2021 年 1 月 31 日

・説教 詩篇119篇9-16節「清さを保つ道」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:31

2021.01.31

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 みなさんは、新しい電化製品を購入した時、まず取扱説明書を丁寧に読んでから使いますか、それとも、まず使ってみて、分からないところがあれば調べるでしょうか。私は後者です。というか、ほとんど説明書を見ません。機械にトラブルがあって、エラーが出てから、仕方がなく説明書を開きます。

 少し前のことですけれども、テレビを見ていましたらコピー機を駆使していろんなことができるという番組をやっていました。2チームに分かれまして、出された色んな課題をどちらが早くクリアーできるかという番組でした。出て来た課題はどういうのかというと、紙のサイズがそれぞれ全く違う何種類かの紙を、綺麗に一つのサイズにまとめてコピーするというものでした。別の課題は、分厚い本をコピーするときに、真ん中に影が入らないようにどちらが綺麗にコピーできるか。そういった課題がいくつも出されて、順番にクリアーしていくわけです。
 そこで私は初めて知ったのですが、コピー機というのは、実にいろんな機能があるんだそうで、紙のサイズが違っても、全部紙のサイズを自動で整えてくれるとか、そういった機能もあるんだそうです。もっとも、「へー」と見ていただけですから、自分で試してみようとは思いませんでしたので、やってみたことはありません。ただ、「ああ、そういう機能があるのね」ということを知って、感心したわけです。
 取扱説明書を丁寧に読めば、せっかく高いお金を出したコピー機ですから、実にさまざまな機能を駆使して、色んな事ができる可能性が広がるのです。

 創造者であられる神は、この世界を、そして、私たち人間を創造されました。そして、神は、私たちにこの世界と私たちの取扱説明書として、聖書を与えてくださいました。ですから、聖書の中には、私たちの生活の中で起こるさまざまなトラブルやエラーの対処法があらかじめ記されているわけです。もし、記されていないとすれば大変なことです。

 今日、私たちに問いかけられているのは、こういうテーマです。

どのようにして若い人は
自分の道を 清く保つことができるでしょうか。

 「若い人」がテーマです。そう聞くと、「ああ、じゃぁ今日は私とは関係ないわ」と思わないでいただきたいのです。

 「若い人」。かつて、若かった人も、現在進行形の方もあると思います。若さというのは、力です。可能性に満ち溢れています。まだ、さまざまな限界がない状態と言えるかもしれません。臓器に負担を感じていないとか、骨に異常がないということさえ、そういう問題を抱えている人にしてみれば、うらやましく思えるのかもしれません。けれども、もう一度若い時からやり直したいですか?と質問してみるとどうでしょう。今の年齢にもよりますし、年代によっても違うかもしれませんが、想像するに、それほど多くの方が、若い時からやり直したいという思いにはならないのではないでしょうか。なぜそうなるかというと、若い時の大変さというのも分かるからです。若い時には、必ずその上に立ちはだかる人がいて、やりたくないことをやらされて、苦労してきたという経験が皆あるのではないでしょうか。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 27 日

ざっくり学ぶ聖書入門13 列王記第一

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 19:50

2021 年 1 月 24 日

・説教 詩篇119篇1-8節「幸いな人」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:06

2021.01.24

鴨下 直樹

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 今日から詩篇119篇のみ言葉を丁寧に聞いていきたいと願っています。この詩篇はアルファベットの詩篇となっていまして、アルファベットの頭文字が詩の冒頭に来るように作られています。ヘブル語のアルファベットは22あります。それが八節ずつの区切りで、全部で176節となっている非常に長い詩篇です。

 毎回、アルファベットの一つ、つまり8節ずつを取り上げていきたいと思っていますので、単純にこの詩篇のみ言葉をすべて取り扱うには22週間かかるということになります。

 今、水曜日に「ざっくり学ぶ聖書入門」という学びをオンラインで公開しています。そこでは一つの書簡を一回で取り上げていますから、同じようにすれば、一度でこの詩篇119篇を取り扱うこともできます。けれども、とても豊かな内容ですので、ぜひ、この機会に丁寧に、詩篇119篇のみ言葉の豊かさを共に味わいたいと願っています。

