・説教 マタイの福音書1章18-25節「救い主・イエスの誕生の知らせ」
2015.12.6
鴨下 直樹
アドヴェントに入りました。礼拝堂の前に置かれていますアドヴェントクランツに、二つ目の火が灯されています。こうして少しずつクリスマスが近づいていることを思い起こしていくのです。
クリスマスにはみなさんも色々な思い出がおありになるだろうと思います。もし時間があれば一度みなさんから聞いてみたいという思いがあります。私にもさまざまなクリスマスの思い出がありますけれども、いつも思い出すのは子供の頃のクリスマスの思い出です。しかし、それは私にとってあまり嬉しい思い出ではありません。
牧師家庭で育った私は、毎年沢山のクリスマス会に出席します。今年はいくつクリスマス会があると数えながら楽しみにしたものです。そのころ、毎年25日の夜に教会でクリスマス祝会をしていました。まだ小学生の低学年の時だったと思います。毎年のことですけれども、燭火礼拝をしたあとでプレゼント交換という時間がありました。今から三十数年の前の話しですからそれがいくらであったか覚えていませんけれども、いくらと決めて、プレゼントをそれぞれ決められた金額で用意しまして、礼拝のあとで、くじを引きながらプレゼント交換をしたのです。大人と一緒にプレゼントを交換できるということも嬉しかったのですけれども、その時にもらえるプレゼントは子供っぽいものではなかったので、期待していたのです。私も大人にまじってくじを引きまして、プレゼントをもらいました。ところが、その私のプレゼントは私の想像していたようなものではなくて、暖かそうな大人ものの毛糸の靴下でした。私はそれを見て悲しくなって大泣きしてしまいました。周りの大人たちが自分よりも素敵なものをプレゼントとしてもらっているのに、私はなぜ自分ではくこともできない靴下なんかを貰わなくてはいけないかと、人目もはばからず大泣きしてしまったのです。私はいつもクリスマスの季節になるとこの小さな出来事をなぜか思い出してしまうのです。自分の思い通りにならなかった悲しい気持ち、クリスマスなのに、クリスマスは楽しいはずなのに、どうして自分の思うとおりにならないのかという理不尽な悲しみを抱いたことを思い出してしまうのです。そして、なぜあの頃の私はあれほどまでに幼かったのだろうかという小さな自分の未熟さを思い起こしてしまうのです。
クリスマスというのは多くの人にとってとても楽しみで、気持ちの良い思いに浸ることのできる楽しい思い出が沢山あるのだろうと思います。そして、同時に、そうではなかった思いも同じくらい味わう季節であるのかもしれません。
例年、私はアドヴェントだろうとレントであろうとそのような教会の暦に関係なく、その時にしている聖書の講解をそのまま続けて説教をしてきました。けれども、今年のアドヴェントには少しヨハネの福音書を離れて、クリスマスに読まれる聖書箇所から説教をしようと思っています。今日は、このマタイの福音書の1章18節以下のヨセフに天使が現れて、婚約者のマリヤのお腹にいる子どもが聖霊によるものだと告げた箇所です。
このヨセフも、いや、このヨセフこそと言っていいかもしれませんけれども、クリスマスを素直に喜ぶことのできなかった、悲しみを味わった人であったといえると思います。ヨセフはマリヤと結婚の約束をしていました。もう、結婚の約束をして、日本的に言えば結納も終わりまして、結婚の前に一年花嫁は家族の元で生活する最後の時を迎えていた時です。マリヤが少し体調を崩し、様子を見ているとだんだんお腹が大きくなってきて、どうも子供が出来たらしいという事が分かる。ヨセフはそれをどのような苦々しい思いで受け止めようとしていたのだろうかと思うのです。
19節に
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
とあります。
自分の身に覚えのない子を宿している婚約者のマリヤをみながら、ヨセフはやがて妻となるこの人が、姦淫の罪を犯したと騒ぎ立てて、自らの潔白と、自分は被害者だと訴えることもできたのに、ヨセフはそれをしようとはしないで、ひっそりとどこかにやろうとしたというのです。ここに、ヨセフの精一杯悩んだ末の結論が記されています。もちろん、もう一つの選択もあったはずです。誰の子どもか分からない、ただ、妻だけが知っているその子を、自分の子どもと認知して受け入れるという選択が。しかし、ヨセフはそれをしようとは思いませんでした。
何だか、昼間のワイドショーのニュースのようななまなましい人の生活の現実的な醜い姿がここにはあります。身に覚えのない子ども、お腹が大きくなってくる婚約者、自分への裏切りと、これからの生活。ヨセフは、この時、何も将来に望みを見出すことはできなかったはずです。
