・説教 ローマ人への手紙12章3-8節「一つのからだなる教会」
2022.05.08
鴨下直樹
Lineライブ
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
最近、いろいろなところで言われる言葉があります。「芥見キリスト教会っていろんな賜物を持っている方がいるんですね」
私自身本当にそう思います。みなさんのことをひとりひとり自慢して回りたいくらいです。
先週、私は一冊の本を頂きました。Fさんの「詩集 大地青春」という農民文学賞を取られた時の本が、出版されたということでした。実は、その少し前にもOさんがご自分の俳句集をまとめられたものを頂きました。また、先日Kさんの小説「あなたはどこにいるのか」が春秋社から出たばかりです。
俳句の先生がおられたり、画家がおられたり、指揮者がおられたり、先生と呼ばれる人が数多くおられます。あるいは、新しいものを開発されて注目される方があったりして、紹介しきれないほどユニークな方々ばかりです。私たちはお互いのユニークさについてお互いに喜び合うことができます。
けれども、その一方で、自分にはそんな賜物はないのでと思われる方もあるのではないかと思うのです。
私がこの教会に着任した時、すぐにみなさんのところを家庭訪問させていただいたことがあります。その時に、教会に来られなくなった方のところを訪ねると、その方がこんなことを言われました。「この教会は立派な方ばかりで、教会に行くと自分には何もないので、教会に行くのが苦しくなります」。
私はこの方の言葉を忘れることができません。人とつい比較してしまう。そして、人をうらやんだり、自己憐憫に陥ってしまったりすることがある。それも、私たちの一つの姿であると言わなければなりません。
パウロはこのローマ書の12章で、具体的な私たちの信仰の歩みのことを語っていきます。そこで、自分を神にささげて生きることが礼拝だと勧め、神の御心を知って新しく生きるように求めました。そこで、パウロは続いてこう言ったのです。3節です。
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
パウロはここで具体的なことを語り出します。「あなたがた一人ひとりに言います」というのは、教会の一人ひとりにという意味です。教会に生きる私たちに、みな同じように言っておきたいのは、「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません」と続くのです。
そう聞くと、少し私たちは肩透かしを食らったような思いになるかもしれません。思い上がれるほど、自惚れてはいない。むしろ、自分はダメだなと思う方が多いので、この言葉はあまりピンとこないという思いがあるかもしれません。
もちろん、これは個人差があるかもしれません。私は時々「鴨下先生って変に自信がありますよね」と言われることがあります。「変に」ってなんだ? と思わなくもありません。ただ、そういう見方をすれば、思い上がっているタイプの人間に私は分類されるかもしれません。あるいは、その反対で、自分のような人間はダメでという思いになる方も少なくないと思います。
ここに、「神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて」という言葉が続きます。どういう意味か、いろんな理解があるようですが、「神が各自に分け与えた」とありますから、神が私たちの教会の一人ひとりに分けてくださったという意味です。一つのものをみんなで分けあっているわけです。その分けられた量りに応じて、「慎み深く考えなさい」と勧めているのです。岩波訳の聖書では「慎み深さに導く思いを持つべきである」となっています。
その「慎み深さ」って何かということになるわけですが、カトリックのフランシスコ会訳では「自分を評価し、程よく見積もるようにしなさい」と訳されています。
つまりここでパウロが言っているのは、高慢になるなということと同時に、一人ひとりに賜物が分け与えられているので、自分を軽く見積もるような、正しく評価できない自己卑下ということをも、戒めているということなのです。
高慢になるのでもなく、自己卑下するのでもなく、私たちは一人ひとりが互いに神から与えられたものがあるので、それを正しく受け止めるようにとパウロはここで勧めているのです。
そのことを一つのたとえで表現しているのが、4節と5節の言葉です。
一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
