・説教 ルカの福音書16章1-13節「不正な富の用い方」
2025.02.23
鴨下直樹
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私ごとから始めて恐縮なのですが、この一週間この聖書箇所にずいぶんと悩まされてきました。手元にある本を何十冊読んだか分かりません。この聖書箇所は難解な箇所としてよく知られているのですが、実に、さまざまな解釈が存在します。同じように読んでいる人は一人もいないと言ってもいいくらい、それぞれが、まるっきり読み方が違うのです。
聖書朗読をお聞きになられて、皆さんもこれが何を語っている話なのか、すぐには理解できないのではないかと思います。というのは、聞いていて引っかかる箇所がいくつもあるのです。
ある管理人が「主人の財産を無駄遣いしている」という訴えから話が始まります。この管理人は「不正な管理人」と8節で命名されています。この「不正な管理人」は、「主人のお金の無駄遣い」がバレてしまって、首を宣告されます。ところが、まだ取引先のお客さんは、その管理人が首になったことを知りませんから、証文を安く書き換えてやることで、恩を売って自分が失職した際に家に迎え入れてもらおうと画策したという譬え話を主イエスがなさいました。どうみても、不正のうえにさらに不正を働いているわけですが、主人は、これを知ってこの「不正な管理人を褒めた」というのです。
皆さんはこの話を聞いて、どう思われるでしょうか? ここに出てくる不正な管理人というのは、不正に不正を重ねて自己保身のために知恵を使った人物です。ここで主イエスが「この人はやがて裁かれるのだ」とか「こういう人の末路は惨めなものだ」と仰ったのであれば理解することもできます。しかしもし本当に主イエスが褒めておられるのだとしたら、真面目に、誠実に生きようとしているのが馬鹿みたいです。そもそも主イエスがこんなことを仰るなんて、きっと何か理由があるはずで、ここで語ろうとされている福音は何なのかが気になって仕方がないのではないでしょうか。
主イエスのなさる話というのは、いつもそうですが予想のはるか上をいっている感じがします。「主人がほめた」のだとしたら一体何を褒めたのか? あるいは、そもそも褒められているわけだから、この管理人のしたことは実は悪いことではなかったのではないか? と、それらをめぐって実にさまざまな聖書解釈が存在します。
たとえば、「この管理人の主人は債務者に膨大な税をかけて証文を書いていたので、この管理人はそれを健全な金額に直してやった」そういう話ではないかと読む人たちがいます。あるいは「そもそも、この管理人が本当に無駄遣いしていたかどうかの審議もされないまま、いきなり主人に首の宣告をされているけれども、この管理人が不正をしたかどうか断言できるものがここには書かれていない」そんな説明をする人もいます。「訴えを起こした人の悪意、そんなこともあり得る」そう語っている説教者もいるくらいです。
こういうさまざまな解釈を読むと、それが正しいのかどうか一応調べてみなければなりません。そのために、本当に膨大な資料に目を通しました。けれども、さまざまな解釈が正しいのかどうかを判断するために時間を使っていると、話の核心からどんどん遠ざかっていくようで、変な解釈に長時間付き合わされているうちに、ますますよく分からない気持ちになるのです。
今日はできるだけシンプルに話したいと思うのですが、いかんせん話がシンプルではないので小難しい話になったらお赦しいただきたいと思います。先に、お断りしておきます。
さて、冒頭の1節では「イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。」とあります。この16章を読むのに大切なのは、この話は弟子たちに向けて主イエスが話されたことだということを、まず押さえておくことです。
さて、この1節で「無駄遣いしている」という訴えの言葉があります。これは、この前の15章の放蕩息子の譬え話の中で、「財産を湯水のように使ってしまった」と訳されている言葉と同じ言葉です。ですから、「無駄遣い」というとあまり多くの金額ではないような印象を受けますが、この管理人は、主人の財産のかなりの金額を「散財していた」ということです。
