・説教 マルコの福音書5章1-20節「良い知らせを伝えなさい」
2025.03.15
内山光生
しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」
序論
今日の箇所は、いつもより長めとなっています。よく知られている出来事ですので、「あっ、この箇所か」と思う方が多いのではないかと思います。全体が長いということもあって、あまり細かい所までは見ていくことができないですが、なるべく丁寧に解説していきたいと思います。
I 汚れた霊につかれた男性(1~5節)
まず1節から5節を見ていきます。
イエス様と弟子たちは、ガリラヤ湖を渡って反対側の岸、すなわち、東岸にやってきました。到着した場所はゲラサ人の地と呼ばれていました。その地は、いわゆるユダヤ人ではなく異邦人が住んでいる地域でした。それゆえ、今までに経験した事のないような困難やトラブルが起こる事が予想できたのです。
ゲラサ人の地においてイエス様と弟子たちを待ち受けていたのは、汚れた霊につかれた人でした。イエス様は、以前にガリラヤ地方において、多くの悪霊で苦しんでいる人々を解放してきました。けれども、今回の場合は、今までとは様子が異なっていました。すなわち、すでにイエス様が助けてきた人々よりも、遥かに状態の悪い人と出会ったのです。その汚れた霊につかれた人は、なんと墓場に住みついていたのです。
どこの国においてもそうなのですが、墓場というのはさみしい場所であって、その周辺にはあまり人が住まないものです。もちろん、住宅街の一角に墓場がある、そういう場所もあります。また、お寺さんの敷地内に墓があったりしますが、一般的には、墓場の中に住みつく人というのは、めったにいないのです。
どうやら、この汚れた霊につかれた人は、あまりにも狂暴で誰かに危害を加える危険があったと思われます。それで、人々が自分たちの安全を守るために、無理やりその人を墓場に連れてきたようです。そして、彼に足かせと鎖をつなぐ事によって、隔離しようとしていたのです。ところが、この人は、足かせと鎖をひきちぎって、辺りをうろついていたのです。彼は墓場や山で叫び続け、更には、石で自分のからだを傷つけていたのです。
周辺の町や村に住んでいる人は、この人の事で頭を悩ませていたと思うのです。いや、当の本人も、苦しんでいたのだと思うのです。叫び続けたり、自分のからだを傷つけるというのは、それを見た人は、なんとも複雑な思いにさせられた事でしょう。一部の心優しい人は、かわいそうにと思って、なんとかして助けてやりたいと思ったかもしれない。しかし、どうやって助ければいいか分からない、そういう問題にぶちあたった事でしょう。一方、多くの人々は、気分が悪くなると感じて、目をそらしたり、近寄ろうとしなかったと思うのです。
多くの人々は、不気味な雰囲気を漂わせている人を見ると、距離を置いてしまうのです。ですから、誰もこの汚れた霊につかれた人を助けようとしないし、それどころか、彼を見ると、皆、逃げていく、そういった情景がイメージできるのではないでしょうか。一方、この汚れた霊につかれた人は、孤独な状態にたたされていて、精神的に非常に辛い思いとなっていた事でしょう。
私たちというのは、どうしても自分や自分の家族の身の安全を大切にしようとします。それゆえ、乱暴で大きな声を出している人とは関わろうとしない、そういう態度を取ってしまうのです。それは、しかたがないと言えばしかたがない。しかしながら、神様は、どのような酷い状況に立たされている人であっても、その人の存在を決して忘れていない、そこに気づくことができればと思うのです。
私たちクリスチャンでさえ、時には、あんな恐ろしい雰囲気の人とは関わりを持ちたくないという気持ちが出てくる事がある。しかし、神は苦しみの中にあって助けを必要としている人に愛の御手を差し伸べることができるお方なのです。ここに神の愛の大きさと人間の愛とに大きなギャップがあることに気づかされるのです。
II 汚れた霊を追い出そうとする主イエス(6~8節)
6~8節に進みます。
この汚れた霊につかれた人は、自分の方に向かっている人がイエス様だという事に気づいて、自らイエス様に近づいて行ったのです。ところが、イエス様は、その人の背後に汚れた霊がとりついていることを察知し「汚れた霊よ、この人から出ていけ」と言われたのです。
それに対して、この人は「いと高き神の子イエスよ」と呼びかけて、「私を苦しめないでください。」とお願いしたのです。
多くの人々はイエス様が神の子だということに気づいていませんでした。一方、不思議な事にこの汚れた霊は、イエス様が神の子だという事実を知っていたのです。そして、イエス様に逆らうことができない事も分かっていたのです。
