・説教 マルコの福音書7章31-37節「エパタ」
2025.10.19
内山光生
そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。
マルコ7章34~35節
序論
先週、久しぶりに本巣の方にある谷汲温泉に行きました。岐阜県には、評判の良い温泉が幾つもありますが、谷汲温泉は私が好きな温泉の一つです。夏の間は、シャワーで済ませていた事が多かったのですが、久しぶりにゆっくりと温泉に浸かると、身体と心が癒される気持ちとなりました。
別の話ですが、数か月前から私は毎日、足裏マッサージをしていました。もう20年以上前に買ったマッサージ機ですが、ずいぶんお世話になっていて、愛着を持っていました。ところが、先日、突然、その器械が壊れてしまったのでした。とても残念に思いました。けれども、20年以上も用いることができたので、十分に役割を果たしてくれたと感謝しています。と同時に、新たなマッサージ機が必要なので、良い物が手に入るよう神様に祈っています。
さて今日の箇所は、イエス様による癒しがなされた出来事が記されています。また、結構、有名な箇所なので内容自体は知っている人が多いかと思います。その中にあって、聖書が私たちに伝えようとしている事が何なのかを考えていきたいと思います。
I 耳が聞こえず口の聞けない人が連れてこられる(31~32節)
31節から見ていきます。
前回の場面は、ツロの地方、すなわち、ガリラヤ地方よりも北西に位置する異邦人の町が舞台となっていました。イエス様とその弟子たちは、恐らく、ツロの地方で短い期間ですが休息を取るために滞在していたと思われます。
そして、休息の時が終わると、イエス様とその弟子たちは、再び、宣教活動の拠点となっているガリラヤ湖の方に戻って来られたのです。その地はイエス様の活動拠点ですから、すぐに「イエス様が戻ってこられた」とのうわさが広げられ、そして、大勢の人がイエス様の元にやってきたのではないかと推測できるのです。そういう状況の中で、32節にあるように「耳が聞こえず、口のきけない人」が連れてこられたのでした。
この人は、目で見ることはできるのですが、しかし、人々が言っていることを自分の耳で聞くことができませんでした。また、自分で話すこともできませんでした。それで、この人の事を助けてあげたいと思った人々によって、イエス様のところに連れてこられたのです。ここに、人々の愛のある行動を垣間見ることができるのです。自分のためではなく、困っている人、苦しんでいる人を助けてあげたい、そういう心を持っている方がおられたのです。
この人を連れてきた人々は「イエス様ならば、治すことができる」と確信していたのでしょう。事実、今までにイエス様の元に連れてこられた人々は、皆、癒されたのでした。また、前回の箇所に記されている出来事では、イエス様はその場にいない人であっても、その苦しみを取り除くことができるお方だということが示されています。ところが、今回の癒しのみわざは、前回のパターンとは対照的な方法が取られたのです。すなわち、イエス様は助けが必要な人に直接、手を触れてくださり、祈りをささげつつ、癒しのみわざをなしていくのです。
II 一対一となって癒しのみわざを行なった主イエス(33~35節)
33~35節に進みます。
確かに、イエス様が一言「あなたは癒されました」と宣言すれば、それで治るはずです。けれども、今回は、ことばだけでなく、それ以上の方法が用いられたのです。イエス様は、まずは耳が聞こえず、口のきけない人を連れ出して、一対一となって人格的な触れ合いを持とうとしました。大勢の人の中で癒しのみわざを行うのではなく、二人っきりになって、この人と向き合うことを選んだのです。
しばしば、自分の家族が皆クリスチャンであったり、あるいは、教会に集っている友人が、皆、クリスチャンだったりすると、その雰囲気に流されて自分もクリスチャンであるかのように錯覚する、そういう話を聞いたことがあります。しかし、たとえ自分の親や兄弟がクリスチャンであったとしても、そして、自分の親しい友人がクリスチャンであったとしても、その人自身が個人的にイエス様を救い主として受け入れていなければ、その人はクリスチャンとは言えないのです。だからこそ、イエス様を信じることができたならば、「私は、イエス様を信じています。」と「私は・・・です。」と「私」ということばをはっきりと言うことが大切なのです。
今日のこの箇所では、イエス様は、この人と個人的に接して下さっています。大勢の中の一人ではなく、大勢の中にあって、一人の人間だけに、イエス様は関わりを持って下さっているのです。そのことによって、この人自身が「イエス様によって救われた」との信仰を持つことができるようにと、導こうとしているのです。
