2015 年 12 月 27 日

・説教 ローマ人への手紙15章7節「主の愛に生きる」―2015年 年間聖句より

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:17

 

2015.12.27

鴨下 直樹

  

「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」 ローマ人への手紙15章7節

 この一年、元旦礼拝から私たちはこのみ言葉を聞き続けてきました。折に触れてこのみ言葉から語って来ましたし、今年は教会のキャンプでもこの箇所から二回にわたる学びの時を持ちました。役員会でもこの箇所から学びをしました。各会でもこの箇所をとりあげて分かち合いの時を持った会がいくつかあったと思います。そこでも何度かお話をしたとおもいますが、この箇所は、こういう言い方をすることがゆるされるとすれば、「クリスチャン生活の基本」を教える箇所です。キリストがまず、私たちを受け入れてくださいました。そのことがすべての土台です。このみ言葉がなかなか理解できないことがあるとすれば、おそらく、キリストが私を受け入れてくださったということが分からないからだということができます。これは、一人ひとり、どのように受け止めているかは全く異なりますし、なかなかそれはこういうものだと言葉で説明するのも難しい部分があります。というのは、受け入れられるというのは、自分の体験、経験がそれぞれの根拠となっていますので、この受け入れられるということが、その人にとってどれほど重要なことなのか、個人個人に違いがあるのです。

 また、いつもの話になって申し訳ないのですが、私の娘はこの芥見の教会で育っています。しかも、この教会は月曜をのぞいてほぼ毎日、教会に誰かが来ては、さまざまな集会がおこなわれています。娘もまだ三歳ですけれども、当然のように来られた人を受け入れますし、また教会にこられている人も娘を受け入れてくれます。そのことは、本当に私にとって感謝なことです。子育ての本を読んでいましても、今は核家族化しているので、子どもに関わる大人の数が圧倒的に少なくなり、何よりも親が自分の子育てに自信を持つことができなくなっていて、その親の不安感が、子どもに非常に大きな影響を与えているということがどの本にも書かれています。けれども、教会にはそれがありません。みんなが子どもたちを受け入れます。礼拝中、なかなか静かにできなくても、周りのひとたちが受け入れていてくださる。ですから、安心して教会に来ることができます。もちろん、親は申し訳ないという気持ちがあるでしょうし、私にもその気持ちは沢山ありますが、本当にありがたいことだと思っています。けれども、子どもを受け入れるということ一つとってみても、教会はこの世の中とは大きく異なっています。ですから、娘も受け入れられているという確信があるものですから、調子に乗って騒いでしまいます。残念ながら、自分の安心感から、逆に周りの目というのを気にしなくなってしまうことから来る別の問題が生まれてしまうわけです。けれども、それほどに確かな人の愛の中で育つということは今の世の中では当たり前のことではないのです。

 愛される、受け入れられるというのは、愛され、受け入れられることを味わうことの少ない方、孤独の中で生きている人からすればまさに奇跡のようなものです。ですから、ここでパウロが受け入れられているということを前提にしているこの聖書の言葉が、今日に生きる人々には分かりにくくなってしまうのだと言えるのかもしれません。 (続きを読む…)

2015 年 12 月 20 日

・説教 ルカの福音書2章8-20節「主の栄光の輝きに照らされて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:02

 

2015.12.20

鴨下 直樹

 

 暗い夜道を歩いていると、突然、すぐ前の家の戸が開きました。すると、真暗であったところに、急に、家の中の明るい光が輝いて来るのです。その光の中で、はじけるような、家の中の楽しい笑い声が聞こえます。誰かを送り出そうというのでありましょう。やがて、ひとりの人が出て来ます。家の中からは、この人を見送るにぎやかな挨拶が聞こえてくるのです。すると、戸が閉じられます。道は、またもとのままの暗さになってしまいます。出てきた人も、闇の中に呑まれてしまって、あたりは、前と同じようになってしまうのです。
 こういう経験をなさったことのある方は、少なくないと思います。ところが、クリスマスの夜の有様は、それによく似ているのです。

