2025 年 10 月 5 日

・説教 ルカの福音書19章28-48節「エルサレムに入られる主イエス」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:15

2025.10.05

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 みなさんは、今日が何の日かご存知でしょうか? 10月5日、この日はなんと我が家の犬、サクラの誕生日です。実は、昨日の午後、妻と話していましたら、SNSでこんな記事を読んだと言うのです。それは、飼っていた犬が死んでしまったという呟きなんです。でも、その記事には、その飼い主が笑いながらこんなことを言っていたというんです。「もう隠れて焼き芋を食べなくていい。これからは家で堂々と焼き芋を焼いたっていい。ひとくちせがまれることもない、キッチンの攻防戦もしなくてもいい」と。そう言った途端に泣き出した時、その不自由や少しの面倒臭さごと愛していたのが伝わってきて切なかった。そんな記事を教えてくれました。本当に大切なものというのは、「不自由や少しの面倒くささがあっても、それごと愛していた」というこの人の言葉の中に、ささやかな愛の真理があるような気がしました。

 犬を飼っていると、いろんな制約があります。朝、今日はゆっくり寝ていたいと思っていても、起きて散歩に行き、餌やりをしなければなりません。それは確かに手間なことなのですが、その手間がかかることがそのまま愛情なのです。めんどくさいんだけど、実は嫌じゃない、そんな愛もあるのだと思うのです。その愛というのは、自分の方を向いている愛ではなくて、外へと向かう愛、そんなふうにも言えるかもしれません。面倒でも、手間がかかっても誰かを愛する愛というのは、その人の心を豊かにするのです。

 さて、今日の聖書の箇所はいよいよ主イエスがエルサレムに入城される出来事が記されています。前にもお話ししましたが、主イエスにとってエルサレムに近づくということは、死に近づくことです。旅のゴールが「死」に結びついているというのは、なんとも心苦しい気がします。けれども、主イエスはその厳しいはずの旅を受け入れているような姿が感じられます。

 この福音書を記したルカは、主イエスのエルサレム入城をどのように描こうとしたのか、ここにルカの特徴がよく現れています。というのは、他の福音書では、エルサレム入城は「ダビデの子にホサナ」という群衆の大歓声と共に迎えられ、人々は棕櫚の葉を道に敷き詰めてエルサレムに入城されたと書かれています。ところが、このルカは少し様子が違います。

 人々のホサナの歓声も描きません。むしろ、そこに居合わせたのは弟子たちだけであったかのように記述しています。しかも、その前にまず、記したのはエルサレムに入るためにロバを借り受ける出来事です。ルカはここでどんな主イエス像を描き出そうとしているのでしょうか。

 28節にこうあります。

これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。

 この前のところに書かれていたのはミナの譬え話です。実は私は先週大きなミスを犯してしまいました。というのは、このミナの譬えは、タラントの譬えとは違うという話をしたのですが、具体的にどう違うのかという話をあまりしませんでした。先週私はそれぞれに1ミナずつ等しく与えられているものを、用いあっていくという話をしました。しかし、私たちに等しく与えられているものとは一体何なのでしょうか? もちろん、救いの恵みとか、信仰とか、いろんなことが言えそうですけれども、まだ人々の中に明確な信仰が生まれていない中で、主イエスの周りにいた人たちに等しく与えられているものがあるとすれば、それは「神のみことば」であるはずなのです。この話を先週私はしませんでした。この皆に等しく与えられている神のみ言葉をどう用いるのか、このみ言葉を用いるものが、主イエスの弟子であるということになるはずなのです。

 その話のあとで、この28節以降のところで主イエスが弟子に言われたみ言葉は何かというと、ロバを連れてきなさいとお命じになられて、「どうして、ほどくのか」と誰かが尋ねたら「主がお入り用なのです」と言いなさいと命じておられるわけです。そもそも、人の家のロバ、しかも誰も乗せたことのない子ロバを勝手に連れていくというのは、弟子たちにその資格があるわけではありません。けれども、弟子たちはこの主イエスの言葉だけを持ってロバを借りに行き、そして、実際にその言葉通りに話してみると、無事に子ロバを借り受けることができたということがここに記されているわけです。

 弟子たちからしてみれば、お金を渡されるわけでもなく、「主がご入用なので」という言葉だけを託されても、そんな無茶苦茶なという思いがあったかもしれません。けれども、まさに、主の弟子に託された1ミナである「神の言葉」を信じて使ってみたら、実際にその言葉によって、神の御業が起こるということを、ここで弟子たちは身を持って経験することができたわけです。

 ルカはここで、そんなエピソードを記しながら、主イエスがエルサレムに入っていかれるところを記します。マタイの福音書では、主イエスがエルサレムに入られると、人々は「この人は何者なのですか?」と尋ねながら、群衆たちによって大歓声と共にエルサレムの城に「ダビデの子にホサナ」という歓声と共に迎えられるとあります。

