2024 年 7 月 21 日

・説教 マルコの福音書2章13-17節「医者を必要とするのは病人」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:38

2023.7.21

内山光生


序論

 昨日行われた子ども食堂は、97名の参加がありました。毎回、たくさんの方々が芥見教会の子ども食堂に来てくださっていることを神様に感謝いたします。

 子ども食堂では、毎回、メニューが違っていて、よく工夫されているのが分かります。準備をして下さっているボランティアの方々に感謝をいたします。

 小学・中学・高校といよいよ夏休みに入ったと思います。今週は、猛暑日が続くと予報されているので、外で遊ぶよりも室内のクーラーのきいた部屋で過ごすのが良いかもしれません。夏バテにならないよう私も気をつけたいと思います。では今日の箇所を見ていきましょう。

I 召しに応じたレビ(13~14節)

 13~14節を見ていきます。

 この前の箇所は、イエス様がカペナウムの家で中風の人を癒した出来事が記されていました。そして今日の箇所13節では、イエス様はカペナウムの町を出てガリラヤ湖のほとりへ向かった事が記されています。

 イエス様の評判はガリラヤ地方全体に広められていました。それで、群衆がイエス様のもとに集まってきたのです。そして、イエス様は群衆に福音を宣べ伝えたのです。

 14節に移りますと、恐らくカペナウムから割と近い場所と思いますが、イエス様は、レビという取税人が座っているのを見つけました。レビとは、あの12弟子の一人、マタイの事を指しています。恐らく元々の名前がレビであって、弟子になった時、マタイという名前が与えられたのでしょう。

 レビすなわちマタイは、取税人という仕事をしている人です。ですから、最初の弟子に選ばれたペテロたちとは違って、人々から嫌われていた職業の人だったのです。

 取税人は、ローマ帝国の手下となって同じユダヤ人であるにもかかわらず、同胞のユダヤ人から法外な税金を取りたてていました。ですから、今で言う税務署とは、やっている事が異なっていたのです。当時の取税人は、例えば、本来1万円の税金を集めればよかったところを、その何倍も、つまり、2万円とか3万円を集めていたと言われています。そして、1万円だけをローマに収め、残りを自分のふところに入れていたのです。

 こんなおかしな事が、どうして許されるの? と疑問に思うかもしれません。しかし、当時のローマ帝国は、自分たちにきちんと税金を収めてくれれば、余分に税金を集めていようが見て見ぬふりをしていたのです。

 当時の多くのユダヤ人たちは、取税人を嫌っていました。そして、彼らと仲良くすることはありませんでした。

 にもかかわらず、イエス様は取税人レビに声をかけたのです。「わたしについて来なさい」と。ここに人間の感覚と神様の決断とに大きな違いがあるのです。

 ある人々は、イエス様の弟子となって福音を伝える働きをするのならば、人々から信頼されている仕事についている人がいいに違いないと思うかもしれません。確かに、そういう場合もあると思うのです。しかし、神様が誰を招くかに関しては、私たちの常識や感覚とは異なっているのです。

 レビは、すでにイエス様の評判を聞いていたと思うのです。もしかしたら、直接、イエス様の話を遠くから聞いていたかもしれません。あるいは、間接的だけれども、誰かから良いうわさを聞いていたかもしれません。しかし、そんなお方が自分に声をかけて下さるなんて、驚くべき事であったに違いありません。 (続きを読む…)

2024 年 7 月 14 日

・説教 マルコの福音書2章1-12節「罪を赦す権威」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:37

2023.7.14

内山光生


序論

 最近、蝉の声がよく聞こえてくるようになりました。すでに何度か、真夏日となった日がありますが、もうすぐ梅雨が明けて、いよいよ夏本番を迎えようとしています。

 私は4月から芥見教会で奉仕をさせて頂いていますが、あっという間に4か月目となっていることに驚きを覚えます。この調子だと、すぐに1年が過ぎ去るのではないかと感じるのです。

 では順番に聖書を見ていきましょう。

I 中風の人が運ばれてくる(1~3)