 これは、竹森満佐一牧師のクリスマスの説教の冒頭部分です。私の書斎にはいくつもの説教集がありますけれども、おそらく一番沢山あるのはクリスマスの説教集です。クリスマスの聖書の箇所というのはそれほど多くありません。けれども、毎年、クリスマスの説教をする必要があるのでどうしても常に新しい発見をしたいと思うので、クリスマスの説教ばかりが集まってしまいます。ですから、この時期に私はいつもよりも沢山のクリスマスの説教を読むことになります。その中でも、毎年同じ説教を何度も何度も読み返すものがあります。いつか礼拝で紹介したいと思いながら、今日まで出し惜しみして来たのですが、今日、少し紹介させていただきました。もう、この説教を読んでいますと、それをそのまま初めから最後まで読みたくなるほど、私はこの人の説教に引き込まれてしまいます。今日の聖書を説教するのに、これ以上ないというほどに、見事な描写です。

 暗闇の中で夜番をしていた羊飼いたちがほんの一時、天が開けて天のありさまを垣間見た心情を、今の私たちの生活のある場面になぞらえてみながら、この出来事がどういうことであったのか、そこに思いをいたらせるのです。ここで、羊飼いたちが見た、天の輝きが天からこぼれ出て来たありさまは、夜に、家のにぎやかな声が闇夜にこぼれ出てきたのとは、実際には比較できないほどのものであったに違いありません。けれども、この説教の描写は、この時の出来事がどういうものであったか私たちに知らせるには十分の役割を果たしています。
 クリスマスの夜、それは沈黙の夜でした。クリスマスに賑やかだったのは、この地上ではなくて、天上の出来事です。天の御国のあるじを送り出すために、天使たちがグローリアを歌い、まだ、状況もよく呑み込めない羊飼いたちがその歌声を聞く光栄を与えられたのです。このクリスマスの季節にはいたるところで演奏会が行われます。バッハのクリスマスオラトリオやアベ・マリア、ヘンデルのメサイア、ベートーベンの第九とかがこの時期に各地で演奏が行われます。そういう素晴らしいコンサートにも比べられないような賛美がきっとこの時、天から捧げられたのでしょう。

 クリスマスの賑やかさ、華やかさは本来、地上でつくりだすものではなくて、天にすでにあったものです。私たちがそのことを忘れて、自分たちでクリスマスの楽しさを作り出そうとするのはやはり無理があるのだということに目を止める必要があるのだと思います。
 羊飼いたちが野原で夜番をしていた時、地上では眠りについていました。天では、神のところではあわただしくクリスマスの夜を備えておられたのでしょう。しかし、地上では誰も気づいていなかったのです。ここにクリスマスの大切な意味があります。

 クリスマスは何の備えも、用意もない、夜の闇が支配しているこの地上の世界に突如としてもたらされたのです。つまり、それは誰でも、このクリスマスに招かれているということです。自分で、クリスマスを作り出すのではなくて、思いがけず、天から与えられるもの。それがクリスマスなのです。 (続きを読む…)

2015 年 12 月 13 日

・説教 ルカの福音書2章1-7節「クリスマスのしるし」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:54

 

2015.12.13

鴨下 直樹

 
 昨日、私たちの教会では二つのクリスマス会が行われました。午前には子どもたちのクリスマス会です。近隣の小学校に案内を配布したこともありまして大勢の子どもたちが集まってくれましたし、教会でやっているハレルヤちびっこクラブという未就園児の子どもたちとそのご両親にも案内をいたしましたので、小さな子どもたちも、親と一緒に教会に集いまして、一緒に楽しい祝いの時を持つことができました。また、午後からは私は行くことができませんでしたけれども、マレーネ先生のお宅でもクリスマスの祝いの時を持ちました。たくさんの讃美歌を歌い、一緒に楽しい時間を持ったのだと思います。そのように、クリスマスには色々な方々をお招きして、一緒にクリスマスの喜びをお祝いいたします。それは、まさに、クリスマスが、神が私たちのところに降りてきてくださって、一緒に生きてくださる、共に歩んでくださることになった記念だからです。ですから、私たちも多くの方々を教会にお招きしまして、できるだけ多くの人たちと一緒に、このクリスマスの本当の意味を味わいながら、一緒に喜ぼうとしているのです。

