2025 年 3 月 2 日

・説教 ルカの福音書16章14-18節「神の国の福音に生きる」

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2025.03.02

鴨下直樹

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 主イエスは話のとても上手なお方です。今日のルカの福音書のこの箇所にも主イエスのお話の上手さがよく現れていると言えます。

 前回の話、不正な管理人の譬え話をなさったあとで、神に対して忠実に富を用いることをお話しになられました。この話を主イエスは弟子たちに向けてお語りになられたわけですが、その話を聞いていたパリサイ人たちは、この話を嘲笑いながら聞いていました。主イエスの話をあざ笑ったのです。それに対して話されたのが今日の箇所です。ここには、主イエスの話の巧みさがよく出ているとても面白い箇所だと言えると思います。

 パリサイ人たちがこの時、主イエスの話を聞いて、なぜ笑ったのかというとパリサイ人なりの理由があります。それは、申命記28章にも書かれているのですが、イスラエルの民が主の戒めを守り従うなら祝福されるという約束があります。それで、ユダヤ人たちは仕事が成功して富を得るのは神からの祝福のしるしだと考えていました。それなのに、主イエスは「神にも富にも仕えることはできない」と言われたので、それはおかしいと考えたのです。この考え方に関しては、パリサイ人たちは自信を持っていたと思いますし、実感でもあったのだと思うのです。

 富を得られるのは神からの祝福のしるし。パリサイ人たちはそのように考えていたのです。それなのに、主イエスは富のことを「不正の富」と言ったり、「この世の富」と言ったりして、神と富を別々のものとする考え方を示されました。この話を聞いて、パリサイ人たちは主イエスの考え方には同意できない、これは神の考えに反する教えだと考えて嘲笑ったのでした。

 それで、主イエスはお金の好きなパリサイ人たちに対して話されたのが、この14節以下の話です。この時に主イエスが話された言葉、今日の聖書箇所には少しびっくりする言葉が投げかけられています。15節です。途中からお読みします。

神はあなたがたの心をご存知です。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。

 ドキッとする言葉です。「人々の間で尊ばれるもの」でイメージするのはなんでしょうか? 今だと野球は新しいシーズンのための準備の期間ですが、大谷選手の話でいつもニュースは持ちきりです。人々の間で尊ばれている大谷選手は、神には忌み嫌われているのか? そんなふうに考えてしまうと、よく分からない言葉とも言えます。

 主イエスはこのように少しドキッとする言葉を発されて、人々が考えるように促しておられるわけです。

 この言葉をもう少しわかりやすく理解するためには「言葉の意味」を正確に捉えてみる必要があるかもしれません。ここにある「人々の間で」という言葉ですが、これは14節に出てくる「金銭を好むパリサイ人」のことを指して言っている言葉です。パリサイ人たちは人々の間で尊ばれていたわけです。それが、15節のその前に出てくる「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする」ということで、人々に尊ばれていたと続くわけです。

 主イエスはお話のとてもうまいお方です。ですから、パリサイ人たちの嘲笑う姿をご覧になり、彼らが集中して聞けるように話しながら、かつ最適な話をなさったのが今日の箇所だと言えるわけです。

 昨日の午前中に、先日洗礼を受けたばかりの6年生のM君と聖書の学びをしておりました。すると、「先生はそんなに聖書に詳しいけれども、聖書に書いてあることが全部わかるんですか?」という質問を受けました。何と答えようかと一瞬考えたんですが、もちろん、私自身聖書のことが全部分かるわけではありませんから、こう答えました。「分からないことがたくさんあるから、先週の礼拝のように、祈祷会でみなさんに説明したことは間違っていましたと謝らないといけない時もある」

 聖書を理解したいと思っているし、できるかぎり分かりやすく解き明かしたいとも願っていますが、分からないこともたくさんありますし、間違うことも、失敗することも多々あるわけです。皆さんはよくお分かりいただけると思います。

 どうしてそういう質問が出てきたか定かではありませんが、今日の聖書箇所を読んでいると、私自身もドキッとします。「牧師が語る聖書は正しいのだから」と言って聖書を説明して、人々の間で尊ばれているのだとすれば、ここに書かれているのは他人事ではないのです。

