2025 年 11 月 16 日

・説教 マルコの福音書8章1-10節「七つのパン」

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2025.11.16

内山光生

すると、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。  

マルコ8章6節

序論

 今日の箇所に書かれている出来事は、少し前に記されていた「五つのパンと二匹の魚」と似たような内容となっています。だから、ある人は「これは前の出来事と同じではないか。」と感じるかもしれないのです。そして、「この話は知っているから、軽く流し読みをすればいい。」と考えるのです。ある人々にとっては、同じような内容が繰り返されると、くどいと感じ、興味深く読み進めていくのが難しくなるというのです。

 ですから、似たような内容が続くと、軽く流し読みをしてしまう人が出てくるのです。一方、説教を語る側の立場からすれば、同じような内容が書かれている聖書箇所から説教の準備を進めていく時に、どのような気持ちが出てくるのでしょうか。

 率直に言うと、私自身、「これは以前の箇所と似たような内容だから、何を語ればいいかを見つけ出すために苦労するだろうな。」と感じるのです。それで、いつもよりも慎重にその聖書箇所の内容を見ていく事となるのです。つまり、より一層、何度も何度も読み返す作業が必要になってくるのです。そうしないと、何を語ればいいかが分からなくなるからです。

 さて、聖書の中で似たような内容が出てきた時に、どのように解釈していけばいいかのコツがあります。それは「なぜ同じような出来事が記されているのだろうか。」と疑問に思いつつも、「きっと、それなりの理由があるに違いない。」と考えるのです。そして、そこに書かれている内容の意図が何であるかを考えていくのです。すると、今回の箇所の場合、何かを強調するために、敢えて、似たような内容が記されていることに気づかされるのです。

 結論から言いますと、この奇跡がマルコの福音書に記録されている理由は、主イエスの弟子たちが「イエス様には奇跡を行なう力がある。こんな奇跡を行なうことができるのは神様だからだ。」ということを悟っていなかった事を伝える、そういう意図があるのです。

 イエス様がまことの神様だということをなかなか悟ることができないこの現実は、主イエスの弟子たちに限った事ではありません。つまり、どの時代に生きた人々であっても、しかも、神様のみわざを直接、体験していたとしても、すぐに「イエス様って、本当に偉大な力があるお方だ。」ということを悟ることができるとは限らないのです。

 人々の心というのは、簡単には変わらない。どうしても、自分の中にある常識によって物事を判断してしまう。そういう性質があります。だから、本当の意味で聖書の言っていることを理解するまでに時間がかかる事があるのです。

 しかしながら、聖霊が働く時、「あの出来事は、こういう意味があったんだ。神様って本当に私を導いて下さっているんだ。」ということに気づかされるのです。そのような事を何度も繰り返していくうちに、神様に対する信頼関係が深められていくのです。 (続きを読む…)

2025 年 10 月 19 日

・説教 マルコの福音書7章31-37節「エパタ」

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2025.10.19

内山光生

そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。  

マルコ7章34~35節

序論

 先週、久しぶりに本巣の方にある谷汲温泉に行きました。岐阜県には、評判の良い温泉が幾つもありますが、谷汲温泉は私が好きな温泉の一つです。夏の間は、シャワーで済ませていた事が多かったのですが、久しぶりにゆっくりと温泉に浸かると、身体と心が癒される気持ちとなりました。

 別の話ですが、数か月前から私は毎日、足裏マッサージをしていました。もう20年以上前に買ったマッサージ機ですが、ずいぶんお世話になっていて、愛着を持っていました。ところが、先日、突然、その器械が壊れてしまったのでした。とても残念に思いました。けれども、20年以上も用いることができたので、十分に役割を果たしてくれたと感謝しています。と同時に、新たなマッサージ機が必要なので、良い物が手に入るよう神様に祈っています。

 さて今日の箇所は、イエス様による癒しがなされた出来事が記されています。また、結構、有名な箇所なので内容自体は知っている人が多いかと思います。その中にあって、聖書が私たちに伝えようとしている事が何なのかを考えていきたいと思います。

I 耳が聞こえず口の聞けない人が連れてこられる(31~32節)

