・説教 ルカの福音書15章25-32節「不満が溢れる心に」
2025.02.02
鴨下直樹
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今日の説教題ですが、予定を変えて「不満が溢れる心に」としました。今日の聖書に出てくる兄息子の心を表した言葉です。
「不満」。今日はこの言葉を少し考えてみたいと思うのです。というのは、私たちが生活している時、常に私たちはこの「不満」と対峙しながら生活しているからです。ガソリンがまた高くなった。スーパーの野菜が高い。そんな日常の細かな不満をあげればキリがありませんが、そういう物事に対する不満もありますが、「不満」の多くは人に向けられる感情であることが多いと思います。そして、そのような人に向けられる不満の感情の多くは、どこかに表されることなく、心の中に仕舞い込んでいることが多いかもしれません。それを口に出した途端、その人との関係が壊れてしまうこともあるからです。
今日の聖書に出てくる二人の息子にもそれぞれに、異なる不満があったはずです。ここに出てくる二人の息子には、それぞれに心のうちに秘めた思いがあったはずです。そして、弟息子はある時それを口に出し、行動に移しました。それが、父に向けて言ったことば「お父さん、財産のうち私がいただく分をください」という12節の言葉に表されています。
そして、「弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。」と続く13節に記されています。
弟息子は、父への不満、家への不満をそのような態度で表しました。しかし、この兄息子の方は、この時に一緒に財産をもらいましたが、弟のように財産を持って旅立つことはせず、父親の元に留まったのです。兄にも家を出るチャンスはあったかもしれませんが、兄は父のもとでそのまま仕事に従事していたわけです。立派な跡取りとしての務めは果たしていると言えます。少なくとも、周りからはそう見えているはずです。けれども、今日の聖書の箇所まで進むと、この時の兄息子の心の中に秘められていた不満が明らかになっています。
兄が畑でいつものように仕事をしていると、何やら楽しそうな音楽と踊りの音が聞こえてきます。それでしもべに尋ねると、弟息子が帰ってきたので、父親が子牛を屠って盛大な宴会を催しているというのです。この瞬間、兄の心は一気に崩れてしまいます。
兄には父の思いが理解できません。どうして弟息子を喜んで迎え入れるのか。盛大な宴会を開いているということは、弟息子を喜んで迎え入れたにちがいないのです。兄の心の中がざわつきます。弟に対する怒り、父親への不満が一気に噴出します。「こんな馬鹿らしいことがあるか!」それが、兄息子の心の中の思いです。
この兄の思いは、誰もが共感する思いでもあります。兄からすれば自分が不当に扱われているような、そんな気持ちになるのも私たちには良く理解できるのです。
「正直者が馬鹿を見る」という諺があります。それは、この世の中のあり方を表している言葉でもあります。けれども、それは聖書の考え方ではないし、神はそういうことを認めない。そうでなければ何が信仰かという思いが、私たちの中にはどこかにあると思います。
信仰というものは、心を見てくださる神の御前にあって、誠実に生きること、真実に生きること。そこに神の祝福もあるはずです。私たちはそう考えます。私たちの主は人の心を見られるお方だからです。
けれども、この聖書を読んでいるとやはり「正直者が馬鹿を見る」という思いが拭えない、そんな思いになるのかもしれません。聖書はここで何を私たちに語ろうとしているのでしょうか?
