2020 年 3 月 29 日

・説教 創世記21章22-34節「共におられる神と生きて」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:12

2020.03.29

鴨下 直樹

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 私たちは今、アブラハムの人生を目の当たりにしながら、主の御言葉を聞き続けています。言ってみれば、アブラハムの伝記のような性質がここにはあるといえます。多くの人の伝記、特に偉人伝などと呼ばれる物語には、だいたい最後に大きなクライマックスが準備されています。アブラハムの人生もそうです。まだ、この後最大の出来事が待ち受けています。

 今、NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」をこの地域の人たちは特に楽しんで見ているようで、明智光秀というこの戦国時代の最大のヒール役を演じた人物を、このドラマでは明智光秀なりの生き様や人との関わりを描きながら、これまであまり描かれていなかった側面からもう一度明智光秀という人となりを描こうとしています。まだ、始まったばかりということもありますが、ほとんど創作なのではないかという出来事ばかりが続いて描かれています。明智光秀がこの期間どのようにしていたのか、あまり記録がないようです。このドラマを見ていない方はあまり興味のない方もあると思いますが、お許しください。今日の聖書と何の関係があるのかと思うかもしれません。実際ほとんど関係ないのですが、大きな出来事と大きな出来事の間には、陰に埋もれてしまうような幕間劇とでもいうような小さな出来事がたくさんあります。そして、そういう小さなエピソードが、その人物の姿をよく描き出しているものです。

 今日の箇所の出来事もアブラハムの生涯からしてみれば、省いてもほとんど何の影響もないような小さなエピソードのように感じます。けれども、この出来事は、確かに出来事としては小さな出来事のように映りますが、「ベエル・シェバ」という地名として、後々まで人の心に留められる地名がどうして生まれたのかということを説明する出来事です。そして、この小さな出来事の持つ意味は、決して小さくはないのだということを、今日はみなさんに知っていただきたいのです。

 今日の聖書の最後にこんな言葉が書かれています。34節です。

アブラハムは長い間、ペリシテ人の地に寄留した。

 実は、この言葉はちょっとここに入る文章としてはふさわしくないのです。これまで、ここに出てきているアビメレクはゲラルの王と記されていました。ゲラルというのは、後にペリシテ人の土地の中でも重要な場所となるところです。新改訳2017の後ろにあります地図の4の下の方に、「ベエル・シェバ」が出てきます。その左上に「ツィクラグ」と書かれた地名が出てきます。そのあたりが「ゲラル」です。このツィクラグという名の土地はダビデの時代にペリシテの王アキシュからダビデに与えられた土地です。

 けれども、この創世記の時代にはペリシテ人という言い方はまだしていないのです。この箇所からだんだんとゲラルという言い方ではなくて、ペリシテ人という言い方が出てくるようになってきます。そして、なぜ、ここでアブラハムがペリシテの地に住むようになったと書かれているかということですが、ペリシテというのは、みなさんもご存じの通り、イスラエル人とはライバル関係になるような民族です。けれども、アブラハムは後に敵とされるようなペリシテとも、一緒に生きたのだということが、この21章の結びで描かれているのです。そして、そのことは、決して小さくない意味を持っているのです。

 今日のところが、このゲラルの王であるアビメレクと、軍団の長であるピコルがアブラハムを訪ねてくるところから始まっています。言ってみれば、信長と明智光秀が出会ったようなものでしょうか。明智光秀がアブラハムだとすると、ちょっと言い過ぎかもしれませんが・・・。アビメレクの方は、一地方の王です。アブラハムは一部族の族長、しかも羊飼いをしているような遊牧民です。その差は歴然としているのですが、アビメレクにしてみれば、この前、アブラハムの妻サラを、アブラハムが妹だと言ったので、妻に迎え入れるという出来事の後です。今風の言い方をしれば、アブラハムに貸しが一つあるわけです。それで、盟約を結ぼうという提案を持ち掛けに来ているのです。 (続きを読む…)

2020 年 3 月 22 日

・説教 創世記21章8-21節「エル・ロイ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:44

2020.03.22

鴨下 直樹

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 今、世界中で蔓延している新型コロナウィルスのために、世界中で大きな混乱を引き起こしています。フランスなどでは100人以上集まる集会は禁止されました。そういうこともあって欧米では実際にかなりの数の教会が教会堂で礼拝をすることが困難な状況を迎えています。外出禁止令が出された地域も多くあり、アメリカやイタリア、スペイン、フランス、ドイツなどでも非常に多くの人々がこの病に感染し、多くの死者が出始めています。このかつてないほどの危機的な状況のために非常事態宣言が出されているのです。