 31節から見ていきます。

 前回の場面は、ツロの地方、すなわち、ガリラヤ地方よりも北西に位置する異邦人の町が舞台となっていました。イエス様とその弟子たちは、恐らく、ツロの地方で短い期間ですが休息を取るために滞在していたと思われます。

 そして、休息の時が終わると、イエス様とその弟子たちは、再び、宣教活動の拠点となっているガリラヤ湖の方に戻って来られたのです。その地はイエス様の活動拠点ですから、すぐに「イエス様が戻ってこられた」とのうわさが広げられ、そして、大勢の人がイエス様の元にやってきたのではないかと推測できるのです。そういう状況の中で、32節にあるように「耳が聞こえず、口のきけない人」が連れてこられたのでした。

 この人は、目で見ることはできるのですが、しかし、人々が言っていることを自分の耳で聞くことができませんでした。また、自分で話すこともできませんでした。それで、この人の事を助けてあげたいと思った人々によって、イエス様のところに連れてこられたのです。ここに、人々の愛のある行動を垣間見ることができるのです。自分のためではなく、困っている人、苦しんでいる人を助けてあげたい、そういう心を持っている方がおられたのです。

 この人を連れてきた人々は「イエス様ならば、治すことができる」と確信していたのでしょう。事実、今までにイエス様の元に連れてこられた人々は、皆、癒されたのでした。また、前回の箇所に記されている出来事では、イエス様はその場にいない人であっても、その苦しみを取り除くことができるお方だということが示されています。ところが、今回の癒しのみわざは、前回のパターンとは対照的な方法が取られたのです。すなわち、イエス様は助けが必要な人に直接、手を触れてくださり、祈りをささげつつ、癒しのみわざをなしていくのです。 (続きを読む…)

2025 年 10 月 12 日

・説教 マルコの福音書7章24-30節「女性の娘を助けたイエス」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:50

2025.10.12

内山光生

そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」  

マルコ7章29節

序論

 昨日は、当教会で韓国の賛美宣教団オンギジャンイのコンサートがもたれ、すばらしいひと時を持つことができました。個人的な思い出となりますが、今から25年以上前に大垣のルーテル教会を会場に行なわれたオンギジャンイのコンサートに参加した事があり、その頃は割と韓国語での賛美が多かったように記憶しているのですが、今回は日本語での賛美がほとんどで、また、特別に日本人に馴染みのある歌も歌っていただき、心に染みるコンサートとなりました。

 さて、今日の箇所は、前回までの箇所から大幅に舞台が変わっていきます。

I ツロの地方に行かれた主イエス(24節)

 24節から順番に見ていきます。

イエス様とその弟子たちは、今までにガリラヤ地方やユダヤ地方を中心に宣教活動を繰り広げてきました。それらの地域では、一部の町を除いて、多くの人々に受け入れてもらえました。けれども、イエス様と弟子たちが、休みを取ることができない程に忙しくなってしまいました。それで、なんとかして弟子たちと共にリフレッシュする時間が必要だと考えたのでしょう。

 イエス様の取った行動は、ツロの地方に行くという事でした。ツロというのは、ユダヤ人以外の民族、すなわち、異邦人が中心の町で、旧約聖書の時代から知られている町の一つです。ガリラヤ湖から見ると、北西の位置にあり、港町であり、かつて木材の輸出で栄えた時代もありました。けれども、良い材木が取れなくなると、漁師として生計を立てる人が増えたと言われています。聖書の中では、ツロに加えてシドンという町が出てきています。ですから、ツロとシドンをセットで覚えておられる方もおられるでしょう。共に地中海沿いの町なので、聖書の後ろにある地図を見るとすぐに見つけることができる場所です。

 さて、先ほどお伝えしたようにイエス様と弟子たちが、ツロの地方に行かれたのは、休息を取るためであって、その地方の人々に積極的に福音を伝えるためではありませんでした。だから、24節では、「だれにも知られたくないと思っておられた」と書かれているのです。

 普段、多くの人々と接する仕事をしている方の中には、休暇の時こそは、あまり人がいない静かな場所で過ごしたい、そう考えておられる方もおられるかと思います。それで、多少遠い場所であっても、自分がお気に入りの場所に行ってリラックスする時間を持とうとするのです。私も、最近減りましたが、休暇となると、どちらかというと人がたくさん集まる場所よりも、人が少ない公園を散歩する方が落ち着くと感じるのです。

