2026.03.15
内山光生
説教全文は入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。
2026.03.15
内山光生
説教全文は入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。
2026.03.08
内山光生
イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
マルコ9章23~24節
イエス・キリストが地上世界において福音を宣べ伝えていた時、主イエスのもとに病気や悪霊にとりつかれて苦しんでいるたくさんの人々が連れて来られました。特に状態が悪い人の場合、家族や近所の人々がわざわざ主イエスのもとに連れてきたのです。苦しんでいる人を連れてきた人々は、主イエスなら癒すことができると確信していました。そして、その信仰のゆえに、苦しみから解放されたのでした。苦しんでいる本人に信仰があるかないかに関わらず、連れてきた人々の信仰によって人々が癒されていったのでした。もちろん、苦しんでいる本人の信仰のゆえに、癒されたケースもたくさんあります。けれども、周りの人々の信仰によって、癒されたケースが幾つも幾つもあったのです。
主イエスには、病人を癒したり、悪霊を追い出す権威がありました。そして、それらの権威をご自身の弟子たちにもお授けになったのです。その結果、主イエスの弟子たちもイエス・キリストの名によって命じる時に、あるいは祈る時に、病人を癒したり悪霊を追い出すことができたのでした。
ところが、今回の出来事によれば、弟子たちではどうする事もできなかったケースが取り上げられています。弟子たちには、何が足りなかったのでしょうか。また、今後、似たようなケースが起こった場合、どうすればいいのでしょうか。結論を先に伝えると、この時の弟子たちの問題点は、「不信仰」だったという事です。そして、それを乗り越えるためには、「祈り」が必要なのです。
それでは、今日の箇所を順番に見ていきます。14、15節。
前回の箇所を思い出してみると、主イエスが三人の弟子たち、すなわち、ペテロとヤコブとヨハネを山の上に連れて行き、ご自身の栄光の姿をお見せになった場面でした。特別な霊的な体験をして、高揚した気分になっていたのです。
その後、主イエスと三人の弟子たちが山を下っていくと、残りの9人の弟子たちが、律法学者たちと論じ合っていたのでした。しかも、大勢の群衆に囲まれていたのです。どうやら、何か問題が起こっていたようです。そして、群衆が主イエスを見つけると、彼らの方から駆け寄って来たのでした。
この時点では、何が起こっていたのかが分からない状態です。けれども、群衆が主イエスが現れるのを待ち望んていた、そのような事を感じ取ることができるのではないでしょうか。 続きを読む ・説教 マルコの福音書9章14-29節「信仰があるかを試した主イエス」
2026.02.15
内山光生
そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」
マルコ9章7節
神の子であるイエス・キリストが地上世界に遣わされた目的は、十字架の贖いによって私たちの罪を赦すためでした。先週の箇所には、「神の国が力をもって到来している」ことを人々が見るようになるとありましたが、それは、イエス様がよみがえる事によって実現していくのです。
つまり、主イエスの弟子たちは、主イエスを裏切るユダを除いては、皆、よみがえりの主イエスに出会うのです。その結果、神の国がどういうものなのかを味わうようになるのです。しかし、その前の段階において、主イエスは三人の弟子、すなわちペテロ、ヤコブ、ヨハネだけに、短い時間ですが、ご自身の栄光の姿をお見せになったのです。
今日の箇所は、イエス様がどういうお方なのかを、三人の弟子たちに対して目に見える形で示された場面です。もちろん、私たちは聖書に記されている事でしか、この場面を知ることはできません。けれども、心の中で、もし自分がこの場面にいたとしたら、どういう気持ちになったのだろうかと思い描きながら読み進めていきましょう。
では2節から順番に見ていきます。
「それから、六日目に」とあります。それは、前回の箇所でイエス様が弟子たちに「神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」と宣言した時から数えて六日目を指しています。このことは、イエス様が言われたこの言葉と今日の箇所の出来事にはつながりがあることを示しています。
主イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登ったのです。この山は、恐らく、ヘルモン山だと考えられていて、海抜2800メートル程の高さの山です。これ程の高さの山となると、頂上までたどり着くまでにはかなりの体力を必要とします。今の時代は、高い山となれば登山をする人が大勢いますので、山登りの道中で誰かとすれ違うと思うのですが、イエス様の時代は、何らかの理由がなければ、高い山に登る人はいなかったと思うのです。しかし、イエス様は、しばしば、一人で祈りに専念する時に山に登られたように、イエス様にとっての山と言えば父なる神との交わりを持つ場所だったと言えるのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書9章2-13節「わたしの愛する子」