 そのために、世界中の経済活動が停滞し、収入がなくなってしまう人たちがたくさん出ています。それでも、病気を広げないために自宅に留まるということは、どれほど厳しい苦渋の決断を迫られるかわかりません。

 苦渋の決断。それは、一つの決断をしたとしても、そこに苦しみや苦さが残ることを指している言葉です。そして、私たちはこの朝、ここに集まって聖書のみ言葉を聴こうとしています。今日、私たちに与えられているみ言葉は、アブラハムが苦渋の決断を迫られているところです。

 アブラハムはここで苦渋の決断を迫られています。なぜなのでしょうか。アブラハムとサラに与えられた約束の子、イサクはここで乳離れの祝いを迎えています。3歳から4歳くらいではないかと思われています。その乳離れの祝いの時に、その出来事は起こりました。もう一人の息子、この時には少年に育ったイシュマエルが、まだ乳離れしたばかりの幼子イサクをからかっていたのです。子どものしたことだから、気にしないということもできたと思いますが、妻のサラは気にしないでおくことはできませんでした。実際、この「からかっているのを見た」という翻訳のところに注が付いていまして、「あるいは、笑っている」と書かれています。協会共同訳では「遊び戯れているのを見て」と訳しています。ほほえましい光景にみることもできるわけですが、見方によっては「からかっているようにも見える」ということが、翻訳からもうかがえます。実際に、サラはその光景をほほえましくは見られなかったようです。それで、サラはアブラハムに言ったのです。「この女奴隷とその子を追い出してください。」と。

 常識的に判断すれば、そんなことはできないことです。サラに我慢するように話をするのが大人としての判断なのだということを、私たちは知っています。しかし、妻サラがそう言うのです。世の男性と同じように、と言っていいかわかりませんが、アブラハムとしては、その声を無視することはできませんでした。

 このことはいろんな考え方ができると思います。「そもそも、ハガルから子どもをもうけるように勧めたのはサラではないか。自分の言葉の責任を果たすべきだ」と言うこともアブラハムにはできたはずなのです。

 アブラハムはどうしたのでしょうか。続く11節にこう書かれています。

そのことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。

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2020 年 3 月 15 日

・説教 創世記21章1-7節「イサクによる笑い」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:26

2020.03.15

鴨下 直樹

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 今、私たちはレント(受難節)を迎えています。主イエスがエルサレムに入られてから十字架にかけられて殺されるまでの一週間の出来事を覚え、教会は40日間という期間、主イエスの苦しみに思いを寄せながらこの期間を過ごそうというのです。その期間は好きな肉を断つということで、その前に謝肉祭(カーニバル)をして、たらふく肉を食べておこうというお祭りまで行われるようになりました。レントは自分を喜ばせることはしないという期間でもあるわけです。ですから、どこかで今日のテーマである「笑い」は、あまりそぐわないような気もします。

 「レント」が連想させるものが、「苦しみ」や「試練」であるとすれば、「笑い」を連想させるのは「喜び」や「幸福」です。それは本来相反するものです。けれども、苦しみや試練の先にあるものが「笑い」であり、「喜び」であるはずです。

 実際にアブラハムとサラは、40日間どころではない、25年もの間、神から子どもが与えられる約束をいただきながら、子どもがいない悲しみを味わっていました。けれども、今ここに、アブラハムは試練を乗り越えた先にある喜び、即ち、神から与えられた笑いを心から味わう時が与えられているのです。

 1節にこうあります。

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。

 「主は約束したとおりに」「主は告げたとおりに」と書かれています。ここには「言う」「告げる」という言葉が使われています。そして、それを受けて「顧みられた」「行われた」という動詞が続いています。神が語られた言葉と、それを受けて起こった出来事が、ここで一つに結びついているのです。特に、この「顧みる」という言葉は、ヘブル語で「パーカード」と言いますが、神の救いの御業を表す言葉です。例えば、イスラエルがエジプトの奴隷から解放された時に、この「顧みる」という言葉が使われています。主なる神が心を向けてくださって、事を行ってくださるということです。

 そして、この言葉にはもう一つの意味もあります。というのは、この言葉は「訪問する」という意味の言葉でもあるのです。神が言葉を語られるときは、ただ口に出して相手に言葉を投げかけるということではなくて、その言葉がそのとおりになるように訪問してくださる、訪れてくださるという意味があるのです。このように、神が語られた言葉は、必ず実現するのです。
 
そして、その言葉のとおりの出来事が起こります。

サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ

と続く2節に記されています。

 神が語られた言葉は、そのまま出来事となるのです。この箇所は、まるでクリスマスの出来事と似ています。フランスのヴェルダンにある教会には、片方に降誕の出来事が描かれていて、もう片方には、サラがイサクを産んだ場面が描かれている祭壇画があるのだそうです。