 詩篇119篇全体のテーマは「神の言葉への愛」と言っていいと思います。

 神の言葉、神の戒め、律法、色んな言い方ができると思いますが、この詩篇には、この神の言葉である律法のことを、実にさまざまな言葉で言い換えています。
今日の1節から8節の中にも、「道」、「みおしえ」、「さとし」、「戒め」、「仰せ」、「おきて」、「さばき」と七つの言葉で言い換えられていますが、そのすべては、神の言葉、直接的には律法のことを言い換えているのです。これが、この詩篇119篇の特徴です。

 その一つ一つの言葉の意味は、少しずつ触れていきたいと思いますが、今日特に覚えたいのは、この最初の言葉です。

幸いなことよ
全き道を行く人々
主のみおしえに歩む人々。

 この詩篇は、この冒頭の言葉が176節全体の導入になっています。この詩篇が語ろうとしているのは、詩篇冒頭の1篇の一節にも出てくる「幸いなことよ」で始まっている言葉です。直訳するとすれば「幸いな人だ」ということになります。この詩篇にかぎったことではなくて、聖書全体が人の幸いを語っていると言えます。

 こういう人は幸せ者だ! と宣言するのです。それだけ力強く言いうるのは、主は人を幸いにしてくださるお方だからです。主は、私たちに幸せになって欲しいと願っておられるのです。そのお方が私たちの主なる神なのです。

 その後にはこう記されています。「全き道を行く人々」と。この世界に完全な道などどこにあるというのでしょうか。私たちは今週、宣教40周年を迎えました。この40年の道のりは決して平坦な道のりではありませんでした。今尚、困難な道を歩み続けています。

 けれども、私たちは知っています。自分たちが歩んできた道を振り返ることを。その時、険しかったはずの道が、これが正しい道だったのだという事を後になって私たちは気づかされるのです。私たちの歩む道というのは、何度も道が途切れそうになったり、何度も横道にそれそうになったり、右や左に大きく逸れてしまうようなこともしばしばです。そして、これから歩んでいく道のりもそれは同じことです。歩行者天国のように、整えられて、危険なものが入り込まないような道を私たちは歩んで行けるわけではありません。険しい道です。きつい坂道もあるでしょう。けれども、主が私たちに備えられる道には、その道を進むための「地図とコンパス」が与えられているのです。

 それこそが、「主のみおしえ」である神の言葉がもたらすものです。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 20 日

ざっくり学ぶ聖書入門12 サムエル記 第二

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 19:56

2021 年 1 月 17 日

・宣教40周年記念礼拝説教 詩篇100篇「感謝の歌を!」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:21

宣教40周年記念礼拝

2021.01.17

鴨下 直樹

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説教全文はただいま入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。

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(礼拝前半)証し:赤塚尚武


 

(礼拝後半)説教:鴨下直樹


 
 芥見キリスト教会の皆さん、宣教40周年おめでとうございます。

 1981年1月18日の礼拝からこの教会の宣教は開始されました。先ほど、芥見教会の最初の受洗者であるAさんが証しをしてくださいましたが、そこでお話しされたように最初の礼拝に集われたのは、Oさん夫妻とAさん夫妻、そして今は高山にみえるIさんご夫妻と学生の7名だったそうです。

 その時から、今週で40年を迎えました。本来でしたら、これまでこの教会で労してくださった先生方をお招きして、特別な記念礼拝をしたいところですが、今はコロナウィルスのために、大きなお祝いをすることもできません。それどころか、先週からこの岐阜県でも緊急事態宣言がだされていまして、この場に集って礼拝をすることを控えておられる方もいるという状況です。

 そう考えてみれば、芥見教会の40年の歩みというのは、荒野の40年であったということができるのかもしれません。30周年の時にもお話ししたのですが、この教会はこれまで、最初の宣教師であるストルツ先生、そして宮園先生、飯沼先生、脊戸先生、浅野先生、後藤先生をお迎えし、私で7人目の牧師ということになります。30年で7人の牧師というのは、かなり多い方です。その間、きっとみなさん色んな思い出や経験がおありになると思います。

