2025 年 11 月 9 日

・説教 ヨハネの黙示録21章1-5節「涙を流すことのない天の御国で」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:19

2025.11.09
召天者記念礼拝

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 みなさんはヨハネの黙示録と聞くとどんな印象を持たれるでしょうか。「世の終わり」だとか、「誰にもどうすることもできないような悲惨な最期」が書かれているという印象を持っておられる方もあるかもしれません。もちろん、黙示録は、その後の時代の終わりに起こる神の裁きが語られている聖書の箇所です。そして黙示録の最後、つまり「聖書」の最後であるこのヨハネの黙示録の21章と22章では、この世界が最後の最後にどうなるのかが記されています。

 21章には、神が私たちに与えてくださる新しい天と地のことが記されています。この21章の1節にこう書かれています。

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 この黙示録を記したヨハネは神様からさまざまな幻を与えられます。最後に与えられた幻は、この世界が最後の最後にどのようになるかという幻でした。ここでヨハネはついに「新しい天と新しい地」とを目撃します。それが、いわゆる「天の御国」とか「天国」と一般にいう完成された世界のことです。

 この言葉の興味深いのは、ここに書かれている「新しい」という言葉です。この言葉はギリシャ語で「カイノス」という言葉が使われています。この言葉は、「絶対的な新しさ」を意味します。一般に使う「新しい」という言葉は「ネオス」という言葉を使います。英語の「ニュー」という言葉です。この場合の新しさは、その時には新しくても、やがて古くなっていってしまうものです。人間に使う場合は、「青年」などという意味にもなりますが、若々しさも時間の経過と共に失われていきます。お店などにいくと「NEW」とか「新発売」などと言いますけれども、新しく世に登場した商品も、その瞬間からすぐに古びていってしまう。それが、この「ネオス」、「ニュー」という言葉です。

 それに対して、ここで「新しい天と新しい地」と言う言葉に使われている「新しさ」「カイノス」というのは、絶対的な新しさ、古びることのない新しさを表す言葉です。神は、この「新しさ」でもって「新しい天と新しい地」によって世界を完成なさいます。この新しい天と地のことを「新しいエルサレム」とも言っています。これが2節に記されている「新しいエルサレム」です。この新しい世界は、「古いもの」と共存することができません。ですから、「以前の天と以前の地は過ぎ去り」と書かれているのです。つまり、今私たちが生活しているこの天と地、この世界とはまったく異なる新しい世界がやがて来るというわけです。

 旧約聖書のイザヤ書65章17節にこういう言葉があります。

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。

 今日の黙示録の言葉と同じ言葉が、すでに黙示録の書かれる何百年も前にイザヤによって語られていました。また、イザヤ書66章22節にはこういう言葉があります。

わたしの造る新しい天と新しい地が、
わたしの前にいつまでも続くのと同じように、
――主のことば――
あなたがたの子孫と、あなたがたの名も
いつまでも続く。

 この古くからイザヤを通して約束されてきた約束が、やがて将来において実現するというのです。

 この新しい天と新しい地というのは、今私たちが生きている世界である古い世界と相いれることはできません。だから、この聖書で語られている希望は、今いる世界が新しくなるというのではなくて、全く新しい世界が天から降ってくるのだと書いています。今日の2節にこう書かれています。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

 この世界にはこれまで「絶対」と呼べるものはありませんでした。なぜならこの世界のものは常に死に支配されていたからです。だから、この世界の新しいものは、作られたその時から古くなってしまう、死に向かって進んでいるのです。しかし、ついに神は天から絶対的なもの、それこそ「完成」とか「完全」と呼ぶにふさわしいものを与えられます。それこそが、「新しいエルサレム」とここで呼ばれている「新天新地」です。

 いったい誰がこの新しい世界、完全で絶対な世界にいるのかというと、神の前に招かれて、死を迎えた人たちは、みなこの新しい世界にすでに招かれています。なぜ、そう言えるのかというと、この新しい世界のことを3節で、積極的な言葉でこう表現しています。

見よ、神の幕屋が人々とともにある。
神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

 この「カイノス」という完全な新しい世界というのは、神ご自身が人と共に住んでくださる世界だと聖書はここで語っています。

 そして続く4節では、今度は消極的な表現、「何々ではない」という書き方で書かれています。4節。

神は彼らの目から、
涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、
悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
以前のものが過ぎ去ったからである。