 ちょっと珍しい祭壇画ですが、このイサクの誕生の出来事を正しく理解していると言えます。というのは、この時、サラから生まれたイサクは、アブラハムの子孫の第一子です。先に生まれたイシュマエルはアブラハムの子孫として数えられていません。このイサクは、直接の神からの約束の担い手であり、アブラハムに約束された神の救いの計画は、イサクから始まるのです。それは、新約聖書で語られているマリアから生まれた「主イエスのひな型」であったと言えるのです。

 私たちの多くは、この時に生まれたイサクのことをあまりよく知りません。先日、T兄が神学塾に入塾するための試験を受けました。その試験の中に、聖書の中に出てくる人物について二行で短く説明するという問題が出されることがあります。先日のテストにイサクという問題が出たかどうか、私は覚えていませんが、イサクについて書きなさいと言われたらみなさんはどんなことが書けるでしょうか。アブラハムとサラの子ども、イサクの子どもはエサウとヤコブ。そのくらいのことは書けるかもしれません。けれども、それは両親のことと子どものことを答えただけで、イサクの人となりについてはまるで答えていないのと同じです。 (続きを読む…)

2020 年 3 月 8 日

・説教 創世記20章1-18節「アブラハム再び・・・」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:03

2020.03.08

鴨下 直樹

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 今日の説教題を「アブラハム再び・・・」としました。「・・・」の中に何を入れるか、色々な想像力が働くかもしれません。「アブラハム再び、ブラックアブラハムに」。そんなタイトルにしてもよかったのかもしれません。私が好きな映画で、スターウォーズというのが、ありますが、そのイメージ言えば「ダークサイドに堕ちたアブラハム」という言い方もできるかもしれません。ちょっとマンガのような描写ですが、この創世記は、ホワイトアブラハムとブラックアブラハムという、良いイメージと悪いイメージが交互に登場してくるような書き方をわざとしているのではないかと感じるほどです。

 と言いますのは、この20章で、アブラハムが12章で犯した失敗をもう一度このタイミングで犯してしまうというのは、少し考えにくいのです。18章に出てくるのはホワイトアブラハムですが、ロトとソドムの人々の救いを求めて祈る美しい信仰者の姿です。そして、その際に、主とお会いしながら、来年の今ごろサラから子どもが生まれるというお告げを、アブラハムにも、サラにも受けているということが書かれているのです。ひょっとすると、サラのお腹は大きくなっていたのでないかという想像すらできる、そんなタイミングで、自分の妻であるサラをカナンの君主であるアビメレクに嫁がせたというのです。

 サラはこの時90歳ということになります。もちろん90歳でも美しい方もあると思います。アビメレクの好みがそういう女性であったということもあるかもしれません。けれども、一般的にはこのタイミングは考えにくいわけです。1節にアブラハムたちが「ゲラルに寄留していたとき」とあります。このゲラルという町は、ここではカナン人と書かれていますが、後のペリシテ人と呼ばれる民族の首都となった町です。そういう町の王ですから、アブラハムが恐れを覚えたとしても理解はできます。しかし、時間的な順序としては少し考えにくいタイミングです。

 ただ、そういうタイミングであえてこの出来事をここに置いているわけですから、そこには聖書の意図があるはずなのです。そして、その意図というが、ここを読み進めていくと見えてくるようになります。

 まず、ここから見えてくるのは、アブラハムの弱さです。かつて12章でエジプトに赴いた時に、自らのいのちを守る決断として、妻のサラを妹ということにしたのです。そのときアブラハムは75歳ですから、このタイミングでいえばそれから25年たっていることになります。そういう長い間、主と共に歩んできたのにも関わらず、アブラハムの主への信頼が少しも深まっていないかのような印象を受けるのです。自分の身は自分で守らなければならないというアブラハムの姿勢がここでも明らかになっているのです。

 これは、私たちも経験のあることでしょう。自分の弱さというのは、時間がたってもなかなか乗り越えることができないことを、私たちは誰もが経験しているのではないでしょうか。

 お金に弱い、異性に弱い、自己防衛本能が強い、色々な弱さが私たちにはあります。つい陰口を言ってしまう。自分の方が力がある、上だと示したくなる。挙げればきりがありませんが、人にはそういう弱さがあるのです。アブラハムの弱さは、美しい妻でした。妻が美しすぎるために、自分のいのちが狙われるかもしれないという恐怖をいつも持っていたということになります。それが、妻が90歳になってもなおそうであったということになるのだとすれば、一方で妻は嬉しかったのかもしれません。けれども、それは同時にアビメレクに引き渡されてしまった時点で、そのアブラハムの思いは結局自分が可愛いだけのことではないかということにもなるわけです。