 この40年の間、芥見教会は実に豊かな経験を与えられてきました。そして、イスラエルの民が、荒野を40年さまよいながら主に導かれてきたように、この教会も主に導かれてきた40年であったということができます。

 イスラエルの民は40年ですべての世代が入れ替わりました。けれども、本当に幸いなことですが、芥見教会のほとんどの方々が、今日まで代替わりすることもなく、こうして40年のお祝いをすることができるということも、本当に感謝なことです。

 神の民は、主との契約に生きる民です。主は、その民に約束を与えてくださいました。あなたがたを約束の御国に招き入れ、そこで子孫繁栄の約束を頂いたのです。この約束は、今も変わることはありません。

 神の民であるイスラエルは、約束を与え、果たしてくださる主なる神さまに感謝をささげる歌として、この詩篇100篇を賛美してきました。この詩篇には、神の約束に生きる民にとって大切なことが歌われています。

全地よ に向かって喜びの声をあげよ。

 この詩篇は主の御前に感謝をささげる賛美の歌です。その内容は喜びと感謝に満ちています。命令形で書かれていますけれども、この言葉には嫌な響きはありません。主は喜びと感謝を創造してくださる主だからです。

 この詩篇は、冒頭の1節から7つの命令形の言葉が続きます。
「喜びの声をあげよ」
「主に仕えよ」
「御前に来たれ」
「知れ 主こそ神」
「賛美しつつ大庭に入れ」
「感謝せよ」
「御名をほめたたえよ」

 この七つの命令形の言葉の中に、約束に生きる主の民が、何を大切にしてきたのかが、全て語られています。主を喜ぶこと、主に従う事、主の御前で礼拝をささげること、主を知ること、御前で賛美すること、感謝すること、主の御名をほめたたえること。

 この七つの命令形の言葉の主語はすべて「あなたがた」です。つまり、私たちに期待されていることです。

 そして、この七つの言葉はすべて、礼拝と深くかかわっている言葉です。主を礼拝すること。これこそが、主の民の最大の使命であり、私たちの務め、責任なのです。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 13 日

ざっくり学ぶ聖書入門11 サムエル記 第一

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 19:33

おわび

今回の「ざっくり学ぶ聖書入門」の前半で、書籍の内容を紹介する内容があったため、配信規約違反(著作権保護)のため、Lineライブ管理者により前半(約15分)が削除されております。以後内容については注意して配信したいと思います。後半だけではわかりにくい内容になりましたことをお詫び申し上げます。

2021 年 1 月 10 日

・説教 詩篇144篇「わが岩なる主」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:43

2021.01.10

鴨下 直樹

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*1:ライブ録画から抽出した音声を掲載しています。聞きづらい点はご容赦ください。

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 今年も、しばらく詩篇のみ言葉を聴き続けていきたいと願っています。

 今日の詩篇は、「王の詩篇」と呼ばれる詩篇の最後のものです。この詩篇の祈り手は、王さまの立場で記されているのです。またこの詩篇は詩篇の18篇がもとになって書かれました。今どきの言葉で言えば、詩篇18篇をリメイクしたのです。詩篇18篇の王の詩篇に影響を受けて、詩人が自分でも作ってみた。そんな内容です。

 表題には「ダビデによる」と書かれていますが、ダビデ作というのではなくて、「ダビデによせて」というような意味だと思っていただけるとよいと思います。

 ただ、とても興味深いのは、ギリシャ語の七十人訳の方では「ゴリヤテに対して」とか「ゴリヤテと戦う」という意味の言葉が表題に付加されています。この詩篇を作った人は、ダビデがゴリヤテと戦う時のことを思い返しながら、この詩篇を作ったと考えられたようです。

 そんなことを少し心に覚えながらこの詩篇の言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 この詩篇は「わが岩なる主」という呼びかけの言葉ではじまります。

