2025 年 1 月 19 日

・説教 マルコの福音書4章26-34節「からし種」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:33

2025.01.19

内山光生

またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。それはからし種のようなものです。

序論

 先週の木曜日の夜の事です。古川家の家庭集会が終わり無事に自宅に到着し、駐車場に車を駐めようとしたその瞬間、獣のような生き物が車の左側を横切りました。その生き物は、すぐさま身を隠したので、私の方からは姿が見えなくなりました。

 「あれは一体、何なのだろうか。猫ではなく、山に住みついている野生の生き物に違いない」との確信があったのですが、しばらくして、車の前の方を見ると、その生き物がライトに照らされて、顔がはっきりと見えました。正体は「タヌキ」でした。私は驚きと共にこの周辺は様々な野生動物が生息している事を改めて感じ取ることができました。

 そういえば、芥見教会の周辺でも獣が出るという話を聞いた事があったけれど、この地域の山に近い場所に住んでいる方は、似たような経験をしているのかもしれないと思いました。

 さて、今日の箇所には、二つのたとえが記されています。一つ目は「種が育ち実を結ぶ」というたとえで、二つ目は「からし種」のたとえです。いずれについても神の国がどういうものかについてを教えています。

 イエス様の時代に生きていた人々は、神の国について独特のイメージがありました。それは来るべきメシアによって、ローマ帝国による圧迫から解放され、メシアを中心として自分たちによって新しい国を作り出していくんだ。そういう考え方をしていたのです。

 一方、イエス様が人々に伝えようとしている神の国は、そのイメージとは異なっていました。神の国というのは、基本的には目に見えないものです。つまり、イエス様を信じる人々の心の中に存在するものなのです。

 例えば、クリスチャンならば、時々、「神様がこの世界を支配しておられる」という感覚を持つことがあるかと思います。目では見ることができないが、確かに、神様が存在し、この世界のあらゆるものを支配しておられる。あるいは、クリスチャンが二人三人と集まり、神様に礼拝をささげる時、その場所に神様が臨在されると聖書は言っております。それゆえ私たちクリスチャンは「目で見ることができないけれども、心の中で神様が存在する」という事を感じ取ることができる、そういう経験をすることができるのです。

 神の国とは、目で見ることができない、そういう性質があります。けれども、この神の国というのはイエス様を信じているクリスチャン一人ひとりが、神様の教えを大切にした生き方を実践していく時に、目で見える形で現わされていくのです。神様が私たちの心の中に働いて下さり、神様の栄光を現わす事ができるよう助け導いて下さるからです。

 私たちクリスチャンが生きる目的は何でしょうか。色々な答え方があるかと思います。その中の一つに「神様の栄光が現わされるため」と表現することができます。言い換えると、聖霊の助けによって「神様を愛し、隣人を愛する」生活を実践していくことと言えるのです。そのようにして、神の国をこの世界に住んでいるあらゆる人々に対して目に見える形で現わしていくことが、私たちクリスチャンの生きる目的なのです。

 今日の二つのたとえは、この神の国がどういう性質であるのかをそれぞれの角度から説明しています。

I 実を結ばせて下さるのは神です(26~29節)

 一つ目、すなわち、26節から順番に見ていきましょう。

 ある人が畑に種をまきました。種をまく人、つまり、農業を営む人というのは、まいた後、何日か後に必ず、芽が出ているかどうかを確認するものです。けれども、すぐに芽が出る訳ではありませんので、何度も寝たり起きたりしている内に、ある朝、畑を見に行くと芽が出ていることを発見するのです。

 以前にもお伝えしたように、私のかつての趣味は、家庭菜園でした。そして、種から育てることにこだわっていました。なぜその部分にこだわったのかというと、まいた種が芽を出すあの瞬間が、何度見ても感動するからです。「良かったという安心感」が出てきますし、「神様に対しての感謝の思い」が沸き起こる、そういう瞬間をもう一度味わいたいという気持ちが出てくるからです。

 種から芽が出るメカニズムというのは、多くの植物学者たちによって解明されていると思うのですが、しかし、「根本的には神様が植物を成長させて下さる」という概念を持っている人はどれ程いるのでしょうか。

 神様がこの世界を支配しておられるという考え方を持っていない人々にとっては、なぜ種から芽が出るのかについての根本的な理由は全く分からないのです。それで、多くの学者は、神様ではなく「進化によって成長するのだ」と言い張るのです。一方、イエス様を信じている者にとっては植物一つひとつの背後に、「神様が働いておられる」という実感を持つことができるのです。

