・説教 ルカの福音書20章9-19節「貧しい神と豊かなしもべ」
2025.11.02
鴨下直樹
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今日の聖書の箇所は、主イエスの譬え話が記されています。譬え話自体はそれほど複雑ではありません。ぶどう園の主人が旅に出るので、ぶどう園を農夫に託して出かけます。しばらくして収穫の時期になったので、主人は収穫物の中から農夫たちに与えると約束した分を除いて、収穫物を納めるように使いを送り出します。ところが、農夫たちは主人の言うことを無視して、遣わされて来たしもべたちを3度にわたって暴行を加えた上で追い返してしまったというのです。それで、ついに、主人は自分の跡取りの息子を送り出します。しかし、農夫たちは跡取りを殺してしまえばこの土地は自分たちのものにできると考えて、この跡取りを殺してしまったというのです。
この譬え話のテーマは何でしょうか? これは、前の1節から8節までの話が前提となっています。つまり、神殿の商売人を追い出してしまった主イエスに対して、神殿側の祭司長、律法学者、長老たちが、主イエスに尋ねた「あなたはいったいどんな権威があってこれらのことをしているのですか?」という問いの続きなのです。ですから、この譬え話の箇所もテーマは「権威」です。この「権威」という言葉は、まず覚えておいていただきたいのは「権威」の他にも「権力」や「権限」という意味にもなる言葉だということです。
主イエスは、ご自分の持っておられる権威について、ここで譬え話を用いて話しておられるわけです。この譬え話の中で、農夫たちが登場します。そこでまずこの農夫たちの視点で考えてみたいと思います。この農夫たちは、主人に雇われているわけですから、何の権限ももっていない人です。ところが、主人から預かっている畑で毎日働いていると、いろんなことを考えます。言われたことだけをやっていては、作物は育ちません。肥料をやったり、剪定をしたり、雑草を刈ったり、鳥や動物から作物が奪われないように知恵を絞ります。あるいは、日当たりを気にしたり、害虫の駆除をしたりと、やりはじめると実に様々な労力が必要となります。そうやって、ようやく多くの実を実らせることができるのです。収穫物というのは農夫たちの労苦によって得られたわけで、勤勉に働かなければそれを実らせることはなかったかもしれません。そう考えると、収穫物が取れた時に何も仕事もしないでどこか遠くにいる主人に収穫物を渡すのが惜しくなる。そういう農夫の気持ちはどこかで私たちも分かる気がするのではないでしょうか。
何も仕事もしていないのに、自分が毎日あくせく働いた労働の実を奪う主人は、なんて強欲で、酷い主人なのかと考えてしまう。この農夫は、毎日ぶどう畑で働くうちに、この畑は自分の所有物であるかのように錯覚してしまったようです。ということは、いつのまにか農夫たちは、この土地の収穫物の権利を持っているのは自分たちであって、主人ではないと考えるようになってしまったということなのです。
このように考えてしまう問題点はどこにあるかというと、ぶどう園の主人がどこか遠くに旅に出ているからです。主人が近くにいないために、農夫たちはこの土地が主人のものであるという思いを忘れてしまうわけです。
主人の視点で考えてみるとどうでしょう。この主人はぶどう園を農夫に託して出かけていきます。収穫物が取れた時、10節では「彼は農夫たちのところに一人のしもべを遣わした。ぶどう園の収穫の一部を納めさせるためであった。」とありますから、主人は収穫物の全てが自分のものと言っているわけではなくて、あらかじめ約束しておいた分を納めるようにとしていたことが分かります。それが、収穫物の何パーセントなのかまでは分かりませんが、お互いに納得をして約束をしていたはずで、主人が不当なことをしたというようなことは読み取れません。
先日の祈祷会でお話をした時に、ある方が「ぶどう園の農夫たちは不作で収穫物がなくて焦ったので渡せなかったのではないか?」という意見を言われた方がありました。なかなか斬新な聖書の読み方です。その意見を聴きながら、確かにそういうリスクも農夫にはあるなと考えさせられます。ただ、ここで聖書が語っているのは、このぶどう園の主人は、厳しい取り決めをしたわけでもなく、農夫たちのことも考えている人物であるということは、ここから読み取れるはずです。しかも、主人は何度も使いを送って、農夫たちが自主的に判断できるように促してもいます。
