2025 年 1 月 19 日

・説教 マルコの福音書4章26-34節「からし種」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:33

2025.01.19

内山光生

またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。それはからし種のようなものです。

序論

 先週の木曜日の夜の事です。古川家の家庭集会が終わり無事に自宅に到着し、駐車場に車を駐めようとしたその瞬間、獣のような生き物が車の左側を横切りました。その生き物は、すぐさま身を隠したので、私の方からは姿が見えなくなりました。

 「あれは一体、何なのだろうか。猫ではなく、山に住みついている野生の生き物に違いない」との確信があったのですが、しばらくして、車の前の方を見ると、その生き物がライトに照らされて、顔がはっきりと見えました。正体は「タヌキ」でした。私は驚きと共にこの周辺は様々な野生動物が生息している事を改めて感じ取ることができました。

 そういえば、芥見教会の周辺でも獣が出るという話を聞いた事があったけれど、この地域の山に近い場所に住んでいる方は、似たような経験をしているのかもしれないと思いました。

 さて、今日の箇所には、二つのたとえが記されています。一つ目は「種が育ち実を結ぶ」というたとえで、二つ目は「からし種」のたとえです。いずれについても神の国がどういうものかについてを教えています。

 イエス様の時代に生きていた人々は、神の国について独特のイメージがありました。それは来るべきメシアによって、ローマ帝国による圧迫から解放され、メシアを中心として自分たちによって新しい国を作り出していくんだ。そういう考え方をしていたのです。

 一方、イエス様が人々に伝えようとしている神の国は、そのイメージとは異なっていました。神の国というのは、基本的には目に見えないものです。つまり、イエス様を信じる人々の心の中に存在するものなのです。

 例えば、クリスチャンならば、時々、「神様がこの世界を支配しておられる」という感覚を持つことがあるかと思います。目では見ることができないが、確かに、神様が存在し、この世界のあらゆるものを支配しておられる。あるいは、クリスチャンが二人三人と集まり、神様に礼拝をささげる時、その場所に神様が臨在されると聖書は言っております。それゆえ私たちクリスチャンは「目で見ることができないけれども、心の中で神様が存在する」という事を感じ取ることができる、そういう経験をすることができるのです。

 神の国とは、目で見ることができない、そういう性質があります。けれども、この神の国というのはイエス様を信じているクリスチャン一人ひとりが、神様の教えを大切にした生き方を実践していく時に、目で見える形で現わされていくのです。神様が私たちの心の中に働いて下さり、神様の栄光を現わす事ができるよう助け導いて下さるからです。

 私たちクリスチャンが生きる目的は何でしょうか。色々な答え方があるかと思います。その中の一つに「神様の栄光が現わされるため」と表現することができます。言い換えると、聖霊の助けによって「神様を愛し、隣人を愛する」生活を実践していくことと言えるのです。そのようにして、神の国をこの世界に住んでいるあらゆる人々に対して目に見える形で現わしていくことが、私たちクリスチャンの生きる目的なのです。

 今日の二つのたとえは、この神の国がどういう性質であるのかをそれぞれの角度から説明しています。 (続きを読む…)

2025 年 1 月 12 日

・説教 マルコの福音書4章21-24節「自分が量るその秤」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:12

2025.01.12

内山光生

また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。」

序論

 先週の金曜日の朝、車を動かすために外に出たら、車全体が雪で覆われていました。また、道路の方に目をやると、一面に10センチ程度の雪が積もっているのが分かり、少し驚きました。けれども、私は今までの人生の中で雪国で暮らした経験がありましたので、これぐらいならば車を運転することができると思いました。

 ただ、いざ道路に出てみると、スタッドレスタイヤを装着していると言えども坂道やカーブが多い場所では、幾分、気を使いました。今までの経験上、雪が固まっている場所では、多少ハンドルが取られそうになる事が分かっていたからです。ですから、いつもよりも相当ゆっくりなスピードで坂道を下っていきました。その後、用事が終わって無事に帰ってくることができた時、神様に感謝をささげました。