前回の箇所では、イエス様による嵐を静める奇跡が記されていました。つまり、イエス様には自然界をも支配する力があることが示されていたのです。で、今回の箇所では、イエス様には汚れた霊を支配する力があるという事が示されているのです。そして、汚れた霊どもが、イエス様の持っている権威についてよく分かっていたことが明らかにされています。すなわち、この福音書を書いたマルコは、「汚れた霊を支配する、そのような権威があるイエス様は、神様なんだ」ということを私たちに示そうとしているのです。
III 豚に送ってほしいと願う汚れた霊(9~12節)
9~12節に進みます。
イエス様は汚れた霊につかれた人との会話を繰り広げていきます。「おまえの名は何か」と尋ねるのです。すると、「レギオンです。」という答えが返ってきたのでした。レギオンとは4千人から6千人もの軍隊を意味する言葉です。
このことを踏まえて考えると、汚れた霊につかれた人には、少なくとも何千もの数の悪霊がとりついていたと推測できます。この数は、とてつもなく大きいものです。ですから、周りの人間がなんとかして助けようとしても、どうすることもできなかったのは当然の事だったのです。これほどまで多くの悪霊にとりつかれているならば、もはや、神様の力なくして、どうする事もできない、そういう状況にたたされていたのです。
汚れた霊どもは、イエス様には自分たちをどこかに移動させる権威があることを分かっていました。それで、近くに飼われていた豚の群れの中に移動させてもらいたいと願ったのです。それに対して、イエス様は汚れた霊どもの願いを聞き入れるのです。
IV 願いを聞いた主イエス(13節)
13節に進みます。
それでイエス様は、汚れた霊どもが豚に移動する事を許可したのです。その結果、2千匹もの豚の大群の精神状態がおかしくなって、湖の方になだれ込んだのです。そして、豚たちは、おぼれ死んだのでした。
このような出来事は、あまりにも強烈な印象を残すものであって、一度、聞いたら二度と忘れることができないものです。それゆえ、一瞬にして、何が起こったのかが周辺の人々に広められていったのです。
V 目撃していた人が驚く(14~17節)
14~16節に進みます。
2千匹もの豚を飼っていた人たちは、ショックを受けた事でしょう。突然、何の前触れもなく自分たちの豚が逃げ出して、湖に突進しておぼれ死んだのですから……。それで彼らは、豚がおぼれ死んだ事を周辺地域の人々に伝えたのです。「私たちの飼っていた豚が突然、発狂して、逃げた。そして、湖でおぼれ死んだんだ。」「なぜこんな事が起こったのだろう。」こんな事を繰り返し、様々な人々に伝えたのでしょう。
そして、それを聞いた人々は、おぼれ死んだ豚の様子を見にやってきたのでした。
人々がイエス様のいる所に来ると、そこには悪霊につかれていた人が、正気になっていました。この人は、ついさっきまで、大声で叫んだり、自分のからだを傷つけるという、近寄りがたい行動を取っていた人です。ところが、いまや、服を着ているだけでなく正気に返っている、そういう姿を目撃したのです。
悪霊につかれていた人は、本来の姿へと回復したのです。そして、これはこの人にとっては、とても良いことでした。ところが、彼の回復した状態を見た人々は、恐ろしい気持ちになったのです。
そして、何が起こったのかを見ていた人たちは、汚れた霊につかれていた人にいたレギオンと呼ばれる悪霊が、豚に移動したいきさつなどを詳しく説明していったのです。そのようになったのは、イエスという人物の力によることも、伝えていったのです。
イエス様には、汚れた霊どもを支配する権威が与えられています。そして、その権威によって、汚れた霊によって苦しんでいた人が、その苦しみから解放されたのです。本来、喜ぶべき出来事なのですが、しかし、ゲラサ人の地に住んでいる人々にとっては、2千匹もの豚が犠牲となった事で恐れが出てきたのです。
人々は、もしもこのイエスという人物が自分たちの町や村にやってきたならば、他にも多くの動物が犠牲となって死んでしまうかもしれない。そんな事が起こってほしくない、そんなような心配をしたのでしょう。それで、人々はイエス様に対して「出ていってほしい」と懇願したのでした。
このゲラサ人の地は、異邦人が住んでいる地域でした。それゆえ、イエス様に対する評判がまだ伝わっていない段階だったと推測できます。そのような地でありましたが、イエス様が福音を伝えるためにと、自分の方から出向いているにも関わらず、その福音のすばらしさを知りたいという気持ちを持つ人が、あまりいなかったのです。
