2026 年 1 月 18 日

・説教 マルコの福音書8章27-30節「ペテロの信仰告白」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:42

2026.01.18

内山光生

するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」  

マルコ8章29節

序論

 今日の箇所では、ペテロが信仰告白をしています。ペテロはイエス様の問いかけに対して「あなたはキリストです。」と答えたのです。この告白は模範的な解答と言えるのです。その点においては大いに評価ができるのです。けれども、この時点においてペテロが心の中で思っていたキリストというイメージとイエス様の本当の姿との間には、大きなギャップがあったのです。

 つまり、イエス様が何のために地上世界に来られたのかについては、ペテロは何も分かっていなかったのです。しかしながら、前回の箇所において、目の見えない人が2段階に分けて完全に見えるようにされていったように、ペテロを始め他の弟子たちも、最終的にはイエス様がどういうお方なのかをはっきりと理解できるように変えられていくのです。

 今の時点では、ペテロにしても他の弟子たちにしても、何も分かっていないのは確かな事です。しかし、その後、どうなっていくのかを踏まえて今日の箇所を見ていきましょう。

I イエスは誰かについての人々の考え(27~28節)

 ではまず27節から見ていきます。

 イエス様と弟子たちは、この直前には、ガリラヤ湖の北側に位置する漁師が多く住んでいる村、ベツサイダにいました。その後、北の方に向かって行き、ヘルモン山のふもとにあるピリポ・カイサリアに進んで行ったのです。

 当時のピリポ・カイサリアという町は、ローマ皇帝が神としてあがめられたり、更には異教の神々を信じる人々が大勢いたと言われています。つまり、偶像の神々に満ちた町だったのです。ですから、伝道したとしてもなかなか人々が心を開きにくい、そういう地域だったと考えられます。

 けれども、イエス様は敢えて、その町に向かっていったのです。そして、その途中、とても重要な問いかけをしたのでした。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」と。 (続きを読む…)

2026 年 1 月 11 日

・説教 マルコの福音書8章22-26節「はっきりと目が見えるようになった人」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:21

2026.01.11

内山光生

それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。  

マルコ8章25節

序論

 昨年の12月にはクリスマスに関係のある聖書箇所から説教を致しましたが、今日から再び、マルコの福音書に戻ります。

 まず最初に今日の箇所よりひとつ前に、どのような内容が記されていたのかを振り返りたいと思います。マルコの8章14~21節では、イエス様がご自身の弟子たちに向かって「まだ分からないのですか。悟らないのですか。」と言われました。とても厳しい表現が用いられています。それは、この時点で弟子たちが、イエス様の奇跡を目撃しながらも、そこから何も悟っていなかったからでした。つまり、この直前において、わずかなパンから何千にもの人に食べ物を与えた出来事を二度も体験しながらも、イエス様がどういうお方なのかを悟っていなかったからでした。

 イエス様は、しばしば、弟子たちに対して厳しい言い回しをしています。けれども、その背後には、なんとかして弟子たちに霊的真理を悟ってほしいとの願いが込められているのです。つまり、弟子たちはきっと悟ることができる、そういう時が来るとの期待があっての厳しい言葉だと言えるのです。

 人というのは、相手がもう成長する見込みがないと思うと、その人に対して厳しいことを言わなくなる、そういう事があります。期待をしていないゆえに、当たり障りのない態度を取ったりするのです。しかし、あと少しでその人が成長できるかもしれない、そういう期待があるならば、厳しい言い回しをすることがあるのではないでしょうか。

 今日の箇所の直前の出来事で、イエス様は弟子たちに対して「まだ悟らないのですか。」と言われました。しかし、それは「もう間もなく、あなたがたは悟るようになるんですよ。」との期待が込められているのです。今日は取り扱いませんが、次回の箇所では、ようやくペテロの霊的な目が開かれた事が記されています。つまり、イエス様が期待しているように、弟子たちはイエス様がどういうお方なのかを悟ることができるようになっていくのです。

 もちろん、イエス様が復活する前の段階では、ペテロにしても他の弟子たちにしても、まだはっきりとはイエス様がどういうお方なのかを悟ることができていません。ペンテコステの日に、ようやく、はっきりと心の目が開かれるのです。しかし、イエス様が十字架にかかる前の段階においても、主イエスの弟子たちは、ぼんやりとした状態かもしれないけれど、イエス様がメシアだということは理解できているのです。