ここでも、パウロは、私たち一人ひとりが集まって教会なのであって、教会に集う私たちは、誰かが高慢でもいけないし、だれかが自己卑下するような性質のものなのではなくて、私たちはみんなでひとつのからだなのだと言うのです。
一人ひとりには違う役割があって、それぞれがそれこそ誰かの言葉にあるように「みんな違ってみんないい」という働きをしているというのです。これを、パウロはコリント人への手紙でも同じことを言っていますが、パウロの教会理解の大切な部分を表していると言えます。教会の急所ともいえる部分なのです。
私は子どもの頃、他の人と同じようにするということが上手にできませんでした。書道の時間、みんな課題の字を書いていきます。私も、二三枚まではやるのです。けれども、やればやるほど下手になります。だんだん集中力が途切れて来て、他のことをしはじめてしまいます。硯に水を入れて、自分でどれだけ濃い墨が作れるか、あるいはその反対で、薄い墨でも書けるのか、など。みんなと同じように器用にやれる人間ではありませんでした。いつも感じていたのは劣等感です。
写生大会があると、まず何を描くか決めて、時間の中で要領よく描いて完成させる必要があります。けれども、飽きっぽい私は、適当に簡単に描けそうな場所を見つけて、できるだけ手間のかからない絵をささっと書いて、あとは遊んで時間を過ごします。周りの友達と比べても、できないのだからしょうがありません。
そうなると、自分は劣等感を持つしかない。他ごとをして、自分にはできないと諦めるしかなくなってしまうのです。
けれども、私たちの主は、私たちが他人と比べて無力に思えるような者であったとしても、「各自に分け与えた賜物がある」と言われるのです。主が、私たちに与えてくださった恵みは、賜物は、私たちが落ち込んで立ち直れなくなって、他ごとに気を紛らわせなければならないようなものではなくて、そのところで、安心して、それこそ自信をもってその人が生きられるようにと願って、与えられたものなのです。
聖書の語る教会の姿というのは、みんな同じにやれとは言わないのです。まず、そこに魅力があります。何かを上手にできる人がいれば、その部分はその人にやってもらって、自分には自分のやるべきところがあるというのです。ここに慰めがあるのです。
6節にこうあります。
私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っている。
この「恵み」という言葉は「カリス」という言葉です。賜物は「カリスマ」といいます。私たちはみなカリスが与えられていて、みんな異なったカリスマを持っているというのです。みんなに、カリスが、恵みが与えられているとまず語ります。これは、もう動かしようのない事実です。恵みというのは、主イエス・キリストがしてくださった愛の御業のことを言います。絶対に私たちを見捨てることはないという神の恵みです。ですから、カリスが、恵みが与えられていることは間違いないわけです。
ところが、私たちに与えられている「賜物」となると、途端に自分はそんなたいそうなものを貰っていない気がするものです。
自信をもって、私にはこういう賜物がありますなんてなかなか言えません。けれども、カリスがあるなら、カリスマもあるという論調でパウロが語るとき、そこでいう「賜物」というのは、「特殊能力」というような物凄いことではないことが見えてきます。本を出版するとか、詩を書く、俳句を作る、絵が上手、字が上手、ピアノが弾ける、人付き合いがうまい、そうやって一つ一つ見ていくと、自分はダメだと考えてしまう、自分には賜物なんてないんじゃないかと思ってしまうのですが、聖書が語る「賜物」というのはそういう特別な才能のことを言っているわけではなくて、みんな違う賜物をもっているのだと宣言するのです。そして、その賜物をみんな分け合っているのだから、それは私たちそれぞれがすでに与えられているものなのだと語るのです。
そこで、パウロの語る賜物のリストが7つ挙げられています。
「預言」「奉仕」「教える人」「勧めをする人」のまず4つが挙げられます。
「預言」というのは、何も将来のことを暗示するという意味ではありません。神から預けられた言葉を語るということです。神の恵みを告げることを指しています。
「奉仕」は「ディアコニー」という言い方をします。「執事」という教会の働きを指します。もちろん執事だけの務めではないのですが、教会には執事が行うように求められている様々な愛の奉仕が考えられていました。
「教える」というのは「指導する」とか教師としての働きがここで意図されているといえます。牧師だけでなくて、聖書のお話をするのもそうです。子どもに聖書を語るのもここに入るでしょう。