 同じように、イエス様はツロの地方に行けば、自分のもとにやってくる人があまりいないのではないかと考えたのです。ところが、その予想に反して、ガリラヤから離れたツロの地方にまで、イエス様のうわさが広められていたのでした。この地方の人々は、どうやらすでにガリラヤやユダヤの地方でうわさになっている人物がいることを知っていたようです。そして、その中には、イエス様の顔を知っている人もいたのでしょうか。あるいは、雰囲気からして、あのうわさの人物に違いないとさとられたのでしょうか。どのような事だったのかは、はっきりした事は分かりませんが、結果的には、「自分たちの町にイエス様がおられる」そんなうわさが広まってしまい、イエス様たちは、もはや、隠れていることができなくなってしまったのでした。 (続きを読む…)

2025 年 9 月 21 日

・説教 マルコの福音書7章14-23節「人から出てくるもの」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 16:18

2025.09.21

内山光生

イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。…」  

マルコの福音書7章20節

序論

 猛暑が続いた長い夏でしたが、ようやく涼しくなってきました。朝起きて、家の外に出ると半袖では寒いと感じるようになり、秋だなと実感しております。だいぶ先の行事だと思っていた芥見教会のチャペルコンサートも、数週間後に迫ってきました。先週の木曜日と金曜日に新聞折り込みでチラシが配られているそうなので、チラシを見て教会に足を運ぶ人が起こされることを祈っていきたいと思います。

 さて、前回の箇所では律法学者やパリサイ人たちがイエス様の元にやってきて、イエス様の弟子たちがユダヤ人のしきたりを破って、きよめの儀式を行なっていないことを指摘しました。一方、イエス様は、彼らの問題点を指摘していくのです。その流れの中で、今度は、イエス様が群衆に対して大切な事を教えられました。

 今日の箇所の内容は、読めば理解できるかと思います。けれども、イエス様が言われたことを真剣に思い巡らしていくならば、自分自身の問題と向き合うこととなります。いや、そうなるようにと聖書は私たちを導こうとしています。

 ですから、ある意味、今日の箇所は「厳しい内容」と言えるかもしれません。私たちがイエス・キリストが示した福音を受け入れるためには、自分自身の問題と向き合うことを避けて通ることができないのです。けれども、自分こそが罪人なんだと自覚出来た人は、イエス様の十字架の愛がどれ程大きいかに気づかされるのです。その結果、イエス様がなぜ十字架にかかられたのか、その意味が分かるようになるのです。その結果、「イエス様こそまことの救い主だ」と告白する事ができるようになるのです。また、すでにイエス様を信じている人々は、自分の罪がイエス様に赦されていることに感謝を覚えつつ、十字架には私たちの罪をきよめる力があることに目を向けていきましょう。 (続きを読む…)

2025 年 9 月 14 日

・説教 コリント人への手紙第二 12章9節「弱さの中にあっても」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 08:08

2025.09.14

内山光生

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。  

コリント人への手紙第二 12章9節

序論

 今朝、多くの方々と共に「敬老の日礼拝」を奉げることができる恵みを感謝いたします。

 日本においては、元々は毎年9月15日が「敬老の日」で祝日となっていましたが、皆さんご存じのように今から20年程前からは9月の第三月曜日が敬老の日となっています。

 そこで、改めて、敬老の日について調べてみました。どうやら、敬老の日の起源は、1947年に兵庫県のある村で「敬老会」を開催したのがきっかけでした。当時の村長が「高齢者を敬い、知恵を借りて地域を良くしようとした」のが始まりだそうです。

 その運動が全国に広がって行き、ついには1966年に国の祝日として制定され「敬老の日」と呼ばれるようになった、というのです。

 敬老の日というのは、年長者に対する尊敬や感謝な思いを伝えるのに最も適した時と言えます。また、長生きをしている方々にお祝いをする時でもあります。

 一つ曖昧になっている事があります。それは「敬老の日」に祝っていただけるのは、何歳からなのかという問題です。ある人々は、法律上は65歳以上だと考えます。ところが、今の時代においては、多くの場合、65才前後の方々が自分が敬老の日に祝ってもらう対象とは思っていないのが現状です。60代、いや70代前半までは、なんらかの仕事をしている人が増えていて、まだまだ自分は年寄りではない、と考える人が増えているのでしょう。