 今日の箇所の出来事には、目の見えない人が出てきています。この人は、ただただイエス様の憐れみによって、目が見えるようにさせて頂けるのです。このことから、聖書は私たちの霊的な目を開かせてくださるのがイエス様なんだ、ということを示そうとしています。しかも、今回の出来事の場合は、この人自身に信仰があったから見えるようになったのではなく、イエス様の一方的な愛のみわざによって、見えるようになったことが示されているのです。 (続きを読む…)

2025 年 12 月 21 日

・説教 マタイの福音書2章1-11節「礼拝をささげた博士たち」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:12

2025.12.21

内山光生

それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。  

マタイ2章11節

序論

 先ほど、古川長老から絵画を通してのクリスマスのお話を聞くことができました。その絵画の中に東方の博士たちがキリストに礼拝をささげた場面があったと思います。今日は、その場面を中心として、いつもより短めの説教をさせて頂きます。

I エルサレムで質問した博士たち(1~2節)

 ではマタイ2章1~2節を見ていきます。

 イエス・キリストがお生まれになった時代に、当時のユダヤの国では、ヘロデ王が、その国を支配していました。それで、東の方からやってきた博士たちは、ヘロデ王のところに行って、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」がどこにいるかを尋ねたのです。

II 動揺したヘロデ王(3節)

 今の私たちの時代では、クリスチャンにとっては「キリストの誕生」は喜ばしい出来事です。いやクリスチャンでない人にとっても、クリスマスは、町がにぎやかになったり、おいしい食べ物で心が満たされやすい、そういう時期とも言えるのです。

 ところが、キリストが生まれた頃のユダヤの国は、キリストの誕生をお祝いすることが出来ない独特の雰囲気があったのでした。どうやら、ヘロデ王は人々からの評判が悪く、次々と周りの人々を殺害した結果、「あの王は、次に誰を殺すのだろうか。」とうわさされるような王だったのです。ヘロデは、なんと自分の妻や子どもさえも信頼できなくなり、殺害してしまった、そういう王だったのです。

 ですから、3節に「ヘロデ王は動揺した。」とありますが、彼は、本当に自分の地位が奪われるかもしれないと心配していたのです。そして、エルサレムの人々も、王がまた悪さをするのではないかと心配したのです。

 そういう訳で、ユダヤの国の中では、「キリストがお生まれになった」という知らせがあったにもかかわらず、人々は、王に目をつけられてはいけないと考えて、誰もキリストに礼拝をささげに行く人がいなかったのです。 (続きを読む…)

2025 年 12 月 14 日

・説教 マタイの福音書1章18-25「インマヌエルと呼ばれるお方」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:18

2025.12.14

内山光生

「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。  

マタイ1章23節

※ 本日の礼拝説教は、内山師がインフルエンザにかかったために代読となっています。

序論

 皆さん、おはようございます。家族全員がインフルにかかりましたが、回復の方向に向かっています事を感謝いたします。来週には、皆さんにお会いすることができると思います。

 さて、今日は第三アドベントです。クリスマス礼拝が来週に迫っていて、世界中でクリスマスを待ち望む雰囲気が漂っていると思います。今日選んだのは、マタイの福音書によるイエス・キリストの誕生についての箇所です。マタイの福音書では、ヨセフ側の視点でイエス・キリストの誕生が描かれています。一方、ルカの福音書では、マリアの視点で描かれています。両方とも意味深い箇所です。今回は、ヨセフの視点で見ていきたいと思います。

I 聖霊によってみごもったマリア(18節)

 では18節から順番に見ていきます。

 まず確認したいのは、当時のユダヤ社会においては、現代の私たちとは異なる結婚の順序があったということです。すなわち、ユダヤ社会においては、男女二人が婚約をしたら、その時点で二人は夫婦と見なされていた、ということです。おおむね一年ぐらいの婚約期間のうちに、互いに結婚に向けての準備を進めていくのです。