 ここにきて、まだアブラハムの中には乗り越えられていない弱さが存在していることを、聖書はこうして描き出しているのです。 (続きを読む…)

2020 年 3 月 2 日

新型コロナウィルスに関する教会からのお知らせ

Filed under: お知らせ — susumu @ 19:29

芥見キリスト教会では新型コロナウィルスの感染拡大に対して、長老会で下記のようにすることを決定しました。

  • 芥見キリスト教会では礼拝は継続します。
    午前9時からと10時半からの二度に分けて行います。
  • 礼拝以外のすべての集会や集まりを当面(まずは3月いっぱい)中止にします。また、その期間、教会での飲食の提供もいたしません。いろいろな集まりに来られておられる方があると思いますがご理解とご協力をお願いします。
  • 礼拝に集われる方は出来る限りマスクを着用し、入り口にあるアルコール消毒などをお使いください。また、すこしでも体調のすぐれない方は教会に来ることを見合わせ、ホームページやアプリから説教をお聞きください。また各自で帰宅後には手洗いやうがいなどをしてくださり、それぞれで各自で対策をお願いします。
  • また礼拝では換気をしながらの礼拝になりますので、暖かい服装でお集いいただきますようお願いいたします。

 芥見キリスト教会 長老会

2020 年 3 月 1 日

・説教 創世記19章1-38節「うしろを振り返ることなく」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:59

2020.03.01

鴨下 直樹

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 ここ連日、テレビをつけると新型コロナウィルスのニュースで持ちきりです。もう、誰もが専門家になったのではないかと言えるほどに、このニュースの話ばかりが取り沙汰されています。実に多くの人がパニックになっていて、トイレットペーパーもなくなるところが出ているとかいう報道を耳にしています。多くの人が疑心暗鬼になっている姿がここからもよく分かります。

 そういう状況の中で、今日私たちは創世記19章のみ言葉に耳を傾けようとしています。 この物語の中心的な主題は神の裁きです。予期せぬ状況が目の前に迫ったときに、人はどう行動するのか。そのことがここで描き出されています。

 ここで神に滅ぼされたソドムとゴモラがどれほど罪深いのか、それは、この箇所を読むと明らかです。この町は道徳的に腐敗していたのです。今日ではさほど罪悪感を感じることもなくなっている、さまざまな形の性的な不道徳がここで明らかになっています。そして、それを神はそのまま見過ごしにすることのできない罪であることをここで明らかにされています。

 このソドムの腐敗ぶりは、わざわざこの聖書を丁寧に説明する必要もないほど明らかです。ここで、神が遣わされた二人の御使いは、ただ決然と事に当たっているのです。そこには、何の弁解の余地もなく、それらの人々が憐れみの対象にすら、もはやなっていないという事実を、私たちはどのように受け止めたらよいのでしょうか。

 これらの不道徳を悔い改めることがないならば、それは罪としてそのまま残る。そして、その罪のために神はこの町を滅ぼされるという事実に、私たちは目を向ける必要があるのです。このような神の裁きを目の当たりにするときに、私たちは神を畏れます。しかし、ほとんど、私たちのこの世界は、この神を軽んじ、神に対する畏れを抱くこともないまま、罪の上にあぐらをかいて生きてしまっているのです。目の前に危機的な状況がなければ普段は平和で、本当に考えなければならないことから目を背けて生きているのが、私たちの日常なのかもしれません。

 今、世界中がこの新型コロナウィルスのためにほとんどパニック状態に陥ってしまっています。カトリック教会は北海道と東京で礼拝を取りやめにしたというニュースも入っています。また、礼拝中止を検討する教会も出てきています。

 確かに、政府の要請ですべての学校を休校にするように呼びかけているわけですから、このような反応は一方では理解できます。もし教会から感染が拡大してしまうならば社会からどれほど大きな攻撃が加えられるか分からないからです。人を守るための決断のために、全国の小中高の学校がひと月にわたって授業を止めて、自宅待機にするというのは、大きな決断であったと思います。そういう世の流れの中で、教会も同様に対応する。それは一つの社会に対する責任の取り方です。

 ただ、そういう中で忘れてはならないのは、何よりも大切なことは、どんな事態に陥ったとしても、神を畏れる心を軽んじることはできないのだということです。例えばこの教会から被害が出て、実質建物が閉じられるようなことが起こったとしても、私たちは神への礼拝をやめるという決断はないのです。礼拝を取りやめている教会でも恐らく、形を変えて礼拝をしているのだと思います。たとえ場所や形を変えたとしても、神を神として礼拝をささげることが何よりも大切なことです。目の前に起こっている現象だけ見て、事の本質を忘れてしまっているのだとすると、本当のことが見えなくなってしまうのです。 (続きを読む…)

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