 みなさんは、お祈りをするときに、「わが岩なる主よ」と呼びかけて祈ったことがあるでしょうか? 祈りは、私たちが主をどのように呼びかけるかということが、とても大切です。どういうお方に祈ろうとしているのか、この呼びかけに、私たちの信仰の姿勢や、その後の祈りの内容がすべてかかってきます。この詩篇にならって、私たちもお祈りをするときには、すぐに祈りはじめるのを少し待って、はじめに主をどのように呼びかけたらよいのかを少し考えて祈ってみるとよいかもしれません。

 「岩」というのは、どんなイメージでしょうか。

 私たちの生活の身近に、「岩」はあまりないかもしれませんので、私たちがお祈りするときに、神さまのことを「岩」にたとえるというイメージはなかなか湧いてこないのではないでしょうか。

 「岩」は人が簡単には動かすことができないものです。昔からそこにあり、それを自分たちの都合で取り除くというよりは、その岩があることを前提に考えていかなければなりませんでした。ずっとそこにありつづけるもの。変わらなく存在するもの。それが、岩のイメージです。

 年末に下仁田教会に奉仕に行ったとき、川沿いの道を走っていると、「夫婦岩」という看板がありました。見てみると、それほど大きくはないのですが、二つの岩がそれぞれ寄りかかって支え合っている岩が、川の真ん中にありました。川があふれることがあっても、ずっとそこに有り続けるから、看板まで出してあるのだと思うのです。岩というのは、そのように、いつも変わらず、そこにあるのです。そんな岩のイメージと主なる神のイメージがそこで重なっているのです。

 何があっても変わることなく、周りに惑わされることもなく、いつも変わることのないお方が、私たちの主なのだと祈っているのです。そういうお方に、この祈り手はこれから祈ろうとしているのです。

わが岩なるが ほめたたえられますように。

という言葉の後にはこういう言葉が続きます。

戦いのために私の手を
戦のために私の指を鍛えられる方が。

 岩である主が、私の手と指に戦いを教えてくださるというのです。

 岩と格闘するというのは、普通はあまりイメージできません。ただ、最近はそうでもないのかもしれません。今世間を騒がせている「鬼滅の刃」というアニメがあります。その主人公の竈門炭治郎は、最初の修行で、岩を刀で断ち斬るというところから始めるのですが、もちろんそれは、この聖書がベースになっているわけではないと思います。この漫画の主人公の炭治郎は、その修行で岩を斬ってしまうのですが、普通は斬れません。だから漫画になるわけです。ただ、絶対的に不可能だと思えるものに挑み続けることが、自分を強くしてくれるという表現があそこには込められているのでしょう。

 そう考えれば、岩なる主が私の手や指に戦いを教えてくださるというイメージも理解しやすくなるかもしれません。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 3 日

・説教 ルカの福音書6章36節「憐れみ深く生きよう!」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:58

2021.01.03

鴨下 直樹

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「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

 今年のローズンゲンによる年間聖句は、このルカの福音書の6章36節のみ言葉です。この一年、この御言葉を心に留めて歩みたいと願っています。

 今、まさに世界に求められているのは、この御言葉に尽きるのだと思うのです。昨年、私たちは大変な一年を過ごしました。そして、その大変さは今年一年も続くだろうと考えられています。新型コロナウィルスの拡大は、この冬になってますます広がっています。もう、私たちは「未曽有の危機」とか、「緊急事態」という言葉さえも、あまり危機感を感じないほど、耳慣れしてきています。

 人と人とが顔を合わせて会話するという、この当たり前の人とのコミュニケーションが禁止されているのです。入院している家族との面会も許されていませんし、老人ホームのような施設でも家族の面会が禁止されています。

 人を愛している、大切にしているということを伝える手段が奪われてしまうような、そんな生活を、私たちはなおもし続けていなければならないのだというのです。

 そして、それは、権力を持っている誰かが、禁止しているというのでもないのです。自主的にそうするように要請されているのです。

 そんな中で、私たちはこの御言葉をこの一年の聖句として与えられているのです。

「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

 私たちが、何よりもまず、心にとめなければならないのは、私たちの父なる神は、「憐れみ深いお方である」という事実です。

 主は、この憐れみ深いというご自身の性質を、主イエスを通して、私たちに示してくださいました。

 ルカの福音書の第6章というのは、マタイの福音書で語られている山上の説教と呼ばれる内容と、似ているのですが、ルカの福音書では6章の17節で「イエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。」と書かれていまして、そこでなさった説教が記されているところです。それで、「平地の説教」と一般に言われているところです。