 ですから、マリアとヨセフは、すでに夫婦と見なされているけれども、しかし、まだ結婚している訳ではなかったのです。つまり、マリアが妊娠するというのは、あってはならない事だったのです。けれども、ルカの福音書を読むと、マリアのお腹にイエス様が身ごもった時に、御使いがマリアの前に現れて、聖霊によって身ごもったという事実をお告げになりました。それで、マリア自身は戸惑いながらも、感謝な事として受け止めたのです。

 ところが、聖書にははっきり書かれていないのですが、このマタイの記述を読むと、どうやら、マリアは御使いからのお告げがあった事や自分が聖霊によって身ごもっているという事を周囲に伝えていなかったように感じるのです。マリアは、感謝な思いを心に秘めつつ、沈黙を守っていたのでしょう。

 しかしながら、マリアのお腹が大きくなってくると、お腹に赤ちゃんがやどっている事実を隠しておくことができなくなります。それで、ついに、ヨセフはマリアが妊娠しているのに気づいてしまったのです。事情を知らないヨセフにとっては、様々な苦しい感情が心に湧き出ていたのではないうかと思うのです。例えば、「どうしてマリアは私を裏切ったのだろうか。」あるいは、「もしかしたら、誰かに乱暴をされたのではないか。その相手は誰なのだろう。」そういう感情が出てきていたとしてもおかしくなかったと思うのです。

 聖書は、ヨセフがどのように苦しい思いをしたかについては、一切、沈黙しています。ですから、本当のところは分からないのですが、ヨセフ自身が自分には身に覚えがないとなると、他の誰かと何かがあったに違いない、そう考えるのはごく自然な反応だと思うのです。 (続きを読む…)

2025 年 11 月 16 日

・説教 マルコの福音書8章1-10節「七つのパン」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:55

2025.11.16

内山光生

すると、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。  

マルコ8章6節

序論

 今日の箇所に書かれている出来事は、少し前に記されていた「五つのパンと二匹の魚」と似たような内容となっています。だから、ある人は「これは前の出来事と同じではないか。」と感じるかもしれないのです。そして、「この話は知っているから、軽く流し読みをすればいい。」と考えるのです。ある人々にとっては、同じような内容が繰り返されると、くどいと感じ、興味深く読み進めていくのが難しくなるというのです。

 ですから、似たような内容が続くと、軽く流し読みをしてしまう人が出てくるのです。一方、説教を語る側の立場からすれば、同じような内容が書かれている聖書箇所から説教の準備を進めていく時に、どのような気持ちが出てくるのでしょうか。

 率直に言うと、私自身、「これは以前の箇所と似たような内容だから、何を語ればいいかを見つけ出すために苦労するだろうな。」と感じるのです。それで、いつもよりも慎重にその聖書箇所の内容を見ていく事となるのです。つまり、より一層、何度も何度も読み返す作業が必要になってくるのです。そうしないと、何を語ればいいかが分からなくなるからです。

 さて、聖書の中で似たような内容が出てきた時に、どのように解釈していけばいいかのコツがあります。それは「なぜ同じような出来事が記されているのだろうか。」と疑問に思いつつも、「きっと、それなりの理由があるに違いない。」と考えるのです。そして、そこに書かれている内容の意図が何であるかを考えていくのです。すると、今回の箇所の場合、何かを強調するために、敢えて、似たような内容が記されていることに気づかされるのです。

 結論から言いますと、この奇跡がマルコの福音書に記録されている理由は、主イエスの弟子たちが「イエス様には奇跡を行なう力がある。こんな奇跡を行なうことができるのは神様だからだ。」ということを悟っていなかった事を伝える、そういう意図があるのです。

 イエス様がまことの神様だということをなかなか悟ることができないこの現実は、主イエスの弟子たちに限った事ではありません。つまり、どの時代に生きた人々であっても、しかも、神様のみわざを直接、体験していたとしても、すぐに「イエス様って、本当に偉大な力があるお方だ。」ということを悟ることができるとは限らないのです。

 人々の心というのは、簡単には変わらない。どうしても、自分の中にある常識によって物事を判断してしまう。そういう性質があります。だから、本当の意味で聖書の言っていることを理解するまでに時間がかかる事があるのです。

 しかしながら、聖霊が働く時、「あの出来事は、こういう意味があったんだ。神様って本当に私を導いて下さっているんだ。」ということに気づかされるのです。そのような事を何度も繰り返していくうちに、神様に対する信頼関係が深められていくのです。 (続きを読む…)