2026.02.08
内山光生
それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」
マルコ8章34節
マルコの福音書を二つに分けるとすると、1章から8章30節まで、つまり、前回の箇所までが前半部分となります。そして、残り8章31節から最後までが後半部分となります。前半部分は、イエス様が人々の前で福音を語りつつ、愛のあるみわざをなした事、また、奇跡を行なったことが中心となっています。一方、後半部分は、イエス様の受難、つまり、十字架に関する事が中心となっています。
そして、今日の箇所は、後半部分にどのような事が書かれているかについてが、まとめられています。細かく見ていくと、同じところから2回も3回も説教が語れる程に密度の濃い内容が記されています。
それで今回、私自身がどの部分を強調して語っていこうかと思い巡らしたところ、「自分の十字架を負う」とはどういう事なのか、その部分をしっかりと伝えてきたいと考えたのです。というのも、多くの人は、この言葉をどこかで聞いたことがあるものの、イエス様が私たちに伝えようとしている本当の意味を理解している人は少ない。かくいう私自身も、すぐに「こういうことですよ」と答えることができない現実に気づかされたからです。タイトルは「弟子となるためには」ですが、中心ポイントは「自分の十字架を負うとはどういうことか」です。
では8章31節から順番に見ていきます。
前回の箇所では、ペテロがイエス様に対する信仰告白を致しました。ペテロはイエス様に「あなたはキリストです。」と告白することができたのです。これは、まさに模範解答と言えるのです。けれども、ペテロが思い描いていた「キリスト」とイエス様が示そうとしている「キリスト」との間には、大きな隔たりがあったのです。
イエス様は、ペテロを始め弟子たちが皆、この段階では、「キリスト」であるイエス様の身に何が起こるのかを理解できていないことは分かっていました。また、「キリスト」の意味が正しく理解されないことも分かっていたのです。しかし、いつまでもオブラートに包んでおくわけにはいきません。それで、ようやく、かなり具体的なことを語りだされたのです。
イエス様は「人の子は多くの苦しみを受け」と言っています。しかも、誰から苦しみを受けるのかを示しています。「長老たち、祭司長たち、律法学者たち」に捨てられると明言しているのです。捨てられるだけでなく殺されるとも言ったのです。ところがイエス様の弟子たちは、その言葉を素直に受け止めることができなかったのです。でもイエス様の話を最後まで聞いているならば、殺されて終わりではなく「三日後によみがえらなければならない」と言っているのです。つまり、最終的には勝利がやってくるのです。けれども、イエス様の弟子たちでさえも、イエス様がよみがえられた後まで、この言葉の意味を悟ることができなかったのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書8章31節-9章1節「弟子となるためには」
2026.01.18
内山光生
するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」
マルコ8章29節
今日の箇所では、ペテロが信仰告白をしています。ペテロはイエス様の問いかけに対して「あなたはキリストです。」と答えたのです。この告白は模範的な解答と言えるのです。その点においては大いに評価ができるのです。けれども、この時点においてペテロが心の中で思っていたキリストというイメージとイエス様の本当の姿との間には、大きなギャップがあったのです。
つまり、イエス様が何のために地上世界に来られたのかについては、ペテロは何も分かっていなかったのです。しかしながら、前回の箇所において、目の見えない人が2段階に分けて完全に見えるようにされていったように、ペテロを始め他の弟子たちも、最終的にはイエス様がどういうお方なのかをはっきりと理解できるように変えられていくのです。
今の時点では、ペテロにしても他の弟子たちにしても、何も分かっていないのは確かな事です。しかし、その後、どうなっていくのかを踏まえて今日の箇所を見ていきましょう。
ではまず27節から見ていきます。
イエス様と弟子たちは、この直前には、ガリラヤ湖の北側に位置する漁師が多く住んでいる村、ベツサイダにいました。その後、北の方に向かって行き、ヘルモン山のふもとにあるピリポ・カイサリアに進んで行ったのです。
当時のピリポ・カイサリアという町は、ローマ皇帝が神としてあがめられたり、更には異教の神々を信じる人々が大勢いたと言われています。つまり、偶像の神々に満ちた町だったのです。ですから、伝道したとしてもなかなか人々が心を開きにくい、そういう地域だったと考えられます。