次に「勧める」とあります。勧めるという言葉は「パラカレオー」という言葉です。「慰める」という意味の言葉です。「牧会」という言葉の意味するものです。「牧会」というのは、牧師の仕事と理解されてしまいますが、そういう意味ではありません。神の言葉が聞き取れなくなっている人に、慰めの言葉を語る働きのことです。場合によってはカウンセリングというような意味あいをも持っている言葉です。さまざまな事情で神の言葉を聞けなくなっている人に寄り添って、もう一度神の言葉を聞くことが出来るようにする働きです。
この言葉は、翻訳によっては、この勧めという言葉を「説教する」と訳す場合もあります。説教も、慰めを語る言葉だと理解されるところからくるのです。
このように、見ていくとはじめの4つの言葉は、教会の中の具体的な働き人をイメージした言葉と言えるものです。長老、執事、教師、牧師そのような働き人のする役割というニュアンスのある言葉が並んでいます。けれども、もちろんこの4つの言葉はそのような働き人だけに限らず、みんながお互いにさまざまな働きを担い合うことで、奉仕している働きです。
そして、その次に3つの言葉が挙げられています。それが「分け与える」「指導する」「慈善」という言葉です。これは先の4つよりももう少し広い意味を持つ言葉です。
この「分け与える」というのは「寄付する」とか「施す」という意味の言葉です。実際には自分の財産を誰かに差し上げる、分ける、そうやって助けてあげるという働きです。今のウクライナ支援のように、いろんなところから支援のお願いが来るときに、私たちはそれを一度取りまとめて、支援先に送ったりします。そういう具体的な誰かを支える愛の働きです。
「指導する」というのは、「教える」と似ている気がしますが、これは少し面白い言葉で「先に立つ人になる」という意味の言葉です。自分が率先して先に立って、後からついてくる人のために体を張って先を進んで、人の世話をする。そういう意味の言葉です。
最後の「慈善」は「分け与える」と似ていますが、もともとの言葉は「あわれみ」という言葉です。人の痛みを自分の痛みとするようにして人に寄り添う働きです。
これらの、教会のさまざまな具体的な働きを示す言葉として「賜物」「カリスマ」という言葉が用いられているのです。
このように、教会に生かされている私たちは、誰もがそれぞれに神から示された所にしたがった、カリスマが、賜物が与えられていると、パウロは言います。この7つの賜物の中には、私たちがイメージするような何か特別なことができるという意味ではなくて、お互いを愛して、支えあい、励まし合っていく働きのことをさしているのだということが分かってきます。
そして、この7つは誰かが、一つだけ持っているというものでもありません。それぞれがそれぞれの賜物を部分的に持っているのだとパウロは言うのです。だから、自分だけが特別なのだと高慢になるのではなく、自分だけができないと自己卑下するのでもなくて、「惜しまず、熱心に、喜んでするように」と勧めているのです。
この「惜しまず、熱心に、喜んで」という3つの言葉がそれぞれについているのですが、このことも私たちは覚える必要があるのだと思います。「適当に、そこそこ、なんとなくやりなさい」ではないのです。私たちが自ら進んで、心からすることを期待されているのです。
私たちに恵み、カリスを注いでくださった主は、私たちにカリスマを、賜物を与えてくださったのですから、それに応じて主の前に生きることを主は求めておられるのです。それが1節と2節に言われているように、「ふさわしい礼拝」となり「心を新たにする」生き方ということになるのです。
みんな与えられている人生は違います、生活環境も違います。けれども、そういう私たち一人ひとりの生き方が、バラバラにこの世界に示されているのではなくて、一つのからだとなって機能しているというのです。
主イエス・キリストのからだはすでに天に引き上げられていて、今この地上にはありません。けれども、今度は私たちがキリストのからだとなっているというのです。そして、このキリストの愛の業を体現するからだである教会が、この世界で、キリストの御業を表していくのです。私たち一人ひとりが教会なのです。私たち一人ひとりの生き方が、キリストのいのちを生きることになるのです。だから、そのために心を新たにして、自分を変えて頂いて、わたしたちのからだを神に喜ばれる、生きたささげものとして、ささげましょう。そのようにパウロは勧めているのです。
私たちが生きることで、キリストの姿がこの世界に示されていくことになるのです。
お祈りをいたします。