2025 年 10 月 19 日

・説教 マルコの福音書7章31-37節「エパタ」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:44

2025.10.19

内山光生

そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。  

マルコ7章34~35節

序論

 先週、久しぶりに本巣の方にある谷汲温泉に行きました。岐阜県には、評判の良い温泉が幾つもありますが、谷汲温泉は私が好きな温泉の一つです。夏の間は、シャワーで済ませていた事が多かったのですが、久しぶりにゆっくりと温泉に浸かると、身体と心が癒される気持ちとなりました。

 別の話ですが、数か月前から私は毎日、足裏マッサージをしていました。もう20年以上前に買ったマッサージ機ですが、ずいぶんお世話になっていて、愛着を持っていました。ところが、先日、突然、その器械が壊れてしまったのでした。とても残念に思いました。けれども、20年以上も用いることができたので、十分に役割を果たしてくれたと感謝しています。と同時に、新たなマッサージ機が必要なので、良い物が手に入るよう神様に祈っています。

 さて今日の箇所は、イエス様による癒しがなされた出来事が記されています。また、結構、有名な箇所なので内容自体は知っている人が多いかと思います。その中にあって、聖書が私たちに伝えようとしている事が何なのかを考えていきたいと思います。

I 耳が聞こえず口の聞けない人が連れてこられる(31~32節)

 31節から見ていきます。

 前回の場面は、ツロの地方、すなわち、ガリラヤ地方よりも北西に位置する異邦人の町が舞台となっていました。イエス様とその弟子たちは、恐らく、ツロの地方で短い期間ですが休息を取るために滞在していたと思われます。

 そして、休息の時が終わると、イエス様とその弟子たちは、再び、宣教活動の拠点となっているガリラヤ湖の方に戻って来られたのです。その地はイエス様の活動拠点ですから、すぐに「イエス様が戻ってこられた」とのうわさが広げられ、そして、大勢の人がイエス様の元にやってきたのではないかと推測できるのです。そういう状況の中で、32節にあるように「耳が聞こえず、口のきけない人」が連れてこられたのでした。

 この人は、目で見ることはできるのですが、しかし、人々が言っていることを自分の耳で聞くことができませんでした。また、自分で話すこともできませんでした。それで、この人の事を助けてあげたいと思った人々によって、イエス様のところに連れてこられたのです。ここに、人々の愛のある行動を垣間見ることができるのです。自分のためではなく、困っている人、苦しんでいる人を助けてあげたい、そういう心を持っている方がおられたのです。

 この人を連れてきた人々は「イエス様ならば、治すことができる」と確信していたのでしょう。事実、今までにイエス様の元に連れてこられた人々は、皆、癒されたのでした。また、前回の箇所に記されている出来事では、イエス様はその場にいない人であっても、その苦しみを取り除くことができるお方だということが示されています。ところが、今回の癒しのみわざは、前回のパターンとは対照的な方法が取られたのです。すなわち、イエス様は助けが必要な人に直接、手を触れてくださり、祈りをささげつつ、癒しのみわざをなしていくのです。 (続きを読む…)

2025 年 10 月 12 日

・説教 マルコの福音書7章24-30節「女性の娘を助けたイエス」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:50

2025.10.12

内山光生

そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」  

マルコ7章29節

序論

 昨日は、当教会で韓国の賛美宣教団オンギジャンイのコンサートがもたれ、すばらしいひと時を持つことができました。個人的な思い出となりますが、今から25年以上前に大垣のルーテル教会を会場に行なわれたオンギジャンイのコンサートに参加した事があり、その頃は割と韓国語での賛美が多かったように記憶しているのですが、今回は日本語での賛美がほとんどで、また、特別に日本人に馴染みのある歌も歌っていただき、心に染みるコンサートとなりました。

 さて、今日の箇所は、前回までの箇所から大幅に舞台が変わっていきます。

I ツロの地方に行かれた主イエス(24節)

 24節から順番に見ていきます。

イエス様とその弟子たちは、今までにガリラヤ地方やユダヤ地方を中心に宣教活動を繰り広げてきました。それらの地域では、一部の町を除いて、多くの人々に受け入れてもらえました。けれども、イエス様と弟子たちが、休みを取ることができない程に忙しくなってしまいました。それで、なんとかして弟子たちと共にリフレッシュする時間が必要だと考えたのでしょう。