 28節29節では「地はひとりでに実をならせ」とありますが、これは神様を知らない人々の視点にたった考え方だと思われます。多くの人々は、どうして種が成長して実を結ぶようになるのか、その根本的な理由を分かっていないのですが、順番に「種から芽、芽から苗、苗から穂、そして最後に実」へと成長していき、ちょうど良いタイミングで収穫の時が来ることを知っているのです。

 イエス様のこのたとえを聞いていた人々は、言っている内容は誰でも理解できる単純なものだと感じた事でしょう。しかし、そのたとえを通して何を言おうとしているかについては、理解することができなかったのです。

 このたとえは、単なる植物の勉強ではありません。神の国がどういう性質なのかを示そうとしている、そういう教えです。それゆえ、人々が神の国について詳しく知りたいと願う時、その時、植物の世界の中にも「神様の支配」を感じ取ることができるようになるのです。

 ですから、私たちが普段何気なく生活しているその瞬間も、信仰の目で見る時に、「その背後に神様が支配しておられる」事を感じ取ることができるのです。

 去年の夏頃だったと思うのですが、私たちが今住んでいる家の庭に生えていた梅の木が、雨風に負けて倒れてしまいました。いや、恐らく、ずいぶん前から木が傷んでいて、最終的に強い風によって倒れてしまったのでしょう。残念な気持ちになりましたが、しかし、この梅の木のいのちの長ささえも神様の支配の中にあったんだと思うと、「今がその時だったんだ」と受け止めることにしました。

 冒頭でタヌキを目撃した話をしましたが、私は生きているタヌキを見ることができ、驚きつつも「良かった」という感覚が残っています。というのも、いつの事だか忘れましたが、以前に、車で移動中にタヌキと思われる生き物が車に轢かれて死んでいるのを目撃した事があったからです。その時、タヌキがかわいそうに思え、悲しい気持ちになりました。けれども、今回は生きているタヌキだったので安心したのです。恐らく、このタヌキは餌を求めて民家に近づいているのだろう。しかし、餌を与えるとますます野生動物が増えるので、何かを与える訳にはいかない。でも神様がなんとかタヌキが生きていけるように食べ物を備えてくださっているに違いない、と神様に期待をする事にしたのでした。

 このように、私たちが神様を意識して、目の前に広がっている植物や動物を見ていく時に、確かにこの世界の背後には神様の存在がある、ということに気づかされていく、そして、何気ない出来事だったとしても「神様に感謝します」との思いが湧き出てくるのです。

II 大きく成長するからし種(30~32節)

 続いて二つ目のたとえを見ていきます。30節から32節です。

 イエス様の時代におけるパレスチナ地方で良く知られている最も小さな種が「からし種」だと言われています。種の大きさはおよそ0.5ミリ程で、十分に目で見ることができますが、しかし手で持っていても、くしゃみをするとすぐにどこかに飛んでいきそうなサイズだと言えるでしょう。

 そんな小さな種ですが、しかし、それが芽を出し成長すると、どんな野菜よりも大きくなるというのです。そのギャップに驚きを覚えるのです。しかも、成長した時に大きな枝の陰に空の鳥が巣を作れるほどになる、というのです。

 世界中の多くの聖書学者が、このからし種について調べたのですが、ある学者は、「からし種が成長したとしてもせいぜい2~3メートルにしかならない。決して大きな枝とは言い難いのではないか。」と言うのですが、ここでイエス様が伝えたいことは、小さな種が2~3メートル程の大きさに育つ、その驚くべき成長から、神の国がどういう性質なのかを示そうとしているのであって、私たちは、イエス様の意図を読み取っていくことが大切なのです。

 イエス様から直接、このからし種のたとえを聞いていた人々は、少なくとも、確かに、あの種は小さいけれど成長すると大きくなる、とイメージすることができたのです。しかしながら、イエス様を信じる信仰がない者にとっては、そのたとえが何を意味しているのかさっぱり分からなかったのです。

 からし種とは、イエス様を信じている一人ひとりの信仰を現わしています。その信仰というのは、一番最初は、とても小さなものなのですが、しかし、神様の助けと導きによって、信じられない程大きく成長していくことを示しているのです。

 イエス様が十字架にかかりよみがえられた後、しばらくしてイエス様は天に昇られました。その後、ペンテコステの日に、聖霊が下り、イエス様を信じる人々の心が燃やされ、信仰に火が付き、熱心にイエス様の福音を伝えるようになりました。

