2025 年 4 月 6 日

・説教 ルカの福音書16章19-31節「ある金持ちの末路」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:10

2025.04.06

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は、「金持ちとラザロの譬え話」です。この箇所は前回の14節に出てきた「金銭を好むパリサイ人たち」に向けて話しておられる箇所の続きです。

 ここに二つの生き方が示されています。誰もが羨む金持ちの生活と、誰もが蔑みたくなる貧乏人の生活。この二人の正反対の人物を対比しながら話をしています。しかも、主イエスの話は、この金持ちは悪人で、貧乏人の方は善人であったとも書かれていません。考えてみますと、私たちの人生でも同じようなことが起こります。この二人の違いがどこにあるのか考えてみると、この二人には境遇の違いがあるわけです。どういう家で生まれたか。誰と出会ってきたか。何を学び、何を経験してきたか。そこで、大きな違いや差がでてくるわけです。

 どの世界でもそうですが、そこには成功した者と、失敗した者がいます。そして多くの人は、成功した者を尊敬し憧れを抱き、そのようになりたいと思うのです。書店には成功者の本が並び、自分の体験談の本はよく売れます。これらの本は前向きに生きることを教えてくれるのです。例えていうならば、料理のレシピのようなものです。こうすれば美味しく作れますよ! というわけです。そして、それがこの世界の一つの価値観なのです。

 ここには金持ちと、貧乏人が出てきますが、これは他にも何にだって例えることができます。「健康な人と病の人」「心の強い人と弱い人」「商売の成功と失敗」、結婚、子育て、進路何でも良いのですが、この世界の人は誰もが、失敗するよりは成功する人生を夢見るのです。もちろん、それは決して悪いというわけではありません。ただ、私たちの世界が、この成功者は勝者であるという価値観で支配されてしまっているのが問題です。

 もちろん私たちはこれほどまでに単純化された生活をしていないかもしれません。中庸を生きるという生き方だってあるはずです。ただ、主イエスのこの譬え話は、まさに私たちが生きている世界の、成功者はお金持ちになるという価値観を問題にしています。

 この主イエスの譬え話は三幕まで準備されています。

 第一幕は、生前の二人の生活ぶりです。金持ちの生活と貧しい人であるラザロの生活ぶりです。

 第二幕は、二人が死んでからの姿です。それは生きている時とは正反対で、死後には貧しい人は神のみもと、ここでは「アブラハムの懐」と呼ばれるところにいて、金持ちは「炎の燃え盛るよみの世界」にいるというのです。

 そして、第三幕では、よみの世界にいる金持ちが、何とか家族までがここに来ないようにしてほしいと頼み込みますが、もうすでに聖書があるのでそれで十分という結論で終わっています。

 主イエスはお話のとても上手なお方です。この世の人々の多くは、今の人生のことだけを考えて生きています。その先のことがあるなんてことはあまり考えていません。考えていたとしても、多くの人はきっと自分は天国に行けると考えていることが多いのでないかと思うのです。昔はお寺の和尚さんから、死んだら閻魔様のところで生前の罪の刑罰がくるからという話を聞かされたものですが、最近はそういう話もあまり耳にしません。教会も、それほど死後の裁きの話をしなくなりました。

 というか、旧約聖書を読んでいるとほとんどこの死後の話は描き出されてもいなかったのですが、主イエスはここで急にこんな話をなさったわけです。即ち死んだ後で自分の人生がひっくり返ることがあるのだという話をなさったわけです。

 私たちは、誰にもある日死が訪れます。早いか遅いかの違いはあったとしても、それは誰にも等しく訪れます。

 興味深いのは、主イエスのこの話は、ここで貧しい人として描かれているラザロの生前の信仰が語られていないことにあります。ラザロは実はとても信仰深い人物だったのだと書かれていれば、この話の意図は明白になるのですが、ここでは金持ちとラザロの違いは最初に話したように「生い立ち」や、その後の「人生経験」以外にはないかのように感じられます。表面上は、です。

