・説教 「心からの言葉」 マタイの福音書5章33-37節
鴨下直樹
今、マタイの福音書の山上の説教から順に御言葉を聞き続けています。主イエスはここで律法学者やパリサイ人にまさる義とは何かということを六つの視点で語っておられます。そして、今日の箇所はその四番目に当たります。殺してはならない、姦淫してはならない、そして離縁に関する教えを語られ、つづいて「偽りの誓いを立ててはならない」という戒めについて語られます。姦淫と離縁というのは、いずれも誓いをするということと深く結びついています。ですから、これに続いて、主イエスがここで誓いについて話されたのは当然の順序であるといえるかもしれません。
誓いをするということは、私たちの生活を振り返ってみますと、それほど多くないと感じているかもしれません。スポーツを行う前に選手宣誓などということをいたしますし、裁判の場所で誓約するということがすぐに頭にでてくるかもしれませんが、いずれも日常の生活では多くはないと思います。私自身のことを考えてみますと、誓いというのは、大人になってよりも子どもの頃の方がよくしたのではないかと思えるほどです。「指きりげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指きった。」などという誓いを、子どものころ遊びながらよくさせられました。みなさんもそういう経験がおありになるのではないかと思います。先週の説教でも触れましたけれども、結婚式で誓約をいたします。あるいは牧師が就任するときにも誓約をいたしますし、あるいは、会社に入社する時や、何高額な商品を買う時にも誓約書などというものを交わします。そのように考えてみますと、誓約というのは私たちの生活の様々な場面でしていると言えると思います。
ところが、子どもの頃から今日に至るまでそうかもしれませんけれども、私たちは口で誓約するということをそれほど大切に考えていないと言うことができます。政治家たちがすでにそうです。国会で、証人喚問などという場面で誓約をいたしますけれども、誰も事実を証言しているなど思っていません。そのような時の誓約というのは形式上しているだけのことだとどこかで考えているのです。言ってみれば、建前でしていると考えるのです。それは子どものころからそうです。その場を取り繕って指きりをするのですが、約束した通りできるかどうかはその時になってみなければ分からないと考えているのです。
そもそもなぜ誓約などという儀式が生まれたのでしょうか。 (続きを読む…)