 5年くらい前に聞いた話ですと、ある自治体では75歳以上に敬老の日の集いの案内が届けられる、との事でした。ところが、最近では、75歳以上だと人数が多すぎるので80歳以上に案内が届くようになった、との情報がありました。お祝いをする施設の収容人数の関係なのでしょうか。その辺りはよく分からないのですが・・・。このように、時代によって敬老に該当する人々の年齢に変化が起こっているのです。 (続きを読む…)

2025 年 8 月 17 日

・説教 マルコの福音書7章1-13節「神のことばを無にしないために」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:54

2025.08.17

内山光生

柔和な者は【主】によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。  

イザヤ29章19節

序論

 ここ数年、ずっと猛暑が続いていて「今年は暑いね」という言葉をよく聞くことがあります。10年以上前までは、これ程の暑さが続くことはなかったように思うのですが、いつの間にか、気温が35度を超えるのは当たり前の事で、場合によっては38度や39度になることもある、そういう時代に入ってしまったようです。

 そういう中にあっても、今、私たち家族が住んでいる高天ヶ原団地では、朝夕は多少、気温が下がるようで、特に早朝に聖書を読んだり祈ったりするには、快適な環境です。暗い時間から、せみの声や鳥の声が鳴り響いていて、音楽をかけなくても、天然のBGMとなって心地よい気持ちで過ごしています。ただ太陽が出てくると、やはりエアコンのある部屋でないと厳しいと感じています。

 さて、聖書の話に進みたいと思います。前回の6章までは、イエス様の宣教活動が多くの町や村に伝えられて行き、特にゲネサレの地では、快く受け入れてもらった事が記されていました。一方、イエス様の教えを受け入れようとしない人々も存在しました。この7章からは、イエス様を受け入れない人たちとイエス様とのやり取りが記されています。

 これらの人々は、一言で言うと「神のことばを無にしていた」のです。イエス様は、彼らの本質を見事に見抜いた上で、強烈なパンチを浴びせたのです。しかしイエス様は、彼らが本当の意味で神様の教えがどういう事なのかを知ってもらいたいがゆえに、彼らの問題点をはっきりと指摘しているのです。

 人というのは、誰かから自分の問題点あるいは自分の所属しているグループの問題点を指摘されると嫌な感情が出てきます。そして、拒絶反応が起こる、そういう場合もあるのです。けれども、神の教えを無にした人生を送り続けているならば、それは、良くないことなのです。ですから、私たちクリスチャンは、自分の考え方や自分の行動が神のみこころにかなったものなのかどうかを思い巡らすことは、意味のあることなのです。 (続きを読む…)

2025 年 8 月 10 日

・説教 マルコの福音書6章53-56節「ゲネサレでのいやし」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:14

2025.08.10

内山光生

村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。  

マルコ6章56節

序論

 イエス・キリストが人々の前で宣教活動を開始した時、主イエスは二つの事をしました。一つは、福音を伝えることです。もう一つが、病人を癒したり、悪霊で苦しんでいる人々を悪霊から解放する事でした。つまり、主イエスは単なる知識を教えるのではなく、苦しんでいる人々の身体の問題や心の問題に対しても光を与えようとしたのです。

 また、イエス様はお一人で宣教活動をするのではなく、早い段階で弟子たちを選んで、弟子たちを引き連れて宣教活動をする方法をとりました。自分一人だけで福音を伝えるのではなく、福音を信じたその人を用いて、更に多くの人々に福音が伝えられていくことを願ったのです。

 もちろん、最初の頃はイエス様が中心となってみことばを語り、そして、癒しのみわざをなしてきました。けれども、ある段階になると、弟子たちを二人一組にして、多くの町や村に遣わしたのです。