 1~3節を見ていきます。

 前回の箇所は、ツァラアトに冒されていた人がイエス様によって癒された出来事が記されていました。それから数日経ってイエス様はカペナウムに戻ってきました。

 カペナウムの町の人々は、イエス様の評判を聞いていたものの、まだ、直接イエス様に会っていない人々が大勢いたと思われます。あるいは、もう一度、イエス様に会いたいと思っていた人もいたと思うのです。それで、イエス様が滞在している家に、多くの人々が押し寄せたのです。

 イエス様が滞在している家の中には、大勢の人が集まりました。更には、戸口のところまでびっしりと人で隙間がないほどになりました。そして、イエス様は、人々に向かって福音を宣べ伝えたのです。

 イエス様が地上世界に遣わされた目的は、あくまでも人々に福音を伝えることです。とはいえ、病で苦しんでいる人を癒したり、悪霊によって苦しんでいる人を解放したりして、助けが必要な人々に対して愛の御手を差し伸べました。

 この時も、イエス様は福音を伝えていたのですが、中風の人が連れてこられたと記されています。中風とは、現代の医学において、恐らく、脳卒中のような病だと考えられます。今の時代においても、脳卒中になると、後遺症が残って、身体の一部分が不自由になることがあります。そうなると、一人で生きていくことが難しくて、誰かの助けによって生活が成り立つのです。

 ここで登場してくる「中風の人」も、自力ではイエス様の元に歩いていくことができない人でした。それで、この人の家族あるいは仲間など四人の人の助けによって、イエス様に治してもらおうとやってきたのです。この姿を通して、この中風の人が周りの人々からどれ程大切にされていたかを垣間見ることができるのではないでしょうか。身体の不自由な人をなんとかして助けたい、その一心で、イエス様が戻ったとの情報が入るや否や、イエス様の元にやってきたのでしょう。 (続きを読む…)

2024 年 6 月 23 日

・説教 マルコの福音書1章40-45節「病のいやし」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:59

2023.6.23

内山光生

序論

 今日の箇所には「病」、つまり「ツァラアトに冒された人」が癒された出来事が記されています。ツァラアトは、以前の翻訳では「らい病」となっていました。しかしながら、聖書の研究が進むにつれて「旧約聖書に記されているらい病は現代医学のらい病と同じではない」ことが分かってきました。

 旧約聖書では、「らい病」は様々な種類の皮膚病のことを指す時に用いられています。そこには幅広い病が含まれています。一方、現代医学のらい病は極めて限定された特定の感染症なのです。

 特に日本においては、以前は、らい病患者に対する差別や偏見があった事から、(現在は法律が改正されたので良い方向に進んでいますが、、、)誤解を与えないためにも「らい病」という言葉を使うのをやめた方が良いとの考えで、新改訳2017版では「ツァラアト」あるいは「ツァラアトに冒された人」と訳されています。別の翻訳では「重い皮膚病」と訳されている事もあります。

 何れにせよ、聖書に出てくる「ツァラアトに冒された人」が、大変みじめな人生を送っていたことは確かなことです。それは、単に病による肉体的苦しみだけでなく、社会的に隔離生活を強いられなければいけないという、精神的苦しみが伴ったからです。

 当時は、ツァラアトに冒されたならば、その人は、一般の人々の前に出て来ることが禁止されていました。恐らく、伴侶や親兄弟とも距離を置かざるを得なかった事でしょう。そのような悲惨な状況が変えられた人の話が今日の箇所に記されています。
 

I ツァラアトの人を癒された主イエス(40~42 )

 では今日の聖書箇所の40~42節から見ていきます。

 先ほど説明したように、当時のユダヤ社会では、ツァラアトに冒された人は隔離された生活をしなければなりませんでした。それゆえ、一般の人が大勢いるような場所に行ってはならなかったのです。

 そのことを考えると、このツァラアトに冒された人は、恐らく、イエス様に近づくためのタイミングを見計らっていたのではないかと思うのです。もしも誰かに「あの人はツァラアトに冒された人だ」と指をさされたら、その場にいることができなくなります。そうならないために、この人はイエス様の周りに人が少なくなった時を見極めて、そのチャンスを生かしてイエス様にお願いしたのではないかと思うのです。

