2013 年 10 月 6 日

・説教 ピリピ人への手紙4章8-23節 「富める時も、貧しき時も」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:47

2013.10.6

鴨下 直樹

このピリピ人への手紙は喜びの手紙と呼ばれてきました。何度もこの手紙の中に、「喜んでいます」、「喜びなさい」という言葉が語られてきました。今日のところにも、パウロの喜びが語られています。

私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜びました。

と十節にあります。何のことを言っているかと言うと、パウロのところにピリピ教会のエパフロデトから献金が届けられたのです。このピリピ教会から届けられた献金のことについてパウロは最後の二十節にいたるまで実に驚く様な言葉を重ねました。「私のことを覚えてくれて、この支援のおくりものを喜んでいます」と、一行で終わりそうなことを、パウロは十節かけて実に丁寧に書いています。しかも、その内容は十一節の「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」とか、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と言ってみたり、「私は贈り物を求めているのではありません。」「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。」という、一般的な贈り物に対する感謝の言葉を語る時にはとうてい言いそうもない言葉を語っている一方で、「それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。」と言ったり、「マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。」と支援を感謝している言葉を語ったりもしています。このようなパウロのこの言葉の中に、パウロがこのことに実に心を砕いているかが現われています。 (続きを読む…)

2013 年 9 月 29 日

・説教 ピリピ人への手紙4章2-7節 「いつも喜びなさい」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:10

2013.9.29

鴨下 直樹

先週は水曜日に芥見キリスト教会の特別講演会として柏木哲夫先生をお招きし、とても充実した一週間となりました。柏木先生は、講演の中でも最近ユーモアの大切さを感じていると言われておりましたが、送り迎えの車の中でもずっとさまざまなユーモアの話をしてくださいました。特に興味深かったのは、柏木先生がアメリカで学んでおられたころ、通っておられた教会の牧師は、説教の冒頭にその日の説教に導くためのユーモアから始めるんだそうで、この毎週のユーモアがとても面白かったと、いくつかの話をはなしてくださいました。

ある教会に、神学校を卒業したばかりの若い牧師夫婦が派遣されてきました。その牧師は一生懸命に説教を準備をしたんだそうです。あるとき、その奥さんが日曜になるとごそごそと自分の小さなクローゼットの引き出しをいじっているのに気づきました。でも、妻のプライバシーに関わる事だからと、気にはなったのですが、引き出しをあけないで我慢をしたんだそうです。ところが、一年ほどたっても、こそこそとクローゼットの引き出しに何かを隠しているような気がして、ついに妻のいない時にその引き出しを開けて中を見てしまいました。一番上の引き出しを開けてみると、玉子が三個入っています。その下の引き出しを開けてみると、ドル紙幣が何枚か入っていました。この若い牧師はどうしても気になって、勇気を出して妻に尋ねることにしました。 (続きを読む…)

2013 年 9 月 22 日

・説教 ピリピ人への手紙3章17-21節 「キリストにならいて」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:27

2013.9.22

鴨下 直樹

パウロは今日の箇所で、「兄弟たち、私を見ならう者になってください。」と言っています。

「自分を見習ってほしい」とは、よほど自分に自信がなければ言うことはできない言葉です。今日はこの言葉を少し考えてみたいのですが、よくよく考えてみても、この言葉の持っている意味は自信のあらわれでしかありません。けれども、私たちは自分をそこまで誇ることがゆるされているのでしょうか。

私たちが聖書を学び、自分のことを知らされていくごとに気づかされていくのは、自分自身の中に誇ることのできるものはないのだということです。自分の罪の自覚といいましょうか、あるいは、自分の足りなさに気づかされます。そして、本当に私には救いが必要なのだ、神の与えてくださるものなしに生きることができないことに気づかされていきます。ですから、自分を誇ることなど本来できるはずはないのです。しかし、パウロは迷うことなく、「兄弟たち、私を見ならう者となってください」と言うのです。

もちろん、それは自分を誇りとしているわけではないでしょう。パウロは「自分は罪びとの頭だ」ということを誰よりもよく知っていた人でした。自分の罪の大きさを誰よりも良く分かっていた人です。けれども、そのパウロが、「私のようになってください」と胸をはって語ることができたのは、パウロが見上げている方を、同じように見上げて生きるものとなってほしいということ以外にありません。パウロが見上げているお方とは、ただ、主イエス・キリストお一人以外にないのです。 (続きを読む…)