 宣教活動を任せられた弟子たちは、あらかじめイエス様から権威を授けられました。それで、彼らもまた、力強くみことばを語ったり、癒しのみわざを行なうことができたのでした。すでにイエス様の力を体験していた弟子たちです。ところが、彼らはイエス様がどういうお方なのかを本当の意味では悟っていなかったのでした。弟子たちは色々な失敗を通してイエス様のことを深く知るようになっていくのです。

 このことから、人というのはイエス様が本当にどういうお方なのかを悟るためには、様々な経験が必要だということが分かってきます。単なる知識だけでは、イエス様がどれほど偉大なお方なのかについて知ることができないのです。また、弟子たちのように、たとえイエス様から権威が与えられたとしても、必ずしもイエス様の事を十分に知っているとは限らないのです。

 イエス様の弟子たちの信仰は、まだまだ未熟な状態でした。しかし、もっと不信仰な人々が存在しました。それは今日の箇所より少し前の箇所に記されています。たとえば、イエス様とその一行がゲラサ人の地に到着した時、悪霊で苦しんでいる人がいました。そこで、イエス様はその人から悪霊を追い出したのです。それで、その人は正気に戻り、イエス様によって苦しみから解放されたと受け止めたのです。本人は、イエス様に感謝をささげていました。ところが、ゲラサ人の地に住んでいた人々は、イエス様のことを警戒したのです。そして、イエス様に対して「出ていってください」と言ったのでした。その結果、ゲラサ人の地の人々は、イエス様の福音に触れる機会を失ったのでした。

 また、イエス様の故郷ナザレの町においても、その町の人々は「イエス様がすばらしいお方だ」といううわさを聞いていたにもかかわらず、イエス様を受け入れようとしませんでした。人々の心がかたくなになっていて、イエス様に心を開かなかったのでした。それで、不本意ながらも、イエス様はナザレの町では、大きなみわざを行なうことができなかったのでした。

 このように、イエス様が福音を伝えたとしても、すべての町や村がイエス様を歓迎した訳ではなかったのでした。一方、今日の箇所において、ゲネサレの地に住んでいる人々は、イエス様を歓迎し、また、イエス様の良い噂を広めていったことが記されています。この地の人々は、素直な心でイエス様の語る福音を受け入れ、更には、イエス様には癒す力があるという事を喜んで受け入れたのです。 (続きを読む…)

2025 年 7 月 20 日

・説教 マルコの福音書6章45-52節「主イエスに気づけなかった弟子たち」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:05

2025.07.20

内山光生

みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。  

マルコの福音書6章50節

序論

 一般的に言うと、職場における上司や経営側に立っている人の視点から見れば、物事をすぐに吸収する人、仕事を覚えるのが早い人の方が好まれる傾向があるでしょう。また、学校においても、勉強ができると先生や親から褒めてもらえる、そういう現実があるかもしれません。

 少し前までは、古本屋に行くと「効率のいい仕事の仕方」とか「勉強ができるようになるための秘訣」といった種類の本がたくさん並べられていて、私自身もそのような本を手に取って、参考にしていました。けれども、今の時代では、インターネットのユーチューブを見ると、分かりやすく、また、すぐに効果がでるような仕事の仕方や勉強方法が無数にあふれています。ただ、あまりにも情報量が多いので、どれが自分にあっているのかが分からなくなり、無駄な時間を過ごすことになる事もあるようです。また、事実と異なっていたり、いいかげんな情報も含まれていますので、それらを判別するためには、ある程度の経験が必要となります。

 多くの人々は、なるべく早く物事を吸収したいと願っていて、そして、そういう事がうまくできるのが良いことなんだ、そういう価値観の影響を受けているのです。それゆえ、そのような基準で考えると、確かに、職場などにおいても、言われたことを素直にすばやく吸収していく人が良い評価を受けやすい、そういう現実があるのです。

 ところが、私たちの信仰について考えるとき、必ずしも、この世の基準が当てはまるとは限らないのです。誤解を恐れずに言うと、聖書を効率よく読んでいき、そこに書かれていることを吸収するのが早ければ、それがいいことなんだ、とは言えないのです。というのも、ゆっくりかもしれないですが、聖書の教えを着実に実生活につなげていく、そういうタイプの人もおられますし、年齢によってはみことばを吸収する速度が早い時期とそうでない時期があるからです。

