・説教 マルコの福音書8章31節-9章1節「弟子となるためには」
2026.02.08
内山光生
それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」
マルコ8章34節
序論
マルコの福音書を二つに分けるとすると、1章から8章30節まで、つまり、前回の箇所までが前半部分となります。そして、残り8章31節から最後までが後半部分となります。前半部分は、イエス様が人々の前で福音を語りつつ、愛のあるみわざをなした事、また、奇跡を行なったことが中心となっています。一方、後半部分は、イエス様の受難、つまり、十字架に関する事が中心となっています。
そして、今日の箇所は、後半部分にどのような事が書かれているかについてが、まとめられています。細かく見ていくと、同じところから2回も3回も説教が語れる程に密度の濃い内容が記されています。
それで今回、私自身がどの部分を強調して語っていこうかと思い巡らしたところ、「自分の十字架を負う」とはどういう事なのか、その部分をしっかりと伝えてきたいと考えたのです。というのも、多くの人は、この言葉をどこかで聞いたことがあるものの、イエス様が私たちに伝えようとしている本当の意味を理解している人は少ない。かくいう私自身も、すぐに「こういうことですよ」と答えることができない現実に気づかされたからです。タイトルは「弟子となるためには」ですが、中心ポイントは「自分の十字架を負うとはどういうことか」です。
I 受難の予告を受け止めることができなかったペテロ(8章31~33節)
では8章31節から順番に見ていきます。
前回の箇所では、ペテロがイエス様に対する信仰告白を致しました。ペテロはイエス様に「あなたはキリストです。」と告白することができたのです。これは、まさに模範解答と言えるのです。けれども、ペテロが思い描いていた「キリスト」とイエス様が示そうとしている「キリスト」との間には、大きな隔たりがあったのです。
イエス様は、ペテロを始め弟子たちが皆、この段階では、「キリスト」であるイエス様の身に何が起こるのかを理解できていないことは分かっていました。また、「キリスト」の意味が正しく理解されないことも分かっていたのです。しかし、いつまでもオブラートに包んでおくわけにはいきません。それで、ようやく、かなり具体的なことを語りだされたのです。
イエス様は「人の子は多くの苦しみを受け」と言っています。しかも、誰から苦しみを受けるのかを示しています。「長老たち、祭司長たち、律法学者たち」に捨てられると明言しているのです。捨てられるだけでなく殺されるとも言ったのです。ところがイエス様の弟子たちは、その言葉を素直に受け止めることができなかったのです。でもイエス様の話を最後まで聞いているならば、殺されて終わりではなく「三日後によみがえらなければならない」と言っているのです。つまり、最終的には勝利がやってくるのです。けれども、イエス様の弟子たちでさえも、イエス様がよみがえられた後まで、この言葉の意味を悟ることができなかったのです。 (続きを読む…)