ぶどう園の主人は、このぶどう園の責任者です。ご自分のぶどう園のすべての権威をもっています。それなのに、農夫たちのことを信頼して、農夫たちが自らの判断で、主人に決められた収穫物を納めるように忍耐を持って待ち続けているのです。
さて、ではこの譬え話を通して主イエスは何を言い表そうとしておられるのでしょうか。このぶどう園の主人は、神様であることは間違いありません。そうすると、ぶどう園はこの場合「神様に託されたイスラエルの国」そのものとも言えますし、「神殿」を指しているとも言えます。ということは、ここで主人から働きを託されている農夫は、「祭司長、律法学者、長老たち」ということになります。
この譬え話の農夫たちの問題点は、主人が遠くにいるので、いつのまにか自分たちに「権威」があると考えてしまって、神様のものであるはずの神の国イスラエルや、その民の人々や、神殿のことも、全部自分たちが決めることができると考えてしまっていることです。
主人である神様は、このイスラエルの国に、神の思いを伝える預言者を何度も送り続けてきました。けれども、イスラエルの人々はこの預言者たちの言葉に耳を傾けてこなかったのです。さらには、この譬え話の最後に主人は、「ご自分の跡取りである愛する息子」を遣わします。きっと、愛する息子を遣わせば、この主人の思いを受け止めてくれるはずだと信じたのです。ところが、農夫たちは自分たちの利益のことしか考えることしかできず、この跡取りを殺してしまったのです。これは、これから主イエスの身に起こることが語られています。この譬え話で明らかになっているのは、自分自身に物事を決定する権威があると考えた、祭司長や律法学者たちの思いが、神のみ思いを侮ってきた、軽んじてきたことが、浮き彫りになっていることです。
「権威」という言葉はギリシャ語で「エクスーシア」と言います。この言葉は「力」を表す言葉でもあります。ただ「力」をあらわす言葉は他にもたくさんあります。ここで、農夫たちは、自分たちの力を示そうとひとり子を殺害します。つまり、別の力、ここでは「暴力」という力を用いて、権力を維持しようと考えたのです。この「暴力」というのはギリシャ語で「ゲバルト」と言いますが、この力は外的な強制力や支配によって他者を服従させようとする力です。けれども、「権力」とか「権威」とされる「エクスーシア」は内面に働きかけ、信頼や正当性に基づく「権威」による力ということができます。
まさに、ここで神が示しておられる「力」「権威」というのは、人を信頼し、何度も何度もチャンスを与え、そうやって信頼感の下に築き上げられていく「力」を示そうとしておられるのです。私たちの主なる神は、強引な暴力によって力を示されるお方ではなく、何度もチャンスを与えてくださる忍耐と赦しの神なのです。
ところが、この譬え話の最後には、このぶどう園の主人はそれをそのままにしてはおかず、やがて、農夫たちを殺してしまう衝撃的な結末が記されています。そう考えると、聖書の神はやはり暴力を振るう神なのかと考えてしまうかもしれません。確かに神の愛と赦し、忍耐が語られているこの譬え話ですが、同時にここでは神の裁きが語られています。
しかし、この神の裁きは、神の暴力ではありません。それは、子どもを育てる時に子どもを叱る愛のようなものです。信頼は、時に叱るというような力を用いることで示されるものであります。先ほどもいいましたが、このエクスーシアという権力は、「人の内側に働きかけ、信頼や正当性に基づく権威」です。正当性に基づく働きかけは、ただ忍耐だけに留まらず、叱ることや、正しい裁きをするという面が不可欠です。秩序を保つための法律や裁判などの処罰の例から見ても、私たちはその意味を理解できると思います。
主なる神は、こうして主人を軽んじ、暴力によって権威を手にしようとした農夫たちに対して、裁きを示されたのでした。
しかし、この話を聞いていた人々は、この話をどう聞いたのでしょうか。16節の後半です。「そんなことが起こってはなりません。」これがこの話を聞いた人々の反応でした。別の翻訳では「そんなことがあってはならない」となっています。この話を聞いた人々は、この主イエスの譬え話を聞いて、これは理不尽な話だと思ったのです。農夫たちは殺されてしまい、農夫たちに与えられていた土地まで奪われてしまう。そんなことがあってはらないと感じたのです。