 ツァラアトに冒された人は言います。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」と。この人は、自分が重い皮膚病だという事、そして、他人が自分に触ると病がうつることを自覚していたのでしょう。だからイエス様に病気をうつさないために「お心一つで」と言ったのでしょう。この人は、それなりに気を遣っていたのです。

 さて、40節のこの人の姿を通して、教えられることがあります。それは「イエス様ならば、自分の病を癒すことができる。」と心から信じ、イエス様に近づいていった、という点です。というのも、この時代には、この人以外にも、多くのツァラアトに冒された人がいたと思われます。しかし、常識的に考えると、「人々が大勢いる場所には行くことができない。禁止されているのだから、、、。」と考えるものです。でも、この人は、そのような常識を乗り越え、なんとかして、自分の病が癒されたいと強く願ったのです。 (続きを読む…)

2024 年 6 月 16 日

・説教 マルコの福音書1章35-39節「ガリラヤ全域に福音が伝えられる」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:20

2023.6.16

内山光生

序論

 今日は、父の日です。日常生活においてお父さん方が家族のために労しておられることを覚え、各家庭においてもお父さんに感謝を表す時となることを願います。

 また昨日の子ども食堂も、第三回目となりました。参加者とボランティアをあわせて99名が与えられた事を神様に感謝をいたします。

 さて今日の箇所のタイトルは「ガリラヤ全域に福音が伝えられる」とさせて頂きました。しかし、後でメッセージの準備を進めていく中で別のタイトルの方が良いかもしれない、と思うようになりました。ですから週報には記していませんが、サブタイトルとして「福音を伝えるために」とさせて頂きます。

I 主イエスの祈り(35節)

 では35節を見ていきましょう。

 前回の箇所によると、前の日の夜に、イエス様の元にカペナウムの人々が訪れました。病人や悪霊につかれた人々がイエス様に癒してもらおうと、やって来たのです。そして、イエス様は人々の期待に応え、皆、癒されたのです。

 この時、きっと夜遅くまで癒しの御わざがなされていたと思うのです。それで、イエス様は肉体的に疲れ果てておられたのではないかと推測できるのです。いや、肉体的だけでなく、霊的な疲れを覚えておられた事でしょう。にもかかわらず、イエス様は次の日の朝早いうちに起きて、祈りに専念されたのです。

 ある人は、前の日の疲れが残っているのならば、ゆっくりと寝ていればいいのにと思うかもしれません。私自身も、どちらかと言えば、ゆっくりと寝ているのが好きな方です。ところが、イエス様は自分の疲れを回復させるために、父なる神と祈りによる交わりを持つという方法をとっておられたのです。

 しばしばマルコ1章35節は、ディボーションをする時なら朝早くの時間が良いという聖書的な根拠とされています。確かに、その通りかもしれません。実際、多くの人は朝に聖書を読むと集中しやすいと思っているのです。もちろん、朝が苦手な人もいるかと思いますので、その場合は朝にディボーションしなければと思い込む必要はなく、むしろ、自分にとって一番聖書を読みやすい時間帯を選べばよいのです。

 というのも、他の箇所では、イエス様は昼間に祈っておられる場面がありますし、また夜中に祈っておられる場面もあります。だから、時間にこだわりすぎる必要はないのです。

 イエス様は祈る必要がある時、なんとかして、祈る場所を確保して父なる神との祈りによる交わりに専念されたのです。 (続きを読む…)

2024 年 6 月 9 日

・説教 マルコの福音書1章29-34節「多くの人を癒された主イエス」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:22

2023.6.9

内山光生

序論

 はじめにお伝えしたいことがあります。それは、私が芥見教会において、なぜ”マルコの福音書”から説教をすることにしたかについてです。

私が神学校を卒業してから、最初にとりくんだのが”マタイの福音書”でした。単純に新約聖書の順番に従ってマタイを選んだのでした。順番からすると次はマルコといきたいのですが、私は個人的にルカが好きだったので、次にルカからメッセージをしました。

 そうすると、福音書の中で残っているのが、ヨハネとマルコになります。どちらを選ぼうかなと考えたとき、マルコの方が執筆年代が早いということに気づかされました。それなら、先にマルコをやろうという考えになりました。そういう訳でマルコを選んだのは執筆年代が早いということからです。

