2022.05.29
アイマン師
Lineライブ
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
2022.05.22
鴨下直樹
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
今日のテーマは「愛」です。
「愛には偽りがあってはなりません」と冒頭の9節に記されています。これまで、私は牧師として、結婚式の司式もしてきました。そこで、新郎と新婦に誓約をしてもらいます。「あなたは病める時も、健やかなるときも、順境の日にも、逆境の日にも、いのちの日の限り彼を、また彼女を愛し、真実と誠を尽くすことを神と証人の前で誓いますか?」と尋ねます。
結婚する時、私たちは主の御前でいのちのかぎり、真実と誠をつくす。そのように愛すると誓うわけです。
愛するというのは、とてつもなく大変なことです。その誓いをして結婚をするのです。けれども、結婚で誓った瞬間から、この約束を守ることがもう難しくなるのです。健やかなとき、順境の時、ものごとがうまくいっているときはまだ何とかなりますが、一度歯車が狂ってくると、どうしても相手を責めたくなる思いが、私たちの心の中には浮かび上がって来てしまいます。別に何か気になることが起こってその理由を知ろうとして相手を責めるのはまだ良いのです。相手を理解しようとする喧嘩はどれだけやってもいいと思います。けれども、そこに偽りが入り込んでしまうのです。隠し事が生まれるのです。問題はその時です。
パウロがここで愛には偽りがあってはならないと言います。この12章の9節以下では兄弟愛のことが語られています。けれども、この兄弟に対する愛の中には当然、夫婦の愛もその中に含まれていると考えていいと思います。パウロはここで愛について語る時に、まずは教会の中の人たちのことを語り始めました。
パウロはこのローマ書の中でこれまで愛を語るときは常に、神からの愛を語ってきました。これを「アガペー」という言葉で表現してきました。見返りを求めない愛です。相手に犠牲を払うという一方的な愛です。それが、神が私たちに示してくださった愛の姿でした。パウロはこの9節で、私たちに向かって、愛とは偽りのないものなのだとまず語りはじめます。この愛とは神が私たちに示してくださったアガペーの愛です。この愛からはじめたのです。そして、その愛を覚えながら兄弟愛のことを語りだしたのです。
もういまから20年くらい前のことでしょうか。TBSテレビで『世界遺産』という番組をやっていました。私がたまたま目にしたのはルーマニアのトランシルバニア地方にある世界遺産のビエルタン要塞教会でした。その時にとても印象深いエピソードが紹介されたので私は思わずメモを取ったほどです。このビエルタン要塞教会というのはお城なのか教会なのか、という少し変わった建物だったのですが、その放送の中でこんな話が紹介されていました。それはこの教会が行った、離婚の調停に訪れる夫婦に対してのエピソードでした。この教会では離婚の調停に訪れた夫婦は調停人と共に一つの家に住むのだそうです。そこで二週間過ごすのですが、夫婦は奥の部屋が与えられるのですが、そこでは一つのベッド、一つの机、一つの椅子、一つのスプーンで生活するというのです。それで、この教会はこれまで300年間離婚する家庭をほとんど生み出さなかったというのです。ほとんどというのは、300年の間一件だけが離婚したとも話していまして、それもまたリアルな姿を表しているとも思いました。
愛することは、犠牲を払うことです。結婚すると、どうしてもギブアンドテイクという関係になってしまいます。自分だけが犠牲を払うのは損だと考えるようになるのです。自分が何かをすれば見返りを求めるのです。けれどもそうなると、その愛は偽りの愛になっていきます。このビエルダン教会は離婚調停の期間の二週間の間、強制的にすべての持ち物を一つにすることで、もう一度愛することは犠牲を払うことなのだということを思い起こさせたのではないかと思うのです。譲り合わないと生活できないのです。
愛することというのは、実際に犠牲をお互いに払い合うことで成り立つ生活なのです。
パウロはまずそのような愛について語りながら、そこで兄弟愛を語るのです。10節です。
兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
ここでは相手が自分よりも優れている者として尊敬すること、という具体的な愛の姿を示しました。私は、これはまさに兄弟愛の秘訣だと言って良いと思います。自分にどんなメリットがあるかというような判断で人を見るのではないのです。この前の説教でも語ったように、人にはさまざまな賜物の違い、能力の違いがあります。それは優劣をつけることのできるものではありません。それぞれが、主の働きのためには必要だと、何よりも主ご自身がそのように見ていてくださるのです。だとしたら、その人には主の目から見ても、素晴らしいものがあるに違いないのですから、私たちの都合や、私たちの損得勘定で人を見るのではなく、その人には優れたところがあることを尊敬する、そういう態度がやはり必要なのです。人間関係の問題は、このことが理解できていたらほとんどのことは大丈夫になるはずなのです。 続きを読む ・説教 ローマ人への手紙12章9-21節「愛の姿」