けれども、イエス様は敢えて、その町に向かっていったのです。そして、その途中、とても重要な問いかけをしたのでした。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」と。 続きを読む ・説教 マルコの福音書8章27-30節「ペテロの信仰告白」
2026.01.11
内山光生
それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。
マルコ8章25節
昨年の12月にはクリスマスに関係のある聖書箇所から説教を致しましたが、今日から再び、マルコの福音書に戻ります。
まず最初に今日の箇所よりひとつ前に、どのような内容が記されていたのかを振り返りたいと思います。マルコの8章14~21節では、イエス様がご自身の弟子たちに向かって「まだ分からないのですか。悟らないのですか。」と言われました。とても厳しい表現が用いられています。それは、この時点で弟子たちが、イエス様の奇跡を目撃しながらも、そこから何も悟っていなかったからでした。つまり、この直前において、わずかなパンから何千にもの人に食べ物を与えた出来事を二度も体験しながらも、イエス様がどういうお方なのかを悟っていなかったからでした。
イエス様は、しばしば、弟子たちに対して厳しい言い回しをしています。けれども、その背後には、なんとかして弟子たちに霊的真理を悟ってほしいとの願いが込められているのです。つまり、弟子たちはきっと悟ることができる、そういう時が来るとの期待があっての厳しい言葉だと言えるのです。
人というのは、相手がもう成長する見込みがないと思うと、その人に対して厳しいことを言わなくなる、そういう事があります。期待をしていないゆえに、当たり障りのない態度を取ったりするのです。しかし、あと少しでその人が成長できるかもしれない、そういう期待があるならば、厳しい言い回しをすることがあるのではないでしょうか。
今日の箇所の直前の出来事で、イエス様は弟子たちに対して「まだ悟らないのですか。」と言われました。しかし、それは「もう間もなく、あなたがたは悟るようになるんですよ。」との期待が込められているのです。今日は取り扱いませんが、次回の箇所では、ようやくペテロの霊的な目が開かれた事が記されています。つまり、イエス様が期待しているように、弟子たちはイエス様がどういうお方なのかを悟ることができるようになっていくのです。
もちろん、イエス様が復活する前の段階では、ペテロにしても他の弟子たちにしても、まだはっきりとはイエス様がどういうお方なのかを悟ることができていません。ペンテコステの日に、ようやく、はっきりと心の目が開かれるのです。しかし、イエス様が十字架にかかる前の段階においても、主イエスの弟子たちは、ぼんやりとした状態かもしれないけれど、イエス様がメシアだということは理解できているのです。
今日の箇所の出来事には、目の見えない人が出てきています。この人は、ただただイエス様の憐れみによって、目が見えるようにさせて頂けるのです。このことから、聖書は私たちの霊的な目を開かせてくださるのがイエス様なんだ、ということを示そうとしています。しかも、今回の出来事の場合は、この人自身に信仰があったから見えるようになったのではなく、イエス様の一方的な愛のみわざによって、見えるようになったことが示されているのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書8章22-26節「はっきりと目が見えるようになった人」
2025.12.21
内山光生
それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
マタイ2章11節
先ほど、古川長老から絵画を通してのクリスマスのお話を聞くことができました。その絵画の中に東方の博士たちがキリストに礼拝をささげた場面があったと思います。今日は、その場面を中心として、いつもより短めの説教をさせて頂きます。
ではマタイ2章1~2節を見ていきます。
イエス・キリストがお生まれになった時代に、当時のユダヤの国では、ヘロデ王が、その国を支配していました。それで、東の方からやってきた博士たちは、ヘロデ王のところに行って、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」がどこにいるかを尋ねたのです。
今の私たちの時代では、クリスチャンにとっては「キリストの誕生」は喜ばしい出来事です。いやクリスチャンでない人にとっても、クリスマスは、町がにぎやかになったり、おいしい食べ物で心が満たされやすい、そういう時期とも言えるのです。
ところが、キリストが生まれた頃のユダヤの国は、キリストの誕生をお祝いすることが出来ない独特の雰囲気があったのでした。どうやら、ヘロデ王は人々からの評判が悪く、次々と周りの人々を殺害した結果、「あの王は、次に誰を殺すのだろうか。」とうわさされるような王だったのです。ヘロデは、なんと自分の妻や子どもさえも信頼できなくなり、殺害してしまった、そういう王だったのです。