 しかし、ルカは37節でこう記しています。大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、とあります。

 ルカは他の福音書と違って、主イエスがエルサレムに入ることを喜んだ人たちは、ただ周りの雰囲気に流されて主イエスをエルサレムに迎え入れたのではなくて、主イエスの弟子たちは、エルサレムに入られるお方が、聖書に証しされておられた方であると理解して、賛美をしたのだと記しているのです。

 そういうこともあって、この光景を見ていたパリサイ人の何人かは、弟子たちにこの騒ぎをやめさせるように要求します。しかし、主イエスはこれはやめさせられる類のものではない。この時の大勢の弟子たちの叫びは、まさに神の救いを待ち望んでいた人々の心の叫びなのだと語ります。こうして、ルカは主イエスのエルサレム入城を主イエスの弟子たちの期待が膨らんで、まさに最高潮の歓喜の中で主イエスをエルサレムにお迎えしたのだということを描き出しています。

 ところがです。エルサレムに入城される主イエスは弱々しい子ロバに身を任せてエルサレムに入られるだけではなく、その目には涙を浮かべていたとルカは記しています。41節から44節までを丁寧に紐解く時間がありませんが、主イエスはこのエルサレムがやがて滅んでいく様を思い描きながら泣いておられるのです。

 みなさんは、この光景をどのようにご覧になられるでしょうか?ちょっと意外な気がするのではないでしょうか。そもそも人前で涙を流すなどということを、私たちはそれほどしません。主イエスのこの時流された涙も、意図的なものではなく、つい流れてしまったもののはずです。

 「イエス様、泣いていたね」そんな会話を弟子たちはしたかもしれません。「どうして泣いていたんだろう?」「嬉しかったからじゃないの?」そんな会話が聞こえてきそうです。いずれにしても、涙を流されるほど、エルサレムへの愛が注がれていることはよく分かるはずです。

 主イエスの弟子たちも、ここでようやく神の国が起こるのだと期待感が膨らんできます。けれども、主イエスの方はと言うと涙を流しておられる。この涙はエルサレムに入ることができて嬉しかったという涙ではありません。ここに書かれているように、これからエルサレムの身に降りかかる出来事を知っておられて、それで嘆いておられるのです。ここに、主イエスがどれほどエルサレムに愛情を注いでおられるのかが分かります。主イエスの道は確かに十字架に向かって確実に進んでいるのです。けれども、主イエスはこの時、すでに自分を殺そうとする人々に敵意を抱いているのではなく、まさに手間のかかる愛娘でさえあるエルサレムの行く末を案じると涙を流さずにはいられない、そんな深い愛情があるのです。主イエスの愛は、いつもご自身の中にではなくて、いつも外へと向けられているのです。
 
 この主イエスの深い愛は、この後のエルサレムに入ってからも、ますます明らかになります。主イエスは、エルサレムに入られるとそのまま神殿へと向かいました。神殿というのは、神を礼拝するところです。当時の礼拝というのは神へのささげ物をたずさえてきて、ささげ物をし、神のみ前に罪を注ぎ出してきよめられることを求めるのです。ところが、当時の神殿は大勢の人々でいっぱいです。まず、神殿でささげ物をするためには、律法で戒められていた怪我をしていない子羊や子やぎを捧げる必要があります。けれども、家から神殿まで小さな動物を運ぶのは手間がかかりますし、旅の途中で怪我してしまう可能性もあります。怪我をした動物はもうささげ物には使えません。それで、神殿側は、お客さんが安心して旅ができるサービスを提供します。即ち神殿側ではじめから安全な子羊や子やぎを準備しておくので、それを買って貰えば良いとしたのです。これはウィンウィンです。神殿側も儲かりますし、旅をする人も大助かりです。お金を出すだけで手間がはぶけるからです。

 それに、神殿側はもう一つの画期的なアイデアを思い付きます。それは、どうせ神殿で犠牲の捧げ物を購入してもらうんだから、そのお金は神殿専門の通貨を作っておいて、両替をしないと動物を買えなくすれば良いと考えたようです。そうすると、両替で儲けることができ、動物の販売で二重の儲けです。この画期的なサービスのおかげで、神殿側は大儲けできたわけです。

 けれども、問題があります。神様がその戒めに求めたのは人の悔いた心です。まさに祈りの家となることを主は求めておられました。そのためには、自分の飼っている大切な動物をしかも、一番可愛い子羊や子やぎを捧げることで、もう罪は犯さないようにしようと思ったはずなのです。それなのに、愛情のないお金で買い求めた動物を捧げても、それはただの動物虐待です。捧げる人の心は痛みません。確かに心は守られるのかもしれませんが、神様の心は無視されてしまっています。