2022.05.08
鴨下直樹
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
最近、いろいろなところで言われる言葉があります。「芥見キリスト教会っていろんな賜物を持っている方がいるんですね」
私自身本当にそう思います。みなさんのことをひとりひとり自慢して回りたいくらいです。
先週、私は一冊の本を頂きました。Fさんの「詩集 大地青春」という農民文学賞を取られた時の本が、出版されたということでした。実は、その少し前にもOさんがご自分の俳句集をまとめられたものを頂きました。また、先日Kさんの小説「あなたはどこにいるのか」が春秋社から出たばかりです。
俳句の先生がおられたり、画家がおられたり、指揮者がおられたり、先生と呼ばれる人が数多くおられます。あるいは、新しいものを開発されて注目される方があったりして、紹介しきれないほどユニークな方々ばかりです。私たちはお互いのユニークさについてお互いに喜び合うことができます。
けれども、その一方で、自分にはそんな賜物はないのでと思われる方もあるのではないかと思うのです。
私がこの教会に着任した時、すぐにみなさんのところを家庭訪問させていただいたことがあります。その時に、教会に来られなくなった方のところを訪ねると、その方がこんなことを言われました。「この教会は立派な方ばかりで、教会に行くと自分には何もないので、教会に行くのが苦しくなります」。
私はこの方の言葉を忘れることができません。人とつい比較してしまう。そして、人をうらやんだり、自己憐憫に陥ってしまったりすることがある。それも、私たちの一つの姿であると言わなければなりません。
パウロはこのローマ書の12章で、具体的な私たちの信仰の歩みのことを語っていきます。そこで、自分を神にささげて生きることが礼拝だと勧め、神の御心を知って新しく生きるように求めました。そこで、パウロは続いてこう言ったのです。3節です。
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
パウロはここで具体的なことを語り出します。「あなたがた一人ひとりに言います」というのは、教会の一人ひとりにという意味です。教会に生きる私たちに、みな同じように言っておきたいのは、「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません」と続くのです。
そう聞くと、少し私たちは肩透かしを食らったような思いになるかもしれません。思い上がれるほど、自惚れてはいない。むしろ、自分はダメだなと思う方が多いので、この言葉はあまりピンとこないという思いがあるかもしれません。
もちろん、これは個人差があるかもしれません。私は時々「鴨下先生って変に自信がありますよね」と言われることがあります。「変に」ってなんだ? と思わなくもありません。ただ、そういう見方をすれば、思い上がっているタイプの人間に私は分類されるかもしれません。あるいは、その反対で、自分のような人間はダメでという思いになる方も少なくないと思います。
ここに、「神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて」という言葉が続きます。どういう意味か、いろんな理解があるようですが、「神が各自に分け与えた」とありますから、神が私たちの教会の一人ひとりに分けてくださったという意味です。一つのものをみんなで分けあっているわけです。その分けられた量りに応じて、「慎み深く考えなさい」と勧めているのです。岩波訳の聖書では「慎み深さに導く思いを持つべきである」となっています。
その「慎み深さ」って何かということになるわけですが、カトリックのフランシスコ会訳では「自分を評価し、程よく見積もるようにしなさい」と訳されています。
つまりここでパウロが言っているのは、高慢になるなということと同時に、一人ひとりに賜物が分け与えられているので、自分を軽く見積もるような、正しく評価できない自己卑下ということをも、戒めているということなのです。
高慢になるのでもなく、自己卑下するのでもなく、私たちは一人ひとりが互いに神から与えられたものがあるので、それを正しく受け止めるようにとパウロはここで勧めているのです。
そのことを一つのたとえで表現しているのが、4節と5節の言葉です。
一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
ここでも、パウロは、私たち一人ひとりが集まって教会なのであって、教会に集う私たちは、誰かが高慢でもいけないし、だれかが自己卑下するような性質のものなのではなくて、私たちはみんなでひとつのからだなのだと言うのです。