 その頃は、クリスチャンの数はとても少なかったのですが、数々の迫害を乗り越えていき、いつの間にか世界中のどこの国にもクリスチャンが存在するようになったのです。確かに、最初の信仰の種は、とても小さかった。しかし、人間の感覚では想像を絶する程に、信仰を持つ人々が起こされていく、これが神の国の性質の一つなんだと言っているのです。

 どこの教会でもそうなのですが、一番最初の開拓期においては、わずか数名で始められた礼拝が、いつの間にか何十人、場合によっては、100名を超える程になる、そういうことは身近で体験している方が大勢おられるのではないでしょうか。

 このたとえで重要なポイントは、「小さな種を大きく成長させて下さるのは神様なんだ」という事です。この視点を忘れてしまうとき、ある人々は、自分たちの力でここまで成長したんだと高慢な考え方に陥ってしまうのです。
 一方、自分の信仰を成長させて下さったのは神様だし、教会のあの人の信仰を成長させて下さったのも神様なんだと自覚することができる時、目に見える人間の働きではなく、目に見えない神様に対する感謝な思いが湧き出てくるのです。

 以前、あるクリスチャンが「立派な信仰者になりたい。どうすればあの人のようになれるのですか。」と質問をしたそうです。その質問を受けた牧師はしばらく考え込んで「からし種ほどの信仰があれば大丈夫ですよ」と答えたそうです。その話を聞いた私は、「この答えは、模範解答だ」と思いました。そして「さすがに経験豊かな牧師というのは、言うことがすごい」と感じたのです。

 というのも、その質問をした人は、自分が努力をすれば立派な信仰者になれると思い違いをしている、そのような雰囲気があったのですが、しかし、信仰が成長するかどうかは、私たちの内に聖霊が働くかどうかにかかっていますので、「これをしたら成長します。とか、この本を読んだら成長します。」という事ではないからです。

 種から芽が出る、その背後には神様が働いておられます。同じように、私たちの小さな信仰が大きく成長していくかどうかも、神様が私たちの内に働くかどうかにかかっているのです。

 私が高校生の頃、教会の中に尊敬に値すると思う男性がいました。誰かが厳しい口調で意見を言っていたとしても、その人は常に穏やかで、しかも聖書に基づいた発言をしていたからです。当時の私は穏やかな口調で話をすることが苦手だったのです。しかし、それから10年ほど経ったころ、教会の人から「内山君は穏やかな人ですね」と言われるようになりました。それは自分で努力してそうなったというのではなく、気がついたら、穏やかな性格に変えられていた。そういう事だったのです。やはり、神様が私の性質を変えてくださったと言わざるをえないのです。

 神は、その人その人に賜物を与えるお方です。その賜物というのは、その人の努力によって獲得するものではなく、あくまでも神様からの一方的なプレゼントなのです。そのようにして、クリスチャン一人ひとりの信仰が成長していくのです。

III 弟子たちにはたとえの解き明かしをした主イエス(33~34節)

 最後33~34節に進みます。

 イエス様が福音を語るときに、いつも同じような方法で語ったのではありません。聞いている人々の状態に合わせて、特に群衆に対しては、たとえで話されたのです。イエス様が群衆の前で語られた時、人々は内容こそ簡単で理解しやすかった事でしょう。けれども、本当の意味については隠された状態となっていました。

 しかしながら、イエス様は、たとえの意味を知りたいと願う者に対しては、つまり、ご自分の弟子たちには、たとえの意味を解き明かされたのです。

 このことは、私たちが誰かに福音を語る時でも、語る相手の状況に応じて、その内容を変えていく必要がある事を示しています。ある程度、イエス様に心を開いた状態になった時に、そして、相手がもっと福音を聞きたい、との願いが出てきた時に、本格的に福音について詳しく語る事ができるのです。そして、そういう時こそ、聞いている人々に福音の意味が伝わるのです。

 神の国、それは私たちの心の中にあります。私たちが普段、生活をしているその中にあって、すべてを神様が支配しておられる、その現実を受け止めることができるかどうかは、その人が神様をどのようなお方だと信じているかどうかにかかっているのです。

 ある人は、会社や職場で仕事を進めていく上でも、神様の支配があるという事実に気づいている事だと思います。また別の人は、家庭の中においても、神様の支配があるということを自覚しながら、自分の力に頼って何かをするのではなく、神様の守りと導きがあることを期待し、祈りつつ今自分がなすべき事を実行していく事かと思います。

 私たちが神の国の存在を意識することができる時、色々な出来事の背後で神様が守って下さっている事に気づかされるようになります。そして、日々の生活において、神様に対する感謝な気持ちがあふれ出てくるのです。

お祈りいたしましょう。

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