2024 年 8 月 18 日

・説教 マルコの福音書2章23-28節「人の子は安息日にも主です」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:24

2024.8.18

内山光生


序論

 我が家では、毎年、夏になると私の実家の三重県桑名にあります「多度滝」に泳ぎに行くのが恒例となっています。そして先週、実家に行く次いでに泳いできました。

 そこは川がせき止められて泳げるようになっていて、「天然プール」と呼ばれています。、プールと言っても深さがせいぜい80センチ程度で、どちらかというと小学生、あるいは幼稚園児・保育園児にちょうど良い深さとなっています。

 その天然プールの特徴は、水温が低いという事です。だいたい20度くらいの水温でしょうか。最初、水につかる時、とても冷たいと感じるのですが、しばらくすると心地よい感じとなっていくのです。だから、猛暑と呼ばれるここ数年、ますます、利用客が増えているようです。ちなみに、入場料は無料ですが、駐車場代が1000円かかります。

 芥見からは2時間近くかかるので遠いと思いますが、もしも三重県方面に行くことがあれば、ぜひ、お出かけください。

I 主イエスの弟子たちの行動を非難するパリサイ人(23~24節)

 では23~24節から見ていきます。

 23節で、イエス様の弟子たちが麦畑で麦の穂を摘んでいました。しかしながら、その日は安息日だったのです。当時のイスラエルでは、他人の畑であっても、道具を使わなければ、たとえば鎌などを用いなければ、多少の麦ならば摘んでも良いとされていました。それは、貧しい人を助けるという教えがイスラエル全体に広まっていたからです。

 ですから、弟子たちは他人の麦畑で麦の穂を摘んでいましたが、それ自体は悪いことをしている訳ではありませんでした。問題なのは、「安息日に仕事をしてはならない」という教えをどのように理解しているかでした。

 パリサイ人たちは、イエスという人物が律法の解き明かしをしていて、人々から良い評判を得ていることにいらだっていました。おそらく、同じ宗教家としての嫉妬心がでてきたのでしょう。そして、イエス様の行動に何か問題を見つけ出して、文句を言ってやろうと思っていたのです。ところが、イエス様の行動には、なかなか落ち度を見出すことができません。それで、イエス様の弟子たちの行動に目をつけたのです。

 推測ですが、イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んでいたのは、今回が初めてではなく、何度も何度も繰り返していたと思うのです。そして、すでにパリサイ人たちは、そのことを知っていたのでしょう。それで、彼らは安息日に主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んでいるのを見つけるや否や、イエス様に対して文句を言ったのです。

 「なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのですか。」と。

 当時のパリサイ人たちは、旧約聖書の教えだけでなく、彼ら独自のルールを作っていました。そして、安息日に具体的に何をしてはならないかを決めていました。ですから、彼らにとっては、安息日に麦の収穫をすることは禁止事項であり、大いに問題があると理解していたのです。一方、イエス様の弟子たちは、安息日であっても、お腹がすきます。だから、手で麦の穂を摘む程度ならば、ルール違反ではないと考えていたのでしょう。もしも、その行動がルール違反と分かっていたならば、弟子たちは安息日に麦の穂を摘まなかったと思うのです。つまり、弟子たちは悪いことをしているという意識がなかった一方、パリサイ人たちにとっては、明らかにルール違反であり、両者の考えが対立していたのです。

 そこでイエス様はパリサイ人たちの文句に対して反論していきます。 

II 主イエスの応答その1(25~26節)

 25~26節に進みます。

 旧約聖書のサムエル記には、ダビデとその供の者たちが、敵から逃れるためにいろんな場所をさまよっていた事が記されています。そして、食べ物がなくて死にそうになった時がありました。その時、ダビデとその供の者たちが食べてはいけないパン、つまり祭司だけが食べることが許されているパンを食べた出来事がありました。イエス様は、それを引用してパリサイ人たちに反論していくのです。

 確かに、祭司以外に食べてはならないパンを食べることは、良くない事です。けれども、人が生きるか死ぬかという場面に立たされている時はどうなのでしょうか。

 イエス様は、ルールを守ることは大切だと考えていますが、しかし、特別な状況、つまり、人の命がかかっている場合は、人の命の方を優先させる必要があることを示そうとしているのです。

 すなわち、確かに安息日に麦の穂を収穫するのは避けるべきことです。けれども、人々が空腹を満たす程度の麦を手で摘むぐらいならば、ルール違反ではないと言っているのです。

 当時のパリサイ人たちの安息日に関する考え方は、本来の神様の考えと異なっていました。パリサイ人たちは、麦の収穫だけでなく、細かいルールを作っていきました。そして、それらを守っているならば、神様に対して忠実であるとみなしていました。反対に、ルールを守らない人間は、非難されるべき対象となっていたのです。

 イエス様は、これらの考え方に修正を加えようとしているのです。

 問題の本質は、安息日に麦を収穫したかどうかだけでなく、安息日がどういう日だと理解しているかにかかっているのです。 

III 主イエスの応答その2(27~28節)

 27節に進みます。

 イエス様は、パリサイ人たちが人々に守らせようとしていた安息日に関する細かいルールは、神様の意図に反するものだと言っているのです。そのようなルールは、人を苦しめ、生活を不自由にさせているからです。

 神様は、私たち人間と霊的な交わりを持つことを願っておられます。しかしながら、生まれながらの人間は罪ある存在であって、そのままでは神と交わりを持つことができません。けれども、イエス・キリストの十字架の贖いによって、イエス様を自分の救い主だと信じる事によって、神との交わりが回復するのです。