 また、人間というのは、そう簡単に自分の中にある罪深い言動が変わっていく訳ではないのです。自分では良くないことだと分かっていても、ついつい、家族に対して、冷たい言葉が出てきてしまったり、相手が不快に感じる言動をしてしまう、誰もがそういう弱さを持っているのです。いや、家族だからこそ、自分の弱さが出てしまうのでしょう。

 実は旧約時代の信仰の父と呼ばれているアブラハムでさえも、神様に出会った最初の頃は決して、立派な信仰者とは言えなかったのです。アブラハムが何度も何度も同じ過ちを犯した事が聖書に記録されているのです。例えば、外国の地において、自分たちの命の危険が迫ってくると、自分の妻のことを「あれは妹です。」とごまかしたのでした。しかも、同じような事を2回繰り返したのでした。ところが、神様は、そのようなアブラハムが年老いた頃には、立派な信仰者へと成長させてくださったのです。

 同じように、イエス様の弟子たちも、何度も何度も、失敗を繰り返したのです。更には、イエス様が捕らえられた時に、皆、一斉にイエス様の元から逃げ出したのです。けれども、イエス様はそんな弟子たちに怒りをぶつけたり文句を言ったりしませんでした。むしろ、彼らが立ち直る事ができるよう祈ってくださったのです。それらの事実を通して、私たちは、神様のふところの大きさに気づかされるのです。

 この世の基準では優等生タイプの人が評価されやすい傾向があります。けれども、神は、霊的な成長が遅い人であっても、決して見捨てないお方なのです。また、たとえ失敗を繰り返す人であっても、何度も何度も赦して下さるお方なのです。 (続きを読む…)

2025 年 7 月 13 日

・説教 マルコの福音書6章30-44節「五つのパンと二匹の魚」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 08:53

2025.07.13

内山光生

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。

マルコ6章41節

序論

 今日の箇所は、イエス様の行なった奇跡の中でも割と有名なものです。しばしば「五つのパンと二匹の魚」と呼ばれています。そして、この出来事は、マルコの福音書を含め4つの福音書すなわちマタイとルカとヨハネにも同じ内容が記されています。しかしながら、それぞれの福音書記者が強調している部分が少しずつ異なっているのです。

 ですから、私たちは「あ、この話は聞いたことがある。」と早急に判断するのではなく、今読んでいるマルコでは、この出来事から何を伝えようとしているのかを読み取っていくことが大切なのです。

 最初に結論をお伝えします。マルコによると、5千人の男たちに食事を与えるという奇跡が行なわれる前に、弟子たちを休ませようとしています。つまり、イエス様は人間の肉体の弱さを知っておられ、必要に応じて休息を取ることの大切さを示そうとしています。その流れの中で、大いなる奇跡が行なわれているのです。

 イエス様がこの奇跡を行なった目的は、イエス様は人々にみことばを語るだけでなく、人々の肉的欲求、この場合は、お腹が空いている状態をよく理解して下さるお方だということが示されています。そして、イエス様は人間の肉的欲求の一つである腹ペコになっているお腹を十分に満たして下さるお方なんだということが示されているのです。一言で言うとイエス様は私たちの身体に対して配慮してくださるお方なんだという事が示されているのです。

 順番に見ていきましょう。

I 休息するよう促した主イエス(30~31節)

 30節と31節を見ていきます。

 イエス様の使徒たち、すなわち、弟子たちは、二人一組となって伝道旅行に遣わされていました。この旅行は、彼らにとっては自分たちだけで行なった初めての伝道活動であって、かなりの緊張感や不安な気持ちがあったと思われます。また、色々な町や村を渡り歩いたために、肉体的な疲れを覚えていたと推測することができます。

 伝道活動を終え、彼らは、イエス様にどのような事が起こったのかを詳しく伝えたのでした。イエス様は使徒たちから一通りの報告を聞くと、すぐに「寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」と命じられたのです。自分たちの周りに多くの人々が出入りしていたので、あまりにも忙しくて食事をとる時間さえなかったからでした。