 一方、私の息子は、雪が積もった事を喜んでいました。そして、一生懸命になって雪だるまを作っていました。私自身の子どもの頃を思い出すと、やはり、雪が積もると楽しい気持ちになったものです。

 このように同じ出来事でも、「車で移動するのが大変だ」と思う人がいる一方、「雪だるまが作れてうれしい」と思う人がいる、人それぞれ自分の置かれている立場によって考え方に違いが出てくるのです。この事は、私たちが聖書を読むうえでも同じような現象が起こります。ある人は、ある聖書箇所に対して、前向きに受け止めることができ、喜びに満たされていく。一方、同じ個所を通して、何も感動しない人もおられる。あるいは、否定的な受け止め方をしてしまう。そういう事が起こってしまうのです。

 今日の説教題は「自分が量るその秤」です。これは聖書を読む時の態度について、どうあるべきかを考えさせられるみことばです。人それぞれ、いろんな状況の中に立たされています。そして、毎日毎日、その状況に変化があります。そういう中で、イエス様の伝えた福音に対して、どのような気持ちで、受け止めようとしているかが問われているのです。

I 明かりのたとえ(21~23節)

 21節と22節を見ていきます。

 この箇所は「明かり」がテーマとなっているたとえです。少しだけ読むと、あのマタイの福音書に書かれている、いわゆる「山上の説教」の教えと似ているように感じる方がおられるかもしれません。イエス様は山上の説教の中で、「あなたがたは世の光です」と宣言されました。つまり、私たちクリスチャンは、不正な事に手を染める人々や犯罪行為を犯す人々が存在するこの世界において、あるいは愛のある人間関係が少なくなっているこの世界において、「神様の子どもとして光輝く存在なんだ」ということを宣言している、そういう教えです。

 ですから、クリスチャンというのはイエス様から受けた光を反射させるかのように、世の中を明るい社会にしていく役割が与えられているのです。神様が私たちの内に働き、光としての役割を果たすことができるよう導いて下さるのです。

 ところが、マルコのこの箇所で語られている「明かりのたとえ」は、マタイに書かれているたとえとは、言わんとしているポイントが異なっています。マルコの方では、「明かり」はイエス様ご自身の事を指しています。あるいは、イエス様が伝えた福音の事を意味しています。このイエス様の福音というのは、一時的に升の下におかれた状態、あるいは、寝台つまりベッドの下に置かれたような状態になっているかもしれません。でも、この福音が隠され続けることはなく、最終的には明らかにされていく、ということを言っているのです。

 少し前の箇所では、種蒔きのたとえの中で、種が「道端」や「岩地」や「茨の中」に落ちたと書かれているように、福音が語られているけれども、聞いている人々の心にその福音が入っていかずに、なかなか信仰を持つようにならない、そういう人々が存在することが示されていました。

 同じように、福音が語られているものの、人々が心を閉ざしているがゆえに、福音がまるで升の下に置かれたような状況になっていたり、あるいは、ベッドの下に置かれているような状態になってしまっている事がある、確かに、そういう人々がいる。しかし、神様は福音が隠されている状態であり続けることを望んでいないので、一時的には心を閉ざしている人々の中からも、福音の本当の意味を悟るようになる人々が出て来るんだ、ということを伝えようとしているのです。 (続きを読む…)

2025 年 1 月 1 日

・説教 ガラテヤ人への手紙4章8-12節「パウロの願い」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 17:27

元旦礼拝
2025.01.01

内山光生

2024 年 12 月 22 日

・説教 ヨハネの福音書1章9-14節「神の子どもとなる特権」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:24

2024.12.22

内山光生

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

序論

 クリスマスの時期には、いろいろな観光スポットで、夜になるとイルミネーションが輝いております。私は、毎年、家族と共に三重県の長島にある「なばなの里」のイルミネーションを見に行くことにしています。

 そこでは、全体としては、あまりクリスマスというイメージはありません。むしろ、日本人が喜びそうなテーマでLEDのライトが照らされています。今年は、まだ行っていないですが、ホームページによると富士山がテーマだそうです。このテーマは今までにも何度も有りましたので私個人としては、別のテーマの方が良かったと感じるのです。けれども、多くの日本人は富士山が好きだ、そういうことの表れなのかもしれません。

