・説教 詩篇62篇「私の魂は黙って主を待ち望む」
2017.02.26
鴨下 直樹
牧師館の裏に小さな庭があります。毎年、春が来るまえに花の苗を植え替えます。日当たりがあまりよくないので、何を植えてもほとんどうまくいきません。雑草さえ生えないような庭です。ところが、その庭にほとんど唯一といってよいのですが毎年花をさかせてくれるのがクリスマスローズです。
私は、クリスマスローズというのは、クリスマスの季節に咲くということなのかと思っていたのですが、咲き始めるのは冬も終わる頃です。何を植えてもうまくいかないのですが、クリスマスローズだけは綺麗に咲いてくれます。昨年は苗があまりにも大きくなり過ぎたので「株分け」というのを行いました。ところが、今年は、一つだけ花が咲きそうですが、株分けした他の株はほとんど咲きそうにありません。何かがうまくいかなかったのでしょうか。花を咲かせるというのはこんなに難しいことなのかと改めて思わされています。きっとあとは肥料をやって、水やりをして、じっと待つことが大事なのかもしれません。
今週も詩篇です。詩篇には色々な詩篇があり、花のように、その違いを楽しむことができます。今日の詩篇62篇は、これまで取り扱ってきた詩篇とは少し内容が異なっています。これまで紹介して来た詩篇は、祈り手が祈っても、神は応えてくださらないという、神の沈黙ということが語られている詩篇が多かったように思います。
最近、カトリック作家遠藤周作の「沈黙」がハリウッドで映画化されました。「サイレンス」というタイトルです。もうご覧になった方もあると思います。この映画の舞台はキリシタンの弾圧がテーマになっています。踏み絵を踏むかどうか。踏み絵を踏むということは信仰を捨てることになる。そういう信仰の危機的な状況の中でも神は沈黙を貫かれたことが一つの背景になっています。詳しい内容は映画を見ていただいたらと思いますのでここではお話しませんが、詩篇の中にもこういう神の沈黙というテーマは何度も記されています。
しかし、この詩篇は神が沈黙しておられるのではなくて、黙るのは自分の方です。しかも、詩篇の内容を見ても分かりますが、黙ってやり過ごせるような状況にこの祈り手は置かれてはいませんでした。この詩篇は「ダビデの賛歌」と表題があるように、ダビデの生涯のどこかの場面で祈られた祈りということを想定することができます。3節に「おまえたちはいつまでひとりの人を襲うのか」とありますから、多数から追われているような場面を思い描くことができます。ダビデの生涯は、イスラエルの最初の王であったサウルにいのちを狙われ続けていました。晩年には自分の息子アブシャロムからもいのちを狙われて追われることになりました。この詩篇がダビデのいつの時代のことをさしているのか分かりませんが、ダビデの生涯はいつも、多くの人にいのちを狙われるような状況にいたわけです。
そういう中で、ダビデはここでこう祈っています。
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」
1節でそのように祈りはじめられています。多くの祈りは、自分の危機的な状況の中で、神に祈り求めながら、神が沈黙していて応えてくれないと右往左往する祈り手の姿をみることができます。しかし、そういう詩篇が多いなかで、この祈りは、同じような状況であるにもかかわらず、黙って、神を待ち望んでいるのです。騒ぎ立てて、慌てふためくのではなくて、その正反対で、静まって神を待ち望もうという気持ちになっているというのです。
聖書の中にはいろいろな祈りが記されています。そして、いろいろなキリスト者の姿が描きだされています。それは一様ではありません。
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。
と2節にあります。この祈り手は、祈りを通して、自分が立っている場所にしっかりと踏みとどまって、それこそ深く杭を打ち込んで、自分がジタバタすることがないように、そこに踏みとどまろうとするような、祈りをささげているのです。
昨日、みなさんのところに配信された「聖書のまばたき」の中にあった言葉にも「あなたは花を咲かせることもできるし、雑草を咲かせることもできる」という言葉がありました。ただ、種を蒔いてそれで終わりというのではなくて、花を咲かせるために私たちは自分のできることを問う必要があるのです。
春になると花が咲く。それはごくありふれた景色としてはそのとおりですが、美しい花を咲かせるためには、庭に種をまいておけば自然に咲くということではありません。その種類によっては、土から整えなければなりません。赤土をまぜる。腐葉土をまぜる。肥料を足す。日当たりは、一日中日の当たるところがいいのか、半日陰がいいのか、その種によって違います。水のやりかたも違います。さまざまに手をかけて、ようやくきれいに咲く花があります。
私たちの信仰の歩みも、本当はそれに似ているのだと思うのです。聖書の話しを聞いて、なんとなく過ごしていれば、神がきっと働いてくださると思い込んでいる時には、どんなに祈っても、芽が出て来ないと、「神よ何故ですか」と取り乱す。そして、神は沈黙しておられると、神に訴えかけたくなってしまうのです。
けれども、この祈りのように、時には、困難なときにこそ、そこで慌てふためくのではなくて、そこにじっと留まって、神の御声を聞くことが大事なときもあるはずなのです。すぐに、動きだして結果を出そうとするよりも、まるでそこに杭を打ち込むかのようにじっと留まって、主の御声を聞くことが大事なときだってあるのです。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」ここにその一つの答えがあるのです。