 そこで、もう少し丁寧にこの聖書の箇所を考えてみたいのです。まず、「ラザロ」という名前です。これはこの時の主イエスの話を直接聞いた人たちには明白だったことですが、今の私たちにはよくわかりません。この名前の意味です。「ラザロ」というのは「神の助け」「神の助けによって生きる者」という意味があります。

 この貧しいラザロの人となりについては21節で「彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。」と書かれています。これが、ラザロのささやかな夢でした。ということは、実際にはこういうことは起こっていないわけです。ラザロはそうだったらいいな、お腹いっぱい食べられたら良いなと夢を描いているのです。ということは、金持ちは、自分の家の門前にいたラザロという貧しい人に対して、まったく気にかけるということはなかったということが、ここから分かります。金持ちには憐れみの心もなければ、施しをしたこともない。つまり、隣人に対する愛はなかった人物だということが、ここから読み取れるわけです。

 反対に、ラザロは病を抱えていました、貧しくて食べるものもない生活でありながら、神の助けを感じながら生きていた人ということが分かるわけです。

 そうして、第二幕に移っていきます。そこではこの二人がそれぞれに死を迎えたわけです。すると、ラザロは、アブラハムの懐に迎えられていた。一方の金持ちはというと、よみの世界に置かれていて、熱さで苦しんでいるという場面に切り替わるのです。

 そこで、金持ちは叫びます。24節。

「父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。」

 この箇所があまりにも強烈なインパクトを持っているので、多くの人はこの箇所から、きっと地獄というのは、このような炎の苦しみの場所に違いないというイメージを持つようになりました。少しだけ横道にそれますが、これはあくまでも主イエスの譬え話の表現です。ここで言いたいことは、よみの世界は苦しいところだぞというメッセージを与えたいわけではなくて、ここでのテーマは、金持ちはこのような状況に置かれていてもラザロを下に見ているという、金持ちの身勝手さです。そして、金持ちの訴えを聞いたアブラハムはここでこの金持ちの叫びに対して、もう介入はできないのだということを伝えます。

 何故こうなったのか、それはあなたの生きていた間十分良いものを受けた。その結果、あなたは今こうして苦しんでいるのだとアブラハムは金持ちに伝えます。そして、この世界から、そちらの世界には繋がっていないので介入はできないのだとアブラハムは伝えるのです。

 主イエスの譬え話はみな「神の国」の譬え話を語ります。神の国の秘密、神の国のミステリーが語られています。この話もそうです。主イエスは「神の国」、「神の支配」というのは、生きている間に決定づけられるということを、この譬えで話しておられるわけです。しかも、ここでは、「神の国の生活」というのは、この地上でどう生きたのか、貧しかったのか、病を患っていたのか、どれほど孤独であったのか、そういったものには何ら支配されることはないということを、主イエスはここで明らかにしておられます。この世界の延長線にあるものではないのだという、神の国の秘密を、この譬え話を通して主イエスは明らかになさったのです。

 祈祷会に出ておられる方は知っているのですが、月に半分は笠松教会と合同で水曜日と木曜日の聖書の学びと祈り会を行なっています。そこに笠松教会のOさんという方が来ておられます。この方は結婚して子どもが与えられたのですが、その子どもは生まれた時から病気を抱えていて、そのために意思の疎通が取りづらい状況に置かれてきました。20代まではOさんご夫妻と一緒の家で生活していたのですが、その後は病院に入院しておられて、それから10年以上にわたって病院で生活しています。今は家族も月に2回しか面会もできないのだそうです。

 そんな状況なのですが、この方は何年か前に病院で洗礼を受けられました。Oさんはいつも祈祷会でこの息子さんのことをお話しくださいます。その方にとっては、まさに今日の聖書箇所は福音以外の何ものでもないのです。息子さんは、今は意思の疎通もとれないほどの状況に置かれているのですが、やがて神のところに招き入れられる時に、彼がこの病から解き放たれ、自由に話をすることができる。私たちはその日をどれほど待ちわびているかと、その希望を時折話してくださいます。