 さて、マルコの福音書の特徴は、イエス様の行いや出来事を簡潔に記している、そういう文体となっています。また恐らく、マルコはペテロを通して、イエス様の色々な話を聞いていたと推測できます。それゆえ、マルコの福音書にはペテロの視点が反映されていると言えるでしょう。マルコの福音書の特徴の細かい所については必要に応じてその都度、説明していくことにします。では、今日の箇所を順番に見てきましょう。

I シモンの姑をいやす(29~31節)

 29~31節を見ていきます。

 29節にある”一行”とは、”イエス様とシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ”のことを指しています。この一行はシナゴーグでの礼拝が終わるとすぐに、シモンとアンデレの家に向かったのでした。

 30節では、シモンの姑が熱を出して横になっていたとあります。何が原因で熱が出ていたのかは分かりません。普通の風邪だったのか、それともどこか病気があって熱が出ていたのか、その辺りは何も記されていないのです。だから、私たちがそれぞれ自分の頭の中で推測するしかないのです。いずれにせよ安息日でありながらも礼拝に行くことができない程に辛い状態だったのは確かな事です。

 ある人が考えるには、病人が寝ていたならば、その家を訪ねることは控えようとするかもしれません。なぜかというと、病気がうつったり、感染が人々に広がる危険があるし、何よりも、病人である当事者にとっては静かに寝ているほうが良いと思うからです。

 また、別の人は次のように思うかもしれません。「あの人は今、病気で大変そうだから、何か食べるものでも持っていってあげよう。直接、会うことができなかったとしても、それでもかまわない…」と。

 そういう風に、誰かが病気になった時に取る行動はそれぞれであって、どれが正しいかと判定することはできないのです。

 ところで、シモンたちは、家の中に病人がいるのを分かっていて、どのような行動を取ったでしょうか。それは、自分たちの姑が寝ていたけれども、イエス様を家に招き入れ、姑が熱で寝ていることをイエス様に伝えるということでした。 (続きを読む…)

2024 年 5 月 19 日

・説教 マルコの福音書1章21-28節「主イエスの評判が広まる」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:41

聖霊降臨祭(ペンテコステ)
2023.5.19

内山光生

序論

 今日はペンテコステの日、すなわち、聖霊降臨祭です。ペンテコステの日とは、イエス様があらかじめ弟子たちに伝えていたように “助け主” つまり “聖霊” が( くだ )った事を記念する日です。イエス様の弟子たちは、イエス様の教えを聞いていながらも、本当の意味では福音を理解できていませんでした。例えば、イエス様が十字架の上で苦しまれること、その後、よみがえるということを何度も何度も聞かされていながらも、その意味を悟ることができていなかったのです。

 けれども、イエス様が復活した後でようやく心の目が開かれたのです。そして、ペンテコステの日に聖霊が降ることによって、福音がどういう意味なのかがはっきりと分かるようになったのです。そういう訳で、ペンテコステの日は私たちクリスチャンにとって記念すべき時なのです。

I カペナウムでの宣教 ~人々が驚く~(21~22)

 では21~22節を見ていきます。

 カペナウムという町は、ガリラヤ湖の北西に位置し、交通の便が良いことから割と繁栄していたと言われています。この町がイエス様によるガリラヤ伝道の活動拠点となっていくのです。

 イエス様の伝道方法には、あるパターンがありました。それは会堂、つまり、ギリシア語で言うと “シナゴーグ” において、安息日ごとに聖書の説き明かしをする、という方法です。シナゴーグには、会堂司と呼ばれる人がいて、礼拝において誰に説教をしてもらうかを決める権限がありました。それゆえ、イエス様は会堂司の許可を得て、あるいは、依頼されて聖書の説き明かしをしたのでしょう。

 イエス様の教えは、人々に驚きをもたらしました。マルコの福音書では「人々が驚いた」という表現が至る所に記されています。マルコは、イエス様の教えや行動が、どれ程、人々に驚きをもたらしたかを強調しているのです。

 22節では「その教えに驚いた」とあります。では、なぜ人々は驚いたのでしょうか。当時、聖書の説き明かしをする人は、しばしば「あの有名なラビがこう言っている」とか「言い伝えによれば、こうこうこういうことです」といった感じで、有名な人や有力な言い伝えに頼って、自分の言っていることばに権威を持たせようとしました。ところが、イエス様は、他の説教者のように何かを引用する必要がなかったのです。なぜなら、イエス様ご自身が権威あるお方だったからです。