ですから、3節に「ヘロデ王は動揺した。」とありますが、彼は、本当に自分の地位が奪われるかもしれないと心配していたのです。そして、エルサレムの人々も、王がまた悪さをするのではないかと心配したのです。
そういう訳で、ユダヤの国の中では、「キリストがお生まれになった」という知らせがあったにもかかわらず、人々は、王に目をつけられてはいけないと考えて、誰もキリストに礼拝をささげに行く人がいなかったのです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書2章1-11節「礼拝をささげた博士たち」
2025.12.14
内山光生
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
マタイ1章23節
皆さん、おはようございます。家族全員がインフルにかかりましたが、回復の方向に向かっています事を感謝いたします。来週には、皆さんにお会いすることができると思います。
さて、今日は第三アドベントです。クリスマス礼拝が来週に迫っていて、世界中でクリスマスを待ち望む雰囲気が漂っていると思います。今日選んだのは、マタイの福音書によるイエス・キリストの誕生についての箇所です。マタイの福音書では、ヨセフ側の視点でイエス・キリストの誕生が描かれています。一方、ルカの福音書では、マリアの視点で描かれています。両方とも意味深い箇所です。今回は、ヨセフの視点で見ていきたいと思います。
では18節から順番に見ていきます。
まず確認したいのは、当時のユダヤ社会においては、現代の私たちとは異なる結婚の順序があったということです。すなわち、ユダヤ社会においては、男女二人が婚約をしたら、その時点で二人は夫婦と見なされていた、ということです。おおむね一年ぐらいの婚約期間のうちに、互いに結婚に向けての準備を進めていくのです。
ですから、マリアとヨセフは、すでに夫婦と見なされているけれども、しかし、まだ結婚している訳ではなかったのです。つまり、マリアが妊娠するというのは、あってはならない事だったのです。けれども、ルカの福音書を読むと、マリアのお腹にイエス様が身ごもった時に、御使いがマリアの前に現れて、聖霊によって身ごもったという事実をお告げになりました。それで、マリア自身は戸惑いながらも、感謝な事として受け止めたのです。
ところが、聖書にははっきり書かれていないのですが、このマタイの記述を読むと、どうやら、マリアは御使いからのお告げがあった事や自分が聖霊によって身ごもっているという事を周囲に伝えていなかったように感じるのです。マリアは、感謝な思いを心に秘めつつ、沈黙を守っていたのでしょう。
しかしながら、マリアのお腹が大きくなってくると、お腹に赤ちゃんがやどっている事実を隠しておくことができなくなります。それで、ついに、ヨセフはマリアが妊娠しているのに気づいてしまったのです。事情を知らないヨセフにとっては、様々な苦しい感情が心に湧き出ていたのではないうかと思うのです。例えば、「どうしてマリアは私を裏切ったのだろうか。」あるいは、「もしかしたら、誰かに乱暴をされたのではないか。その相手は誰なのだろう。」そういう感情が出てきていたとしてもおかしくなかったと思うのです。
聖書は、ヨセフがどのように苦しい思いをしたかについては、一切、沈黙しています。ですから、本当のところは分からないのですが、ヨセフ自身が自分には身に覚えがないとなると、他の誰かと何かがあったに違いない、そう考えるのはごく自然な反応だと思うのです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書1章18-25「インマヌエルと呼ばれるお方」
2025.11.16
内山光生
すると、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。
マルコ8章6節
今日の箇所に書かれている出来事は、少し前に記されていた「五つのパンと二匹の魚」と似たような内容となっています。だから、ある人は「これは前の出来事と同じではないか。」と感じるかもしれないのです。そして、「この話は知っているから、軽く流し読みをすればいい。」と考えるのです。ある人々にとっては、同じような内容が繰り返されると、くどいと感じ、興味深く読み進めていくのが難しくなるというのです。
ですから、似たような内容が続くと、軽く流し読みをしてしまう人が出てくるのです。一方、説教を語る側の立場からすれば、同じような内容が書かれている聖書箇所から説教の準備を進めていく時に、どのような気持ちが出てくるのでしょうか。
率直に言うと、私自身、「これは以前の箇所と似たような内容だから、何を語ればいいかを見つけ出すために苦労するだろうな。」と感じるのです。それで、いつもよりも慎重にその聖書箇所の内容を見ていく事となるのです。つまり、より一層、何度も何度も読み返す作業が必要になってくるのです。そうしないと、何を語ればいいかが分からなくなるからです。