 私たちはすでに神の国に生きるように招かれています。けれども、神の国、神の支配のもとにある生活というのは、今は目に見ることができません。しかし、私たちはやがてこの神の国、神の支配を目にすることができるようになる時がきます。それは、私たちが死を迎えた後のことです。その時、私たちは神のふところで、このラザロが味わっているように、主のおられる御国で、大きな慰めを受けることになるのです。

 さて、そこからこの物語は第三幕に移ります。金持ちは、死後まさか自分がこのようなことになるなどとは思いもしなかったはずです。しかし、もはや自分は仕方がないとしても、まだ生きている家族には何とかしてやりたいと考えます。それで金持ちは、再びアブラハムに語りかけます。27、28節です。

「父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。」

 まだ間に合う家族のために、ラザロを遣わしてください。そうしたら家族はきっとラザロを通して、自分たちの生き方を改めるようになるはずだからと言うのです。

 すると、アブラハムはこう答えます。「彼らにはモーセと預言者がいる」と。つまり、聖書がすでに与えられているのだというのです。またさらに、たとえ死んだ人が生き返って現れたとて、それで悔い改めることにはならないのだとも答えられました。

 彼らには聖書が与えられている、この聖書を生きている時にそれぞれが受け止める必要があるのだというわけです。そして、これが、主イエスがこの譬え話を伝えたい内容です。生きている間に、それぞれが聖書から悟る必要があるというのです。

 神は、この世界で成功するか失敗したかということにとらわれることのない生き方を望んでおられます。それが、神の国に生きるということです。神の国に生きるというのは、神が共に歩んでくださる生き方をするということです。

 ラザロという名前の意味は「神の助けによって生きる者」という意味だとすでにお話ししました。まさに、この名前にヒントが隠されています。神の助けによって生きる。それが、神の御国に生きる生き方です。それは、この世にあって人から羨まれるような生き方ではなかったとしても、たとえ病を患い、問題を多く抱えているような生き方であったとしても、「神が助けてくださるから大丈夫」と神により頼む生き方ができるかどうかです。この神に一番の価値をおく生き方、これこそが私たちが知らなければならない生き方なのです。

 主イエスはここでこの譬え話をお金の好きなパリサイ人に向かって語りかけておられます。この人たちはこの世の成功は神の祝福であると考えていました。けれども、主イエスはこの考え方、この価値観のまま進んで良いのか? と疑問を投げかけておられるわけです。私たちは、自分はパリサイ人ではないからこの話は関係ないと考えることはできません。誰もが、この物語に出てくる金持ちに自分を重ねて主イエスの話を聞く必要があるのです。

 主イエスは、私たちを永遠に続く神の国へと招いておられます。この神の国、神と共にある生活は、死後に決定付けられるのではなく、今、私たちが生きている間に、聖書から聞き取って神のみ思いを受け止めるかどうかが重要なのです。

 この神の国の生活は、この世界の成功や繁栄と必ずしも結びついてはいないのです。むしろ、この世界での繁栄は、神の国では何ら力も影響力を持ちません。どれだけお金があろうとも、どれだけ成功しようとも、どれほど思い通りに生きることができたとしても、神の国の生活は、それとは別次元のところにあるのです。私たちが本当に求める必要があるのは、この世の富ではありません。神が示されるまことの富、つまり神と共にある生活に価値を見出していく必要があるのです。

 主は私たちにこの世の価値観とは異なるまったく別の、新しい世界をお示しになろうとしておられます。それは、神が一緒にいてくださるという生き方です。ここに大きな魅力が隠されているのです。主イエスと共に歩むことにまさる豊かさはこの世界のどこにも存在しないのです。

 お祈りをいたします。

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