人々は「イエス様には普通の人間が持っていない特別な権威がある」ことを、豚が死んだ出来事を通して否定することができなくなっていました。けれども、人々の心には覆いがかけられていて、このお方こそが、まことの神様なんだという信仰には結びつかなかったのです。
このことは、奇跡が起こったからといって、人々がイエス様を信じるようになる訳ではないという教訓が示されているのです。むしろ、奇跡を目撃した人々の心がますます、かたくなになっていく、そういう場合もあるのです。
VI 主イエスのお供になりたいと願う解放された男性(18節)
18節に進みます。
イエス様とその弟子たちは、もうこの東岸周辺の地域で宣教活動をすることができなくなってしまいました。それで、舟に乗って別の場所に移動しようとしたのです。ところが、悪霊につかれていた人が、「イエス様にお供したい」と願い出たのです。
彼は、イエス様が自分を助けてくれたということを自覚し、そして、イエス様に対する感謝な気持ちがあったのです。そして、自分の人生をイエス様のために用いたいという気持ちが湧き出てきたのです。
豚の飼い主や周辺に住んでいた人々は、イエス様に対して警戒心を抱いて、「出ていってほしい」と願い出ました。これらの人々は、イエス様が救い主だということに気づくことができずに、自分たちに被害をもたらす危険があると考えてしまったのです。
一方、悪霊につかれていた人は、誰も自分を助けることができなかったけれど、イエス様が自分を助けてくれた。悪霊から解放して下さったんだとの思いで、そのお返しをしたいという気持ちに満たされていたのです。このようにして、一つの大きな奇跡を通して、イエス様から距離を置く人とイエス様に従っていく人とに分かれていくのでした。
VII 良い知らせを伝えた男性(19~20節)
最後、19~20節に進みます。
悪霊につかれていた人は、イエスにお供したいと願い出ました。けれども、イエス様は彼の申し出を断ったのでした。但し、彼に対して別の提案をしたのでした。すなわち、「自分の家族のところに行って、自身が受けた憐れみを知らせるように」と命じられたのです。
イエス様は、ご自身の伝えている良い知らせが多くの地域に広められることを願っていました。しかしながら、イエス様はゲラサ人の地においては、自分で直接、福音を伝えることができない状況となってしまいました。けれども、この悪霊から解放された人ならば、ゲラサ人の地で良い証人となるに違いないと考えたのです。
そして、この悪霊から解放された人は、イエス様から言われた通りに、家族のもとに帰って、自分に起こった事、すなわち、イエス様によって悪霊から解放された事、その結果、自分が元の普通の人間に戻った事、そして、イエス様こそが救い主だということを伝えたのです。こうして、彼はデカポリス地方において、多くの人々に自分の身に起こった喜びの知らせを伝えたのです。
まとめ
今の時代において、多くの人々は、悪霊によって苦しんでいるとは考えないと思うのです。ですから、そういう意味では、今日の箇所に書かれている出来事と自分自身のことを結びつけて考えるには難しさを感じる事でしょう。しかしながら、悪霊によって苦しんでいた人の、孤独な状態に立たされていた事や誰も自分を助けてくれなかった、そういう「彼の心の中の叫び」については、想像力を膨らませて考えていく時に、少しは理解することができるのではないでしょうか。
私たちの周りには、まだまだ、イエス様の事を知らずに暗闇の人生を送っている人が大勢いるのです。ある人は、誰も自分の苦しみを理解することができない、そういう気持ちとなって押しつぶされそうになっているかもしれません。別の人々は、話し相手がいなくて寂しい思いとなっているかもしれません。人間の知恵や努力では乗り越えることができないような、大きな壁にぶち当たって、希望を見出せない人がいるかもしれません。
ある人々は、この今の自分の苦しい状況が回復の方向に向かっていくことができればと願うのですが、それがかなわず苦しんでいるのです。そういう中にあって、イエス様は「良い知らせを伝える」ためにすでに救われている私たち一人ひとりを用いようとしているのです。
私たちが、自分が救われているその恵みの大きさに目を向けていく時、苦しんでいる人々、助けを必要としている人々に、聖書が示している「良い知らせ」を知ってもらいたいという気持ちが湧き出てくるのではないでしょうか。
悪霊から解放された人は、解放されたその時から、イエス様に命じられた通りに、まずは自分の家族に「良い知らせ」を伝え、更には、彼の住んでいた周辺地域の人々に向かって、イエス様から受けた恵みと憐れみについてを証しするようになったのです。
神は、私たちを救いに導くだけでなく、その喜びを周りの人々に伝える勇気と力をお与えになるお方なのです。
お祈りいたしましょう。