 私たちは自分の言っていることを信じてもらうために、「誰が言っていたのか。」の出所を大切にします。テレビのニュースで放映されていたり、新聞に書かれている事ならば、ある程度の信頼性があります。一方、インターネットの情報は、しばしば、嘘のニュースが流されることがあって、鵜呑みにできないことを私たちは経験しています。しかしながら、本当に権威あるお方ならば、その人が言うことには言葉では表現しがたい独特の雰囲気があって、人々の心に強い印象を与えるのです。

 イエス様の聖書の説き明かしは、当時の律法の教師とは比較にならない程、権威に満ちておられたのです。それで、人々は驚きを隠せなかったのです。 (続きを読む…)

2024 年 5 月 12 日

・説教 マルコの福音書1章14-20節「人間をとる漁師」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:58

〈ききたまえ〉
2023.5.12

内山光生


序論

 今日は母の日です。それぞれが家庭において、お母さんに感謝をあらわす日となれば幸いです。

I 宣教を開始した主イエス(14~15節)

 14節を見ていきます。

 イエス様が地上において福音宣教を始めたそのタイミングは、ちょうど、あのバプテスマのヨハネが牢屋に入れられた事がきっかけとなりました。

 なぜヨハネが投獄されたかについては、マルコの6章に詳しく記されていますので、今日は簡単に説明するだけにいたします。

 当時、ガリラヤ地方を政治的に治めていた「ヘロデ・アンテパス」が、自分の異母兄弟の妻を奪うという罪を犯しました。その罪を指摘したのがバプテスマのヨハネです。ヨハネは、正義を大切にする人でした。それで権力のあったヘロデ・アンテパスに対してはっきりと何が罪なのかを指摘したのです。しかしそれが原因で、投獄されたのでした。

 さて、ヨハネが投獄された事はイエス様にとっても、ヨハネを信頼していた人にとっても悲しい出来事でした。けれども、その出来事がきっかけとなって、いよいよイエス様によって「神の福音」が力強く伝えられるようになったのです。

 イエス様による宣教の最初の地がどこかというと、「ガリラヤ地方」でした。ガリラヤ地方は、頑固な国粋主義者が多い地域と言われていました。また、地理的な条件から北からの侵略者の攻撃を一番最初に受ける場所とも言われていました。だから、自分たちの国を守ろうとする気持ちが強かったのです。ある意味、保守的な地域だとも言えるでしょう。そんな場所に、どこよりも早く「神の福音」が伝えられることとなったのです。

 ところで、ガリラヤの地に福音の光が届けられることは旧約の預言書にも記されていることであって、神があらかじめ選んでいた地域だったのです。

 今の時代でも、どうしてあの地が、周辺地域で一番最初に開拓伝道地として選ばれたのだろうか? と思う方があるかもしれません。例えば、私たちの同盟福音では、岐阜県の羽島が最初の開拓地域となりました。その理由は、私ははっきりとは知りませんが、どなたかご存じかもしれないですが、、、言えることは、人々の祈りの中で神様がその地で開拓するようにと導いた、そういうことだと思うのです。

 ここに神様の支配があることを私たちは認めざるを得ないのです。 (続きを読む…)

2024 年 4 月 21 日

・説教 マルコの福音書1章9-13節「私の愛する子」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:16

〈全地よ喜べ〉
2023.4.21

内山光生

⇒ 説教音声のみの再生はこちら

(本日はYouTube動画はありません)


序論

 私たちの家族が住んでいる借家において、私は2階の部屋を書斎にしてメッセージの準備をしています。窓の外には木の枝が風に揺さぶられている姿が見えます。また、鳥たちの鳴き声がまるでBGMのように響いています。とても恵まれた環境で聖書と向き合うことができることに感謝をいたします。昨日の子ども食堂も大勢の方が来られたことを感謝いたします。

I バプテスマを受けた主イエス(9節)