問題は、ここでこの管理人が、どうふるまったかです。この人は、主人から管理の仕事を取り上げられようとしているが、力仕事もできないし、物乞いもしたくない。そこで、失職した時に自分を迎え入れてもらうために、証文を書き直してやるという方法を思いついたというのです。しかも、ここで書き直してやった証文の規模がとてつもない量です。「油100バテ」というのは、4千リットルの油です。大型トレーラー1台分の量にあたるような債務を、その半分の50バテに書き直してやったのです。「小麦100コル」というのは、もっと多くて4万リットル。1リットル1キロで考えると、40トン分、10トントラック4台分の小麦ですが、これも2割引いてやったというのです。尋常ではない量を勝手に免除してやっているのです。
ここも、いろいろな聖書解釈があるのですが、主人が不当に得ようとしていた金額を減らしてやったとか、自分がもらうべき収益分を減らしてやったのであって、主人に損はさせていないのではないかという読み方をする人たちがいます。というのは、この後の主人の反応を見ると、それほど怒っているようには見えないし、牢獄にも入れられていないから、主人も納得したのではないかというのです。ただ、こういう解釈はちょっと根拠が薄いと私には思えます。やはり、普通に読めば、主人に損害を与えてでも、自分が生き残れる道を模索したと考えるのが普通です。
さて、そうすると問題なのは、なぜ主人がこの管理人のしたことを知って褒めたのか? ということです。
水曜日と木曜日の祈祷会でも、このことに関して実にさまざまな意見が出てきました。「そもそも主人には内緒で勝手に減額して恩を売ったとしても、悪いことをする人だとバレている人を果たして家に迎え入れるのか?」という意見もありました。自分も騙されるリスクがある人を果たして迎え入れてやるだろうかというわけです。あるいは、「この管理人は減らしてやったが、本当に悪いやつというのは証文の額を増やして、そのお金を着服するわけで、そうしなかったのだから、悪者ではない」とか、まぁ実にユニークな意見が出てきました。
この譬え話の難しさはいくつかあると思いますが、「主人がほめた」というのはどういうことなのかが分かりにくいというのが、まず第一です。
その次に、第二のポイントですが、13節まで読んでいくとこの話は「神に仕えるのか、それとも富に仕えるのか?」という問いかけになっています。これが、どういう意味なのかが分かりにくいのです。
そして、私が一番理解し難いのは、三番目のポイントですが、この不正な管理人は、「小さなものに忠実」と言われているのですが、不正をしているわけですから「実際には忠実ではない」わけです。実際には忠実ではないのに、「忠実だ」と褒められているのはこれまたいかに? ここが、この譬え話の最大の難しさと言って良いと思います。
以上の三つのポイントを整理していきながら、この譬え話の中身について考えてみたいと思います。
先週の祈祷会で、私は8節と9節の「主人がほめた」というのは「主イエスの言われた嫌味ではないか?」と説明しました。そう読むと、理解し易いからです。9節の「彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。」というのも、ありそうもないことです。そもそも、この前の放蕩息子の譬え話では、お金を散財して、友だちと楽しんで、財産を食い潰してきた弟息子は、飢饉が起こった時に誰にも助けてもらえませんでした。その話を直前にしているのに、ここで不正な富で得た友達が「永遠の住まいに迎えてくれます」なんていうことはあろうはずがありません。そうであれば、これは「アイロニー」「皮肉である」と読む以外にないと思えるのです。
それで、先週の祈祷会で私は皆さんにそのようにお伝えしました。ところがです。たくさんの本を読んでも、これは「皮肉である」という聖書の読み方をしている人は全くといって良いほどいないのです。それで、困り果ててしまいまして、もう一度、丁寧にこの箇所を調べてみないといけないと思って、かなりの時間を費やして手元にある資料に片っ端から目を通しました。
少し難しい話になるかもしれませんが、そもそも、この譬え話というのは1節から7節までで終わっています。また、この前の15章の三つの譬え話というのは、それぞれの譬え話の説明は書かれていません。譬え話だけ単体です。ところが、この「不正な管理人」の譬え話は、7節で終わった後、8節から9節まで主イエスがこれに対して解説をされています。8節の冒頭にある「主人」という言葉は、譬え話に出てくる「主人」のようにも読めますが、ここは「主」と同じ言葉ですから「主イエスのこと」として読める箇所です。
そして、そこに10節から13節の解説が続きますが、そこではこの話は「小さなことに忠実な人は大きなことにも忠実」というメッセージが語られています。
