活の中で少しずつ、イエス様の偉大さに気づいていくことができれば幸いです。
お祈りいたしましょう。