 9節から見ていきます。

 イエス・キリストが公に活動を始められる少し前に、バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。悔い改めのバプテスマとは、人々が自分の罪を告白し、神様に心を向けること、それらの「あかし」として水によるバプテスマを授けてもらうこと、そういう意味がありました。

 バプテスマのヨハネの噂は、ユダヤ地方だけでなく多くの地域に広がっていきました。それでガリラヤ地方の田舎町、ナザレという村に住んでいたイエス様もわざわざヨハネの元にやってきたのです。

 マルコの福音書では、この時の詳しい様子が省略されています。一方、マタイによると、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けるのをためらった事が記されています。ヨハネは「どうしてこんな私がイエス様にバプテスマを授ける資格があるのだろうか?」と疑問に思ったのです。

 ある人々は、そもそもイエス様は神の子であって何一つ罪のないお方ではないか。罪がないのに「悔い改める必要」はないのではないか。と考えるかもしれません。確かに、その通りです。イエス様は私たちのように悔い改める必要はないのです。

 けれども、マルコの福音書は、単純に、この時起こった出来事を記すにとどまっていて、私たちの心に浮かぶ疑問に対して沈黙をしています。そしてそれがマルコの福音書の特徴なのです。だから、書かれていないことに目を向けるのではなく、はっきりと記されていることに目を向けていけばよいのです。ただマタイによると、イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたのは、正しいことなんだと記されています。つまりイエス様は、私たち人間に対して、模範を示してくださったのです。イエス様は罪なきお方でした。しかしながら、ヨハネからバプテスマを受けられたことによって、私たち人間に対して、悔い改めて心を神様に向けることの大切さを示して下さったのです。

 まだ洗礼(バプテスマ)を受けていない方々に伝えたいことがあります。それは、イエス様を救い主として受け入れているならば、そして、洗礼を受けたいという気持ちがはっきりと出てきたならば、ぜひ、早めに洗礼を受ける決心をして頂きたいのです。それが神のみこころであって、神に喜ばれる正しい事だからです。 (続きを読む…)

2024 年 4 月 14 日

・説教 マルコの福音書1章1-8節「力のある方が来られる」

Filed under: YouTube動画,内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:06

〈主の慈しみ〉
2023.4.14

内山光生

序論

 皆さん、おはようございます。

 4月から芥見教会で奉仕させて頂いております内山光生です。

 私たち家族は諸事情によって昨年の9月頃から芥見教会の礼拝に集っております。そして私たちが芥見に集い始めてすでに半年以上経ちましたので、ようやく人々の顔と名前が分かるようになってきました。まだまだお話しした事のない方が大勢おられますが、皆様と少しずつ交わりを深めていけたらと願っています。

 短く、自己紹介をいたします。

 私は1972年生まれです。年齢は今は51才。今年の11月で52才になります。生まれは三重県の桑名市多度町で、両親共にクリスチャンです。幼い頃から教会学校や礼拝に集っていて、小学5年の頃にイエス様が救い主だということを知識としてではなく、心の底から信じることができるようになりました。そして、中学1年の夏に洗礼を受ける恵みにあずかりました。しかしながら、中学時代や高校時代は、あまりぱっとしない信仰生活を送っていました。今思うと、学校での悩みや受験の悩みなどで、神様に心を向ける余裕がなかったのでしょう。

 その後、大学受験で失敗し、2年間の浪人生活を送りました。その試練を通して、私は神様の存在をより強く感じるようになり、大学1年の冬に、献身の思いが与えられました。祈りと導きの中で、5年間、会社員として働きました。そして29才の時に神学校に入学し、33才の時から牧師として奉仕をしています。

 家族は妻と息子です。それでは聖書を順番に見ていきます。

I 表題(1節) ~はじめ~

 1節を見ていきます。

 ここには、イエス様がどういうお方なのかが示されています。そして、イエス様は神の子であって、キリストだということが分かってきます。そこで、「イエス・キリストの福音のはじめ」と表現されていますが、福音とは、どういう意味でしょうか。

 私たちはしばしば福音とは「良い知らせ」という意味だと受け止めます。厳密には、「福音」は元々は別の意味だったのですが、聖書の中に出てくる「福音」は「良い知らせ」という意味でよいかと思います。 (続きを読む…)

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