この祈り手は1節の2節の神への祈りの言葉を、自分の目の前にある困難な事態を言い表した後で、もう一度5節と6節で再び繰り返しているのは、私にはとても興味深く思えます。まるで、「私はゆるがされることはない」と自分に語りかけているように、聞こえてくるのです。
私はゆるがされることはない。
動かない信仰と言ってもいいかもしれません。そのところに留まって、ただじっと主に期待しながら主を待ち望む。やれることはやったらいいのです。土を変えてみる。肥料を変えてみる。日当たりをもう一度考えてみる。そうやって、最後は、じっと花が咲くのを待つ。
ダビデはこう言っています。
私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
と7節にあります。自分が救われることも、自分の栄誉もすべては神にかかっていると言います。そして、ここで三つの言葉を並べました。私の力、私の岩、私の避け所と。静まっている時に、言い表していたのは「わが岩、わが救い、わがやぐら」という言葉でした。1節にも6節にも同じ言葉が繰り返されています。ところが、ここでは「力」という言葉が新しく出て来ました。
旧約聖書のここで「力」と訳されている言葉は「オーズ」というヘブル語です。このオーズと言う言葉は、「神の守り」という意味のある言葉です。11節の最後にも「力は神のものである」というのも同じ言葉が使われています。「神の守りの力」というニュアンスです。私たちは力というのは、自分の中にあるものだと思っています。自分の内側からあふれだしてくるもの。だから、自分でコントロールできるとつい考えてしまいます。けれども、聖書のこの「力」という言葉は、人間の内側に秘められているものではなくて、神から与えられるものとして書かれているわけです。
ダビデは静まって神に祈りながら、私の力は、私の支えは神にあるということを発見します。自分でじたばたしてどうにかなるものではない。もし、どうにかなるのだとしたら、それは神による。私の守りも、自分が岩のように動かないでいられるのも、私が逃れることができる場所もすべて神が備えてくださるのだと、ここで改めて気づくのです。
そして、ここから祈りが変わります。
民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
と8節にあります。自分が大変な状況にありながら、ダビデは民に向かって語りかけることができる言葉を見つけ出すのです。この民に向けられた言葉は、口先だけの言葉ではありません。心からの確信に満ちた言葉です。ダビデは語りかけます。
まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い低い人々は、偽りだ。
9節です。この身分の高い人、低い人というのは、他の箇所では「人の子」と訳されている言葉です。少し違いが分かるように言うと、アダムの子と言う言葉と、人の子という言葉です。違いがあるとすれば、身分の低い貧しい人をアダムの子という言い方の場合は表しています。それで、少し言葉を分けて新改訳聖書では記しました。言葉の違いはあっても、どちらもはっきりしているのはむなしく、はかない存在だということです。人間の世界では、そうやって違いを作ってどちらは上でどちらが下ということがさも大事な違いであるかのように考えているわけです。けれども、両方合わせても、息よりも軽いのだとダビデはここで言い表しています。
私たちは、人と比べて生きてしまいます。どっちが上か、どちらの生き方が幸せか。そうやって人を勝ち組と、負け組に分けようとします。自分が上にいれば、ほっとして、下にいれば慌てふためくのです。けれども、まさにそういう価値観そのものが、中身がない、まるで息のようなものと言い表しています。そうやって、勝ち負けを際立たせてみたところで、そこに本当の慰めがあるのかと、民に問いかけているのです。
人の価値は、人の力や能力も、それはその人の中から生まれて来るのではなくて、神から与えられるものではないのか。だから、大事なことは神に寄り頼むことなのだと、ここでダビデは言っているのです。
神は、一度告げられた、二度私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。
11節です。私は一度主が語られたことを何度も何度も聞き直した。力は、自分にあるのではない、それは神のものだと。このことを知るときに、人は慌てふためくことはなくなるのだと言っているのです。力の神に自分自身を明け渡すこと。すぐに何かがあると吹き飛んでしまうような確信のない生き方をするのではなくて、静まって、神を見出す時に、神こそが力を与えてくださるお方だということが分かる。そうすると、人は神に寄り頼み、そこで岩のように揺り動かされることのない生き方の確信をもつことができる。これこそが、神のくださる救いなのだと知ることができるのです。
最後の12節にはこうあります。
主よ。恵みもあなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。
「そのしわざ」つまり、人が静まって神を見出すことによって、そこに神の報いが、神に待ち望んでいた、神の救いが確かにもたらされるのです。この神の助けはいつも、ただ待っていればいいということではありません。しかし、右往左往して、慌てることでもありません。時として大切なことは静まること。そこで神を見出すことによって神の御業を発見するのです。美しい花を咲かせるためにコツがあるように、信仰者には「静かに神を思う時をもつこと」こそが、神を見出す何よりも大切な信仰のコツなのです。
お祈りをいたします。