 消極的な表現というのは「何々ではない」という表現の仕方です。ここでは、涙を流すことはなく、死ぬことはなく、悲しみもないし、叫び声もないし、苦しみもないとあります。まさにここに記されているのは、人の喜び、嬉しさ、希望がすべて書き記されています。
それこそが聖書が語る「新しさ」「カイノス」なのです。

 聖書は、その最後の黙示録でこの世界がやがてどうなるのかという、完成された姿を記すことで、私たちに希望を与えようとしています。

 ヨハネの黙示録21章3節と4節には、私たちの希望が詰まっています。

見よ、神の幕屋が人々とともにある。
神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から
涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、
悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
以前のものが過ぎ去ったからである。

 「世の光」という東海ラジオで放送されているキリスト教のラジオ放送があります。毎朝5分間の放送があります。そこで放送されたメッセージが、あとで一冊の本になって出版されます。昨年のラジオ放送の中に、この東海地区で働いておられる水谷潔先生がなさったこんな話が載っていました。

「以前、私が通っていた教会で一人のクリスチャン女性が余命数か月との宣告を受けました。その方は死を前にして、病床から教会の牧師に手紙を書きます。その手紙を読んだ牧師は、礼拝説教の中で、本人の承諾を得て手紙の一部を紹介して、永遠のいのちの希望を語りました。
『先生、病床で死を前にして、自分の葬儀のことをあれこれ考えています。賛美の選曲はどうしよう。お花はどんなのが素敵かしら、どうしたら残された人によい信仰の証しができるかしら。そう考えていたら、もう楽しくて仕方がありません。死んだらイエス様のところに行くのだと思うと、なおさら嬉しくなり、眠れなくなってしまいました。ちょうど、子どもの頃、遠足に行く前日に嬉しくて眠れなかった時のようです。死を目前にして、こんなに嬉しいなんて変なのですが、本当なのです』

 そんな内容の手紙だったのだそうです。死を前にしてどうしてそんなわくわくするような心持ちになるのか、不思議に思われる方もあるかもしれません。けれども、それは、今お読みした聖書にも描かれています。「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。/神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。/神は彼らの目から/涙をことごとくぬぐい取ってくださる。/もはや死はなく、/悲しみも、叫び声も、苦しみもない。/以前のものが過ぎ去ったからである」

 聖書の最後の最後に、このような希望が描かれています。もう、そこには私たちを悲しませるものは何もない。絶望することもなく、涙を流すこともなく、死の不安もそこにはないのです。主が共にいて、またそこに多くの主イエスと共に歩みをしてこられた方々がいるのです。天の御国では神が一緒に住んでくださっていて、そこには死はもはやなく、人は涙をながすこともない、悲しみも、叫び声も、苦しみもない、そんな世界がここには描き出されてるのです。

 今、私たちはすでに天に引き上げられていった、愛する家族の方々、教会の仲間の方々である召天者のことを覚えて礼拝を捧げています。私たちが天に送り出したその家族の、あるいは信仰の友であったそのお一人お一人は、今、私たちが生きている世界とは全く異なる、完全な新しい天と新しい地で、神と共に住んでいると聖書は語っています。だから、安心してください。大変なのは、なおもこの世界で生きなければならない私たちの方です。けれども、この私たちも召天者記念のたびに、こうして将来を見据えながら、私たちも希望を抱くことができるのです。そして、また、ここに集っている私たちも同じです。この主は、今も私たちと共にいてくださいます。主は私たちにも寄り添ってくださり、私たちの涙をも拭い取ってくださるお方です。

 この黙示録21章の次の5節にはこう書かれています。

見よ、わたしはすべてを新しくする。

 天の御国では、そこに招かれた人はみな、完全に新しい人とされて、これまでの病や苦しみや涙から解き放たれて、永遠の平安の御国に生かされているのです。「すべてが新しくなる」のです。ここに、私たちの慰めがあり、希望があります。

 この地上にある私たちには、別れの悲しみがあります。喪失の悲しみがあります。もっとああできたのではないか、こう関われたのではないか、いろんな後悔の思いが浮かびます。けれども、天に招かれた人たちは、今、完全な喜びの世界に生かされています。ですから、この希望を持って、私たちは天を見上げつつ、私たちもこの地にあって主を見失うことのない歩みを新たにしていきたいと願っているのです。

 お祈りをいたします。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.164 sec. Powered by WordPress ME