特別伝道礼拝「私たちをひとつに結ぶキリスト賛歌」ピリピ人への手紙 2章1-11節
加藤 常昭
キリスト者になるということは讃美歌を覚えるということです。「歌う存在」という言葉があります。存在そのものが歌を歌い始めるのです。生きていることは、歌うことだと言うことすらできるようになる。
私の信仰は多くの方たちの感化によって養われてまいりましたけれども、何といっても最初に私に信仰の感化を与えたのは母です。母は徳川御三家のひとつに仕えておりました。奥女中の女中頭というのです。しばらく前にNHKの大河ドラマに「篤姫」というのが登場いたしまして、そこに徳川家の昔、といってもそんなに遠くはない、明治維新のころの姿が描き出されました。やたら重たそうな着物を着た女中たちが登場しました。その時代からそんなに時も立っていない徳川家に仕えた母も、あんな恰好をしていたのかしら、とちょっと心配になったぐらいですが、まあもちろんそんなことはなかったと思いますけれども、徳川家の御三家のひとつに仕えていたのです。女中頭というのですから、ただの女中ではなくて「頭」だというので、少しは偉いのかと思っていたら、「なに、女中頭なんてたくさんいたから」と言って笑っておりました。けれども、主人の家の家族に近いところで働いていたようです。
母はそのおかげで信仰に導かれたのです。東京飯田橋駅の近くに富士見町教会というのがありますが、この富士見町教会を建設いたしましたのは旧日本基督教会の植村正久という牧師でした。この人は旗本の息子なのです。そのせいだっただろうと言われておりますけれども、徳川家に特別な関心を持っておりました。ただ徳川家だけではなかったようですけれども、貴族伝道、あるいは華族伝道と言って、そういう家に伝道師を派遣して一生懸命一種の家庭集会をやったのです。徳川御三家の殿様が洗礼を受ける、ということまではいかなかったようですけれども、かなりの感化を与えたようでして、私の子どものころには、その徳川家で、クリスマスの大きなツリーを囲んだ家族の写真を見たこともあります。
殿様は洗礼を受けなくても、仕えている人たちに感化が及びまして、随分多くの人たちがキリスト者になって、母もその一人でありました。とにかく讃美歌が好きでした。台所でも歌を歌っている。特に私ども子どもの心に残っておりますのは、子どもをお風呂に入れまして、一緒に入ってくれることもありますけれど、多くの場合は子どもたちだけをお風呂に入れておいて、母は焚口に座りまして、昔の風呂ですから薪をくべるのです。薪を入れて湯の加減を聞きながら讃美歌を歌っているのです。私はお風呂の湯の中につかりながら、母が細い声で讃美歌を歌っていたのをよく思い出します。母は昔の女性のことですから、習ったことといえば「謡」だとか「清本」だとか「長唄」だとか、そんな、こっちから言うと、「そんな」と言いたくなるようなものばかりを習っているものですから、讃美歌に妙なこぶしがつくのです。ちょっと真似が出来ないようなこぶしをつけて歌うのです。けれども、今から考えるとやはり母の歌う歌というのが、子どもたちの心に沁み入ったと思います。
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