2013 年 9 月 8 日

・説教 ピリピ人への手紙3章12-16節 「目標を目指して一心に」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:42


2013.9.8

鴨下 直樹

今年、私たちの教会ではホスピスの働きを長年しておられる柏木哲夫先生をお招きして、特別講演会を予定しています。そのために、先週の祈祷会で、柏木先生の書かれた本を一緒に読む読書会をいたしました。ずいぶん前に書かれたものですけれども、『生と死を支える』というタイトルで今から三十年ほど前に書かれたものです。この本は古い本なのですが、柏木先生がしておられたホスピスの働きと、その働きの中で信仰のもつ役割を明確に書いた部分が紹介されております。

その本を祈祷会に出席しておられる方々と一緒に読んだ後で、みなさんと少し自由に話し合いの時を持ちました。そこでは、どのように自分は家族の死を看取って来たのかという話にどうしてもなります。教会でこういう語り合いの時をもつことができることは、とても大事なことだと改めて考えさせられました。みなさんと一緒にお読みした柏木先生の本の、ちょうど読んだ冒頭の部分にこんな言葉があります。すこし長い文章ですけれども、紹介したいと思います。 (続きを読む…)

2013 年 8 月 25 日

・説教 ピリピ人への手紙4章4ー7節 「祈りの生活」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:50

本日は、同盟教団外務支援牧師の富澤誠治牧師が説教をして下さいました。

2013 年 8 月 18 日

・説教 ピリピ人への手紙3章1bー11節 「信仰にもとづく望み」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:00

2013.8.18

鴨下 直樹

今日の説教箇所は3章1節の後半部分からお読みしました。なぜ1節の途中から読んだかと言いますと、ここから内容が大きく変わるからです。1節の最初に、「私の兄弟たち。主にあって喜びなさい」と結ばれています。ところが、こう言って結んだはずの手紙が、ここから突如として「前と同じことを書きますが」と少々強引に話が続けられているのです。それで、ここから4章1節までの内容は別の手紙が紛れ込んだのはないかと考える人もいますが、もちろん今となっては誰にも分かりません。いずれにしても、人の会話でも手紙でもそうですけれども、突然他のことを思い出して急に別の内容にするということはあることですから、この部分が別の手紙が紛れ込んだというようなことを考えてもあまり意味はありません。ここに書かれている内容に注意を払うことが大事です。

今日の箇所のテーマは信仰に生きることはどういう得があるかということです。これは、誰もが考えたことなのではないかと思います。教会に通うようになると、色々と失うものがあると考えられてしまうことがあります。この手紙を書いたパウロの場合はどうだったかということがここに出てきます。 (続きを読む…)

2013 年 8 月 11 日

・説教 ピリピ人への手紙2章17-3章1節a 「福音の奉仕者として」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 08:42

2013.8.11

鴨下 直樹

今日、私たちに与えられているパウロの手紙のこのところに二人の人が登場します。一人は、パウロが息子のように可愛がっている有能な働き人であるテモテです。もう一人はピリピの教会からパウロを支えるための支援をたずさえて派遣されて来たエパフロデトです。ところがこのエパフロデトはパウロのもとで病気になってしまいます。おそらくそのためでしょう。ピリピに帰りたいと思うようになります。しかし、ピリピの教会の人たちは自分たちのあてが外れて「役にたたない人」と思われてしまったようで、帰ることも難しくなってしまいます。ですからこの二人は一見すると、有能な人と、あまり役に立たなかった人という対照的な二人ということになります。その二人が今日の聖書の中心です。その二人をピリピの教会に遣わすとパウロは書いているのです。当然、テモテは歓迎されるでしょうが、エパフロデトのほうが心配です。それで、パウロは配慮をして、この部分をしたためています。

有能な人と思われたり、思ったほど役に立たないと思われてしまうことが私たちの身の回りでもたびたび起こります。教会であっても時折そういうことが起こります。パウロはこの手紙の前の部分で、「人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と勧めてきました。人を見下すのではなくて、ゆるすのだと書いてきたのは、このためであったかと思えるほどです。 (続きを読む…)

2013 年 8 月 4 日

・説教 ピリピ人への手紙2章12-18節 「星のように輝いて生きる」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 07:38