今回、イエス様が癒しのみわざをなす際に、ご自分の指を彼の両耳に入れました。そうすることによって、この人は「今、イエス様が何かをしようとしている」と感じ取った事でしょう。更には、唾を付けてその人の舌に触られたのです。唾を付けるという行動は、しばしば病気を治そうとすることを意味していました。ですから、この人は、唾を付けた指で自分の舌が触られたことによって、イエス様が自分を癒そうとしていると理解することができたのです。
更には、イエス様は天を見上げました。また「深く息をして」とあるように、耳が聞こえないこの人に対して、目で見て何かをしようとしている事を伝えようとしているのです。もちろん、イエス様は、これらの動作をしなかったとしても、この人を癒すことができるお方です。しかし、この人が「イエス様によって、癒されたんだ」ということをはっきりと理解してもらうために、敢えて、指を耳に入れ、唾を付けた指で舌を触り、天を見上げて深く息をするという動作をしたのです。
そして、最後に「エパタ」と言われたのです。エパタはアラム語です。そして、アラム語は、当時のユダヤ人の間で用いられていた言葉です。訳すと「開け」という意味です。イエス様が「エパタ」と言われた瞬間に、この人の耳が開いたのです。また、話すことができるようになったのでした。
では、マルコは何を伝えようとしているのでしょうか。それは、多くの人々は耳を持っていて、福音を聞いてはいるが、しかし、その本当の意味を悟ってはいない。しかしながら、イエス様が個人的に近づいて下さるとき、そして、人がイエス様を受け入れようとする時、奇跡が起こる。すなわち、霊的な耳が開かれ、福音の意味を悟るようになることを伝えようとしているのです。
とはいうものの、この出来事が起こったその時点では、多くの人々は、イエス様が伝えている福音がどういうことなのかを理解できていませんでした。この癒された人は、イエス様が自分の耳を開いてくださった。また、舌のもつれをほどいてくださったということを自覚しているものの、しかし、周辺にいた人々は、イエス様が伝えようとしている福音を正しく理解できなかったのです。そのことが次の節に書かれています。
III 主イエスの命令を守らなかった人々(36~37節)
36~37節に進みます。
36節でイエス様は、今行なった奇跡を「だれにも言ってはならない」と命じられたのです。癒された本人に命じたというよりも、周りにいた人々に向かって命じられた、そんなニュアンスがあります。
なぜ、イエス様は「だれにも言ってはならない」と命じられたのでしょうか。それは、人々が福音の意味を悟っておらず、「イエス様は、奇跡を起こすことができるお方だ」という事だけが広められると、かえって、福音が何なのかが分からなくなる、そういう危険があることを察知していたからでしょう。イエス様は、人々の病気を癒されましたが、しかし、地上世界に来られた本当の目的は、私たちの罪の身代わりとなって十字架の上でいのちをささげることでした。
もしも病人の癒しなどの奇跡だけが強調されると、十字架の福音が人々の心に入りにくくなってしまう、そのようになってしまうことを心配したのでしょう。実際、キリスト教の歴史を見ていく時、奇跡を強調しすぎるあまりに、福音の本質からずれた方向に行ってしまったグループは、幾つも幾つも存在するのです。そして、今の時代でも、同じようなことが繰り返されているのです。ですから、私たちはイエス様が伝えようとしている福音、すなわち十字架の福音をきちんと受け止めていく事を大切にしているのです。
さて人々はイエス様が命じられたことを守ることができませんでした。「口止めされればされるほど、かえってますます言い広めた。」のでした。この事は、多くの人が経験しているのではないでしょうか。「これは内緒の話ですが……」と伝えると、普通に話すよりも速くいろんな人に情報が流れてしまう、そういう現実があるのです。一応「内緒の話」のはずなので、大勢の人の前では、誰も口に出して言わないのですが、しかし、ほとんどの人に知れ渡っている、そういう事はあるのです。
秘密の話を自分の心にしまっておくことができれば幸いなのですが、それができる人は決して多くない、それが人間の姿なのではないかと思うのです。ある特別な仕事をしている人は、社会の秩序を守るために、また、信頼関係を維持するために、「守秘義務」が課せられています。そのような立場の人ならば、しっかりと秘密事項を外部にもらさないように努めると思うのですが、そうでもない立場だと、人は簡単に情報をいろいろな人に広めてしまう、そして、正しい情報ならまだ良いのですが、たいていの場合、別の話へとすりかわっていき、間違った情報が流れてしまう、そういう事が起こるのです。
