・説教 ピリピ人への手紙2章17-3章1節a 「福音の奉仕者として」
2013.8.11
鴨下 直樹
今日、私たちに与えられているパウロの手紙のこのところに二人の人が登場します。一人は、パウロが息子のように可愛がっている有能な働き人であるテモテです。もう一人はピリピの教会からパウロを支えるための支援をたずさえて派遣されて来たエパフロデトです。ところがこのエパフロデトはパウロのもとで病気になってしまいます。おそらくそのためでしょう。ピリピに帰りたいと思うようになります。しかし、ピリピの教会の人たちは自分たちのあてが外れて「役にたたない人」と思われてしまったようで、帰ることも難しくなってしまいます。ですからこの二人は一見すると、有能な人と、あまり役に立たなかった人という対照的な二人ということになります。その二人が今日の聖書の中心です。その二人をピリピの教会に遣わすとパウロは書いているのです。当然、テモテは歓迎されるでしょうが、エパフロデトのほうが心配です。それで、パウロは配慮をして、この部分をしたためています。
有能な人と思われたり、思ったほど役に立たないと思われてしまうことが私たちの身の回りでもたびたび起こります。教会であっても時折そういうことが起こります。パウロはこの手紙の前の部分で、「人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と勧めてきました。人を見下すのではなくて、ゆるすのだと書いてきたのは、このためであったかと思えるほどです。
夏の間、信徒交流月間で信徒のみなさんが水曜と木曜の祈祷会でお話しをしてくださっています。本当に豊かな時間です。自分の口で信仰の言葉を語るのを聞くことができるというのは、私にとってとても幸いな時間です。また、そこで出席しておられる皆さんが、自分の言葉でその話に応えて話をしてくださいます。みんな本当に活き活きと話されます。けれども、そのみなさんの言葉を聞きながら私自身が改めて気づかされることは、みなさんの心の中にある悲しみです。どれほど、普段の生活の中で悲しみを味わっているか、闇を抱えているのかということに改めて気づかされます。そういう中で、一人一人御言葉を聞き、支えられているのだと改めて知らされます。
人から受け入れられない。認められない。そこで味わう悲しみは自己憐憫へと人を追いやるか、あるいは同じことを自分もすることによって自分を保とうとします。相手を自分よりもすぐれているなどと考えていたら、傷ついた自分の心はどうなるのかという、何ともいたたまれない気持ちになってしまいます。もちろん、だからパウロはここでキリストのように生きよう、主を見上げようと勧めているわけです。
先週の聖餐式の前にした短い説教の中で、もう一度このピリピの箇所から「赦し」についてお話ししました。そこで、「相手を赦すというのは、相手に伝わらなくても、自分のほうでは赦すのだ」という内容のことをお話ししました。その後で、ある方から質問を受けました。その場合の赦すというのはどういう心の状態になるのか、という質問です。
例えて言うとこういうことです。相手が自分に対して失礼な態度をとった。それを赦すというのは、我慢をするということなのか、考えないようにすることによってやり過ごすということなのか、自分の心の中ではどういう状態でいることになるのかというのがその質問の意図でした。とてもいい質問だと思いました。赦すことというのは、我慢をすることと理解されてしまうことが多いのです。
相手を赦すということは、相手に対する自分の怒りや、自分の正当性や、自分が傷ついたという気持ちを主に支えられながら捨て、その人をそれでも受け入れることです。そこでは主を見上げていますからにがにがしい気持ちは起こりません。けれども、同時に相手の罪に対して目をつぶるということではありません。我慢をすることは、大きな助けになるわけではありません。相手の間違いについては正しく指摘することは大切です。ただ、この場合も、相手を指摘したとしても、それはその人がどう判断するかまではその人自身の問題ですから、相手に完全に任せなければなりません。相手を自分の思うように相手が変わるということが相手を指摘することではないし、まして、相手に謝らせるために忠告するならば止めておいたほうが良いとも言えます。そこでもまた、主を見上げてゆだねるのです。