 世界中で暗いニュースが多い今のこの時代において、人々は明るい光を求めて、心をリフレッシュしようとしています。

 私はイルミネーションが輝いている観光スポットが好きです。ですから、過去20年間を振りかえっても、毎年、必ずどこかのイルミネーションを見に行っています。そして、毎度のようにスマホで写真を撮って思い出として残してきました。

 人々が人工的に作り出す光、それは私たちの心を温かくする良い効果があります。元気な気持ちになったり前向きな気持ちとなる、そういう意味では、ある程度評価することができるのです。しかしながら、聖書が示している光は、それよりも遥かにすばらしい光を放っていることに気づいてほしいのです。聖書が放つ光は、私たちに一時的な癒しにとどまらず、永遠のいのちをもたらすからです。

I まことの光 ~すべての人を照らす~

 9節に進みます。

 この箇所に書かれている「まことの光」は、一体、誰のことを指しているのでしょうか。それはクリスマスの主人公であるイエス・キリストのことに他なりません。

 今から2千年以上前に、イエス・キリストはユダヤのベツレヘムという村で、「まことの光」としてお生まれになりました。

 そして、羊飼いたちによって礼拝がささげられました。更には、東方の博士たちによって礼拝がささげられました。

 ところが、当時のユダヤの人々は、いろんな社会的、政治的事情から、救い主の誕生をお祝いしようとしなかったのです。 (続きを読む…)

2024 年 12 月 15 日

・説教 マルコの福音書4章10-20節「良い地に蒔かれた者」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:58

2024.12.15

内山光生

良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。

序論

 今日の箇所はいわゆる「種まきのたとえ」の解説が記されています。前回の話を簡単にまとめると、ある人が種を蒔くといろんな場所に種が落ちた、と。例えば、道端や岩地や茨の中、そして、この三つの場所に落ちた種はいずれも実を結ぶことができなかった。しかし、良い地に落ちた種は、多くの実を結んだ、と。

 言っている内容自体は、少なくとも当時の人々にとってはイメージしやすく簡単な話に思えるのですが、しかし、その本当の意味については、誰も理解することができなかったのでした。なんとイエス様の弟子たちでさえも、このたとえの意味が分からなかったのです。

 それで今日の箇所においては、イエス様がたとえの意味を解説していくのです。

 最初にお伝えしておきますが、イエス様の解説を読んではっきりと意味が分かった時に、ある人々はまるで自分の事を指摘されているのではないか、と感じるかもしれません。しかし、その時、「自分が責められている」と感じてしまって信仰が揺れ動くとすると、それはイエス様が願っている事とは正反対のことになってしまいます。

 ですから、私たちは聖書の教えをネガティブに受け取るのではなく、むしろ、自分自身の信仰が成長できるようにポジティブに受け止めていくことができればと願います。

I たとえで語られる意味(10~12節)

 では10~12節から順番に見ていきます。

 前回までの場面では、大勢の群衆が集まってイエス様の福音に耳を傾けていた場面です。その後、群衆がいなくなりましたが、イエス様の12弟子に加えて幾人かが残っていたようです。そしてその場にいた人々がイエス様に向かって「種まきのたとえは、どういう意味なのかですか」と尋ねたのでした。

 11節でイエス様は彼らの質問に答えていきました。どうやら今イエス様の目の前にいる人々や弟子たちには「神の国の奥義」が明らかにされているということ、一方、外の人たち、つまり、群衆にはその奥義が明らかにされていないと言うのです。それで、群衆に対してはすべてがたとえで語られているのだ、と。

 どうやらイエス様がたとえを用いて「神の国」について語っているのは、根本的には人々が理解しやすいからという理由ではないようです。そういう事ではなく、「人々が見るには見るが知ることがなく、また、聞くには聞くが悟ることができない、そして、彼らが立ち返って赦されることがないためだ」というのです。