28節にこう記されています。
すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
兄が怒って家に入らないことに、父は気が付きます。それで、父は出て来て兄をなだめます。すると、この時とばかりに兄の不満が噴出します。29節と30節には、この時の兄の思いが存分に語られています。
しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹くださったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
兄はここで自分の正当性を父に訴えます。冒頭の言葉は「ご覧ください」です。畑仕事の最中の服装ですから、言い分を伝えるのは好都合な服装でした。しかも、長年、この姿で働き続けて来たのですと、父に訴えます。さらにはそれに続いて、自分には友だちと楽しむための子やぎを出してもらったこともないと父に訴えます。兄は父に向かって、自分がどれだけ可哀想な存在であるかを訴えます。そして、真面目で、可哀想な自分と、好き勝手に生きている弟の比較をはじめます。弟の方はというと「お父さんの財産を食い潰して来たばかりか、遊女たちと遊んできたんだ。どちらがあなたに愛される資格があるとお思いですか!」これが、兄の訴えたかった内容です。
筋は通っています。兄は何も間違ったことは言っていません。まだ弟と出会ってもいないわけですから、弟がどういう状況で帰って来たのかは見てはいないので、ここでの弟の描写は兄の想像です。「遊女と一緒にお父さんの財産を食い潰した」というのも、あながち間違った洞察でもないのかもしれません。言い分は完全に兄の側にあります。「だからお父さん、あなたがやっていることを私は理解できないのです」と言っているわけです。完全に、論破しています。そして、まさにここに兄の人としての姿が凝縮しているとも言えます。
真面目さと正しさ。これが兄の姿です。もちろん、何も悪いことはないのです。ただ、どうしても、ここで兄が気になってしまうのは自分の正しさや真面目さを他の人にも同様に求めてしまうところにあります。構図としては、良くできる人と、いい加減な人という対比です。別にモラルハラスメントなんていう最近の言葉を使わなくても、昔からきちんと正しいことを行える人というのは、いい加減な人に腹を立てるものです。
ただ不思議なものですけれども、私が兄についてこのような切り取り方をすると、みなさんもどこかで弟の方も可哀想だという気持ち、多少の同情心が湧いて来るのではないでしょうか。
兄には一つだけ大きな欠けがあります。それは、人の思いを量ることができないという欠けです。もっと端的に言うと、自分のことしか見えていないという欠け、欠点が兄にはあるのです。
「自分はきちんとしている。父のもとで長年の間仕事を続けてきました。弟が去った時にも、兄はお父さんの元に留まりながら、文句を言うこともなく働き続けました」。立派です。完璧です。兄は良くやってきたのです。ただ、兄には弟を失った父の悲しみは見えませんでした。いや、見ないようにしていたのかもしれません。弟が去って悲しんでいる父の姿を、兄は理解できません。理解したくないのです。自分を見て欲しいからです。それこそ、弟のいない今こそ、自分のことを見て、愛して欲しいと願ったのかもしれません。
さて、結論に向かう前にもう一度振り返って考えてみたいことがあります。それは、この話は、主イエスのなさった譬え話だということです。このルカの福音書の第15章は、冒頭でこうはじまりました。
さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
この出来事をきっかけに主イエスは譬え話をはじめられたわけです。つまり、主イエスはパリサイ人や律法学者たちに何かを気づかせようとして話をしておられることになります。
この二人の兄弟の譬え話は、誰に譬えている話なのかというと、主イエスはこの譬え話を、パリサイ人や律法学者たちに向けて話しておられることから分かります。ということは、この譬え話の中に出てくる「兄息子」とは「パリサイ人や律法学者たち」のことと言えます。そして、「弟息子」とは「罪人たち」のことを指していると言えます。そうであれば、今主イエスの周りで食卓を囲んでいる罪人たちとは、まさに弟息子であり、その姿を見ながら主イエスに文句を言っているのは「兄息子であるパリサイ人たち」だということが見えてくるわけです。
そこまで整理をしておいて、ではこの兄息子に父親は何と言われたのかが良くわかるように、31節と32節を読んでみましょう。
父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』
父はここで兄に言います。「わたしのものは全部おまえのものだ」と。私たちは聖書を読んでいると、いつも主イエスはパリサイ人や律法学者たちのことを目の敵にして話をされているので、どうしてもパリサイ人は悪いやつだと決めつけて聖書を読んでしまうところがあります。けれども、ここを読むと父は「兄を目の敵」のようには扱っていないことに気づきます。というのは、この兄も、家を離れた弟も父の愛する息子なのです。だから、父は兄に向かって「私のものは全部おまえのものだ」と言われるのです。ここに、父の兄に対して向けられている深い愛情があることに気が付きます。
兄はそれまで不満ばかりを感じていました。父に対しても、弟に対しても、どうしてなのかという不満を抱いて来たのです。この時の兄に欠けていたのは、弟や父親に対する愛情です。もちろんこの二つは何にも増して大切なものです。神を愛することと、隣人を愛する心、これを欠いていることを「罪」と呼ぶからです。
このルカの福音書の15章のテーマは「悔い改め」であると毎週話し続けてきました。今週で四週目になります。ここでも主イエスは言われました。「弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と。
この「いなくなっていた」という言葉も前回紹介した「アポリューミー」というギリシャ語です。ルカの15章には何回も使われいるキーワードです。この言葉は、いるべきところにいない、あるべきところから離れている状態を「いなくなっていた」という言葉で表現しています。さて、では「兄はどうなのでしょうか?」兄は「いるべきところ」にいるのでしょうか? それとも「いなくなっている」のでしょうか?