 イエス様の取った行動は、ツロの地方に行くという事でした。ツロというのは、ユダヤ人以外の民族、すなわち、異邦人が中心の町で、旧約聖書の時代から知られている町の一つです。ガリラヤ湖から見ると、北西の位置にあり、港町であり、かつて木材の輸出で栄えた時代もありました。けれども、良い材木が取れなくなると、漁師として生計を立てる人が増えたと言われています。聖書の中では、ツロに加えてシドンという町が出てきています。ですから、ツロとシドンをセットで覚えておられる方もおられるでしょう。共に地中海沿いの町なので、聖書の後ろにある地図を見るとすぐに見つけることができる場所です。

 さて、先ほどお伝えしたようにイエス様と弟子たちが、ツロの地方に行かれたのは、休息を取るためであって、その地方の人々に積極的に福音を伝えるためではありませんでした。だから、24節では、「だれにも知られたくないと思っておられた」と書かれているのです。

 普段、多くの人々と接する仕事をしている方の中には、休暇の時こそは、あまり人がいない静かな場所で過ごしたい、そう考えておられる方もおられるかと思います。それで、多少遠い場所であっても、自分がお気に入りの場所に行ってリラックスする時間を持とうとするのです。私も、最近減りましたが、休暇となると、どちらかというと人がたくさん集まる場所よりも、人が少ない公園を散歩する方が落ち着くと感じるのです。

 同じように、イエス様はツロの地方に行けば、自分のもとにやってくる人があまりいないのではないかと考えたのです。ところが、その予想に反して、ガリラヤから離れたツロの地方にまで、イエス様のうわさが広められていたのでした。この地方の人々は、どうやらすでにガリラヤやユダヤの地方でうわさになっている人物がいることを知っていたようです。そして、その中には、イエス様の顔を知っている人もいたのでしょうか。あるいは、雰囲気からして、あのうわさの人物に違いないとさとられたのでしょうか。どのような事だったのかは、はっきりした事は分かりませんが、結果的には、「自分たちの町にイエス様がおられる」そんなうわさが広まってしまい、イエス様たちは、もはや、隠れていることができなくなってしまったのでした。 (続きを読む…)

2025 年 9 月 21 日

・説教 マルコの福音書7章14-23節「人から出てくるもの」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 16:18

2025.09.21

内山光生

イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。…」  

マルコの福音書7章20節

序論

 猛暑が続いた長い夏でしたが、ようやく涼しくなってきました。朝起きて、家の外に出ると半袖では寒いと感じるようになり、秋だなと実感しております。だいぶ先の行事だと思っていた芥見教会のチャペルコンサートも、数週間後に迫ってきました。先週の木曜日と金曜日に新聞折り込みでチラシが配られているそうなので、チラシを見て教会に足を運ぶ人が起こされることを祈っていきたいと思います。

 さて、前回の箇所では律法学者やパリサイ人たちがイエス様の元にやってきて、イエス様の弟子たちがユダヤ人のしきたりを破って、きよめの儀式を行なっていないことを指摘しました。一方、イエス様は、彼らの問題点を指摘していくのです。その流れの中で、今度は、イエス様が群衆に対して大切な事を教えられました。

 今日の箇所の内容は、読めば理解できるかと思います。けれども、イエス様が言われたことを真剣に思い巡らしていくならば、自分自身の問題と向き合うこととなります。いや、そうなるようにと聖書は私たちを導こうとしています。

 ですから、ある意味、今日の箇所は「厳しい内容」と言えるかもしれません。私たちがイエス・キリストが示した福音を受け入れるためには、自分自身の問題と向き合うことを避けて通ることができないのです。けれども、自分こそが罪人なんだと自覚出来た人は、イエス様の十字架の愛がどれ程大きいかに気づかされるのです。その結果、イエス様がなぜ十字架にかかられたのか、その意味が分かるようになるのです。その結果、「イエス様こそまことの救い主だ」と告白する事ができるようになるのです。また、すでにイエス様を信じている人々は、自分の罪がイエス様に赦されていることに感謝を覚えつつ、十字架には私たちの罪をきよめる力があることに目を向けていきましょう。 (続きを読む…)