 そして、神との交わりが回復したその人は、1週間の内の一日を神様に礼拝する時として過ごすようにと安息日が定められているのです。安息日は、人間が休息を取るために必要なもので、神が定めたものです。そして、その休息の日に神と霊的交わりを持つことが本来の安息日の過ごし方なのです。

 もちろん、今の時代においては、職業上の理由から日曜日に休むことができない方々もおられます。例えば、医療関係の方々や、鉄道やバスなどの公共交通機関に勤める方々は日曜日ではなく、別の日に休みを取る場合もあるでしょう。そういう中にあっても、週に一度は、神様と霊的交わりを持つことが、神様の願いなのです。

 神は私たちと霊的交わりを持つことを願っています。すなわち、私たちが神に礼拝をささげる事を願っています。また私たちが神に祈りをささげることを願っています。また私たちが聖書の言葉を通して神様との関係を深めることを願っておられます。

 けれども、それらの霊的交わりを単なる義務にしてしまうならば、神様の願いとは正反対のものとなってしまいます。

 ある人々にとっては、教会の礼拝に行くことが義務のように感じてしまう、そういう時があるかもしれません。私も20代前半の頃、礼拝に行くことを義務のように感じて、苦痛に感じることがありました。ですから、義務感を感じてしまう、その人の気持ちは多少は理解できます。でも、もしもそのような気持ちが修正されなかったとすれば、たとえ礼拝に集っていたとしても神様が与えようとしている祝福を受けそこなっていることになりかねないのです。ですから、私たちは、礼拝を通して神様が私たちに大いなる祝福を注いで下さっていることに目をとめると良いのです。それに気づく時、霊的喜びで心が満たされていく事でしょう。

 また、イエス様を信じる信仰を持って間もない人々は、しばしば、クリスチャンらしい生き方をしようと努力をします。もしもそれらの行動が、聖霊の助けによって自然と実行できるようになったものならば、それはすばらしい事ですが、自分の努力に頼っているならば、それらの努力がストレスとなって、かえって、神様との関係が悪くなる危険があります。自分の行動を見て一喜一憂してしまうからです。そして、失敗ばかりする自分の姿に情けない気持ちとなったり、自分を自分で責めたりして、教会から足が遠ざかってしまう事があるのです。それらは多くの人が一度は経験することであって、私自身も10代の頃に苦しんでいた時期があります。

 私たちはいわゆる律法主義に陥る時があります。しかし、それから解放され自由な信仰生活を送ることができるようにと神に祈り求め、そして、神様の愛がよく分かるようになることを願うと良いのです。私たちが神の愛の大きさに触れる時、心が作り変えられ、み言葉を実行する知恵や力が与えられるからです。

 パリサイ人たちが作り上げていった安息日に関する細かいルールは、人々が神との交わりを深めるどころか、かえって、神との関係を遠ざけるものとなっていました。そして、私たち自身も注意しないと同じような過ちを犯してしまう危険があるのです。

 確かに、聖書を読むときに、自分の罪が示されます。そして、どのような考え方をすれば良いか、あるいは、どのような行動を取れば良いかのガイドラインが聖書に示されています。それらは、誰かから強制されるものではなく、また、自分の努力によって行うものではなく、あくまでも、神様の恵みによって、聖霊の助けによって実行可能となるものなのです。ですから、私たちは、神が喜ばれる歩みができるようにと、日々の祈りの中で祈り続ける、そういう中で、いつの間にか、自分の考え方や行動に変化が起こっていくのです。

まとめ

 28節に進みます。28節をお読みします。

 「ですから、人の子は安息日にも主です。」

 この言葉は、後にパリサイ人たちのイエス様に対する怒りを増幅させるものの一つとなっていきます。というのも、この言葉の意味は、人の子であるイエス・キリストは安息日にどのように過ごせば良いかを示すことができるお方だと言っているからです。

 つまり、安息日とは、パリサイ人たちの定めた細かいルールを守るのではなく、神様との交わりを持つためにある、ということを示したからです。

 安息日を守ることは大切な事です。しかし、守ると言ってもパリサイ人たちが作り上げた細かいルールを守ることではなく、むしろ、神様と霊的交わりを持つことによって、心と身体を休息させる事が神様の本来の意図なのです。

 日曜日に奉仕がたくさんある方もおられると思います。そして、礼拝は多くの人々の奉仕によって成り立っています。そういう中で、なんらかの事情で奉仕をささげる事が辛いと感じることがあるかもしれません。私自身は普段は奉仕が重荷となる事はありませんが、しかし体調が悪い時などは、辛いと感じることがあります。それは人間だから、ある意味しかたがないことだと思います。けれども、心を神様に向けていく時、そして、神様から大いなる祝福が与えられると期待する時、精神的な疲れや肉体的な疲れが取り除かれていくのではないでしょうか。

 クリスチャンであっても、その時の霊的状態に温度差がある事でしょう。それゆえ、神様の愛があまり心に響かない時もあるかもしれません。聖書の言葉が自分のための益となると頭では分かっていても、心がついていなかい時があるかもしれません。しかし神は私たちのそのような弱い性質をご存じであって、その弱ささえも受け止めて下さるお方なのです。大切なのは、神様に対する信頼を保ち続けることなのです。今、自分はあまり良い状態ではない、しかし、神様がそこから引き上げて下さる、神様が助け出してくださる、このことを信じ、イエス様から目を離さないようにすることです。

 安息日、それは、私たちが神との関係を深める大切な時です。神様が与えようとしている大いなる祝福を受け取る絶好の時です。ですから、1週間の内にこの大切な一日が祝福された時となるようにと祈っていきましょう。  
                
お祈りしましょう。

 

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