ここまでくると、10節以降は別の話、と分けて考える人が少なからず出てきます。神に忠実か、富に忠実かという「忠実」をテーマにした話は、9節までのテーマと若干異なると理解するわけです。そうすることで、私が最後に問題にした、「不正な富の使い方について褒めているけれども、それが忠実かどうかという話」は別の話として、一緒には考えないことにするわけです。そうすれば、主人が何について褒めたのかという話に集中できると考えるのです。けれども、この10節から13節を別の話として読み進めるのは、私としては無理があると思います。
少なくとも、このルカの福音書の最初の読者であるテォフィロは、私達のように教会で毎週ルカの福音書を切り分けて読んでいるわけではなくて、一連の話として読むわけですから、その次の14節以降もそうですけれども、これは話が続いているとして読む必要があります。
では、もしこの話が皮肉ではないとしたら、そして13節までが一つの流れだとして読むとしたら、どう考えたら良いのか。私も、自分の聖書の読み方がどこか間違っているかなと自信がなくなりまして、ギリシャ語から丁寧に見てみることにしました。すると、いくつかキーワードがあることに気が付きました。
ここでの大切なキーワードの一つ目は「迎えてくれる」というギリシャ語「デコマイ」という言葉です。そして、この「不正な管理人」の譬え話の中心にあるのは「迎えてくれる」場所の確保であるということが、うっすらと見えるようになります。
というのは、主イエスはこの譬え話を弟子たちに向かってお話しになりました。15章の三つの譬え話を聞いていたのは、パリサイ人たちや律法学者たちでしたが、主イエスは、「自分たちは大丈夫」と高を括っていた弟子たちに向かってお話になられたのです。だとすると、弟子たちに気づかせたいメッセージがあるわけです。
8節に「主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。」とあります。もし、これが嫌味を言ったのではないとすると、主イエスがここで褒めておられるのは何かを考えなければなりません。ここでイエスが褒めておられる点は「賢さ」にあるわけですが、8節の後半にはこう書かれています。「この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。」
ここにはまず、「この世の子ら」と「光の子ら」という言葉が出てきます。「光の子ら」はこの場合、弟子たちというになります。弟子たちより、この世の人たちの方が賢い。どこが賢いかというと、「迎え入れてくれる場所を確保しようとしている」つまり、なんとしてでも、自分の将来の居場所を確保する必要があると考えている。主イエスが褒めておられるとすれば、その点しか考えられません。
そうすると、問題は次の9節です。「わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。」
ここも、私には主イエスが嫌味で言われたようにしか読めないのですが、もし、これが嫌味でないとするとどういうことなのでしょう。ここにも「永遠の住まいに迎えてくれます。」とあります。「永遠の住まいに迎えてくれます」ということが、結論として書かれていることになります。この部分を主イエスは良しとされているのです。つまり、この世の人でも、自分のための永遠の住まいを求める賢さがあるが、弟子たちにはその姿が見られないと仰っているわけです。そして、そのことを弟子たちに気づかせようとなさっていると読むことができます。
ここまで説明をしていますが、私自身まだここで納得したわけではないのです。というのも、そうは言ってもこの箇所にも、いろいろと引っかかる言葉があるからです。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。」とあります。「不正の富」というのは、「この世の富」のことです。この「富」という言葉は「マモン」とか「マンモン」という言葉です。もともとの意味は「頼りになるもの」という意味があります。それは「お金」と結びついていると考えられがちなのですが、この「富」というのはお金だけではありません。「頼りになるもの」というわけですから、「健康」もそれに含まれるし「学歴」も「富」です。「社会的地位」も「富」です。あるいは、「家族」さえも「富」の中には含まれていると考えられるわけです。