さて、それに対して主イエスはこう言われました。17節、18節です。
イエスは彼らを見つめて言われた。
「では、
『家を建てる者たちが捨てた石、
それが要の石となった』
と書いてあるのは、どういうことなのですか。
だれでもこの石の上に落ちれば、粉々に砕かれ、またこの石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」
主イエスはここで、詩篇118篇22節のみことばを引用なさいました。「家を建てる者たちが捨てた石/それが要の石となった。」という詩篇です。要の石というのは何のことなかと思って調べてみました。要石というのは、アーチ型の家の門を作る時に、一番真ん中の頂点の部分に入れる「かしら石」のことだそうです。私の印象としては家を建てる時の四隅にある土台の石のことだと思っていましたので、この石は頭の上の部分にくる石のことなんだと知って少しびっくりしました。ただ、英語の翻訳だと「コーナーストーン」となっています。コーナーストーンというのは、まさに四隅の石のことで、この「要の石」という言葉は、どちらの意味としても理解されているようです。
ただ、主イエスがここで言われた「この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします」という意味が「かしら石」だと思うと少しイメージできるのではないでしょうか。いずれにしても、この石は、家を建てる人が見向きもしなかった石、役立たずだと判断された石のことです。その石が、実はとても重要な役割を担っているのだと主イエスはここで言われました。
農夫たちがその権威を軽んじて、これはそれほど大切ではないと捨てたものに、あなたがたは裁かれることになるのだと、主イエスは言われているのです。本当の権威というのは、私たちが自分の判断で、決めることのできるものではなく、その権威はすでに神によって定められているものです。それはまさに人々が安心して生きることができるための秩序をもたらす神の力です。ですから私たちは、この神の権威を本来軽んじることはできません。
この捨てられた石こそが、私たちの主イエスです。このお方は、私たちの人生の土台となってくださるお方です。この主イエスの権威を認め、このお方を受け入れ、このお方の上に私たちの生活を築き上げていくとき、私たちは神に支えられ安心して生きる生活をおくることができるのです。
河野進という詩人がおりました。この方は牧師として働かれた方で、岡山県のハンセン病の方々の施設でも働いておられた方です。この河野進にこういう詩があります。
わたしの前に 貧しい神さまが立っています
わたしのものは 神様からのあずかりもの
はい お返しします
短い詩です。この詩人は、「神は貧しい」と言います。それは、人に自分のすべてを与えてしまって何も持っていないかのようです。河野進は、神のお姿を見て、このお方は全てを与えて貧しくなっておられる神だと感じているということなのでしょう。それほどまでに、自分は豊かに与えられていると感じているのです。神からの信頼が厚いと感じているのです。だから、この神様が必要だとおっしゃるのであれば、いつでもお返ししますと言うのです。
私たちの主は、愛の神です。私たちにすべてを与えてくださるお方です。ご自身のいのちそのものさえも与えようとしてくださるお方です。私たちの主は、私たちに全てを与えて貧しくなってしまうことも厭わないのです。しかし、それに対して、私たちは、人に与えて貧しくなるどころか、自分のものを増やし、所有し、どんどん自分を豊かにしたいと願うような者なのかもしれません。
けれども、私たちの主は、そのような貪欲な私たちに対してでさえ、すべてを与えるほどに私たちのことを信頼してくださるお方なのです。このように私たちに示されたのが、主イエスの愛です。そして、私たちの主人であられる神は、このご自身の愛に私たちが応えるのを忍耐強く待ち続けておられるお方です。このようにして主は、私たちとの信頼関係を築き上げ、私たちの中に神ご自身の主権を、権威を確立しようとなさっておられるのです。
お祈りをいたします。