 どういう事でしょうか。イエス様が語られたたとえというのは、イエス様に心を開こうとしていたり、あるいは、イエス様に対する信仰がある人にとっては、その本当の意味を悟ることができる、そういう性質があります。けれども、イエス様に対して心を開いていない人にとっては、そのたとえの解説を聞いたとしても、決して悟ることがない、というのです。

 このことは、イエス様のたとえというのは、イエス様に心を開いている人とそうでない人が明らかにされていく、そういう事が起こる事を意味しています。 (続きを読む…)

2024 年 12 月 8 日

・説教 マルコの福音書4章1-9節「聞く耳のある者」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 08:04

2024.12.08

内山光生

そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

序論

 イエス・キリストが人々に向かって福音を伝える際に、しばしば「たとえ」が用いられました。たとえによって語るメリットは、人々が自分たちの実際の生活と結びつけて考える事ができることです。また、語られた内容が心に残りやすいという点にあります。少なくともイエス様の時代に生きていた人々にとっては、イエス様が語るたとえを聞いて「あ~、これはそういう場面に違いない、あの話題ならばよく分かる」とうなずくことができたのです。

 一方、21世紀の時代に生きている私たちは、当時の習慣や考え方がなんであったのかをよく理解しないと、イエス様が語ろうとしていた本当の意味がなんであるかが分からなくなるのです。ですから説教を準備する人々は、まず最初に、当時の人々がイエス様のメッセージをどのように受け止めたのかを理解するために色々と調べたりするのです。そして、その上で現代の人々に当てはめると、どのような意味になるのかを考えていくのです。

 確かに、イエス様はたとえで語られる事が多かったです。けれども、このマルコ4章に記されているたとえは、別のたとえと比べると、ある特徴が備わっているのです。それは次回の箇所で取り扱うことになりますが、「たとえの解説」が記されている、ということです。解説付きのたとえ、そういう点において、このいわゆる「種まきのたとえ」は他のたとえと異なっているのです。

 さて、今日の説教題は「聞く耳のある者」とさせて頂きました。4章3節で「よく聞きなさい」と書かれていて、更には9節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と記されています。つまり、この1節から9節は全体として「聞くこと」が大きなテーマとなっています。そこで、「聞くこと」がどういうことを示しているのかを考えていきたいと思います。
 

I 舟の上からたとえを話されたイエス様(1~2節)

 では1~2節から見ていきます。

 場面は湖のほとり、すなわち、ガリラヤ湖のほとりです。そこには多くの群衆が集まっていたのでイエス様は、舟に乗って腰を下ろしました。一方、群衆は陸地の方にいました。つまり、イエス様が舟に乗っていて、群衆は陸にいる、そういうスタイルでみことばが語られたのです。 (続きを読む…)

2024 年 11 月 17 日

・説教 ヨハネの福音書6章5-15節「パンと魚を持っている少年」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:51

2024.11.17

内山光生

ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。 -ヨハネ6章9節

序論

 今日は子ども祝福式礼拝です。いつもよりたくさんの方々が礼拝に集ってくださり神様に感謝をいたします。

 さて、私は普段はマルコの福音書から説教をしていましたが、今日は特別にヨハネの福音書の中の子どもが登場する出来事から説教をさせて頂きます。

 毎週日曜日に行われる教会の礼拝というのは、大人だけのものではなく、赤ちゃんから高齢者までとあらゆる年代の人々に開かれているものです。確かに、幼い子どもたちは、じっとしているのが難しかったり、時々、声を出すことがあります。が、しかし、イエス・キリストはそのような子どもたちさえも、ご自身のメッセージを聞くことをお許しになったお方です。そして、実際、幼い子どもたちは、大人たちが想像している以上に、神様の教えを聞いているものなのです。あるいは、大人たちが神様に礼拝をささげているその真剣な姿をじっと観察しているのです。

 私に関する事をお話しすると、両親がクリスチャンでしたので、赤ちゃんの時から教会の礼拝に集っていました。そして、幼い頃に経験した礼拝に対するイメージは、とても良い思い出として残っています。何より、大人たちが子どもたちを大切にしている事が伝わってきましたし、たいていの大人は子どもたちに対して優しかったのを覚えています。