イエス様は、「だれにも言ってはならない」と命じられましたが、それを聞いた人々は、イエス様がどれ程権威のあるお方なのかを悟っていませんでした。だから、イエス様の命令に重みがある事が分かっていなかったのです。それで、イエス様が心配していた事が起こっていくのです。
37節にあるように、人々はイエス様の癒しのみわざに対しては、非常に驚き、また、良い評価をしているのです。けれども、「イエス様は癒すことができるお方だ」という事だけが広められていき、肝心の福音については、誰も理解できていなかったのでした。
まとめ
イエス様の伝えようとしている福音は、実のところ、イエス様がよみがえられた後、更にはペンテコステの日を待たなくてはなりませんでした。ですから、この時点で人々が福音の意味を悟っていなかったのは、当たり前と言えば当たり前の事なのです。群衆の心がかたくなだったとか、イエス様に対して心を開こうとしていなかった、という事ではなく、まだ、神様の定めた時が来ていなかったに過ぎないのです。
ガリラヤ地方の多くの人々は、バプテスマのヨハネが語った「悔い改めて福音を信じなさい」との言葉を知っていたはずです。そして、救い主が来られる事を期待していたのです。それゆえ、イエス様こそあの救い主かもしれない、と感じていたのです。けれども、イエス様の十字架の福音については、まだ霊的な耳がふさがれた状態だったのです。
今の時代においても、いわゆる求道者の中には、イエス様を信じたいと願ってもなかなか福音が心に入ってこない、「十字架が私の罪のためだったと言われても、ピンとこない。」そういうことをおっしゃる方がおられます。私も今までに少なくとも2~3人、そういう人に出会ってきました。周りのクリスチャンが、いろいろと証しをしたり、聖書に書かれている内容を説明するのですが、だからといって、すぐに「はい、信じます。」とはならない、そういうもどかしさを感じる事がありました。
しかしながら、不思議と本当にイエス様を信じる事ができるように変えられていく、そういう姿を見させていただく経験を何度もしていく中で、私は「周りが焦る必要はないのではないか。」と思うようになりました。というのも、本人がイエス様を信じたいという気持ちを持っているのならば、ちょうど良いタイミングで、すなわち、神様が定めた時に、イエス様の方から近づいて下さり、イエス様がどういうお方なのかを知ることができるようになる、そう考えるようになったからです。
周りの人が心配しすぎたり、プレッシャーを与えすぎると、かえって教会から足が遠のく、そういう話を聞くことがあります。ですから、私たちは神様が、ちょうどよい時に救いに導いて下さると受け止めていけば良いのです。あきらめるのではなく、ただただ神様の導きに期待をするのです。そこには忍耐が必要となります。愛が必要となります。そういう中にあって、神様に信頼をすることの大切さを学んでいくのです。
私たちがイエス・キリストを心に受け入れるとき、イエス様ご自身がその人のうちに住んでくださいます。それは、自分自身の決断というよりも、むしろ、イエス様の方から近づいて下さり、そして、友となってくださるのです。
誤解を恐れずに言うと、私たちがたくさん聖書を読んだからといって、必ずしも、イエス様が私たちに近づいて下さるとは限らないのです。教会に集っていれば、自動的に福音が分かるようになる、とは限らないのです。これこれをしたら、信じる事ができるようになれる訳ではないのです。そういうことではなく、一方的な神の愛によって、イエス様が近づいて下さる、そして、その人がイエス様を受け入れる事によって、福音の意味が心に響くようになるのです。
イエス・キリストは、私たちの友となってくださるお方です。それは私たちの努力によるのではなく、ただただイエス様の一方的な愛に基づくものなのです。今日の箇所に出てきた耳の聞こえなかった人は、自分の意志によってイエス様にところに来たというよりも、むしろ、この人を助けてあげたいと思った周りの人々の愛のある行為によって、連れてこられたのです。この人は、自分の口で「イエス様、助けてください」と言うことができませんでしたが、しかし、イエス様は、この人を癒されたのです。イエス様は、人が心の中で何を考えているかをすべてご存じのお方です。ですから、イエス様は、この人が癒されたいと願っていることが分かっていたのでしょう。
多くの人々は、霊的な耳が閉ざされた状態にある。しかし、イエス様が近づく時、そして、人がイエス様の愛のある行動を受け入れようとする時、その閉じていた耳が開かれていくのです。私たちに求められていることは、「イエス様の愛を受け入れます」との決断なのです。
お祈りいたします。