そうすると「不正の富」とありますが、「不正」というのは、「この世の」という意味であって、「悪いもの」と考える必要はない言葉だということが見えてきます。けれども、「富」「マモン」と呼ばれる、さまざまな私たちが頼りとするものは、偶像化する危険を孕んでいるとも言えると思うのです。
そうだとすると、「富」を用いて「友を得る」という生き方はどうなのかということを考えなければなりません。主イエスはここで何を語ろうとしておられるのでしょうか。
10節以下で「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」とあります。これが続く11節だと、「小さなこと」が「不正の富」と言い換えられていて、「大きなこと」は「まことの富」と言い換えられていることに気づきます。
ここで、二つ目のキーワードが出てくるのです。それは「不正」という言葉と「不忠実」という言葉です。実は、この二つの言葉は、ギリシャ語では同じ言葉が使われていて、「アディコス」という言葉です。ちなみに「忠実」という言葉はどういう言葉かというと、「ピストス」という言葉です。つまり、日本語では「不忠実」と訳されているのですが、もともとの言葉は、「不正」という言葉が使われているのです。「小さなことに不正を働く人は、大きなことにも不正を働く」と書かれているのです。
私たちは、「不正」の反対は「正しいこと」と考えます。頭の中で自動的にそう考えます。けれども、不正に打ち勝つためには「神に対する忠実さ」に生きるということが、ここでは問われているわけです。「間違ったことをしない」ではなくて、「神に誠実に生きる、忠実に生きる」ということです。
そして、まさにこの点を主イエスは弟子たちに求めておられるのです。「不正を働かないことが良いこと」とするのではなくて、神に対して誠実であることを、主はここで弟子たちに求めておられるのです。
私たちは、この世の中にあって、多くの富を与えられています。それは「不正の富」ではなく、神から託された「富」です。神は、私たちを信頼してくださっているので、私たちにその人に応じて、さまざまな富を託してくださいます。ある人は「お金」を、ある人は「健康」を、ある人は「社会的地位」を、そしてある人は「すばらしい家族」を与えられています。それらの「富」をどう用いるか、それは私たちに託されています。そこで、私たちに与えられている「小さな富」に忠実であること、神が期待されているように、その富を用いることが期待されていると仰っているのです。
私たちに与えられている「富」、「マモン」という言葉は、そのまま偶像の名前になるほどの強い誘惑を秘めたものです。「マンモニズム」「拝金主義」という言葉があります。これは、この「富」、「マンモン」とか「マモン」から生まれた言葉です。「マモン」「富」というのは、このように偶像化する危険を孕んでいます。けれども、その「富」をすべて「悪」と決めつけるわけにもいきません。私たちに与えられている「富」というのは「神から与えられた豊かさ」でもあるからです。
つまり、私たちの主は私たちに富を与え、多くの良いものを与えて、それらの富を用いて、誠実に生きることを願っておられるお方です。私たちは「光の子ら」です。光をこの世にもたらす者として、神からさまざまな恵みをいただいています。これらの「富」を使って、神に忠実に生きることを、主は弟子たちに気づかせようとしておられるというのです。
主イエスは言われます。13節です。「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」
主イエスがお伝えになりたい心は、まさにこの13節に記されています。神か、富か、という基準ではなく、私たちに示されているのは神に仕えるという、その一つの道です。そして、この神に仕える道というのは、この世の富を正しく用いながら神に従っていくという道なのです。
今日は、このあと教会総会が行われます。そこで私たちは、今年与えられている年間聖句を、もう一度心にとめようとしています。それは「すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。」という第一テサロニケ5章21節の御言葉です。
主は私たちに良いものを与えてくださるお方です。そして、私たちは、その良いものを用いて、主に対して忠実な者でありたいのです。私たち、この芥見キリスト教会にも、実に豊かな神から託された「富」が与えられています。これを用いて、神に迎え入れられる人々をこの主の御前に迎え入れていきたいのです。
お祈りをいたします。