人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。

と書かれています。

 神様に嫌われて牧師をしていたら本末転倒もいいところです。けれども、これはいつも私自身、心に刻んでいなければならない言葉でもあります。

 自分は聖書が分かっている。そうして自分の考え方を人々の前で正しいとしてしまうなら、ここでパリサイ人の過ちを犯すことになってしまいます。では、なぜ、そのような過ちを犯してしまうのでしょう。それは、明白で「神の支配を受け取っていないから」です。自分の考えが支配してしまう。自分の考えが正しいと考えてしまう。ここに、落とし穴があるわけです。

主イエスは18節で、

誰でも妻と離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。

と話されました。

 お金と富の話だと思っていたら姦淫の話になっているので、話の筋が読みにくいかもしれません。ここでの主イエスの意図は、お金の話ではなくて、15節で言われた「自分を正しいとする」という視点で話しておられます。それが本質的な問題と見ておられるわけです。それで、自分を正しいとするということの一つの例で、「離縁」というテーマをあげたのです。

 旧約聖書の申命記第24章で離縁について記されている部分があります。ここでは「妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いて…」ということが記されています。これは離縁の仕方を記した戒めではなくて、離縁した妻が別の人と再婚して、その後でもう一度、離縁した妻を娶ることを戒めている箇所でした。

 ところがいつの間にか、この戒めが「妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなったら、離縁状を書いて離縁することができる」と読まれるようなっていきます。しかも、「恥ずべきこと」というのは「不貞」のことを指していたはずなのですが、この言葉が時代と共に拡大解釈されていきます。「恥ずべきこと」というのは、例えばお皿を割ってしまったら、それはもう恥ずべきことだという理解が生まれたり、挙げ句の果てに、その妻よりももっと美しい人を見つけたら、その時点でそれまでの妻は恥ずべき妻という理解まで出てきてしまいました。

 こういうのは調べると他にもいろいろと面白い例が見つかりますが、このくらいで十分でしょう。当時の人々はパリサイ人からこういう聖書解釈を教えられて、パリサイ人たちや律法学者たちがそう言うのだからという正当性を得て、離縁を容認してきたのです。

 けれども、まさにそのような聖書の解釈は、神様の本来の思いではありませんし、聖書が意図していることでもありません。そこにあるのは完全なるご都合主義です。どうしてこうなってしまうのかと言えば、やはり「神の支配」がないからです。神の国に生かされてはいない。だから、自分の感情が支配してしまって、自分の都合の良い聖書の読み方をしてしまうようになっていったのです。

 そこで、主イエスは続けてこう言われました。16節です。

律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。

 主イエスはここで、旧約聖書の時代の終わりを告げます。なぜなら、神の約束である、神の国の福音が宣べ伝えられているからだと主は言われます。しかも、ここではその神の国に「だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。」とあります。しかし、この翻訳はあまり良くないかもしれません。先日の祈祷会で「こんなふうに書かれていると、神の国に力ずくで入れるような印象になる」と言われた方がありました。その通りかもしれません。ただ、もともとがこういう意味の言葉が使われているのも事実です。「無理にでも押し入る」とか「暴力をふるう」とかそういう翻訳をされる言葉です。とても強い意味の言葉ですが、ここで言い表そうとしているのは、神の国はそのくらい人々の関心を集めているということです。それで、ある人は「激しく招かれている」と訳した人がありましたが、その方が翻訳としては意味がよく分かるかもしれません。

 「神の国の福音」というのは、「神の支配の中に生きる」ということです。もう少し別の言い方をすると、神と共に生きるということです。インマヌエルの神、共におられる主とともに生きることができるようになることを、神の国に生きると言います。

 私たちが生きているこの世界は、誰もが人々の間で生きていますから、そこで良い地位を得ようと思うとパリサイ人のように、自分を良く見てもらう必要があります。自分を受け入れてもらいたいですし、できればその中でも動きやすいボジションを得るためには信頼してもらう必要があります。友だちづくりというのは、子どもの時から大人になっても同じように、どの年齢でもとても大切なテーマです。