2025 年 9 月 14 日

・説教 コリント人への手紙第二 12章9節「弱さの中にあっても」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 08:08

2025.09.14

内山光生

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。  

コリント人への手紙第二 12章9節

序論

 今朝、多くの方々と共に「敬老の日礼拝」を奉げることができる恵みを感謝いたします。

 日本においては、元々は毎年9月15日が「敬老の日」で祝日となっていましたが、皆さんご存じのように今から20年程前からは9月の第三月曜日が敬老の日となっています。

 そこで、改めて、敬老の日について調べてみました。どうやら、敬老の日の起源は、1947年に兵庫県のある村で「敬老会」を開催したのがきっかけでした。当時の村長が「高齢者を敬い、知恵を借りて地域を良くしようとした」のが始まりだそうです。

 その運動が全国に広がって行き、ついには1966年に国の祝日として制定され「敬老の日」と呼ばれるようになった、というのです。

 敬老の日というのは、年長者に対する尊敬や感謝な思いを伝えるのに最も適した時と言えます。また、長生きをしている方々にお祝いをする時でもあります。

 一つ曖昧になっている事があります。それは「敬老の日」に祝っていただけるのは、何歳からなのかという問題です。ある人々は、法律上は65歳以上だと考えます。ところが、今の時代においては、多くの場合、65才前後の方々が自分が敬老の日に祝ってもらう対象とは思っていないのが現状です。60代、いや70代前半までは、なんらかの仕事をしている人が増えていて、まだまだ自分は年寄りではない、と考える人が増えているのでしょう。

 5年くらい前に聞いた話ですと、ある自治体では75歳以上に敬老の日の集いの案内が届けられる、との事でした。ところが、最近では、75歳以上だと人数が多すぎるので80歳以上に案内が届くようになった、との情報がありました。お祝いをする施設の収容人数の関係なのでしょうか。その辺りはよく分からないのですが・・・。このように、時代によって敬老に該当する人々の年齢に変化が起こっているのです。 (続きを読む…)

2025 年 8 月 17 日

・説教 マルコの福音書7章1-13節「神のことばを無にしないために」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:54

2025.08.17

内山光生

柔和な者は【主】によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。  

イザヤ29章19節

序論

 ここ数年、ずっと猛暑が続いていて「今年は暑いね」という言葉をよく聞くことがあります。10年以上前までは、これ程の暑さが続くことはなかったように思うのですが、いつの間にか、気温が35度を超えるのは当たり前の事で、場合によっては38度や39度になることもある、そういう時代に入ってしまったようです。

 そういう中にあっても、今、私たち家族が住んでいる高天ヶ原団地では、朝夕は多少、気温が下がるようで、特に早朝に聖書を読んだり祈ったりするには、快適な環境です。暗い時間から、せみの声や鳥の声が鳴り響いていて、音楽をかけなくても、天然のBGMとなって心地よい気持ちで過ごしています。ただ太陽が出てくると、やはりエアコンのある部屋でないと厳しいと感じています。

 さて、聖書の話に進みたいと思います。前回の6章までは、イエス様の宣教活動が多くの町や村に伝えられて行き、特にゲネサレの地では、快く受け入れてもらった事が記されていました。一方、イエス様の教えを受け入れようとしない人々も存在しました。この7章からは、イエス様を受け入れない人たちとイエス様とのやり取りが記されています。

 これらの人々は、一言で言うと「神のことばを無にしていた」のです。イエス様は、彼らの本質を見事に見抜いた上で、強烈なパンチを浴びせたのです。しかしイエス様は、彼らが本当の意味で神様の教えがどういう事なのかを知ってもらいたいがゆえに、彼らの問題点をはっきりと指摘しているのです。

 人というのは、誰かから自分の問題点あるいは自分の所属しているグループの問題点を指摘されると嫌な感情が出てきます。そして、拒絶反応が起こる、そういう場合もあるのです。けれども、神の教えを無にした人生を送り続けているならば、それは、良くないことなのです。ですから、私たちクリスチャンは、自分の考え方や自分の行動が神のみこころにかなったものなのかどうかを思い巡らすことは、意味のあることなのです。 (続きを読む…)

次ページへ »

HTML convert time: 0.219 sec. Powered by WordPress ME