一人ひとりには違う役割があって、それぞれがそれこそ誰かの言葉にあるように「みんな違ってみんないい」という働きをしているというのです。これを、パウロはコリント人への手紙でも同じことを言っていますが、パウロの教会理解の大切な部分を表していると言えます。教会の急所ともいえる部分なのです。 続きを読む ・説教 ローマ人への手紙12章3-8節「一つのからだなる教会」
2022.05.01
鴨下直樹
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
この世と調子を合わせてはいけません
この言葉を読むだけで、いろいろと頭の中で思いが浮かんできます。もちろん、パウロがここで言おうとしていることは、それほど難しいことではありません。私たちは、この世に調子を合わせることが、どれだけ信仰の歩みにとって危険を伴っているか理解しているからです。ただ、問題は程度問題です。「どこまでが良くて、どこからがダメなのか」
この基準は、みなそれぞれが心の中に持たなくてはなりません。そして、それがもっとも難しいことです。
現代社会と、聖書の時代とはかなり生活習慣が違います。何十年か前は、クリスチャンはトランプや映画もダメだと考えた時代がありました。特に、「敬虔主義」といいますが、福音派の教会のルーツには、「クリスチャンは敬虔に歩むべきだ」という考え方が強くあったのです。その中には禁酒禁煙というものも含まれています。
みなさんの中の多くの世代の方々は、何度も、その教えを耳にしたことがあると思います。そして、誰かが教会で良くないと言われている行為をすると、こぞってその人を裁くということが起こったのです。
一方で、性的な誘惑に関していうと、現代はさらに誘惑の多い時代になりました。不貞を働くことさえも、罪ではないというような世の中の流れがあるなかで、インターネットやメディアではセクシャルなテーマを扱うコンテンツはすぐに簡単に見つけ出すことができます。
あるいは、もっと進んでLGBTQと言いますがレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、Qはクイアと言って「不思議なとか、風変りな」という意味があるそうです。あるいは、クエスチョニング「性的少数者」のことを含めて、これらの頭文字でLGBTQを認めていこうという流れも出てきています。
「この世と調子をあわせてはいけません」という言葉の中に意味されるものは、実に多くのテーマが含まれています。そして、簡単に白黒つけることの難しいテーマであることを私たちは知っています。
ですから、ここでもそんなに踏み込まないでさらっと「みなさん、分かるでしょ。何がいいたいかは」と言って、次に進むことも簡単にできることですが、やはり避けて通ることのできるテーマとはしないで、考え方は理解できるようにしておくのがよいと私は思います。
私たちは、「この世」に生きています。この世界の外側から眺めているのではなくて、どっぷりとこの世界に浸かって生きています。
ここで「調子をあわせてはいけません」という言葉があります。少しこの言葉のニュアンスを他の聖書の翻訳で掴んでみたいと思います。新共同訳聖書は「この世に倣ってはなりません」となっています。「倣う」「真似をする」と訳しました。また、さらに新しくなった協会共同訳も同じ翻訳です。では岩波訳ではどうなっているかというと「あなたがたはこの世と同じ姿かたちにさせられてはならない」としました。またカトリックのフランシスコ会訳だと「自分をこの世に同化させてはならない」となっています。
もともとの言葉は簡単に言うと「型にはまる」という意味になります。この世の型にはめられていく姿を、描き出しています。流行を追い求める。それは、現代人の一つの生活の姿です。自分なりにおしゃれをしたい、常に最先端でありたい、時代についていかないとと思っている。気が付くと、世の中の型にはめられてしまっているというのです。
いや、もう私たちはそういう最先端というものからはすでにほど遠い世界に生きているという思いもあるかもしれません。そうであったとして、この世の型というものがやはりそこにも影を落としているのです。
毎日の生活を振り返ってみると、さまざまなテーマがあることに気が付きます。どこの病院がいいのか。どんな薬がいいのか。健康食品はどれがいいのか。便利な車は何か。もう、そういうものから解放されたと思ったとしても、はやりこの世と調子を合わせている自分の姿に気づかされることになります。
問題は、それらの一つ一つは直接的に罪と結びついてはいないということです。けれども、そのようなものを、楽な生活というものを追い求めていく先にキリストの姿は見えてこないのです。
ここまで来ると、この言葉の意味するところが見えてきます。「この世」と「主イエス」を対比させているわけです。キリストのようになろうとしていくのか、この世界と一つになっていこうとしているのかということです。 続きを読む ・説教 ローマ人への手紙12章1-2節「心を新たに」