裏切りと、悲しみ。それでも、妻を守りたいという複雑な思い。これが、ヨセフのクリスマスによって自分にもたらされた悲しい現実でした。自分の思い描いているような楽しいことなんか何処にもない。「俺は孤独だ。みんな俺を馬鹿にしやがって…。」そう叫びたくなるような気持ちになっても仕方がない、それが、ヨセフの現実だったのです。
クリスマスの現実的な姿がここにはあります。しかし、これは、クリスマスの知らせではありませんでした。今でも多くの人はヨセフのような闇の中で、光を求めるようにして街の繁華街を練り歩き、デパートを見て回りながら何かいい知らせはないか、何か楽しい事はないかと探し求めています。それが、人の世界のクリスマスの姿です。けれども、それは、クリスマスの知らせではありません。
クリスマスの知らせは、まさにそのようなヨセフのような人々のところに突然もたらされるのです。
彼がこのことを思い巡らしていた時、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
20節と21節にそのように記されています。そのお腹の子が誰による子どもなのか、そんなことはひょっとしたら聞きたくもなかったかもしれません。神はここでヨセフに語りかけました。ヨセフの現実がどうなのかではなく、神の現実はどうなのかということを。それは、ヨセフにとっては闇なのですが、神にとっては光なのだと、主はヨセフに告げたのです。
ヨセフは自分が被害者だと思っていました。自分は闇の中、どん底の中、けれども悪い人ではなかったので、精一杯の心で、自分ができる最善の道、マリヤが姦淫の罪で石打にされることのない道を選ぼうとしていました。しかし、神のお考えは、ヨセフの考えとはまったく異なるところにありました。あなたが、その妻を受け入れなさい。生まれて来るその子どもにこそ、人を闇から救う道をわたしは備えているのだと言われたのです。
ヨセフにとってここでするべき決断、それは神の言葉を素直に聞くか、自分の受けた悲しみに従って、その時の自分のできる精一杯の方法を選ぶか、そのどちらかを決断しなければなりませんでした。
「その胎に宿っているものは、聖霊によるのです。」それは、ヨセフにしてみれば信じるか、信じないかの選択でした。それを信じてどうなるのか、ヨセフの悲しみは無くなるのか、ヨセフのマリヤへの不信は消えるのか。マリヤから生まれて来る子どもを受け入れることができるのか。信じて受け入れたとしても、何度も何度も、その後、いろんな疑問が浮かんでくるに違いないのです。
この聖書の著者はつづいてこう記しました。22、23節です。
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
この部分はどうもヨセフがここで天使から聞いたということとしては書かれていません。ヨセフが何によって妻を迎え入れることになったのか、決定的な理由はここには記されていません。ただ、明らかなことは、この夢に現れた天使の告げる言葉を、ヨセフは受け入れたのでした。
24節
ヨセフは眠りからさめ、主の使いが命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
クリスマスの奇跡は、処女マリヤからイエスが生まれたということになっているのですが、私からすれば、ヨセフがここでマリヤを受けいれたことこそが奇跡です。人間的に考えれば、ヨセフがマリヤを受け入れる理由がないのです。ヨセフの損得勘定からすればまずあり得ないことです。けれども、ヨセフがここで主の言葉を受け入れたことによって、世界は救い主を得ることになったのです。
神の言葉を受け入れる。それは、いつもそうですけれども、信じるか、信じないかです。そして、自分がそれでどうなるのかということを天秤にかけると、自分にはそれほどメリットがないことが多い。人間的な計算ではそうです。だから、それは、人間の計算や、思いで簡単に決められることではありません。ヨセフがそうであったように、神の言葉を受け入れることができるのは、そうすることができるように神がその決断を支えて下さるからです。けれども、私たちがそうして、神の言葉を受け入れるところに、神は人間の計算では到底思い測ることのできないような素晴らしいものを、恵みを、備えてくださるのです。
クリスマスに多くの人々は浮かれて騒ぎながら楽しい時間を過ごそうとしています。そして、その傍らで多くの悲しい思いをしながら過ごしている人々がいます。神は、まさに、そのような悲しみの中にいる人に、クリスマスに語りかけようとしています。「恐れないで、わたしの言葉を受け入れなさい」、「わたしはあなたを救うために来た。」「わたしはあなたと一緒にいる。」、「このわたしが、この時、あなたの中に生まれようとしているのだ、わたしはあなたの神となり、あなたを救い、あなたとともに生きよう」
主はそのように私たちに語りかけてくださるのです。神の言葉を聞き、受け取ること、その時に、私たちのうちにも救い主・イエス・キリストが生まれてくださるのです。
お祈りをいたします。