 それで、主イエスは神殿に入るなり、この神殿の商売人を追い出し始めたのです。主は言われました。46節です。

「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」

 まさに主イエスにとって泣きたくなるような光景だったのです。だから、ここで主イエスは憤っておられるのです。当然、祭司長や律法学者たちは面白くありません。自分たちの働いているエリアに余所者が入り込んできて、難癖つけていると感じるからです。殺意が生まれます。主イエスを殺したいと思うようになりますが、いつでも主イエスの周りには大勢の人がいてどうすることもできない。そんな神殿に代表される当時の宗教指導者たちの焦りがその後には描かれています。しかし、主の心はひたすらに神に向けられているのです。この怒りの中に示されている主イエスの愛は、まさに神への愛そのものでした。

 今日の箇所は実に様々なことが書かれています。しかし、主イエスの思いは一心に十字架への道を見据えています。自分から十字架にかかろうというのではないのです。神への思いの熱心さが、主イエスを十字架の死へと追いやっていくのです。ここでは、人々の思いと、主イエスの願いとの間に大きな溝があることが明らかになっています。エルサレム入城の時もそうです。神殿での宮清めと呼ばれる出来事もそうです。

 主イエスはご自分が愛しておられるイスラエルの国の人々のために、そして神のみ心が行われるために、自らがどんな思いでエルサレムに入ってこられたのかを明らかにしておられます。弟子たちにみ言葉に従って生きることの大切さを教えて、人々からの非難の声から守り、また、これから起こるであろうエルサレムの出来事を憂いて涙を流し、神殿では憤っておられる。本当に、自分の心をすり減らしながら、ひたすらに人々のことを愛している姿を示し続けておられるのです。主イエスの心は、神に向けられ、そして、人々への愛となって示されています。けれども、この主のお姿を見ている弟子たちも、パリサイ人や神殿の人々もその心が分かりません。溝は広がっていくばかりなのです。空回りし続けているのです。

 主イエスはとても愛情深いお方です。時には涙を流し、時には憤り、時には弁護してくださる。ひたすら、私たちを愛するが故の行動です。私たちは見えていないのですが、主イエスには見えているのです。

 カトリックの人でミシェル・クオストというフランス人の司祭がいます。この人は社会学者でもある人のようです。この人の詩や祈りがいくつも紹介されているのですが、不思議なものでどれもプロテスタントの出版局から出されています。ただ、最近この人の名前を耳にすることが少なくなってきましたので、今はあまり知られていないのかもしれません。

 私はこの人の祈りが好きで、時折この人の祈りに目を通すことがあります。今日も、このミシェル・クオストのお祈りを紹介させてください。「愛はふたつだけ」という祈りがあります。長い祈りなのでここではすべてを紹介できないのですが、その中でこんなことを祈っています。
 
 

主よ、愛には二つしかありません。
わたしだけを愛する愛と、あなたと他者(ひと)を愛する愛と
わたしが自分だけを愛するたびごとに あなたと他者への愛が少なくなってゆくのです
それは愛の水もれなのです それは愛のロスなのです
愛はわたしをとびたって、他者へとむかうように作られました
だからそれがわたしだけにむけられるときに それはしぼみ、くさり、枯れてゆきます
 
  (中 略)
 
主よ、こよい、わたしは祈ります
このわたしを、愛することのできる人間につくりかえ
ほんとうの愛を世界にばらまくことができる人間にしてください
わたしと、あなたの子らとの、愛の業は小さくても
それがクラブや社会に、経済や政治に、法律や契約や規制にまで
少しずつしみわたっていくことができますように
願わくは、それが役所や工場やアパートに
劇場やダンスホールにしみこんでいきますように
願わくは、それが人間の心の中にしみこんで
よりよい世界をつくる戦いは、愛のための戦いであり、愛のための奉仕であることを
このわたしが、決して忘れることがありませんように
主よ、わたしに愛することを教えてください
わたしの愛のちからを浪費しないために
他者をますます多く愛するようになるために
自己をますます少なく愛するようになるために


 
 このクオストの祈りは、愛は自分の方向に向かう愛と、他者へと向けられる愛とがある、その愛を自分に向けるのではなく、他者へ向けていくことができますようにという祈りです。愛が自分に向かう時、それは愛のロスであり、愛が腐っていくのだといいます。そして、人へ向けられる愛は、人の中に染み込んでいくのだと。

 それが、まさに主イエスの愛でした。主イエスの愛はご自分に向けられることはなく、人の中で他者の中へと染み込んでいったのです。この主イエスの愛を知ること、見ること、そして、その愛に生きることを通して、この愛はこの世界に染み込んでいくことになるのです。

 お祈りをいたします。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.199 sec. Powered by WordPress ME