パウロはここで、エパフロデトのことで心を痛めています。ピリピの教会の人々はエパフロデトは役に立たなかったと判断したのです。そのために、エパフロデトはピリピに帰りたいのに帰ることができないという状況に立たされてしまっているのです。エパフロデトが病気になったこと、そのために里ごころがついてしまったことは、エパフロデト自身の心の問題ではあっても、それはピリピの教会の人たちにどうすることもできない問題です。そして、このエパフロデトが悲しんでいる事に対して、パウロは心を痛めているのです。
この箇所の前後に記されているのは喜びなさいと言う勧めです。十七節、十八節に記されているのも、喜びなさいという勧めであれば、三章の一節の前半に記されているのも喜びなさいという勧めです。パウロはこのテモテとエパフロデトのことを記すにあたって、その前後を喜びなさいという命令の言葉で囲いました。しかし、そこに隠れて見えてくるのはパウロの悲しみです。自分はここで殺されて、神への犠牲の供え物のように殉教するかもしれない、けれども、そのことについては喜びなさいと書いているのはパウロ自身です。主のために生きることができることは喜びなのだとパウロは語ります。そして、テモテも、エパフロデトも同じ主のために仕えて生きているのです。なぜ、そこでこの人は良いけれども、この人はだめだというような悲しい判断が起こってしまうのかということを、パウロはここで問題にしながら悲しんでいるのです。
ここに出てくるテモテにも少し目を留めて見たいとおもいます。パウロはこのテモテについて二十節で
テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。
と書きました。パウロはテモテのことを、私の心と同じ心、と言えるほど認めていました。二十二節では「テモテのりっぱな働きぶり」とありますが、立派に働いていると確信をもって言うことができるほどでした。
気になるのはその間にある二十一節の言葉です。
だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。
パウロはここでとても厳しい事を言っています。「自分のこと」というのは、「自分の利益」という意味です。みな、自分のことしか考えていないというのです。この言葉はピリピの教会の人々にも向けられています。ですから、私たちにも向けられている言葉でもあります。考えてみればそうです。私たちは自分は損をしたくないと思うものです。ピリピの人たちはせっかくエパフロデトに期待したのに、その期待に応えてくれなかったと、それが自分たちの悲しみであるかのように考えています。この派遣は無駄であった。損をした。そこで働いている判断はやはり自分たちの利益ということになります。そして、そのように考える時というのは、主イエスの利益のことは考えていないというのです。
パウロがここで語ろうとしていることは、こう言い換えてもいいのです。私たちが、自分のこと、自分の利益を求める事から自由になるためには、主イエスのことを考えることなのだということです。確かにそうです。人を尊敬すること、相手を赦す事、相手を受け入れる事は、自分のことを考えれば、損をしたとか自分が傷つけられた気持ちはどうなるのかと考えてしまいます。けれども、この私の怒りや復讐心は、主イエスの利益のためにはならないと気づく、これは主イエスの利益になるのかと考えることができるようになれば、私たちは愛に生きることができるようになるし、人を赦すことのできる自由も得ることができるようになるのです。
パウロのテモテ自慢はさらに続きます。二十二節。
しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。
テモテはまるでパウロのことを父であるかのようにして、仕えてきたというのです。しかも、パウロはテモテが自分に仕えたのではなくて、福音に仕えてきた、奉仕してきたと注意深く書いています。テモテはキリストの利益を求めて奉仕しているというのです。それは、父と子のような関係であったと書いています。