 大人が子どもに与える影響は、言葉だけでなく態度や雰囲気も関係がある、そのことを心にとめて子ども祝福式礼拝を味わうことができれば幸いです。

 では、今日の箇所を順番に見ていきます。

I ピリポを試すための質問したイエス様(5~6)

 5節、6節を見ていきます。

 今日の出来事は、イエス様が人々の前で行われた奇跡の中でも特に有名なものの一つです。一般的には「5千人の給食」と呼ばれたり「五つのパンと二匹の魚」と言うタイトルがつけられたりします。では、イエス様がこの奇跡を行われた目的は何だったのでしょうか。それは6節に書かれているように、「ピリポを試すため」とあります。

 ピリポだけでなくイエス様の弟子たちは、すでに、イエス様が行われた多くの奇跡を目撃していました。それゆえ、彼らは「イエス様は普通の人間には不可能な事でも奇跡を起こす力がある」ということを知っていたのです。そのことをどれ程、理解できているかが試されたのです。 (続きを読む…)

2024 年 10 月 20 日

・説教 マルコの福音書3章31-35節「神の家族」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:53

2024.10.20

内山光生

序論

 今日のテーマは「神の家族」です。まず最初に、一般的な意味での家族について考えてみましょう。家族と一口に言っても、その人の年齢や結婚しているかどうかによって、イメージが変わってくるかと思います。

 私の場合は、家族と言えば、妻と息子のことがまっさきにイメージがわき、続いて、自分の父・母・兄弟姉妹、更には、妻の方の親族関係と続いていきます。その中でも、近隣に住んでいて年に何度も会うことができる人もいれば、遠方のために、めったに会わない人など色々とあるのです。けれども、家族そして親族は、特別なつながりがあって、何かの時に助け合ったり、励まし合ったりすることができるのではないでしょうか。

 一方、家族に関しても、人それぞれ様々な背景があって、家族の絆をあまり感じ取ることができない環境で育った方もおられるかもしれません。いや多くの人々は、外から見てしあわせそうに見えたとしても、実際は、家族関係がうまくいっていない事で悩んだり、苦しんだりしている、そういう現実があるかもしれません。

 では、「神の家族」とはどういう意味なのでしょうか。そのことを今日は、共に考えていきたいと思います。

I 使いの者からの伝言を聞いたイエス様(31~32)

 31、32節から順番に見ていきます。

 31節でイエス様の母と兄弟たちがやって来たとあります。これは、イエス様に対して悪いうわさを聞いたからです。具体的には、イエス様に対して「おかしくなった」と言いふらす人が出てきて、そして、家族としては放っておく事ができなくなり、イエス様を連れ戻そうとしたのです。

 どうやら、イエス様の身内の者たちは、イエス様が何のために福音を伝えているのか、また、イエス様がどういうお方なのかについて理解できていなかったようです。それで、イエス様に対して誤解してしまったのです。イエス様に対して誤解をしているのは、身内の者だけではありません。イエス様の弟子のペテロも、イエス様が味わう「苦しみと死」に関する予告を聞いた時に、すぐに、イエス様の発言を否定しようとした事が福音書に記されています。

 では、どうしてイエス様の身内やイエス様の弟子たちでさえ、イエス様の発言に対して誤解をしてしまったのでしょうか。それは、神様のご計画と神様のみわざというのは、私たち人間の考えとは正反対の方向に進むことがあるからです。それゆえ、今の時代の私たちでさえ、聖書の中のイエス様の発言や行動に対して違和感を感じてしまうことがあるのです。けれども、イエス様が私たちに示そうとしている事は何なのかを、じっくりと考え、思い巡らしていく時に、「あ~、そっか、そういう事を言おうとしているんだ」という事に気づかされるのです。 (続きを読む…)

2024 年 10 月 13 日

・説教 マルコの福音書3章20-30節「永遠に赦されない罪」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:47