2013.8.4

鴨下 直樹

先週から信徒交流月間ということで、水曜日と木曜日の祈祷会で信徒の方々が順に話をしてくれることになっています。毎年のことですけれども、私はこの集いをとても楽しみにしています。普段、みなさんがどのように御言葉を聞いているのかが良く分かるのです。また、そこで話される話を聞いて、その方がどのように聖書と向き合っているかが良く分かります。どのように御言葉と向き合っているか、ということは、どのように主と出会っているかということと同じことです。

今日の説教の題を「星のように輝いて生きる」としました。何だか、何年か前に流行った歌のタイトルのような説教題です。昨日も、直前までタイトルを変えようかと悩みましたけれども、そのままにしました。信徒交流で色々な方のお話しを聞いて、はじめてその方が何に苦しんでいたのか、どのように御言葉に支えられてきたのかが分かることがあります。それはまさに、自分の置かれたところで星のように輝いて生きることになっているのだと、つくづく思わされるのです。

ところが、この聖書の言葉はいったいどこにあるのかと思われるかもしれません。似ている言葉は十六節にあります。 (続きを読む…)

2013 年 7 月 14 日

・説教 ピリピ人への手紙2章1-11節 「橋をかける」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 09:18

2013.7.14

鴨下 直樹

「香木は斧に香る」という言葉を最近耳にしました。香り高い香木は、自らを打倒した斧にさえもその香りを移すのだそうです。美しい言葉です。自分を切り倒してしまうこの斧の刃でさえ、香木の香りにつつみこまれてしまうというのです。この言葉を聞いた時に、ちょうど今日の聖書の箇所を現わしている言葉と思いながら、この一週間、御言葉を聞き続けてきました。
今日の聖書箇所は、ピリピ人への手紙第二章一節から十一節までです。特に、ここには「キリスト讃歌」と呼ばれる、当時の教会の讃美歌の言葉がそのまま紹介されていると言われています。それが、六節から十一節です。パウロの活躍した時代というのは紀元六十年前後ですから、そのころの教会にはもう讃美歌が生まれていたと考えられているのです。讃美歌を通して信仰が励ましを受けるというのは、今も昔も変わりません。歌うことによって信仰が支えられてきたのです。
宗教改革者のルターは讃美歌の持つ力を良く知っていた人でした。この讃美歌集の中にもいくつもルターのつくった讃美歌がいれられていますけれども、どれもキリスト教の信仰を説明するような教理的な内容の讃美歌ばかりです。この時代の人々は聖書を読むことができなかった人々が多かったために、讃美歌を覚えることを通して、信仰を支えようとしたのです。
この今日の箇所もそうです。どのようなリズムで歌ったのかはっきりしたことは分かりませんけれども、ここではキリストが何をしてくださったのかが記されています。この箇所の内容を一言で言い表すとすると、「キリストの謙遜」ということになります。昔は「謙卑(けんぴ)」という言い方をすることもありました。

この話をする時に、どうしてもお話しをしなくてはならない一つの事があります。 (続きを読む…)

2013 年 7 月 7 日

・説教 ピリピ人への手紙1章27-31節 「福音にふさわしい生活」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:40

2013.7.7

鴨下 直樹

ピリピの教会にパウロの手紙が届いてこれが読まれた時、ちょうど前回の二十六節までの部分を聞いたピリピの教会の中では、どよめきや歓声がわき起こったと思います。というのは、伝道のために捕らえられたパウロが死の危機に瀕していると思っていたところで、「私はもう一度、あなたがたのところに行けるので・・・」という言葉を聞いたのです。パウロ先生がもう一度ピリピの教会を尋ねてくれる。それは、ピリピの教会にとってまさに喜びの知らせであったはずです。パウロのピリピでの伝道の期間はそれほど長くはありませんでした。長くても数週間です。二、三週間であったのではないかと考えられています。ですから、その後でピリピの教会の会員に加わった人は、一度は見てみたい、直接話を聞いてみたいと思っていたと思うのです。そして、そのパウロから手紙が届き、パウロがピリピに来ると聞いたのです。それは大喜びであったに違いありません。

そのような歓声がわき起こった教会に、パウロの言葉はこう続いたのです。

ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。

と続きます。
ピリピに行けると宣言したパウロはすぐその後で、「行けたとしても、行けなかったとしても」という言葉を続けたのです。一度喜ばせておいて、でも、ダメな場合もあるのだからと感じさせている。この手紙を聞いていた人々の心は、少し期待が薄れたことでしょう。ところが、パウロは、パウロとの再会を語った直後にこう述べました。 (続きを読む…)

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