「子が父に仕える」というのは、まるで当たり前であるかのようですけれども、今の私たちの世界ではそうではありません。父が子に仕える姿であれば、どこででも見ることができます。きっと、私を通してでも見ることができるのかもしれません。親は子どものために一所懸命ですが、子が父に一所懸命に仕えている姿というのは、確かにあまり見かけないのです。子どもが大事にされすぎる時代です。育児をする父親のことをイクメンなどと言われます。育児をするメンズで、イクメンと言うようですが、私も先日四日市の教会に行った時に鴨下牧師はイクメンだからと言われてしまいました。牧師の研修会で子どもにご飯を食べさせているところを見てそう思ったのかもしれません。最初は父親が育児に参加することは良い事だということでイクメンを推奨していたようですけれども、最近は父親の権威がなくなってしまったのでは家庭の秩序がなくなると、脱イクメンなどということが言われるようにまでなっています。
そこに現れているのも、親として子どもにどうあるかということが話題の中心です。そして、聖書が前提としているような、子どもは親に仕えるものというのは大昔のことであるかのように考えられてしまっているのです。
「子が父に仕えるように」の言葉の中には父親としての権威が語られています。子育てに父親が関わることは大事なことです。聖書はこれを否定してはいません。けれども、父親の権威が失われても仕方がないとすることは聖書のみるかぎり記されていません。しかし、今日の親が親としての権威を忘れて、子どものために仕えてしまうのはやはり考えなければならない姿なのかもしれません。
テモテの場合は実際の親子ではありません。ですからパウロの権威に従いつつも、パウロは、テモテが主の福音に仕えたのだと記しました。このことが大切です。そして、そのことは、テモテにかぎらずエパフロデトにも当てはまる事なのだということです。エパフロデトがピリピの教会から使わされて来た時、パウロはエパフロデトを使徒として迎えました。二十五節に「あなたがたの使者として」とあります。ここの箇所の新改訳聖書の注に、この言葉の直訳は「使徒」でギリシャ語は「アポストロス」という言葉であるということまで書かれています。ガラテヤ人への手紙の説教の時にも話したと思いますが、この「使徒」という言葉は、特別な立場にある人にしか使うことのできない言葉でした。パウロは自分が使徒であると語った時に、自分は主と直接出会った復活の証人の一人なのだということをそこで語っているほどです。ですから、エパフロデトと出会った時にも、パウロはこの人のことを、まさに主の復活の証人で、主から召された者として、自分とまったく同じ同労者であると受け止めたのです。
人の評価はそうではありません。事業に成功したとか、大きな利益をもたらしたとか、何かの成功をもとにして人にしたことを評価しますし、私たちもそのように評価されたいと考えてしまいます。自分が必要とされて役にたてば嬉しいのですが、そうでない場合は、自分の生きがいさえ感じなくなってしまうのです。しかし、パウロはテモテもエパフロデトも主に仕える者であるという事実を書いています。そこでは、役に立つものとそうでないものという評価を問題としていないのです。
長老の古川さんは岐阜県美術館の館長という責任も持っていますが、一人の画家でもあります。古川さんがいつもテーマにしているのは「からす瓜」です。以前、家庭集会でお邪魔した時に実物を見せていただきました。雪の結晶のような不思議な花を咲かせる植物です。この花が実を実らせるのですが、それは瓜という名は付いていますが食べることはできません。観賞用にするほど美しいというわけでもありません。けれども、からす瓜を描き続けるのは、そのような人からは役に立たない物であっても、神さまが創造された美しさをそこに見ているのだという説明をしてくださったことりがあります。
私たちの評価は、実績や成功体験や、自分に利益をもたらすことによって成り立ちますが、主の評価はそこにはありません。パウロはここでこう書いています。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めていません。」
大事なことは、キリスト・イエスを求めることだと言っているのです。主を見上げている姿は美しいのです。キリスト・イエスを求めること、そこに喜びがあるのだとパウロは語っているのです。
テモテやエパフロデトだけが福音の奉仕者とされているのではありません。私たち全てのものが福音に仕える者として召されているのです。主を見上げる者とされています。何をするのか、どのような利益をもたらすことができるのかということのためではなく、主イエスを見上げて生きる者のことを福音の奉仕者と言うのです。私たち全てのものが、この福音の奉仕者として召されているのです。
お祈りをいたします。