さて、聖書の中で似たような内容が出てきた時に、どのように解釈していけばいいかのコツがあります。それは「なぜ同じような出来事が記されているのだろうか。」と疑問に思いつつも、「きっと、それなりの理由があるに違いない。」と考えるのです。そして、そこに書かれている内容の意図が何であるかを考えていくのです。すると、今回の箇所の場合、何かを強調するために、敢えて、似たような内容が記されていることに気づかされるのです。
結論から言いますと、この奇跡がマルコの福音書に記録されている理由は、主イエスの弟子たちが「イエス様には奇跡を行なう力がある。こんな奇跡を行なうことができるのは神様だからだ。」ということを悟っていなかった事を伝える、そういう意図があるのです。
イエス様がまことの神様だということをなかなか悟ることができないこの現実は、主イエスの弟子たちに限った事ではありません。つまり、どの時代に生きた人々であっても、しかも、神様のみわざを直接、体験していたとしても、すぐに「イエス様って、本当に偉大な力があるお方だ。」ということを悟ることができるとは限らないのです。
人々の心というのは、簡単には変わらない。どうしても、自分の中にある常識によって物事を判断してしまう。そういう性質があります。だから、本当の意味で聖書の言っていることを理解するまでに時間がかかる事があるのです。
しかしながら、聖霊が働く時、「あの出来事は、こういう意味があったんだ。神様って本当に私を導いて下さっているんだ。」ということに気づかされるのです。そのような事を何度も繰り返していくうちに、神様に対する信頼関係が深められていくのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書8章1-10節「七つのパン」
2025.10.19
内山光生
そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。
マルコ7章34~35節
先週、久しぶりに本巣の方にある谷汲温泉に行きました。岐阜県には、評判の良い温泉が幾つもありますが、谷汲温泉は私が好きな温泉の一つです。夏の間は、シャワーで済ませていた事が多かったのですが、久しぶりにゆっくりと温泉に浸かると、身体と心が癒される気持ちとなりました。
別の話ですが、数か月前から私は毎日、足裏マッサージをしていました。もう20年以上前に買ったマッサージ機ですが、ずいぶんお世話になっていて、愛着を持っていました。ところが、先日、突然、その器械が壊れてしまったのでした。とても残念に思いました。けれども、20年以上も用いることができたので、十分に役割を果たしてくれたと感謝しています。と同時に、新たなマッサージ機が必要なので、良い物が手に入るよう神様に祈っています。
さて今日の箇所は、イエス様による癒しがなされた出来事が記されています。また、結構、有名な箇所なので内容自体は知っている人が多いかと思います。その中にあって、聖書が私たちに伝えようとしている事が何なのかを考えていきたいと思います。
31節から見ていきます。
前回の場面は、ツロの地方、すなわち、ガリラヤ地方よりも北西に位置する異邦人の町が舞台となっていました。イエス様とその弟子たちは、恐らく、ツロの地方で短い期間ですが休息を取るために滞在していたと思われます。
そして、休息の時が終わると、イエス様とその弟子たちは、再び、宣教活動の拠点となっているガリラヤ湖の方に戻って来られたのです。その地はイエス様の活動拠点ですから、すぐに「イエス様が戻ってこられた」とのうわさが広げられ、そして、大勢の人がイエス様の元にやってきたのではないかと推測できるのです。そういう状況の中で、32節にあるように「耳が聞こえず、口のきけない人」が連れてこられたのでした。
この人は、目で見ることはできるのですが、しかし、人々が言っていることを自分の耳で聞くことができませんでした。また、自分で話すこともできませんでした。それで、この人の事を助けてあげたいと思った人々によって、イエス様のところに連れてこられたのです。ここに、人々の愛のある行動を垣間見ることができるのです。自分のためではなく、困っている人、苦しんでいる人を助けてあげたい、そういう心を持っている方がおられたのです。
この人を連れてきた人々は「イエス様ならば、治すことができる」と確信していたのでしょう。事実、今までにイエス様の元に連れてこられた人々は、皆、癒されたのでした。また、前回の箇所に記されている出来事では、イエス様はその場にいない人であっても、その苦しみを取り除くことができるお方だということが示されています。ところが、今回の癒しのみわざは、前回のパターンとは対照的な方法が取られたのです。すなわち、イエス様は助けが必要な人に直接、手を触れてくださり、祈りをささげつつ、癒しのみわざをなしていくのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書7章31-37節「エパタ」