答えは明らかです。兄もいるべきところにいない状態、つまり父の思いのところにはいないことが、ここでも明らかになっているからです。父を愛する心も、弟を愛する心もいつの間にか見えなくなってしまっているのです。ここに、兄の罪の姿を見るのです。
しかしです。そんな兄なのに、父はここで「私のものはあなたのものだ」と言っておられるのです。それは、兄は父の仕事を毎日こなし、やるべき務めを果たしているから大丈夫ということではありません。神は、行いによって義であるとされるお方ではないのです。父からすれば、この兄息子も失われた息子であったのです。
にもかかわらず、兄に対しても父は丁寧に言葉を尽くしている。ここに父の兄に対する愛が示されています。パリサイ人たちや律法学者たち(兄)は、自分が完璧な人間だと考えていたことでしょう。そして、罪人たち(弟)のことを何てだらしないダメな人間なのだと考えていたことでしょう。さらにはそんなダメな弟を受け入れる父親のことは、なんて甘い父親なのだと考えていたのです。そこは厳しく戒めるべきだと。
「正しいことは何か?」その基準で考えれば、その正しさに足りない者は、改めなければならないことになります。けれども、父なる神は、人を「正しさ」だけでは見ておられません。ではどう見ておられるのでしょう。この父の眼差しは、弟に対しても、兄に対しても一貫しています。父なる神の眼差しは、その存在そのものを愛して受け止めておられるのです。ここに、神の愛が示されています。私たちの父なる神は、罪深い私たちのことを受け止めてくださるお方なのです。
しかし、パリサイ人や律法学者たちは、この神の眼差しに気づくことができませんでした。そして、本当の自分の姿も見ることができなくなっているのです。結局のところ、父を正しく受け止めることなしに、自分のことも正しく受け止めることなどできないのです。自分はすべてが理解できているつもりになっていても、本当に見るべきものが見えていないのです。
主イエスはここで罪人たちのことも、立派な振る舞いをすることのできるパリサイ人や律法学者たちのことも、どちらも「ダメな存在だ」などと見てはおられません。主イエスが見ておられるのはその人の能力ではありません。その人の性格や性質でもありません。その人そのものをご覧になられているのです。
「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」
これが、神の心です。神は、いつも私たちと共にいて、ご自分の持っておられるものを全部私たちに与えたいと願っておられるお方です。
この物語の結論はどうだったのでしょうか。兄は、父の思いを受け止めることができたのでしょうか? パリサイ人たちは主イエスの思いに気づいたでしょうか? 私たちはどうでしょう? 答えはここには記されていません。主は問いかけておられるのです。
人を裁く前に、私たちにはすることがあります。それは、父なる神のみ思いに気づくことです。私たちの主はとても寛容なお方で、大きな愛で、罪深い者、人に対して意地悪になってしまう者、人を裁いてしまうような者であったとしても、ご自身の御腕の中に受け止めてくださるお方です。このお方の前に出る時に、私たちの心の中にくすぶる不満は取り除かれて、平安な思いが私たちを支配するようにと変えられていくのです。
お祈りをいたしましょう。