 けれども、今日の聖書の箇所はルカの福音書の2章1節から7節までのところですけれども、ここに書かれている出来事はクリスマスの物語の一部ですが、ここからあまり嬉しい記事を見つけることはできません。書かれているのは当時のローマ皇帝の命令によって住民登録をするようにという勅令が出たこと、そして、その命令に従って人々はそれぞれ自分の生まれた町に戻るため、住民登録をする旅をしなければならなかったこと、そして、その中で、マリヤとヨセフという夫婦も命令に従いベツレヘムという町まで来たけれども、その旅先で子供が生まれたという出来事が記されています。けれども、その生まれたとき、宿屋には場所がなかったために、飼い葉桶にその子どもを寝かせたと記されています。 物語としてはとてもドラマチックですけれども、現実的に考えてみますととても厳しい出来事が記されています。
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2015 年 12 月 6 日

・説教 マタイの福音書1章18-25節「救い主・イエスの誕生の知らせ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:47

 

2015.12.6

鴨下 直樹

 
 アドヴェントに入りました。礼拝堂の前に置かれていますアドヴェントクランツに、二つ目の火が灯されています。こうして少しずつクリスマスが近づいていることを思い起こしていくのです。
 クリスマスにはみなさんも色々な思い出がおありになるだろうと思います。もし時間があれば一度みなさんから聞いてみたいという思いがあります。私にもさまざまなクリスマスの思い出がありますけれども、いつも思い出すのは子供の頃のクリスマスの思い出です。しかし、それは私にとってあまり嬉しい思い出ではありません。

 牧師家庭で育った私は、毎年沢山のクリスマス会に出席します。今年はいくつクリスマス会があると数えながら楽しみにしたものです。そのころ、毎年25日の夜に教会でクリスマス祝会をしていました。まだ小学生の低学年の時だったと思います。毎年のことですけれども、燭火礼拝をしたあとでプレゼント交換という時間がありました。今から三十数年の前の話しですからそれがいくらであったか覚えていませんけれども、いくらと決めて、プレゼントをそれぞれ決められた金額で用意しまして、礼拝のあとで、くじを引きながらプレゼント交換をしたのです。大人と一緒にプレゼントを交換できるということも嬉しかったのですけれども、その時にもらえるプレゼントは子供っぽいものではなかったので、期待していたのです。私も大人にまじってくじを引きまして、プレゼントをもらいました。ところが、その私のプレゼントは私の想像していたようなものではなくて、暖かそうな大人ものの毛糸の靴下でした。私はそれを見て悲しくなって大泣きしてしまいました。周りの大人たちが自分よりも素敵なものをプレゼントとしてもらっているのに、私はなぜ自分ではくこともできない靴下なんかを貰わなくてはいけないかと、人目もはばからず大泣きしてしまったのです。私はいつもクリスマスの季節になるとこの小さな出来事をなぜか思い出してしまうのです。自分の思い通りにならなかった悲しい気持ち、クリスマスなのに、クリスマスは楽しいはずなのに、どうして自分の思うとおりにならないのかという理不尽な悲しみを抱いたことを思い出してしまうのです。そして、なぜあの頃の私はあれほどまでに幼かったのだろうかという小さな自分の未熟さを思い起こしてしまうのです。
 クリスマスというのは多くの人にとってとても楽しみで、気持ちの良い思いに浸ることのできる楽しい思い出が沢山あるのだろうと思います。そして、同時に、そうではなかった思いも同じくらい味わう季節であるのかもしれません。 (続きを読む…)

2015 年 12 月 1 日

今月の礼拝予定(2015年12月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 19:03

12月6日 待降節第二主日

主日主題: 救い主
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: マタイの福音書1章18-25節
説教:「救い主・イエスの誕生の知らせ」 鴨下直樹牧師
聖餐式

午後:役員会、聖歌隊練習

12月13日 待降節第三主日

主日主題: ベツレヘム
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ルカの福音書2章1-17節
説教:「クリスマスのしるし」 鴨下直樹牧師

午後:臨時役員会、月間予定確認会・礼拝準備会、聖歌隊練習、手話講座

12月20日 待降節第四主日

主日主題: 神の栄光
合同礼拝: 午前10時30分
聖書: ルカの福音書2章8-20節
説教:「主の栄光の輝きに照らされて」 鴨下直樹牧師

午後:クリスマス祝会・会食

12月24日 聖夜

聖夜燭火礼拝: 午後7時30分
聖書: マタイの福音書2章1-12節
説教:「東方の三賢者の礼拝」 鴨下直樹牧師

12月27日 降誕節第一主日

主日主題: 愛
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ローマ人への手紙15章7節
説教:「主の愛に生きる」 鴨下直樹牧師

午後:各部会

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