2024.10.13

内山光生


序論

 今日、マレーネ先生とドイツの教会の方々が芥見教会の礼拝に集って下さった事を神様に感謝いたします。そして、ドイツと言えば私も一つ思い出すことがあります。

 今から7年前、すなわち西暦2017年はドイツ人のルターによって行われた宗教改革500周年の記念の年でした。そして、その年の6月に同盟福音の牧師や信徒たち10数名で、ドイツの教会や宗教改革にゆかりのある町を訪れました。その時、鴨下直樹先生や川村真示先生が参加しましたし、当初、私は参加する予定がなかったのですが、神様の恵みよって、私のために費用を出すと言って下さった方がおられ、ドイツ訪問をすることができたのでした。

 マールブルクの教会やハンブルクの教会で礼拝をささげる事ができ感激したのを思い出します。ドイツの方々が喜んで迎えてくださっていることがよく伝わってきたからです。また、ドイツの諸教会の方々が日本の教会のために祈っている事を実感する事ができたからです。

 ですから、私はドイツからお客さんがお見えになった事に対して、うれしい気持ちになるのです。

 さて、今日の説教のタイトルは「永遠に赦されない罪」です。ある程度、聖書を知っている人にとっては、あ~あの箇所か、と想像できるかもしれません。けれども、まだ、聖書をよく知らない人や教会に来て間もない方にとっては、どきっとするタイトルかもしれません。

 最初にお伝えしておきますが、今、はっきりとイエス様が救い主だと信じているならば、その人は「永遠に赦されない罪」に陥ることはないという事を心にとめて頂きたいのです。なぜなら、神は一度救われた人は、その人の信仰が全うすることができるように守り導いて下さるお方だからです。私たちが自分の努力によって、信仰を保つのではなく、神の助けと導きによって、信仰が守られるのです。 (続きを読む…)

2024 年 9 月 22 日

・説教 マルコの福音書3章13-19節「十二使徒を任命」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:27

2024.9.22

内山光生


序論

 今日の箇所は、前回の箇所から舞台が変わります。すなわち、イエス様たちが一旦、群衆たちから離れ、山の上で起こった出来事が記されています。13節から順番に見ていきましょう。

I 山に登られた主イエス(13節)

 13節には、「イエスが山に登り」とあります。マルコの福音書では省略されていますが、別の福音書では、イエス様がお一人で山に登って祈られたことが記されています。福音書では、何度も、イエス様やその弟子たちが山に登る場面がありますが、多くの場合、何らかの意味があって山に登っているのです。

 ではイエス様は何を祈られたのでしょうか。それは、イエス様について来ている人々がたくさんいる中から、ついに12人を選ぶ時がやってきたので、誰を選べば良いかについて、父なる神のみこころを探り求めるために祈りをささげられたのです。

 多くのクリスチャンは、イエス様が重大な決断をされる時に、深い祈りをささげられたことを見習って、同じように、自分たちに重大な決断が迫られた時に、みこころが示されるようにと祈りをささげるのです。いつも、そのような深い祈りをささげる訳ではないが、人生の岐路に立たされるような、例えば、進学先だとか、就職先だとか、結婚相手を決める時などは、多くの人が、いつも以上に神に深い祈りをささげるのではないでしょうか。

 時には、自分の願っている通りにはならない、そんな苦しみを味わいながらも、しかし、最終的には、神様が示されたた道をしっかりと受け止めるようになる、そんな事を人生の内で何度も何度も味わうのです。そして、そのような経験を通して私たちは、神様への信頼が深まっていくのです。

 さて、多くの人々は、組織の中の重要な人物を選ぶ際に、優秀な人なのかどうか? 人格的に優れているかどうか? 誠実かどうか? 信頼できるかどうか? 等を基準に考えるのではないでしょうか。もちろん、そのような選び方が間違っているとは言えません。ところが、イエス様が十二使徒を選ばれた基準は、人間の感覚とは異なっていたのです。

 すなわち、16節以降に記されている十二使徒は、その時代において、特別、優秀な人物だった訳ではないのです。また、人々から尊敬されていたという訳でもありません。家柄が良いとか、人格的にすばらしいという事でもなかったのです。  (続きを読む…)

次ページへ »

HTML convert time: 0.200 sec. Powered by WordPress ME