 そこで、主イエスは弟子たちに、また主の教えを聞きたいと思って集まって来た人々に、説教をされました。特に、この部分は6章26節から36節では「愛すること」が語られています。そこで語られているのは、敵を愛することと、与えることです。

 愛するというのは、観念なのではなくて、具体的な働きとなって示されるのです。敵を赦すこと、そして、与えることが、愛することだと言っているのです。

 主イエスの敵とはいったい誰のことを指しているのでしょう。単刀直入に言えば、それは、私たちのことを指しています。

27節、「憎む者たちに善を行いなさい。」
28節、「あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。」
29節、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。」
30節、「求める者には、だれにでも与えなさい。」
31節、「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。」

 主イエスが語る、人を愛するというのは、こういうことだと続けざまに語られています。これを、聞いていた人々はにこやかな顔のままでは、この言葉を聞くことはできなかったと思います。私たちにしてもそうでしょう。

「悪には悪で報い、愛には愛で報いる」というのが、私たちの世界の常識です。そして、それは、キリスト者であってもほとんど例外なしに、同じような感覚で生活してしまっていると思うのです。

 しかし、父なる神はそれを、私たちにしたのだというのです。そのことが、私たちに明確に示されたのは、あの、主イエスが十字架にかけられる前のゲツセマネの祈りの姿で、私たちはそのことを心に刻むことができます。敵を愛するということが、どれほど厳しいことなのかが、あの時の主イエスの姿の中に示されています。

 自分の敵のために、自分を傷つけてくる人のために、自分自身を与える、それが愛するということなのだということを、主イエスはあのゲツセマネの祈りを持って、私たちに示してくださったのです。それが、どんなに苦しいことなのか、どれほどつらいことなのか、まさに、愛するといことは、苦痛と困難を祈りによって乗り越えた先にあるものなのだというのです。

 「憐れみ深く生きよう!」という説教題をつけました。

 これが、この一年、主から私たちに託された宿題です。それは、とてつもない困難な課題です。

 そのために、祈るのです。そのために、お互い支え合っていくのです。そして、そのことができるようになるためには、あなたがたの父の憐れみ深さを知ることが何よりも重要です。

 その人のことが好きとか、嫌いとか、私たちの持つ感情に目を向ける時に、それは何に根差しているのかをよく知る必要があります。その判断を下しているのは、自分自身です。そして、そこにあるのは、自分自身の正義という判断が働いているはずです。もちろん、そこにはさまざまな苦い経験があるのかもしれません。これまでに、どれほど犠牲を払ってきたか分からないという部分があるのかもしれません。

 しかし、愛するのは、感情ではないのです。意志です。そして、その意志というのは、神のご意思なのだということです。神がそう願っておられる。そして、その神の意志は、私を愛するということのために費やされた意志でもあるのです。そして、この神の意志の背後には、神の正義があるのです。

 神が、その人を愛したいと願っておられるという、事実が、神の正義が私たちの意志を支えるのです。私も愛そうという思いを支えるのです。

 私たちの主は義なる神です。たとえ敵であったとしても、その人を義としたい、その人をよしとしたい、その神の思いがそこにはあるのです。

 私たちの父なる神は、あわれみ深いお方です。そして、そのお方は、その憐れみを、まず、何よりも私たちに示してくださいました。そして、今度は、私たちから、私たちの周りの人たちに示されることを願っておられます。

 私たちが愛を示すのはもちろん、敵のような人ばかりではありません。家族にも、友人にもそうです。教会の中でもそうです。私たちの周りには、強い人もいるでしょう。弱い人もいます。心寄せる人もいれば、苦手だと思う人もいます。主は、私たちに憐れみ深さを示すことを、その人たちを愛することを求めておられます。

 この主のご意思が、私たちを通して示される一年となることを私たちは祈り求めて生きたいのです。

 お祈りをいたします。

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