 そういう中で、私たちは、自らの知恵や経験を用いて人々から尊敬を得ようとするかもしれません。ある人は、自らの性格が気さくな性格であることを知ってもらうことに努めるかもしれません。あるいは、同じ趣味の人を見つけて仲良くなろうと努めるかもしれません。パリサイ人が人々の中で、自分を良く見せて尊敬を得ようとするというのは、それほど悪い方法というわけでもないようにも思えます。それが「友だちをつくる」という目的なのであれば、そこでいろんなやり方があって良いのです。

 ところが、いつの間にか気がつくと「自分を良く見せたい」という思いが動機になってしまう。そうすると、そこから少しずついろいろなものが噛み合わなくなっていくのです。自分を良く見せたい、そのために人々を自分の方に向けさせることに夢中になる。そうなると、そこには平安な思いはありません。友だちとの間でさえも、自分の思いが支配するようになってしまうからです。

 「神の国」とは、「神の支配」です。神が私たちと共にいてくださいますから、そこには平安があります。安心感があります。「自分を良く見せなければならない」という動機は不要です。そこで求められるのは、「神の支配」ですから、神様の思いや、願い、お考えが支配するようになります。それは、愛と赦しの世界です。喜びと平和が支配する生活です。

 そして、主イエスはこの神の国の福音、「もう神様が一緒にいてくださるので、安心して生活できますよ!」という知らせをこの世界に届けてくださったのです。

 昨日、教会で俳句の会がありました。その中で特選を得た俳句はこういう句でした。

「暗国のガザの休戦春一番」

 この句の冒頭の言葉、普通は暗い黒と書いて「暗黒」ですが、この俳句は「暗い国」で「暗国」と書かれていたのです。これが句会を指導する恵美子さんから、新しい言葉で、まさに戦争の真っ只中の国の様子を言い表して、この言葉選びが面白いという評価を得たのです。そういうまさに、暗い国の中にも春一番が吹いたかのように休戦を迎えたというわけです。

 ところが、後日この句を見ていた時に、句会の用紙に皆さんの句を書き記した人が、写し間違えて、この言葉ができたことが明らかになってしまいました。

 こういうアクシデントも含めて面白いわけですが、私はこの話を聞きながら、今日はこの話が使えるなと思っていたわけです。

 というのは、この「暗黒」という字を「暗い国」とした。どなたが書き間違えたのか分からないのですが、その後に続く「ガザ」という言葉を見て、ついそう書いたんだと思うのです。そこに、新しい言葉が生まれました。「暗い国」で「あんこく」。パレスチナの事情と、イスラエルの事情がぶつかり合って戦争をして、多くの人が死んでしまう、まさに暗い国です。けれども、この暗い国、「あんこく」の世界は、ガザにとどまりません。ウクライナもそうです。山火事が続く大船渡もそうです。いや、平和そうに見えている私たちが生活している場所も、友だちとの関係の中でさえ、お互いの心の中に、さまざまな思いがあって、それがぶつかり合うことで、暗い支配がそこで広がってしまうのです。

 そこで、人は少しでも自分の支配できる領土を広げようと小さな戦いを繰り広げているのです。なかなか休戦の春一番は吹いてこない。

 ところが、そんな「暗国」の世界に、主イエスがおいでになられて「神の支配」が始まった。「神があなたとともに歩んでくださるから、もう安心だよ」という神の国の福音を届けてくださったのです。それは、まさに暗国、暗い国に春一番が吹いたようなものです。誰もが待ち焦がれていた福音が聞こえてきたのです。そこに、みんな殺到する。もうすでにそれが起こっていると主イエスは言われました。

 私たちは、この「神の国」、周りの人を安心して受け入れることのできる神さまの支配される世界が、私たちのところにもたらされたのです。この神の国の福音に生きるようにと、主イエスは私たちを招いていてくださいます。神の国の中には永遠に続く友だち、仲間たちとともに永遠の平安へと招かれているのです。

 お祈りをいたします。

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