 私たちが伝道活動をする際に、これ程にまで忙しかったならば、かえってうれしい気持ちとなるかもしれません。そして、多少の無理をしてでも人々の要求に応えていきたいという思いが出てくるかもしれません。人々が救いを求めて集まってくることは、神様にとっても私たちにとってもうれしい事だからです。

 しかしながら、それでも休息を取る時間を削っていくならば、長い期間、活動を続けることができなくなります。それゆえ、イエス様は使徒たちに対して「しばらく休みなさい」と命じられたのです。使徒たちによる伝道活動は1回限りの事ではありません。この後、何度も何度も繰り返されていくのです。また、イエス様が天に昇られた後も、生涯、続けられていくのです。ですから、イエス様は、奉仕をする時と休む時の区別をしっかりするようにと促しているのです。

 教会において、伝道活動をする時も同じような事が言えるでしょう。つまり、自分たちの肉体的な疲れをきちんと回復させることも大切であって、その部分を軽く扱うと、結局は、長続きしない可能性が高くなるのです。

 イエス様は、私たちの肉的な弱さをよくご存知のお方なのです。ですから、私たちに対して「肉体の限界まで奉仕しなさい」とは言われないのです。むしろ、「休みなさい」と言って下さるお方なのです。その事を教会全体で共有していくことが、結局は、私たちが喜んで神様に仕えていくための秘訣となっていくのです。 (続きを読む…)

2025 年 6 月 15 日

・説教 マルコの福音書6章14-29節「悲しみを通して教えられる事」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 08:20

2025.06.15

内山光生

主の聖徒たちの死はの目に尊い。  詩篇119篇15節

序論

 今日は父の日です。普段、ご家庭において父親の存在がどれ程、感謝に値することなのかを考えることが少ないかもしれませんが、年に一度の父の日は、しっかりとお父さん方に感謝の言葉をかけて頂けると良いかと思います。

 さて、今日の箇所には「バプテスマのヨハネが殺害された事」について記されています。バプテスマのヨハネは、旧約時代の最後の預言者と呼ばれています。そして、イエス・キリストが人々の前で福音宣教の働きをする少し前に、イエス様の道備えをした預言者です。人々からも尊敬されていて、力強く神様の教えを人々に伝えた立派な預言者だったのです。ところが、ヨハネは悲しい最期を遂げたのでした。

 人は誰かが死んだという知らせを聞くと、悲しい気持ちとなります。私たちは、人の死に対して悲しみや辛い気持ちになってしまうのです。それが、たとえ昔の時代の人の話であったとしても、やはり、悲しい気持ちが出てくるのです。

 聖書を読む多くの人々は、バプテスマのヨハネが殺されたという箇所を読む時、悲しい気持ちや複雑な感情を抱きます。そして、「神様、なぜこんな酷い殺され方をしたのですか。その理由を教えてください。」との気持ちが出てくるのです。ヨハネだけではありません。旧約時代の預言者たちも、同じように、神様に仕えていたにも関わらず迫害に遭い、殉教の死を遂げた人々が存在します。また、新約時代においても、十二使徒の中で一人を除いて、他の11人すべてが殉教の死を遂げたと言われています。直接、聖書の中には書かれていませんが、他の文献によって、そのように伝えられているのです。その事実を知る時、多くのクリスチャンは心が痛む、そういう思いにさせられるのです。

 神様に仕える者が殉教の死を遂げる、この事実に対して、ある人々は「それをどのように受け止めていいか分からない」と考え、キリスト教に失望したと発言する人々がおられます。そんな神様なら信じない方がましだ、と言い張るのです。私は、彼らの気持ちは半分は理解できるのですが、しかし、もっと聖書をきちんと読んでから、そして、イエス様の伝えた福音をしっかり学んだ上で判断してほしいと思うのです。

 今日の説教題は「悲しみを通して教えられる事」です。私たちは悲しい出来事が起こると、一時的に苦しい状況に立たされ、そのただ中にある時は、すぐには神様に対して希望を見出すことができないことがあるかもしれません。しかし、時間がかかったとしても最終的に「すべてのことを益として下さる神」に賛美をささげる者となるよう神様が導いて下さるのです。そのことに目を向けていきたいと思います。 (続きを読む…)

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